松虫

「うっわー」
 日が長くなったとはいえ、太陽が沈みきってしまえば周囲は闇に落ちる。地面に落ちる影は電球が灯す人工物の光によって四方八方へ幾重にも伸び、アスファルトの硬い地面を叩く足音は反響してやがて周囲の静けさに呑まれて消えていった。
 すっかり遅くなってしまったと、沢田綱吉は自分の頭を手で押さえながら、もう片手は肩から提げた鞄を大事に抱えて帰り道を急いでいた。
 中間試験に引き続き、期末試験の成績が散々であった為、担任から与えられた膨大な課題。全問正解するまで帰さないからな、とクラスの平均点をひとりで下げている綱吉にきつい目で睨みつけてきた顔は、まさに鬼気迫るものだった。
 そんなこと、無理に決まっている。せめて出来るところまでで許して欲しいと懇願しても融通は利かず、半泣きで全部のプリントを赤丸で埋め尽くした頃にはもうとっぷり日も暮れて、夕食の時間も軽く通り越していた。
 学生どころか社会人の帰宅時間もとっくに過ぎ、壁で囲まれた住宅地は静けさに溢れている。綱吉は自分の足音が跳ね返るのを聞きながら、一秒でも早く家に帰ってゆっくり休みたいとそればかりを願っていた。
「真っ暗だな」
 しかしいくら早足とはいえ、そのペースを保ち続けるのは疲れる。それでなくとも夕食どころか、おやつも口にしていない。昼食に奈々お手製の弁当を食べて、それっきりだ。
 既に空腹は絶頂期を通り越しており、拉げた胃袋には空気しか入っていない。教室で繰り返し呻いていた腹の虫も、鳴き疲れたのか今はすっかり影を潜めている。
 家には遅くなると連絡をしているが、ここまでとは予想していなかった。大食漢の子供たちが多いだけに、自分の夕食は果たして無事だろうかと、そればかりが気に掛かる。
 折角苦労して課題を終わらせて来たというのに、唯一の希望だった晩御飯が皆無であったら、そのショックは計り知れない。ランボの首くらいは平気で締めてしまいそうだ、と物騒なことを考えて綱吉は慌てて首を振って打ち消し、緩みかけていた足を事務的に前へ押し出した。
 頭上では電球が切れ掛かった街灯が、チカチカと明滅を繰り返している。羽音がするのは、そこに戯れる蛾か何かだろう。
 直接見詰めると目が眩みそうで、場所を移動すべく綱吉は更に数歩先へ進んだ。
 人の気配が絶えて久しい道は、疎らな街灯が照らしてくれなければ地獄へ続く一丁目と見紛うばかりの雰囲気を醸し出している。出来れば早く通り過ぎてしまいたい、と背の高い壁に囲まれた一戸建て住宅が居並ぶ道に、綱吉は溜息を零した。
 その壁一枚を越えれば、どの家にも明りが灯っているので、誰かいるのは間違いないのだ。しかし今の綱吉には、自分以外の呼吸する、熱を持つ存在がまるで見出せなかった。
 ぞくり、と背筋に悪寒が走り、連日熱帯夜が記録されるような昼の気配を色濃く残した気温であるに関わらず、彼の両腕には鳥肌がたった。思わず身体を抱き締めて腕を擦り、自分を庇いながら息を吐いた彼は、黒というよりは紺色に墨を流し込んだ色合いをしている夜空を見上げ、力なく肩を落とした。
 と。
「……ん?」
 どこかから、風鈴の音色が聞こえて来た。
 風は吹いていない、少なくとも綱吉が感じる範囲では。
「ちがう、か」
 顔を上げて墨色の空とアクセントを添えている灰色の雲を見詰めた彼は、完全に目を閉じるのは怖かったので半眼程度に瞼を下ろし、注意深く音の発生源を探った。
 首を巡らせ、目星をつけてから徒歩を再開させる。
 行き着いた先は住宅と住宅の間に出来た、建売一戸建てならば三軒か四軒は狭いながらも並べられそうな空き地だった。奥行きは広く、道路に面している部分には立ち入り禁止の札と、黄色と黒の縞模様をしたロープが張り巡らされている。ロープはほぼ等間隔に並べられた杭に二重に巻きつけられており、立て札には他にも、細かな文字でびっしりと何かが書き込まれていた。
