天候は、雲が若干多いものの概ね快晴と呼べる空の色をしている。
陽射しは日を追うごとに厳しさを増し、灼熱の太陽が地表をじりじりと焦がす。日本の夏は湿度が高くじめじめしていることを除けば、地中海気候のイタリア南部の陽気にも何処かしら似ている気がして、過ごし難いが嫌いではなかった。
何よりもこの国は、あの人が生まれて育った国だ。嫌いになれるはずが無い。
「ふ~んふふ~ん」
やや調子外れの鼻歌を歌いながら、獄寺は上機嫌に道を行く。手には学生鞄、身にまとうのは学校指定の制服。但し彼なりのおしゃれを楽しんで、アクセントも加えてやや変形したものではあるが。
校則違反による教員からの評価の下落など、彼にとって痛くも痒くも無い。風紀委員からも転入当初から目を付けられているが、暴力沙汰になったとしても易々と負けてやる気持ちは最初から彼にはなかった。
自分は将来、ボンゴレ十代目の右腕となって一生涯を過ごすのだ。自分の理想の主にこの若さでめぐり合えたのは、奇跡としか言いようが無い。だから自分が高校へ行くという選択肢は皆無に等しくて、故に彼が中学校に行くのは、敬愛して止まないボンゴレ十代目こと沢田綱吉が通っているから、という理由だけだった。
右腕として彼に仕える以上、一秒でも長く彼の傍に付き従っていたい。ただでさえ獄寺は日本にやってきてからまだ日が浅く、尚且つ綱吉と過ごした時間も最初から日本に居た輩とは比較にならない。自分たちの間にある溝を少しでもいいから狭めていけたらと考えているし、そのためにもまず綱吉を知ることから始めなければ。
夏の日差しはアスファルトをじりじりと照りつけ、反射する光は鋭く肌を刺す。シチリアの陽射しも負けず劣らず強烈だったが、この国は湿度がある所為で汗を掻いてもすぐに乾かない。腕や首筋にまとわりつくじめっとした空気は非常に重く不快で、獄寺はポケットからハンカチを取り出すとそれで首裏に浮かんだ汗を拭った。
まだ朝も早い時間帯だというのに、今からこの気温では先が思いやられる。中学校にも全教室に空調を配置すべきだよな、と心の中で愚痴を零してハンカチを握り締めた獄寺は、危うく行き過ぎかけた道を慌てて戻って角を曲がった。
本格的な夏が始まるのは当分先なんだよ、と笑っていた綱吉の顔を思い出す。眺めているだけで幸せになれる穏やかな微笑みは自然と獄寺の荒みかけた心も解きほぐし、優しい気持ちにさせた。
今年の夏は何処へ行こう、いろんな場所に遊びに連れて行ってあげたい。まだまだ先のことなのに気が急いて、獄寺は早足にアスファルトへ影を走らせた。
やがて彼の目には見慣れた一軒家が映し出され、青々と葉を茂らせる植物に囲まれた庭が視界の中央を塞ぐようになる。隙間から顔を覗かせる空色の屋根の家、道路に面した窓は開け放たれているのか白いカーテンの裾が踊る様が地上からも見て取れた。
綱吉はもう目覚めて、朝食を食べている頃だろうか。起きる時間次第ではもう学校に出かける準備も出来ているはずだ、とポケットから出した携帯電話の時刻を確認して獄寺は小さく頷く。彼は小走りに開けっ放しになっている鉄製の門の隙間を潜り抜け、ポケットへ電話を押しやるとその指で玄関横の呼び鈴を押そうとした。
だが。
「ごくでらく~ん……」
微かに彼を呼ぶ声が聞こえ、人差し指がボタンに触れる直前で獄寺は動きを止める。
右手を高く掲げたまま、獄寺は聞き覚えのある声に背筋を伸ばし視線を周囲に巡らせた。
最初は玄関の向こう側に居るのかと思ったが、聞こえ方からして違うと直ぐに考えを取り下げた。二階のベランダからとも違うだろうし、ではいったい何処からと正面に向き直った彼は、首を捻りつつ腕を下ろした。
「獄寺君、こっち、こっち」
「十代目?」
