紫陽花

 昨晩遅くまで降り続いていた雨も、明け方には止んだらしい。
「おっ、と」
 アスファルトで塗り固められた路上はまだ濡れていて、あちこちに大きな水溜りが幾つも残っている。けれどそれらが映し出す空は青色に彩られ、浮かぶ雲も雨とは縁遠そうな真っ白い綿雲だった。雨が大気中の汚れも洗い落としてくれたらしく、深呼吸すれば体の中に流れ込んでくる空気は澄んでいて、眠気も一気に吹き飛んでしまう勢いだ。
 数日振りに賑やかな顔を覗かせた太陽は陽気な歌を歌っていて、燦々と眩い光を地表へ放っている。傘を持たずに登校できるのがつい嬉しくて、綱吉は調子よく地面を蹴り大きな水溜りを飛び越えた。
 左足の踵が少しばかり届かず、水の跳ねる音が微かに背中を打ったものの、靴の側面を濡らしただけで済んだ。ちらりと後ろを窺い見ただけで終わらせた彼は、続けざまにもうひとつ水溜りを追い越して現れた角を右に曲がった。
 目覚めた瞬間憂鬱になる雨の日とは違い、健やかに晴れた今日のような天気だとそれだけで気分がいい。つい早起きしてしまった彼は朝食もそこそこに家を飛び出し、雨上がりの街をひとり歩き回っている。
 学校までの道程も、普段使っているのとは違う遠回りのコース。こんな時でなければ通ることも滅多にない道の両脇は緑に囲まれ、マンションの一画にはこんもりと葉を茂らせる花壇も見られた。
 気まぐれに近づけば、色も濃い葉の上に大粒の雫が転がっている。徐々に先端に向かって沈んでいくそれは、キラキラと陽光を浴びて宝石のように輝きながら空中に砕け散った。
 飛沫を頬に感じ、綱吉は丸めていた背を真っ直ぐに伸ばす。交通量も少ない道路は時間が経つにつれて少しずつ乾き始めていて、蒸発した水分が湿度を高くして少し蒸し暑かった。
 半袖のシャツの襟元へ指を置き、手で仰いで風を呼び込む。高温多湿の日本の夏が迫り来ようとしているのが肌で感じられて、大きく伸びをした綱吉は丁度マンションからゴミ出しに出て来た人にその瞬間をしっかり目撃されてしまった。
 思わず会釈をしてしまい、向こうも何処の誰だか解らない中学生に曖昧な会釈をして去っていく。あまり長居すべきではないかな、と綱吉は現在時刻に凡その検討をつけ、鞄を担ぎ直すと学校へ続く道に戻るべく歩き出した。
 だが数歩と行かないうちに彼の足はひとりでに止まった。
 路上にはちらほらと通勤通学の人の姿が見られるようになり、サラリーマンらしきスーツの男性が慌しく綱吉の左側を走っていった。けれどどたばたと騒音を撒き散らしていく人の背中に見向きもせず、彼は自分の右側にあるマンション側面のフェンスを見詰めていた。
 否、正確に言えばフェンスの内側、だ。
 一階の窓はカーテンが吊るされ、住んでいる人のプライバシーは保たれている。もっとも綱吉が眺めているのはその位置とは異なり、もっと下だったが。
 目隠しで植えられている樹木の根元を埋め尽くす緑、こちらも今朝方までの雨に濡れて、日陰ではあるものの水晶にも似た露が葉の上で踊っていた。柔らかそうな葉は縁取りがギザギザに刻まれていて、全体的に丸みを帯びている。
 その目に鮮やかな濃緑の上に乗っかっている、丁度今綱吉の頭上に広がっている空にも似た、淡い藍色。
「こんなところに、咲いてるんだ」
 思わず感嘆してしまった綱吉は、右肩に担いだ鞄の持ち手を握ったまま深く息を吐いた。
 ちょっと見ただけでは見過ごしてしまうほどに、取り巻く緑に誤魔化されて分かりづらい場所に咲いている大振りの花。半円状のものがよくよく目を凝らしてみれば、ふたつ、みっつ、葉を皿にして飾り付けられている。
