深海

 薄暗い廊下はところどころに非常灯の青白い明りが灯るばかりで、それが余計に薄気味悪さを増長させていた。
 空調も止まっているからだろう、湿度の高さにねっとりとした汗が首筋から背中を伝っていく。リボーンは自分が律儀に黒のスーツ上下を着込んでいる状況に舌打ちして、まるで暑さも苦にせずに先を歩く綱吉の背中を忌々しそうに睨んだ。
 綺麗に結んだネクタイの根元に指を入れ、ぞんざいな手つきで下にずらして首の拘束を緩める。ついでとばかりに着込んだ白シャツのボタンも最上部のものだけを外し、呼吸を楽にさせた。
 吐く息は熱を持っており、それが顔に跳ね返って余計に暑苦しい。数年前までを過ごした国のじめじめとした気候を思わせる感触が肌に絡みつき、リボーンは苛立ちを隠さぬまま踵で硬い足元を叩いた。
 円筒を半分に割ったような通路に、カーンと間延びした音が吸い込まれて消えていく。低い天井は腕を真っ直ぐに伸ばせば指が届きそうで、常夜灯の微かな明りが薄い影を平らな床に幾つも作り出していた。
「リボーン!」
 彼が放った足音に気づいたのか、随分と距離が開いてしまった先で綱吉が振り返り手を振る。二十歳前の、もう大人と世間一般に言われる年代だというのに、嬉しそうにはしゃいでいる様はどこぞの小学生のようだ。
 早く来い、と急かして、その綱吉はまたくるりと体を反転させて青白い世界へと駆け出していく。
 日常の喧騒とは程遠い無音空間、壁や天井に反響した彼の足音は幾重にも重なり合ってリボーンの耳にも届いた。彼は角を曲がった綱吉の背中が見えなくなるのを待って、諦めたように着込んでいたジャケットを脱ぐと右腕に畳んで引っ掛けて歩き出した。
 黒と臙脂、縦縞模様のベストの上に緩めたネクタイをだらしなく重ね、帽子も外そうかと迷ったが手荷物がこれ以上増えるのも邪魔かと諦める。蒸れ防止に目深に被っていたものを一旦持ち上げて外し、中の空気を入れ替えた後で外向きに跳ね気味の黒髪へ、落ちない程度に埋めなおした。
 人っ子一人いる気配は無い。冷房も頼めばよかったかと後悔したくなったが、それだけでいったい幾ら必要になるか試算した時の眩暈を思い出して首を振る。これ以上彼の我が儘に予算を割く訳に行かない、我慢するのが自分ひとりだけで済んだのだからもうけものだと思うべきだろう。
 他の連中を連れてこなくて良かったと、しみじみ思う。
「リボーン、早く!」
 姿は見えねど声はする。綱吉のけたたましい呼び声に、リボーンは力のない吐息を零して彼が待っているだろう角へと向かった。
 幾ら人が居なくても、どこかに潜んでいる可能性は皆無では無い。決して自分から離れすぎるなときつく言い聞かせており、それがこの場所へ彼を連れてくる条件でもあった。言いつけを従順に守る綱吉は、予想通り角の先の壁に背を添わせて立っており、現れたリボーンの顔を見てにっこりと嬉しそうに微笑んだ。
 心の底から、今日この場所にこられたことを喜んでいると分かる。
「まったく」
 そんな顔をされては、愚痴のひとつも言ってやりたかった気持ちが失せるというもの。参ったな、とリボーンは広げた右手で顎を撫で、我先にまた駆け出した綱吉の背中を一定の距離を保ちながら進んだ。
 薄暗い洞窟めいた空間を抜けた先は、藍色の世界だった。
 足元以外、全てが水に覆われている。否、水を遮る特殊な分厚いアクリル板だ。
「うわ……」
 感嘆の息を漏らし、両腕を左右斜めに広げた綱吉が思わず足を止めて三百六十度フルスクリーンの海底世界に見入った。リボーンもまた彼から五歩ほど後ろで足を止め、悠然と自分の頭上を泳ぎ去った巨大な海洋生物に瞳を眇めた。
 青白い光が足元に触手を伸ばし、ゆらゆらと揺らめいている。己の影は色を薄めて存在を見失い、視線は斜め上の遮るものが何も無い空間をひたすら彷徨った。
 三秒後、我に返った綱吉が歓声はそのままに空気が存在する限界線まで駆け寄って、透明だが確かに其処にある壁に指を置いた。
 最初は恐々と、それから次第に大胆になって掌全体を押し当て、額が擦れるまで顔を近づける。