やや引き攣った、緊張がありありと伝わってくる声に獄寺は振り返りながら声の主を呼んだ。
いったい彼は何処に居るのだろう、声の具合からして彼が外に居るのはほぼ間違いないが、見回した限り視界にあの甘茶色をした柔らかな髪は飛び込んでこない。しかし綱吉の声は絶えず獄寺を呼んでいて、ひょっとすれば向こうからは獄寺の姿が見えているのかもしれなかった。
それとも、もう通り過ぎた場所に居るのか。
「十代目、どうかされましたか」
もしかして、と一瞬頭を掠めた結論に獄寺は慌てて玄関ポーチの段差を降りて二メートルばかりの距離を戻った。先ず左を見てから右を向き、沢田家の居間に面する小さな庭に顔を向ける。
猫の額ほどの広さしかない敷地の通り沿いには、これでもか、と言うくらいに植物が植えられている。縁側近くには物干し台が立てられているが、まだ洗濯が済んでいないのか今は未だ何も吊るされていなかった。
獄寺は自分に聞こえる音量で「お邪魔します」と口に出し、そろり、と慎重に足を庭へ踏み出した。綱吉の声は途切れ途切れながらまだ続いていて、鞄を左脇腹に抱えてゆっくり進んでいく獄寺の瞳にもやがてその姿はしっかりと見出せるようになった。
綱吉は庭木の中でも一番背丈があり、枝ぶりも立派な木の根元に立っていた。
確かにそこからなら、門を通って玄関に向かう獄寺の横顔もしっかり見えただろう。但し玄関ポーチまで進まれると姿は見失われる、どうりで獄寺からではなかなか見つけられないわけだ。
「おはよう御座います、十代目。今日も良い天気ですね」
「おはよう、獄寺君。……あの、ちょっと、お願いが」
綱吉は獄寺同様に学生服に身を包み、学校に行く支度は万全に整っているように見える。鞄は手にしていないようだが、玄関辺りに置いているのだろうか。それにしても早朝から庭先で何をやっていたのだろう、水遣りにしては少し様子が可笑しい。庭木の枝も濡れていない。
にっ、と歯を見せて笑いながら挨拶した獄寺に、綱吉も引きつり気味の表情でどうにか挨拶を返すと、やや間をおいて若干気まずげに、言い辛そうに声を低く潜めた。
「はいっ、俺に出来ることならなんなりと!」
対して獄寺は、綱吉に頼みごとをされるのさえ稀であるからか、聞いた途端にパッと顔を輝かせて咥えていた火のついていないタバコを庭へ落とした。
錯覚でしかないのだが、綱吉の目には、三角形の獣耳と尾をパタパタと嬉しそうに振り回す獄寺の姿が見えた。彼に頼むのはやめておこうか、思わずそんな事も考えてしまったが、刻一刻と迫り来る授業開始の時間を思うと我が儘を言っている余裕は無い。どうしてこんなことになってしまったのだろう、と悔やんでも今更で、綱吉は大仰に肩を落として溜息を吐くと、にこにこと笑顔を浮かべて目を細めている彼を見上げた。
銀色の髪が陽射しの中で眩く輝いている。整った目鼻立ちはくっきりとしていて、日本人離れした容貌は彼が半分ではあっても異国の血が混じっているのだと意識させる。肌の色も綱吉たちより色素が薄く、銀の髪はその典型だろう。脱色したわけではないので、変に染めた人よりもはるかに色も綺麗で、澄んでいる。やや長めに切り揃えた前髪の隙間からは、細められた瞳が真っ直ぐに綱吉を見返していた。
満面の笑みで、綱吉の頼みごとを楽しそうに待っている。
それを思うと、とても下らないことを頼もうとしている自分が情けなくて、やっぱり自分でなんとかしようと綱吉は思うのだが、ちらりと目を向けた自分の左脚に小さな突起物を見た瞬間、彼はぞわぞわっと全身に鳥肌を立てて悲鳴を噛み殺した。
「十代目?」
「ご、ごめん獄寺君……それ、なんだけど」
瞬時に表情を一変させた綱吉を流石に獄寺も怪訝に思い、無意識に声を潜めて彼に一歩近づく。
