迎接

『明日帰る』
 たったひとこと、それだけを告げて電話は切れた。
「はい?」
 ツーツーと虚しい電子音を響かせる受話器を手に、ボンゴレ十代目こと沢田綱吉は呆然と立ち尽くす。
 名乗りもせず、用件も至極簡潔に要点のみ。こちらの都合など一切お構いなしの、あまりに一方的過ぎる電話だった。いや、分かる。相手が誰であったのかくらい、いくら電子処理された音声であろうとも彼の声を聞き間違えることは決してないという自負は少なからず綱吉にあった。
 しかし、だ。
 綱吉は重い動きで受話器を置き、入れ替わりに視線を持ち上げて壁際に据えられた大時計の文字盤を読み取る。丑三つ時を過ぎ、けれどまだまだ真夜中と言って差し支えない時間帯だ。窓の外は闇に染まり、ぽっかりと浮かび上がる月が雲に淡い輪郭を描き出している。
 思わず溜息が零れ、一瞬で吹き飛んでしまった眠気を恨めしく思い出しながら、綱吉は唇を尖らせて自分の体温がまだ残る受話器の表面をそっと指でなぞった。
 彼の足元には木目も鮮やかな、表面には無数の浮き彫りが施されている重厚な棚がある。更に彼の足を隠すようにして真っ白い布と、何冊かの本と、止め具が外れた紙束が散らばっていた。棚の中腹に電話があって、白いコードが壁に向かって伸びている。観音開きの扉が当て所なく揺れて綱吉の肘を叩いた。
 この電話は、滅多に鳴らない。
 いや、頻繁に鳴ってもらっても困る電話だ。
 この電話が宛がわれている番号を知る者は少ない、両手の指で余る程しかいない。自分が本当に信頼して、背中を預けることが出来る側近にしか教えていない番号。
 これは、その彼らに万が一何かが起こった時のみに鳴らされるホットライン。
 だからこんな時間にこれが鳴ったと知った時、夢の中に居た綱吉は一瞬で目を覚まし、ベッドを駆け下りて転びそうになりながら棚の中を掻き分けて電話をつかみ取った。それなのに受話器から聞こえて来たのは、飛行場らしきアナウンスを背景にした男性の低い声。
 随分と元気そうじゃないか、という嫌味のひとつも言えなかった。電話に出た時綱吉は泣き出す寸前で、何かの間違いであって欲しいとひたすら願っていたから。
 だから声への反応も遅れてしまい、気づけば通話は切れた後。
 怒りは今頃になって徐々にふつふつと湧き上がってきた。
「あんのヤロー」
 無意識で握った拳で棚の角を殴り、その痛さに飛び上がって綱吉は今度こそ涙目になった。赤くなった指の背に息を吹きかけて冷まし、フローリングに散らばった紙を踏んでしまって、また滑って転びそうになりながらその場で蹲る。
 丸めた背中、スペースに余裕が無かったので額が思い切り棚を打ち付けたが彼の踵は動かなかった。
 わざわざこの番号を彼が選んだ理由、それは間違いなく、綱吉がこの電話ならばどれだけ深く寝入っていても必ず目を覚ますことを知っているからだ。
 もし今が、陽も昇り、綱吉も健やかに目覚めて以後の活動時間内であったならば、彼はこの番号を押さなかっただろう。人の迷惑顧みず、夢に浸っていた綱吉をたたき起こした彼の目的。
 電話の後ろで聞こえて来たアナウンス、雑踏。彼は少し前に、彼にしか任せられないような面倒な仕事の為に海外に赴いた。それを命じたのは綱吉で、彼は命令に従い任務についた。
 予定ではもっと時間が掛かったはずだ、少なくとも一ヶ月はかかると推測出来た。彼の力量で一ヶ月と踏んだ内容でもあり、だから彼以外に任せればその倍は掛かるだろうと思われた。
 しかし、それを、今から帰る、とは。
「終わったの、か……?」
 自問に答える声は無い。確認の為にこちらから連絡を取ろうにも、もし飛行機に搭乗する直前の連絡だったなら、既に携帯電話の電源も切られているだろう。それに性根が意地悪根性で染まっている彼の事、コールしても応答してくれないに決まっている。
 だから憶測するしかない、けれどあの口ぶりからして本当に任務を完遂したのだろう。
 長い間、彼とは顔を合わせていない。連絡も最小限、声を聞いたのだって実は十日ぶりだ。
 綱吉は膝を抱えていた手を広げ、腿の上に持ち上げた。棚にぶつけたままだった額を外し、そこに指を添えて掌全体で顔を覆い隠す。意識した途端顔が赤くなって、表情筋も勝手に緩んでいくのが分かる。俗に言うにやけた顔、だ。もし彼が本当に、実力以上の力を発揮して仕事を終わらせ、誰よりも早く自分に連絡を寄越してくれたのだとしたら。
 これ以上嬉しいことは無い。
「…………」
 きっと鏡を見れば、耳の先どころか首まで真っ赤になっている自分が映し出されることだろう。今が誰も訪れてくることもない夜中で良かったと、眠っていたところを叩き起こされた恨みも忘れて想ってしまうから、我ながら現金な性格をしている。