 だが残念かな、周囲が暗すぎるので仔細までは読み取れなかった。
 看板に顔を近づけて目を細めた綱吉だったが、先に眼球が乾いて悲鳴を上げて断念せざるを得なかった。曲げていた腰を伸ばして姿勢を正した彼は、空っぽの右手を背に当てて軽く反らしてから、右、左と視線を動かした。
 ロープの内側は、見事なくらい雑草が生い茂っていた。種類までは分からないが、ススキに少し似ている。白い穂が月明かりを求めて腕を伸ばして空を向いているものの、綱吉が見上げた先は曇り空で月光は雲の向こう側に隠れてしまっていた。
 それでも朧げな光は雲を通して淡く輝いており、今頃になって綱吉は、その形が綺麗な円を描いていることに気がついた。
「あ、満月」
 正確には若干上弦側が欠けているのだが、そんな細かな事まで綱吉にはわからない。ただ遠目に、円形に限りなく近く見える月の形に綱吉は魅入られたように息を殺した。
 リィィ、と静かな音色が、不意に綱吉の耳を飾り立てる。
 それは先ほど、彼が風鈴の音と聞き間違えた声だった。音はひとつではなく、互いに呼応しあうかのように重なり合い、響きを強くして、時に弱く時に鮮やかに、緩急をつけながら周囲に歌の波を広げていった。
 虫の声。
「へえ」
 普段はただ通り過ぎるだけの道でしかなく、敢えて立ち止まるような場所でもなかったので気にもしなかった。
 それに大体この時間なら、綱吉は家に帰って夕食を終えて、恐らくは風呂に入っているかテレビの前に陣取っている頃だろう。日が暮れてから外出するのは特に禁止されていないものの、推奨もされておらず、またわざわざこんな遅くに出かける用件など綱吉は持ち合わせていない。
 今日は偶々、学校での補習が思っていた以上に長引いてしまい、こんな時間になっただけ。
 けれどその苦しみがなければ、今日が満月だというのにも、この軽やかだけれどどこか物悲しい虫の音色にも気づけなかった。
 運命は時として数奇な巡り合わせの連続であると、本当にそんな表現がぴったり来る偶然に、綱吉は忘れていた瞬きを思い出して胸の中に残っていた息をいっぺんに吐き出した。
 あんなにも帰り道を急いでいたのに、何故だか急にこの場から離れ難くて綱吉は困惑を表情に乗せた。苦笑いを作り出し、首を傾がせて風もないのに揺れる雑草の群れをぼんやりと眺める。
 この場所に特に思い入れはないけれど、そういえば此処は小学生の頃からずっと空き地だったよな、と懐かしい記憶も引っ張りだされてきて、苦笑はいつの間にか優しい微笑みに変わっていた。
 伸ばした手で、張り巡らされたロープに触れる。
 いくらピンと伸びるように両側に引っ張られているとはいえ、杭と杭の間は幅広い。それにこれが張られてから随分と時間も経過しているようだ、触れれば簡単にロープは撓み、綱吉が押した分だけ下に湾曲した。
 乗り越えるには充分な高さだ。
「よっ、……と」
 先ずは右足を腿の位置まで高く掲げ、ハードルを飛び越えるときの要領で脚を水平にしてロープを跨ぐ。次いで腕の位置はそのままに左足も同じようにしてロープの上を通過させて最後、勢いをつけて一歩前に出た。
 手を外す。綱吉の後ろで虎柄のそれは一度だけ上に跳ね上がり、揺れながら最初の状態へ戻っていった。
 虫の声は侵入者を察知したからか、一瞬だけ止んだ。けれど綱吉が動かずに其処でジッとしていると、やがてまた、微かな呼び声を頼りに何処にいるかも解らない仲間と呼応しながら虫は羽根を擦り合わせ、軽やかな合唱を再開させた。
