その日は何も予定が無かったから、雨さえ降っていなければ出かけようと思っていた。
「かあさーん」
計画は誰にも言っていなかったし、言う必要も無いものだった。だから綱吉は一人身支度を整えると階段を普段通りのペースで降りて行き、台所にいるはずの奈々を大声で呼んだ。
しかし最初に廊下に顔を出したのは、葡萄味らしき紫色のアイスキャンディーを持ったランボで、その後ろに圧し掛かるようにしてイーピンも、矢張りオレンジ色のアイスキャンディーを持って現れた。更にその後ろではチョコレート色のアイスを手にしたビアンキが、相変わらずどこかけだるそうな目つきで立っていた。
勢ぞろい、といったところか。リボーンの姿は見えないが、彼のことだからわざわざ廊下に出ることも無いと判断して悠然と構えているだけだろう。
奈々からの返事は無くて、綱吉は首を傾げつつ三人の傍へ歩み寄る。
「母さんは?」
「な~に? ツッ君」
アイスキャンディーを口いっぱいに頬張っているからか、ランボもイーピンも、問いかけに答えてくれない。ビアンキはどうせ面倒くさがって最初から教える気は無いだろうし、と片手を壁に添えて子供たちが慌てて引っ込んで行った台所を覗き込む。すると思ったよりも近い場所から奈々の明るい声が聞こえてきて、遠くに視線を向けていた綱吉は慌てて顔を上げて右を向いた。
即座に焦点が合わず、ぼやけた輪郭が眼前に広がる。瞬きを素早く二度繰り返し、息を吐いて漸く彼は母親の姿をその場に認めた。
入り口近くの戸棚前で膝を折っていた彼女は、今日使うつもりだろう食器を取り出している最中だった。低い位置にいる彼女と若干距離を取り、綱吉はぶつかりかけたランボに軽く謝って外出してくる旨を手早く告げた。
「あら、おでかけ?」
そんな事は前日も、今朝も何も言っていなかったのに、と奈々は僅かに目を丸くして息子の顔を見詰め返す。聞きつけたランボとイーピンが、アイスで濡れた手で綱吉のズボンを引っ張ろうとしてきたので彼は慌てて足踏みをして場所を移動した。
中央のテーブル前ではリボーンが、真っ白い陶器製のエスプレッソカップを手にのんびりと午後のひと時を楽しんでいる。通常のカップよりも一回り小ぶりのそれは、けれど幼い外見をしている彼にとっては丁度いいサイズになっていた。
向かい側にはビアンキが頬杖をついて腰掛けており、綱吉はそのふたりを追い越して台所の奥へと逃げ込む。そしてついでとばかりに、自分も冷凍庫のドアを開けて蓋の開いた箱からアイスを一本取り出した。
白い冷気が綱吉の頬と前髪を嬲り、空中に掻き消える。手早くドアを閉めてビニルの封を破り、袋をゴミ箱に捨てた彼は、しつこく絡んでくる子供たちを足で追い払いながら立ちあがった奈々を視界に収めた。
「あんまり遅くならないようにね」
「分かってるって。それで、ちょっとお金欲しいんだけど」
アイスキャンディーの先端に前歯を浅く立て、唇に触れた冷たさに眉根を寄せながら綱吉が言う。
瞬間周囲の空気までもが俄かに冷えて、一気に居心地悪い空間と化した台所に彼は辟易した様子で肩を落とした。
「お小遣い、この前あげたばっかりでしょう?」
「ママンにたかるなんて、最低ね」
頬に片手を添えて首を傾ける奈々の言葉に、ビアンキの低い冷徹な一撃が加わる。ズズ、とエスプレッソを啜ったリボーンもまた険しい表情をしていて、分かっていない子供ふたりだけがじゃれ合って騒いでいる。
もっとも綱吉自身も、言い出す前からこんな結果が待っているだろうくらいは想像がついていて、その予想通りの展開に思わず溜息が零れた。そうじゃなくて、と力なく首を横へ振り、気を取り直す格好で咳払いをひとつ繰り出す。
