dreams of Carnival

 買い物に出て、用事も済ませて帰ろうとしていたライの肩を叩く人がいた。
 なんだろう、と振り返ればそれは見知らぬ男性で、鼻の下に八の字の髭を生やし、縦に随分と長い円筒形の黒帽子を被って、少々、いや、随分と派手な衣装に身を包んでいる人だった。
 彼は手に籐編みの籠を持っており、そこから抜き取った紙切れを一枚ライに手渡し、去っていく。
 交し合う言葉は無い。突然のことに唖然として男性の背中を見送ったライだったが、彼が他の人にも同じように紙切れを渡しながらやがて人ごみに完全に紛れて見えなくなって漸く、自分に渡されたそれに視線を落とした。
 薄緑色の紙にはでかでかと、今日の日付と少し先の時間、門前広場の文字と簡単な地図が書かれている。後は見慣れぬ団体名、そして動物や人の絵が小さくあちこちに描かれていた。
「サーカス?」
 あまり聞かない単語だが、耳覚えはある。確か超人的なことをやってのける人や動物が見世物をするんだったか、と曖昧な記憶を呼び起こしながら首を捻ったライは、地図にある方角へ何気なく目を向けた。
 そう言われてみれば確かに、遠目にだけれど家々の屋根の隙間から見慣れない建物が顔を覗かせている。先端が尖がっており、先ほどの男性と同じ派手な色合いがなんとも町並みから浮き上がって異様な感じだ。
「サーカス、か……」
 視線を近くに戻し、ライは右手に持った籠を握り直して呟く。横を通り過ぎていく親子連れもこのチラシを貰ったようで、男の子がはしゃぎながら母親に見に行こうと強請る声が聞こえた。
 ライはその背中を何気なく振り返り、それからチラシを握りつぶした。
 皺だらけになった紙を丸め、籠の上に放り投げる。跳ね返りもせず、それは買ったばかりの食材の隙間に沈んで簡単に見えなくなった。
 思わず溜息が漏れ、背中が前に傾ぐ。彼は横に力なく首を振ってから今一度背後に出現したサーカステントに目を向け、唇を噛み締めて商店街の坂道をいきなり走り出した。ぶつかりかけた女性に大声で謝って、荷物が落ちないようにだけ注意しながら俯き加減で駆け抜ける。
 商店区を過ぎ、住宅地も過ぎ、ため池の傍まで来てやっと足を緩めて乱れた息をそのままに汗を拭う。左手には昼の陽射しを浴びて否応なしに目立つ豪邸が聳えていて、ライはつい悪態をついて完全に足を止めた。
 しゃがみ込みたくなる身体を叱り付けて膝を軽く曲げる程度に留め、肩を上下させて呼吸を整える。吐いた息の熱さに眩暈を覚えながら、ライは小さく呻いた。
「ああっ!」
 胸の中にある苛つきを一気に爆発させ、急な怒鳴り声を上げてライは右足で強く地面を蹴った。踵が衝撃でひび割れそうなくらいに痛んだが、その痛みが冷えて行くのに合わせて呼吸しながら、苛立ちを消していく。最後に顎を伝った汗を拭った時にはもう、彼は大分落ち着きを取り戻していた。
 だが胸の中のもやもやは完全に消えてくれない。
 遊んでいる暇は自分たちには無い、このサーカスだって奴らの罠が仕掛けられているかもしれないのだ。そう自分に言い聞かせ、両手で頬を強く叩いて意識をしっかりと持たせる。
 けれど。
「リュームには、ばれないようにしないとなぁ」
 サーカスが来ているなんて知ったら、あの子のことだ、行きたがるに決まっている。行っちゃ駄目だと言っても聞かないだろうし、下手をすれば自分ひとりで飛び出して行ってしまう可能性も否定しきれない。
 鉄砲玉のような子だ、首に縄をつけて柱にでも括りつけておかなければ何をしでかすやら。
 だからこの話題は、自分も知らなかったこととして忘れてしまおう。願わくば何も起こりませんように、そう祈りながらライは宿までの道を、気を取り直し歩き出した。
 けれど彼の祈りは虚しく。
「ただいまー」
 宿の玄関を開けたその先では、薄緑色のチラシを両手に握り締めたリシェルが、目を輝かせながら彼の帰りを待っていた。

「駄目」
「なんでよ」
「駄目なものは駄目」
「だから、なんで駄目なのよ!」
 ばしっ、とリシェルが怒鳴りながらテーブルを両手で叩いて立ち上がる。勢い余った椅子が後ろへ転がり落ちて、派手な音を響かせて室内は一瞬騒然となった。
