白露

 歩くたびに、カーンという甲高い、けれど低い、伸びはないくせに無駄に薄っぺらく広がる足音が響き渡る。
 これでは忍び足も不可能だろう、と廊下の中ほどに無造作に放置されたプラスチックボックスを爪先で蹴り上げて、靴の裏をこすり付けた。
 あえてそういう仕様にしたのか、それとも単に彼の趣味か。
 此処に拠点のひとつを設けると決めたのは自分たちだ、区画の分割案はあちら側が提出して、こちらはそれを受諾した。
 不可侵条約は形骸化していたと、そう見る者も居る。だが表向きだけでもそういう建前を作って飾っておきましょう、と笑いながら言ったのも彼だ。
 そうやって人のポリシーをなるべく侵さない様に、妥協点を見出しつつも交渉を有利に進めていく。拳をあわせあうよりも、テーブルで顔を向き合わせる方を好んだ彼は、時間をかけてじっくり他人と関わりを深めていくタイプだった。
 けれど交渉が決裂し、最早話し合う余地なしと判断した後の行動も、彼は早かった。
 武力による制圧はあくまでも最終手段だとしながらも、最悪の事態を招かないように裏工作も欠かさなかった。そういう部分に長けた人材が、彼の後ろに層を成していたというのもある。
 最良の結果を求め、最悪の事態を回避する。紆余曲折を経ながら培ってきた十年間のノウハウは妙なところで妙な繋がりを作り出し、崖を岩が転がり落ちるように予想外の展開を招いて、誰も想定していなかった事態へと突き進もうとしている。
 いや、ひとりだけ。
 この今の状況を先読みしていた人物は、確かに存在していた。
 今はもう居ないけれど、確かに彼は、この状況を想定して、この施設をこの場所に選び置いたのだろう。でなければ、辺境の島国にこんな大規模な施設を、たとえこの場所が彼の故郷であって馴染み深い地だからという理由だけで、建造する必要は何処にもないのだから。
 足音を響かせる。肩の上の鳥が不意に何かに反応し、小さく嘴を鳴らして警鐘を送ってきた。
「ああ、分かっている」
 頬を撫でた風ではない水蒸気の気配に少しだけ頬を緩め、踵で飾り気の無い床を叩く。
 羽ばたくだけの高さを持たない狭い廊下で翼を広げるのは己の寿命を縮めるだけだと、利口なこの鳥はきちんと理解している。長い脚を折り畳んで行儀良く人の左肩に鎮座したそれは、左の翼で顔を擦るように動いてからピィ、とまたひとつ鳴いた。
 同時に反響を繰り返す足音が途絶え、後は残響が壁を撫でながら遠くへと去っていった。
 薄暗い、裸電球がひとつだけ辛うじて灯っている場所。足元には乱雑に工具が詰まれ、足の踏み場に困るような状態だ。まだ建造途中なのがよく分かる、配線がむき出しになっている天井にちらりと視線を投げやってから、闇と光とを分断している人一人が通り抜けるだけの隙間を残した扉口に右手を添えた。
 長い影が鈍色の空間に伸びる。やがて影は周囲の背景と一体化して、どこまでが平面で何処からが立体かの境界線を見失い、目の前にありながら世界をあやふやなものに変えてしまった。
 扉の嵌っていない戸口を乗り越え、そんな現実と非現実が混在する空間に足を踏み入れる。
 恐怖など無い、そんな人間らしい感情はとっくの昔にかなぐり捨てた。
 ぴ、と鳥が羽根を広げる。
 廊下とは違い、何らかの目的を持って建設された広い空間は他よりもいくばくか天井は高くなり、飛びまわるだけのスペースを確保していた。けれど鳥は通常夜目が利かない、それでも尚久方ぶりの自由を得た黄色のそれは構わずに翼を広げ、助走もなしに肩から飛び上がった。
 頭をぶつけないかと危惧するが、そんな間抜けな事をする馬鹿ではないとも分かっているのであまり心配はしない。今はそれよりも、と仄暗い地平に視線を流した。
「居るね」
 わざとひとつ大きく足音を立て、大股に進み出す。声は真正面の壁にぶつかって跳ね返り、そこで砕け散った。それで大体の距離を測り、部屋の広さを確かめた上で器用に詰まれた機材の合間を縫って先を急いだ。
 とはいえ、四方を壁に覆われた空間の端から端までを歩くのにさほど時間はかからない。難なくこの部屋で最も暗い空間に辿り着いて下を向けば、其処には角形ばかりの中で際立って目立ついびつな形をした小さな塊があった。
 両膝を三角に曲げ、両腕でそれを覆い、額をこすりつけて俯いて、微動だにせず。
