残滴

 重く空を覆い隠した鉛色の雲が、しとしとと絶え間なく悲しい声をあげながら地表に雨の滴を落としている。
 彼は、そんな鬱陶しい湿度を手で追い払いながら、曇り空を見上げて呟いた。
「俺、雨嫌いだな」
 どうして、と傍らに佇む彼を見上げて聞き返せば、即座に思いっきり外を走り回れないじゃないかという答えが返される。
 彼らしい答えに思わず表情が緩み、口元に手を当てて笑っていると今度は逆に、「お前は?」と聞き返されてしまった。
 だから、隣に並ぶ拳ふたつ分高い位置にある彼の顔を見上げながら、ほんの少しだけ考え込む素振りを見せて、本当は考えるまでもなく俺の中にずっとある答えをもったいぶって音に乗せた。
「俺は雨、好きだな」
「えー、嘘だろ」
 こんなじめじめした日が好きなんて、と彼は信じられない様子で大袈裟に驚き、人の顔をじろじろと見詰めてくる。
「本当だって」
 熱があるんじゃないのか、と妙な心配をして額に手を押し当ててくる、その肉刺が出来ている掌の温かさに目を細める。彼にしてみればとても些細で何気ない動作かもしれないけれど、こうやって遠慮なしに触れられる彼との距離感が何よりも俺は嬉しかった。
 自然と声が高くなり、彼とのじゃれあいを楽しみつつも前髪を梳き上げて掻き回してくる指を手で押し退け、俺は笑い声を響かせながら彼の前から逃げ出した。
「あ、待てって」
「やーだよ」
 子供みたいなやり取りをして、舌を覗かせてまた逃げる。追いかけてくる彼の脚は俺なんかよりずっと速くて、廊下を少しも進まないうちに距離は簡単に詰められて後ろから羽交い絞めにされてしまった。
 廊下を行き交うほかの生徒が騒ぎまわる俺達を笑って、中には迷惑そうにしながら、通り過ぎていく。
 窓の外は雨、じめじめした空気が否応無しに鼻をつく。
 けれど俺は、その匂いを決して不快だとは思わなかった。
「そりゃ、これでどうだ!」
「うわっ、あはは、止めてっ。ちょっと、くすぐったいってば」
 背中越しに感じる体温、肩越しに感じる吐息。腰に回った彼の手が俺を擽って笑わせようとする。
 大声を上げながら身をよじって俺は逃げようと試みて、阻止しようと彼の手が脇を通り抜けて胸元へと回された。
 頭上で静かに、雨の音に混じってチャイムの音が響き渡った。
「あー……」
 ふたりして同じ方角に目を向け、スピーカーからノイズが消え去るのを待つ。廊下に陣取っていた生徒も、ぞろぞろと慌てた様子で教室に引っ込んでいった。
「授業、始まっちまったな」
「……そう、だね」
 そうして廊下は静まり返り、校舎端の階段手前の空間からは人の気配が消えた。自分たちが呼吸する音が互いの肌を通して相手へと伝わって、混ざり合った熱に息が煙る。
 潜められた彼の声が耳朶を打ち、俺は背中越しの彼の鼓動に緊張を露にしながら辛うじて相槌を返した。
 回されていただけの腕が交差して、彼の右手が俺の左胸に重ねられる。まるで心臓を鷲掴みされたような衝撃に全身が戦慄き、俺は声を失って息を呑んだ。
 気配で見えない位置に居る彼が笑ったのが分かった。
「緊張する?」
「……する」
 悪戯っぽく囁き声で聞いてくる彼に、トーンを落とした声で返す。恨みがましく彼の腕をねめつけるが、肝心の視線が絡まないので効力は薄い。
 鍛えられた両腕には、ところどころ擦り傷が目立つ。
「なぁ。なんで雨、好きなんだ?」
 人の後頭部に鼻先を埋めた彼が更に問うて、俺は吹きかけられる息に肌を粟立てながら首を軽く横へ振った。
 答えないで居ると、抱き締める腕に力が込められる。後少ししたら先生が階段を登ってくるかもしれないと思うと否応無しに緊張感が高まって、破裂しそうな心臓が早鐘を鳴らした。
「なあ、なんで?」
「そんな、の」
 理由なんて無いと言おうとして、首筋に牙を立てられた。
 チリッとした痛みが肌を刺し、軽くだったが、吸い付かれる。思わず声を出しかけて、慌てて唇を噛んで堪えた。
 そんな反応に気をよくしたのか、彼は益々調子に乗って悪戯を繰り返してくる。夏服に切り替わって久しく、身にまとうシャツは薄手のもの一枚だけだ。
 胸を撫でる手の動きが、ひとつの意思を持って妖しく蠢いた。
「だっ……」
「な。なんで?」
「だって……」
 告げる声はか細く、弱い。
 ひとりで立っているのさえ段々困難になっていく自分を意識して、俺は顔を伏し彼の腕に下から掬い上げた手を載せた。
 項を舐めていた彼が身を引き、距離を作る。
「雨、降ったら……野球部、練習中止になる、から……んっ」
 第二関節を立てて角度を作り出した彼の右手人差し指が、シャツの上から心臓を覆い隠す皮膚の一部に触れた。