 毎日この道を通っている人でも、即座に気づける人は少ないのではないか。それくらいに緑に同調して花を咲かせている紫陽花に綱吉はしばし見とれた。
 梅雨のこの時期に咲くこの花は、原産国が日本なのだという。雨に濡れて控えめに咲き誇る様は優美な平安美人を思わせて、綱吉の表情を綻ばせた。
 けれど、ととある疑念が即座に綱吉の頭に浮かび出て、彼は首を傾げてから十数階を数えるだろうマンションの間に挟まれた空を仰ぎ見た。白い雲が緩やかな速度で西から東へと流れて行く、綱吉の後ろを幼稚園の送迎バスがエンジン音を唸らせながら通り過ぎた。
 ぼんやり考えているうちに、時間はどんどんと過ぎていく。学校へ行かなければ、折角早めに家を出たのに、遅刻の連続記録を更新してしまいそうだ。
 そろそろ罰則が厳しくなってきている。風紀委員の鬼のような視線を思い出した彼は大袈裟に身を竦ませて全身に鳥肌を立て、両腕で身体を庇うように抱きかかえると大慌てで道を走り出した。
 水溜りの上を、綱吉の影が一瞬だけ駆け抜ける。
「やっばー」
 体感時間よりも現実の方が時間経過は早かったらしい。大事に鞄を抱えながら息を切らせて走る綱吉の頭の上を、無情な始業のチャイムが追い越していった。

 そして放課後。
 君はよっぽど校内清掃が好きなんだね、という風紀委員長からの大変有り難くないお言葉を頂戴し、生徒手帳に新しい赤文字が増えた綱吉は、竹箒と塵取り、それから真新しいゴミ袋を手に並盛中学の中庭掃除に精を出していた。
 今日で四日連続、週末の休暇を挟めば実に七日連続の遅刻。一時期は減っていたのに最近また増えてきて、これで自己新記録を塗り替えてしまった。ちなみに歴代在学生の中に刻まれる、華々しくないタイ記録にも並んでしまった。
 そんなお陰で、最近では歴代記録更新も狙ってしまえ、と綱吉本人の都合などお構いなしに勝手なことを言う輩まで現れ出して、彼の気持ちを激しく落ち込ませていた。
 いっそ二時間目から登校してしまえば良いとも思うのだが(少なくともその時間は、風紀委員は門に立っていない)、遅く家を出るとリボーンに怒られてしまう。一時間目の授業が終わるまでの時間を潰す手段にも困るので、結局彼は律儀に走って、始業時間に間に合わず、風紀委員のお叱りを受ける日々を過ごしている。
「ついてないな~」
 中庭とあって四方を校舎に挟まれており、日が射す時間も短いことから土はまだ完全に乾ききっていない。こげ茶色に湿った地面に足跡を浅く残し、竹箒でかき集めた枯葉や、誰が捨てたのか解らない菓子パンの空き袋をゴミ袋に押し込んで、綱吉は溜息と一緒に愚痴を零した。
 折角家を早めに出ても、これでは早起きした意味が無い。確かに気持ちよい時間を登校前に過ごせたものの、結局は流れて行くチャイムの音に全て打ち砕かれてしまって台無しだ。きっと家に帰ればまたリボーンにどやされるし、記録更新しようものなら学校に親が呼び出されてもなんらおかしくない。
 奈々は普段おっとりしているけれど、怒るときは本気で怒る。しかもかなり怖い。出来れば彼女にまで迷惑を及ぼしたくなくて、竹箒を両手にし、体重を少しだけ預けた綱吉は肩を落としながらもうひとつ溜息を零した。
 校舎越しに運動部の威勢の良い声が聞こえてくるが、憂鬱な気持ちは晴れない。放課後とあって校舎には人影も疎らで、特に用事が無い生徒はもう皆帰ってしまったのだろう。
