熱度

 地中海の夏は、暑い。
 ヨーロッパ中からバカンスに観光客が押し寄せるのも分かる、海は綺麗で魚介類は豊富。果汁たっぷりのフルーツ、特にオレンジはこの地方でしか栽培できない種類もあるので新鮮なものを食べようと思えば、どうしても此処まで来る必要がある。
 ジェラートも美味い、さすがこの地方発祥なだけある。
 アジアとヨーロッパ文化が衝突する地点にあり、長らくイスラムの支配も受けてきた。ヨーロッパにありながら異国の雰囲気を醸し出す古い建造物はまだそこかしこに残っており、また古代文明が栄えた場所でもあるので遺跡の数も多い。
 ただ、難点も多い。
 そのひとつに直面させられて、ボンゴレ十代目こと沢田綱吉はベッドの中で低く呻いた。
「あぢぃ……」
 時刻はまだ朝、但し太陽は既に大分高い位置まで登っている。
 今日の予定で急ぎのものはなんだっただろう、誰も起こしにこないのを良い事にベッド上で大の字になりながら綱吉は天井に視線を這わせ考える。
 だが窓から差し込む陽気だけで充分に熱せられた室内の空気に、脳みそはとっくの昔に茹だってしまっていてまともに回転しようとはしない。真っ白に塗られた天井に据え付けられた大型の扇風機も今は羽根を休め、外観を壊さないように設置された近代設備の典型でもあるクーラーも、昨晩設定した運転時間を過ぎて活動を停止していた。
 リモコンのボタンをひとつ押せば直ぐに再起動するのは分かっている、だがその為にはベッドから起き上がって十歩近くを歩かなければならない。何故枕元まで持ってこなかったのかと、昨晩寝入る前の自分に文句を言いたくなって綱吉は一瞬浮かせた後頭部を再び枕へ押し付けた。
 ジッとしているだけでも汗が、全身から噴出してくる。日本の夏も充分酷かったが、この国もそれは大差なかった。
 大体昨日の最高気温はなんだ、三十六度だ。
 カレンダーはまだ六月の後半、日本で言えば梅雨空が続いている頃だ。しかし地球をほぼ半周した先であるこの国のこの島は、今や日中は三十度越えが当たり前。カンカン照りの陽射しは肌に突き刺さるようであり、帽子も被らずに日向に立ったままだと五分で熱射病になれそうだ。
 しかも予報では、今日辺りからアフリカ大陸北部の砂漠地帯で発生した熱波がこちらにやってくるのだとか。聞いただけでも倒れそうになる単語の羅列に、綱吉は軽い眩暈を覚えて汗に濁る額に手の甲を押し当てた。
 流れ出した汗が睫に引っかかり、瞳にもぐりこもうとしている分を指で弾く。伸びかけの後ろ髪が汗に絡んで首にまとわりついているのも非常に不愉快で、いっそ切ってしまいたいのに部下一同がなかなか許してくれない。
 歴史あるボンゴレの名を正式に継いだのだから、いつまでもそのボサボサ頭で居るわけにはいかないだろう、とは親愛なる家庭教師の先生の弁だ。かと言ってコシも半端ないくらいに強く、癖がありすぎる髪の毛を今更サラサラストレートにするのは難しい。
 綱吉自身とっくに諦めているものをどうすれば良いのだと愚痴っていたところで、誰かが言った、伸ばして結んでしまえばいいんじゃないのか、という非常に無責任な案。だがその場に居合わせた全員が、何故こんな簡単なことに今まで気づけなかったのかと発言者に賞賛の拍手を送って、本人の意思に関係ないところで話は進み、ただ今綱吉の後ろ髪は肩に届くかどうかのところ。
 結ぶには少し短すぎる毛足が首筋を擽って、そこから新しい汗が浮かんだ綱吉はだるい身体を右に起こして寝返りを打った。
 目の前のシーツに細かな筋が無数に浮かび、その間に自分の腕が埋まっている。着ているパジャマは上質の布を使用しており、これだけは汗をどれだけかいてもべたつかず、サラサラのままだった。
「あっつーい」