 存分に滑空を楽しんだ鳥が羽根を折り畳んで減速し、舞い戻ってきた。けれどそれは定位置たる肩には停まらず、もっと下の、俯いている今は黒の闇に飲み込まれた、日の下では明るく透き通るような茶色い色をした髪の上へと降り立った。
 鳥の巣にも似た爆発具合は、記憶の中でも未だ消えがたい輝きの結晶の中にある。
「ベッドは此処じゃないよ」
 時計の針はそろそろ深夜を、古い時代であれば丑三つ時と表現も出来るだろう頃合を指し示そうとしていた。十四歳の肉体ならば睡魔に負けて、瞼を下ろせば直ぐに寝入ることも出来よう時間帯だ。
 声に返す声は無い。けれど。
「トイレなら、此処に来る途中にあったはずだけど」
 男女別のマークは十年前に使われていたものと今も大差ない。模様も、言語が分からずとも通じるように大抵どの国のものも似通っている。見落としていたとしても、広いこの空間には満遍なく排泄設備も整えられているので、何処かで遭遇できていたはずだ。
 もっとも、そんな陳腐な理由で彼が此処に蹲っているのだとしたら、蹴り倒して気絶させてでも部屋に連れ戻すのだけれど。
「僕は、休めと言わなかった?」
「……」
 ほんの少しだけ言葉に棘を含ませ、立つ場所を変える。
 彼の前から横、右側。壁に丸めた背中を押し付けている彼からは、ほんの十数センチしか離れていない場所に左足を置いて、凭れかかる。
 彼は頭の上に在るものを把握しているらしく、顔をあげようとはせず、けれど空気が動いた瞬間だけは両肩をピクリと動かしたので、意識は覚醒した上でしっかりと保たれているのは分かった。
「今の君は、正直」
 傷を負った獄寺隼人、そして山本武。
 情報収集から戻った二人にも、大した戦闘能力は期待できない。こちらの手駒は数が限られている、迂闊に外部へ連絡を取ろうものならば、入念に張り巡らされた蜘蛛の網宜しく敵の包囲網に引っかかり、雁字搦めになって抜け出せなくなる可能性は否定しきれない。
 ひとりならば楽なのに、と思わず溜息が漏れてまた脇の彼が反応した。
 相変わらず、そういう人の感情にだけはやたらと反応を示したがる。間合いを計っているのかもしれない、無意識のうちに。
 それが意識して出来るようになれば、もっと交渉ごとも捗るだろうに。あの子はあの時、どうして判断を誤ったのか。
 いや、誤ったのではなく、誤らされたのか。それとも、自ら進んで過ちと知りながら進んだのか。
 今となっては想像を巡らせるほか無い、答えをくれる存在は既にないのだから。
 右膝を軽く曲げ、爪先だけを床に押し付ける。硬いタイル張りの溝がその丁度中間点にあって、ゆっくりと遠くから手前へと足を動かしてなぞっているうちに上向けた踵が壁にぶつかった。
 そんな些細な音さえも、この静か過ぎる空間に波を起こして広がっていく。
「聞いてる?」
 低い声の問いかけをもうひとつ。
「聞こえて、……ます」
 間を置いて、俯いている所為でくぐもって聞き取りづらい発音が。
 彼の、声が。
「そう。じゃあどうして此処に居るの」
 休めと命じたのは自分ばかりではないと暗に示し、胸の前で両腕を組ませる。三角巾の先、袖からはみ出た彼の白い手は、裸電球の明りを浴びて嫌になるくらい血色悪く瞳に映った。
 と、唐突にぴぃ、と鳴いた鳥が顔を下向け、跳ね返っている目の前の髪の毛を餌と間違えたわけでもあるまいに、いきなり咥えて引っ張った。
「うわっ、って、いでで、いでいだいいであだっ!」
 たとえ掌サイズの小鳥ではあっても、嘴で挟む力は相応に。こんな小動物に力加減を求めるのは愚の骨頂というもので、無遠慮に引っ張り挙げられる髪の毛とそれが繋がる頭皮の痛みに、ずっと俯いて人の視線から逃げ続けていた彼は否応なしに顔をあげさせられた。
 そのあまりにも不細工な顔に、笑う気さえ起こらない。
「まっ……いででいだいだい、いだいってばちょっ、ヒバリさん助けて!」
 飼い主は貴方でしょう、と大粒の涙目で訴えかけてくる相手と久方ぶりに目が合って、それで漸く笑みが落ちた。緩めた口元に呼応して元来の釣り上がり気味な瞳が細まり、くっ、と喉を鳴らせば、尚更涙を浮かべた彼が両手を頭上に掲げて無体を繰り返す鳥を強制排除すべく指で空を掻き回した。