 獄寺は綱吉の境遇を一緒に嘆いてくれて、手伝いを買って出てくれたものの、そんな勝手な真似がばれた日にはまた風紀委員と余計な揉め事を起こしてしまいかねない。あんな奴ら目では無いと言い放ち、いきり立った獄寺ではあったが、他の委員は良くても綱吉に絡むとあの委員長がしゃしゃり出て来るパターンが多いので、騒動はどうしても大きくなりがち。あまり目立つことをしたくない綱吉は、なんとか獄寺を言いくるめて丁寧にお引取り頂いた。
 だから彼の周りには、今は誰も居ない。山本は部活だ、今聞こえているこの声にも彼のものが混じっているかもしれない。
 後ろに流した左足のつま先で地面を削り、俯いてから首を振った綱吉は右手に竹箒を持ち替えて、左手は腰から背骨にかかる一帯に添えた。そのままぐぐっと背中を後ろへと反らす、ボキボキと体内で骨が軋んで音を立て、上向かせた視線で四角形に切り取られた空を眺めた。
 ぽっかり浮かんだ綿雲が、実においしそうな形状をしている。
「お腹空いたな」
 昼食に弁当を食べたとはいえ、綱吉は現在十四歳。成長期、育ち盛り真っ只中。
 六時間目の授業終了まではどうにか腹持ちした食事も、放課後を迎えた今現在は大部分が消化されてしまったようで、前に回した左手で今度は腹を撫でてみるが厚みは全く感じられない。童謡ではないが、お腹と背中がくっついてしまいそうだ。
 さっさと終わらせて、用具も片付けて家に帰りたい。その為にやらねばならない残る未掃除の区画は、中庭半分。そう、まだ半分しか済んでいない。
 現実逃避をして忘れようとしていたのに、思い出してしまった。適当に見た目だけ綺麗にして誤魔化してしまおうかな、とも思うのだけれど、以前に手抜きがばれて風紀委員長にばっちりお仕置きをされたことがある手前、真面目にやらざるを得ない。
 痛かったんだよな、とこちらも忘れかけていた記憶が蘇って来て、思わず苦い顔をした綱吉は竹箒を握り直してその先端に額を押し当てた。
 立ち止まっているよりは、動いていた方が余計な事を考えずに済む。手も動かして、掃除に専念しよう。
 気を取り直して首を回した彼は、中央に聳え立つ楢の木と、それを囲むようにして配置された花壇を大回りして反対側へ移動した。けれど最初に脳裏に描いた移動ルートの手前で彼の足は朝方と同様、勝手に止まってしまった。
 中央の花壇に咲く色とりどりの花に気を取られていて、近くに行くまでまたしても気づけなかった。校舎の壁に沿って並ぶ植え込みは、視界の邪魔にならないよう背の低い木が中心に配置されている。そのうち南西の一角に、朝見たものと同じ形状をしたギザギザの葉があった。
 こんな場所にも植えられていたとは、一年以上この学校に通っているのにまるで気づかなかった。
 それだけ控えめに、派手になり過ぎることなくひっそり咲く花だからだろう。強い芳香があるでもなく、周囲から浮き立つ派手な色彩を放つわけでもなく。
 梅雨の時期に咲く紫陽花。華美な薔薇とは違う清楚さが、雨上がりの空によく映える。
 だが、この紫陽花は。
「種類が違うのかな」
 そっと伸ばした右手で青葉の上にちょこん、と座っている印象を抱かせる花に触れる。振動を受けて前後左右に僅かに揺らいだそれに、思わずびくりと肩を震わせて肘を引いてしまい、綱吉は自分の過剰すぎる反応にひとり苦笑した。
 誰にも見られていなければいいのだけれど、と心の中で舌を出した後、改めて紫陽花に向き直る。日陰に咲く花は、紅と紫の合いの子に似た薄い色合いをしていた。
 登校前、マンションの脇に咲いていたのは目の醒める藍色。記憶にある形状は全く同じなのに、色が大きく異なっていて綱吉は首を傾げる。