 だがテーブルを挟んで真向かいに座っているライは微動だにせず、遠巻きに見守っている仲間たちの心配そうな視線も全て無言で跳ね返した。
 ふたりの間にはリシェルが持ち込んだチラシが置かれており、彼女が動く度に端が捲れ上がって今にもどこかへ飛んで行きそうな状態だ。彼女の後ろでは、リシェル同様に憤慨した様子でリュームが拳を握り締めており、リビエルが彼の肩を掴んで飛び出していかないようにぎりぎり押さえ込んでいた。
 要するに、ライは絶対にサーカスなんかに行かせないと主張し、リシェルが頑としてそれに反対している、とそういう状態だ、今は。
「いいじゃない、ちょっとくらい。お金だったら私が出してあげるわよ」
「そういう問題じゃないだろ」
 店の経営は軌道に乗りつつあるものの、娯楽や余興にぽんぽんと出費していられる余裕はない。今は武器の手入れにだって費用が嵩んでいるし、余計な浪費をライが避けたがるのはリシェルでも分かる。だがチラシによれば、入場料はさほど高くない。リュームひとりくらいなら彼女の限られた小遣いからもなんとか捻出出来るし、ライの分だってお菓子を何日か我慢すれば用意出来ると彼女は言い張る。
 けれどライの疑念は、結局のところそのサーカスに敵が紛れ込んでいる可能性があり、油断しているところを襲われたり、また観客である一般の人たちを巻き添え、もしくは人質にされたりしては手の施しようがないという一点に絞られている。
 二人の意見は根本的なところですれ違っていて、だから話に結論は出ない。
 リシェルはライの心配を考えすぎだと一蹴したし、ライはお金の問題ではなくもっと広い目で物事を見ろと主張してやまない。
 堂々巡りで出口どころか入り口さえもう見えなくて、見守る側の不安もそろそろ絶頂に達しようとしている。腕組みをして椅子の上でふんぞり返っているライは、右太股に置いた左足首を前後に揺すりながら、ぎりぎりと奥歯を噛み締めているリシェルの顔に盛大な溜息を吐き出した。
「兎に角、駄目なものは駄目なんだ。今がどんな状況か、お前だって分かってるだろ?」
「分かってるよわ、それくらい!」
 再び彼女の手がテーブルを殴りつけ、赤くなった拳の痛みにか涙を浮かべたリシェルは際立って大きな声で叫んだ。
 後半部分はやや声も裏返り、掠れて聞き取りづらい。いい加減彼女がかわいそうに思えてきた仲間は、肩を寄せ合いながらひそひそとなにやら相談を始めていた。
 そのざわめきに舌打ちしたライが、矢張り自分を睨みつけている青い髪をした幼子に肩を落とす。
 彼らはライが戻ってくるずっと前に、リシェルとルシアンによってサーカスの来訪を知らされていた。
 御使いの立場ではあっても世間一般的には主人を持たないはぐれ召喚獣と同扱いの大人たちは遠慮したが、リュームは行きたがった。リシェルが、幼い頃に見たサーカスがどんなに素敵で面白いものだったか、身振り手振りを交えて説明した影響も大きい。
 彼女曰く、このサーカスは定期的にこの近辺を巡回しており、数年に一度この地方にも顔を出すものなのだという。
 偶々時期が今に重なっただけで、ライがそこまで懸念するものではない。彼女の主張はこうだ。
 一応タイミングが良すぎたので、彼女も心配になってサーカス団のテントまで様子を身に行っている。しかしそこにいたのは幼少期の記憶にある人たちばかりで、怪しい集団の姿は何処にも見当たらなかったそうだ。
 用心するに越した事はないが、用心しすぎてリュームの活動圏を狭めてしまうのも、いかがなものか。
 この子はこの先、沢山の経験をして沢山の知識を吸収していく。人との出会い、別れも経験して、様々なものを見聞きして血肉としていくだろう。ライの一方的な独りよがりで、その経験をひとつ減らしてしまうのは宜しくない。
 それに、なにもリュームひとりで行かせるわけではないのだ。リシェルやルシアン、ポムニットも一緒だし、誘えばミントたちも来るだろう。ライだって、心配なら一緒に来れば済む話だ。
 だのに彼は、自分は行かないと言い張って憚らない。自分がいかないから、リュームも行かせられない。偏屈としか言いようがない主張に、好奇心旺盛な竜の子が反発を抱くのも無理ないことだ。
