天眼

 今年の自分は厄年なのではないか、とさえ思う。
「あっちー」
 夏も盛り、太陽は燦々と容赦ない陽射しを地表へと投げ放ち、向日葵は恨めしいくらいに大輪の花を咲かせている。
 緑生い茂る樹下は煌々と葉を煌かせるが、乾いたアスファルトは陽炎を漂わせ道行く人を蒸し焼きにしようとしているようだった。
 解放された広い空間は、春秋ならばとても過ごし易い環境を提供してくれただろうが、真夏のこの時期ではむしろ人を灼熱地獄に陥れる場に成り代わっていた。
 それまで冷房が効いたバスの中に居た綱吉は、テロップを降りて後ろに走り去るバスのエンジン音を聞きながら、一歩も歩きたくない気持ちに駆られた。
 半袖、白地に絵の具をぶちまけただけのような多色刷りのプリント柄のTシャツに、モスグリーンのバミューダパンツ。スニーカーは履き潰して草臥れた感じが出ており、背負った布製のデイバッグは中身の所為であちこちが角張っている。
 噴き出る汗を手の甲で拭い、薄っぺらい財布をポケットに捻じ込んで綱吉は力なく首を振った。自分と同じこのバス停で降りた人の姿はとっくに見えなくなっており、目的地へ急がなければと気を取り直して鞄を背負い直す。踏み出した一歩は、しかし旱魃めいた陽光に暖められたアスファルトによって、靴の裏が焦げそうなくらいだった。
 恨めしげに眩い太陽をちらりと睨み上げ、それから前方に視線を戻す。
 山の表面を削り取って作られた台地に、張り付くようにして聳える四角い建物。周辺は公園として整備され、遠目に噴水で戯れる子供の姿が見える。人の流れは疎らだけれど完全にないわけではなくて、途中からアスファルトではなく平らに削られた石タイルに足場が変わったけれど、熱風の度合いは相変わらずだった。
 顎に滴る汗を落とし、綱吉は漸く辿り着いた大きなガラス張りの扉を潜り抜ける。センサーで人が通る時に自動で反応するそれは、ご多聞に洩れず綱吉も認識して彼に道を開いた。
 日陰に入った瞬間、ヒヤッとした空気が彼の全身を取り囲む。
「うわっ、寒」
 それまで気温三十五度を軽く越えた炎天下にいたのに、外気を二重のドアでシャットダウンした屋内はキンキンに冷やされて頭痛がする程。火照っていた肌は急激な温度変化についていけず、寒気に全身の産毛が逆立った。
 思わず腕を交互に回してさすり、暖を呼び込んで綱吉は息を吐く。一瞬で十度近く気温が下がったのだからそれも無理ないことで、もう一枚着込んでくるべきだっただろうかと俄かに彼は後悔した。
 広い玄関ホールは天井も高く、見事なまでに何も無い。壁際奥に案内カウンターが設置され、制服姿の女性が手持ち無沙汰気味に座っている姿が見えた。
 柱の横の大時計は午前の少し遅い時間を指し示している。閑散としたロビーには、人の足音ばかりがやけに大きく響き渡っていた。
 此処に来るのは本当に久しぶりで、記憶にある光景となんら変わっていないのに妙な目新しさに襲われて綱吉は暫く呆然とその場に立ちつくした。向こうからは集団で来ているのだろう高校生らしき数人の女子が輪を作っていて、彼女らの話し声が反響しながら綱吉の耳にも届いた。
 そうやって呼吸を整えているうちに、汗も完全に引いて冷房の設定温度にも多少身体が慣れたらしい。まだだるさは完全に抜けないが、歩き回るには申し分ないまでに回復した自分を確かめて綱吉は案内カウンターとは別の角に向かって歩き出した。
 白と薄い灰色で統一された空間。彼は鞄の重みを背中に受けながら、多角形の玄関ホールに設置された案内板の前に移動を果たす。地下は遠方から車で来る人の為の駐車場で、一階にはこのホールの他に喫茶店もあるらしい。二階から四階部分が綱吉の目的地であり、その上は特別展示や講演会が行われる時にだけ解放される大型ホールだ。
 それ以外にも幾つかの設備がこの建物には設けられているが、その多くに綱吉は用がない。
 先に案内板を読み解いていた人が退くのを待ち、一歩前に出た綱吉は縦に長いそれを上から順に見下ろしていった。
「さて、と」
 どうしようかな、と彼は持ち上げた指で軽く顎を小突いた。
「大体、冷房が壊れるってどういうことさ」
 わざわざこんな郊外まで、バスに乗って移動してまで来なければならなかった理由。
 即ち、綱吉の部屋の冷房装置が故障してしまったのだ。