よくよく見てみれば綱吉の立ち方は何処か変で、肩幅以上に左右へ足を開き、体重は右側一辺倒。左脚を遠ざけようとしているのが直ぐに理解できたが、問題は何故そんな不可思議な、ジッとしているのも辛いだろうポーズをしているか、だ。しかもどうやら綱吉は自分の左脚を気にしつつも直視するのは嫌なようで、チラチラと盗み見ては大袈裟なくらいに首を外へ向けて冷や汗を飛ばしていた。
それ、と言われてもどれの事だか解らない。曖昧な指示代名詞に眉根を寄せ、獄寺は更に半歩近づいて綱吉のすぐ前まで移動を果たした。東から射す光が獄寺の背中にぶつかって、綱吉に陰を作り出す。
「どうされたんですか、十代目」
「いや、だから、獄寺君、助けて」
真剣な目つきで声を低くして問うと、綱吉は途端に泣き出す寸前まで瞳を緩めて彼の腕に手を伸ばした。
だが汗ばむ肌を掴むのは躊躇されてしまい、綱吉の指先は獄寺の袖を掴んで彼を引っ張る。力は殆ど入っておらず、引っ張ったところで指先から抜けていく綱吉の手首を咄嗟に掴み返し、獄寺は益々眉間に皺を寄せて熱っぽい息を吐き出した。
綱吉が嘗てない窮地に立たされ、自分に救いを求めている。今こそ彼の右腕としての真価を発揮する時だ、と意気込んでみても、肝心の綱吉が何に怯えているのかが分からなくて、獄寺逸る気持ちを抑えて唇を噛み締めた。
捕まえた手首が熱くて、綱吉の体温を直接感じ取って心臓が締め付けられる。今の彼を助けられるのは自分しかいないのだと、荒波砕ける崖の上に立たされた気分で獄寺は心の中でガッツポーズを作った。
「獄寺君、お願い、早く」
熱を帯びて潤んだ瞳で懇願され、獄寺は思わず息と一緒に生唾を飲んだ。その顔は犯罪級だと早鐘を打つ心臓を押し留めながら、暴走したがる若い心に懸命にブレーキをかける。だが顔は徐々に赤く染まり、上気した頬が湯気を立てている錯覚に襲われた。
綱吉が、奥歯を噛み締めて獄寺から顔を逸らす。見詰める先は、自分の左脚。
百二十度くらいの角度で広げた膝の少し上、さっき確認した時よりも若干だが位置が高くなっている。
緑色が眩しい。
獄寺も遅れながら綱吉の大腿部を這いずっている異物に気づき、唇をへの字に曲げた。綱吉はあからさまにその異物に恐怖心を抱いており、それが視界の端で動く度に頬を極度に引き攣らせ、上擦った声を必死に奥歯で噛み締めている。
なんだろう、とこの距離からではよく見えなかった獄寺が、僅かに腰を屈めて緑色のそれに顔を近づけた。
「ひぃぃっ」
露骨に顔を近づけようとする獄寺に、綱吉は今度こそ悲鳴をあげて右足の踵で地面を擦った。
獄寺が姿勢を低くした所為で日陰に立っていた綱吉の目元にも陽射しが戻り、眩しさに目が眩む。吸った息を吐き出すのさえ苦痛に思えた綱吉は、ガチガチに凝り固まった頬の筋肉を必死に動かして「あぶない」とだけ呻くように言った。
だがそれはあまりにも発音が悪く、しかも音量も絞られていた所為で獄寺の耳にまで達しなかった。
首を斜めに、筋が伸びそうなくらいに引っ張って綱吉は恐怖に耐える。対照的に涼しい顔をしている獄寺は、目を眇めながら邪魔な前髪を掻き上げて耳に引っ掛けて、綱吉がさっきから怯える原因となっているものをようやく把握した。
毛虫だ。
「十代目……」
急に脱力感に襲われ、獄寺は姿勢をそのままに視線だけを上向けた。至近距離で見詰められ、綱吉は気まずそうに唇を歪める。ただ目尻に浮く大粒の涙はそのままなので、彼が本気で毛虫を怖がっているのだけは充分に伝わった。
男の癖に、とか、もう中学生なのに、とか。マフィアの時期ボス候補で、獄寺にとっては尊敬して止まない人物で。
そんな人が毛虫一匹に全身を硬直させて泣き出す寸前まで行っている様は、正直滑稽を通り越して辟易させられる。
けれど彼をこのまま放っておくわけにもいかず、獄寺は盛大な溜息を吐き出すと綱吉の恨めしげな目線を避けて左手を持ち上げた。