「とにかく」
「オレは行くもんね!」
 同じ台詞を繰り返そうとしたライを遮り、リビエルの手を薙ぎ払って前に出たリュームが怒鳴り声をあげた。
「御子様!」
「なんでだよ、なんで行っちゃいけないんだよ。すっげー面白いんだろ、楽しみにしてたのに!」
 慌てて彼を止めようとしたリビエルだが、リュームの勢いは収まらない。ライの許へ駆け寄った彼はその肩を掴むと、前後左右に激しく揺すりながら思いの丈をぶちまける。
 揺さぶられたライは最初こそ大人しく聞いていたが、やがて眉間に皺を寄せて渋面を作り出すと、勢いのままに彼の手を横へ振り払った。
 煽られた小さな体が横に崩れ、悲鳴をあげたリビエルがリュームを抱きかかえて胸に庇う。彼女の大きな瞳もまた、眼鏡の奥で鋭い刃となってライを睨みつけた。
「ライ、ちょっとあなた、酷いですわよ!」
「五月蝿いな!」
 床で肘を撃ったらしいリュームが痛そうに呻いて、罵声を投げかけたリビエルにライもついムキになって怒鳴り返す。 
 けれど部屋中から感じる無数の視線は、今やライが一方的に悪いという判断に完全に傾いてしまっていた。彼はぐっと息を喉に詰まらせてリュームを殴った手を胸に押し当てると、瞬間的に泣く寸前まで顔を歪めてまた直ぐに苛立ちの仮面に感情を隠した。
 壁際で傍観を決め込んでいたセイロンの眉間に、皺が寄る。
「勝手にしろ!」
 惨めな捨て台詞を吐き捨て、ライは椅子を押し退けるとリュームたちとは反対の方向に大股に歩き出した。足音が騒々しく床を揺らし、やがてドアを乱暴に閉める音と重なって、そして途絶えた。
 急激にシンと静まり返った食堂に、リシェルの机を叩く音がまたひとつ。
「勝手にするわよ!」
 赤く腫れ上がった自分の拳を敵とばかりに睨みつけ、彼女は被っていた愛用の帽子を床へ叩き付けた。

 結局夕食を目前とした時間に、リュームはリシェルとルシアンに連れられて宿を出て行った。
 帰りは遅くなると予想されて、彼の食事はポムニットが用意する弁当に委ねられる。
 ライも居残った仲間たちの夕食を、不機嫌ながらも自分も食べなければならないので用意した。けれど彼は用意しただけで食事の席に姿を見せようとせず、何処へ行ったのかと探してみれば、庭の片隅のベンチに腰を下ろして薄暗さを増しつつある空と眼下の町並みをぼんやりと眺めていた。
 セイロンが近づいていっても反応は無い。心此処にあらずの様相に、思わず彼は肩を竦めた。
「店主」
 呼びかけるが返事はなくて、ライの姿勢も最初と変わらない。時折瞬きするのがなかったなら、良く出来た彫像にも等しい状態だった。
 動かない彼にひっそりと嘆息し、セイロンは手にしていた扇子で己の顎を撫でる。どうしたものか、と閉じていたそれを広げてからまた直ぐに閉ざして、更に歩を進めて彼の斜め前まで出てみた。
 日は西の地平線に傾き、あと数十分もすれば完全にその姿を隠してしまうだろう。名残の赤焼けた空が雲を鮮やかに染めているが、反対に目を転じれば東の空は随分と暗く、藍色と紫が交じり合った複雑な表情を浮かべていた。
 まるで今のライのようだ、と彼は扇子をひっくり返すと根元の部分で彼の頭を軽く小突いた。
「あでっ」
 音もせず、衝撃も弱い。力加減はしっかりしていたのだが、反射的に意識を手元に引き寄せたライは亀の如く首をすぼめ、両手で頭を抱えるようにしながらそう悲鳴をあげた。
「これこれ、嘘を言うでない」
「ってー……なんだよ、セイロンか」
 痛いわけがないだろう、と扇子で口元を隠しながら言ってやると、やっと顔を上げたライがアメジスト色の瞳を翳らせて言い返す。
「我で悪かったな」
「あ、いや。そうじゃなくて」
 もっと別の存在を期待していたのだろうか。瞬時に不貞腐れたような声を作ったセイロンに、ライは慌てた様子で首を振って頭から手を下ろした。否定しようと言葉を捜すが、巧く繋がらなかったらしい。下唇を噛んで、彼は気まずげに他所を向いた。
 セイロンはそんな彼の後頭部にあるつむじを見下ろした後、断りも入れずに彼の横に強引に割り込んだ。