 こんな気候があと三ヶ月も続くのかと思うと、一気にやる気が萎えてしまう。意気込んで乗り込んではみたものの、ホームシックではないが故国が懐かしく思えて急に帰りたくなってしまった。
 ちらりと盗み見た窓の外は、カーテン越しであるが燦々と太陽が輝いて南国の様相を呈している。きっと外は室内に比較ならないくらいに暑いんだろうな、と考えると起き上がる気にもなれなくて、更に寝返りを打ってうつ伏せになった彼は枕を抱き締めた。
 動きたくない、起きたくない。仕事もしたくない、ずっと寝ていたい。
 気ままな学生生活が懐かしい。
 年輪が逆向きに進まないだろうか、ひんやりとした触り心地の枕に気持ちを委ね、まだ日本に居た頃に思いを馳せながら目を閉じる。
「あーあぁ……」
 顔を左に向けて左肘を外向きに曲げていると、思わず溜息が零れて自分で苦笑してしまった。
 誰も来ないし、もう一度寝してしまおうか。暑いことに変わりは無いけれど、意識を手放してしまっている方が幾分かマシだろう。乾いた唇を舐めて潤いを与えてやり、綱吉はゆっくりと瞼を下ろした。
「えぇっと、お休みのところ大変申し訳ないのですが、沢田殿」
 だが沈黙を破る青年の、無理に低くしようとした声に即座に目を見開き、綱吉はひっ、と喉を引き攣らせて吸い込んだばかりの息を吐き出した。
 人の気配は背中から。超直感を持ち合わせていながら、相手の接近にまるで気づけなかった自分の迂闊さを思わず恨んでしまう。連日の暑さで頭がボケてしまったのだろうか、機能を著しく低下させていたのはなにも身体だけではなかったらしい。
 コホン、と高い位置からの咳払いがひとつ。
 普段はとても愛想が良く、にこやかな笑顔を崩さない相手ではあるが、今の口調と漂う空気から彼が若干、いや既にその範囲を超えるくらいに怒っているのだと想像できた。脂汗が額に滲み、ダラダラと下へ流れて行く。半分塞がれた視界で瞳を上下左右に忙しなく動かしやり、綱吉は彼が次に発するだろう言葉を予測する。そのどれもがあまりにも自分にとって有り難くない結末で、心臓が小さく悲鳴をあげた。
 微かに衣擦れの音。
「今日の予定がありますので、そろそろ起きていただかないと」
 本来は別部署に配置されている彼だが、綱吉と年齢が近く、また日本で共同生活を短い期間ではあったが送った経験があるとの事で、彼は出向と言う形で今も綱吉の傍に仕えていた。
 指輪に選ばれた守護者とはまた別に、綱吉を補佐して時には共同戦線を張る。さらには綱吉のスケジュール管理や体調管理まで、いつの間にか彼の仕事の一部と化していた。
 彼の言葉には逆らえない、彼を怒らせるとろくな事にならないのはこれまでも散々経験済みだ。
 だがすっかりだらけてしまった身体と、急に彼が現れたものだから緊張のあまり硬直してしまった神経はなかなか素の状態へ戻ろうとせず、言葉を発するのも難しくて綱吉はベッド上でただ身を固くするばかり。
 斜め上から溜息が聞こえて来た。ひとつ分の足音が響き、彼の気配がより強く背中に感じられるようになる。
「沢田殿、非常に申し訳辛いのですが」
「……」
 ある意味人を憐れんでいるような声色を作り出し、彼は先ほどより若干言葉の勢いを弱めて呟いた。
 言うのも辛い、という感情が声から読み取れて、綱吉は素早く瞬きを繰り返す。背中を向けられているので彼から綱吉の顔は見えないが、前方に投げ出したままの手がピクリと動いたのを、彼はしっかりと確認した。
 綱吉の見えないところで、ひっそりと彼が微笑む。
「このままですと、廊下で今か今かと待ち構えておられるランボ殿を、この部屋にお招きせねばならないのですが」
 どうなさいますか? と。
 悪意のない笑顔が瞬間、綱吉の脳裏にまざまざと描き出された。