「素手は駄目っ。毒、あるから」
彼が指で綱吉のズボンを上り行こうとしている虫を弾き飛ばそうとしていると察し、綱吉は咄嗟に悲鳴に近い声を放って獄寺を驚かせた。触れる寸前で肩をビクリとさせ、今度こそ頭を上げた獄寺に綱吉は唇を噛み締めながら首を横へ振る。
さっきよりも涙の粒が大きく成長していて、獄寺は自分の手と綱吉の脚の虫、そして綱吉の表情を順繰りに見詰めた後、視線を落として自分の足元に転がっているタバコを思い出した。まだ火はつけておらず、自分が咥えていた部分に僅かに歯型が残るのみ。彼はそれを拾い上げると、フィルター側を先にして緑色の毛虫に押し当てた。
「ひっ」
だが毛がズボンの繊維に絡んでいるからか、なかなか簡単に毛虫は外れない。ズボンごと脚を押されている気分になった綱吉が固く目を閉じて獄寺の腕を握り締めてきて、そちらの痛さに気を取られつつ獄寺はなんとか毛虫を綱吉から追い払おうと試みた。
数回、粘り強く繰り返すうちに毛虫も根負けしたのか、もぞもぞと不気味な動きをさせながら横に転がる。引っかかっていた綱吉の脚は元々傾斜していたから、一度剥がされると後は道に沿って地面まで一直線だった。
「十代目、終わりましたよ」
他愛もない作業だったのに、終わったと分かった瞬間ドッと疲れが押し寄せて額に汗が浮いた。獄寺はもう吸えないタバコを揺らしながら、自分の片腕に寄りかかって額を押し当てている綱吉に声をかけた。
彼はまだカタカタと小刻みに全身を震わせていて、本気であんな小さな虫一匹が怖かったのだと獄寺に痛感させられる。もし自分が訪ねてこなかったら、彼は今もひとり庭に立ち尽していたのだろう。それを思うと、神様が恵んでくれた幸運な偶然に感謝しても仕切れない。
「十代目」
意識が外向いているのか。反応がない綱吉を再度呼んで、彼の肩に手を置く。瞬間、バッと勢い良く顔を上げた綱吉は涙で濡れた頬を露にして大きく息を吐き出した。青褪めた唇が痛々しく、滲み出る汗で彼の身体はすっかり冷え切っていた。
「あ……」
現実に戻ってきたらしい綱吉が、数秒の間を置いて瞬きし、獄寺を視界に宿してから彼の腕を掴んだままだったことを思い出す。慌てて両手を解放するが、逃げようとした体は先に獄寺によって捕らえられた。
大丈夫、と肩から回した手で背中を撫でられる。
軽く叩かれる衝撃に合わせて息を吐き、吸って、呼吸のリズムが本来のそれに戻る頃には、綱吉を濡らしていた汗も引いていた。獄寺の胸に体を預けていた綱吉が、ホッとした様子で肩の力を抜く。寄りかかってくる体重の度合いが増して、獄寺は両手で彼を支え直した。
汗ばんだ肌に浮く珠が首筋に見え、獄寺は小さく喉を鳴らして唾と一緒に頭を過ぎった妄想を飲み込んで追い払った。綱吉の呼吸を間近に感じ取る、太陽の陽射しよりも熱い肌が自分に張り付いて離れようとしない。胸元に綱吉の吐息を浴びて、獄寺は自分の肌が粟立つ感覚に襲われた。
「大丈夫ですか?」
それでも懸命に平静さを装い、無理矢理作った低い声で問う。綱吉は間をおいて小さく頷き、ごめん、と呟いて獄寺から離れた。
手は放し難かったが、これ以上彼を拘束するのも不自然であろう。これ以上彼を怖がらせたくはなくて、獄寺は大人しく綱吉を解放した。
綱吉の顔は林檎のように赤かった。気まずげに何も言わない獄寺の様子を窺っては、もう何も付着していない左脚をまだ気にする素振りも見せて、寒くないのに腕を交互にさすっている。
「なんでしたら、探して踏み潰しておきますが」
「いいよ。あれでも一応、生きてるわけだし」
緑の下草に埋もれて姿が見えなくなった毛虫の行方は知れず、獄寺の申し出は無意味だと綱吉は首を横へ振る。その割にまだ左腕には鳥肌が残っていて、負けず嫌いの性格がちらりと顔を覗かせたようだ。