 もう一度よく見ようと腰を僅かに屈め、箒を杖にして綱吉は花へ顔を近づけた。
「なに、してるの」
 だが鼻先が葉の表面に擦れるより早く、斜め頭上から降ってきた雨よりも冷たい声に彼は「ぎゃっ」と悲鳴を上げて後ろへ飛びずさった。
 足首を覆う高さまで土埃が舞い上がり、弾みで手放してしまった箒が傾いて倒れる。跳ね返る事無く突っ伏したそれの行方を追うこともなく、綱吉は驚きを露にしたまま表情を引き攣らせて声の主を見上げた。相手は綱吉の丁度正面に来る窓にもたれかかり、解放された枠に片方の肘を置いて頬杖をついている。艶のある黒髪が湿った空気を浴びて一瞬だけ膨らみ、白い額を擦った。
 半袖の白いシャツに、臙脂色のネクタイ。一番上のボタンまできっちりと留めた、そこだけを見れば綱吉と同じ模範的服装ではあるものの、彼の肩には冬物の学ランが引っ掛けられていて、腕を通さない左袖には矢張り臙脂色の土台に太く「風紀委員」の文字が刺繍されている。
 一見すると風雅なイメージを抱かせる立ち姿だが、その実彼の性格は相当極悪と有名で、情け容赦ない非道な人格者である事を知らない人間はこの学校に存在しない。
 彼の所属するクラスが何年何組なのかもはっきりしない、けれど間違いなく現在の並盛中を取り仕切っているのは彼だ。風紀委員長、雲雀恭弥。ついでに言えば本日の綱吉に中庭清掃を言い渡したのも、彼だ。
「ひひひひひ、ヒバリさん!」
「何やってるのか、聞いてるんだけど」
 気が動転しているお陰で呂律が回らず、喉も引き攣っているので震えた声しか出ない。まともな発音など不可能で、どうにか彼の名前を呼びこそしたが舌先を噛んでしまい、痛がっているところにまた同じ質問が落ちてきた。
 涙目の綱吉が彼のいる窓との距離をじりじりと広げながら、答えに窮して視線を左右に泳がせる。転がした竹箒の根本が踵に触れて、外向きに反り返っていた細い部分がズボンの裾からもぐりこんで彼の肌を直接刺した。唐突の感触にまた驚いた彼は、飛び上がって左に避けてバランスを崩し、今度こそ本当に斜めに転ぶところだった。
 校舎内に佇んでいる雲雀が、呆れた様子で肩を落としながら溜息を零す。
「……君」
「すみませんすみません直ぐ終わらせます!」
 雲雀が綱吉に対してトドメの一発となるだろう一言を言い放つ前に、素早く危険を感じ取った綱吉が大慌てで箒を拾い上げて胸に抱きこんだ。腰を抜かす寸前の中腰で膝を震わせながら涙を堪え、野生動物に追い詰められた草食動物宜しく小さくなっている様に、益々あきれ返った様子で雲雀は頬杖を解いたその手で前髪を掻き上げた。
 切れ長の細い瞳が、やや剣呑な色を放って綱吉を射抜く。
 睨む、というところまでは行かない眼光ではあるが迫力は充分で、綱吉はそれだけで震えが止まらない。女子供では泣き出してしまうのではないかと思える威圧感を浴びせられ、綱吉は生唾を何度かに分けて飲み込んだ。
「早くしてくれないと、僕も帰れないんだけど」
「分かってます、畏まりました。今すぐ終わらせます!」
 遅刻者は他にも何人か居て、彼らがきちんと掃除を終わらせているかどうかの最終確認をしているのだろう。そして残るのは綱吉が持ちうけたこの場所だけ、というところか。彼の発言を受けてしゅたっ、と敬礼のポーズを作って慌しく箒を繰り出した綱吉は即座に雲雀にも背中を向け、彼の視線から逃げた。