 今度は慎重に、見えないながら足元に気を配りながら綱吉は空き地の中心部を目指して進んだ。膝丈の草は脚を動かすたびに左右に分かれて傾き、綱吉が去ればまた真っ直ぐに背筋を伸ばす。地面は先日の雨が未だ残っているのか柔らかめだったが、水溜りや泥濘になっている部分がなかったのは幸いだった。
 やがて自分的に中心地点だろう、と思われる場所へ到達し、綱吉は担いでいた鞄がずれているのを直して一息つく。頭上を遮る無粋な電線もなくなった空間は、住宅地の合間にぽっかり空いたクレーターのようだった。
 虫の音が足元から迫り来て、綱吉の全身を撫でながら空へと登って行く。促されて仰いだ月は、雲に薄い虹色の輪郭を描き出して直接見るよりもずっと幻想的な雰囲気があった。
「へえ、綺麗」
 普段月なんて意識して見る機会もなく、あるとしたら仲秋の名月くらいだ。尤もその日も、花より団子、もとい月より団子の意識が働くので、じっくりと月の輪郭がどうなっているのか見た試しはなかった。
 不思議な感じがする。
 月明かりには魔力が宿る、等という迷信は古くから語られているが、こうやって実際にひとり佇んで見上げていると、その迷信が実は本当ではないのかと思ってしまいそうだった。
 綱吉はやや土臭い空気を胸に吸い、ゆっくりと吐き出した。
 右手を上に伸ばせば星も掴めそうなのに、指の間をするりと抜けて逃げてしまう。踵を浮かせて背伸びをして、空に憧れる子供がそうするように、綱吉もまた虚空へと指先を広げた。
 その隙間を、何かの影が走りすぎていく。
「え?」
 綱吉の斜め前方を一瞬で飛び越えていったそれは、最初は猫か何かだと思われたが、それにしても大きすぎる。しかも四足で動く獣と違い、二本足で立っていた。
 綱吉が佇む空き地と、敷地を隣とする家屋との境界線に当たる塀の上に、だ。
 まさか泥棒、とどこかのアニメの画が直感的に脳裏に描き出されたが、そんな馬鹿な話があってたまるものかと即時否定。けれど、ではこの黒い影はなんなのか、という疑問を解決するに相応しい答えは、綱吉の頭からは弾き出されなかった。
 何故なら、綱吉が自力で解決する前に向こうから答えが降ってきたからだ。
「おや」
 鈴を鳴らしたような、軽やかな声が。けれど声の調子に凡そそぐわない口調に違和感を覚え、更に言えばその声には綱吉も覚えがあって、斜めに向けた視線の先の影をよりはっきり確かめるべく、彼は二歩、三歩と前に出た。
 風が吹く。それまで静かだった空き地が一斉にざわめき立ち、煽られた髪が目に入った綱吉は咄嗟に身を竦ませて手で額を覆った。
 特徴ある笑い声が、風に乗って月明かりに吸い込まれていく。
「こんなところで」
 ある種人を嘲り倒す彩を含んだ声に、綱吉は確信めいたものを抱いて瞳に力を込めた。
 ゾクゾクと背筋は嫌な汗を浮かべ、粟立つ。こんな時間のこんな場所に何故、という思いは消えないが、兎も角目の前に現実が転がっているのは否定しようがない。
 奥歯を噛み鳴らした綱吉は、決死の覚悟で額から手を下ろし、前を見据えた。
 月光を背景に、深緑よりもなお深い色の制服を着込んだ少女が立っていた。
 その右目は髑髏の文様が刻まれた眼帯に覆われ、短く切り揃えた髪のうち頭頂部付近だけが不自然に逆立っている。膝丈より短いスカートを流れ行く風に躍らせて、太股近くまで覆い隠すブーツの表面が薄明かりを受けて鈍く輝いていた。
 卵型の小さな顔に、肉厚の唇は赤く、とても柔らかそうだ。好奇心旺盛に見開かれた隻眼は綱吉を真っ直ぐに映し出し、後ろで結ばれていたはずの手は物騒な武器を持っていないと証明するためか、綱吉の前でゆっくりと左右に開かれていった。
 そこが空き地の塀の上でなく、今が月明かりも儚い時間でなかったなら、何処にでもいる、ちょっと可愛らしい女の子だ。