棚から取り出した食器を流し台へ移動させた奈々の左肩を見詰め、綱吉は薄曇りの空が広がる窓の外に目を向けた。
湿度は高め、気温は平年並みながら肌にまとわりつく空気は鬱陶しいことこの上ない。
襟足を擽る感触に心の中で舌打ちし、綱吉は邪魔そうにそれを払いのけた。
「何に使うの?」
綱吉が自由に使える金額は、月ごとに一定の上限が決められている。それを上回る出費が必要になった場合、そして奈々の補助を受けなければならない時は、必ず使用目的を明確に説明しなければならない。
例えば勉強に必要な文房具や参考書を購入する場合は、奈々もレシートを後でちゃんと提出することで援助してくれる。だが誰かと遊びに行く際に、遊園地に行くのにお金が無いという場合では、もれなくその提案は却下となる。それは綱吉が、自由に使っていいと渡された毎月のお小遣いの中でやりくりしなければならない取り決めになっている為だ。
自然厳しくなった奈々の声色に綱吉は意識を窓から戻し、奈々に顔を向ける。
やましいことを考えているのではないから大丈夫、とそれでも凄まれれば萎縮してしまう気持ちを奮い立たせ、綱吉はしつこく首の後ろに回していた指を弾いて前方に飛ばした。
長めの後ろ髪が指の動きにあわせ、風を受けた時のように静かに揺らぐ。
「だから……」
本格的な夏はカレンダーを見なくても、もう間近に迫っているのが分かる。太陽が顔を出している時間は長くなり、夕方を過ぎても空はまだ仄かに明るい。地表を焦がす太陽の熱は激しさを増す一方で、この国特有の湿度の高さにうんざりさせられる毎日は既に始まっている。
夜になっても気温は下がらなくて非常に寝苦しく、朝も早い時間から気温は上昇して何もしていなくても汗が全身から噴き出して不快な事この上ない。
学校に行くべく道を進むだけでも、アスファルトの熱せられた湯気は全身を包み込んで、さながらフライパンで炒られる豆になった気分。歩いているだけなのに半袖から覗く両腕は日焼けして、野球部の山本など既に顔まで真っ黒だ。
今ですらこの調子なのに、まだ夏休みが始まるのに一ヶ月以上残っている。先が思いやられると脱力しきった様子で、綱吉はひと房当たりの量も多い前髪を梳き上げて後ろへ流した。
どうしたの、と問いかける奈々の視線が正面から突き刺さる。
「ランボさんもお出かけするー」
「それはまた、今度な」
足に絡みつく幼子の駄々を受け流し、手の中で汗を掻いているアイスに慌てて舌を這わせる。折角着替えたというのにズボンを汚されて、参ったなと肩を落とした彼は、ランボが離れていくのを待ってから片足を持ち上げ、白地に紫の染みが出来上がった裾を指で摘んだ。
生温い風が解放された窓から流れ込んできて、唇で挟んでいるだけのアイスに歯を立てた綱吉は脚を下ろしながら片手を空席の椅子に置いた。
「どれくらい要るの?」
なかなか会話が進まないものの、真っ直ぐに母親の目を見返した息子の気持ちに後ろめたいものは無いと奈々は悟ったらしい。スリッパで床を踏み鳴らした彼女は、棚の側面に引っ掛けていた買い物鞄をフックから外しつつ問うた。
綱吉の右側で、ビアンキが食べ終えたアイスの棒を齧って立ち上がった。同じくエスプレッソを飲み干したリボーンもまた、空になった食器を手に椅子を降り立つ。
「有難う。えっと、確か」
中学生の料金は、幾らだったか。数ヶ月通っていない場所の壁に貼られている一覧表を脳裏に思い浮かべ、広げた掌の指を折りつつ綱吉は考える。
鞄から財布を出した奈々が、じれったさを覚えたのか、単に面倒くさかっただけか。中から五千円札を一枚引き抜き、綱吉のその手に押し付けた。
「多いよ」
「お釣りは、ちゃんと返してね?」
「は~い」
間延びした返事をして、綱吉は渡されたお札を握り締めると、慌てて手を開いて今度は四つに折り畳んだ。
