風、走るは君の声

 試合は、終わった。
 ひとつ負ければそこで終わってしまう夏の大会の初戦を、雨という悪天候の中最後まで投げきった疲れは、思っていたよりも大きかったらしい。
 中学の時とは違う、感触。勝ったという実感は、昼に訪ねて来てくれたチームメイトの言葉を得ても最初はどうにも薄かった。けれど少しずつ、ちょっとずつではあるが、勝てたのだという思いは時間が経つにつれて強くなっていった。
 野球。
 投げるのは好きだ。幼い頃に一緒に遊んでくれた友達との記憶は、今でも心の中でキラキラ輝いている。
 けれど引越しをして、小学校も変わって、元々引っ込み思案で喋るのも苦手、積極的に人の輪に飛び込んでいくのも勇気が足りなくていつも尻込みしていた自分には、友達らしい友達が出来なかった。話しかけてくれる子もいたけれど、それは最初だけで、返事をするにしても何をするにしても、一呼吸、ふた呼吸おいて、それでも尚どもってしまう自分に彼らは直ぐ辟易して、やがては関わりたくないと言わんばかりに無視をするようになっていった。
 改善しようとしても、巧くいかない。失敗したらどうしよう、怒らせたらどうしよう、とマイナス思考が先に頭の中を埋め尽くして、そうやって迷っている間に皆どんどん先へ進んでしまう。
 親には平気なのに、どうして、ダメなんだろう。
 広げた掌をじっと見て、握り締める。昨日嫌というくらいに握っては投げたボールが、今どうしようもないくらいに恋しい。
「投げ……たい、な」
 昨日の試合後、ダウンしないままに眠ってしまったので身体の節々はまだ少し痛む。食欲は戻ったけれど、試合で消費したカロリーを取り戻すにはまだ足りないかもしれない。
「マッサージ、は……気持ち、よかった、な」
 握った手を広げ、感覚がきちんと戻っているのを確かめつつ呟く。
 カレーを食べに来た田島と約束をして、放課後を待って行ったマッサージは、確かに混んでいて随分と待たされたけれど、彼がお勧めというだけあって仕事ぶりはしっかりとしていた。想像以上の疲労を蓄積していた筋肉が、丁寧に一本ずつ解きほぐされていくのが分かる。あまりの気持ちよさについ途中で眠ってしまって、終わったよと揺り起こされた時の涎まみれの顔は田島に笑われてしまった。
 彼は、いい人だ。自分みたいな愚図な人間にも構ってくれる。
 阿部も、いい人だ。自分みたいな遅くてダメダメの球を、辛抱強く受け止めてくれる。サインも出してくれる、投げて良いとも言ってくれた。彼のお陰で、昨日は勝てた。
 勝手をしたのは、自分。
 怒られると思ったのに、彼らは逆に褒めてくれた。頑張ったと、言ってくれた。
 何故だろう、自分はここでも最後までマウンドを譲らなかったのに。みっともないくらいに、情けないくらいに、そこしか自分の居場所がないと言い張って、唯一の自分の取柄であるコントロールさえ定まらない球をふらふらになるまで投げ続けたのに。
 チームが負けるのは嫌だ。けれど、自分以外の誰かがマウンドで投げている姿を見るのも、嫌だ。
 我が儘。
 傲慢。
 身勝手。
 実力もないくせにマウンドに固執して、仲間の三年間を棒に振らせた自分は、もうあの場所で投げる資格などないと、ずっと思っていた。
 だから「帰って来い」と言われた時は嬉しかったし、やっと彼らと、敵同士ではあったものの、野球が出来たのは誇らしかった。
 そして、昨日のあの勝利。
「……め、メール」
 昼食後に送ったメール。あの後また昼寝をして、マッサージでも眠って、少しは疲れも取れて頭がしゃっきりしてきたところ。夕食にはまだ時間があって、少しだけ薄暗くなった空をサンルームの向こう側に見上げてから携帯電話に手を伸ばす。