 突き刺さるものは感じているが、動き止んで振り返るのも怖いので徹底的に無視を貫く。どうせ手を休めるだけで彼は不機嫌になるのだ、どっちにせよ怖いのなら、気づかない、見ないままで居させて欲しい。
 地面を掃き、ゴミを拾い、袋にまとめて詰め込んで空気を抜いてから口をきつく縛り付ける。全てが終わる頃には綱吉は汗だくで、額に腕をやって疲れたと息を吐いた。
 枯れ枝も突っ込んでいる所為で凹凸の激しい袋に上半身をもたれかからせ、下向きに腕を突っ張らせた綱吉はそれからふと、いつの間にか消えていた雲雀の視線を思い出して首を捻った。見上げれば校舎のあの窓にも姿は見えず、だから応接室なりに戻ったのだろう、と勝手に結論付ける。
 付き合いの悪い人だな、と思いつつもそれが彼なのだから仕方が無い。さっさとゴミを捨てて報告をして、家に帰ろう。盗み見た空は少し前の明るさがやや薄れ、夕暮れ時の色調に変わりつつあった。
 中庭も、元々陽射しが差し込みにくい立地条件にあるのでかなり薄暗い。昼間でも何処となく不気味さが漂う場所なので、あまり此処で時間を潰している人は見かけたことが無かった。
 だから綱吉は直ぐに気づかなかった。
「終わった?」
 立てかけておいた竹箒を手に取り、塵取りと一緒に先に用具入れに戻して来ようと綱吉が腰を上げた瞬間、本当にごく間近から声が飛ぶ。
「うぎゃぁぁぁ!」
 完全に油断して、この場には自分しか居ないと思っていたものだから、綱吉は馬鹿みたいに大声で悲鳴を上げて今度こそ腰を抜かした。頭の中では学校の怪談めいたものが目まぐるしく駆け回り、いったいどこから、誰が自分に声をかけたのかで混乱して綱吉はへっぴり腰のまま箒に縋る。ずるずると崩れていく膝が地面に接しようとしたところで、涙目の彼に他人の爪先が見えた。
 ちゃんと二本、足があり、地面を踏みしめている。少なくとも幽霊の類では無いと知ってホッと安堵したところで、いきなり腰を屈めた相手が綱吉の視線の高さに目線を揃えて来た。
 正面に飛び込んでくる、やや不機嫌そうな顔。
 スッと伸びた鼻筋、優美な曲線を描く柳眉、切れ長の細い眼に潜む漆黒の瞳。朱色に染まる薄い唇が音を刻むべく開かれ、目を見開いて見返してしまった綱吉は直後、額を襲った一撃に首を後ろへ仰け反らせた。
「いてっ」
「失礼な子だね、君は」
 人差し指をバネのように撓らせて弾き出した雲雀が、片膝を立てた状態で言い放つ。赤く染まった自分のおでこを両手で庇った綱吉は、咄嗟に何も言い返せずに下唇を噛んで潤んだ瞳を彼に向けた。
 冷静に考えてみれば、まだ日も明るいこの時間帯に幽霊なんて出るはずが無い。だがいきなり声をかけてくる方だって非がある、と言い返せば、そんな非科学的なものを信じるほうがどうかしていると反論は呆気なく封じられた。
 同じ場所をもう一度、重ねた掌の上から小突かれ、綱吉は上目遣いに立ち上がった彼をねめつけて頬を膨らませた。
「こんなところに咲いてたんだね」
「え?」
「紫陽花」
 ぷっくりと風船みたいな頬を作った綱吉から視線を逸らし、何処か別の場所に目を向けた雲雀が呟く。主語が欠けたその発言に、綱吉もまた転がした箒を拾って立ち上がりながら首を傾げた。
 振り返れば、雲雀が見ていたものは先ほど綱吉がぼんやり眺めていたものと同じだった。
 日陰の片隅、緑の中に埋没するようにして咲く赤い紫陽花。
「あ、そうだ。ヒバリさん、紫陽花って種類どれくらいあるか知ってますか?」
「種類?」
 ぽん、と手を打った綱吉が、丁度良いと先ほど自分の頭に浮かんだ疑問を率直に言葉に乗せる。鸚鵡返しに聞いてきた雲雀に頷いて、綱吉は紫陽花までの数歩の距離を一気に詰めた。