 否、一瞬で纏っていた布団も全て薙ぎ払って、綱吉はベッドの上でひっくり返るように起き上がっていた。
 黒のスーツに白のシャツ、矢張り黒のネクタイをきちんと折り目正しく結んだ青年が、本来は綱吉に負けないくらいに大きな瞳を横に細めて微笑みかける。肩で息をした綱吉は、しかし彼の笑顔を意識の外に置いたまま、落ち着きなく視線を室内隅々まで走らせていた。
 廊下に繋がるドアは、閉まっている。物音は特に聞こえない、だが一気に膨れ上がった心臓は激しく脈動していて、荒くなった呼吸を肩で繰り返した綱吉は直立不動で佇んでいるバジルを最後に視界の中心に据え、掴んだままだったケットの端を膝に置いた。
「ら、ランボは……?」
「恐らく今頃は、食堂で朝食中かと」
 日本に居た当時はまだ身体も小さく、多少勢いをつけて飛びかかられてもそれ程痛くなかった。
 だがイタリアに戻って食生活も変化し、更に元々成長期でもある為、この数年であの子は一メートル近く伸びた。必然的に体重も増し、力だって相応についてきている。しかし性格は昔のままで、綱吉を見ては遊んで貰いたがって遠慮なしに飛びかかってくる。
 身長百四十センチはあろう子供に背中からタックルを食らえば、いくら綱吉でも前によろける。ベッドで寝転がっているときに腹の上にダイブされたときは、本気で死ぬかと思った。
 あの瞬間の恐怖が蘇り、思わず起き上がってしまった綱吉だったが、言った本人は薄茶色の髪を耳に引っ掛けて後ろへ流しながらしれっとした顔で発言をはぐらかした。
「謀ったな!」
「ではお呼びしましょうか」
「いや待って、ちょっと待って、お願いだから待って」
 大声を張り上げてバジルを問い詰めるが、彼は飄々とした態度を崩さぬまま後ろを振り向こうとする。だから思わず綱吉は両手を伸ばして彼の腰にしがみつき、行動を止めるのに必死になった。
 頭が下がる、本当に。自分の苦手なものをこの数年ですっかり彼に把握されてしまった、……扱い方も。
 ずるずるとベッドからはみ出して体が下にずり落ちていき、このままでは頭から落下するという寸前でバジルの手が脇に差し込まれ、軽々と抱えられてベッドサイドに下ろされる。今度はちゃんと足を下向けて座ると、何も言わずに彼が顔を寄せてきた。
 思わず目を閉じてしまう。だが彼が触れたのは頬だった。
 軽い音を響かせ、おはよう御座います、との言葉が続く。薄目を開けた綱吉は、横から陽射しを浴びているバジルの綺麗な顔を間近からぼんやり見上げ、自分もまた首を伸ばして彼の左頬に触れるだけのキスを贈った。
「おはよう」
「よく眠れましたか?」
 綱吉が姿勢を戻すのを待ってから、彼は胸に抱いていたリモコンを持ち上げてボタンを押した。直後、グゥン、という低い音が高い位置から落ちてきた。
 瞳だけを動かして音の発生源を探れば、ベッドがあるのとは反対側の壁、天上近い位置にある埋め込みタイプの空調がゆっくりと動き出そうとしていた。
 持っていたのなら先に起動させてくれればいいのに、と不満顔で彼をねめつけるもののバジルはそ知らぬ顔を貫いて腕を下ろす。それから抱えていた布類を綱吉の膝に置いた。
 言わずもがな、着替えだ。
「ありがと」
「朝食はどうされますか?」
 いつまでもパジャマのままでいるわけにはいかない。無言で着替えるよう促された綱吉は、もそもそとベッド上に戻って少しだけ涼しくなった室温にホッと息を吐いた。
「んー……」
 上着のボタンを上から順に外していく。シャッ、と軽い音が一瞬室内を駆け抜けて、視線を向ければ眩し過ぎる光が綱吉の顔面を直撃した。
 咄嗟に手をあげて庇を作り、瞳を守る。窓辺に寄ったバジルがカーテンを開けており、窓ガラス越しに溢れ返る陽光がキラキラと彼を包んで輝いていた。
