気象庁は、雨の予報は外しても晴れの予報は外さないらしい。
例年を上回る厳しい猛暑となるでしょう、と宣告されていた夏は、言葉通りやって来た。
日々記録を更新する最高気温、乾ききった大地に茹で上がる路面、蜃気楼が立ち上りゆらゆらと揺らめくアスファルトはまるで熱せられたフライパンだ。
靴を履いていても、素足で焼けた砂の上を歩かされている気分に陥る。じりじりと靴底のゴムが焦げていく感じがして、服の内側に篭もった熱で蒸し焼きにされてしまいそうだった。
目深に被った帽子の内側にも熱気は集い、頭だけがサウナに放り込まれた気がする。かと言って帽子を脱ぐと、途端に直射日光に晒されて熱射病に一直線となりかねない。
家を出た直後は全身から噴出した汗も、もう出尽くしたのか肌はすっかり乾いていた。むしろ汗腺も焼ききれてしまったのかもしれない、半袖のシャツから露出した腕はこんがり小麦色で、自分で言うのもなんだがかなりおいしそうだ。
但し、肉が付着していないので骨と皮ばかりだが。
犬のように舌を出して熱を放出し、綱吉は塩の結晶が出来上がりそうなTシャツの襟を指で広げて空気を送った。だが流れ込むのは何れも熱風ばかりで涼を求めるには程遠く、むしろ余計に暑さを感じてしまって彼はぐったりと項垂れた。
移動手段を考えるべきだったと、家から此処まで徒歩を選んだ過去の自分を恨みたくなる。距離はさほどないものの、矢張りこの炎天下に歩いてくるのは無謀だった。既に干乾びたミイラに等しい死に体となっている彼は、唸り声を上げて走り去るバスの後姿を悔しげに見詰めてから、漸く真正面に現れた建築物にホッと安堵の息を漏らした。
数人、バスから降りた人が同じ方向に連れ立って歩いていく姿が見える。綱吉は背負っているデイバッグを担ぎ直すと、最後のひと踏ん張りだと自分に言い聞かせて残る数十メートルを一気に駆け抜けた。
全身を包み込む熱気が、扉を潜った瞬間に冷気に変わる。
サハラ砂漠から南極へ、一気に地球を半周駆け巡った錯覚に囚われた綱吉は自分にブレーキをかけるのを忘れた。危うく行き過ぎて正面玄関の壁に衝突するところで、慌てて踵に力を込めた彼は靴裏で床を擦りながら右手をあげて胸と壁の間のクッションにした。
肘を曲げて衝撃を吸収させ、ホッと息を吐く。首を前に傾ければ額が硬く冷たいものに触れ、視界は薄暗く狭められる。背後で笑う人の気配があって、恐々振り向けば案の定、途中で追い抜いた女性が自動ドアを潜りつつ口元を手で覆い隠していた。
気まずさに頬を染め、綱吉は身を小さくしながら自分の腕を交互に擦った。
外との気温差が素晴らしいくらいに、酷い。ギンギンに冷やされた屋内は冷凍庫かと思うくらいで、一瞬のうちに引いた汗に綱吉は息を吐き、天井高い玄関ホールを見上げてから照明の眩さに目を細めた。
並盛町の図書館は、町の規模から比較するに馬鹿みたいに大きな建物だった。
なんでも地元の有力者が援助を惜しまなかったようで、蔵書数も設備も、その辺の公立図書館に比べると雲泥の差だ。外見はガラス張りで四角形を複雑に組み合わせた形をしており、コンサートや講演にも利用出来る大規模な会場も併設されている。近隣地区でもちょっとは名の知れた場所であり、並盛町の住人のみならず、周辺地域からの利用者も随分と多いらしい。
ただ鉄道の駅から遠いので、交通手段がバスか自家用車か、徒歩しかないのが難点か。
夏の長期休暇中、学校の図書室は使えない。必然的に調べ物がある場合は図書館に出向かなければならず、その点で言えば並盛図書館は綱吉にとって有り難い存在だった。
シャツの襟に指を入れると、今度はひんやりした空気が肌を突き刺すくらいで、綱吉は慌てて腕を下ろし鞄を背負い直した。
「すずし~」
目を閉じて冷房器具を通り抜けた空気の流れを感じ取る。たった二枚の自動ドアを抜けただけで地上の楽園に訪れた気分になった彼は、本来の目的さえ一瞬忘れそうになった。
家のクーラーも此処まで低温度に設定はしない。時代は省エネに突入しており、冷房も極力使わないようにしよう、設定温度も高めにしよう、というのが沢田家の今年のスローガンだ。
しかしその目標を呆気なく打ち砕いた図書館は、非常に罪深い。これだったら毎日通ってもいいかもしれないと、辿りつくまでの苦難の道程をすっかり忘れ、脱いだ帽子を握りしめた綱吉は気持ち良さそうに目を閉じた。
だがいつまでも玄関に立ったまま惚けていても、仕方がない。数秒後我に返った綱吉は、通いなれない図書館の構造をまず頭に入れようと案内板の前に移動した。
地図入りで表示されている建物は、地下一階の地上四階建て。
一階はこの玄関ホールと、現代小説や子供向けの絵本コーナーが設置されている。試しに数歩進んで角から顔を覗かせてみると、ガラスで区切られた区画に他とは違うカラフルなウレタン製のマットが敷かれ、背丈の低い本棚が周辺を囲んでいた。
中に居るのは専ら幼稚園前後の子供たちで、周囲の静かな雰囲気に負けず元気に走り回る小さな姿が目に付いた。
空間を仕切っているガラスには防音効果もあるのか、騒ぎ声はあまり聞こえてこない。綱吉はぐるりと立ち並ぶ書架の群れに瞳を眇めてから、ゆっくりと案内板の前へと戻った。
二階、三階が専門書を扱うスペースになっていて、四階がホール、地下が駐車場。総合カウンターは二階にあるようで、指差し確認しながら自分の目的地を探した綱吉は、帽子を鞄に詰め込んで背負い直し、丁度人を下ろしたばかりのエレベータに急ぎ踵を返した。
ポーン、という甲高い音を響かせて扉が閉まり、一瞬の後に垂直移動を果たした箱から降り立つ。またぞろと両脇をすり抜けていく人の後姿を見送った彼は、自分がこの場所に随分と不釣合いな気になって無意識に背中を丸めた。
人の数が多い、思っていたよりも。
夏休み中の平日だから、ガラガラとはいかなくても満員御礼も無いだろうと考えていたのだが、読みが甘かった。
壁際に並ぶ自習机はどこも満席で、椅子ひとつ空いていない。それどころか書架の横に点々と設置されたひとり掛け用のソファにも誰かしら座っていて、綱吉が居座れそうな場所は軽く見回した限りではあるが、何処にも存在しなかった。
もっと朝早い時間から来るべきだった、と後悔しても今更過ぎて愚痴る気にもなれなかった。
夏休みなのは何も中学生だけではないのだ、幼稚園児から小学生、高校生に大学生。特に冷房に使う電気代も厳しい貧乏学生にしてみれば、朝から夕方まで無料で利用出来る上、涼しく過ごせる図書館は聖地にも等しいだろう。
「う~」
唸っていても、仕方がない。
図書館は何も机に座って勉強するだけの場所ではない。本を適当に見繕い、借りて帰って家で読むのもひとつの手段だ。