 迷惑になってはいけないと、出先では電源を切っていた。その後戻すのを忘れていてそのままだった事を、二つ折りのそれを広げてから思い出す。
 返信があったかもしれないのに、これでは着信もしないから気づくことさえ不可能だ。慌ててボタンを長押しして起動させ、通信機能を復活させて溜まっていたメールを受信する。
「き、て……る。けど」
 両足を床に、膝から先は横向きに投げ出してしゃがみ込み、やや前のめりの姿勢で小さな液晶モニターを食い入るように見詰める。受信箱に流れてくる新着メールの差出人は、無事に帰りつけたかを心配する田島からのものが最後だった。
 そのひとつ前には、明日はちゃんと来いと叱り付ける阿部のメール。体調不良を気にする栄口からのものもあった。
 今のチームメイトは、みんな、優しい。
「来て、……ない……」
 彼らの心遣いや気配りは、泣きそうなくらい嬉しい。自分みたいな人間を構って、優しくしてくれる人たちが居ることが今でも信じ難い。いつだって怒られるのを怖がって、ビクビクして、嫌われないようにとそればかりを願っている卑屈な自分を。
 最初に、叱ってくれたのは。
「……こない」
 昼過ぎにメールを送り返してから、相応の時間は過ぎている。
「きて、……ない……」
 たったひとことだけだったけれど、何よりも力強い言葉が届いた。だから自分も、それに応えようと思って足りない頭を捻り、文面を搾り出してなけなしの勇気で返信をした。
 その返信が、来ていない。
 まだ気づいていないのだろうか。それとも彼のメールはただの報告に過ぎず、自分も勝ったと伝えた時点でやり取りは終了と見るべきなのか。
 話したい事が沢山あるのは、自分だけか。
 また空回りしている。胸の前で携帯電話を持っていた手がゆっくりと沈み、床に甲が触れた。そのまま指を解くと、支えを失ったそれはカタンと小さな音を立てて掌を滑り落ちていった。
 唇が震え、涙腺が緩む。泣いてばかりだと分かっているけれど、こればかりはもう自分で制御出来ない。
 声が聞きたいと思ったのも、自分だけか。
 あんな短いメールではなく、直接言葉で伝えたいと願ったのは、自分の独りよがりだったのか。
「う……」
 あの日、雪の中。
 彼の言葉があったからこそ、彼の言葉に背中を押されたからこそ、二度と関わるまいと誓った野球に再び手を伸ばせたのだ。
「しゅ……ちゃ」
 有難うとちゃんと言いたかったのに、言葉が出てこない。金輪際もう関わりたくないと思われてしまったかもしれない、偉そうに勝利報告などするのがいけなかったのか。
 ぐるぐる巡るネガティブな発想に押し潰されそうで、体を丸めて床に小さくなる。ごめんなさい、と幾度も繰り返す言葉に舌が麻痺しそうで、硬く閉じた瞼の奥では色褪せた記憶が次々と現れては消えていく。
 そんなときに。
「うっ、わ……わっ」
 電話が鳴る。
 けたたましいばかりの騒音に驚き、慌てて顔を上げて周囲を見回す。自宅の固定電話かと思えばそうではなくて、たっぷり五秒は経過した頃にやっと自分の膝と膝の間で潰れかけている携帯電話が鳴っているのだと気がついた。
 自分で着信音を設定してあったのに、すっかり忘れている。気が動転すると人間はとても簡単なことでさえ分からなくなるものだと、こんなところで再認識した。
「えぁ、っと、わぅ」
 意味不明な言葉を吐き出し、お手玉するみたいに携帯電話を床から拾い上げ、両手の上で縦に構え持つ。まだ音楽は鳴り止んでいないものの、着信してからもう十秒以上時間が経過している。辛抱強くない人であれば、そろそろ通話を諦めて切ってしまうような時間だ。