 彼が吐いた息はガラスにぶつかる時とは違って曇りを作らず、千々に砕けて霧散した。
 童心に返った瞳は大きく見開かれ、瞬きする暇も惜しんで忙しなく動き回る。言葉も出ないのか、彼の口から溢れるのは「わあ」とか「すごい」といった、著しく語彙に乏しい声ばかりだった。
 肩を竦めたリボーンが、通路の反対側に凭れかかって落ち着きなく揺れ動く彼の背中を眺める。三十メートルはあるだろう水中の通路は照明も最小限まで落とされて、随分と高い位置にある水面から落ちる光ばかりが頼りだった。
 真夜中に近い時間帯だというのに、水生生物は気持ち良さそうに波に揺られている。急に振り返った綱吉が、
「リボーン、魚って眠らないんだっけ?」
 そんな質問を繰り出すものだから、腕組みをしようとしていたリボーンの右手はすっぽ抜けて、指先が折り畳んだジャケットの襟を擦った。
「知るか」
 返事をするのも億劫に感じて、リボーンは素っ気無い声で綱吉の疑問を一蹴する。
「えー、なんでも知ってるんだろ」
 即座に跳ね返ってきた綱吉の声に、リボーンは心底諦めに近い吐息をついて俯かせようとしていた視線を再び上へと持ち上げた。浅く被っていた所為で位置がずれかけていた帽子を直し、肩を落とす。
「寝ながらでも、奴らは泳げるぞ」
 マグロなどで知られる回遊魚は、泳ぎ止むと死んでしまう。あれらにとっての泳ぐという行為は、人間が自発呼吸をして心臓を動かし続けるのと、ほぼ同義だ。
 短く、至極簡潔な説明を掌に転がしたリボーンに、綱吉は急激に興味が失せたのか「ふぅん」という相槌ひとつでまた視線を他所向けてしまう。
 まったく、どこまで落ち着きがない奴なのだろう。理解する気が最初からないのなら、逐一聞かなければいいのに。
 ゆったりとした動きで両翼を広げた平面状の生物が、ふたりの頭上に影を作りながら流れて行く。真っ白い腹には不気味な口がついていて、凝視していたところで気づいてしまった綱吉は、ギョッと肩を強張らせて慌てた様子で駆け出した。
「転ぶなよ」
「分かってるよ!」
 翻された真っ白いジャケットの裾に目を向け、リボーンが冷たく言い放つ。
 怒鳴り声を振り向きもせずに返した綱吉は、騒々しい足音をその場に残して通路を一直線に走り抜けていった。
 順路を示す黄色の矢印を傍目に、再び世界は闇の中に沈む。前面を壁に覆われて著しく視界が制限されたスペースを抜け、休憩用の無人のベンチの前を通り過ぎ、リボーンは変わらない足取りで綱吉の背中を追いかけた。
 決して必要以上に近づかず、間違っても姿を見失うこともなく。
 無駄口は叩かず、余計な事も喋らず。綱吉を好きにさせておきながら、手綱を握って目に見えぬ制限を設けている。
 次に現れたのは開放的な南国ムード漂うドーム状のエリアで、通路の両側には羊歯植物が岩の隙間から顔を出し、水のせせらぎがふたりの来訪を歓迎していた。
 動物の鳴き声はせず、人の手で創られた無味乾燥の川に水が流れるばかり。小さな橋を渡れば左手に人の背丈程度の岩山があって、その隙間にも水が流れ落ちていた。
 滝を作り出したかったのだろうか、けれどこれでは鯉も登る気を失うというもの。
 昼間ならば観光客で賑わう場所も、今は静まり返って味気ない。夜なのだから仕方がないが、整備員の姿も皆無で、飼育係の影さえも見当たらなかった。
「ツナ」
「分かってるよ」
 どんどんと先へ進もうとする綱吉の手綱を引き、リボーンが低い声で彼を呼ぶ。不満げに首から上を振り向かせた彼は、唇を尖らせて愛想ない返事をして右足で強く床を蹴った。
 暗がりにぼんやりとふたりのシルエットが浮かび上がる。
 背丈はまだ綱吉の方が高いものの、存在感の強さは圧倒的にリボーンが上だ。知識も、技術も、なにもかも。
 唯一勝っている身長も、数年のうちに逆転されるだろう。彼は綱吉を見下ろしたいと常々言っているし、そうさせるものかと言い張っても成長期が終焉を迎えようとしている綱吉には打つ手がない。