折角暑い中を歩いてきたのにな、と唇を尖らせて不平不満を心の中に吐き出すが、この状況では諦めもつく。綱吉は肩を落として溜息を盛大に吐き出すと、冷えた空気に腕を撫でて摩擦熱を呼び起こした。
いったい設定温度は何度になっているのだろうか、此処は。
外から入って来た直後はその涼しさに心地よさが先に立ったが、今はすっかり汗も冷えてむしろ寒いくらいだ。
「さむ……」
左腕に立った鳥肌を指で擦り、奥歯をカチリと鳴らして綱吉は呟く。
見れば机に座って勉強している人の多くは、上に一枚羽織って長袖だった。綱吉のような薄手の半袖シャツ姿の人は少ない。
皆、綱吉と違って図書館を利用し慣れているのだろう。この冷房対策に上着を用いるのは至極当然の顔をしている人たちを眺め、綱吉は素足に引っ掛けたスニーカーの踵を床に押し付けた。
ズボンは踝までを覆い隠す長さだが、冷えた空気が足首から内側に流れ込んで来るようで保温機能には乏しい。シャツも汗を吸えば肌が透けてしまうくらいの薄さしかなく、体温を維持し続けるだけの根性は隠し持っていなさそうだ。
ふるりと震え上がった全身に、綱吉は舌打ちする。
「寒すぎだよ、此処」
外で掻いた汗を拭いもせずに冷え切った空気の中へ飛び込んだので、水分が蒸発するのと一緒に体温も奪われてしまったのだ。さっきから寒気が止まらなくて、綱吉は参ったなともうひとつ奥歯を鳴らし、後ろから来た人に道を譲って壁際の案内図に顔を上げた。
一階で見たものよりも、書架別の分類が詳しい。現在地を示す赤い三角印を真っ先に見つけた彼は、この後どうしようか迷い視線を浮かせた。
探したいのは、社会科の授業で出された自由研究の資料。内容は、なんでもいい。自分の興味がある歴史に関する物事を調べて、新聞大の大きさの紙に整理して記入するというものだ。
選択範囲が広いので、先ず何を調べるのかで綱吉は戸惑った。歴史にまつわる事柄など、この地球が成立してからいったい何億年という時間が過ぎたと思っているのか。
だからあまりに広範なテーマからひとつに絞るところから始めねばならず、かと言って綱吉が歴史上の人物に深く傾倒しているのかといえばそうでもなく。
何から手をつけてよいものか分からなくて困惑頻りな彼だったが、昨晩見たテレビ番組の特集で、これだったら、と思うものに巡り合えた。
これならば資料も多いだろうし、調べ易いと思う。クラスの誰かと重複する可能性もあったが、他の題材を探すだけの余裕もなくて、綱吉は珍しく即決した。そして翌日である今日、資料を探しに図書館まではるばる足を伸ばしたのだけれど。
「日本史、中世……は、こっちか」
ひとりぶつぶつ呟き、凡その方向を見当付けて綱吉は居並ぶ書架を振り返った。
エレベータホール前には総合カウンターがあり、彼が目的地に定めたのは丁度その向こう側らしい。行き交う人を避けて進んでいくと、外から見上げた時には青色のフィルムが貼られているように見えた外壁は、ほぼ全部が窓だったというのが分かった。
外からの光を和らげつつ、景色は明るく前方に映し出している。防ぎきれない直射日光はブラインドで遮断する仕組みのようだが、今は太陽が照る方角が違うからか、綱吉が向かった先の窓は何処も解放されて遠くの空が綺麗に見えた。
けれどホール付近と同様、窓辺に置かれた机はどこも満席状態。ひとつくらいは、と見える範囲で探してみたが、無人と思われた椅子には先客がちゃっかり鞄を置いて自己主張しており、利用出来なかった。
「もう」
どうしようもないな、としばし寒さを忘れて肩を落とした彼は、先に資料に使えそうな本を探そう、と行き過ぎたばかりの本棚を振り返る。
天井からは並べられた本の種類を示す案内板が吊り下がっていて、視線を持ち上げることで即座に何処に何があるのかが把握できるようになっていた。冷房で時折下辺が前後に揺れるそれを頼りに、綱吉は決めておいたテーマに類する本を探して歩き出した。
正直なところ、歴史にはあまり興味がない。クラスメイトには戦国武将が大好きで、やたらと武将の名前に詳しい奴が居る。他にも三国志や水滸伝に無駄に詳しい男子もいるのだが、彼らと会話するとどうしてもそちらに方向が向いてしまって非常に疲れたのを覚えている。
彼らに触発されたわけではないが、しかし昨日見たテレビ番組はことのほか面白かった。
それは日本の城の特集で、各地に残る巨大建築物の外観から内装、通常は非公開の空間までを網羅した映像の嵐だった。
最初は興味が沸かずに聞き流す一方だった綱吉だが、聞いた事のある城が続々と登場するようになって次第に画面から目が離せなくなった。実際に自分が登ったことのある城も出て来たが、その時には全く気づかなかった構造上の特徴等も、事細かにナレーションは語ってくれた。
一緒に見ていた奈々が、昔の人の知恵ってすごいのね、という感想を漏らしていたのだが、綱吉もまったく同意見。
現代のように便利な機器が揃っていたわけではないのに、巨大な天守閣を建造し、堀をめぐらせ、挙句脱出用の地下道まで完備して。
敵を撃退する手段も様々に備わっており、ただ古い建物としてしか見ていなかった自分を恥じたくなった。何故その場所に城が建てられたのか、城が本来どのような目的で運用され、創造と破壊を繰り返してきたのかという歴史も、簡単にではあったが番組は教えてくれた。
そこに重複し、類似品だと言われてしまうかもしれないが、折角興味を持ったのだから自分なりにもっと調べてみよう。もしかしたらテレビで言っていなかった発見があるかもしれないし。
そうして勢い勇んで図書館へ来て、参考資料を探しに書籍の大海原へ漕ぎ出した綱吉ではあったが。
「…………」
数百という本を前にした瞬間。
図書館にくればなんとかなる、と考えていた彼の甘い目論見は見事に霧散した。
なにせ、多い。本の種類が、兎も角多すぎる。
単に歴史を見ただけでも、棚の一段全てが埋まって次の段にはみ出る程。其処から城に関する本だけを選出すれば数は限られてくるが、考えてみれば開架図書ばかりが蔵書ではない。
それに歴史的側面を強く打ち出した本ばかりでもない、建築学の見地から論述した本だって当然あるわけで、試しに手に取った日本の戦国時代を題材にした本は、綱吉が思っていた程城に関する記述は多くなかった。
この分野に詳しくない綱吉にとって、本の中身を判断する材料はタイトルしかない。一応司書は本の内容別に棚を整理してくれているものの、厳密に区分けしているわけではないし、ましてや本の記述をあらすじ立てて書いてくれているわけではない。
巨大な本棚を前にして、綱吉は早々に途方に暮れた。
狙いをひとつに絞ったつもりだったのに、まだ絞り足りなかったらしい。資料の選別にも知識が必要だというのも彼は知らず、ポカンと口を開け放った間抜けな顔で、暫くの間、彼は日本中世史の書架前で立ち尽くした。
