近代美術館。そう銘打たれた建物は、繁華街の中心に程近い場所にあった。
けれど周辺は緑豊かな公園が整備されているからか、街中の雑踏は限りなく遠く、風に揺れる樹木の香りが周囲を柔らかく包み込んでいる。
喧騒は忘れ去られ、つかの間の安らぎにホッと安堵の息が漏れる。こんな場所があったのかと、滅多に足を向けない方向が故に今まで知らなかった発見を、綱吉は純粋に驚きで表現した。
「こっちですね」
しかし土地勘がないというのは不便なもので、地図があってもそれが簡略されたものだと殆ど何の役にも立たない。
幸い公園内にはあちらこちらに案内図が設けられており、そのひとつから駆け戻ってきた獄寺が、綱吉に向かって右側前方を指差して言った。
促されてそちらに目を向けると、確かに緑濃い広葉樹の隙間から微かに、白い外観の建物が見て取れた。
全体像はまでは把握できないが、かなり大きな建物だというのはこの場所からでも想像出来る。あれが目的地なのだろうと小さく頷いた彼は、先立って歩き出した獄寺の背中を追い、彼の影を踏みながら先を急いだ。
薄ら曇り空模様ではあるものの、湿度が高く、肌にまとわりつく空気はべたべたしている。直射日光は少ないながら気温もそれなりにあるので、不快指数は時間を追うごとに高まりつつあった。
早く涼しい場所に避難したい。その気持ちが働くものだから、獄寺も綱吉も必然的に、互いに示し合わせたわけでもないのに足は速くなる。そして漸く並木が切れて開けた空間に出て、丁度雲の隙間から顔を覗かせた太陽に視界を焼かれたふたりは、その場に立ち止まってしまった。
現れたのは白い、レトロな外観の建物だった。
横に幅は広く、中央にぽっかり空いた扉が出入り口としてボードで半分に区切られている。チケット販売は中で行われているようで、八段程度の階段を登った先には、現在内部で行われている特別展のポスターが、随分と控えめに貼られていた。
「行きましょうか」
遠目に、自分たちが出向こうとしている特別展と題目が合致しているのを確認し、獄寺が先に我に返って歩き出す。建物周りは日が差していて明るかったが、一歩屋内に足を踏み入れた途端、照明が絞られている所為での薄暗さがふたりを襲った。
冷房で整えられた空気の流れが、綱吉の逆立った髪を軽く揺らす。首筋に浮いていた汗がスーッと引いていくのを体感し、綱吉は深呼吸を二度繰り返して体内に篭もっていた熱を吐き出した。
隣では鞄をあけた獄寺が、黒の二つ折り財布からチケットを二枚取り出す。それは彼が、一週間ほど前に商店街のくじ引きで当てた景品だった。
確か二等か三等だったと思う。夏祭りの時期に合わせた商店街のガラガラ抽選会で、偶々一回分出来るだけのポイントを持っていた獄寺が見事に引き当てたもの。高らかに鐘の音が響く中渡された二枚組のそれに、せめて映画のチケットだったら良かったのに、と愚痴っていた彼だけれど、綱吉が興味を示したことでコロッと表情を変えるから彼も大概、現金な性格をしている。
興味を示したと言っても、今回の特別展で展示されている近代美術に、綱吉が詳しいわけではない。単に夏休みも後半に差し掛かろうとしている現在、遊びに行くにしても行き先に困るくらい遊び倒しているものだから、たまには目新しさを覚える場所に行ってみたいな、とそんな事を言っただけだ。
それに資金面でも苦労させられる時期に突入しており、タダで入館できるなら有り難いことこの上ない。
暇潰しに、お金の掛からないことを。このふたつの条件を見事にクリアできるとあって、綱吉も獄寺も、展示内容は二の次で出向いた格好だ。