 中学三年の夏という大事な時期(もっとも受験するかどうかは甚だ疑問だが)、少しでも生徒の成績をあげたいと願う大変有り難い教師陣のお陰で、出された課題の量は半端ではなかった。その上に奈々は塾にも綱吉を通わせるものだから、勉強量は普段の二倍、三倍へと膨れ上がった。
 敏腕家庭教師の猛特訓から逃げる口実に塾を利用していたものの、そちらもこれから暫くは休みで、自習室も使えない。そして家で勉強しようにも、部屋の冷房は故障中。流石に例年ない猛暑の最中、窓を開けて扇風機だけで過ごすにも限界がある。
 茹だるような暑さの所為で集中力は著しく阻害され、かと言って故障していない別の部屋で勉強しようにも場所は限られる。リビングは子供たちが占有している状態で、綱吉がテキストと睨めっこをしていてもお構い無しに絡んでくる。単に遊んで欲しいだけなのだろうが、こちらとしても必死なので邪魔なことこの上ない。
 静かに、落ち着いて、それでいて涼しくて、集中できる場所はどこかにないものか。
 頭を捻りに捻って考えた末、導き出された結論がつまるところ、図書館利用という手段だった。
 公共施設なので利用は無料、冷房がガンガンに効いているのに設備費も取られない。行くまでにちょっと交通費と時間が必要なのが難点だが、此処までくれば子供たちも追いかけて来ないだろうし、ゆっくりと自分のペースで問題を解くことが出来そうだ。
 もうひとつの問題は、勉強を教えてくれる人がいないので、必然的に自分ひとりの力で読み解かなければいけないこと、だろうか。
「まぁ……折角来たんだし、やるっきゃない、よな」
 家でへばっているよりは、ずっといいだろう。自分を奮起させるべく呟いて頷いた綱吉は、中空を漂っていた視線を目の前の案内板ほぼ中央で停止させた。
 今日終わらせたいのは数学と理科で、それなら三階が丁度良さそうだと細かな文字で記されている内容を読み取って再び頷き、彼は踵を返した。
 首を左右に振ってエレベータを探し出し、数人並んでいる最後尾につく。程なくポーンという軽い電子音がして、赤いランプを点灯させたドアが自動的に開かれた。中から中年男性と大学生らしき青年が降りてきて、入れ替わりに綱吉を含める三人が乗り込む。中は狭く、五、六人乗ったら満員になってしまいそうな規模だった。
 女性が四階のボタンを押し、綱吉が慌ててそのひとつ下にあるボタンを押す。ドアはゆっくりと閉ざされて視界を塞ぎ、ガクンと足元が揺れる衝撃に身体を右に傾けていると急に重力が不安定になった感覚に襲われた。浮き上がる感触が靴の裏から登ってくる、内臓も一緒になって上に移動しようとしているようで、気持ち悪さに息を呑んで呼吸を止めているうちに、小さな箱は目的の階に到達してドアを開けた。
 降りないのか、と無言の視線を感じて急ぎ足を前に繰り出す。ほぼ転げ落ちるようにして閉鎖空間を抜け出して顔を上げれば、目の前は一階部分とは大きく異なる景色が展開されていた。
 玄関ホールでは人は少ないと感じたのだが、夏休みだからだろうか、勉強に来ている学生は存外に多かった。綱吉と同年代、それ以上の人もかなり居る。鞄を背負っている人も居れば、手荷物を机に置いてきているのか身軽な立ち姿も大勢いた。
 これでは自習席が空いているのか怪しいところ。もっと早い時間に来るべきだったかと後悔しても遅く、綱吉は先に空いている席を探そうとエレベータ前から離れて窓辺に机が並べられた空間を目指した。
 ひとり掛けの机は、予想通り全て満席状態だった。中には両腕を枕にして寝入っている人もいたが、使わないなら退いてくれと起こすのも忍びない。
 残っているのは四人掛け、そしてふたり掛けの大きめの机だ。
 昨今他人との接触を拒みたがる人が多いのか、そちらの席は比較的空いている気がする。使っている人がいても、四人掛けならば大抵右上に人が座っていれば、別の人は左下に座るとか、そんな具合。
 他人の体温が気にならなければ、座席に困ることはなさそうだ。後はどの席に座るか。
 勉強ばかりでは気が滅入るから、気晴らしに見上げた先が綺麗な景色だと嬉しい。そうなると窓辺で、角に近い席が集中出来そうだ。書架から離れれば離れる程、人の動きも減って邪魔に感じることもないだろうし、と綱吉は鞄を揺らしながら意に沿う席を探して視線を動かした。
 そうして丁度、個人机が途切れて大机が始まる一画に、片方の椅子が空いている対面ふたり掛けの机を見つけた。