 覗き込んだ画面に表示されている名前。
 どきり、と心臓が跳ねた。
 親指で通話ボタンを押す。途端に音楽が止まった。
「も……もしもし!」
 どうやっても第一声はどもる。吐き出そうとして喉に引っかかった音を強引に押し出せば、今度は第二声の勢いが良すぎて殆ど怒鳴っているに等しい音量になってしまった。
『おわっ』
 電話口の相手が驚くのも無理はなく、声が小さく聞こえたのはきっと受話器から頭を引き剥がしたからだろう。
 失敗した、と開いたままだった口を閉じる。きっと呆れられた、怒っているに違いない。なかなか電話に出なかった上に、この大声。迷惑に思われたと浮上しかかった思考がまた地平線よりも低い位置に沈んでいこうとした最中、急に小型端末から盛大な笑い声が鳴り響いた。
 目を丸くする。再び開いた口が菱形に広がって、瞬きをして両手で端末を握り締めていたら、たっぷり二十秒は笑い続けた声が不意に止んだ。
『あー……ったく。何やってんだよ』
 腹が痛い、と続けられた言葉に瞬きして、怒っていないのかとしどろもどろに問えば逆に「何故?」と聞き返される。
 返事に詰まって黙り込んでいると、また盛大に噴き出した相手は懸命に笑い止もうと努力してから呼吸を整えていった。
『おめでと』
「ぅぇ?」
『勝ったんだろ。まだ、言ってなかった』
 握り締めた携帯電話を右の耳に押し当てる。ゆっくりと流れ込んでくる声は、デジタル変換されているものの別の誰かと間違えようのないものだった。
 懐かしさがこみ上げてくる。二ヶ月ちょっと前に顔を合わせたばかりなのに、もう何年も会っていない気分になってまたじわりと目尻に涙が浮いた。
『廉?』
 返事がないのをいぶかしんだのか、彼が少しだけ声を潜めて名前を呼んでくる。
「ぁ、ごめ……ん」
『いや、いいけど。ひょっとして今、忙しかったか?』
 指で涙を拭い、弾き飛ばす。片手でしっかりと握った電話に唇を押し当ててそれだけをどうにか告げると、怒るどころかこちらの都合を気にして、心配する言葉を彼は続けた。
 咄嗟に首を振る。だが電話では自分の姿は見えないのだと直後に思い出して、言葉で伝えなければと力んだ頭はまた瞬間的にスパークした。
 真っ白になる。あ、ともう、ともつかない細切れの声しか出てこなくて、必死に台詞を考えるのだけれど喉の奥に異物でも挟まっているのか、ろくな言葉は出てこなかった。
 けれど彼は、その間もずっと黙って待っていてくれた。
「だ、いじょ……ぶ」
 母親はまだ仕事で戻って来ていない、だから夕食までにも余裕はある。風呂の準備だけはした、いつでも入れる。マッサージに行った、気持ちよくて寝てしまった。
 今の状況に始まり、今日の出来事を順次遡って説明していく。一度勢いに乗れば箍が外れたみたいに次々と言葉が浮かんできて、相手に相槌を返す暇さえ与えない。そして気が済むだけ喋ったところではたと我に返り、調子に乗って喋りすぎて相手が引いているのではないかと不安になる、その繰り返し。
 目の前に相手がいるわけではないのに、左へと視線を流してしまう。一瞬静寂が膜を張って、一呼吸置いた先で電話口から彼の声が響いた。
『そっか。疲れは? 残ってないか?』
「の、ののののこっ……てない、よ」
 肩を回してみろといわれ、その通りにする。途中で電話を持つ手と耳を変えて、反対側も。ぐるぐると振り回す衣擦れと風の音が聞こえたのか、彼はまた笑った。
「しゅう……ちゃん」
『ん?』
「わ?」
 言葉が変なところで途切れた。
 そっちはどうなのか、と聞きたかったのに巧く言えず、間に彼の声が混じって意味が通じなくなる。また失敗した、と俯いた視線の先では、行き場に困った左手が膝の上をうろうろしていた。
