a stupid Thing

 いつもは面倒ばかりかけている人だから、たまにはお礼の気持ちも込めて何かをしたい。
 アルバがそういえば、と切り出した小さな事。けれどその提案にライからは一切反対意見が出なかった、ミントへの恩返し。
 彼女だって自分の研究の時間が欲しいだろうに、最近は色々とゴタゴタしている所為もあって、あまり得意でない戦闘にまで引っ張りだしてばかり。お陰で自由になる時間が減ってしまっている彼女だが、畑仕事は手を抜くと、それだけ野菜の出来に反映されてしまう。だからどんなに時間がなくても、彼女は、畑の手入れにだけは、手を抜かない。
 では何処で手を抜くかと言えば。
「うっわー……」
 聞いてはいたが、あまりの惨状に扉を開けた瞬間ライは絶句した。
 彼の後ろに立っていた面々も似たり寄ったりの表情をしている。更にその後ろでは、当のミントが恥かしそうに頬を朱色に染めていた。
「いいのよ、気にしなくっても」
「いや、でも、これはやっぱり……なぁ?」
 両手を振って遠慮を申し出る彼女をちらりと見つつ、ライは斜め後ろに立っているアルバに引き攣った笑みを向けた。彼はこの状況を以前から知っていたから、曖昧に笑って誤魔化そうとしているのが見て取れた。
 ライの小脇から顔を覗かせたコーラルも、床に乱雑に積み上げられた本の山を見上げて呆然としている。普段から表情が乏しい子ではあるが、目の大きさがいつもより若干広がっているから、驚いているのだろうと想像できた。
「こりゃ、気合い入れないと終わらないな」
「だね」
 着ているお気に入りの上着の袖を捲くりあげ、舌なめずりもして一歩前に出る。同調を示したアルバがそれに続き、二歩遅れて我に返ったコーラルがその後ろに。
 チョコチョコとついて来ようとするオヤカタは、ミントの手によって抱き上げられて動きを封じられた。貴方がいると邪魔になっちゃうからね、と拗ねた様子でムゥと鳴いたオヤカタの鼻を小突いた彼女は、乱雑に積み上げられる一方の本の山を掻き分けながら進む子供たちの背中を眺め、小さく溜息を零した。
 調べ物をして、片付けるのが億劫でついつい床に放置。更に情報を仕入れるために本部に依頼して様々に書籍を集め、資料を紐解いていくうちに、読み終えた本の置き場所に困ってまた床に放置。そうやって出来上がった本の塔はちょっとした背丈になっていて、積み方も一定でないので軽く触れるだけでも簡単に崩れ落ちた。
 けれど雑然とした部屋は塔がひとつ崩れた程度ではびくともせず、今度片付けようと後回しにしているうちに、どんどんと状況は悪化していった。
 気づけば見事なまでに、本の坩堝。
 更に本だけではなく、農作業に必要な道具や肥料、支柱に使おうと集めておいた棒や鳥避けのネットまで無造作に放り込んでおいたものだから、何処に何があるのか、ミントでさえ分からなくなってしまった。
 なまじ人が訪ねて来ても見える角度の部屋ではなかったので、こんなになるまで誰も気づかなかった。ミントも自分の家の一部が、まるでゴミ置き場のようになっているとは曲がりなりにも女性として、恥かしさが働いて口が裂けても言えなかったに違いない。
 窓を開けて新鮮な空気を取り込み、舞い上がる埃に咳払い。青銀の髪に布を巻いて邪魔にならないようにまとめたライは、コーラルの長い金髪の毛先も、結んでいる根元まで持ち上げてくるりと円を描くように結び直してやった。
 アルバは元々大家族育ちだから掃除は慣れているようで、手早くこげ茶色の髪をライ同様に白い布で押さえ込むように封じ込めると、何処からか持ってきた箒を手に床を掃き始めた。