 後方は壁だが、右手が大きく開けた窓になっている。西向きなのでまだ直射日光は飛び込んできておらず、上に目を向ければブラインドの紐が冷房の風を受けて当て所なく揺れていた。綱吉の立ち位置からだと背中を向ける格好となる椅子に黒髪の男性が腰を下ろしていて、その真向かいが無人。
 あそこにしよう、深く考えもせぬまま綱吉は何かに導かれるようにして人ごみを避けて足を進めた。
「あの~……すみません、ここ」
 床は毛足の短い灰色の絨毯が敷かれているので、足音もあまり響かない。雑談に興じる人もおらず、これだけ人がいるのに聞こえてくるのは紙をめくる音か、ノートにものを書き取るペンの音ばかり。
 声を発するのにも勇気がいる環境で、綱吉は目当ての席の外側に回り込んで椅子の背凭れに右手を置いた。そのまま後方へ引くついでに、向かい側に座っている男性に一応の使用許可を貰おうと控えめに声を発する。
 だが、綱吉の気配に気づいて手元に広げた本から顔をあげた人物と目が合った瞬間、「いいですか」と続けようとした声が不自然すぎる形で止まった。
 音にならなかった息が、ひゅぅと風になって机に零れていく。
「あ……」
 漏れ出た声には戸惑いの色が混じっていて、それが相手の癇に障ったのか不機嫌そうに歪められた瞳が、眼鏡のレンズに光を反射させて直後に綱吉の視界から隠される。次の瞬間にはもう彼の意識から綱吉は排除されていて、半端に椅子に体重を移し変えた状態で停止していた綱吉は、心底困った様子で半開きだった唇を閉じた。
 いつもは目深に帽子を被っているから、後ろから見ただけでは分からなかった。……前から見ても、向こうが顔を上げるまで気づきもしなかったのだが。
 迂闊と言うべきか、奇遇と呼ぶべきか。自由の利く腕を持ち上げて口元を覆い隠した綱吉は、完全に自分への興味を失っている彼をそっと盗み見ながらどうしようか考える。
 此処で別の席を探そうと試みれば、余計変に思われるだろうし、彼の機嫌も損ねるだろう。
 だが果たしてこのまま座席について、落ち着きながら勉強に集中出来るだろうか。
 両方を天秤にかけても、バランス悪く揺らめき続けるだけで最良の答えは出てこない。紙を捲る音ばかりが断続的に場を支配して、首筋に冷や汗を浮かべた綱吉は投げやり気味に救いを求めて遠くへ視線を投げ捨てた。
「座れば」
 意識が外向いている最中に、急に手元から低い淡々とした声が生まれる。
 え、となって下を向けば、本の角を人差し指の腹で擦っている青年が居る。俯いたままで視線が絡まないと思いきや、眼鏡の内側で瞳だけが持ち上がって綱吉を射抜いて、その切っ先鋭い鏃に綱吉は反論の機会を失った。
 ぺら、と薄い紙を弄る指がしなやかなバネを放つ。
「あ、うん」
 自分は気にしない、とそういう意思表示なのか。会話が続くのかと待ってみたが彼の反応はそれっきりで、綱吉は若干居心地悪げに肩を揺らすと鞄を机に下ろして椅子を引いた。
 床と椅子の脚が擦れる音が不協和音を奏で、綱吉は冷やりとしつつ自分ひとりがもぐりこめる空間を作り出して腰を落とした。
 彼の前には二冊、本が積まれていた。何れも三センチほどは厚みがあるだろう、上段にあった本の表紙には小難しい漢字が箔押しされている。
 見た感じ物理か何かの専門書のようだが、そちらの方面にはとんと興味がない綱吉は何が書かれているものなのか内容も全く想像がつかなくて、首を傾げながら椅子の位置を安定させると鞄に手を伸ばした。筆記用具を取り出す、この時ばかりは騒音も仕方が無い。
 頭上からはヴン、と重低音が時折降りてくる。カタカタと空気が震える音は、誰かがノートパソコンを使っているからだろうか。気にすれば神経に障る音だが、気にしなければどうってことはない。
 綱吉は中身が減った鞄を足元に下ろすと窓と椅子の間に置き、時折目の前から視線が向けられるのを気にしつつノートと教科書を広げた。
 筆入れから愛用の赤いシャープペンシルをひとつ抜き出し、尻部分をノックして芯を出す。まだ書き物をするには充分な長さがあるのを確認してから出しすぎた部分を引っ込め、ノートの折り目に転がした。
 額に張り付いたままだった前髪を掬い上げ、脇へ流す。右肘をついて若干前傾気味に姿勢を作った綱吉は、俯いたその瞬間に相手が顔を上げたのにも気づかないまま左手で持ち込んだ教科書の表紙を捲った。