こうなっては最早、タイトルに「城」という文字があるものを片っ端から手に取って広げていくほかあるまい。彼はカウンター傍に、蔵書検索の端末という便利なものがある事さえ知らなかった。
視線を上下左右に巡らせ、持ち上げた指を書架と自分の顎の間で往復させながら少しずつ場所を移動していく。端に到達してその先にもう関連書が無さそうならば、見落としているものがないかもう一度最初に戻って確かめる。その間に手にした本は二冊、三冊と増えていくが、綱吉が本当に読みたいという類にはなかなか遭遇出来ない。
手元に残る本は僅かで、けれど表紙から分厚いそれはずっしりと重く綱吉の細い腕に圧し掛かる。
炎天下を歩いてきた所為で消耗した体力、冷房の利きすぎで狂った体温、狭い書架の隙間で時間に追われるようにして本を探すストレス。様々な要因が混ざり合い、血流が悪くなった頭はぼうっとして判断力が低下する。さっきから開きっ放しの唇は普段よりも短い間隔で息を吐いており、最初の元気は何処へ消えたのか瞳の色も虚ろだった。
「……あれ」
最上段で最初は見落としていた図版に気づき、綱吉は首を傾げつつ背筋を伸ばした。腕も合わせて真っ直ぐに伸ばすけれど、身長が足りない所為で届かない。
「っと、くそ」
自分に暴言を吐き、綱吉は爪先を揃えて踵を浮かせた。尚も背伸びをして薄っぺらだが大判の図版に手を伸ばすものの、背表紙に短い爪が掠るばかり。
隙間なく本が詰め込まれている所為だろう、他の本と違い全体が角張っているその本には、両脇に指を差し込む隙間さえ用意されていなかった。
一旦足を下ろして苦しいばかりの姿勢を戻し、左右に目を向ける。背の高い位置にある本をとるための台座がどこかにあるはずなのだが、残念なことに綱吉の俯き加減な視界には映し出されなかった。代わりに、この夏場に平然と黒の上下で身を固めている男性の下半身だけが見て取れた。
この暑い中ご苦労様だと、自分とは対照的なモノトーンカラーの人物の靴から視線を前に戻した綱吉は、諦めの気持ちを振り払ってもう一度右腕を頭上高くに掲げ、フルカラーの図版に腕を伸ばした。
懸命に、指が攣る寸前まで身体を一本の竿にして引っ張る。けれどどう頑張っても指は虚しく背表紙を擦るばかりで、しかも悪いことに綱吉が触るものだから、手前にあったそれはどんどんと奥へ押し込まれていった。
周囲の本も巻き込んで、図版は綱吉の思惑とは裏腹に遠くへ離れていく。
「くっ……」
もう限界だというところまで踏ん張ってみても、結果は同じ。これでは何をしに図書館に来たのかも分からなくて、綱吉は奥歯を噛み締めた。
あと十センチ、いや、五センチでも身長が高ければ。
高い場所に手が届かないだけなのに、こんなにも悔しいだなんて。
「とどけっ」
熱っぽい息を吐き出しながら祈りを込めるけれど、最後の力を振り絞った指は虚しく空を掻いた。
目の前に絶望という名の闇が落ちてきて、綱吉は呆然と、反り返っていた背中を後ろへと流した。トン、と背負ったままのデイバッグが何かにぶつかる。
反対側の書架には距離があるはずで、後ろに居た人にぶつかってしまったのだろうと綱吉は漠然とする意識の中で理解した。謝らなければいけない、怒らせる前に。謝罪も出来ない無礼者と思われるのは癪で、だから綱吉は一瞬飛びそうになった意識を懸命に押し留めながら振り返るべく、右肩を引いた。
だがその肩さえも、更に彼との空間を狭めてきたものによって阻まれる。
「え――」
下から上へ流した視線の先、黒衣の死神が鎌を振っているようにも見て取れたその先に、綱吉が良く知る顔があった。
すらりと伸びた腕が、綱吉の頭上遥かを飛び越えていく。
しなやかなバネを持つ指が、つい今しがた迄綱吉が苦戦させられていた図版を掴む。上辺に置かれた人差し指がゆっくりと手前に引かれ、引きずられる形で細長い背表紙は斜めに傾いた。完全に倒れるより早く、背表紙を離れた手が横抱きに本を握り直す。
綱吉が唖然と見送る前に、多くの城の写真が入り乱れた図版が降りてきた。
「……」
ぎこちない動き、まるで油の切れたブリキ人形のように首を再度後ろへ巡らせた綱吉が、手は胸の前で図版を受け取りつつ、丸く見開いた目で背後に佇む人物を見据える。驚きに染まった唇は音もなく開閉を繰り返し、非常にゆっくりとした瞬きの末、彼は現実がやっと理解出来たようだった。
「ヒバっ……――」
反射的に、思わず。無意識に。
相手の名前を大声で叫びそうになった綱吉は、即座に後ろから伸びてきた手で口を覆われて声を奪われた。開いた唇の隙間に潜り込んだ中指にはつい歯を立てて噛み付いてしまい、背中に感じる気配が揺れたのを受けて慌てて歯茎から力を抜いた。
離れ行く指を舐めたのは、わざとではない。
「痛いな」
「ふびばせ……」
中指は引かれても、まだ口は覆われたままだ。必然的に動かせる範囲も狭まって、発音も濁ってしまう。淡々とし過ぎていまいち表裏も読めない雲雀の呟きに、綱吉は首を窄めつつ形ばかりの謝罪を口にした。
そもそも、この体勢は危うく。知らぬ人が見れば、綱吉が脅迫でもされているような格好だ。
離してくれ、と身動ぎする。渡された図版は落とさぬように胸に抱きかかえ、今度は咬まぬように唇を閉じて首を振った。すると意図を察したらしい雲雀は思った以上に呆気なく綱吉を解放して、更に半歩下がっていった。
背中ごと支えられていたのだと今更気づくが遅く、綱吉はふらふらと頼りない足取りで身体をふらつかせ、結局彼が伸ばした左手に肩を抱かれて安定を得た。すみません、と力のない声で礼を言うと、やや不機嫌の色に染まった声が落ちてくる。
「図書館では騒がないと、教わらなかった?」
小学校時代だったろうか、そんな事を言われた気がする。
「教わりました」
まだ目が回っているので、軽い立ち眩み状態なのだろう。額に指を押し当てて深呼吸していると、からからに渇いた髪の毛を撫でて雲雀の手は離れていった。
人肌が恋しいわけではないのに、遠ざかった体温が名残惜しくて綱吉は彼の背中を目で追いかける。
彼は綱吉が立っていた場所から少し行った先にある書架で一旦足を止め、素早く視線を動かして目的のものを探して引き抜くと、そのまますたすたとまた歩き去っていった。この間彼は綱吉を振り返らず、最初から其処に居なかったもののようにして扱われてしまう。
「あ……っ」
綱吉はこんな小声でさえ周囲の空気に遠慮してしまい、待ってと続けて言えずに地団太を踏んだ。
雲雀が何故このタイミングで此処に居るのかは、ひとまず考えずに居よう。届かなかった本を取ってくれた礼も、考えればまだ言っていない。それに夏休み休暇中は学校に出向くこともないので、彼と顔を合わせるのは随分と久しぶりだった。