 指を伸ばし、赤い花弁を突っつく。
「朝、学校に来る時に、これと同じ形なのに色が違う紫陽花があったから」
「君は」
 押した後に指を外せば、反動で花弁は跳ね返る。その動きを目で追っていた綱吉の背中に、やはり距離を詰めた雲雀の呆れ混じりの声が覆いかぶさった。
「そんなものを眺めていて、遅刻したの」
「うっ」
 多くを語ったつもりはないのに、見事に言い当てられてしまって返す言葉も無い。ぎくりと表情を凍らせて肩を強張らせた綱吉に対し、雲雀は益々呆れた風情で前髪を梳き上げ、肩を左右に揺らした。
 横に並んだ彼を盗み見て、綱吉は箒を大事に胸に抱きこむ。先ほどの不機嫌さは影を潜めたものの、これ以上馬鹿なことを言って彼に怒られるのも嫌で、二の句が告げなかった。
 雲雀が腕を伸ばす。綱吉が弾いたのと大体同じ場所を指で摘み、何を思ったか一枚それを引き千切る。花は無碍なことをする彼を音無き声で非難して、綱吉も驚きに目を見開いて彼を下から仰ぎ見た。
「君は、例えばチューリップの球根も、色が違えば種類が違うと思う?」
 千切った赤い花弁を親指と人差し指で挟み持ち、綱吉の鼻先を扇ぐように動かした雲雀が問う。
「え、っと」
 言われてみれば確かに、チューリップも同じ種類でも球根ごとに色が違う。黄色だったり、赤だったり。外見からでは解らないが、売られている時もそういえば色別で袋に小分けされていたように思う。
 ならば単純に色が違うだけなのか、と納得しかけていれば、
「もっとも、紫陽花は少々特殊だけど」
 カクン、と膝から力が抜けて綱吉はずっこけそうになった。
 ならばどういうことか、とやや険のある表情で即座に彼を睨みつけると、百面相が面白かったのか、雲雀は薄く笑みを零しながら持っていた花弁を綱吉の赤みが引きかけている額に押し付けた。
 勿論張り付くはずがなく、はらりと落ちていくそれを綱吉は慌てて両手で受け止める。
「地面のPh濃度の差で花の色が変わる、と言われているね」
「ぺーはー……?」
 緑の歯のギザギザに指を沿わせた雲雀の言葉に、綱吉は視線を浮かせて何も無い校舎の壁を見上げた。
 聞き覚えがある気がするが、何だったのかが思い出せない。なんだっけ、と首を頻りに捻っていると視線を感じて、横を向けば案の定雲雀がこめかみに指を当てて苦悶の表情を作り出していた。
「君は、小学校はちゃんと卒業したんだよね?」
「失礼ですね」
 中学に在籍しているのだから、綱吉だって小学校は卒業している。成績は、散々だったが。
 口を尖らせて反論したものの、雲雀の視線はどこか同情めいたものが含まれていて、綱吉を不機嫌にさせる。馬鹿にされるのは慣れているが、こうも憐れみの目を向けられると正直癪だ。
 盛大なため息が聞こえてきて、綱吉の髪が少し揺れた。
「アルカリ性と酸性、くらいは分かるね」
「それくらいなら」
「その違い」
 もっと具体的に説明してあげてもいいけれど、と言いながら雲雀が綱吉の頭に手を置き、柔らかな髪の毛を勝手に掻き回す。頭皮が一緒に引っ張られる感覚に痛みが生じ、持ち上げた左手で彼の手を掴んだ綱吉だったが、そのまま指を握られ下へと下ろされてしまった。
 放してもらえず、繋がったままの掌に熱がこもる。
「ヒバリさん?」
「確か、酸性土壌で青くなって、アルカリ性土壌が赤になる、だったかな」
 綱吉ばかりが繋がった手を意識している。雲雀は少しも構う事無く、記憶の抽斗を引っ張りだして独白めいた説明を展開しており、半分聞いて半分聞き流しながら綱吉は居心地悪そうに箒を持った右手に力を込めた。