ズボンのポケットを探り、二つ折りの財布を抜き取って中へと押し込む。レシートやら何かの半券、割引券などが雑多に詰め込まれているそれは入っている金額以上の厚みを持っていて、覗き見た奈々に整理しなさいよ、と苦言を呈されてしまった。
「分かってるよ」
自分でも気にしていることを、他人に、特に女親に見抜かれて口うるさく言われると余計に癪に障る。
肘を立てて奈々を突き返す仕草をしながら財布を戻し、綱吉は壁の時計を見上げた。奈々も彼のこういう反応には慣れっこの様子で、肩を竦めて苦笑を浮かべ、自分の仕事へと戻っていった。
棒に僅かに残っていたアイスを口に放り込み、再びゴミ箱の世話になってから台所を出る。
ランボやイーピンもいつの間にか姿を消しており、ズボンを履き替えようと階段を登る手前で居間から騒ぎ声が聞こえて来た。
今日は自分の予定を優先させて子供たちは構ってやれないから、また別の日に埋め合わせをしてやろう、お金の掛からないことで。
扉が閉められている為に光景までは見えないが、暴れん坊のランボが騒動を引き起こしているだろう様子がありありと浮かび、綱吉は無意識に口元を緩めて笑みを浮かべた。
階段をひとつ上り、そしてもうひとつ。
夏に向かう日常はほんのりと色付き、新しい何かを齎そうとしていた。
「おはよーっす」
「おはよう、山本」
翌日、午前。今日は遅刻しないぞ、と意気込んで目覚めた朝は健やかな空色とは言い難かったが、前日に引き続き薄曇の天候は程よく陽射しをシャットアウトしてくれていて、幾分過ごし易い環境を生み出していた。
登校の道すがら、親友に後ろから手荒な歓迎をされつつ声をかけられ、綱吉は若干前のめりの体勢を作ったまま肩越しに相手を振り返る。人の左側に立って首の後ろに腕を回し、そのまま右肩を抱き込んで来た相手は、普段となんら変わりない笑顔を浮かべていた。
今日は早朝練習が無かったのだろう、この時間に彼が登校してくる回数はそれ程多くない。
日に焼けて健康的な肌を惜しげもなく晒している彼は、人懐っこい笑みを崩す事無く綱吉と並んで歩きながら、両脇を早足に通り過ぎていく級友その他にも挨拶を繰り出している。
そろそろ離れてくれないと歩きづらいし、幾ら翳っているとは言え気温は二十五度を越えて若干蒸し暑い。肌が触れ合った場所からはじんわりと汗が浮かんできており、綱吉は首から右肩に掛かっている僅かな重みにどうしたものかと苦笑した。
弁当が入っている鞄は落とさぬよう注意しつつ、脚も綱吉よりずっと長い山本の歩幅に合わせて道を行く。まだ始業時間までは余裕があるので急ぐ必要はないのだが、山本のお陰で若干ペースが狂ってしまった。
しかし中学校に入学し、リボーンと出会う以前の綱吉は、友人らしい友人も殆ど居ない状態が長く続き、他人とこうやってスキンシップする機会も滅多に無かった。自分から求めなくても相手から触れ合おうとしてくれる気持ちは矢張り嬉しいもので、無碍に扱うのも心苦しく思ってしまい、なかなか彼の腕を解けない。
山本が自分で気づいてくれないかな、という浅はかな期待を抱きつつ彼の横顔を窺い見るが、偶々通り掛ったらしい野球部の先輩ににこやかに手を振っていた山本は気取ってくれる様子が無い。自分で言わなければならないだろうか、と綱吉は灰色と呼ぶにはまだ色が薄い雲が棚引く空に視線を投げた。
後ろから、けたたましい足音が響き渡る。
「こら、てめぇ、野球馬鹿! 十代目から離れろ!」
綱吉が気配に振り返るより早く、いったい何処から走ってきたのか、ぜぃはぁと息せき切らせた獄寺が額に玉の汗を浮かべて大声で怒鳴った。アクセサリーでごちゃごちゃした指を山本に向かってつきたて、周囲の迷惑顧みずに怒号をあげる。