こんな一瞬の邂逅で終わらせるのは惜しくて、綱吉は意を決すると瞳に力を込めて彼を追いかけ書架の間を抜けた。既に背中は見失って久しかったが、広い空間に黒髪と黒衣は否応なしに目立つ。周囲から浮き上がったような彼の存在感に、綱吉は唇を舐めてから急ぎ足で追いかけた。
「ヒバリさん、待って。ヒバリさん」
小声で呼びかけても、返事どころか反応さえ無い。聞こえていないのかもしれないが、これ以上大きな声を出すのは憚られる。現にさっき注意を受けたばかりで、唇を噛み締めると雲雀の中指の感触まで思い出してしまい、綱吉は赤い顔をして首を振った。
歩いている雲雀と小走りの綱吉では進む速度が違う。だのになかなか距離は縮まらなくて、勢い焦って横から出て来た人にぶつかるところだった。
一瞬ざわめきが周囲を駆け抜け、ちらりと雲雀もが振り返ったような気がして綱吉は消え入りたくなる。大急ぎで相手に頭を下げ、落としていた本を拾って抱えた綱吉だったが、顔を上げた先にもうあの黒い姿は何処にもなくて、狐に抓まれた気分で綱吉はその場に惚けてしまった。
人の頭ばかりが見える、壁際の机。いくつもが等間隔で配置され、そのどの椅子も人で埋まっている。中には居眠りに勤しんでいる人もいたが、大多数が黙々と手元に視線を向けて他人に無関心だ。
「あ……」
バクバクと心臓を騒がせながら開きっ放しの口を閉じることさえ出来ずに居る綱吉に、誰も注意を払わない。
雲雀は何処に行ったのか。雲隠れしてしまった姿を求め、彼は歩くよりもずっと鈍い足取りで雲雀が進んだと思われる方向を目指した。
そして程なくして、他の机と明らかに違う机を発見する。
それは四人で使うのに充分な広さを持っていた。けれどひとつの椅子を除き、他三つは無人。誰かが座ろうとキープしているのかと思ったが、近づいてみれば目印になるものも何一つ置かれていなかった。
何故此処だけが空いているのだろう。不思議な気持ちに襲われた綱吉だったが、そのひとつに手を置いて顔を上げた瞬間、即座に何もかもが理解出来た。
じろりと綱吉を睨んだ、唯一埋まっていた席に座る人物。見失ったと思った背中は、いつの間にか綱吉に正面を向ける格好で椅子に腰掛けていたのだ。
彼が立っているときの頭の高さばかり探していたから、気づかなかっただけ。間抜けにも程がある。
雲雀が放つ殺気に気圧されているのか、図書館にいる人は皆揃いも揃って彼に遠慮しているようだ。
綱吉は雲雀の対角線上にある椅子に手を置いたまま、沈黙を保っている彼と、彼を遠巻きにして通り過ぎていく人々を交互に見詰めた。
此処、空いている。そう言って綱吉の向かい、雲雀の左隣の椅子を引こうとした女子大生らしき人物も、隣に座っている黒服が雲雀だと認めた瞬間、顔を引き攣らせてそそくさと逃げるように去っていった。
どこまで最凶なのだろうか、この男は。
学内のみならず、公共施設の利用者にまで顔が知られているとは。益々彼の正体がつかめなくて、綱吉は愕然としつついい加減疲れて来た本を持つ右腕に力を入れなおした。
衣擦れが聞こえたのだろう、雲雀が顔をあげた。
切れ長の瞳、薄い唇。艶のある黒髪は前が少し長めで、今は左目に被さるようにして綱吉の位置から瞳を隠していた。
全身真っ黒かと思いきや、長袖のジャケットの下は濃い目の灰色だった。
鉛色と呼ぶには薄く、ねずみ色と言うには濃い。どちらにせよ目立ちすぎない大人しめの色合いは、同じく無地の黒いジャケットと相俟って彼を実年齢よりずっと年上の風貌に仕上げていた。
ぺら、と紙を捲る音が微かに綱吉の耳朶を打つ。
じっと彼を見詰めていた現実に気づき、綱吉はいつの間にかまた視線を伏していた彼に対し顔を赤くした。
「あ、の……」
座っていいだろうか、この席に。
空席は見渡す限り、見付からない。誰かが立ち去るのを気長に待つか、貸し出し手続きをして家に持って帰るかの二者択一。但し借りた場合は返しにこなければならず、二度手間になるのは免れない。
ガタンと椅子を揺らして綱吉もまた、顔を伏す。雲雀の感情はいつも通り読めなくて、どんな気まぐれを起こして彼があそこで綱吉の後ろに立ったのかも解らない。毎度振り回されてばかりで、けれど彼に構われることが少なからず嬉しいと感じているから余計に厄介だった。
文句を言われたら、逃げよう。
悪い事をしようというのではないのだ、何を気後れする必要があるのだろう。
綱吉はぐっと腹の底に力を込め、一大決心の末掴んだままだった椅子の背凭れを後ろに引いた。途端、彼を取り囲んでいた空気がばっとざわめく。なんだ、と思って振り返れば、勇気があるなという感心と、可愛そうにという憐憫に似た瞳が無数に綱吉を射抜いていた。
正直言って、気分が悪い。
彼らは雲雀を、なんだと思っているのか。動物園の猛獣か、そして自分は猛獣の檻に放り込まれた哀れな兎か何かだというのか。
憤然とした思いを抱え、綱吉はやや乱暴に椅子へ腰を落とした。ただ、背凭れにデイバッグの底辺が引っかかり、ずぼっという音と一緒に鞄と中身が綱吉の後頭部を打ったのはご愛嬌としか言いようがない。
自分の馬鹿さ加減を衆目に晒し、恥かしさに耳まで真っ赤になりながら綱吉は鞄を下ろして膝に抱える。持ってきた本は積み重ねて、机の上に塔を建てた。
雲雀はその間矢張り無言を貫き、綱吉にも無関心を装う。綱吉の頭を撫でた指が今は本の表紙を擽っていて、ちぇ、と一向に重ならない視線に綱吉は唇を尖らせた。
鞄から筆記用具とメモ用にノートを取り出して広げ、本の塔の前に並べていく。ガサガサと物音を立てながら準備を進める綱吉を、雲雀はちらりと盗み見たけれど、それに綱吉は気付かなかった。
ひとまず何も起こらない。周囲で事の成り行きを見守っていた人々も、懸念していた騒動に発展しなかったのに安堵した様子でそれぞれ自分の作業へと戻っていった。綱吉もまた、雲雀が放つ独特の、人を寄せ付けない空気を簡単に打ち破って、機嫌よく資料の数々を広いスペースに崩していった。
無言の威圧感を無意識に放つ雲雀ではあるが、この空気は学校でも散々体験している。今更臆する必要が何処にあろうかと、綱吉は愛用のシャープペンシルを数回ノックして芯を出し、ノートに転がして、試しに一冊の本を手に取ってそこに重ねた。
表紙を捲る。目次で確認した通り、その記述の殆どが戦国武将の治世にまつわる内容に終始していた。その中に、築城にまつわる話が何回か出てきている。
だが、当然といえば当然なのだが、城に関する基礎知識が無い綱吉にしてみれば、説明を読んだところで構造上の名称を羅列されてもちんぷんかぷんだ。