 ベンチはふたり並んで座るのに充分な広さがあるが、ライが丁度中央部分に陣取っていたため、セイロンは尻で彼を横に押し出す格好になる。
 無理矢理身体を捻じ込まれて、ライはちょっと戸惑った後小さく笑って左へとずれた。お陰でセイロンも、苦しくない程度に居場所を確保できて満足げに座り直した。
 優雅に足を組み、そこに肘を立てて扇子を広げる。扇げば夕方の涼しい風が彼の前髪を嬲り、余波を受けてライの右耳も擽られた。
「心配ならば、一緒に行けばよかろうに」
「……」
 夕暮れ時、気温も下がって夜が忍び寄ろうとしている今の時間に外でひとり、ぼんやりと佇んで。頬杖をついて背中を丸め、遠くばかりを眺めている姿は傍目からしてもあまり快いものではない。
 物憂げな瞳に音を発しない唇、顰められた眉間の皺は深く、零れ落ちた溜息は重く暗い。
 セイロンの言葉にライの表情は一瞬にして曇り、ゆっくりと下を向いた彼は膝の上で拳を丸め、左右をぶつけ合わせた。
「別に、そんなんじゃ」
「だとしても、だ。今日の御主はどこか変だぞ」
 違う、と否定しきれないライの言葉尻を奪い、セイロンは背中をベンチの背凭れに寄りかからせて呟く。仰ぎ見た空は先ほどよりも赤みが若干薄れ、東から伸びつつある藍色の触手が天頂付近にまで侵食を開始していた。
 両腕を左右に広げ、肘を背凭れに引っ掛ける。曲げた彼の左肘がライの肩にぶつかって、彼は押されるがままに体を横に揺らした。
 柳のようだ、と横目で見送るセイロンは思う。
 押せば流れ、引けば戻る。手ごたえはなく、反応はあまりにも鈍い。
 彼の表情からはリュームやリシェルとの口論の影響はあまり感じられず、それが余計にセイロンを困惑させた。てっきり父親役を引き受けているリュームに乱暴なことをしてしまって落ち込んでいると思いきや、原因はそれだけでない印象がある。
 頑なにサーカスに行くなと主張していた彼の強引さはすっかり影を潜め、今はまるで抜け殻のようだ。試しに左腕をベンチから外してライのこめかみから生え際辺りに指を這わせると、彼は二秒後にやっと気づくような有様だ。
「……なに」
「いや」
 声にも覇気が感じられず、セイロンの困惑は益々強まる。
 触れるに任せているライは曖昧に言葉を濁したセイロンに苦笑し、緩く首を振ってその手を下ろさせた。斜めに向けた視線の先はなだらかな丘陵線が描き出され、その下には夕暮れに照らされる町並みが広がっている。
 いつもは静かなこの時間だが、ほんの少し町全体が浮き足立っているように感じるのは、やはり門前広場に居を構えたサーカス一座の所為だろう。リュームたちはもう、あの大きなテントに入った頃だろうか。
 テントの周りには照明が焚かれているのか、他よりも少し明るく輝いている。太鼓が打ち鳴らされてラッパの音が高らかに響き、それが風に乗って高台にあるこの場所にまで微かながら届けられた。人の声までは流石に無理だが、チラシにあった開幕時間はもうそろそろの筈だ。
 楽しんで、無事に帰ってくればいい。自分の心配が過剰すぎるのだという事くらい、ライだって本当は分かっている。
 ただ、消えないのだ。親の手に引かれ、楽しみだと笑いながらテントの中に消えていく子供の後姿が。
 ライは身動ぎすると左足を曲げてベンチに持ち上げ、その膝に額を押し当てて完全に俯いてしまった。彼の右肩がセイロンの肘に触れ、布地を軽く擦る。
「店主?」
「なんでもない」
 凡そなんでもないとは思えない態度をとっているくせに、彼はセイロンの存在を拒んでいる。伸ばして触れようとした手を中空に留め、セイロンは戸惑い気味に瞳を揺らして彼方に浮かび上がる異質な空間を視界の中心に据えた。
 リシェルはあのサーカス団が、数年に一度この町にやって来ると言っていた。彼女の記憶の限りだが、これまでに二度、興行を行っているという。
 一度目は十年前、二度目は五年前。ほぼ五年に一度の周期だから、かなり広い地域を巡っているのか、それとも拠点がどこかにあって年に数度、地方巡業に出ているだけなのか、それはセイロンでも解らない。
 ただセイロンが引っかかったのは、その二度のサーカス団来訪のうちの、最初。