 そうでなくとも、中学時代から殆ど身長に進化はないのに。
 釈然としない。左手を水槽の壁面に置いたまま前に進む綱吉は、前方ばかりをただ睨みつけて道を行く。すれ違う人も皆無の空間では、自分の足音が痛いくらいに反響して、同じくらい後ろを行く存在の強さを意識させられた。
 今日のことだって、彼の尽力のお陰で叶ったようなものだ。感謝はしてもし足りないくらいだけれど、素直に言葉に言い表せなくて、綱吉は自分の感情を持て余しながらゆっくりと足を交互に動かした。
 幾つかのエリアを抜け、何十という種類の生物に観察されながら先へ進む。
 眠っているものもいれば、そうでないものも。こんな夜半の訪問者を迷惑そうにしているかと思えば、見知らぬ人間に興味津々の獣も中には紛れていた。
 青いライトが薄くなる。足元不如意になりかけた綱吉は、丁度段差に差し掛かった所為もあって身体を前に傾がせて両手を振り回し、ぎりぎりのところでバランスを取るのに成功した。見守っていたリボーンは、咄嗟に飛び出そうと身構えたところで綱吉の無事を確認し、自分がひっそりと焦っていた現実に溜息を零した。
 ただそれも、綱吉にとっては彼の行動に呆れて吐かれたものとして認識される。
 微妙なすれ違いは、随分と長い期間続いていた。
 思わずムッと頬に力を入れた綱吉は、振り向きそうになったのを堪えてぷいっと首を回した。
 一面暗闇に覆われている通路にあって、唯一の光源は左手に広がる別世界。腰の高さから上は一面真っ白に覆われていて、少し行った先にはプールが設置されていた。無論人間が泳ぐためのものではない。
「ペンギン……か」
 壁の柱に並んだ展示物の説明には、この国とは凡そ縁とおい生物の顔が並んでいた。黒と白、中には黄色も混ざった毛並みもふわふわと心地良さそうな生き物。子育ての為にひたすら絶食を続ける親の話は、人に感動を呼び起こしたりもする。
 だが視線を向けた先のプールは波も立たず、静かに時が過ぎ行くのを待っていた。
「むぅ」
 動くものの気配は皆無で、綱吉は大股に展示窓の傍へ寄ると両手をついて内部を覗き込んだ。後ろにはやはりリボーンが、一定距離を保って立ち止まる。
「あ、いた」
 白一色の背景に遠近感が狂わされ、綱吉は眉間に皺を寄せて広いような狭い空間を凝視した。眼球に力を入れすぎた所為で頭痛が走るが構いもせず、蟹のように窓に添って横向きに進んだ彼は直後、感極まった様子で声を上げた。
 だが表情は険しいままで、少しも楽しそうではない。
 リボーンもさしたる興味を持たないまま、綱吉の背中越しに彼が見詰めているものに目を向けた。
 其処には柔らかそうな体毛に包まれた、嘴が長く鋭い獣が直立不動で並んでいた。全部で二十か、もっといるだろうか。大きさは大小様々で、鶏冠の形式が異なるものが時折混じっている。しかしどれもこれも、綱吉ではなく壁を向いて立っていた。
 時々翼にもならない腕を動かすものはあっても、大半は微動だにしない。背筋をピンと伸ばしている姿は美しいが、嘴を脇腹に押しつけて首があらぬ方向にねじ曲がっている事もあり、あまり見ていて面白いものではなかった。正直言って、これでは人形の群れを眺めている方がずっとマシだ。
「うぅ……」
 今が夜間だという現実を、こんなところで思い出す。
 恨みがましく呻いた綱吉は、拳を作って思わずアクリルの窓を殴った。
 一瞬の騒音、けれど壁の向こうにまでは伝わらない。彼の存在に気づいて目覚めるペンギンはおらず、悔しげに彼はもう一度殴りつけようとして腕を振り上げた。
 だが果たされることなく、その腕はいつの間にか背後に忍び寄っていたリボーンによって封じられた。
「馬鹿」
「いたっ、痛い!」
 手首を取り、そのまま背中へと捻る。肩が不自然に持ち上がって肘が外を向き、あと少し力を加えれば容易に骨が折れてしまう寸前まで持って行って、リボーンは彼の悲鳴に手を離した。
 たたらを踏んだ綱吉が、不器用なバックステップでリボーンから距離を作る。白のスーツが五月蝿く彼に絡みつき、邪魔そうに振り払った綱吉は半泣きの表情で苛立ちを彼にぶつけた。