 そうなんですか、と相槌を返せば、立てた人差し指を顎に置いた雲雀がスッと目を眇め空を仰ぐ。
「逆、だったかな」
「え?」
「いや、合っているか。リトマス試験紙と逆パターンだった筈」
「りと……」
「君、本当に小学校」
「卒業しました!」
 またしても聞き覚えがあるものの記憶から内容が欠落している単語が出てきて、即座に先ほどと同じ展開が繰り広げられそうになり、綱吉は真っ赤になりながら雲雀が言い終える前に大声を出した。
 肩を揺らし、雲雀が笑う。
 頬を膨らませ、綱吉が拗ねる。
「覚えていないなら、簡単な覚え方、教えてあげようか」
 喉の奥で空気を引き攣らせて一通り笑って満足したのか、雲雀が綱吉の左手を軽く引っ張って注意を自分に向けさせる。綱吉もその頃には息を止め続けるのも苦しくなっていて、ぷは、と空気を吐き出してから表情を戻して彼を見返した。
 雲雀の左手が、綱吉の額を軽く押す。
「君が、試験紙」
 言って、即座に手首を返した彼は、今度は自分を指差した。
「で、僕は酸性」
「ヒバリさん?」
 いったい何をするつもりなのだろう、と状況が読み取れない綱吉は直後目を丸くし、コンマ五秒後慌てたように瞼を下ろして目を閉じた。
 甘茶色をした綱吉の前髪に、雲雀の黒髪が混ざりこむ。長い睫が綱吉の眼前で震えて、触れ合った唇からは綱吉のよりもほんの少し低めの体温が彼の中に潜り込んで来た。
 繋ぎあった手に無意識に力が篭もって、逆に右手からは力が抜けていく。箒と、一緒に握ったままだった紫陽花の花弁が揃って地面に落ちた。膝が震え、勝手に力が抜けていく。腰に回された腕の確かさだけが綱吉の支えで、自由になった右手は気づけば雲雀の上着をきつく握り締めていた。
 雨とは違う濡れた音が、外からではなく内側から耳に響いて顔が熱い。息継ぎが出来なくて胸が苦しくて、口腔内を荒らし回す獣に好き勝手されて綱吉は動けない。
「んぁ……っ」
 ぴちゃり、と絡んだ唾液が舌の上で跳ねて艶めかしい音色を響かせた。サッと朱が走った頬が堪らなく恥かしくて、綱吉はせめてもの抵抗とばかりに握り合っている彼の手の甲に爪を立てた。
「つっ」
 骨の上の、皮ばかりの部分を抉られたからだろうか、雲雀は痛そうに眉根を寄せると首を引いて顔を離した。透明な糸がふたりの間に短く走って、千切れる。散った飛沫が鼻の頭を濡らし、冷たさに綱吉も赤い顔のまま頬を引き攣らせた。
 耳の先どころか首の付け根まで真っ赤に染まった彼に、雲雀が意地悪く笑む。
「痛いな」
「だっ……ヒバリさんが!」
 鈍い輝きを放つ濡れた舌を引き戻しながら言った雲雀に、綱吉はどう言い返せばいいのかも分からずにただ口をパクパクと、餌を求める金魚宜しく開閉させた。
 泣きたくも無いのに涙が出てくる、いつだって自分は彼に振り回されてばかりで悔しい。
 それに大体、これの何処がアルカリ性と酸性の問題なのか。
 拳を作って胸の前で上下に振り、信じられない、と嘯いた綱吉の頭を雲雀の手がまた軽く叩く。
「言っただろう、君は試験紙だって」
 そして雲雀は酸性だ、とも。
 綱吉が訝しげな視線を雲雀に投げかける。雲雀は、僅かに湿っている唇を噛み締めた彼の頬を、頭からずらした掌全体で覆った。そっと、優しい仕草で撫でる。
「青い試験紙が酸性に触れたら、ね」
 こうなるんだよ、と。
 人差し指で赤い額を小突かれた綱吉は、何も言い返せぬまま雲雀の胸に顔を埋めた。
 

2007/6/18 脱稿