 だが爪の先が触れる寸前で鳥は身軽に翼を広げ、彼の髪を解放すると同じタイミングで宙へと舞い上がる。交差し損ねた彼の手は互いにぶつかり合って、新しい痛みを誘発しただけに終わった。
「いっ……」
「相変わらず」
 ひとつ、溜息。
「弱いね、君は」
 こんな鳥にさえ玩具にされて、と口端を持ち上げて笑いながら意地悪く瞳を眇める。
 ぶつけた手をそのまま下へ落とし、毟られた頭を撫でていた彼がムッと唇を窄めて頬を膨らませる様は、昔のままだ。いや、あの子の昔が、今の彼なのだから、それは当然なのだけれど。
「悪かったですね」
「拗ねない」
 ぶすっとした声ではあったが、漸く人の顔を見て言った彼の、覚えがあるものより少しだけトーンが高い声に目を閉じる。しかし瞼の裏に浮かんだのは、直前のあの子の姿ではなく、どうしてだろう、今目の前にいる彼と同じ姿だった。
 覚えているというのか、この身体は。彼を。
 十年という時を経てもなお、色褪せもせずに。
「……ヒバリさん?」
「子供は寝る時間だよ」
 力を抜き、益々壁に体重を預けてもたれかかったところに呼びかける声もまた、耳に心地よく。少しだけ不安げに、ちょっとだけ怖がっているのが分かる、けれど表に出すまいと努力しているその呼び方さえも。
「迷った、ん、です」
「その割に、戻ろうという努力を感じない」
「余計に迷うのが嫌だったんです」
 明るくなれば、きっと誰かが探しに来るだろうと。
 まさかこんな時間から見つけ出されるとは思いもしなかった。でも、ひょっとすれば期待していたのかもしれないと。
 掠れる声が空を泳ぐ。
 獄寺と山本に怪我を負わせた責任が、重く両肩に圧し掛かる。
 彼がふたりに下した判断は、あの段階では、他に選ぶ余地のない最良だった。単独行動は控えなければならず、手持ちの駒だけでは他に手段が無かった。ひとり勝手に飛び出して皆を危険に巻き込んだ笹川京子の軽率さは、本来咎められた上で然るべき罰を背負わすべきなのだが、今の彼にはそれも出来ない。
 思いもがけず、望まない形でこの時代に飛ばされた人間が、本来あるべき自分の居場所を探して苦悩するのは致し方のないこと。誰だって困惑するし、混乱もするし、現状打破に苦悩してともすれば容易に道を踏み外す。見えるものさえ見えないようになれば負けは明白であり、それを防ぐのは個々人が抱く揺ぎ無い信念、そして強さ。
 彼らは幼い。幼い故に、脆くもあり、強くもあり。
 己の力量を知らず、相手の力量を測れず。見えるものしか見ようとせず、我を張って他者の言葉に耳を傾けない。若さゆえの甘さ、弱さ、脆弱な心、未発達な肉体と精神に、寄る辺を持たずに彷徨うばかりの想い。
 迷うくらいなら、動かない。明るい光の下で自分の未熟さを見るのが嫌だから、闇の中を閨に求める。逃避、けれど行き場所は用意されていない。
 地上の光は届かないこの暗い穴倉で、袋小路に落ちてしまった心は簡単に迷路から抜け出せず、孤独を彷徨っている。
「やめる?」
 なにを、とは聞かず。
 腕組みを解いて、左手を横へ。伸ばした指先が掠めた髪の毛は、記憶のままに柔らかだった。
「……やめさせてくれないくせに」
「まあ、そうなるね」
 動き出した時間は次々に紡ぎだされるばかりで、後戻りを許したりはしない。この時間でこの現実が動き出した以上、この現実をこの時間でどうにかするしか、彼らには手立てがない。
 見通しは暗い、彼らには今の状況を理解するのさえ手一杯だろう。
 一気に沢山の知識を齎され、一気に把握するよう強制されている。頭の螺子は吹き飛び、締めるのを忘れて放置されたままだ。
 けれど。
「俯くな」
 確かに今はまだ幼く、頼りない腕しか持ち合わせていないとしても。掴み取るべき未来にさえ手を伸ばさないままで、朽ち果てるのは果たして本懐か。
「顔を上げろ」
 状況は決して楽ではない、まだ全体像が見えずに戸惑いは止まないかもしれないが、最初から目を逸らしていては見つけられる可能性も見出せやしない。
「少なくとも」
 傷を負い、今はベッドで眠るしかない奴らも、まだ生きている。
 生きていれば、なんとでもなる。生きてこそ、何かが成し得る。
 まだ終わっていない、違う、逆だ。これから、始まるのだ。
 始めるのだ。
 今度こそ。