少しだけ道に迷い、辿り着いた白亜の宮殿にも似た建物。クラシック然とした雰囲気が入り口付近に漂うものの、獄寺に渡されたチケットを使って入った内部は、外見からだと全く想像つかないくらいに現代的に改装されていた。
天井は少し低めだが、内部は明るい。ホールは五つに分類されており、それぞれに特色が似通う作品が集められているのだとか。チケットの半券と一緒に渡されたパンフレットを広げ、綱吉は入って直ぐの空間をぐるりと見回した。
来場者の数はさほど多くない。特集内容がいまいちパッとしないのが影響しているのかもしれなかった。
休日ならばもう少し人は増えそうだが、生憎と平日の午前だから、作品の前で立ち止まって見入る人の姿は稀だ。
とはいえ、全く居ないわけでもない。
内部は白に近い灰色で壁が統一され、ある程度の間隔をあけて作品が展示されていた。また配置も、唐突に道を塞ぐ形で急に四角い柱が現れたり、無駄でしかないようなややこしい道順を提供されたりと、作品同様難解な構造をしていた。
どちらかと言えば大学生や社会人、そして年配の人が多く、綱吉のような中学生の姿は他に見当たらなかった。
静まり返った空間に、足音だけが反響する。
「なんか……」
綱吉に遅れてロビーから移動してきた獄寺も、目の前の空気を感じ取って言葉を濁す。なんと表現していいのか解らないという顔をしていて、綱吉も同じ気持ちだった。
「うん、だね」
言葉で言い表せない感情に同意を示し、綱吉は半券を折り畳んだパンフレットにしまいこんで左手に握った。
もっとも、さして期待してきたわけではないので、これくらいは想定内だ。拍子抜けと呼ぶにはまだ入り口過ぎるし、この先に目を見張るような素晴らしい作品も待ち構えているかもしれない。
「いこっか」
入り口を塞ぐのは後から来る人の迷惑になる。まだ立ち惚けている獄寺の脇腹を肘で小突き、綱吉は無駄なものが一切省かれたシンプルすぎる空間をゆっくりと進みだした。
「あ、はい」
我に返った獄寺が少し大きめの声で返事をしたものだから、その声が天井にまで駆け上って跳ね返って砕け散る。静かに鑑賞している人が多い中では異様に目立つ音量で、彼は一瞬後ばつが悪そうに口元を手で覆い隠し、下を向いた。
恥かしさが先に立ったのだろう、前を行っていた綱吉の横をずかずかと早足で過ぎ去っていく。
「獄寺君?」
わき目も振らずに床ばかり見て進む彼に苦笑し、綱吉はしょうがないな、と肩を落とした。
後を追うかで迷ったが、折角来たのに何も見ずに通り過ぎるのも勿体無い。
芸術に詳しいわけではないが、見るだけならタダだからと綱吉は遠ざかる獄寺を見送って、自分のペースを取り戻した。今はぐれても、どうせ出口はひとつなのだし、いずれ合流出来るだろう。
天井から降り注ぐ光は直接床を照らさず、壁に一度ぶつかってから光を拡散させていた。その影の作り具合がまた絶妙であり、こんな演出方法もあるのかと幾つも重なり合う自分の影を足元に見て、綱吉は大きな額縁に入れられた絵の前で立ち止まった。
遠近感を強調したその絵には、背景として巨大な煙突が無数に並び、そこからは黒煙が立ち上っている。排水が流れる河の水もまた黒く濁り、見ているだけでも胸焼けがしそうな光景がシンプルに厚塗りされた絵の具で描かれていた。
手前にあるのは小高い丘のようで、煙突の立ち並ぶ世界とは一線を画している。しかし大地らしき部分は白く、まるで人の骨で埋め尽くされているような凹凸が表現されており、更に頂に突き刺さるのは赤く塗られた十字架だ。
作者の名前は、聞いた事がない。美術の教科書に出てくるような画家の絵はひとつもなかったはずだ、と前情報を調べてくれた獄寺の言葉を思い出す。