 意識を一点に集中させると、思いの外周囲の雑音は耳に入らなくなる。汗を吸ったシャツは冷房の所為で随分と冷たくなっていたのだが、それも徐々に体温に暖められ、布との間の僅かな空間に熱を残して消えていった。
 問題文を読み解いて、計算式をノートに。休みつつ、働きつつ、時には頭を抱えながら教科書をひっくり返すなど意味不明な行動も取りつつ、一問ずつ丁寧に紐解いていく。
 テキストの内容は中学一年から二年の間に教わった基本問題が主で、さすがの綱吉もこの程度ならばなんとかひとりで乗り越えられる敷居の高さだった。実際のところ、三年生に入ってからの内容までまだ頭が追いつかない状況で、こうやって復習にばかり時間を取られるものだからなかなか先に進まないのだと、リボーンからは度々指摘を受けている。
 かと言っていきなり難問だらけのところに放り込まれては、必要以上に苦手意識がつくばかりで効果も薄い。受験の時期に間に合えばいいのだ、今は焦っても逆効果だと自分に言い聞かせて、周囲も一応の理解を示してくれている。
 そう、焦ってはいけない。
 奈々は綱吉に、高校へ進学して欲しいと思っているようだ。というよりも、進学するものと思っている。
 一時期突然大怪我で入院したり、行方不明になったりするなど色々と彼女にも心配をかけてしまった。それでも更なる心労を積み重ねてやりたくなくて、綱吉は未だに彼女に、自分がいずれボンゴレ十代目の地位を継ぐのだと言えずにいる。
 言ったところで信じてもらえるとは限らないが、彼女が自分から気づくまでは出来れば、今のままで居たい。嘘をつき続けるのは正直心苦しいことこの上ないが、何も知らずにいる彼女の事を思えばこのままで居るべきではないかとも思うのだ。
 だからせめて外見上は、受験勉強をしているように振舞う。それに、この高校は制服が格好良くて、とか、あの学校は偏差値が高すぎるけれど大学進学率が良いとか、夢見がちに楽しげに話をする彼女に、どうやって高校へは行かないなど言えるだろう。
 結局今になっても、優柔不断な性格は変わらない。それは奈々に対してだけでなく、今目の前にいる彼に対しても、同じだ。
 問題をひとつ解き終え、気の抜けた息を吐きながら視線を上向ける。その溜息が聞こえていたのか、向こうも同じく顔を僅かに持ち上げた。
 氷のように冷たい瞳が、綱吉を正面から見据えている。
 蛇に睨まれた蛙ではないが、即座に動けなくて綱吉は強くシャープペンシルを握り直した。無意識に掌が汗をかいていて、指を置く部分のゴムに絡み付いてほんの少し気持ち悪い。
 彼らとの間には、あれからも色々あったけれど、結局今になっても関係は曖昧なままだ。
 骸は囚われたままだし、髑髏の肉体も幻術で維持されたまま。ボンゴレによって定住地は与えられているのに、彼らに宛がわれたアパートの一室は殆ど使われた形跡がない。以前訪ねた時はポストにチラシが詰め込まれ、廊下には埃が積もっていた。
 保護は受ける、だが世話にはならない。徹頭徹尾、彼らは自分たちの生き方を貫き続けるつもりらしい。歩けば足跡が残るような埃の海を見下ろして、妙な虚しさと寂しさを覚えたのは、綱吉の記憶に新しい。
 所在は調べようと思えばいくらでも出来たし、強制的に彼らをあのアパートに押し込むことも出来た。だが好きにさせているのは、綱吉の意思でもある。
 彼らが望むのならば、それが彼らにとって正しい生き方なのだろう。
 そこに綱吉が余計な口を挟む余地は無い、彼らはまだ、骸の帰還を信じている。彼らがボンゴレに与しつつも一定の距離を取り続けるのは、そうしていなければ骸が無事に戻った時、彼の居場所が残っていないのを恐れているから。
 自分たちだけで生きていた頃の記憶が、彼らのテリトリーを不可侵のものにしている。
 それでも、歩み寄れるものならば近づきたい。彼らが居なければ助からなかった命も、確かにあるのだ。
「なに……」
 目が合ったまま逸らせなくて、綱吉は若干上擦った声で問いかける。音量は小さく、掠れてもいて、届かなかっただろうかと発言後に危惧するが、彼は眉を潜めただけで特に何も言わなかった。
 聞こえてはいたのだろう、けれど答える義務は無いと。
 無視を貫かれるより、よっぽどタチが悪い。