「だって、折角」
「そうだな、大枚叩いて貸し切ったんだからな」
 折角来たのに、と最後まで言わせてもらえなかった綱吉が、心の中でリボーンを罵倒する。けれど彼の言うことは本当で、自分の為だけにこの巨大な水族館を、夜間だけとはいえ警備員まで帰らせて、貸切状態にするのに幾ら必要だったのか、綱吉は知らない。
 昼の、大勢の人間が訪れる時間帯は、危険すぎて、とてもではないが綱吉は出向けないから。
 日増しに勢いを増していく敵対勢力、後手に回らされて打つ手が無い自分たち。主に狙われるのは次期当主に内定した綱吉で、お陰で彼の行動範囲は極端に制限されてしまった。屋外へ出るにも、仰々しい警護がついて回る。
 そんな生活が、もうじき半年を迎えようとしていた。
「……分かったよ」
「なら、いい」
 息抜きさえも許されない日々、食卓に上る話題は血生臭いものばかりで食欲は減るばかり。命を狙われていると分かっていても、常に人の視線がつきまとう欲求不満な毎日は、彼にとって極大のストレスだった。
 せめて、一日くらいは。
 人の目から解放され、自由になりたい。
『いきたいところは、あるか』
 何故水族館と答えたのか、自分でも解らない。けれど脳裏に過ぎったのは、懐かしいあの国で皆と出かけた青い海辺だった。
 くるりと綱吉に背中を向けて、また離れていくリボーンの背中を目で追いかける。綱吉は何か言いたげな唇をぎゅっと噛み締めると、力なく首を振ってもう一度、動かないペンギンの群れを見上げた。
 丸めた手を解放し、最初の頃に比べるとかなり鈍った足取りで先へと進む。
 展示も終わりに近づきつつあるのが案内板からも伝わってきて、ぼうっと非常灯の明りに照らされた綱吉は、眼前に出現した巨大な水槽にも無感動に瞬きをしただけだった。
 青い光に包まれ、綱吉の顔色は実際よりもずっと悪くリボーンの目に映し出される。本来なら誰もいないこの空間を独り占め出来るのは大きな喜びになる筈なのに、綱吉はちっとも楽しそうではなくて、それがリボーンに歯軋りを起こさせた。
 日に日に生気を失っていく彼を間近で見守ることしか出来なくて、根本原因を取り除いてやりたくても自分の行動には常に足かせが付きまとう。直接手出しが出来ないことのもどかしさは、何も今に始まったことではないけれど。
 せめて、もっと別のことで彼の心を慰めてやれたなら。そう思って、予算枠を強引に拡大させて、内部批判も全部封じ込めて、殆ど無理矢理に近い状態でこの時間を用意してみたけれど。
 全部、無駄だったろうか。
 あんな顔をさせたくて、連れ出したのではないのに。
「ツ……」
「なんか」
 途絶えて久しい会話、その糸口になれば。顔を上げたリボーンが彼を呼ぼうとして、けれど先に綱吉がぽつりと呟いた。
 両手を前に出し、水槽の壁面に添えて曖昧な笑みを浮かべている。
「俺みたいだな」
 唯一伸ばされている彼の右人差し指は、巨大水槽の大外を回遊している魚の群れに向けられていた。エイやマンタの姿もあるのに、彼はひたすら泳ぎ続ける魚にばかりを追いかけて首を巡らせる。
「ツナ?」
「自由に泳ぎまわってるようで、あいつらは此処から出られない」
 コン、と握った手で水槽を軽く叩く。
 広い、大きな水槽。
 けれど実際の大海原に比べれば、とてもとても小さな世界。
 同じ場所をぐるぐると、永遠に回り続ける魚たち。自由を知らず、この水槽の中だけが世界の全てだと信じ込まされて。
 何処にもいけない、何処にも逃げられない。
 泳ぐべき海を知らず、羽ばたくべき空を知らず、鎖で繋がれた牢獄を住処として。
 守られているのだとは理解している、その中でしか生き延びられないとも。
 けれど、それでも。
 それでも。
 ガッ! と轟音が綱吉の両側に響き、自分で殴りつけようとした拳がまだ水槽に接地していない現実に彼は驚きに顔を染めた。見開いた目がゆっくりと横を向き、そこに自分以外の他者の腕を見出す。瞬きをして更に奥へ意識を流せば、今にも落ちそうな黒い帽子が見えた。