 自分は此処に居るのだと、声高に、見苦しくても構わない。
 我武者羅に、泣き叫べ。
 聞き届けよう、今度こそ。君の声を、言葉を、涙を、願いを。
「僕は、まだ、此処に居る」
 ひとりで立ち上がるのが辛いのなら、縋ればいい。頼ればいい。
 分からなければ、聞けばいい。求めればいい。
 不安だというのなら、望めばいい。願えばいい。
 応えよう。
 その為ならば。
 空を包み込む、雲となろう。
「ヒバリさん……?」
「不満?」
 見開かれた瞳、涙が乾いていくのが分かる。
 口角を歪めて問えば、彼は一瞬の間を置いて首を振った。
 そしてまた俯き、膝を抱いていた腕に力をこめる。
 トン、と膝の側面に軽い衝撃を感じた。壁から人に寄る辺を移し変えた彼が、顔を伏したまま寄り掛かっていた。
「綱吉?」
「……」
 返事はない、代わりに。
 穏やかな、寝息が。
 結ばれていた手が解け、導かれるままに楽な姿勢へと崩れていく。右に傾いた重心は少しずつ位置を低くして、閉ざされた瞼は硬く容易に破れそうにはなかった。
 一瞬だった。瞬きするほどの時間さえ、無かったというのに。
「…………」
 言いかけた言葉を飲み込み、してやられたと肩を落とす。こういう子だった、そういえば。
「よっぽど疲れてたんだな」
「赤ん坊」
「ちゃおっす」
 子供が寝る時間であれば、赤ん坊も当然眠るはずの時間帯だ。しかし平然とした様子で宇宙服もどきの格好をした赤ん坊は、陽気に手をあげてこちらに挨拶を返し、奇怪な足音を交互に繰り出して人の足に寄りかかっている存在へと近づいた。
 ぺち、と軽く頬を叩くが反応はないままだ。
 ずっと緊張の連続だったのだろう。
 いきなり十年後に飛ばされたと思えば、棺桶の中に寝かされて。
 己の死を未来で明言され、更には心の拠り所である赤ん坊の死まで宣告された。仲間は行方知れずと聞かされ、元の時間に戻る術を模索しつつも尚悪いことに、無関係な人間までこの時間に巻き込んだ。
 理不尽すぎる現実が、彼を追い詰める。
 元々気弱で大人しい性格だった子だ。臆病で、誰かに相談したり悩みを打ち明けたりするよりも、自分の中で悶々と答えを探して喘ぐ傾向があり、我は強くなく個性的な面々に埋没しがち。調和を求めるあまり、自分を前面に出すのを控えて後ろで見守ることに徹するタイプ。損な役回りばかりを押し付けられ、笑いながら心で泣いている子。
 自分が傷つくよりも、自分の大切なものを奪われるのを徹底して拒絶して、他者に犠牲は強いず、けれど自分を犠牲にするは厭わず。
 弱いくせに強がって、強くあろうとして、弱い自分を誤魔化して。
 大丈夫とか直ぐ口にするくせに、大丈夫だったためしがない。
「うそつきな子」
「お前の前じゃ素直なんだがな」
「どの辺が?」
「安心した瞬間眠っちまうところとかな」
 どちらかと言えば嘘をつき続けられた方なんだけれど、と赤ん坊を見下ろして眉間に皺を寄せれば、あちらは寝入っている彼の鼻を摘んで悪戯しながら声を潜めて笑った。
 益々不機嫌に染まる顔を見抜いて、にっと不敵な表情を向けられる。
「そんなわけで、後よろしくな」
「僕が?」
「オレがツナを背負って運べるわけねーだろ」
 蹴り転がして運ぶことなら出来るだろうが、と相手を慈しむ気持ちが皆無な発言を受け、大仰に竦めた肩に溜息を乗せて運ぶ。
 損な役回りを押し付けられるのは、どうやらあの子だけの特権ではなかったらしい。
「ん……――」
 むずがる声が聞こえ、視線を落とす。完全に斜めになっている彼の身体はいつの間にか上向いて、無防備な寝顔が真下に転がっていた。
 このまま此処に放っておけるわけがない。誰も居ない部屋でひとり眠るのを怖がったこの子は、本当は、真っ暗闇が怖くて小さな明りが無ければ眠れない性格をしているというのを、知っているから。
「赤ん坊の頼みなら、断れないか」
「変な気、起こすなよ」
「変なって?」
 仕方が無いな、と前髪を後ろへと梳き流して不遜な笑みを返してやる。即座に投げやられた台詞を鸚鵡返しに打ち返せば、赤ん坊は意味ありげな笑みだけをその場に残して去っていった。
 肩の上の鳥が、楽しげに懐かしい歌を刻んでいる。
 歌声に呼応しているのだろうか。眠る君もまた、懐かしい夢の中で幸せそうに微笑んだ。

2007/7/31 脱稿