眺めていると切なさに胸が痛み、わけもなく泣きたくなる。非常に分かり易いモチーフだからこそ、直感的に視覚に訴えかけてくる言葉が確かにあって、綱吉はこの絵から無数の見えない手が伸びてきて助けを請うている錯覚に陥った。
「……っ」
ひっ、と上擦った息が喉を刺し、彼は逃げるように額縁の前から足を遠ざける。こみ上げた吐き気は暫く治まらず、口に手を添えて何度も唾と一緒に息を飲みこんだ。
獄寺の姿はまだ見付からない。綱吉は肩を上下させて息を吐くと、額に浮いた汗を擽る風を感じて歩調を緩めた。
いつの間にか次の展示室へと移動を果たしていたようで、先ほどとはまた違う照明具合に目を眇めた彼は、比較的人が多い一画を見つけてそちらに足を向けた。
人垣の隙間から背伸びをして覗き込めば、それは街中で見かけるようなポスターだった。
色々な色を使い、派手でけばけばしい。線は明確に引かれてくっきりとしており、けれど描かれているものが実に奇怪だ。
動物と人が入り混じったような顔、歪んだ建物、形状が可笑しい風景と、何かを暗示するものが描かれているが、綱吉の直感でも何を伝えたいものなのかさっぱり解らない。ただ色の使い方は巧く、パッと見他よりも目立つので人も集まり易い印象を受けた。
綱吉同様に首を捻っている人も多く、左手に握ったままのパンフレットを開いてみるが、この絵に関する案内は何処にも見付からなかった。
絵以外にも、この展示室には彫像やオブジェが飾られていた。
こういうものを見ていると、人間の心や感情、感性というものは本当に千差万別なのだな、と実感させられる。
綱吉には分からなくても、何処かの誰かは作り手の気持ちをストレートに理解し、受け止められるのだろう。見ているとふわふわした気持ちになったり、良くわからないけれど何故か楽しい気分にさせられるものも散見していて、綱吉はつい獄寺を探して合流するというのも忘れて展示物に見入ってしまった。
美術館の中は、外と比べても涼しく、静かなのもあるだろう。時間が過ぎていくのが非常にゆっくりと感じられた。時計を見て時の経過を確かめる気も起こらずに、漫然とした空気を楽しみながらただ「眺める」という行為にのみ終始する。
そこから何かのエネルギーを感じることもあれば、こちらから求めてもまるで応えてくれない作品もある。全体的に統一感は薄く、ちぐはぐに縫い付けられた寄せ集めの作品集とも、言い換えられるかもしれない。
綱吉はこれまでにも何度か、博物館の類に足を運んだ事がある。ただそれも、大抵が学校行事の芸術鑑賞の一環であり、クラスメイトのざわめきや、必ずひとりはいる騒動を起こす子の印象が強すぎて、作品自体にまでなかなか記憶は残っていない。
綱吉の足は漸く、四つ目のエリアに突入した。
今度は暗がりがメインとなった室内で、それまでの明るさに慣れていた彼の心は少しだけ気後れする。出した足を思わず引っ込めそうになった綱吉だったが、ぽつぽつと灯る小さな明りが街灯にも似た雰囲気を漂わせているのに気づき、ホッと胸を撫で下ろした。
その頃にはもう目も暗さに慣れていて、瞬きをする度に視界はクリアになっていく。仄かな明るさに照らし出された作品はどれも優しい、淡い色使いをしていた。
これまでの原色甚だしい作品から一転して、急に穏やかな作風が目立つ。絵本にでも出てきそうな柔らかな筆遣いに、水彩画を更に薄くしたような色の混ざり具合。気を抜くと見逃してしまいそうな小さな作品も多く、ぐるりと首を巡らせた綱吉は、足元不如意にならぬよう注意しつつゆっくりと狭い通路を進んだ。
そして次の展示室へ向かう区切りとなる場所に、それまでと同じ筆遣いでありながら一際大きな作品が飾られているのに気付く。