 ライはコーラルと一緒になって、あちこちに散らばる本を集めていく。
 いったいいつから掃除がされていなかったのだろう、ミントの性格をずぼらだとは思わないが、本を拾うたびに舞い上がる埃に咳き込みながらライは目尻に浮いた涙を指で弾き飛ばした。
 それだけ、ミントも忙しかったという事だろう。自分ばかりが大変だと思うのは、大間違いだ。
「……」
 真剣な顔をして掃除に手を貸しているコーラルの顔を盗み見て、ライはひっそりと微笑む。
 確かに大変ではあるが、それ以上に毎日は充実している。何も知らずにただ宿と食堂の運営をしていただけの頃よりは、ずっと。
「ミントねーちゃん、これは何処に片付ける?」
 オヤカタを片手に抱いたまま、器用に窓を拭いていた彼女に問いかける。いつもの服の上からエプロンを身につけた彼女は、邪魔になるからと髪の毛を高い位置で結い上げており、振り返った姿は普段と随分表情も違って見えた。
 ライの質問に、小首を傾げながら近づいてきて彼の手元を覗きこむ。彼が抱えていたのは表紙からして古めかしい本だった。
 革の表紙には薄ら埃が積もり、タイトルは霞んでしまってかなり読み取りづらい。ライに本を持たせたまま表面を撫でた彼女は、小難しい顔をして数秒間悩んだ末、部屋の端にまとめておいてくれと頼んだ。多分彼女も、何が書かれている本なのか即座に思い出せなかったのだろう。
 不用意に棚に押し込んでしまうと、今度はミントが目的のものを探し出せなくなってしまう。それは彼女も困るだろうし、ライの望むところでもない。言われた通り、アルバが掃いて綺麗にしてくれた場所に同じ背表紙の本を揃えながら並べて行った。
 三人、忙しく動き回る。
 途中でミントは畑の水撒きを思い出し、手伝ってもらってばかりで悪い、と気にしながら部屋を出て行った。片付けはまだ半分も済んでおらず、午後いっぱい使っても終わるかどうか甚だ疑問な状態が続いている。
 もっと人手を確保してくればよかったかと思うが、部屋に人が多すぎても掃除にならない事だってある。
 遊びではないのだから。それに大勢で押しかけたら、逆に迷惑になってしまいかねない。
 彼女にはさっさと雑念から解放されて、美味しい野菜作りと自分の研究に集中してもらいたい。その為にも早く解決させたいよな、と床の上に腰を落としていつの間にか広げた本に視線を落としていたコーラルを盗み見て、ライは苦笑した。
 掃除をしに来た筈なのに、何をやっているのだろう、この子は。
 ぺたんと足を横に広げて座り込み、脇は締めて両手に持った本を胸の高さに掲げている。顔は俯き気味で、大きな瞳ばかりが左から右へ忙しなく動いていた。唇は半開き、時々ぶつぶつ言っているようで音は聞こえないが餌を求める魚のように動く。また眉間には浅く皺が寄り、ミントに負けず劣らず小難しい表情を作ってはページを捲る音がそこに重なった。
 仕事をしろよ、と心の中で呟くものの、何か興味惹かれる本と出会ったのだろうあの子をとめるつもりはライには毛頭なかった。
 アルバも、コーラルが座り込んでいるのが既に箒で掃除を終えた場所とあって、肩を竦めて呆れている様子だが止めさせようとはしなかった。
 ミントの手を離れたオヤカタが、チョコチョコと小さな足で動かないコーラルの傍へとにじり寄る。「ムイ?」と声を出して投げ出されている脚を叩くが、よほど集中しているのかコーラルは無反応だった。
 だからなのか。オヤカタは体の向きを反転させたかと思うと、コーラルの右脇腹を背凭れにして腰を落とし、昼寝の体勢に入ってしまった。