 ちぇ、と心の中で悪態をつき、綱吉は教科書を縦に構え持って彼から自分の表情を隠す。しかしあちらはそんな綱吉の行動など何処吹く風で、相変わらず淡々と、若干椅子を引き気味に腰を下ろして、組んだ膝の上に本の角を置くようにして背を丸めている。
 姿勢はあまり良くない。だから眼鏡なんだ、と黒髪にフレームが隠れがちな薄いガラス板を教科書の上辺から顔を覗かせて様子を観察しつつ、綱吉は瞳を動かして構え持った教科書の問題も頭の中に叩き込んだ。
 これまでの例題を参考にした、長文を用いての応用問題。回りくどい言い回しが非常に鬱陶しく、かつ難解で、何度頭から読み直しても計算式が浮かぶどころか書かれている文章の意味さえも読み解けなかった。
 自然と綱吉の表情は険しくなり、への字に結ばれた唇が勝手に前に突き出される。眉間の皺は深くなり、人のことは言えない姿勢の悪さで彼は教科書を横に倒すと机に張り付く格好で胸を伏した。
 顎がノートの切れ目に落ち、僅かな段差を肌が感じ取る。きっと後で型になって残るな、と意識の片隅で思うものの首を持ち上げる気力も沸かなくて、綱吉はそのままの格好でついに額まで机に突っ伏させた。
 降参だ、お手上げだと彼の態度が物を言っている。
 頭の上には無数のクエスチョンマークが乱舞し、肘を立ててどうにか体を起こしたものの綱吉は頬杖をついて不機嫌に頬を膨らませた。目の前に広げた教科書をシャープペンシルの先で神経質に小突き、誰かが紙を捲る音やノートを取る音にさえ苛立ちを募らせていく。机の下ではトントンと爪先がクッション材の敷かれた床を叩き、最後に何かを引っ掛けて漸く止まった。
 ちらりと膝元の紙面に集中していた彼が、俯いている綱吉の顔に目を向ける。
 百面相とはこういうものを言うのだろうな、と誰が見ても同じ感想を抱いただろう。しかめっ面をしたかと思うと、絶望の絶壁に追い詰められた悲壮な顔を作り出し、かと思えば頭が可笑しくなったのかいきなり笑い出して、そして直ぐに泣き出す寸前まで顔を歪める。
 眺めている分には退屈しない。だが。
「ボンゴレ」
 ぽつり、と。
 自分から声をかけるつもりはなかったのに、喋りかけさせられたことが自分でも若干腹立たしい。
 首を前に傾ければ長めに切り揃えた両サイドの髪が耳元で斜めに動き、毛先が顎のラインを軽く撫でる。ただでさえ眼鏡で若干狭い視界を余計に狭くする髪を指で掬い上げて、耳朶に引っ掛けた彼――柿本千種は、非常に面倒くさいのだけれど、と表情で如実に語りながら眼鏡のブリッジを押し上げて綱吉を正面に見た。
 開いていたページにブックマーカーを挟んで、閉じる。重たいそれを机に戻した彼は、組んだままの脚の上で両手を重ねてひとつ溜息を零した。
 自分に声を掛けられたのだと気づかない綱吉に、もうひとつわざとらしい溜息をついて意識を呼び寄せる。やっと顔を上げた彼は心底困り果てた、疲れ果てた表情をしていて千種を呆れさせた。
「なに?」
 それでも表面上はなんとか取り繕って、珍しく自分から話しかけて来た千種に顔を寄せながら問い返す。声が低いのは周囲の環境が静かなのに遠慮しているからだろう、喉に引っかかったような声色に千種がまたひとつ吐息を手元に落とした。
「……なに?」
 次に発せられた綱吉の声は、さっきよりは若干音が高くなり、いつものペースを取り戻しつつあった。左の眉を僅かに持ち上げて姿勢を低くした彼に、千種は胸元まで持ち上げた自分の右手人差し指を、綱吉ではなく、その少し手前に向けてつきたてた。
 つまりは、両者に挟まれた机の中心部近くに。
「?」
 ただ彼の意図するところが綱吉には読み取れず、彼は首を捻りながら指が差し向けられた地点を凝視した。無論、そこには何も無い。平らな空間が広がっているばかりだ。
「え?」
「踏んでる」
 それでも千種の指はしつこいまでに同じ地点に向けられ続け、いったい何があるのかと改めて問うべく顔を上げた先、彼が小声で端的にそう言い放った。
「へ?」
 けれどまたしても発言の意味を解せなかった綱吉は、頭の上からすっぽ抜けたような声を出して元から大きな目を丸く見開いた。
 そして再度、今は下ろされた千種の指が示していた場所を見る。無論何も無いのは分かりきっているが、今度こそ綱吉の視点はそこから更に下、机の天板をすり抜けた先に向けられた。
 踵を着けたまま、右足の爪先を持ち上げて、下ろす。