母の腕に抱かれ、安心しきって眠る赤ん坊を描いた絵だった。
母親の視線は柔和で慈愛に満ちており、眺めているだけで微笑ましく、笑顔が自然と湧き上がってくるような絵だ。
獄寺は、そこにいた。
「ごくで……」
鈍い光を背中に浴びて、銀色の髪を月明りのように輝かせている彼の姿を認めた瞬間、綱吉は久しぶりに会えた嬉しさに手を挙げて、彼の名前を呼ぼうとした。
けれど獄寺は後方五メートル弱の距離に居る綱吉にまるで勘付かず、ぼうっとした横顔を曝け出して食い入るように目の前の絵画を見詰めていた。
派手好みの赤いアロハシャツが否応なしにこの空間で異彩を放っているのに、それさえも不思議とありのままに受け入れられる空間の静謐さ。時折息を吐いて動く唇はほんのりと紅色に染まっており、絵を見る瞳はぎすぎすした空気を放ちやすい彼にしてみれば、驚くほど温和だった。
ああ、なんだか。
なんだか、凄く、良い。
何が、なのかは解らないけれど。的確に今の心情を言い表せるほど綱吉は語彙を持ち合わせておらず、ただ純粋に、この絵と獄寺の背中とがまるでひとつの絵画となっている気がして、それが妙に心弾んで嬉しかった。
背中に手を回し、腰骨の上で結び合わせる。踵を浮かせて左右揃えて下ろし、暫くの間、恐らく一分にも満たなかっただろうが、本人には一時間にも二時間にも思える時間、綱吉はそうやって獄寺を眺め続けた。
けれどいくらなんでも、いつ振り向くか解らない相手を待ち続けるにも根気が要る。再び踵で床を打った綱吉は、どうしようかなと小首を傾げてから通路の行く先から眩い光が漏れているのに気づいて唇を舐めた。
そう、どうせ出口はひとつきりなのだ。
無心になって絵を見詰めている獄寺の邪魔をするのは、野暮というもの。このまま声を掛けずに通り過ぎても、きっと彼は綱吉を責めないだろう。
彼は心を決めると、そろりと足音響かせぬよう獄寺の横を曲がり、昼の明るさを取り戻した空間に移動した。
ゴールは案外早く見付かって、肩透かしを食らった気分で綱吉は小さく舌を出した。
手前で待っていても良いが、特別見たいものに遭遇できなかった彼はこの場に居残る理由もなく、仕方無しに制服姿の職員のお辞儀を受け、一旦表へと出た。
最初にチケットを見せた出入り口はまだ先のようで、右手に常設の土産物屋があり、そこだけが妙に蛍光灯の明りが強く、際立って異様な空間を作り上げていた。
そこは大きめのロビーで、売店の反対側には大判のガラスが壁を作って向こう側を透過している。手前には黒い革張りの、背凭れがないソファが並び、自動販売機が売店とは違って控えめに角に立っていた。
ガラスの壁の先は、灰色のコンクリートで固められた中庭。植物は一切植えられておらず、それが妙に、この場が都心部からそう離れていないのだと綱吉に教えているようだった。
中庭にあるのは小ぶりの噴水で、外側を囲む四角形にあわせているのか、こちらも綺麗な方形をしていた。
中央部分が一番持ち上がっていて、そこから透明な水が飛沫を上げて噴出している。更に方形の角に近い四箇所にも似たような噴出孔があるらしく、タイミングを合わせたりずらせたりしながら、空間に涼を演出していた。
見ればホールの端の方に、中庭に通じる扉がある。
「出られるのかな?」
中庭に面して視界が解放されているのはこのホールがある一部だけで、残る三方は灰色の壁。建物が直射日光を遮って全体が日陰になっているものの、まだ昼間なのでそこは充分明るかった。打ちっぱなしのコンクリートには無灯火の照明ポイントが幾つも散見しており、夜になればまた違った顔が見られると想像は容易い。
綱吉はふと、誘われるようにして扉に手を伸ばし、ドアノブを捻った。