 本当にお前達は、何をしにここへ来たのだ。益々苦笑の度合いを深めたライは、仕方がないかと諦めてコーラルの分も自分が働けばいいと気持ちを切り替える。元々、戦力として期待してつれてきたわけではない。アルバとふたりで出かけようとしたところ、強引についてきてしまっただけだ。
 邪魔をしないなら、という約束で同行を許可したのだが、なるほど、確かに邪魔にはなっていない。
 役にも立っていないが。
 読書に熱中しているコーラルはその場に残し、ライは隅に押し込められていた農作業用のネットを掴むと窓から一旦、庭に降りた。青草が茂るものの障害物は他にない区画にまで歩を進め、手にしたそれを勢い良く前に投げ出す。慣性の法則で遠くへ広がっていくネットは、思っていた以上に大きかった。
 ところどころに土汚れが付着したままで、枯れた葉まで絡みついている。何に使っていたのだろうと疑問だが、ミントが後生大事に部屋に置いてあったのだから、今後もまた使う機会があるのだろう。広がりきれずに網目がぐしゃぐしゃになっている部分を見つけ出し、ライは塊をひとつずつ丁寧に解いていった。
 水遣りを終えたらしいミントが遠目にこちらへ戻ってくる姿が見えて、手を振ると彼女も控えめに振り返してくれた。
 優しい陽射しが頭の上に降り注いでいる。掃除中でなければ外でのんびりと、それこそオヤカタと一緒に昼寝を楽しむのも悪くない陽気だ。
「ん~……」
「お疲れ様、ライ君」
 両腕を真っ直ぐ頭上へ伸ばして背筋を反らせている間に、ミントが更に近づいてきた。地面に敷いた網を避けて進む彼女は、これをどうすれば良いのかという彼の問いかけにしばし考え込んでから、抱えられる程度の幅まで折り畳んだ後に簀巻きにするようにして巻いてくれ、と頼んだ。
 確かにその畳み方ならば押入れの隅に立てかけておけるし、広げる時も楽だ。早速言われた通りに行動を開始したライに目を細め、ミントは窓の外へゴミを掃きだしているアルバにも笑いかけた。
 さすがに彼も、手馴れてはいてもひとりでは大変な様子。再び作業に加わったミントと、ネットを片付け終えたライが協力しあって、一度空っぽにした本棚を拭いてから種類別に本も並べていった。
 窓はピカピカとはいかないものの、向こう側の景色が見張らせるくらいには綺麗になって、心持ち室内に流れ込む空気も清浄さを増した気がした。
 大量のゴミや不要と思われるものは袋にまとめ、全部終わったのは夕方に差し迫ろうとしている時間帯。その間騒々しく動き回るライたちを他所に、コーラルはじっと部屋の片隅に座ってずっと本を読んでいた。
 何を読んでいるのか気になって後ろから覗き込めば、メイトルパの幻獣たちの物語だ。
 ミントが持ってきたものなのか、それとも彼女が此処に移って来る前に住んでいた人の置き土産か。ミント自身覚えがないと言い放つ本はどちらかと言えば子供向けの内容であり、どうやら後者の可能性が高そうだった。
「面白いかー?」
 呼びかけても反応は薄いが、大きめの文字を懸命に追いかけている姿は見ていて微笑ましい。
 もうじき片付けも終われそうで、日を跨がなくて済んだとホッとしながらライは汗を拭う。アルバはゴミ袋を背中に担いで外に運び出そうとしており、オヤカタは気づけば姿が見えなくて、視線をめぐらせると丁度部屋を出て行こうとしていたミントの後ろをついて回っていた。
 穏やかな日差しが窓から差し込んで、室内は少し暑い。右手を腰に、左手を団扇にして風を作ったライは、まだ読書に没頭しているコーラルの傍に佇みながら、最初に比べると随分綺麗になった部屋を満足げに眺めた。
