奸策

 コンコン、と二度のノックに顔を上げた綱吉は、執務机正面の重そうな扉に首を傾げた。
「誰?」
「ボス、お茶を」
 人の気配は感じなかったのに、と眉間に僅かに皺を寄せた彼を無視し、扉の向こう側からは耳慣れた清楚な女性の声が響く。折角見目愛らしい顔をしているのに、その髪型はちょっとないんじゃないか、と常日頃から思わされる少女が即座に頭に浮かんで、綱吉は疲れた腕を机に投げ出すと背中を椅子に大きくそらせた。
「開いてるよ」
 足も揃って机の下に投げ出して、ぐったりとした様子で綱吉は、今度は机に突っ伏した。ドアが開く音がして、微かな足音がそれに続く。瞳を持ち上げて迫り来る人影に目を留めれば、大人の女性に変貌しつつある少女が丸盆を手ににこりと微笑んだ。
 何も知らない人間ならば、瞬間頬を染めるだろう仕草だけれど。
「……気持ち悪いよ、骸」
「おや、ばれてしまいましたか」
 心底嫌そうに顔を歪め、綱吉は身を起こすとどっかり背凭れに体重を預け直した。
 しれっとした様子で肯定した骸は、髑髏の姿のまま盆から湯気の立つコーヒーカップを取り、綱吉の執務机に置いた。良い香りが鼻腔を擽り、投げ出していた足を膝で折って床を踵で叩いた綱吉は、椅子の肘置きに頬杖をついて、その彼をまだ眉間に皺寄せたまま見上げた。
 ニコニコと愛らしい笑顔を崩さない彼女だが、中身が骸だと思うだけで一気に萎える。
「髑髏は?」
 コーヒーに手をつける気になれず、視線だけを持ち上げてその体の、本来の持ち主の所在を問う。気配は感じないから、奥に篭もっているのだろうけれど。
「最近色々と立て込んで疲れている様子だったので、中で休ませています」
 ボンゴレ十代目の側近、霧の守護者。本来女性を受け入れないマフィア界に置いて、特殊な立場である彼女の気苦労は計り知れない。綱吉も気付いたところはフォローしてやれるが、元々寡黙で閉鎖的な彼女だから、辛くても誰にも言わずに我慢してしまう。
 彼女に適度な休息が必要なのは綱吉も承知している。だがその休ませるべき肉体を、骸が使っていては意味が無いのではないか。
 若干咎める視線を投げつけると、彼は肩を竦めた。
 それはそれ、これはこれ、という事か。
 大事なところではまるで姿を見せないくせに、どうでも良い時に限って現れては人を巻き込む騒動を起こし、気づけばまたいない。後始末をさせられる身にもなれ、と恨みがましく睨みつけてやるものの、骸は飄々とした態度を崩さず、飲まないのかと持ってきたカップを指差した。
 綱吉の側へと押し出してくるが、香りにそそられるものの、何が入っているのか分からないだけに飲む気がしない。首を横に振ると、彼はさも残念そうに肉厚の唇を窄めて尖らせた。
 だからそういう仕草は、髑髏の身体でやるな、と言いたいのに。
「気持ち悪いつってんだろ……」
 ぶりっ子な仕草は、髑髏がやるならまだ許せる――彼女は絶対にやらないだろうが。
 頭が痛くなってきて、綱吉は片手で側頭部を押さえると奥歯を噛んで吐き気を堪えた。毎度こういう正直な反応を示すから、骸が面白がって調子に乗るのだと分かっているのだけれど、どうにも慣れなくて困る。
「クロームが煎れたものですから、大丈夫ですよ」
 眇められた瞳で告げられ、訝しげに机上に目を落とした綱吉は、最初よりほんの少し湯気の数が減ったカップにどうしたものか、と嘆息した。
 無骨な男ばかりの環境で、彼女のように細やかな気遣いが出来る存在は貴重だ。本当は綱吉も喉が渇いていたところで、そんな絶妙なタイミングでの登場だったから、中身が骸でなかったなら大喜びで口をつけていただろう。
 椅子の上で背伸びをして姿勢を崩した綱吉は、思案気味に瞼を落として今一度嘆息する。正直まだ骸を完全に信頼したわけではないが、髑髏は信じてやりたい。妥協案が胸の中で鬩ぎあって、結局綱吉は諦めた様子で腕を前に伸ばした。
 だがカップに触れようとしたところで、骸の手がそれを阻む。
「なに?」
「ボンゴレ、袖が」
 飲めと言うから飲もうとしたのに、止めるとは何事か。険のある表情で見上げると、彼は綱吉の右手首を指差している。きょとんとしながら示されている箇所を見やると、確かにジャケットのボタンが外れかけていた。
 よれよれになった糸が解れ、辛うじて布とボタンとを繋いでいる。ちょっと引っ張れば簡単に千切れてしまいそうで、気づかなかったと綱吉は右肘を持ち上げた。
 後で誰かに繕ってもらわなければ、と自分でやるという考えは最初から頭に無い綱吉が、気を取り直しコーヒーに目を向けたところで、一緒になって楽しげに目を細めている骸が見えた。
 微妙に嫌な予感がする。
「何故かここに、裁縫セットがあるんですが、ボンゴレ」
「……」
 こうも都合よく事が運ぶと、ボタンを千切ったのもお前かと疑いたくなる。だがそんな事を問い詰めても意味は無く、綱吉は肩を落としてそのままジャケットから腕を引き抜いた。二つ折りにして、掌サイズの裁縫セットを広げている髑髏、もとい骸へと差し出す。
 彼は机に山積みにされていた本を片側に寄せ、開いた空間に遠慮なく腰を落とした。丁度机の縁に対して斜めになるように位置取りをしたので、綱吉からでも彼の横顔が良く見える。