鍵は掛かっていない。また、綱吉の行動を見咎める人もおらず、だからこの中庭は出入り自由なのだろうと勝手に判断する。
出た先は流石に夏場とあって、ムッとした空気に包まれていた。それまで冷房が程よく効いた空間に居たから、余計にそう感じるのかもしれない。湿気が多いのは噴水が散らす水の影響もあるだろう。
見上げた空は四角形に切り取られ、雲の白さの間に水色が紛れ込んでいる。上空は風が強いのか、幾重にも重なり合った綿雲の動きは案外速かった。
「へえ……」
キラキラと散り行く水しぶきは細かく、溝を通って中心部から外側へ流れて行く道順は複雑な幾何学模様を描いている。近づかなければ解らないような精巧な意匠に、綱吉は感心した様子で膝に手を置いて水面を覗き込んだ。
毎日掃除がされているのだろう、ゴミは浮かばず、底面も黒光りする噴水の台座がそのまま綱吉の目に映し出される。水流は緩急が付けられて、小規模の滝があったかと思えば清流を思わせる広い空間もある。ただ水を動かすだけの質素で無機質な噴水とは違って、各所に製作者の工夫が感じられた。
さすが美術館の内部に設置されているだけのことはある、と曲げた膝を伸ばした綱吉はその動きを利用して空に向かって背を逸らした。
跳ね上がる水が一瞬の宝石となって眩く輝き、綱吉を包み込む。顔に散った飛沫は一瞬の涼しさを彼に齎し、掌を返して顔の前に置いた彼は、自分に向かっておどけてみせる水に笑いながら顔を逸らした。
靴下を履いていなければ、水路に足を浸してもっと近くで水とじゃれあえただろうに、勿体無い。
だが折角とあって、綱吉は試しに水流へ、真っ直ぐに伸ばして揃えた指を差し入れてみた。
円筒状の指の形に添い、流れを堰き止められた水は少しだけ速度をあげて道を迂回しながら進んでいく。膝を折って硬い大理石のような色合いの噴水前にしゃがみ込み、左手を水に浸したまま暫く綱吉は、その姿勢で穏やかな日差しを跳ね返す水面を見詰めた。
映し出される自分の顔は、時折歪むものの殆ど鏡を見ているのと変わらない。此処が明るい所為だろう、反射具合は若干弱いものの、直接目に光が入ろうとする瞬間が全くないわけではなく、都度瞳を細めて彼はゆったりと流れて行く時間に淡く微笑んだ。
熱気と湿度の高さで火照りかけた身体も、指先を行く水が少しずつ溶かしていくようだった。じんわりと広がる柔らかな感触に胸の中は逆に安らぎを得て、此処が屋外であるに関わらず眠ってしまいそうだった。
一定間隔で噴水が吐き出す水の声だけが、騒々しい。
公園を行く最中に聞いた蝉の喧騒も、此処へ来る道中に通り過ぎた都心部のざわめきも、何もかもがこの空間からは遠かった。
世界中に、ひとりきりのような。
「……?」
けれど不意に、綱吉はなにものかの気配を、視線を感じて顔をあげた。
空気を震わせることのない無音の声が彼を呼んだようで、それが何処から発せられたものなのかを探り綱吉の目は宙を泳ぐ。けれど雲の多い空が四角形に切り取られているばかりで、鳥の影すら其処には見付からなかった。
「あれ」
いや、違うと綱吉は首を振る。再び水を射抜いた瞳を眇め、彼は根本的にもっと大切な何かを忘れている現実を思い出した。
そう、此処へ来たのは自分ひとりではない。
「あ」
瞬時に脳裏に蘇った銀髪の青年に、慌てて綱吉は振り返る。案の定、中庭とロビーとを繋ぐ扉の傍には派手な色合いのシャツをソツなく着こなしている、同年代なのにとてもそうは思えない姿の獄寺が立っていた。
目が合った筈なのに、視線が重ならない。微妙なすれ違いを感じ取って、綱吉は小首を傾げ水から手を引いた。