『あー、俺? 俺は平気。全部投げたわけじゃないし、七回だけ』
 けれど少しの間を置いて、彼は正しく言いたかった事を理解してくれた。
 ホッとした息が漏れる、安堵に心が安らいだ。
「そ……、なんだ?」
『そうそう、一応ベンチ入りつっても補欠の補欠。背番号も数字でかいし』
 投手の予備は多いほうがいいからと、一年生ながらベンチ入りは許された。勝利が確定となったところで、経験の為にマウンドに上がらせてもらった。
 初めて公式戦で投げた、その興奮と恐怖。観客の視線が一斉に自分に注がれるのが分かって、膝が震えたと。
『廉は、すごいな』
「え!」
『こっちなんかより、ずっと観客、いたんだろ』
 応援も凄かったに違いないと彼は言う。そんな事は無い、と言いかけて返事に詰まったのは、自分は西浦の内野席ばかり気にしていて相手チームの応援団を殆ど見てもいなかったからだ。
 どんな具合だったのか、どれくらいいたのかさえ記憶は曖昧。試合が始まってしまえば目の前の打者に集中していたし、歓声も合奏も、何も聞こえはしなかった。
 覚えているのは、雨に濡れて滑りやすくなったボールの感触。湿って重くなったユニフォーム、声をかけてくれる仲間の顔。
『相手、結構強かったんだろ。なんてったっけ、去年甲子園行った』
「とう、せい?」
『あー、それそれ』
 いくら全国ネットで放映される甲子園に出場していたとしても、所詮は一年前の出来事。他府県の去年の代表校を正確に全て言える人間は、そうそう居ない。
 彼の言葉にやや自信なさげに昨日対戦した高校の名前を告げれば、繋がらない記憶のピースが埋まったらしい彼が甲高い声をあげ、一緒に手まで叩きだした。
 どう反応してよいのか分からずに困惑しつつも、「うん」と相槌を返して彼の次を待つ。
 床にへたり込んでいた姿勢は、いつの間にか正座に切り替わっていた。
『強かった?』
「うん。すっごく、強かった……よ」
 四点も取られた、と小声で付け足す。
 自分がもっとしっかりと投げていれば、あんなに点を取られることはなかったのだ。試合運びもずっと、ずっと楽になったはず。
『え、でも去年の優勝校なんだろ?』
 それなのに、たった四点で抑えたんじゃないか、と彼は言う。
 地方大会の初戦は、強豪校と弱小校が容赦なくぶつかりあうこともある。全ては籤の結果ひとつ、だから当初は一年生しか居ない今年から硬式になったばかりの学校が、昨年の地区代表を蹴散らして上にのし上がってくると、誰も予想しなかった。
 下手をすれば三十点差がついていても可笑しくない対戦、その圧倒的劣勢を跳ね返した。経験も、実力も、バックアップも、伝統も何もかもに劣る西浦が、桐青を打ち破った。
 あと試合が表裏一回分長ければ、状況は一変していただろう。運が良かった、雨はどちらのチームにも苦しい戦いを強いたが、最後は西浦に勝利の女神は微笑んだ。
『廉』
 黙りこくってしまった自分を諭すように、静かな彼の声が響く。
 誰も居ない家の中は昼の名残が斜めから射し込み、前の道を低速で走っていくトラックの振動が微かに窓を揺らした。電話口からも、移動中なのだろうか、竿竹売りの声が時折音声に混じって聞こえてくる。
 夕刻を告げる工場が流すメロディは、こちらに戻ってからはすっかり聞かなくなった。
 彼が呼吸する音が聞こえる。彼が言うのを躊躇している気がして、次に告げられる言葉が怖くて目を閉じた。
『お前さ、もっと……自分、誇っていいと思う』
「え……」
『お前のチーム、強いよ』
 勝てたのは偶然ではない、まぐれでは決してない。