 まさか全部のカーテンを開けるつもりではなかろうか、と残るボタンがひとつとなったパジャマの前を慌てて押さえつけ、綱吉は背中を丸めて身を小さくする。だがバジルは窓ひとつ分の明るさを確保しただけで満足したようで、再び足音を軽やかに打ち鳴らし、握ったままだった空調のリモコンを壁際のケースに押し込んだ。
 意識して身構えていた自分が途端に恥かしくて、綱吉は勝手に赤くなりながら急ぎパジャマを脱いで彼が用意してくれた服に袖を通す。そういえば朝食の返事を未だしていなかったな、と手首のボタンを留めている最中に思い出した。
 自分の腹を見下ろし、考える。
 正直言えば食欲はあまり、ない。昨晩食べ過ぎたとかそういうのではなく、単純に、暑さに体がついていかずに胃袋もお疲れなだけだ。消化吸収も宜しく無いようで、正確に計ってはいないが体重も一時期より少し落ちていると思う。
 そんなときほど食べなければならないと分かっているものの、この国でのこってりとした食事は、元々米と野菜、それに魚を中心とした食生活を送っていた綱吉にとってかなり厳しい。最初の頃は異国の味が珍しくて沢山食べていたものの、そんな期間は一ヶ月と続かなかった。
「う~ん……いいよ、やめておく」
「沢田殿?」
「朝ごはん、パス」
 ぎこちない手つきでネクタイを締めて、綱吉が壁際でガサゴソしているバジルの背中に告げる。曲げていた腰を伸ばして振り向いた彼が不思議そうな顔をするので、きっと彼も時間が空きすぎた所為で綱吉へ自分が質問した内容を忘れてしまったのだろう。足りなかった単語を後から付け足し、綱吉は昔に比べて少しは上手に結べたネクタイに満足げに頷いた。
 長い前髪を左に流したバジルが、控えめな歩調で戻ってくる。
「ですが、沢田殿。きちんと食べていただかないと、体力が持ちませんよ?」
「食欲ないんだ、ごめん」
 自己評価では八十点を出せたネクタイだったが、まだ曲がっていたらしい。身を低くして座っている綱吉に顔を近づけたバジルが、腕を伸ばして結び目に指を差し込んで形を整えながら上目遣いに言い返す。即座に綱吉も切り返すものの、彼の不満そうな顔は変わらない。
 申し訳ない気持ちが胸の中に塊を作っていて、ぐっとそれを飲み込んだ綱吉は項に張り付いている伸び掛けの髪の毛を指でそぎ落としていった。
 心配してくれているのは、痛いくらいに伝わっている。自分でも良くないことだと理解している、けれど体が追いつかない。すっかり水分が抜けて萎んでしまった食道は固形物の受入れを一切拒んでおり、同じくらい空気が抜けて小さくなった胃袋は、その内壁に何かが触れたところで即座に外へ追い出そうとするだろう。
 自分の身体だからこそ、分かることもある。それでもまだバジルの表情は晴れなかった。
「沢田殿」
「ごめんね」
 着替えを済ませ、脱いだパジャマを上下揃える。手は忙しく動かしながら小さく呟いた綱吉に、バジルは盛大な溜息をついて胸を後ろへ反り返らせた。
「そうですか、それでは仕方ありませんね」
 視線は綱吉の頭の上を後方へ流れている。思わず下から整った彼の顔を見上げてしまった綱吉は、随分と呆気なく引き下がった彼に僅かな警戒感を抱いた。
 綱吉に無理をさせたがらない彼だが、こと体調管理に関する部分は決して甘くない。栄養バランスを考えた食事、無駄がないように計算しつくされたメニュー、煙草やアルコールは(年齢的にもまだ駄目なのだが)一切禁止。適度に毎日運動して身体が鈍らないように、そして疲れが翌日に残らないようにと徹底的に綱吉を管理している彼なのに、今日はどうした事だろう。
 やけに大人しいな、と疑惑の目を向けていれば、急に下を向いた彼と目が合ってにっこりと微笑まれてしまった。