 十年前といえばライはまだ五歳だ。けれど彼は確か、その当時既にひとりでこの街に残され、生きていかざるを得ない状況に置かれていたのではなかったか。
 ライが黙りこくってしまったのでセイロンも言葉を挟まず、またセイロンが何も言わないのでライも彼の存在を無視して過去に思いを馳せる。
 数年に一度の楽しみ、街全体が活気付いて夜遅くまでお祭り騒ぎが続く日々。
 けれどライは、その踊りの輪に入ったことがなかった。
 いや、入れなかった、というべきか。
 浮かれ踊り狂う人々、便乗狙いで屋台を出す店、リズムを刻む笛の音色に否応なしに心は逸る。明るく照らし出された道、夕闇に空が覆われる中で別世界に迷い込んだように昼と紛うばかりの光に溢れかえった路上。
 何処にこんなにも人が居たのだろうと驚かされる群衆、チケットを手に胸躍らせる人々。特別に夜更かしを許された子供のけたたましい笑い声が、玩具箱をひっくり返したような広場にこだまする。
 ライはそれらを、遠巻きに、薄暗い路地で眺めていた。
 一歩踏み出せば光の世界に迷い込めるのに、彼は躊躇してその肝心な一歩を踏み出せない。尻込みする彼の目の前を、父親に肩車された子供がはしゃぎながら通り過ぎていく。
 誰もライを見ない。誰もライがそこに居ると気づかない。
 誰もライを振り返らない、誰もライに手を差し伸べない。
 彼はぎゅっとズボンを握り締め、そこに立っていた。
 仲睦まじい家族連れが幾つも光の中を影だけを残して行過ぎる、幸せそうに笑い合う様を、ライは、ひとりで睨みつけていた。
 たった数歩前に出るだけなのに、それが叶わない。
 勇気がないわけではない、ライだってずっとそこに立っていたいなんて微塵とも思っていない。現に彼はその小さな掌に、数日間自分の食事の一部を我慢してまで作り出したチケット代を握りしめていた。
 それでもライの足は、暗がりに潜んだまま明るい世界へ踏み出そうとしなかった。
 彼が拒絶したのではない、世界が彼を拒絶しているように見えたのだ。
 談笑しあう人々、暖かな家族。父親に肩車してもらう子、屋台の食べ物を母親に強請る子、賑やかなパレードに拍手を送る夫婦。
 優しさに満ち溢れた世界がライを拒んでいる。
 自分の居場所は其処には無いのだと言われているようで、乱舞する光の渦をただ遠くから見つめる事しか彼は許されなかった。
 幼馴染みであり、なんでも言い合えたリシェルやルシアンも、この時だけは別世界の住人としてライの手が届かない場所に立っていた。一方の暗闇はライの背後にしっとりと忍び寄り、悔しかろう、憎らしかろうと甘い声でささやきかける。
 どうして自分は、彼処に行けないのだろう。どうして自分の横には、手を引いて歩いてくれる人がいないのだろう。
 自分の境遇を嘆いても始まらないと、ライは父親と離れた時に思った。自分が生き延びる為には、自分で自分を厳しく律しなければならないから、娯楽に現を抜かしている暇などないと自分に懸命に言い聞かせた。
 けれど、それでも。
「俺……サーカスの夜は、嫌いだ」
 押さえ付けすぎた所為で赤くなった額を持ち上げ、ライがぽつりと呟く。
 夕闇は押し迫り、赤焼けた西の空も段々と色を薄くして夜の来訪を待ちかまえていた。眇められた彼の瞳には藍色に染まる空と漂う雲ばかりを見ていて、横顔を窺ったセイロンは何も言わず、身動ぎして衣擦れの音だけを起こした。
「そう、か」
「ああ」
「嫌いか」
 リュームに行くなと言ったのは、確かに今が非常事態であり、彼が狙われる身の上だからという理由も大きい。けれどそれ以上に、ライはあの空間が苦手だった。
 日常の倦怠感から解放されて、大人も子供も関係なく、皆が皆己の年齢も忘れて手を取り合い、踊り歌い笑う。それは毎日を健全に、そして慎ましやかに生きている人々への稀なるご褒美であり、この日だけは仕事も嫌な事も全部忘れて、夜が明けるまで人々ははしゃぎ回るだろう。
 そしてライは、自分がその輪の中に入れない自分を嫌っている。幼い頃踏み出せなかった一歩が、今も彼の前に巨大な壁となってそそり立って道を塞いでいた。
 誰も彼の手を取らなかった。
 誰も彼に、日常を忘れて遊び耽る術を教えなかった。