 身を引こうとして踵を浮かせるが、綱吉の背中は在る筈のない壁にぶつかって止まった。逆にその壁に押されるようにして水槽に顔を近づけ、綱吉は肩口に体温を感じるぎこちなさに唇を噛んだ。
「リボーン……」
 水槽を叩くなと、さっき自分が言ったくせに。
 今のリボーンの身長は丁度綱吉の肩に額がぎりぎりぶつかる程度で、このまま彼が、本当に順調に成長するならば、あと数年で追いつかれ、追い越される計算だ。
 けれど不安は消えない。もう大丈夫と幾ら信じようとも、過去に見た未来の記憶は、完全に払拭出来るものではない。
 “その日”がこない可能性は、どれくらいなのだろう。
 もし“その日”が来た時、自分たちはどうなっているだろう。
 彼を籠の中に置き去りにしたくはないのに、連れ出してやることも出来ず、過酷過ぎる日々は無情に時を重ね、傷を刻み続けている。
 救い手になれるのだろうか、自分は。
 自分たちは。
 水槽の中、綱吉の前を細かな泡を切り裂いて魚が泳ぐ影が走る。
「いつか」
 綱吉の背中を、リボーンの声が追い越していく。
 添えられた手に手を重ね、綱吉は目を閉じた。抱き締めるにはまだ足りない身長がもどかしくて、リボーンは触れ合った肌の温もりに唇を噛み締める。
「連れて行く」
 こんな作り物の海ではなく。
 こんな壁に囲まれた暗い水底などではなく。
「お前を」
 本物の海へ、もう一度。
 あの頃のように。
 何もかも自由で、何もかもが美しく輝いていたあの頃のように。
「俺が」
 こんな口約束が彼の救いになるとは思わない、けれど信じていたい。
「連れて行く」
 震える掌を包む彼の温もりは、何処までも優しくて。
「うん」
 頷いた綱吉が、水槽の内側を漂う泡の数を数えながら微笑んだ。
「行こうな、また」
 みんなで。
 笑いながら。
 一緒に。
 空の下を。
 ……自由に。
 綱吉は身体の力を抜き、真後ろに立つ彼にしな垂れて寄りかかる。
「最初に会えたのが、お前で、良かった」
「ツナ?」
「約束、な」
 階段を転げ落ちた先、何もかもが生まれ変わったあの日。最初に出会ったのは、まだ小さな姿をした彼だった。
 マフィアの後継者なんてなるものか、と突っぱね続けた過去が、今は遠い昔のことに思える。
 正直言えば、今でも自分が此処に居ることは信じがたいし、嘘みたいな現実に逃げ出したくなるのは毎日だ。けれどそれでも、足を踏ん張って立っていられたのは、全て、彼が居てくれたお陰だ。
 泣き叫んで、喚いて、人生を呪って、命さえも投げ出したくなった日も。
 彼が叱り飛ばしてくれたから、支えてくれたから、切り抜けられたし、乗り越えられた。
「そういえば……言ってなかったっけ」
 甘えるようにリボーンの髪に頬を寄せた綱吉が、ほんの少し意地悪な顔をして笑った。
「なんだ」
「ありがと」
 今日のこの、たった数時間の為に、彼がどれだけ東奔西走したか。
 渋る上層部を説得し、言いくるめ、小言を言われながらも予算をふんだくって、貸しきり料金を値切り倒し、警備システムの不備を見直させると同時に外部からの侵入者がないように目を光らせ、それでいて内部では綱吉の視界に入らないように気を配り。
 一緒に、居てくれた。
「有難う、リボーン」
 恐らくは今日一番の笑顔だったろう表情で告げたのに、返事がない。
 いつもなら言うのが遅い、なんて嫌味のひとつでも切り返してくるのに、どうしたのだろう。
「リボーン?」
「五月蝿い」
 寄りかかったまま膝を折って身体を低くし、下から彼の顔を覗きこむ。だが先手を打って彼の不機嫌な声がしたかと思うと、急に視界が真っ暗に染まって綱吉は目を瞬かせる。
 ずぼっ、と癖毛を押し潰して、リボーン愛用の黒帽子が綱吉の頭に捻じ込まれていた。
「リボーン!」
「黙ってろ」
 何をするのか、と帽子を取り除こうとした腕はまたしても封じ込められて。
 本当に黙るしかなくなった綱吉は、大人しく彼の肩に腕を回して目を閉じた。

2007/7/15 脱稿