流石の山本もこれには気づいて、けれど相変わらずの呑気な様子で彼はほぼ真後ろに立った獄寺に振り向いた。依然彼の腕は、綱吉の右肩の上に。
「おっ、はよーっす、獄寺。今日も元気いいなー」
どこかの幼稚園児に話しかけているんじゃないんだから、と横で聞いていた綱吉も苦笑いが浮かぶ挨拶を口にした山本に、獄寺はこめかみに無数の青筋を浮かべた。引き戻した右手を固く握り締め、怒りのオーラで全身を包み込んでいる。
ああ、これはやばいかも。朝っぱらから喧嘩なんてして欲しくないのだが、獄寺が怒っている原因を作り出している張本人は、未だもって綱吉の肩を解放しようとしない。
再度困った表情を作って空を仰いだ綱吉は、自分の鞄を庇いつつ両手を右に持ち上げ、寄りかかって預けられていた山本の右手を剥がしに掛かった。
いい加減こちらとしても、体重を乗せられ続けるのは肩が凝る。ずるりとヒトデを岩から引っぺがした時のように山本の手は、まるでそうされることが予想外だったように空中で一旦もがき、綱吉の背中へと落ちていった。
「ツナ」
「重いよ、山本」
この際獄寺が怒っているのは二の次にして、先に原因を取り払ってしまおう。あと、出来れば山本の機嫌も損ねたくは無いから、獄寺が怒っている理由云々も他所に置いておこう。
汗が浮かび、肌に張り付いたシャツの肩部分を指で摘んで間に空気を送り込み、綱吉が呟く。若干唇を尖らせて拗ねた様子を作り出せば、山本は気づかなかったと侘びてくれたし、獄寺も綱吉が本当は嫌々ながら彼に抱えられていたのだと勝手に誤解する。
その両者の考え方の行き違いが、また別の火種を生み出す原因となったりするのだが、綱吉はひとまずこの場が収まればそれでいいという気持ちでしかなくて、ついでにシャツの前身ごろにも風を送り込んだ。
「おはよう御座います、十代目」
「おはよう、獄寺君」
左手を団扇代わりにしているところへ、今更ながらに獄寺が近づきながらお決まりの朝の挨拶を繰り出す。彼は山本を肩で押し退けて自分が綱吉の左側へと納まると、山本に向けていた時とは随分と異なる笑顔で挨拶を返した綱吉に笑いかけた。
薄い影がみっつ、路上に並ぶ。
「急がないと遅刻しちまうな」
「っと、いけねぇ。急ぎましょう、十代目」
次第に周囲を行き交っていた人の数も少なくなっていって、余裕を持って家を出たはずなのに、いつの間にか始業時間ぎりぎりに学校に着ける頃合にまでなってしまっていた。山本の声で我に返った綱吉は、獄寺に促されるまでもなく鞄を脇に抱え直して小走りに先へ進みだした。
生温い風が両側を、身体のラインをなぞりながら通り抜けていく。
今日も暑くなりそうだ、と獄寺がポケットから出したハンカチで首筋の汗を拭ってぼやくのが聞こえた。
「しょうがないよ、夏なんだし」
「それはそうなんですが……」
太陽に文句を言ったところで、気を利かせて日没を速めてくれるなんて事は起こりえない。無駄口を叩いている暇があるなら、冷や汗を掻かされる風紀委員の遅刻者チェックに引っかからないように足を動かし続けるべきだ。
風紀委員に捕まったら、山本も獄寺も抵抗を示して起こさなくても良い騒動を起こすに決まっている。そうなれば出てこなくて良い人まで顔を出してきて、更に騒ぎは大きくなるのも分かり切っている。
あまり揉め事は起こしたくないんだよな、と人知れず嘆息した綱吉は、漸く目の前に見えてきた学校の正門にホッと胸を撫で下ろして交互に動かしていた足のペースをほんの少しだけ速めた。
ハンカチをしまった獄寺がそれに続き、最後尾を比較的のんびりした調子で山本が追いかける。
綱吉の斜め後ろについていた獄寺が、視線を上げて急に首を傾がせた。