 ライは自分の境遇を、決して不幸だと憂いたりはしない。自分は特別で、他の奴らとは違うとも思わない。
 自分だって楽しむ権利はあると、信じて疑わない。ただ彼は、どうすれば良いのかを知らなかった。
 知らない、分からない。だから、嫌い。
 怖い。
 自分が与えられなかったものを、リュームに与えてやれる自信が無かった。自分が暗がりから見つめるしかなかった光溢れる世界を、あの子にはちゃんと見せてやりたかったのに。
 結局また、尻込みしてしまって動けずにいる。そんな自分の卑小さに、嫌気がさす。
 しみじみと呟いたセイロンに、ライはまた顔を伏して今度は膝頭に左の頬を押しつけた。
 柔らかな肉が落ち窪み、凹む。奥歯の隙間に硬い骨の感触を浴び、顔が半分変な形に拉げてしまった感覚に喉の奥で笑いがこみ上げた。
 けれどその笑みはどこかぎこちなく、不格好に終わる。
「ライ」
 セイロンが彼を呼んだ。しかし顔を上げず、返事もせずにいると、彼の手が肩の後ろをすり抜けて行って、反対側からライの上腕を捕まえた。
 他人の熱と、浴びせられる力に背筋が緊張する。びくりと過剰なまでに反応したライは、若干怯えた様子で表情を凍り付かせて額を浮かせた。
 泳ぐ視線が傍らの青年を捉える。しかしその輪郭をはっきりと見いだせぬまま、ライは不意に唇に感じたもっと強い熱と感触に目を見開いた。
「んッ……」
 至近距離で緋色の宝玉が輝く様を見てしまい、ライは咄嗟に首を振って拘束から逃れようと足掻いた。けれど左肩を捕まえる力は思った以上に強く、容易くは振り解けない。どうにか唇の合わさりだけは外したものの、弾みで下の犬歯が彼の柔らかな肉を削ってしまった。
「ちょっ、こら」
 両手を突き立てて彼の胸を押し返そうと試みるものの、それを封じ込める格好で空いていた彼の手がライの手首を捕まえて二本まとめて彼の太股に縫いつけてしまう。
 慌てたライが首を窄めて距離を稼ぎながら、上目遣いに前髪の隙間からセイロンを見上げた。手はしつこく彼の束縛を解こうと動かし続けるが、爪が皮膚に食い込んできて痛い。
 いきなり何をするのか、と咎める声を発したいのに、まるで言わせまいとしているかのようにセイロンはしつこく首を伸ばして来て、下から掬い上げる形でライの唇を覆い隠した。
「んぅ……」
 息を吸い込もうとしていたタイミングだった所為で、彼が吐いた吐息を舌先に痛烈に感じた。油断して閉じきれなかった唇を難なく舌でこじ開けたセイロンは、ライが身動き出来ないのを良いことに好き勝手奥まで侵入を果たして柔らかな粘膜を擽っていく。
 背筋が粟立ち、捕まれている肩が緊張で否応なしに強張る。呼吸も思うように出来なくて、ライは堅く目を閉ざして必死に鼻から息を吸い込んだ。
 甘く表皮を噛んだセイロンの前歯が、噛んだばかりの箇所をあやすように舐めて離れていく。広がった隙間からどうにか息を吐き、力が抜けたところで鼻先にもキスが落ちる。首を傾けて角度を付けた彼にそちらも噛み付かれ、鈍い痛みにライはのろのろと瞼を持ち上げた。
 しかし真っ先に見えたのが赤く濡れた彼の口元だった所為で、咄嗟にまた目を閉じてライはきつく唇も噛み締めた。
 セイロンが笑う。余裕がありすぎる彼が悔しくて、ライはベンチに乗り上げたままだった足で彼の腿を蹴り飛ばした。
「行儀が悪いの」
「どっちが!」
 左肩を引いたセイロンが不機嫌そうに言い放つが、ライの声はそれを上回って周囲に風を巻き起こす。ずっと握られていた所為で鬱血して赤くなった肌を撫でさすり、彼は腹立たしげに息を吐くと足を下ろしてベンチに座り直した。
 セイロンもまた、赤地の着物に付着した泥を払い落として肩を揺らす。
 気勢がそがれてしまった。そもそも何の話をしていたのかも忘れかけていて、ライは気を取り直すべくわざとらしい咳払いをひとつ零した。
 くく、と顰めた笑い声が横から聞こえて、反射的にムッと頬を膨らませて向き直る。セイロンは予想通り丸めた拳を口元に押し合えており、殺しきれない笑い声が赤く濡れた唇から幾つも溢れ出していた。