 けれど綱吉は知っている。今、その肉体に宿っているのが誰であるのかを。
「クローム……じゃない、よね」
 それでも敢えて問わずにはいられず、自分の声がやや震えているのも意識しながら綱吉は相手に問うた。
 月明かりを逆光に佇む少女が、柔らかそうな頬を紅色に染める。広げた腕のうち、左を口元に置いて指を丸める。ふふ、と笑う仕草は女性のそれだ。
 けれど。
「……気持ち悪いよ、骸」
「失礼な人ですね」
 その瞬間自分の想像が正しいと悟った綱吉は、あくまでもクロームの仕草を真似しようとする骸に寒気を覚え、嘔吐でもしそうな表情を作った。
 速攻返された言葉は、若い女性の声ながら、口調はあくまでも男の――六道骸のそれだ。口元にやっていた手を外して腰に当て、胸を踏ん反り変えさせる様もそっくりそのまま。
 なによりも、その身体から発せられる独特の空気が。
 闇よりもなお暗い世界を綱吉に連想させて、背筋が震えて嫌な汗が流れた。
「なに、やってるんだよ」
 けれど気丈に振る舞い、彼に気後れが生じている自分を必死に隠し、誤魔化して、綱吉は声を発した。
 今でも綱吉は、ひとりきりで彼と対峙するのが怖い。近くにリボーンや獄寺がいるならまだしも、今日はその頼りになる仲間が同伴していないのだ。少しでも気を許し、油断して、隙を見せた時、何をされるか解らない。
 確かに彼は今現在、綱吉の守護者のひとりと身体を共有しているし、彼の強さが自分にとって必要不可欠なものと理解していても、あの日の出来事は自分たちの間に一生ついて回る。
 彼の行為は褒められたものではなかったし、綱吉としても許しがたい。
 ただ、彼らの言い分も動機も、何かに憎しみをぶつけなければ生きていけなかった境遇も、理解出来るから。
 自分の心の中で鬩ぎあい、ぶつかり合うふたつの意見を今は胸の奥底に押し留め、綱吉は彼に悟られぬように拳を握った。
 髑髏、もとい骸は、そんな綱吉の態度に気づいているのか居ないのか、飄々とした態度を前面に押し出してから月空を見上げた。
「今日は月が大きいので、散歩に」
「嘘付け」
「月の魔力は偉大なんですよ?」
 綱吉が先ほど否定した事を肯定し、彼はおどけた調子で肩を竦める。あたかも、貴方には解らないでしょうが、と言いたげなその態度に、綱吉は頬を軽く膨らませて唇を尖らせた。
 あまりに子供っぽい拗ね方に、骸はまた笑う。
「日の光は、僕には強すぎるので。月明かりくらいが、丁度良いんですよ」
 けれど彼が次に発したのは、そんな綱吉をドキリとさせること。
 脳裏に蘇った、巨大な水槽で四肢を拘束されて深い眠りに就いている彼の姿は、痛々しいという表現以外に言葉が思い浮かばないものだった。今度は決して逃れられぬように動きを封じるだけではなく、彼が手にしていた力さえ奪い去ろうとする傲慢さ。
 けれどそれですら、骸の驕慢が招いた結果だ。
 同情はするな、と言われている。彼に対して甘い感情を抱くことが自身に危険を招くのだと、耳にタコができるくらいリボーンから繰り返し言い聞かされて来た。
 綱吉としては、彼らのためにもなんとか歩み寄りたい気持ちはある。けれど肝心の骸の気持ちが何処にあるのかが解らない以上、不用意に手を出してしっぺ返しを食らうのも嫌だ。
 塀の上の高みと、雑草が伸びる地面と。ふたりが今立っている状況が、そっくりそのまま彼らの距離を表している。
「それに、今日は珍しく犬がケーキなんて買って来ましてね」
「は?」
「クロームが三つ……いえ、四つですか。沢山あるからと食べ過ぎてしまったようで」
「……はあ」
「千種に太る、と言われたのがよっぽどショックだったみたいです」