 ぱふっ、と何かが先端に触れる感触がした。
 もう一度、今度は左にずらしてつま先で床を叩く
 さっきよりも少し形が違う感触が靴裏を通して伝わって、彼の足裏は若干先を高くして角度を持って停止した。
「……」
 冷や汗が綱吉の首筋を伝う。宙を泳いだ視線が方向性を見失ったままあちこちに揺れ動き、右足はもうひとつ床を叩こうとして、矢張り其処にたどり着けなかった。
 確かに。
 踏んでいる。
「ご、め……ん」
「別に」
 尻すぼみに小さくなっていく綱吉の声と身体に、千種は眼鏡を押し上げながら肩を竦めた。
 やっと綱吉の右足は彼の左足から離れて行って、彼は自由になった足首を一回転させてから膝の角度を強くして椅子の足元まで戻した。
 千種の表情はずっと変わらない。綱吉の喜怒哀楽の激しさと比較するのが悪いのか、頬の筋肉はさっきからまるで動いておらず無表情に徹している。ポーカーフェイスというよりは鉄仮面だよな、と萎縮したまま両膝に手を置いて椅子の上で畏まった綱吉は思う。
 それにしても、人の足を踏んだままずっと気づかなかったなんてなんて迂闊なのだろう。
 これも全て、この問題が悪いのだ。例題を作った人はもっと国語の勉強をしたほうがいい、と顔も見たこともない相手に向かって憤慨して奥歯を噛み締めていると、仇のように睨んでいた数学の教科書がひとりでに綱吉の前から逃げていった。
 まさか恐れをなして逃げ出したか、と瞬きを繰り返して息を呑んでみるが、そんなはずもなく。
 単に手を伸ばした千種が、机に広げられていた教科書を摘み持って自分の側に引き寄せただけだった。
「なに?」
 突然の彼の行動に面くらい、綱吉はまたしても素っ頓狂な声を出す。だがシンと静まり返った空気が彼の横っ面を殴りつけ、眼鏡の奥にある千種も冷たい瞳で彼を一瞥した。
 先ほど重そうな本を広げていた時同様に、太股を足場に教科書の背表紙を机の縁に立てかけた千種は、涼やかな瞳を下向けたまま左手を綱吉に向けて差し出した。
 広げた掌を上にして、上下に揺らす。手首に三重に巻きつけた革紐の先が、置かれていた本の表紙を擦っていた。
「え?」
 益々わけが解らないと混乱する綱吉に、千種は一度だけ目線を上げた。しかしやや肉厚気味の唇は何の音も刻まずに閉ざされ、代わりに握られた左手が、今度はノート上に転がっている赤いシャープペンシルを示した。
「はい?」
 さっきからまるで会話が成立していない。指し示されたものと、千種のまた握って開かれた手、そして彼の顔を順番に見て行った綱吉は、最後にまた愛用のシャープペンシルを見下ろした。摘んで縦に持ち、反対の手で指差す。首は少しだけ左に傾けて。
 これ? と目で問えば千種は黙って頷いた。
 上向いた掌がまた上下に揺らぐ。渡せ、という事らしく綱吉は芯が出る部分を握って彼の手に置いた。即座に千種は指を折って正しい持ち方を作り出し、肘を引いてまた俯いてしまう。
 最初から口で言えばいいのに、何ゆえボディーランゲージ。
 折角言葉を交し合えるのに、使わなければ宝の持ち腐れというもの。不満げに頬を膨らませた綱吉だったが、千種は手にしたシャープペンシルの尻でこめかみ近くの生え際を梳り、瞬きを何度か繰り返してから不意に瞳を持ち上げた。
 眼鏡越しに睨むように見詰められ、綱吉は乗り出していた体を反射的に後ろへ反らした。背中が椅子の背凭れに食い込み、骨が軋んで痛みが生じる。
「な……に」
「ノート」
 それ、と角度を変えたシャープペンシルで綱吉の手元を指し示した彼に、綱吉は上を向いてから下を見て、急ぎ自分の汚い字で埋まっているページを捲って彼の側へとひっくり返した。
 差し出すと、端を掴んだ彼が自分の手元まで移動させてその上に教科書を置いた。綱吉が椅子をガタンと鳴らして腰を浮かせ、両肘を机に立てて更に身を乗り出す。彼の影をノートの上辺に見出した千種は、構わずに罫線が引かれた紙面に素早く筆を走らせた。
 やや角張った、綱吉が書くよりも小ぶりの数字が左上から出現する。
 よく見えなくて、綱吉は匍匐前進でもするかのように腕を机に密着させたまま前に出た。千種もまた、書き物をする為に右肘を机に立てて素早く左手を動かし、計算式を次々と組み立てた。
 時折日本語で単語が入り混じるのだが、それは例題にあるものとほぼ同一。綱吉が分かり易いように説明を加えてくれたのだと理解したのは、家に帰ってからだった。