 鍛えられているとは言い難い薄い胸板を下から持ち上げるようにして、彼の掌が俺の肌を擽っていく。
「へえ?」
 びくりと腰から上を震わせた俺の胸を撫でたまま、耳元にいる彼が低くした声で呟く。どこか愉悦を含んだ印象を与える声色に、俺は顔を赤くしながら目を閉じ、喉を大きく上下させて生ぬるい唾を飲んだ。
 言った事は本心だけれど、理由があまりに自分勝手な内容なだけに、余計に恥ずかしさが募る。彼は気を悪くしただろうか、とそれだけが怖くて、更にいつ足下から音を響かせて教師が登ってくるか分からない状況に、全身が戦慄いた。
 彼の左手が、俺を支えるべく回していた腰元から若干下へとずれていく。
「なっ……」
「んじゃ、これは?」
 布の上から形をなぞられて、瞬間的に俺は目を見開き背後の彼を振り返っていた。
 其処にいたのは、いつもの愛想がよい屈託無く笑う彼だ。けれど細められた瞳には僅かに色が宿っていて、間近から直視してしまった分俺は動けない。
 乾いた唇が震えて、瞬きをするのも忘れて彼を凝視し続ければ、悪戯っぽく微笑んだ彼の左手が気をよくした様子でズボンの上から俺をなぞっていく。
 勃ちあがりこそしていないものの、次第に熱を増そうとしているそれを示し、彼は口角を歪めて俺に笑いかけた。
「これは、なんで?」
「やっ、ダメだ……って」
 掬い上げるようにして布地ごと表面を煽られ、ぞくりと背筋が粟立って彼の胸元に後頭部を押しつける。
 ちょっと離れた教室のどこかでは、授業が始まったのか号令と共に立ち上がる音が一斉に廊下にまで響き渡った。別の階段を使った教師がいたのだろう、その現実にほっと胸を撫で下ろしていたら忘れかけていた左胸の上にある掌がまた動き出して、俺は本気で泣きそうになりながら彼の鎖骨に頭を打ち付けた。
 けれど力が入らなくて、たいした痛みも無かった彼は声を潜めながら笑って人の首筋にまた赤い痣を残した。
「や……まも、ンっ、ダメ、だって本当……」
 こんなところでこんな事をしているところを、もし誰かに見られでもしたら。
 言い訳なんて出来ないし、誤魔化すのも難しい。
「答えてよ、ツナ。そしたら、放してやるから」
 背中から熱い吐息を感じ、俺は懸命に溢れようとする声を殺して唇を噛んだ。
 薄く持ち上げた瞼は下を向き、段差を作り出して前方に広がる空間ばかりに目がいく。いつ其処に足音と他者の姿が出現するか分からない恐怖心に駆られた俺は、乱れた息を整える暇もなくもう一度唇を噛み、それからゆっくりと形を変えようとしている俺自身、そしてそんな俺を遠慮の欠片も持たずに弄んでいる男の手を見下ろした。
 スラックスの色が濃い分、彼の肌色が際立って恥ずかしさが増す。
「ツナ?」
「やま……もと、がっ……」
 左胸の彼の手が、心臓を掴んでいる。彼の動きひとつで鎮まりも、また激しさも自在に操られてしまう自分がどうしようもなく下劣な存在に思えて、また彼の手でいくらでも自分が作り替えられてしまう現実に怖くなる。
 それなのに。
「俺が?」
 耳に息を吹きかけ囁く彼の声に、強張った背筋が緊張以外の熱を持つ。
「山本が、さわ……っ」
 カッ、と何かが床を叩いて動く音がふたりの耳を同時に打った。思わず悲鳴をあげかけた俺の身体を、彼は咄嗟に手を離して自由にする。そしてふらついて前に崩れそうになった俺の腕を掴み、肩が抜ける寸前まで引っ張って強引に反転させて、抱きしめた。
 広かった世界が狭まり、彼の汗の臭いが鼻腔を刺す。突然の変動に意識が追いつかない俺の頭を後ろから持ち上げた彼は、その勢いのまま俺の唇を塞いだ。
「ンっ……!」
 前歯がぶつかり合う衝撃に目の奥で星が散る。下唇を吸い込むようにして蠢いた彼の唇が、その柔らかな肉を甘く噛んでより繋がりを深めて来た。
 足音が響く。だがそれは、予想よりも早い段階で横に逸れてやがて完全に聞こえなくなった。
 ひとつ下の階で曲がったらしい、自分たちがいる踊り場まで登って来なかった人の気配が完全に途絶えるのを待って、彼はやっと俺の頭を解放した。
 濡れた吐息が彼の顎にぶつかって砕ける。俺は肩を荒く上下させると、膝に力も入らなくてそのまま彼の肩口に額を押しつけた。
「ツナ?」
「もー……好きにして」
 半ば自暴自棄気味に呟き、自分も彼の背に下から腕を回す。一瞬きょとんとした彼だったが、二秒後には、今が授業中だというのも忘れて声高に笑い出した。
「分かった。好きにする」
 トイレと屋上と、どっちが良い? だなんてわざと人に問いかけながら、彼もまた俺の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめた。

2007/6/24 脱稿