 急に頬に手を添えて溜息をついた彼の語りに、思考が他所へ置いていかれてしまった綱吉は間抜けな声での相槌しか返せない。顔もさぞかし、情けない状態になっていたのだろう。
 不意に下を向いた彼女――彼は、滑稽なものを見る目で声を殺し笑った。
「僕が、月が綺麗だから散歩に出たいと言ったら、可愛いクロームは運動になるなら、と喜んで身体を貸してくれましたよ」
 ああ、そういう事か、と。
 すんなり納得するにはどうも釈然としないけれど、一応理屈は解らないでもなくて、綱吉はやや不満げながら頷いて返した。
「それで」
「ん?」
「貴方は?」
 会話が一旦終了を見せ、この後どうしようか綱吉が迷っていた矢先。いきなり相手から矛先を向けられて、綱吉は質問の意味を捕らえきれずに頭に疑問符を浮かべた。
 首を傾げやる仕草に、上から見下ろしてくる骸は疲れた様子で額に手を当てて溜息をつく。非常にわざとらしい動きだ。
「貴方が此処に居る理由ですよ。僕は話したのに、貴方はダンマリですか?」
 それは不公平すぎる、と言葉尻に含ませた骸の物言いに、それもそうか、と綱吉は頷いたがそこで素直に口を開くことは出来なかった。
 絶対馬鹿にされる。
 こんなに遅い時間にひとり、しかも制服姿に学校の鞄を肩に担いで、自宅へは道半ばであるがその道から大きく外れた草むらにひとり立っていた理由。いや、馬鹿にされると感じたのは其処ではなく、もうひとつ前の、帰りが遅くなった理由の方だ。
 出来れば言いたくない。視線を沈めた綱吉は、スラックスの上から踝を撫でる雑草を暫く眺めたが、骸が動く気配はなかった。
 いっそ踵を返して逃げてやろうかとも思ったが、それこそ不用意な行動は自分の首を絞めるだけ。思えば何をしているのかと問うた時に「散歩」とだけ返してくれば良いものを、余計な事まで彼がべらべらと喋ったのは、綱吉の逃げ道をそうと悟られずに塞ぐためだったのかもしれない。
 恨めしげに下からねめつけてやるが、彼は何処吹く風の表情で楽しげな態度を崩さない。
 悔しいかな、頭脳戦では完膚なきまでに叩きのめされる自信だけが増した。
「補習で、遅くなったんだよ」
「ほう?」
「それで、虫の音がしたからなんとなく」
「ふらふらと」
「……なんだよ」
「いえ、非常に貴方らしいかと」
 クロームの姿であるのに、見ているうちに本当に月の魔力に惑わされたのか、骸の姿が影となって彼女の身体に重なって現れ始めた。やがて完全に少女の肉体から男性のそれに入れ替わり、綱吉はなんとも不思議な気持ちでぼんやりと彼を見返す。
 綱吉の目に今の自分がどう映し出されているのか、意識しているのかどうかも悟らせぬまま、左右色違いの骸は瞳を眇めた。
「それにしても、補習ですか」
 やれやれ、と心底呆れ果てた表情を即座に生み出した彼が、大仰に肩を竦めて両手の平を天に向かって広げる。明らかに綱吉を馬鹿にしていると分かる態度で、やっぱり言われたと綱吉は握り拳を固くした。
 出来るものなら今すぐに、この男を殴り飛ばしてしまいたい。だが立ち位置が遠すぎて、ジャンプ程度では到底届きそうになかった。
 それが余計に悔しい、歯軋りしてしまうくらいに。
「僕はてっきり、ついにアルコバレーノにも見放されて家を追い出されたのかと思ってしまいましたよ」
 綱吉を哀れ蔑む目で見た男は、一秒後、自分が言い放った台詞にぶっ、と噴き出した。
「なっ……!」
「お似合いじゃないですか、草むらにあなたひとり、荷物は鞄ひとつ。なんでしたら拾ってさしあげようかと思ったのですが、杞憂でしたか」
「当たり前だ!」
 拳を振り上げて怒鳴るが、骸にはまったく通用しない。
 ツボに入ったらしく腹を抱え、肩を小刻みに震わせながら笑い続けている。それで幅の狭い塀の上から落ちないのだから、鍛えられたバランス感覚は相当なものなのだろう。