「バジル君?」
「今日は暑いですから、冷たいパスタを用意してみたのですが」
 折角作ったのに、残念です。頬に指を押し当てて無邪気な微笑みを浮かべた彼の確信犯めいた台詞に、綱吉はぐっと息を詰まらせてベッド上で身を固くした。
「トマトとオリーブオイルのソースを二時間ほど冷蔵庫で冷やした中に、通常より細めのパスタを矢張りじっくり氷で冷やした後で絡めてみたのですが。ああ、冷たいスープも一緒にと……」
 それを食べたくないとは、とても残念です。
 今度は掌全体を頬に添え、下向きに溜息を零したバジルの仕草はとても芝居がかっていてわざとらしい。
 けれどそのわざとらしい芝居に引っかかってしまうのが、ボンゴレ十代目こと、沢田綱吉という人物だった。
「ぐっ……」
 足元のシーツを握り締め、低く唸る。
 そこまで言われてしまうと興味が沸くし、食べてみたいとも思う。パスタは駄目でもスープくらいなら胃袋も受け入れてくれるだろうし、トマトの酸味が利いているならば落ちている食欲も増進させられるだろう。太めのパスタは喉に引っかかり易いが、バジルの言葉通り細めを選べばそう苦もなく喉をすり抜けていくに違いない。
 飲み込んだ唾が、それまで静まり返っていた胃に刺激を与える。
「あの、バジル君……?」
「仕方が無いですね、無理に食べても美味しくないでしょうし。朝露に濡れているところをもいで来たトマトを使ったのですが」
 城の敷地は無駄に広くて、余っている一画を開墾した小さな家庭菜園も最近作られたばかりだ。青々と茂る野菜は土臭さも凄いが、農薬も使っていない有機栽培のお陰で店に並べられているものよりもずっと味が濃く、美味しい。
 想像するだけで涎が口の中に溢れ出てきて、心底残念がっているバジルを恨めしく睨みつける。
 だが前言撤回するには気力も必要で、綱吉はどうしようか思い悩みながら無意識に結んだばかりのネクタイを指で解いていた。
 横目でそんな彼の仕草を見たバジルが、悟られぬ程度にひっそりと口元に笑みを浮かべる。ついつい緩んで下がり気味になる目尻に力を込め、もう一押しかなと心の中でタイミングを計った。
「山本殿か笹川殿なら、二食分も大丈夫でしょう。捨てるのも忍びないですし」
 菜園の手入れは主にバジルが、手が空いているときの水遣りなどは他のメンバーも協力している。
 戦闘訓練以外にも本来日本の学生がやるような勉強もあるし、周囲は異国の言葉を話す人間ばかりだからどうしても仲間たちの活動は閉鎖的になりがちだ。心も必然的に荒んでいく、だから土いじりなどで嫌な気分を発散させるのは楽しかった。
 自分が育てた野菜が花を咲かせた時は嬉しかったし、日を追うごとに実を大きくしていくのを眺めて気持ちが弾んだ。
 真っ赤に熟れていくトマトは、眺めているだけでも唾が出るくらいに美味しそうだった。明日辺りが食べごろですね、と昨日の夕方にバジルが言っていた何気ない一言が此処にきて急に蘇る。
 バジルは肩を落として綱吉に背を向けた。カツリと彼の踵が床を叩いて音を響かせる、行く先には部屋の備品ではない銀色のワゴンが置かれていた。
 先ほどバジルが壁際で何かをやっていたが、あれを運んでいたのだろう。上には矢張り銀製の食器が整然と並べられている、ワゴンの下部分は保冷機能がついており、バジルの弁を信じるなら食べ物はまだその中だ。
「折角早起きして作ったのですが、残念です」
 はぁ、と溜息混じりに囁かれた彼の独り言が、綱吉の耳を右から左へと流れていった。
 ぐっ、と握り締めた拳と唇に痛みが生じ、綱吉は降参だと強張らせていた肩から力を抜いた。よろよろと右手を持ち上げ、広げた掌を彼に向ける。
「バジル君」
「はい、なんでしょう」
「……」