指先で雫が名残惜しそうに涙の形を作り、綱吉の手から離れていく。水音は弾かれず、淀みない清流と合流した雫は大勢の仲間と再びめぐり合えた喜びに浸りながら彼方へと消えていった。
獄寺はまだ反応しない。
後ろのドアは彼の手を離れて自然と閉まり、屋内外を明確に区切る。ぼさっと突っ立っている獄寺は心此処にあらずの表情を浮かべており、更に反対へ首を捻った綱吉はおーい、と小声で呼びかけながら右手を彼に向けて振った。
直後、慌しく瞬きを二度繰り返した獄寺が、大仰なまでに全身を震わせて我に返った。
大袈裟すぎる動きは綱吉にも飛び火する。中途半端に腰を捻ってしゃがみ込んでいる状態だった綱吉もまた、肩を震わせて後ろへと仰け反り倒れるところだった。
「うわっ、ったぁ!」
両手をばたばたと中空に掻き出し、斜め上に広げてバランスを取って噴水に頭から突っ込もうとしていた体勢をぎりぎりで立て直す。咄嗟に口から飛び出した悲鳴ともいえない叫び声は、五秒後に安堵の息に取って代わられた。胸撫で下ろす手が触れた心臓は、異常なまでの心拍数で綱吉の血圧を増大させている。
「十代目!」
「もー……吃驚させないでよ」
目をきょとんと見開き、反応が遅れていた獄寺が今頃になって綱吉の方へと駆け寄ってきた。
冷や汗を拭った彼は長い息を吐いて心臓を落ち着かせ、足音を立てて近づいてくる存在に改めて目を向ける。上空からの薄い光と、それを反射する水面の輝きの両方を受けて、獄寺は銀の髪はまるでよく出来たガラス細工のようだった。
「大丈夫ですか」
「一応、平気」
膝は地面に落ちていたが、幸いにもそこは乾いたコンクリートの上だった。水の中だったなら、目も当てられない状態になっていただろう。
音に出そうなまでに息を強く吐き出した綱吉の返事に、獄寺はホッとした様子で表情を和らげると、そのままへら、と口元をだらしなく緩めて笑った。
綱吉にしてみれば、何がそんなに可笑しいのかと怒りたくなるくらいの脱力具合で、しゃがみ込んだままだった姿勢を直して立ち上がった彼は、軽く殴る素振りを見せて獄寺の気を引き締めさせた。
綱吉の腕をかわした獄寺が、後ろ向きにたたらを踏んで距離を取る。驚きに見開かれた瞳は、けれどすぐさま、平常時に見る鋭いけれど優しい色合いをしたそれに切り替わった。
「何処に居るのかと、探してしまいました」
「あー、うん。ごめん、獄寺君があんまりにも真剣に絵を見てたから」
「俺がですか?」
「うん」
まだ水分を表面にまとわり着かせていた左手を振り、綱吉が頷いて返す。だが完全とはいかず、残りの湿り気はズボンにこすり付けることで排除した。
彼の真後ろで、静かに中央の噴水が白い飛沫を飛ばし始める。
「ああ……そうかもしれないですね」
「覚えてない?」
「いえ、覚えてはいますが」
綱吉が何を指して言っているのか、時間をかけて思い出した彼の穏やかな表情に、綱吉ははて、と首を捻ったものの、疑問は直ぐに否定された。
どういう意味なのか、と瞳で問いかける。開いていたふたりの距離は、綱吉から歩み寄って詰めた。
「もっと他に、目に焼き付けておきたいものがあったので」
「へえ?」
だからあの絵の記憶も霞んでしまって、即座に思い出せなかったのだと獄寺は笑う。
けれど同じコースを辿ったはずの綱吉には、彼が言い表しているものがなんだか解らない。同じものを見てきた筈なのに、矢張り見る人の感性によって受け取り方は違うのだな、とそんな事を考えていたのに。
獄寺は。
「はい。十代目を」
「は?」
にっこりと目を細めて微笑んだ彼のことばに、綱吉は目を零れ落ちそうなくらい大きくして素っ頓狂な声を出した。
「ですから、噴水と戯れている十代目が」
「おれぇ?」