 透明ケースに保管された針を一本引き抜いて、黒糸を必要なだけ糸巻きから解いた彼だったが、先端が解れてしまっているからか、小さな穴になかなか上手く通らない。元々彼女の身体は隻眼だから、距離感が掴み難いのもあるだろう。
「やろうか?」
 嘗てマフィア界に堂々と喧嘩を売り、騒乱を呼び込んだ男が、糸通しに苦心している。その様が非常に滑稽で、綱吉はカップの縁に指を置いてなぞりながら笑った。
「仕方がありませんね……」
 やや疲れた様子で呟いた彼は、机の上で僅かに身動ぎしてから細い糸の先端を舐めた。唾液を含ませ、毛羽立っていたものを一本にまとめてから、針に通す。
 若干もたついたものの、糸は無事に針の穴を通過した。
 音を立ててコーヒーを啜り、動向を見守っていた綱吉が苦笑する。両手で持ったカップから黒い液体をちびちびと舐めて、変な味がしないのを確認してから角度をつけて傾けた。
 本当は疑いたくないのだけれど、骸には色々と前科があるし、彼にはしょっちゅう騙されるから、警戒するに越した事はない。大抵はちょっとした冗談で片付くのだが、一度睡眠薬を盛られそうになった時は本気で危なかった。
 そういう人を食ったような性格を除けば、今のところ自分と骸との関係は、概ね良好といえるのではないか。相変わらず、彼が何を考えているのかは良く分からないが。
 髑髏が裁縫に慣れているからなのか、それとも骸が本当にそうなのか、彼は膝の上で綱吉のジャケットを広げると、几帳面な針使いでボタンを布に固定していく。切れてしまっていた糸くずは除去し、表面を指で均してから位置をずらさないように注意深く。厚みのある布に針を通すのは大変だろうに、表情には出さないで、むしろ彼はどこか楽しげだ。
「上手いな」
「これくらいなら」
 率直な感想を述べて褒めてやると、彼は誰にでも出来ますよ、と肩を竦めて笑う。けれど自分は出来ないのだ、と威張って言い返した綱吉の台詞に彼は目を丸くし、それから勢い良く噴き出した。
「そういえば、貴方は天然記念物並に不器用でしたね」
「わ、悪かったな!」
 そんなに笑うな、と元々は自分の発現が引き金になったのに、声を荒立てた綱吉が尚更おかしいのか、骸は腹を抱えながら全身を小刻みに震わせた。だが彼は、まだ糸を通した針を持ったままなのだ。
 刺さったのだろうか、彼はびくりと肩を震わせて口元を歪ませた。
「骸?」
「いえ、平気です」
 あまりにも唐突な変化だったから、綱吉はカップを置いて僅かに腰を浮かせる。だが先手を打って広げた手を綱吉の前に晒した彼は、右手の指にぷっくりと浮かび上がった赤い球体に困ったように首を振った。
 平気と言った割には、表情が辛そうだ。何故か綱吉まで胸が締め付けられるようで、彼の左手が降りていくのに合わせ、綱吉は椅子を臑で押し立ち上がった。
 両手を机に添わせて前傾姿勢を取り、近くなった気配に顔を上げた骸の右手を取る。
「ボンゴレ?」
 まだ言われ慣れない名前で呼ばれるが、返事をせぬまま、綱吉は、髑髏の指に咲いた赤い花に舌を絡めた。
 舐めた血の味が、コーヒーの苦さを増長させる。
「……不味」
 思わず呟いてしまった綱吉だけれど、舐め取ったばかりの指先からまた血が滲み出るのを見て、構わずに舌を絡めさせた。軽く吸い付くと、痛かったのか骸が肩を揺らした振動が伝わってくる。
 そのまま振り払われるかと思ったが、骸は動かない。ちらりと盗み見た彼は耳の先まで真っ赤になっていて、なんだかおかしかった。だから調子に乗って舌で指を擽ってやると、本気で困った顔をした骸が視線を泳がせて遠くを見る。何か言いたげに動いた唇は、何も音を刻まずに閉ざされた。
 コイツでも照れることがあるんだ、と弱点を見つけたようで嬉しくて、綱吉は喉の奥を震わせて笑った。が。
「……ボス?」
「へ?」
 一瞬目の前の存在が揺らいだような気がして、切り替わった空気に綱吉の表情が凍りつく。大きな瞳が不思議そうに綱吉を見詰めていて、間近から覗き込んでしまった綱吉は直後、全身から冷や汗を噴き出した。
 掴んだままだった手を振り払い、そのまま椅子ごと後ろへと下がる。彼女はきょとんとした様子で、先ほどまで綱吉が掴んでいた自分の手を見下ろした。
「どどどどど髑髏!?」
「はい」
 いつから入れ替わっていたのかと焦る綱吉だが、彼女は特に気にした様子もなく、膝の上に載っていた綱吉のジャケットと刺さったままの針を見て状況を理解したようだ。椅子の背凭れにしがみついている綱吉はその間、生きた心地がしない。
 そもそも、あそこで逃げるか、普通。思わず爪を噛んだ綱吉に、何かを受け取った髑髏が小首を傾げる。
「あ、ボス」
「……なに」
「骸様が、今度仕返しするので覚悟してください、と」
「……しなくていい、って伝えて」
「お断りします、だそうです」
「ぐ……」
 メッセージを伝え終えた彼女は、ボタン留めの作業を律儀に再開させた。綱吉は頭を抱え、盛大に溜息を零した。
 暫く、眠れない夜が続きそうだ。

2007/4/28 脱稿