 呼びかければ即座に振り向く彼。にこやかな笑顔が一瞬恨めしく思え、綱吉は悪態をつきたくなる気持ちを堪えて挙げている手を握った。
 肘から先に下へと下ろす。
「食べ、ます」
「はい?」
「謹んで食べさせていただきます」
 ベッドから降り、脇に避けていた靴を履いて部屋に備え付けられている洗面所へ。
 顔を洗い、うがいをし、髪の毛に軽く櫛を入れて直らない寝癖に舌打ちして再び部屋へと。その頃にはもう、バジルはバルコニー手前の窓辺にテーブルの準備を終えており、相変わらずの手際のよさで綱吉を感心させた。
 失職してもホテルマンとしてやっていけるのではないか、もしくはバトラーか。茶化して言うと、バジルは大真面目な顔をして獄寺と似たり寄ったりの事を言ってのけた。
 曰く、自分は一生貴方の傍に仕えるのだ、と。
 どうしてこの国の血を引く人間は、そろいも揃って赤面ものの台詞を真剣に、素の表情で言うのだろうか。聞いているほうが恥かしくなる台詞を正面から押し付けられ、綱吉は冷や汗を背中に流しながら引かれた椅子に腰を下ろした。
 並べられた食器は眩しい陽射しをいっぱいに浴びて、幸せそうな輝きを放って微笑んでいる。
 銀のプレートに形良く盛られたパスタは、トマトの赤と湯がいた上で細かく刻まれたエビの薄紅が絡み合い、よく冷やされているのが見た目からも伝わってきた。
 透明なグラスの表面を切子のように削り、不可思議な模様を浮かび上がらせた中に注がれたスープもまたトマトをたっぷりと使っているのか、薄い赤色がいっぱいに満たされている。対して花柄のカップには暖かな湯気を放つハーブティーが注がれており、冷たいものばかりで体が冷えないように配慮されていた。
 パンは指で軽く押しただけでも潰れてしまいそうなくらいに柔らかく、マーマレードが端から零れ落ちそうなくらいにたっぷりと塗られている。
 食欲が無かったという話は何処へ行ったのか、目の前に並べられると腹が鳴り、喉が唾液に溢れ返った。
「どうぞ」
 してやったり顔のバジルが笑みを絶やさずに綱吉へプレートを押し出す。清潔かつ鋭い光を放つ銀食器を左右に持った綱吉は、彼に軽い会釈と共に瞑目して毎日不自由なく食べられる事への感謝の意を示し、まずはスープにスプーンを差し込んだ。
 そっと唇の隙間から差し込んだ赤は、さっぱりとした喉越しに程良く酸味が利いていて、熱気に打ち負かされそうだった身体にすんなりと染みこんでいく。
「これも、庭の?」
「はい」
 完熟しているものを選んで作りました、と傍らに立って控えるバジルが綱吉に言葉少なく頷き返す。へえ、と感心した様子で視線を戻した綱吉は、自分も後で覗きに行ってみようと心に決めて残りのスープを一気に飲み干した。
 それから右手にフォークを持ち直し、銀プレートにそっと差し込む。
 直径が一ミリも無い細いパスタが銀に絡みつき、間に細かなトマトが紛れ込んでワルツを踊っている。隙間からこぼれ落ちたエビの身が、オリーブオイルのソースに音もなく沈んでいった。鼻に近づけると、仄かに大蒜の香りが感じられた。
「素麺みたい」
 日本にいた頃、夏場によく奈々が作ってくれた食事を思い出す。考えてみればあれも、暑い最中、食欲が減退している時でも割と楽に食べられた。
 しんみりとした懐かしさが胸を巡り、彼女の料理も久しぶりに食べたいなと思いを馳せながらフォークを口へ運ぶ。
 スープ同様にトマトの柔らかな酸味が口の中いっぱいに広がり、エビの歯応えも絶妙なバランスを醸し出していた。ちゅるっ、とラーメンを啜った時のように細い一本のパスタを口の中に引っ張り込んで、前歯で噛み切る。
 脇ではバジルが、そんな綱吉の食べ方を肩震わせて笑っていた。
「な、なんだよ。いいだろ、どうせ誰も見てないんだから」