 やれば出来るものだ、これで少しはミントも探し物の時間を節約できるに違いない。
 最初は渋っていた彼女だったが、強引に頼み込んでよかった。お世話になるばかりだったけれど、少しは恩返し、出来ただろうか。
 腕を下ろし、肩を回す。疲れたが、気分はいい。
「店主、御子殿。こんなところにおったか」
「セイロン?」
 壁際、出入り口に割と近い位置にいたライは、急にこの場に居ないはずの人の声を聞き、慌てた様子で首を捻って振り返った。
 夕焼けの空を思わせる真っ赤な髪色をした青年が、同じく太陽に似た色の瞳を眇めて入り口から上半身だけを覗かせている。右手を戸口の壁に預けていて、紅色と黒のコントラストが鮮やかな着物の袖が揺れていた。
 先ほどまで無反応だったコーラルも、びくりと肩を震わせたあと、我に返って顔を上げる。ライよりも先にそちらに微笑みを投げかけた彼は、自分の背後を振り返って顎でしゃくり、茶の用意ができていると手短に告げた。
「お茶?」
「そろそろ終わる頃だと思ってな」
 疲れた身体には、暖かな飲み物と、甘いお菓子がいい。口元を緩めて言った彼に、ピクリと耳を揺らしたコーラルが広げていた本を勢い良く閉じた。
 甘いお菓子。そういえば出かける前から彼は庭先で、焚き火を前に何かをやっていた。
「おかし……なに?」
「胡麻団子はお好きでしたかな?」
 腰を屈め、座っている所為もあって背丈が低いコーラルに顔を近づけたセイロンが穏やかな声で問い返す。
 目つきも柔和で優しさに溢れており、彼の質問にパッと表情に花を咲かせたコーラルは、元気一杯に大きく頷いて、さっきまで必死になって読んでいた本も放り出して部屋を飛び出していった。
 現金というべきか、誰に似たのか。
「花より団子かよ……」
「色気より食い気、だな」
 どちらも微妙に違う気がするが、げんなりした顔をするライにセイロンが、コーラルに向けていた笑顔をそのままにして肩を竦める。
「店主も、食べるか?」
「当然」
 昼食後直ぐにミントの家を訪ねて、それから休みなしで働いたのだ。空腹感は募っているし、喉も渇いている。コーラルほどはしゃぎはしないが、心の中ではセイロンのさりげない心配りが嬉しいと思っている。
 ただそれを素直に言葉に出来るほど、ライの性格は真っ直ぐでもない。
「多めに作ってきた、余ることはあってもなくなることはなかろう」
「また勝手に使ったな」
 少量であれば、食堂で出す食材を使われても問題ない。
 だが、セイロンのことだから、宿に居残っている面々の分も作ったに違いない。シルターン料理に必要不可欠な米を粉末にしたものは、入手経路も限られている上から量を確保するのは大変で、しかも値段が高い。
 バカスカ使って良いものではないことくらい、セイロンも熟知しているはず。勿体無い、と険のある目つきで見上げると、遠くに目を向けていた彼は気配を鋭敏に察し、にやりと口角を持ち上げて笑った。
 持ち上げた手で、巻いたままだった布ごとライの頭を撫でる。
「案ずるな。今回は、我の自腹だ」
「お前、金……持ってんのかよ」
「それなりに、な」
 ちっともそんな風に見えないのに、彼の懐具合は暖かいというのか。驚きを隠さないライに内緒だぞ、と人差し指を立てて唇に押し当て、彼は左目だけを閉ざしてまた笑う。
 リビエル辺りにばれると、へそくりは良くないだのと五月蝿く言うから黙っているのだそうだ。そもそも彼は、シンゲン同様各地を放浪した末に隠れ里に招かれたわけだから、彼の地でリィンバウムの通貨が不要だったのなら、使わずにずっと溜め込んでいたとしてもなんら不思議ではない。