 皆がそれぞれに全力を出し切ったから、出し惜しみもしなかったから。お前はよく投げた、頑張った。だから後ろが、お前の頑張りに応えようと頑張ったのだ。
 桐青を四点で抑えた実力を、誰も否定しないだろう。褒めこそすれ、けなしたりはしない。自信を持っていい、投げ勝ったのだと。
「しゅ……」
『だからー、そんな情けない声、出すなって』
 顔を上げる、西日が目に入って眩しかった。
 世界がキラキラ輝いている、光を浴びた植物の緑が今は金色に見えた。
 投げられなくなる寸前までマウンドにこだわり、居座り、誰にも渡さないと言い張り、意地で最後まで投げ通した。チームが負けるかもしれない瀬戸際で、それでも其処にいたいと主張し続けて。
 我が儘な自分を、どうしようもなく駄目なピッチャーの自分を。
 皆が褒めてくれる。
 みんなが、優しい。
『廉?』
「ど……し、て」
『なに、お前また泣いて?』
「俺、だめ……なっ、いや、なやつ……なの、に」
 阿部の構えた場所に投げると誓った。彼のサインには首を横に振らないようにと決めていた。
 彼が居れば勝てると信じた、彼の言う通りに投げれば大丈夫だと思った。
 九回、雨にぬかるんで踏ん張りの利かなくなったグラウンド、濡れて滑り巧く握れなくなったボール。指定されたコースを大きく外れて甘く入った球を、簡単に遠くへ運ばれた。埋まる塁、高まる歓声、降り止まない雨、冷える身体、凍える心。
 心臓の音が五月蝿い、耳鳴りがする。頭の中がぼやけていって、膝が笑った。
 それでも、投げたかった。
 投げていたかった。
 自分にはそれしかないと、無我夢中で、必死で。
 けれど、打たれた。
『いいんだよ』
 夕焼けが涙に滲んだ。
 彼の声が遠く、近く、頭の中に反響して溶けていく。
「修ちゃん……?」
『いいんだよ、打たれて。二十七のアウト、全部三振にしろって、誰かに言われたか?』
 違うだろう、と言われて首を縦に振る。そんな期待はされていない、ただ自分は言われた通りに投げるだけで。
 三振の山を築きたくて、投手になったわけではない。ただ投げるのが好きで、だから一番ボールに触れられる投手を選んだ。それだけ。
「ちが、う」
『なあ、廉。野球って、何人でやる?』
 投手の仕事は、投げることだけではない。打たれないことも重要な項目のひとつ。
 打たれさえしなければ負けない、こちらの点が入らなくても、取られさえしなければ負けることはないのだ。
 でも。
『れーん?』
「うえっ、え……えと。あ、ぅ……」
 停止していた思考が、低く伸びた彼の声で堰き止められた。我に返り、慌てて電話を握り直して耳に押し当てて質問の答えを懸命に考える
 野球、普通は九人でやるもの。試合をするには、対戦相手も必要だ。
 監督、コーチ、マネージャーや応援団まで含め出したら、きりがない。たどたどしい舌使いでそう答えると、横断歩道にぶつかったのだろうか、背後からの単調な音楽に重なった彼の声が、響く。
『なんだ。分かってるじゃないか』
「はへ?」
『打たれても良い、ってハナシだよ』
 たった一分にも満たない前に言った内容を綺麗さっぱり忘れていた。あきれ返った彼の口調から、今彼がきっと額に手を置いて打ちひしがれているのだろうと想像する。
 音楽が止んだ。歩き出したからか、電話口から聞こえる彼の声は少し震えていた。
『あのさ、廉。キャッチャーって、何の為にいる?』
「……修ちゃん?」
『ファーストは? セカンドは? サードは? センターは? ライトは? なんで野球は九人いなきゃだめなんだ?』
 質問の意図が理解出来ていないと悟った彼は、それでも諦めずに辛抱強く言葉を重ね、問いかけを繰り返す。