的外れなことを平然と言い放つ獄寺に、信じられないと綱吉は自分を指差しながら聞き返す。だが至極真面目な顔をして、獄寺は首を縦に振った。
いったい自分の、何をどう見てそんな事を言うのだろうか、彼は。
疑り深い視線を投げ放った綱吉に、獄寺は少しだけ照れたような笑いを浮かべて肩を竦めた。聞かれても困る、と答えに苦慮している。自分で言ったはいいが、どう綱吉本人に説明すれば良いのか、その語彙を持ち合わせていない様子だった。
腕を下ろした綱吉が、まだ怪訝な表情を崩さずに獄寺の横に並ぶ。
中に戻ろう、と肘で彼を小突いて促せば、彼は白い歯を見せて満面の笑みを作った。
「だいたい、俺なんか見て楽しい?」
「楽しいですよ。なんていうか、嬉しくなります」
「どこがー」
大体綱吉は、癖っ毛甚だしくて、顔もどちらかと言えば端正とは程遠い童顔。目ばかりが大きくて男らしさに欠け、更に運動オンチで頭の出来も宜しくなく、何をやらせても失敗ばかりの落ちこぼれ。駄目人生まっしぐらと将来を悲観することはあっても、誰かに見惚れられるような存在ではない。
少なくとも綱吉自身は、自分をそう判断している。
今だって、どうして獄寺が自分の事をこんなにも大事に扱ってくれるのか、解らないくらいだというのに。
「何処が、と言われましても……巧く表現は出来ないのですが」
綱吉の斜め前に立ち、扉の取っ手を握って綱吉に道を開いた獄寺が、自由の利く手で頬を引っ掻きながら言葉を捜して視線を泳がせる。
そうして彼が見たのは、さっきまで綱吉が立っていた噴水だ。今は誰もおらず、無人の空間に水のさざめく音だけが静かに響き渡っている。
「俺には、あの場所にいた十代目が、そのままそっくり、一枚の絵のように思えたんです」
何に感動するか、感銘を受けるかは、各人次第。綱吉が他愛もないものだと思っていても、獄寺には見逃せない一瞬だった。
水の煌きの中に佇む姿は、光の加減もあっただろうが、何処までも眩く輝く獄寺の太陽そのものだった。
照れも臆面もなく言い放った彼に、綱吉は咄嗟に返す言葉が見付からない。ただ徐々に顔が赤く、頬が暑くなって来るのだけは分かって、彼は表情を隠して熱を冷ますべく、やや乱暴な足取りでロビーへと舞い戻った。
天然の光から人工の光へと世界は切り替わり、涼められた空気が生温く湿った空間にいたふたりの体を冷やしていく。
「十代目?」
「ったく、獄寺君って何処までも恥かしいよね」
何故か急に不機嫌になった様子の綱吉に、獄寺は困惑を隠せない。荒々しく出口へ向かって歩いていく綱吉の背中を追いかけた彼に、綱吉は前を向いたままそう気を吐いた。
「え? そうですか?」
「そうだよ」
人が聞いたら失笑物の、本人を前にしてとても綱吉なら言えるはずのないことを、平然と当たり前のこととして言い放つ。思ったことを正直に、飾らず、真正面からぶつけてくる彼の心は、気持ちがいいくらいに晴れ渡っていて、自分の不甲斐なさと比較すると綱吉は落ち込みたくさえなるのだ。
一枚絵だったのは、君の方じゃないか。
あの母子像の前に佇む神々しいまでの姿は、獄寺でなければ成立しなかった。
先に見惚れたのは自分なのに、それを口に出して彼に伝えられない。
彼の正直さの一割でも、自分に宿っていたならば。少しはこの関係も、違ったものに変わっていくのだろうか。
「十代目、待ってくださいよ」
一瞬薄暗い正面玄関を通り過ぎ、今度は陽射しを遮るものが何もない空間へと。地面へ続く階段を一気に駆け抜けた綱吉は、情けない声を出して陽光を手で避けた獄寺を振り返る。
白い建物を背景として。
彼はやはり、悔しいくらいに、綱吉の目に眩しかった。
2007/7/9 脱稿