 家計が苦しいのを知りながら今まで補助してくれなかったのは釈然としないが、くどいくらいに頭を撫でてくるセイロンの手の暖かさに免じて、今回は許してやることにする。撫でられすぎて布の端がめくれ、首の後ろにある結び目も緩んでいった。そして最後は彼の手の動きに巻き込まれ、青銀の髪を嬲りながら一緒に後ろへとおちて行く。
 頭皮を引っ張られる感覚に頬を横に引く格好で強張らせ、ライは首を窄めて軽く振った。
 布巾と一緒にセイロンの手も背中へと流れて行って、掌で軽く肩甲骨の下辺りを押される。予想していなかった力にライの体は簡単に前に傾いで、予期せぬままに唇が彼の肩口に触れた。
 微かに太陽の香りがする。
「セイロン?」
 首の後ろを擽る指に、ライは頭を振って逃げようと試みる。けれど何気ない動きで背中を抱かれ、身動ぎするだけでも何処かしらセイロンの身体にぶつかる状態に追い込まれてしまった。
 ちゃっかりしている。彼の脛を膝で蹴り飛ばし、ライは仕方がないな、と諦めた様子で肩の力を抜いた。
 どうせ力勝負で彼に勝てるわけがない、それでなくとも疲れているのだ。無駄な体力は使いたくなかった、この後あの大人数分の夕食も作らなければならないのだから。
「今日は随分と、大人しいの」
「うっせえ」
 襟足を弄っていた指で頬に触れられ、上向かされる。指の背が強く肌を押して、同じ場所を何度も擦ってくるものだから、片目を閉じたライは残る瞳で斜め上の彼を睨んだ。
 汚れている、と端的に告げられて、即座に納得する。
「落ちそう?」
「濡らしたほうが良いやもしれんな」
 触れられた場所が痒くなるくらい擦られても、まだ落ちない汚れ。そういえば何か解らない古ぼけた機械を障った時、真っ黒な油で手が汚れたのだったと思い出す。多分その時かその後に、顔を触って汚れが移ったのだろう。
 濡らすならば水場に、台所か庭の井戸に行かなければ。真っ先にその考えが浮かんだライは、いい加減離してもらえるだろうと淡い期待を抱いた。
 まさか舐めてくるとは、思いもしなかった。
「っ……」
 耳朶を打った濡れた音に、生温い感触が遅れてついてくる。
 擦りすぎて赤くなった肌を舐めた舌が、ライの目の前で跳ねた後口腔に吸い込まれていく。至近距離から一連の動きを、途中からではあったが目撃してしまい、瞬間的に顔を赤く染めたライは言葉を失って吐き出そうとしていた息を飲み込んだ。
 咄嗟に動けなくて、全身が隅々まで硬直する。指先の爪が反り返るような感覚にまで襲われ、ライが抵抗しないのに気をよくしたセイロンが調子に乗った。布で縛られていた所為で変に癖がついた前髪を掻き分け、現れた額にまでキスをする。
 わざと音が響くように息を吸って、額から今度はこめかみ、鼻の頭、頬骨が突き出ている箇所、と順番に位置をずらして行く。最終的に彼が何処を目指しているのかくらい、頭の回転が鈍った今のライであっても理解出来た。
 吐息が鼻にかかる。不自然に熱を持ったそれに瞼を持ち上げて上目遣いに彼を見やれば、あやすように背を撫でた手が前に戻って人の顎を押し上げた。
 無理矢理動かされて、思わず目を見開いたライは直後慌てたように瞼を閉じた。
 緊張で全身が震え、無意味に力が入る。握り締めた拳は硬く、噛み締めた奥歯は微かに痛い。唇もいっぱいに力を込めてぎゅっと引き結んでしまって、シンゲンから貰った梅干を食べた時みたいな顔になっているのにライ本人は気づかない。
 セイロンが困ったものだ、と小さく笑う。
 いつになれば慣れてくれるのだろうかと、どうしようもなく小さくて可愛らしい存在に目を細めた。
「ライ」