「十代目?」
「ん?」
時間がないのだから後にしてくれないか、と内心思いつつも律儀に綱吉は振り返った。
だが呼びかけた方は一瞬感じた違和感の正体が掴みきれなかったようで、反対側にも首を傾がせてから眉間に皺を寄せて唇をへの字に曲げた。
そうしている間にも時間は過ぎ去り、校門との距離は狭まる。置いていくよ、と山本にさえ追い抜かれた獄寺に短く言い放ち、綱吉は煮え切らない獄寺から顔を逸らして前に向き直った。
だがその山本も、一寸ばかり変な顔をして綱吉を見下ろしていた。
「なに?」
不躾に正面からじろじろと見られるのはあまり良い気分がしない。不機嫌気味に表情を歪めた彼に、山本は獄寺と似たり寄ったりな顔をして慌てた様子で首を横へ振った。
「や、なんでもない」
「そう?」
先週末までの綱吉と、どこか、具体的に何処がなのかはいえないけれど、違うような気がしたのだ。
だが肝心の何処かが分からなくて、ひょっとすれば気のせいかもしれないと思うと、綱吉にも失礼な気がしてふたりはそれ以上何もいえなかった。
綱吉が不満げな色を残しつつ、校門を潜り抜ける。両側にはいつも通り、この季節でも暑くないのか黒い長袖の学生服に身を包んだ風紀委員が場を固めていた。
見回すが、委員長の肩書きを持つ人物の姿は見当たらない。
「ツナ、行こうぜ」
無事に時間内に学校の敷地に辿りつけた安堵からではないが、思わず歩調を緩めてしまった綱吉の肩を、山本が気軽な動作で叩いて去っていく。
「いきましょう、十代目」
此処でぼうっとしていたら、それだけで風紀委員に因縁をつけられかねない。騒動を起こしたがらないくせに、自分から騒動の芽を作ろうとしている綱吉の背中を獄寺が押して先へ促すので、綱吉も渋々ながら休めていた足を動かして校舎へと向かった。
上履きに履き替える頃に予鈴が頭上で鳴り響き、教室の自席に着いて鞄を下ろした頃に本鈴が鳴る。教師は時間通りに前方のドアを開けて入ってきて、実にぎりぎりだったと三人を安堵させた。
窓辺の席に座った綱吉は、鞄を開けて急ぎ筆記用具と教科書類を取り出と、日直の号令で起立、礼が行われ、ガタガタと各自椅子を引く音の最中に誤魔化して鞄を机のホックに引っ掛けた。
余裕を持って登校していた生徒により、窓はとっくの昔に全開状態。カーテンは陽射しもないのでレールの端に集められ、中ほどで縛り上げられていた。
広げた教科書が風に煽られてページを戻してしまわぬよう、ペンケースで端を押さえつつ抜き取ったシャープペンシルを握る。
退屈な授業は欠伸を堪えるのに必死で、適度にノートを取ってサボっていない事を教員にアピールしながら、綱吉は絶えず吹き込む夏の気配を漂わせる風に意識を預けた。
生温い空気が幾分すっきりした襟足を撫でていく。頬を擽る毛先は時々肌に刺さって微かな痛みを放つが、それが適度に睡魔を追い払ってくれた。
頬杖をつき、陽射しが蘇らない空をチラチラと盗み見つつノートにペン先を走らせてメモを取る。尤も集中など何処にあるのかという姿勢で挑んでいるため、後日ノートを広げても何が記されているのか、さっぱり理解出来ない代物にしかなりえないのだが。
チャイムが鳴る。短くも長い一時間目の授業が無事終了し、礼をして教師は教室を出て行った。
次は移動教室で、クラス委員が理科の実験室へ向かうよう手を叩いて皆を急かす声が騒がしい教室に幾度か響いた。綱吉もまた必要なテキスト類を重ねてまとめ、獄寺が面倒くさそうに頬を膨らませるのを宥めつつ教室を出ようと後方の出口へ向かった。
華やかな笑い声が聞こえて、足が勝手に止まる。彼らの前では京子と花と、他にも女子生徒数名とが輪になっていた。
「あ、ツナ君。おはよう。今日もぎりぎりだったね」