「学校、もう間に合いませんね」
盗み見た沢田家のリビングに吊るされている時計は、今から走ったところで始業時間に到底間に合わない時刻を指し示していた。
「だね」
綱吉も腕を下ろし、同時に肩も落として苦笑いを浮かべる。鞄を取ってくるから、と獄寺に断って一旦背を向けた彼は、よく見れば足元も靴ではなくサンダルだった。
事情を聞けば、庭で遊んでいたランボに呼ばれて枝の先に乗っていた毛虫を押し付けられたらしい。咄嗟の事に声も出ず、逃げも出来なかった綱吉を置いて、あの子供はさっさと綱吉を置いて家の中に戻ってしまった。毛虫一匹に動けなくなっているのをビアンキに知られるのも嫌で、家人に助けを求めるのも出来なかったのだとか。
獄寺が心配した通り、あの場に彼が居合わせなかったら、本当に今でも綱吉はまだ庭で棒立ちになっていた可能性は高い。
「しかし、毛虫くらいで……」
「だって」
しょうがないじゃないか、と唇を尖らせた綱吉が横を行く獄寺をねめつける。
ふたりは一応学校へ向かう道順にあったが、一時間目の授業に出席するのは早々に諦めているので歩調はゆっくりだった。
「昔さ、何にも知らない頃、刺されたんだ」
確か家光が庭木の手入れをしていた時だったように記憶する。当時四歳か五歳だった綱吉は、興味本位で動き回る毛虫を触って遊んでいた。
家光は庭木の枝を剪定するのに夢中で、奈々は家の中で作業中だった。綱吉の無邪気な行動を見咎める存在は居合わせておらず、気づけば綱吉は毛虫に刺されて大声で泣きじゃくっていた。
痒くて掻き毟り、余計に赤くなって腫れて血が出て、全身あちこちが膨れ上がり顔もパンパン。
奈々が声に気づいて飛び出して来た頃にはもう手遅れで、それが原因で家光は奈々に散々怒られた上三日ほど口も利いてもらえなかったのだとか。
「それで、さっき」
素手で毛虫に触ろうとした獄寺を綱吉が制止した理由が分かって、納得顔で頷いた獄寺に彼はやや照れ臭そうに頬を赤くした。
「あんまり、みんなには言わないでよ」
「どうしてです?」
「だって、なんか、女々しいって言われそう」
虫が苦手なのは大抵女子で、男子は平気という世間一般の目を気にしているのだろう。誰だって苦手なもののひとつやふたつあるのは当たり前で、好悪に性差は関係ないと思うのだが。
体面を気にする綱吉が解らないと首を捻る獄寺に、綱吉は益々顔を赤くして唇を尖らせる。
「恥かしいじゃん」
「そうでしょうか」
獄寺だって、お化けが苦手だ。というよりも、目に見えないもの全般に恐怖心を感じる。しかしそれを恥だとは思わない、怖いものは怖いのだから仕方が無いではないか。それもひとりの人間としての個性だと、獄寺は考えている。
開き直りとも取れる獄寺の考え方に、小さく唸って綱吉は夏の様相を呈した空を見上げた。
道行く人の数は少ない、学生の姿は皆無だ。当然だろう、本来はもう机に向かって座り、教科書を開いていなければならない時間なのだから。
雲間から顔を覗かせた太陽は、無遠慮に地表を焼いて輝いている。陰鬱な気持ちに落ち込みそうになっていた綱吉に、思い悩むのも馬鹿らしいぞ、と笑いかけているようでもあった。
表情を緩め、綱吉は軽く首を振る。
「でもやっぱり、情けないなー。格好悪い」
「そうですか?」
肩に担いだ鞄を落とさぬよう、両腕を前に真っ直ぐ伸ばして綱吉が愚痴る。即座に獄寺が切り返して来て、そうだよ、と拗ねた調子で頬を膨らませれば、彼はにこやかな笑顔を浮かべて綱吉に向かって目尻を下げた。
出会ったばかりの頃は怖い表情ばかりが目に付いた獄寺も、今はよく、こうやって笑うようになった。眉間に皺を寄せて真剣な表情をしている彼も良いが、矢張り笑顔で居てくれたほうが綱吉としても嬉しい。