 そっと囁きかけ、緊張を和らげてくれるように願う。そんな顔をされては、いけないことをしているような気分にさせられるではないか。
 苛めているつもりはないのに苛めているようで、出来れば笑って欲しいのだけれどな、と顎の裏を、猫をあやすように指で撫でながら思う。眇めた瞳でじっと見詰めていると、なかなか動こうとしないセイロンにじれったさを感じたのか、様子を窺いライが左の瞼を僅かに持ち上げた。
 微笑みかけると、パッとまた目を閉じて視界を覆ってしまう。心持ち額を前に傾けて、顔を隠そうとしているようでもあった。
「ライ、顔を上げてはくれぬか」
 これではキスが出来ないと言葉尻に含ませて囁くが、頑ななライは聞き入れてくれない。
 親指の腹で少し尖っている上唇を撫でてやれば、びくりと過剰に反応した肩が前後に傾いだ。
 垂れ下がる前髪ごとまた額にキスをして、肩を捕まえた手にほんの少し力を加えてやれば、ライの体は柳のように頼りなく揺らめいてセイロンの胸へと納まる。
「セ……」
「嫌か?」
 彼の性格ならば、嫌だったらとっくにセイロンは殴り飛ばされて蹴り倒されている。
 分かっているくせに敢えて声に出して問うて、頼りなく揺れている睫に息吹きかけて意地悪く笑う。言葉を詰まらせたライは益々俯いてしまって、折角綺麗な色をしているのに、そのアメジスト色の瞳をずっと彼から隠し続けた。
 頬を撫でる指はくすぐったくて、熟れた林檎のような頬をセイロンに預けライは恐々持ち上げた手で彼の手首を握った。
 無理に下ろさせたりはしない、本当にただ掴んだだけの動きに、セイロンは分かり難い奴だと肩を竦めた。
「ライ」
 くどいくらいに名前を呼んで、今度こそ顔を彼の方から上向かせるのに成功する。彼が吐き出す吐息が甘く感じられて、セイロンはついつい表情を綻ばせたまま、気も緩めてライの方へ身体を傾けた。
 ぎゅっと一層強く瞼を閉ざしたライの左手が、同じくらい強くセイロンの上着を握る。
 互いの呼気が触れ合って、混ざり合い、解け合う。長くなった影が足元に重なり合い、ひとつとなって彼方を目指し走った。
「……っ」
 とても近い位置にセイロンを感じる。強張りを強めたライが、意識し過ぎてガチガチに固まった唇を、それでもなんとか薄ら開こうとした、その時。
「おとーさん! 早く来ないとなくなっ……――」
 壁一枚隔てた先、いつまでもやって来ないライに痺れを切らしたコーラルが、珍しく大声を張り上げながら遮るものの何もない戸口から飛び込んで来た。
 お互いをしっかり掴まえたふたりが、あと数ミリで触れ合うという寸前で停止する。
「「「……」」」
 三者三様、気まずい空気が場を埋めた。
「ぇあ、と……の、これ、は、だな」
「みみみ御子殿、ノックも無しとははしたないですぞ」
「…………」
 気が動転して呂律が回らないライ、やはり冷静さを失って声が裏返っているセイロン。
 沈黙を保つコーラルの視線が、痛い。
「……ごゆっくり」
 手にしていた胡麻団子を口に入れ、もそもそと告げる。そのまま長い髪を翻し、コーラルはずっと開け放ったままだったドアを閉めて部屋を出て行った。
 ひゅ~、と窓から夕暮れの涼しい風が通り過ぎる。
 バタンと勢い良く閉じられたドアを暫くふたりで見詰め、それからセイロンは上を、ライは下を見た。
「御子殿はああ言っておられる、が……」
 そして中間地点で丁度目が合って、セイロンがやや引き攣った笑みで場を取り繕うと間抜けなことを口にする。
 二秒後。
 セイロンの顎に痛烈なアッパーが叩き込まれたのは、言うまでもない。

2007/7/1 脱稿