 思わず握りしめた拳で殴り飛ばしてやりたくなる。けれど肩を引いて肘を持ち上げたところで勘付かれ、先手を打った彼にまたしても手首を囚われてしまい、攻撃は実行に移る前に回避されてしまった。ぶすっと下膨れた表情を作り出して上目遣いにねめつけると、余裕綽々の表情でセイロンはまた人の額にキスを落とす。
 触れるだけの、簡単な。
 家族の挨拶にも似た、けれどほんの少し熱量が違うようにも思えて。
 複雑な顔をしてライは唇を尖らせる。最後に彼はその部分にも軽く吸い付いてふたりの間だけに音を響かせ、ライの顔をいっそう赤くさせて離れていった。
 からかわれている、そう思うと悔しくてならない。
 だのに、何故だろう。さっきまで夜闇に覆われた平原にひとりで立ち惚けている気分だったのに、今は少しだけ気持ちが浮上している。見えなかった星空が顔を覗かせた、そんな気持ちになる。
 風が吹いた。
「……あ」
 掬い上げられた前髪が、ふわりと宙に浮き上がった。思わず藍色の中に浮かぶ銀世界に声を出してしまい、セイロンの存在さえ意識から追い出して忘れてしまう。
 光が、遠くで蛍火のように輝いていた。
 いつしか太陽は地平に消え、明日の朝までしばしの眠りについた。星の瞬きは淡く儚く、揺らめく雲に簡単に掻き消されてしまうのにそれでも懸命に己を燃やし、自分を見つけてと訴え続けている。
 彼方に踊るテントを照らす明かりは穏やかで、けれど幻想的な音色を奏でながら現世の矛盾を笑っているようでもある。あの中で今、無数の人々が胸をときめかせながら、時に笑い、時に驚き、普段の自分を忘れて悦びに胸を震わせているのだろう。
 手を伸ばせば簡単に届くのに、敢えてライはそこに背を向け続けた。
 理由なんて、無い。ただ記憶の中で、子供がひとりで泣いている。
「ライ」
 真横から響いた声に我に返り、ライは傍らに目を向けた。
 どこまでも優しい緋色の瞳が静かな湖面を思わせる色を湛え、自分を見つめている。映し出された己の姿に勝手に頬が熱くなって、ライは引き寄せられるままに目を閉じた。
 右の、そして左の瞼に落ちた口づけに、くすぐったさから身を捩って彼の肩を拳で叩く。声を立てて笑っていると、急に叩こうとした先のものが掻き消えてライはセイロンの姿を一瞬だけ見失った。
「あれ」
 何処へ行ったのだろう、と明かりを求めて彼は営業を終えて久しい食堂の窓を振り返った。
 直後、彼の身体は突然下から突き上げられて爪先が地面から離れた。腰もベンチから浮き上がり、不安定な中空に持ち上げられる。
 消えたと思っていたセイロンは、実際は彼の足下に屈んでいただけだった。けれど今や地表を照らす光は星明かりのみとなり、暗がりに潜り込まれると簡単にその姿は見えなくなってしまう。
「わっ、え、ちょっ……セイロン!?」
 じたばたと足を前後に揺らし、ライは自分の前にいる人物の名前を呼んで喚いた。振り回した拳が彼の後頭部、丁度角が生えているギリギリの部分に当たって小気味良い感触がライの骨を打った。
 振り向いた彼は腰を上下させて、背中に抱え込んだライを下から両腕で支えつつ、どうにかバランスを取ろうと必死の様子だった。
 背負われているのだ、今、ライは。
 セイロンに。
 なんでまたこんな事に、とライはいきなりすぎる展開に理解が追いつかない。一方のセイロンも、ライの身体が思ったより重かったようで二本足を肩幅まで広げ、気を抜けば簡単にずり落ちて行こうとする彼を腕の力だけで持ち上げた。
「ライ……頼む、腕を」
「へ? え、ああ、え……こう?」
 リュームを背負った経験はあっても、自分が背負われる経験は無いに等しい。あの時あの子はどういう風に自分にしがみついていただろう、ぼんやり記憶を漁りながらライは前に突き出した両腕をセイロンの首に絡ませた。
 胸が彼の背中に密着する。着物越しでも感じられる引き締まった筋肉と、無骨な骨格。広い背中、微かに薫る香の匂い。
 ライが自分から体重を預けてくれたお陰で、支えやすくなったらしいセイロンがほっと息を吐く。
 いくら身長差があるとはいえ、ライもそれなりに背丈も体重もある。背負われるには少々育ちすぎている所為で若干バランスが見た目上悪いものの、当のふたりには見えていないから関係なかった。