どれが建物を縦に支え、横を支えるのか、屋根の装飾ひとつにしても名称は数限りなく、ましてやそれが城全体に渡るとすれば用語だけでも甚大な数になる。それに加え、綱吉が手に取った本は彼が期待していた城の知識には殆ど触れていなかった。
「う……」
興味を持っていたはずのものが、一気に冷めていく。同じ説明を何度読み返してみても、頭の中で咀嚼し吟味しても、根本的に知識量が追いついていない綱吉はその一割さえも理解出来なかった。
図版の写真は綺麗だけれど、眺めているだけで充分で、これを細かく分類していこうという気にはなれない。そもそも、そういう作業は綱吉がやらずとも、本を構成した編集者が既にやってくれている。
苦虫を噛み潰した顔を作り、綱吉は眉間に深く皺を寄せる。他の本を開いてみても結果は大体似たり寄ったりで、城というテーマが想像以上に奥深いものだというのを改めて痛感させられただけに終わった。
それでも、今からテーマを変えるのは難しい。
そもそもテーマ選びから苦戦させられたのだ、これ以外に自分の興味の範疇で調べるのに材料が多いものはなかなか思いつかない。
何故自由研究なんてものがあるのだろう。自由でいいなら勉強しないのも自由でいいではないか、と頭の中で屁理屈を捏ねた綱吉は、若干苛々した気持ちのままページを捲り続けた。
流し読みなどという上等なものではないが、軽く目を通して使えそうな箇所を探し出していく。たまに関係ないと思われる話が続くときは、目次に戻って項目を探し、そのページから始めるという状態。最初から最後まで読破しようという意思は、端から彼にはなかった。
順調に、とまではいかなかったが、くどいくらいに文章を読み解いていくにつれ、少しずつノートは文字で埋まっていく。けれど何れもが説明はあやふやであり、綱吉が本当に理解できているかどうかは甚だ怪しかった。
それに。
時々綱吉は、ふっと思い出したように紙面から顔を上げる。視線が向かう先はどうしても斜向かいの席で、けれど相手は綱吉の視線を一切受け付けずに跳ね返し、取り付く島も与えない。
天井から流れ来る冷房は相変わらずで、彼の跳ね上がった髪の毛を当て所なく揺らしていた。
雑音は少なく、集中出来る環境は余す事無く提供されているというのに、綱吉はいまいち落ち着かない空気に肩を震わせた。
ページを捲る指が悴み、巧く動かせずに紙を送るのに失敗する。思わず突いて出た声に雲雀が視線をゆるりと持ち上げ、むき出しの上腕を撫でさする彼の姿を視界に収めた。
「……」
寒いのだろう、というのは直ぐに想像がついた。彼らがこの座席についてから、かれこれ一時間は経過している。その間に交わされた言葉はなく、雲雀も時折綱吉の存在を忘れ去っていたくらいだ。
しかし一度気にし始めると、どうしてもそちらに気が向いてしまって集中力は削がれる。
綱吉は反対の腕も擦って指に息を吹きかけ、まるで冬場の屋外に佇んでいるように背中を丸めて首を窄めていた。
図書館は公共施設であり、たったひとりの要望で冷房の設定温度を変えるのは難しい。この気温を寒いと感じる人もいれば、まだ暑いと思う人だっている。受け取る感覚は十人十色、千差万別。
雲雀は悟られぬようにそっと溜息を零し、視線を手元へと落とした。
黒のジャケットが手首までを覆い、彼の白い肌を際立たせている。優雅に組んだ脚の上に置いた本は、この地方の歴史や文化を集めたものだった。
「城、ね……」
だが彼が呟いた言葉は、今彼が広げている本とは全く関係のない単語だった。
綱吉が何を調べて悪戦苦闘しているのかも、彼が掻き集めていた書籍から簡単に類推出来た。恐らく自由研究か何かだろうとまで正解を導きだし、頬杖をついた彼は再び綱吉へと視線を投げる。
一瞬目が合ったかと思ったが、相手は即座に俯いてしまった。
いつもならこの後また自分の読書に専念するところだが、姿勢を崩した雲雀はそのまま綱吉の横顔を眺め続けた。ひとりで百面相している様はなかなか面白く、見ていて飽きない。感情豊かな彼は、よくも悪くも雲雀とは対照的だ。
「う……」
そうしているうちに、綱吉も雲雀の視線に気づいたようで、気まずげな顔をして上目遣いに様子を窺ってくる。試しに口元を緩めて微笑みに見えなくもない表情を返してやると、彼の頬は途端に赤く染まって今まで以上に首を窄めて下を向いてしまった。
頭から湯気が立っているように見えるのは、気のせいか。
雲雀が綱吉の集中力を乱したからか、それとも既に行き詰っていたからか。綱吉の赤いシャープペンシルは長いこと横たわったまま、ノートの空白は全く埋まらなくなった。ページを進める指の動きも鈍くなり、動きは重い。
綱吉はそわそわと身体を椅子の上で揺らしながら、相変わらず時々雲雀を見ては直ぐに視線を逸らし、本を前に唸って頭を抱え込む。
指針を示されぬままに、導き手もなく、知識という名の荒野に放り出された状態が、今の彼だろう。膨大な資料と、一見無関係に見えて実際は限りなく関係が深い事項との、縦と横の繋がりもなにも解らないまま、ただ直感に任せて突き進んでは壁にぶち当たる。城の何の何処に狙いを絞るのか、それさえも出来ていないようでは結局、一夜漬けに近い付け焼刃の知識にしかなり得ない。
「あー、もう」
座上で悪態をつき、綱吉はシャープペンシルを転がして乱暴に前髪を掻き毟った。
苛立ちがはっきりと見て取れる態度に、雲雀は広げていた分厚い本を閉じ、表紙を上にして机に置いた。そしてゆっくりと座っていた椅子を後ろへと引き、距離を作って腰を浮かせる。
物音は大きく響かず、自分の事で手一杯の綱吉は気づかない。
「ねえ」
立ち上がるついでに告げるが、綱吉は反応しなかった。懸命に書面に目を走らせている姿を斜め上から見下ろした雲雀は、左手を机に添えて綱吉の正面に当たる空席を引いた。
がたん、と椅子の後ろ足が床を擦って音を立てる。
「え!?」
素っ頓狂な声を出し、椅子の上で小さく跳ねた綱吉がやっと顔を上げる。彼は先に左斜めに顔を向けて、雲雀の苦笑を誘った。
雲雀が椅子に腰を下ろすのとほぼ同時に、綱吉は正面に向き直って彼の姿を視界に認めた。丸い大きな瞳を困惑の色に染め、瞬きを繰り返しながら何か言いたげに唇を動かすものの、音は発せられず最後には真一文字に閉ざされた。
雲雀が机に肘を置いて綱吉の側へ腕を伸ばす。綱吉が見守る中、彼は広げられていた大判の図版を掴んで自分の側へ引き寄せた。
机に下辺を押し当て、縦に構える。綱吉が見ていたのは、世界遺産にも指定されている美麗として名の知れた関西地方の城だった。
そして綱吉が手元に置いているのは、安土桃山時代以前の歴史を記した本。
この時点で大きなずれが生じていることに、雲雀は深いため息を零した。
「な、なんですか」
「姫路城は、確かに歴史としては古いけれど」