 竿竹売りの声はもう聞こえない、信号は遠くに過ぎ去ったらしい。今は彼の音しか聞こえない、立ち止まったのか振動による声の変化もなくなった。
 遠く離れているのに、目の前に彼が立ってじっと自分を見詰めている。そんな錯覚に囚われて、心臓が震えた。
「そ、……れは」
 答えられない。
 中学時代の野球は、何もかもひとりだった。キャッチャーはサインをくれない、打球を追って外野が走らない。ボールバックのフォローも遅い、なし崩しにカウントが悪くなるのが怖くてストライクゾーンにボールを集める投球をすれば、配球は打者に簡単に読まれてバックスクリーンへの綺麗な弧が空に描かれた。
 あの当時の自分は、打たれることがイコール敗北だった。
 だから懸命に努力した、打たれない球を投げるのにどうすればいいのか考えた。体格的に速球派を狙えないのならば、類稀なるコントロール力を武器にするしかなかった。けれどありきたりな配球、打者の癖や特徴、好みのコースをまるで把握しないままに即興で組み立てられた投球は、五回と持たず崩壊を繰り返す。
 誰も居ない応援席、誰も近づいてこないベンチ。
 突き刺さる視線は痛くて、顔をあげられなかった。ずっと俯いて、グローブと、自分の手ばかりを握り締めていた。
 ずっと嫌われていると思っていた、だって自分の所為で彼は三年間ずっとベンチに座ることしか出来ずに居たから。
 入学当初は仲が良かった。投手を目指して同じスタートラインに立っていた頃は、まだ。
 だのに。
『いいんだよ、廉。打たれても』
 もうお前はひとりじゃないんだから。ひとりでマウンドに立っているわけじゃ、ないんだから。
 囁くように言う彼の言葉に、カンカンという踏み切りが閉まる音が覆いかぶさる。聞き取りづらくなって耳を携帯電話へと押し付け、息を呑んで彼の息遣いひとつも逃さないように身構えた。
『お前のチーム、後ろ、ちゃんと守ってくれたんだろ?』
 振り向いた先、手を振り替えしてくれた仲間たち。弱気になっていたところを、大声で励ましてくれた仲間たち。
 高く上がった打球、必死に追いかけて走って掴んで、立ち上がって握り直して構えて投げて、途中で中継して、全力で。
 ホームへ。
 泉から花井、花井から阿部。
 雨の中、泥まみれになって、それでも最後の最後まで誰ひとりとして諦めなかった。
 彼らが打って、走って、守ってくれたから、勝てた。自分ひとりの力だと驕るつもりはない。むしろ自分が我を押し通そうとして、白熱する試合に水を差したようなものだとずっと思っていた。
 踏み切りの音がやまない。頭の中で反響する甲高い警告から逃れたくて、身体を小さく丸めて縮こまる。伏した視線の先に木目も薄れかかった床、そして豆が潰れて大きさの割に太さがある自分の指が。
 親指でそっと、中指を撫でる。ガサガサで、決して綺麗とは言い難い手を、阿部は褒めてくれた。
『廉』
 はっ、と。
 彼の声に顔を上げる。直後彼は言葉を続けたが、走り抜けた電車の音に掻き消されて声は届かない。
 けれど。
 見開いた視界、涙の乾いた世界はいっそう輝いて、眩しい太陽がオレンジ色に空を染めていた。
 踏み切りの上がる音、その後ろでは電車の通過を待っていたらしい車の低いエンジン音が轟く。既に言い終えていたらしい彼は黙っていて、何かを言うべきか迷ったものの、結局何も思いつかず、ただ息を飲んで吐いたその音だけを彼に伝えた。
 涙は乾いていた。
『あー……もう、くっそー』
 急に苛立ちを隠さない声が聞こえて、びくりと肩が震える。
「うぁ、ぇ、あ、しゅっ……お、お……れ?」
 何か気に障ることを言った? 