「うっ……おはよう」
毎日のように時間直前に教室へ駆け込んでくるのはクラスメイトにしてみれば馴染みの光景で、今更茶化されてもたいしたショックは受けないのだが、無邪気に京子に言われると少なからずダメージを受けてしまう。思わず頬を引き攣らせて挨拶を返した綱吉は、彼女達に続いて廊下に足を踏み出した。
花に話しかけられて談笑している京子たちを前にしながら、綱吉たちも廊下を行く。実験室のある特別教室までは結構な距離があって、のんびり歩いていては休み時間いっぱい掛かってしまうこともあった。無駄にこの学校は広いんだよな、とやや湿っぽい空気が漂っている廊下を横向きながら歩いていると、急に振り返った京子が顔を潜めて顎に指を押し当てた。
なにやら考え込んでいる仕草に、傍らの花が首を傾げる。
「どうかしたの、京子」
「え? ああ、えーっと……ツナ君」
他所向いていた綱吉に手招く形で腕を動かし、彼の注意をひきつけて京子が控えめな調子で言葉を紡ぐ。花も、後ろに居た山本や獄寺も京子の一挙手一投足に注目していて、彼女はやや居心地悪そうに肩を窄めながら振り向いた綱吉に半歩距離を詰めた。
じっと間近から大きな瞳に見詰められ、綱吉もドキッとしながら彼女を見返した。
「な、なに?」
「ねえ、ツナ君」
潜められた京子の声に、ドギマギしながら綱吉も声を上擦らせる。
「ツナ君、昨日と何か、違う?」
「昨日?」
だが聞かれたのはそんな事で、しかも昨日は日曜日だったので京子とは顔を合わせていない。
先ず間違いなく、先週の金曜日と比較してのつもりが感覚的に昨日という単語が先に頭に出ただけだろう。真剣な表情で問い詰めてくる京子に、綱吉は脱力感を覚えながら曖昧に笑って誤魔化した。
「違わないよ、何も」
嘘を言った。
けれど自分で言うのも気まずいもの。誰かが気づいてくれないかなと淡く期待していたのには違いないが、案外誰も分からないものなのだな、と綱吉は一抹の寂しさを胸に隠した。
確かに見た目は殆ど変化がない。土曜の午後、奈々に臨時の小遣いを貰って出先から帰った後も、家族全員揃って変化がなくて面白くないと言われてしまった。
言われる通り、鏡の中の自分は、出かける前と後で大きく変容していなかった。顔の造詣が変わるわけではなし、微細な変化に逐一応対してくれる程皆が皆、自分を注意深く観察しているわけではないのだから、それも仕方が無いと言われればそれまで。
とはいえ、ひとりくらい誰か、何も言わずとも気づいてくれる人が居てもいいのに。
「そう?」
「そうそう」
きょとんとする京子に頷き返し、綱吉は一方的に話題を断ち切らせる。
早く行かなければ授業にも遅れてしまう。まだ納得がいかない様子の京子を促し、獄寺達も従えて綱吉は細長い廊下を急ぐ。足早に進む靴音が静寂を打ち破って騒々しく窓を叩き、教科書を抱える腕にも熱が宿った。
「あ……」
不意に先頭を行く京子が声を上げて、歩調を緩める。必然的に後ろについていた綱吉たちも速度を落とす結果となり、彼女との衝突は寸前で回避された。
いったい何事かと思って前に向き直れば、黒の学生服を肩に羽織った黒髪の青年が、似たような格好の生徒を複数人従えて悠然とこちらに向かって歩いてくるところだった。
風紀委員の見回りなのか。京子が早めに気づいてくれていなければ、廊下を走っていたという部分で見咎められていたかもしれない。
その場に居合わせた全員が足音を控え、風紀委員に道を譲りながら窓とは反対側へ移動する。どこか時代遅れの印象も抱かせる強面の風紀委員達は、そんな綱吉たちを小馬鹿にしたような顔をして広く開いたスペースをずかずかと歩き過ぎていった。
風紀委員の多くが見た目ばかりの人間だというのは、あまり知られていない。