 綱吉が怒れば怒るほど彼は笑い声を大きくして、あまりの悔しさに涙目になった綱吉はぐいっと腕で左右の目を同時に擦ると、もういいや、と投げやりの気分で彼に背中を向けた。
 誤解するなら、したままでいい。弁明してもどうせ聞きはしないだろうし、本当のことを説明しても馬鹿にされるのは目に見えている。
 いつかお互いを深く理解し合える仲になれると、淡い期待を寄せもしたが、全て幻想だったのだ。この男とは金輪際自分から関わるものか、とやけくそ気分で荒々しく雑草を踏み潰しながら綱吉は道路へ戻るべく歩を進める。
 その歩みを遮ったのも、また彼の声だった。
「僕が嫌いですか?」
 質問するにしては語尾が上がりきらない、むしろ肯定されるのを了承した上でそれでも敢えて問うたような口調に、綱吉はぴたりと右足を前に出した状態で停止した。
 虫の音はいつの間にか聞こえない。ふたりの会話を邪魔しないように息を潜めているのか、それとも逃げてしまったのか。
 静まり返った月夜に、雲間から射した仄かな光はどこまでも優しかった。
「僕が、こわいですか」
 立ち止まった綱吉の背中に、骸が重ねて質問を繰り出す。返事をしないのは肯定だと言われているようで、けれど振り返ることも出来なくて綱吉は彼に背を向けたまま唇を震わせた。
 きらい?
 こわい。
 わからない。
 理解出来ない。
 思いが追いつかない。
 でも、それでも。
 綱吉はあの時、幻に見た彼を、本当は、どうしようもなく抱き締めて暖めてあげたかったのだ。
 届かないのが――拒絶されるのがいやで、伸ばそうとした手を引っ込めた。本当は彼に臆病者と罵られるのが怖くて、目を背けた。
「きらいですか?」
 声は近くから、耳元で囁くように響いた。
 ハッとなり、振り返る。そこに見た闇空に似た紺色の髪は、月明かりに溶けてゆっくりと霞んでいく。
 見開いた綱吉の目に焼き付けられた笑顔は、儚げな、自嘲を含んだものだった。
 おおよそ彼らしくない、自分自身の惨めさを認めた作り物の笑顔。
「きらい、だ」
 抱き締められると覚悟したのに、瞬時に腕を脇に引いて身を硬くした綱吉を察して、彼は離れていく。
 言いたかったのはそんな言葉ではなかったはずなのに、誘導尋問を受けたかのようにことばは勝手に綱吉の舌を滑り落ちて行った。
 淡く微笑む彼が、そうですか、と更に距離を作りながら呟いた。
「では、そのまま」
 後ろ向きに飛んだ彼が、月を背負う。雲はいつの間にか晴れ、穏やかな光はしかし綱吉の視界を奪った。
「僕を嫌いな貴方で居てください」
 そうすれば貴方は、永遠に僕を忘れない。
 貴方の中の、消えない傷として僕は残る。
「骸!?」
 笑い声を残し、月は再び雲に隠される。
 虫の声が綱吉の耳に戻った。
 叫びつつ振り返った綱吉の瞳には最早薄らぼやけた色を放つ月の姿しか映らず、吹いた風が草を震わせる声が虫の音と重なり合い、妙な静けさを彼の中に与えて去っていった。
 そこにはもう、あの男がいた痕跡はなにひとつ残されていない。ただ呆然と空を仰ぐ綱吉だけが、ひとり、悔しげに顔を歪めながら立っていた。
「言いたい放題言って……」
 肩で息を吐き、丸めた拳を顎から鼻筋にかかる部位に押し当てて、綱吉は若干赤い顔を月明かりに晒しながら呟く。
「だいっきらいだ」
 お望みとあらば、永遠に嫌ったままでいてやる。一瞬でも彼に歩み寄ろうとした自分が馬鹿だったのだ。
 やはり油断ならない、背中を向けていい相手ではなかった。自分の愚かさをひたすら悔いながら、綱吉は手の甲で乱暴に口から頬にかけて擦って、ひりひりとした痛みに全てを誤魔化した。

2007/7/12 脱稿