 この時の綱吉は、ただひたすら、流麗に流れて行くペン先とその後に残される黒炭の軌跡ばかりを見詰めていた。
 瞳が乾くまで瞬きを忘れ、千種の手が止まる度に視線を上向ける。机に腹這いになっている綱吉を見咎める人は、場所が場所だけにいなかった。
 窓から差し込む光は穏やかで、ガラス一枚を隔てただけだというのに外の暑さを忘れさせる柔らかさだった。風が吹いているのか眼下の樹木は右から左へと枝を靡かせており、快晴の空を泳ぐ雲は美味しそうな綿雲だ。白い翼を広げた飛行機が、その隙間を縫うようにして北西に消えていく。
 ぴっ、と最後の数字の後に、意味も無く点を置いてペン先を跳ね飛ばした千種が深く長い息を吐く。彼の字はノートの半分、見開きではほぼ四分の一をぎっしりと埋め尽くしていた。
「はい」
 芯を押し戻し、ノートの上に横たえて綱吉に返す。遅れて教科書も綱吉の前に置いた千種は、肩の力を抜いて眼鏡に被さった前髪を払いのけると頭がぶつかりそうなまでの至近距離に居た綱吉に瞳を眇めた。
「え……と。あ、有難う」
 彼は問題を解く間も、終始一貫して無言だった。眉間にあった皺も今はなくなっていて、やや険のある鋭い瞳が綱吉を見下ろしている。
 ノートを受け取り、上から下までざっと目を通した綱吉は、果たしてこれが正解であるか否かの判別はつかないままに一応として形式ばかりの礼を述べ、軽く頭を下げた。
 跳ね上がった薄茶色の髪が、千種の鼻先を擽っていく。
 そういえば彼は、数学が得意だとか言っていなかったか。いつだったかの出来事を思い出し、綱吉はノートから目を上げて椅子の背凭れに体重を預け直した彼を見やった。
「ね、数学……」
「断る」
 ダメモトで頼んでみようと、ノートの上半分で顔の下半分を隠した綱吉が上目遣いに瞳を作り変えて千種を見たが、全部言い終える前に明確な拒絶が彼の口から言い放たれた。
「や、でも」
「めんどい」
「いいじゃん、減るものじゃないし」
 まだ机に上半身を這い蹲らせたまま、綱吉はノートを置いて両肘を立てた。上向かせた掌に顎を置き、距離はさっきより開いたもののまだ近い千種の顔を笑いながら見詰める。
 彼は、気づくだろうか。
「減る」
 生真面目な顔で綱吉を見返しながら、千種が言う。
 直後、綱吉は噴出した。
「減らないってー」
「減る。確実に」
 げらげらと、此処が図書館だというのも忘れて綱吉は声を立てて笑った。
 千種もまたそんな綱吉を一際柔らかな瞳で見詰めながら、けれど口調は冷たいままに言い返す。
 ふたりの会話の詳細は聞こえなくても、綱吉の笑い声はこの静まり返った空間では容易に目立つ。周囲は何事かとざわめき、椅子を引いて何人もの人が振り返って彼らを見た。迷惑そうに表情を歪める人の数が圧倒的多数を占め、先に気づいた千種が肩を竦めると自分が読んでいた本を持ち上げて角で綱吉の頭を叩いた。
 力を入れたつもりは毛頭ないが、厚みがあるだけに衝撃は大きく、それなりに痛かったらしい。
 顎を机でぶつけた綱吉は直ぐに笑い止んだが、涙目で恨みがましく睨みつけられ、千種は本来の役目とは大きくかけ離れた使い方をされた本を机に戻した。
「ケチ」
「なんとでも」
 叩かれた箇所を両手で庇い、椅子へずるずる戻っていった綱吉に千種の表情は飄々としている。けれどこれでも随分と優しい目をするようになったのだ、最初に街で遭遇した時はあんなにも怖かったのに。
 印象も随分変わった、その理由に自分との出会いがあったのならば嬉しい。頬杖を着きなおした綱吉はそんな事を考えながら、再び本を広げて印をつけていたページを広げた千種の顔をぼんやりと見詰める。
 いつも被っている帽子を今は外しているので、最初は違和感があったけれど、もう慣れてしまった。
 左目の下のタトゥーは相変わらずで、けれど昨今ではファッションでやっている人もいるのであまり目立たない。それに思っていた以上に髪の毛が長いので、そこに隠れて見えなくなることもしばしば。今は読書の邪魔になるのか、落ちてくる度に指で掬い上げて耳に引っ掛けているので、綱吉の位置からだと充分過ぎるくらいによく見えた。
 黙読しているものの、時折唇が動くのは無意識の所作だろう。音に刻みはしないものの、記憶に残したい箇所を心の中では声に出して繰り返しているに違いない。