「はい?」
「現代に残っているのは、江戸時代に入ってから増改築が成された部分が大半。君が今広げている本の時代では、この城が嘗てあった場所には、城は確かに存在していただろうけれど、それは凡そ今の外観を想像できないくらいに貧相な建物だったといわれている」
十四世紀、最初この地に建立された城は、むしろ砦と呼ぶべきものでしかなかったと言われる。現在の基準で言う城というものが建ったのはそれからずっと時代が進み、十六世紀に入ってから。
そもそも城と言うものは、元来、合戦が起こった際に陣を構える拠点として存在し、戦時中のみに利用された。建てられた場所も、人々の生活基盤からは遠く離れた山の上である場合が多かった。
城は定住する場所ではなく、あくまでも非常時に対応する為に作られたもの。城が武士、藩主の生活基盤となったのは随分と後のことだ。
現在に残る城の構造が確立するのには、織田信長の時代まで待たねばならない。
つまりは、彼の男が天下を統一し、それまで群雄割拠の時代が終焉を迎え始めて漸く、城は戦争の場から人が暮らす場へと姿と役目を変えたのだ。以後江戸時代に入ってからは特にその傾向は顕著となり、各地に残る絢爛豪華な城が建設されてゆく。
それは江戸を中心とする中央集権国家を打ち立てた徳川に対し、地方の藩主が財力を蓄える事無く、また幕府に対しても反抗の意図なしと示す役目の一端を担ったと考えられる。
「大体、城とひとくちに言っても時代、土地、建造主や利用目的によって大きく変わってくるのに。君は大雑把過ぎる」
「はあ……」
ひやりとした空気が綱吉の首筋を撫でていき、彼は身震いした。視線を宙に浮かせた綱吉の生返事に、雲雀は片方の眉をピクリと動かし口元を歪める。何処か虚ろな綱吉の表情に不機嫌さを漂わせ、図版をひっくり返して綱吉の前に返した。
だがその間も、綱吉は天井付近に視線を泳がせて雲雀に注意を払わない。
もっともそれは今に始まったことではなく、雲雀が長々と口上を述べている間も、彼は落ち着きなく身体を揺らしていた。
「ねえ」
机に立てていた肘の位置を奥に動かし、綱吉に詰め寄った雲雀が剣呑な色を瞳に宿して声を強くした。
「……え?」
「聞いてる?」
人が折角、丁寧に説明してあげてるのに。
瞬きの後に雲雀に向き直った綱吉が、一瞬きょとんとした後、不愉快だと言わんばかりの態度を取る雲雀に大慌てで首を振った。膝の上にあった手も前に突き出して、ぶんぶんと音がしそうなくらいに一緒に振り回す。
「き、ききき聞いてました、ってか聞いてます聞いてます。詳しいですねさすがヒバリさ……ンっしゅ!」
呂律が回りきらない舌で懸命に場を取り繕うと試みた綱吉では合ったが、喋っている間に鼻の奥からむず痒いものが降りてきて、最後我慢できなかったそれはくしゃみとなって吐き出された。
腕の先から肩に向かい、寒気が走り抜ける。
全身に鳥肌が立ち、身震いの後綱吉は引き戻した手で自分の身体を抱き締めた。椅子の上で太股さえも擦り合わせて熱を呼ぶが、長時間座りっ放しだった肉体はそう巧く反応してくれなかった。
「……?」
「ごめ、ごめんなっさぶしぇ!」
ごめんなさい、とくしゃみが入り混じって日本語の発音にない音を発した綱吉が、それでも懸命に鼻の下を擦ってくしゃみを我慢しようと唾を飲む。
呆気に取られた雲雀だったが、すぐさま我に返って彼はまた盛大に溜息をついて肩を落とした。やれやれ、という様子で額に指を置いて首を振り、視界に映った自分の黒いジャケットにまた小さくと息を零す。
鼻を啜る音が場に響き、綱吉は恥かしげに俯いた。
実はさっきから寒気が止まらなくて、雲雀の説明も半分程度しか頭に残っていなかった。真面目に聞いていても全部が理解出来たとは思わないものの、折角彼が珍しくも積極的に、沢山喋ってくれたというのに。
怒られるだろうな、と漠然と思いながらも、寒気は治まるどころか酷くなるばかり。立ち上がって身体を動かすなり、見切りをつけて図書館を後にするなりすればいいのだろうが、雲雀とこうやって、他にも人は大勢いるものの、一緒に居られるのが嬉しくてつい我慢してしまった。
風邪を引いただろうか、鼻の下を指で擦り、綱吉はまた上を見詰めて考える。
夏休みなのに、熱を出して寝込むのは嫌だ。リボーンには馬鹿にされるだろうし、獄寺たちと遊びに行く約束だってまだ残っている。それまでに体調が戻れば良いんだけれど。
遠い彼方へと意識を飛ばし、持ち上げていた腕を下ろそうとしたその時。
ばさっ、と彼の顔面に何かが降って来た。
いや、降るという表現は若干正しくない。むしろ顔面に直撃する勢いで風が起こり、綱吉は首から上を後ろと仰け反らせた。肩甲骨が背凭れに食い込み、小さな痛みを綱吉に送り届ける。
彼の顔を覆い隠したものは、支えるものもなく簡単に彼の前に落ちた。一部が机からはみ出し、宙ぶらりんにぶら下がって揺れている。
色は、黒。
「なっ……何するんですか!」
前に突き出た腕を振り回し、ついでに左手で今自分を襲った物体を握り締めた綱吉が、目の前で投球を終えたポーズで停止している雲雀に向かって怒鳴った。
周囲がざわめき、綱吉の大声に皆が一斉に顔を上げた。だが数十を数える視線を集めても、綱吉はまるで構う事無く雲雀だけを睨んでいる。
彼はゆっくりと姿勢を戻すと、灰色の半袖姿で綱吉を指差した。
正確には、綱吉の左手が掴んでいるジャケットを。
咄嗟に怒りが先に立って怒声をあげた綱吉だったが、あまりにも雲雀の反応が対極過ぎて、逆に冷静さも戻ってくるのは早かった。指で促された先に視線を落とし、それがまだ雲雀の体温を残す彼の上着だというのに気づき、目を瞬かせる。
浮き上がらせていた腰を落とし、両手に広げて確認するが、間違いない。これをどうしろと、と視線で問いかけても彼は無反応で、扱いに困った綱吉は表と裏をひっくり返すなどの意味の無い行動をする。
はあ、というわざとらしいため息が聞こえた直後、綱吉はまたくしゃみをした。
「着なよ」
寒いんだろう、と準備不足の綱吉を言外に咎めながら、雲雀があきれ返った声で言う。
身体を丸めて雲雀のジャケットを胸に抱きこんでいた綱吉は、聞こえてきた台詞に呆気に取られ、大仰に驚いた顔で雲雀を見詰め返してしまった。
「え、でも」
「いいから」
それでは雲雀が寒いではないか、と半袖のシャツ一枚となっている目の前の存在に口澱んだ綱吉だったが、語調を強めた雲雀に押し通されて俯いた先の上着に目を細めた。
恐る恐る広げ、襟刳りを持って左腕から袖を通していく。
布地は少し厚みのあるコットンで、化繊は使われていないのか肌触りは非常に滑らかだった。通気性と保温性を併せ持った布は、まだ微かに温かい。右腕も袖を通して真っ直ぐに伸ばせば、サイズが大きい所為で掌の半分近くが布の中だ。