「なんか……変な感じ」
「そうか?」
 胸の奥がくすぐったくて、けれど笑えなくて、ライは仄かに灯る明かりに目を閉ざす。
「本当は肩車がしてやれたなら、良かったのだがな」
「そんなことしたら、お前が潰れるって」
 せいぜいおんぶが限界だろう、と彼の体温を頬に感じながらライがカラカラと声を立てて笑う。
「いや、だが、一寸くらいなら」
「俺が恥ずかしいから、嫌だ」
 それでも何処か悔しげに息を吐くセイロンが可笑しい。放っておけば本当にやり出しかねなくて、ライは彼の肩に顎を埋めて断固拒否の台詞を吐き出した。
 本当は、今こうやって負ぶわれているのさえ、恥ずかしいのだ。
 でも、下ろしてとは言えなかった。
「……重い?」
「いや」
 膝を下向けに伸ばせば、爪先が地面を掠める。尻の下で交差された彼の手は大きくて、決して離すものかという意志が感じられた。
 潜めた声で問うたライに、セイロンはまっすぐ前を向いたまま首を振る。
 彼が仰ぎ見た夜空では、目映い星がひとつ流れた。
 父親の背中は、こんな感じだっただろうか。もう思い出せもしない男の後ろ姿を脳裏に描き出し、即座に彼は今自分を抱えてくれている存在に塗り直した。
 今の自分には、彼がいる。
 彼で良い、背中を感じるのは。
 彼の背中が、いい。
 ぎゅっと肩に回した手に力を込めて抱きしめる。呼吸が苦しくないように加減しつつも、自分だって絶対に彼を離すものかと伝えたくて。
 気付いてくれたのかどうなのか、セイロンは軽く後ろを振り向きながらまた笑った。
「ではこのまま、御子殿を迎えに行くとするか」
「……へ?」
「落ちぬよう、しっかり捕まっておれよ」
「いや、待って。本気? どれだけ距離あると思って……セイロン!」
 てっきりもうこれだけで終わりだと思っていたのに、突拍子もなく言い放たれた彼の言葉にライは目を剥いて驚く。だが呵々と高笑いをひとつかき鳴らした彼は、本当にライを背負ったまま歩き出してくれて、一歩前に踏み出した衝撃に上半身を揺らしたライは泣きそうになりながら彼にしがみついた。
 いくらなんでも、ここから門前広場までは遠すぎる。絶対に途中で体力が尽きるに決まっているのに、どうして。
「祭りの夜は、楽しまなければ損だからだよ」
 舌を噛みそうになって唇を閉ざしたライの耳に、砂利を踏みしめる音に混じって彼の声が朗々と響き渡った。
「我は今、こうして御主といるのが楽しい。だからこうするまでだ」
「そんなの」
 偽善だ、とは言えずにライは言葉を飲む。代わりに、巻き付けていた腕を解いて背筋をまっすぐに伸ばした。
 重みのバランスを崩されたセイロンが、前に足を踏み出して転倒を回避する。が、その隙にライは強引に身体を捻って彼の腕から飛び降りてしまった。
 背中から急に重石が消え、たたらを踏んだセイロンが闇の中でライを振り返る。
「だったら、俺は、こうする」
 伸ばした手で彼を捕まえて、掌を重ね合わせて、指の間に指を差し入れて。
 握りしめる。
「ライ……」
「一緒に、行こう。迎えに」
 リュームには謝らなければいけない。そして、あの子が持ち帰った土産話を沢山聞いてあげよう。きっともの凄く興奮しているだろう。暫くは食卓にあがる話題も、今夜の出来事ばかりになりそうだ。
 興奮しすぎで今日はなかなか寝付いてくれないかもしれない、その時はセイロンに昔話でも語ってもらおう。
 サーカスが見られなかったのは残念だけれど、これが最後という訳ではない。またいつか、日は巡ってくる。その時まで楽しみを取っておくと思えば、十分ではないか。
 今はこうして、一緒に居られる事が一番、嬉しい。
「そうだな。次は、皆で見に行こう」
「セイロンも?」
「嫌か?」
 遠い未来、まだ確約されていない明日。けれど夢見る事くらいは、許してくれても良いだろう。
 叶わないとお互い知りつつも、果たせない約束だと分かっていても、祭りの夜くらいは現実を忘れていたい。
 握りしめた手に、そっと力を込める。
「嫌じゃないよ」
 暖かな掌に、目一杯の願いをのせて。

 記憶の中で、泣いていた子供が、笑った。

2007/6/26 脱稿