「俺は。嬉しかったですけど」
「はい?」
心を見透かされたような気がして、綱吉は笑い返そうとしていた表情を引き攣らせた。
だがよくよく考えてみれば、随分と失礼なことを言われた気もする。裏返った綱吉の声に獄寺は思わずと言った様子で苦笑し、綱吉の誤解を違う、と手を振って弁解する。
「そうではなくて。十代目の色々な顔が見られたのが、嬉しかったというか」
「獄寺君、趣味悪い」
「いえ、ですから……すみません」
綱吉の怖がっている顔を見られたのが嬉しいというのは、考えてみれば矢張り綱吉にしてみればかなり失礼な話だ。
大人しく頭を下げて謝罪を口にした彼は、言い方が悪かったかと頬を引っ掻きながら綱吉の機嫌を直そうと急ぎ言葉を捜し直す。
「なんて言えば良いのか……つまりですね、十代目」
「うん?」
「いろんな顔、見せてください」
頭の上に疑問符が浮いた綱吉に、獄寺が足を止める。二歩ほど先を行ってしまった綱吉もまた、後方に流れた彼に気づいて慌てて歩みを止めた。だが近くまでは戻らず、その場に立ったまま振り返るのみ。
獄寺の横顔に光が当たり、反対側の頬に影が落ちる。吹き抜けた生温い夏の風が、綱吉の襟足を擽って耳の奥にざわりとした音を残した。
「俺、もっともっと、十代目の事知りたいです。いろんな顔をしてる十代目を見ていたい。だから、十代目が好きなものも嫌いなものも、全部、教えてください」
真剣な眼差しはまるで頭上に掲げられた灼熱の太陽のようであり、顔を逸らせない綱吉は口腔が乾くのを意識して喉をひとつ鳴らした。
アスファルトが焦げ付く臭いが足元から登ってきて、むき出しの腕に絡みつく。肩からずり落ちそうになった鞄に気づいたのは数秒遅れてからで、持ち手が肘まで下がって危うく落下する寸前で綱吉はどうにかそれを確保した。
鞄を掴む動作のついでとばかりに、急いで獄寺に背中を向ける。
「や……やだな、なんかそれ」
赤くなった顔を見られたくなくて、綱吉は肩も窄めて胸に鞄を抱え込んだ。
「十代目」
「だって、それって四六時中俺と一緒にいたいって事でしょ」
「俺はそれでも良いです」
「俺が困る!」
大股で距離を詰めた獄寺に迫られ、綱吉は逃げ腰で叫んだ。肩に降りてきた彼の手を咄嗟に払いのけ、振り返り様に獄寺の顔に向かって自分の鞄を押し当てて壁にする。
だが今度は両肩をがっちり掴まれて、逃げ場を失った綱吉は視線を右往左往させながら地団太を踏んだ。
「そんなに俺がいやですか?」
「そうじゃなくって」
「じゃあ。せめてひとつだけ」
四六時中が嫌だと言い張るなら、今のこの一瞬だけで構わない。見せて欲しい表情がある、と微笑んだ獄寺に言われて綱吉は口篭もった。
沢山からひとつだけに急に要求が軽くなった。綱吉は高く掲げたままだった鞄を胸元まで下ろし、渋面を崩さぬまま唇を尖らせる。
あまりごねるのも獄寺が可哀想だし、自分の心が狭いと思われるのも癪だ。ひとつくらいなら、まぁいいか、妥協の末綱吉は控えめに首を縦に振った。
「なに?」
いきなり笑顔や泣き顔を見せてと言われても、直ぐに出来るかどうか解らない。変な要求でなければいいのだけれど、と瞬きした目を上向けて獄寺に向けた綱吉の顔に、影が落ちた。
肩に置かれている手に僅かに力が篭もる。見開いた綱吉の目の前で、光を浴びた銀がキラキラと輝いた。
睫まで銀色なんだ、と呑気に見惚れて反応出来ない。耳に響いた微かに濡れた音に我に返って、瞬間、綱吉は獄寺の身体を思い切り突き飛ばした。
後ろ向きにたたらを踏んだ獄寺の横を、ベルを鳴らしながら自転車が駆け抜けていく。
「ば……ばかっ!」
茹蛸よりも赤くなった綱吉の怒鳴り声に、獄寺は心底楽しそうに声を立てて笑った。
2007/6/13 脱稿