指先しか見えず、なんだか幼い頃に父親のスーツを悪戯で着た時の事を思い出して可笑しかった。
襟を立てて首筋も覆い隠し、前身ごろを重ねて冷気を遮る。
暖かい。
「ヒバリさんは、平気……ですか?」
黒から灰色になった彼の上半身を見詰め、綱吉は首を傾げながら問うた。彼は左目を隠す前髪を後ろへと梳き流し、当然だと言わんばかりに偉そうな顔をして頷き返す。
鍛え方が違う、とでも言いたいのだろう。実際その通りだから別段悔しさも起こらず、綱吉は仄かに赤く染まった頬を傾けると肌を擽った鋭角の襟に唇を寄せた。
鼻を近づければ、微かに彼の匂いが感じられる。本人は目の前にいるのに、後ろから抱き締められているような錯覚に陥って、綱吉は嫣然とした様子で目を閉じた。
ぶかぶかの袖口を揺らし、甘える仕草で布地に頬をすり寄せる。普段あまり優しくしてもらえないから、余計にこんなささやかな彼の気配りが嬉しくてならなかった。
薄く持ち上げた瞼の裏で、黒に彩られた狭い視界に微笑みかける。愉悦に浸った頬はほんのりと薔薇色であり、さっきまで血色悪かった唇も青紫から鮮やかさを取り戻しつつあった。
うっとりと細められた瞳には艶が宿り、クスクスと幼少時の記憶と今の自分を重ね合わせて綱吉が笑う様は、知らぬ者が見てもドキリとさせられる色香があった。
唐突に。
「うわっ」
ガタッ、と激しい音がひとつ響いたかと思うと、綱吉が顔を上げるより早く、彼の右腕は何かに囚われて強引に斜め上に引っ張られた。
膝は机の下にあり、椅子にも深く腰掛けた状態であったため、他所から加えられた力に反応仕切れなかった太股が机の脚に痛打した。椅子がガタガタと騒がしく浮き沈みを繰り返し、引っ張られる肩や掴まれている手首、それにぶつけられて次第に膝に向かう痛みに顔を顰めた綱吉は、抵抗しようにも巧く頭が回らなくて、涙目になりながら自分を無碍に扱う、さっきまであんなに優しかった存在を睨みつけた。
雲雀が舌打ちするのが聞こえ、綱吉はまだ自由が利く左手で机を押す。反動で彼を乗せた椅子が後ろへと下がり、綱吉は転げるようにして椅子から立ち上がった。
体のバランスは悪く、前につんのめってしまう。
だが雲雀は支えてくれず、代わりに掴まれたままの腕を更に引っ張られる。
「いたっ、痛い、痛いですヒバリさん!」
「五月蝿い」
自分は何か、彼の気に障ることをしたのだろうか。
わけが解らないまま綱吉は彼に引きずられ、机から離れていく。見送る人々はついに哀れな生贄が犠牲になったと、同情めいた視線を彼の背中に揃って送った。
急にこんな乱暴な手段に出るなんて、どうしたのだろう。上着を貸してくれたところまでは確かに優しかったのに、と綱吉は潤んでいるお陰で霞む視界で、灰色の雲雀の背中を見上げた。彼は振り返りもせず、手首の拘束も緩めず、むしろ綱吉が抵抗するほど力を加えて強く握り締めてきて、骨が軋む感覚に綱吉は懸命に悲鳴を殺さねばならなかった。
息が上がり、心臓が破裂しそうな勢いで速度を増す。奥歯を噛み締めて嗚咽を堪え、綱吉は段々人気が少なくなっていく周囲に恐怖心を抱いた。
先ほど雲雀が放った「五月蝿い」の声は酷く冷たくて、ぞっとさせられた。怒っていると分かる気配に、しかし原因がさっぱりで綱吉は困惑が止まらない。
靴の裏に感じる感覚が、それまでの床から硬いタイルに切り替わる。足音が響き、決して柔らかくない感触に綱吉は外よりも絞られた照明も相俟って緊張に肩を強張らせた。
雲雀はまだ、手を離してくれない。
「ヒバリさん、ヒバリさん!」
完全に周囲からは人の流れが途絶え、行き止まりの壁に当たって綱吉の声は砕け散る。出入り口はひとつきりで、空調で整えられた空気に外気が混じらないよう、磨りガラスの窓は明るさだけが通り抜ける完全な嵌めこみ形式だった。
換気扇が回っている音だけが、低く重く綱吉の周囲に立ち込めている。後は自分と雲雀の呼吸する音、そして綱吉の叫び声だけだ。
トイレは清潔さが保たれているものの、利用頻度は低いのか人の気配は微塵とも感じられなかった。乱暴に雲雀によって開き、閉ざされた扉が彼の手荒さを糾弾する音を響かせた後は完全に沈黙して、綱吉は背中から補助用の手摺りを周囲に配置した洗面台に叩きつけられた。
「いっ……!」
銀色のフレームに背骨が直撃して、息を詰まらせた綱吉が喉に引っかかった悲鳴をあげる。右手の拘束は外れたがそちらに気を回す余裕もなくて、全身を駆け抜けた電撃に筋肉は弛緩して咄嗟に彼は動けなかった。
痛みを堪えて目を閉じ、自分をこんな風に無体に扱う人物さえも視界から隔離する。どうしてこんな目に遭わなければいけないのかと、世の中全てを呪いたくなった綱吉に影が落ちた。
「んゥ……っ!」
吐き出そうとしていた息が行き場を失い、開いた唇の隙間から咥内へと戻される。飲み込めなくて舌で押し返そうとした綱吉は、もっと違う柔らかなものに舌先で触れてしまい、混乱に拍車がかかった。
口を塞がれていると気づくのに随分と時間がかかって、反射的に見開いた視界で黒曜を更に磨いた瞳を至近距離に見つけてしまう。
じっと人の顔を観察するが如く見詰める輝きには、獲物を狙う野生動物のような捕食者の光があった。
食われる、と綱吉が首を窄めると同時に唇をも閉ざそうと動く。だが寸前で差し入れられた彼の舌に阻まれて、それどころか強引に広げられて奥に隠していた舌を引きずり出されてしまった。
「う……っ、ふっ、んぁ……」
表面をなぞられて、絡め取られる。擽るように動き回る舌の動きは実に身に馴染んだもので、好き勝手に弄っているように思われて実に的確に、綱吉が弱いところばかりを狙って攻めてくる。
息継ぎが苦しくなり、薄目を開けて彼の舌を押し返せば、まだ彼は目を開けたままでじっと綱吉の顔を見詰めていた。
雲雀の両腕は綱吉を間に挟む形で、洗面台の補助台に添えられている。綱吉はそこに腰を置く格好で、あと少し上にずれれば洗面台の縁も利用して座れそうなくらいだった。
前後左右を塞がれ、逃げ道は残されていない。とはいえ、最早逃げ出す気も残っていない綱吉はぼうっと頭に血が上った顔で端整な雲雀の顔を眺めた。
その彼が首を下向け、綱吉の肩口に額を埋める。
「んっ」
立てられていた黒の襟を前髪で掻き分けた雲雀が、現れた綱吉の柔肌に軽く歯を立てる。チクリと犬歯が刺さる痛みに鼻から息を漏らした綱吉は、空を掴んでいた手を広げて無意識に雲雀へ腕を伸ばした。
咬まれた場所は直ぐに柔らかな舌に覆われ、綱吉に生温い感触を残して雲雀は離れて行った。
暖かく感じたのは一瞬だけで、直ぐに冷房で与えられた以上の熱を奪い去られる。背筋に走った悪寒に震えれば、綱吉の左頬に自分の左頬を押し当てた雲雀が顔をあげた。