けれど綱吉は知っている。純粋に風紀を守ろうと活動している人間は案外少なくて、委員長の名前を出せば皆が皆震え上がると思いこみ、さながら虎の威を借る狐の如く振舞っている輩の方が実際は多い事も。
風紀委員に入っていれば、多少の乱闘騒ぎも大目に見てもらえるからだとか、気に食わない奴を殴り飛ばすのに風紀違反を言い訳にしているのも知っている。
ただそういう連中は、ひっそりとある日突然学校に来なくなったりする。その理由も、綱吉は気付いている。
顔を上げた先、薄日差す窓に目を向けていた青年がゆったりとした動きで肩を震わせ、反対側へ首を巡らせた。
前後を風紀委員に挟まれながらも、護衛されているわけではなく、むしろ逆に邪魔そうな目つきで黒服の背中をひとつ睨みつけて。それから緩慢な仕草で、彼はすれ違い様の綱吉に顔を捉えた。
綱吉もまた彼の顔の動きを瞳で追っており、必然的に途中で視線がぶつかった。
何かを見抜く、鋭い眼光に綱吉の心臓が慄いて悲鳴をあげる。
「いだっ」
実際に引っ張られたのは髪の毛で、悲鳴を放ったのは微かに震えた赤い唇だったけれど。
「十代目?」
「ツナ!」
「へえ」
唐突に横から伸びてきた腕が、綱吉の甘茶色をした髪を無造作に掴んでいた。
何事もなければそのまま歩き去ろうとしていただけに、自分の足で髪の毛が引っ張られる原因を作り出してしまい、綱吉は涙目になって教科書を床に撒き散らし頭を抱えた。
だがまだ雲雀の手は綱吉の髪を捕らえたままで、道を塞がれた獄寺と山本が揃って矢より鋭い声を放つ。
風紀委員の大半も目を丸くし、突然の委員長の行動に面食らっている。
「いだっ、いだだ、痛い、いたいですヒバリさん!」
「切ったんだ」
苦痛を訴える頭を必死に雲雀から取り戻そうと足掻く綱吉の耳元でしっとりとした声が囁き、綱吉は目尻から零れ落ちそうな涙を堪えたまま大きく目を見張った。
直後に髪の毛が解放される。引っ張られていた頭皮の痛みは、消えこそしないが幾分和らいだ。
「てめっ、ヒバリ。十代目に何しやがる」
勢い勇んだ獄寺が拳を振り乱しながら前に出て綱吉を背中に庇い、その綱吉は半歩下がったところで山本に肩を掴まれて矢張り斜め後ろへと居場所を移された。
一瞬にして一触即発の事態が引き起こされる。わけが解らない京子と花が混乱気味に、向き合う両者の陣営を交互に確認した。
綱吉は落とした教科書を獄寺の足元から引っ張りだして胸に抱え直し、山本の影から雲雀を見上げる。彼は不穏な空気を放つ獄寺や山本を興味なさそうに一瞥した後、改めて綱吉だけを視界に収めて不敵な笑みを口元に浮かべた。
綱吉の左手が、金曜日よりもほんの少しだけ短くなった後れ毛に触れる。
「ヒバ……」
「遅れるよ、授業」
ほら、と彼が斜め頭上を顎で示した瞬間、その先にあったスピーカーからは二時間目の授業開始を告げるチャイムが高らかと鳴り響いた。
「いけない! 急がなきゃ」
「いくわよ、京子」
廊下でぼんやりしている場合ではない。先に我に返って叫んだ女子ふたりの声に背中を押され、獄寺と山本も舌打ちして雲雀をひと睨みし悔しげにしながら実験室に向かって走り出した。
置いていかれる格好となった綱吉も、上下へ忙しなく視線を移動させてから両手で荷物を抱え直し、元気よく跳ね返る髪を揺らして駆け出した。
「夏だしね。それくらいの長さの方がいいね」
だが途中、ちらりと振り返った先。
まだ綱吉を見ていた雲雀が、自分の襟足を指さしながら意地悪な笑みを口元に浮かべて言った。
咄嗟に綱吉は雲雀から顔を隠し、風紀違反を覚悟で廊下を勢い良く駆け出す。
むき出しになっていた彼の項は、灼熱の太陽に負けない赤色に染まっていた。
2007/6/18 脱稿