 聞きたいのに喉に引っかかった言葉は押し潰されて、形を失いボロボロに崩れていく。繋がらない、伝わらない。もどかしさに胸が詰まって、息が苦しくてまた喉の奥がツンと痛んだ。
 ぐず、と鼻を啜る。向こうにも聞こえたらしい、じわりと浮かんだ涙を指で取り払おうとしていたら、違う、とぶっきらぼうに彼は言い放った。
『違う、廉。お前が悪いんじゃない。その、俺が』
 巧く説明できない、と前置きして、周囲の雑音を避けて歩き出した彼が断続的に言葉を連ねる。
 きっともっと静かで、落ち着いて話せる場所を探して視線を泳がせているはずだ。ずり落ちた重い鞄を肩に担ぎ直す掛け声が合間に挟まって、夜もまだきていないのに気が急いて鳴き始めた虫の声がそこに混じった。
『……なんで、俺。そこにいないんだろう』
「え?」
『顔つき合わせてたら、もっと巧く言えるのに。なんで俺はこっちにいて、お前は、そっちなんだろ』
 ぐしゃりと髪を掻き毟る彼の姿が目に浮かぶ。視線はきっと宙を泳ぎ、上向きに遠くを、朱に染まる空を見ているのだ。
 今自分も見ている、この鮮やかに輝く空を。
「っき、こえ……る、よ」
 両手で携帯電話を握り締めた。耳よりも口に近づけた端末に向かって、懸命にまとまらない思いを、気持ちを、彼に伝えたくて。
「おれ、わかる……ちゃん、と。修ちゃんの、聞こ………っから」
『廉?』
「あった……かい、よ!」
 オレンジの火が胸の中で瞬く。
 彼が背中を押してくれたから、今ここに居る。
 彼が叱ってくれたから、今こうやっていられる。
 彼がやめるなと言ってくれたから、この場所でも野球を続けられる。
 彼が、見ていてくれるから。
『……そ、っか』
 少しの間を置いて、彼はそう呟いた。
 笑っていると思う、今、彼は。自分と同じように、少し照れ臭そうにして。
『次の試合、いつ?』
「うえっ、あ……た、ぶん……だけど。らいしゅ……う?」
 想像すると嬉しくなって、つい、へらへらとしまりのない顔をして笑っていたら、急に話題を変えた彼に聞かれて呼吸が止まった。
 大慌てで頭の中を整理して、何処かで聞きかじった情報を口に乗せる。けれどちゃんと確かめたわけではないので疑問符がついて回り、こめかみに指を置いて首を傾いでいると「なんだ、それ」と彼に笑われた。
「ぇあ、ごめ……」
『あー、いいって。謝らなくても』
 もっとしっかりしていれば、彼を困らせることもないのに。自分が情けないと落ち込みそうになったところで、またしても彼の明るい声に救われる。
『いきなり聞いた俺も悪い。けど、来週か~……投げるんだよな?』
「うん!」
 ピンと伸びた背筋、張りのある声。いつもそれくらいの音量で喋れ、と阿部に怒られてしまいそうな元気の良さに、電話口の相手も面食らったのか一瞬黙り込む。
 ゆっくりと背中を丸め、元の姿勢に戻っていく最中、また彼の楽しげな笑い声が心に響いた。
『そっか、頑張れよ。俺も……投げさせてもらえるように、頑張る』
 背番号の大きさが違う。チームの規模も、上級生の有無も、投げる立場も、重圧も、責任感も、何もかも。
 本当は迂闊に頑張れなんて無責任なことは言えないのだけれど、他に言ってやれる言葉もなくて、彼は口よどみながらも、静かに告げた。
『負けるな、廉。勝って、その背番号、俺に見せてくれ』
 俺も負けないからと、笑みを消した彼の真摯な言葉が胸に染み入る。
 暖かい、太陽の光。
「うん」
 しっかりと頷き返して、笑う。
「見て……て」
 背筋を伸ばして、マウンドに立つ自分を、いつか。
「また、試合……しよ」
『おう!』
 豪快に胸を叩いた彼が咳き込んで、どうもしてやれないのに電話口でおろおろする。大丈夫かと繰り返す自分に、彼は苦笑いで返した。
『あ、一番星』
「え、どこ」
『廉の、後ろ』
 見えないのにきょろきょろしてしまった自分が見えているのか、彼はからかうように高くした声で言って、不意に真顔に戻った。
 虫の声が、遠く。微かに。
「……おれ、も」
 泣くな、と言われても涙は止まらなかった。

2007/7/26 脱稿