「ヒバリさん……?」
間近で視線がぶつかって、鋭い眼光に臆しながら綱吉は彼を呼ぶ。
僅かに色を含んだ黒水晶はいつ見ても鮮やかな艶を内包しており、この世にふたつとない宝玉は薄い笑みを浮かべてゆっくりと眇められた。
「五月蝿いよ」
黙れ、と命じて雲雀は首を右に傾ける。
鼻先に感じた他者の熱に、綱吉もまた腕を持ち上げて目を閉じた。
雲雀の首に絡め、引き寄せる。
迫り来る気配は笑っていて、そして闇は落ちた。
水の流れる音がする。
洗面台の蛇口を最大まで捻っていた雲雀が、その水流に浸していた手を引いて上下に振り、水滴を飛ばす様を綱吉は壁に凭れながらぼんやりと眺めていた。
皺の寄った黒のジャケットの襟を持ち、鼻筋に押し当ててまだ残る匂いに息を止める。壁とは言っても後ろは長方形の鏡が設置されており、彼の後ろ姿ごと視界に入れた雲雀は、まだ濡れている手で蛇口を閉めて左手を綱吉に差し向けた。
「?」
だが意図を捉えきれず、首を傾げた綱吉に、彼はポケット、とだけ告げて雫を滴らせた手を陶器製の洗面台に戻した。
自分が着ているのが彼のジャケットだというのを思い出し、綱吉は慌てて左右のポケットに手を突っ込む。背筋を伸ばして視線は何故か上を向いて、直立体勢を作った指先に触れた布を引っこ抜けば、それは薄い緑と濃紺のチェック柄をしたハンカチだった。
綺麗にアイロンが当てられているが、ジャケットの中に押し込まれていた所為もあって皺が酷い。その二つ程度を指で伸ばしてやりながら、綱吉は一メートルほど先に立っている雲雀に差し出した。
受け取った彼が、折り目をひとつ広げて両手の平に挟む。手の甲も同じようにして水分を押しつけ、最後は中央に走る折り目を裏返して濡れた面を内側にした。
綱吉はそんな彼の微細な動きを逐一目で追いながら、背中を預けている壁にもうひとつ体重を預けた。
「だいたい、いったい、なんだって」
「なに」
「いきなり」
憤然とした様子で唇を尖らせた綱吉に、涼やかな視線を投げた雲雀が問う。主語も述語も欠けている彼の物言いに、しかし雲雀は間を置かず、「ああ」と納得した様子で頷いた。
「誘っただろう」
「俺が?」
さらりと聞き捨てならない台詞を吐かれ、素っ頓狂な声で返した綱吉は同時に自分に向かって指を立てる。
だが雲雀は平然とした様子を崩さず、逆にそんな事も分からないのかという顔をしていた。
「うそ」
「嘘を言っても仕方がないだろう」
「そりゃ、そうでしょうけど」
雲雀は嘘をつかない、本当の事もなかなか言わないけれど。
自分を誤魔化すのが無意味だと知っている彼は、だからこそ自分に対しても他人に対しても、誰に対しても同じ態度を貫く。気に入らなければ遠慮無く殴るし、暴力も振るうが、相手の事を一度でも認めたならば案外後は素直だったりする。
分かりやすくて、非常に難解な性格の持ち主。
それにしても、と綱吉はまたジャケットの襟に鼻腔を近づけて考え込んだ。
いったいいつ、自分は雲雀を誘っただろう。むしろ振り回されているのはこちらなのに、と襟の継ぎ目を指で擦りながら右足を前に突き出してゆらゆらと揺らす。
いつの間にか洗面台を離れた雲雀が綱吉の斜め前まで近づいていて、顔を上げると頬にキスが落ちてきた。ちゅ、と甘い音が耳に触れ、くすぐったさに表情を緩めると今度は喉を擽られた。
「ほら、また」
きゃっきゃと子供のように甲高い声を立てて笑っていただけなのに、上向くよう促した雲雀はそんな事を言う。見つめた先の瞳は澄んでいて、それでいて若干不機嫌そうにしており、綱吉は分からないと首を捻ると、まだ自分の喉仏に添えられたままの彼の手首に自分の手を重ねた。
「えっと……?」
自覚しているわけではない様子の綱吉に、雲雀は吐息を零して彼の額を小突いた。突かれた方は後ろに流れた頭を支えつつ、何をするのかと目の前の存在を睨み返す。
迫力のない瞳はほんの少し充血していて、立っていたジャケットの襟を寝かせようとしたところで赤く鬱血した箇所を綱吉の首に見つけた雲雀は、その時点で手を止めた。
倒したばかりの襟を、何も言わずに直していく。
「ヒバリさん?」
「他の奴らの前で、あんな顔して」
「……あんなって?」
自分の顔は、当然だが鏡でもなければ自分では見えない。抽象的な表現をされてもさっぱり理解出来ず、疑問符を浮かべた綱吉に雲雀は脱力感を抱かずにいられなかった。
雲雀に手首を再び拘束された綱吉は、蘇った痛みに眠っていた記憶を呼び覚ます。ついさっきもこんな事があったな、と振り返った先で、彼はやっと、思い当たるものに行き当たった。
「あー」
大口を開けて間抜けな声を出した彼に、今度こそ雲雀は肩を落として頭を抱え込んだ。壁に寄りかかっている綱吉の喉元に頭を預け、自由の効く腕を彼の背後に回して抱き込む。
ぴくりと微かに緊張を肌に表した綱吉に薄く笑み、むき出しの喉仏に軽く歯を立てて年の割に小さめの突起に舌を這わせた。
「……っ」
息と声を殺して唇を噛み締める綱吉は、一緒になって瞼も固く閉ざしており、過ぎ行く衝動をなんとか受け流そうと必死の様子。
スラックスからはみ出ている雲雀のシャツを握りしめ、無造作に引っ張り中止を懇願する。充血した赤い瞳に涙を浮かべた彼の目尻に唇を寄せた雲雀は、拗ねた顔を即座に作り出した綱吉の額に自分の額を押し当てて、その暖かな肌の感触を存分に楽しんだようだ。
「……してませんよ、そんな顔」
「嘘」
「うそついても……意味ないじゃないですか」
大体、綱吉の表情をそんな意味合いで捉えるのは、良くも悪くも、この世にひとりきりしか居ない。
むしろひとりで十分だ。
それに、そもそも。
「そういう顔、俺、ヒバリさんの前でしかしないし」
目を開ければ、すぐ其処に目を見開いた雲雀の顔。
何故そこで驚くのかと、綱吉の方が憤慨しそうになる表情だったのだが、彼は一瞬後いつものポーカーフェイスに戻ってしまった。
もっとじっくり目に焼き付けておけば良かったと思っても、後の祭り。勿体ない、と口に出して言いそうになって慌てて飲み込んだ綱吉は、力を抜いた肩でいっそう自分を抱きしめてくる雲雀を抱きしめ返した。
「あ。自由研究」
不意に思い出した、途中で放り出してしまった課題。
今の調子だと夏休み期間中に終わるかどうかも怪しい進行具合に、えへへ、と控えめな笑みを作った綱吉は甘える仕草で上目遣いに、妙に知識豊かだった男を見上げた。
呆れ果てた表情の雲雀が、仕方がないと肩を竦める。
「明日、学校においで」
校門は開けておくから。
本当にこの人の巣は学校なのだな、と実感させられる台詞を臆面なく告げた雲雀に苦笑して、綱吉はお礼とばかりに背伸びをした。
2007/7/9 脱稿