 人が本を読んでいる様を、こんなに間近からじっくりと観察した事などなかった。
 よほど集中しているのか、彼は綱吉の視線など呆気なく跳ね返して気にも留めない。ページを捲る指がたまに顎や頬に触れる以外、大きく動こうともしない。
 変な感じだ。
 綱吉は教科書を音もなく閉じると、シャープペンシルを転がしてノートの上から退かせた。どこまで気づかないだろう、興味本位に彼はまたしても上半身を机に乗り出して、そろり、と腕を持ち上げた。
 千種は本を机に立てかけるように構え持っているので、視線は斜め下に固定されている。少し高い位置から直線的な動きをすれば彼の視界には入らないはずで、綱吉は慎重に息を殺しながら指を地面に対し水平になるよう真っ直ぐ伸ばし、黒い髪の隙間から見え隠れするものに触れようとした。
 あと少し、あと三センチほどで届く。筋が伸びて痙攣を起こしそうになる手前まで肩に力を込めた綱吉だったが、千種もまた歴戦を潜り抜けて今に至るだけのことはある。綱吉の指が彼の眼前に差し迫った瞬間、下から気配もなく伸びてきた左手が綱吉の手首を掴み取った。
 折れそうなまでに力を入れて握り締め、更に肘を反転させて反撃を封じながら手の甲を机へと叩きつける。
 がんっ、と大きな音が一瞬空間に静寂を齎し、一秒後我に返った千種は珍しく慌てた様子で綱吉の手を解いた。
「あいったー……」
 周りに居た人々からは、またお前達かという視線が向けられる。居た堪れない気分に陥りながら、綱吉は椅子に座り直しつつ、骨を強打した右手を腿の間へと落とした。
「いきなり」
「うん、……ごめん」
 断りもなく無防備に近づこうとするからそうなるのだ。多くは語らないものの、語調を若干強めた千種の声に、綱吉は大人しく頷いて謝る。
 いつもなら千種はそれで綱吉への興味が薄れ、また読書に舞い戻ってしまうのだが、今回ばかりは綱吉の行動の意味を計りかねたようで、唇を若干突き出しながらしつこく綱吉の顔を見詰め続けた。突き刺さる視線に、余計居た堪れない気持ちを増幅させたのだろう。彼は左手で右手甲を撫でながら、赤い舌を小さく出した。
「眼鏡、外してるところ、見たいかなー……って」
 聞けば理由は実に下らない。
 そんな事で、と千種が表情で言い表せば、綱吉はだから言いたくなかったのだと上目遣いに彼をねめつける。
 はあ、と音に聞こえるため息を彼が零すのは必然だった。
「見てるだろう」
 あの時に、と言葉少なに言った千種が促すのは、あの日黒曜ランドでの出来事だ。
 確かに綱吉はあの時、ズタボロになった千種の姿を見ている。血まみれで、懸命に骸を庇おうとした姿を。
「いや、でも」
「外すと、見えない」
 あの時は自分も必死だったし、薄暗くもあったから。そう言い訳をしてしつこく食い下がろうとする綱吉を、またしても彼は一蹴する。
 眼鏡を押し上げ、本を畳んで腿に乗せたまま、薄らと口元には笑みさえも浮かべて。
「一瞬だけでもいいから」
 減るものじゃないし、と綱吉は繰り返し強請るが、千種は頑として首を縦に振ろうとしない。
「減る。それに、見えないのは困る」
「ちょっとだけ~」
 両腕を伸ばして交互にじたばたと机を叩き、拝み倒し、その下では右足も跳ね上げて彼の脛を蹴り飛ばす。だけれど彼は駄目の一点張りで、ちっとも綱吉のお願いを聞き入れてくれなかった。
「ケチ。なんでさ」
 最後はぶすっと頬を膨らませた彼に、千種は仕方がないなという様子で肩を竦めた。持ち上げた膝上の本で、また、綱吉の頭を軽く小突く。
「外すと、君が見えない」
 一秒、一瞬たりとも、見逃すのは惜しい。
 だから、駄目。
 目を丸く、零れ落ちそうなまでに見開いた綱吉に、横からの光を受けた千種の輪郭が浮き上がる。
「……左様ですか」
「そう」
 そうして彼はクスリと笑い、椅子を引いて立ち上がった。
 二冊の本をその場に残し、一冊だけを手に持って書架が連なる方へと歩いていく。足音は響かず、無数の灰色の本棚に阻まれて彼の背中は呆気なく綱吉の視界から消えた。
 左頬に、右の掌を重ね合わせる。
「……っ」
 瞬間。
 湯沸かし器のように頭から湯気を放った綱吉は、ひとり騒々しく机を叩いて蹴って、また周囲の人から冷たい視線を浴びたのだった。

2007/6/27 脱稿
2008/8/23 一部修正