 テーブルマナーがなっていない、と怒られるのを牽制して先に言葉を放った綱吉ではあるが、笑われてしまったのが恥ずかしくて頬は赤い。
 やはり自室である事と、側にいるのが彼だからどうしても気が緩んでしまう。食堂で皆と一緒に食べる時はもっとちゃんとしているのに、とフォークの先を皿に突き立ててぐりぐりと弄っていると、いい加減行儀が悪いと諭したバジルの手が上から降りてきた。
 右肩に気配を強く感じ、顔を上げる。それまで斜め後ろにいた筈の彼が、いつの間にか真横へと移動を果たしていた。
「バジル君?」
「それはそうと、沢田殿。拙者、とても大切な事を忘れていました」
 行儀が云々を差し置いて、非常に真剣で切迫した表情を作り出した彼の低く沈んだ声に、綱吉はドキリとしながら立てていたフォークを横に倒した。
 右手の甲に重なったバジルの手が、綱吉の指の隙間に指を差し入れて強く握ってくる。
 気配がより密度を増し、綱吉は右肩が石になってしまったような感覚に襲われた。
「え、なに?」
「すみません、沢田殿。とても重要な食材をひとつ、入れ忘れていたようです」
 耳朶に吐息を感じ、背筋がぞわりと粟立つ。けれどそんな自分を彼に悟られるのが嫌で、綱吉は下唇を浅く噛むとフォークに添えていた人差し指をまっすぐに伸ばして力を込めた。
 彼の胸が綱吉の肩に寄りかかる。椅子の背もたれを間に挟んで体重を与えられ、綱吉の人差し指が痙攣したかのようにフォークの上で反り返った。
 横向いた先、同じく綱吉を見つめる青年の整った顔が大きく映し出される。
「な、に……?」
 問う声が自然と震えて、綱吉は前髪の隙間から覗く顔を直視できずに瞼を閉ざした。
 鼻先から唇に感じた吐息が一瞬途絶え、微かな温もりが冷えた綱吉の上唇に重ねられる。甘く食む動きで乾いていたそれを舐めていった存在が、最後に悪戯っぽく微笑んで綱吉を見下ろした。
「これで、大丈夫です」
「はい?」
 満足げに目を細めて頷いた彼に、綱吉は逆に目を丸くしてキスされたばかりの唇に指を這わせる。
 微かに残る他人の体温に、自然と頬は熱い。夏の高温とはまた違う熱度に彼はぎこちなく、額に汗を浮かせて目の前の存在を凝視した。
「な、なに」
「ですから、ですね」
 バジルはたおやかな笑みを欠かさずに人差し指を天井に向けて突き立て、朗らかに言った。
「足りなかったので、足してみました」
 さあ、残りをどうぞ、と。
 銀プレートと手放されたフォークを綱吉の前に押し出したバジルに、彼は両者を交互に見つめながら眉間に皺を寄せた。
 どうにも茶化された気がしてならない。試しに唇を尖らせてバジルを睨み返すと、彼は丸めた手の甲を顎に押し当てて声を潜めて楽しげに笑った。
「バジル君?」
「はい、なんでしょう」
「……足りなかったのって?」
「なんでしたらもうひとつ差し上げましょうか?」
 伸ばしていた背を丸め、綱吉の顔の横へ再び距離を詰めた彼の囁きに胸が鳴る。
 思わず椅子を引いて左側へ避けてしまった綱吉は、動揺した際に触れたフォークの金音にまで激しく肩を揺らして緊張を露わにした。バジルの軽やかな笑い声が、その不快な音を掻き消すようにして室内に響き渡る。
 だから、つまりは。
 矢張りからかわれたのだ、自分は。
「……遠慮しておきマス」
 握り直したフォークでパスタを掬い上げ、赤い顔を伏して綱吉はぶつぶつと呟く。残念そうにバジルが肩を竦める様が気配で読み取れて、綱吉は若干腹立たしげにフォークで絡め取ったトマトとパスタを口の中に押し込んだ。
 乱暴にかみ砕く。
 ほんの少し、さっきとは違う香草の匂いが鼻腔を擽ったのは絶対気のせいだと。
 そう思いながら。

2007/6/24 脱稿