 嗚呼、だが。
「今日の、いつだ?」
 具体的な時間までは告げられなかった、ただ「今日」とだけ。
 姿勢を低くしたまま顔だけを持ち上げ、指の隙間から時計を再度見る。刻々と進む秒針、時間は先ほど確かめた時から二分と経過していない。
 彼を乗せたであろう飛行機が飛び立った国は、此処から遠く海を隔てている。一時間やそこいらでたどり着ける距離ではない、中継地点や到着してからの飛行場からの経路によっても、城に帰り着く時間は幾らでも変わってくる。
 ちゃんと聞けばよかったと今更後悔しても後の祭りだ。
「うあああ」
 だが悔やんでも悔やみきれなくて、両手で今度は頭を抱えて綱吉は呻いた。ごん、と勢い良くぶつけた頭が棚の角を直撃し、痛みにもんどりうって倒れた彼は姿勢が崩れるままに背中から床に寝転がった。両手を広げ、伸びきらない足は膝を曲げて棚に引っ掛ける。
 無地の白いパジャマの上に、窓から差し込む月明かりによって、窓枠の線が歪ませつつ描き出される。向こう側が透けて見えるくらいの繊細に織られた布越しに見える月は静かに輝いていて、耳を澄ませば遠く微かに波の音が心音に重なった。
 彼もどこかの空の下で、同じ月を見上げているのだろうか。
 暫くの間その格好でいた綱吉だけれど、持ち上げていた足がいい加減疲れて来て、彼は膝を引き寄せながら首を上向けて、勢いをつけて起き上がった。
 わざわざ人が寝入っている時間を見越して連絡を入れてきたのは、嫌がらせも勿論あるだろうが、それよりも矢張り、なにより。
「出迎えろ、って事だよな……」
 腰を浮かせた状態で座り直した綱吉は、片手でこめかみの辺りを押さえながらぼそりと呟く。
 何かにつけて偉そうに人を見下す態度を取るあの男は、年下の癖に威張りたがりで、けれど胸を張って然るべき実力は備えている。昔から綱吉は何ひとつ彼には敵わなくて、逆に彼に教えられてばかりだった。今こうして自分が此処に居るのだって、彼との出会いがそもそもの発端であり、彼なしで今の自分はありえない。
「あー、もう」
 下手に彼に頭が上がらない分、余計に綱吉は困ってしまう。怒らせるのは避けたいし、自分だって彼に真っ先に会いたい。かと言っていつ戻ってくるかも解らない彼をただ待ち惚けるわけにもいかない、仕事は日々積み重ねられていくものだ。
 それに彼の事、仕事をサボったと知られてみろ、どんなお仕置きが待っているか分かったものではない。
 いったいどうすればいいのか。
 頭を抱えたまま唸り、綱吉は浮かせた爪先で床を叩くとその勢いを利用して立ち上がった。
「どうせ、ゆっくり休みもせずに戻ってくるんだろ」
 この場に居ない相手に向かって呟き、散らばっている紙の中から布を引き抜いて両手で広げる。きっとまた当分鳴ることはない電話の上に被せ、彼は両開きの戸を閉じてその場を離れた。
 ベッドに戻るか逡巡して、首を横へ振る。気まぐれに向いた窓辺に歩み寄って薄布のカーテンを捲れば、下限の月が闇の中に雲をまとって浮かんでいた。
「コーヒーよりも、リラックス出来るハーブティー。サンドイッチより、パニーニのが良いかな。中身はチーズと生ハム、パンは朝になったら厨房に頼んで焼いてもらおう。どうせ機内食も食べないだろうし、冷たいパスタとかあってもいいかな。リコッタチーズの良いのが入ったって聞いた気がするし……あと栄養偏ってるはずだから、生野菜のサラダと」
 自分が食べたいものではないのか、と指摘されそうなメニューを次々に思い浮かべては、指折り数えて品数を増やしていく。きっと日が昇ってからのキッチンは大騒ぎになる筈だ。
 いつの間にか彼の帰り時間が、綱吉の頭の中では昼食の時間帯に重なるように計画立てられている。根拠は何処にも無いけれど、出迎えイコール食事と単純な思考回路が繋がったが故の結果だ。パン、と最後に両手を小気味良く音を響かせて叩き、綱吉はそうだ、と口の中で呟く。
「庭の、綺麗に咲いてたよな」
 額を窓ガラスに押し当てても、テラスが邪魔になって庭の全景は見えない。だが記憶を頼りに目を閉じれば色鮮やかに大輪の花で彩られた庭園が易く思い浮かんで、テーブルに飾る花はあれにしようと決めた。
 庭師に頼んでもいいが、折角だし自分で摘んだ花で華やかな席を演出してみよう。離した両手を軽く握り締めた綱吉は、そうと決まれば、と振り返ったところで大時計の示す現在時刻を思い出し苦笑した。
 眠気はすっかり醒めてしまったが、休める時に休むのもボスとしての勤めだと散々言われている。そして今は、休むべきときだ。
 彼が帰れば報告を聞いて、取りまとめた上で次の予定を組み立てなければならない。やることは常に目の前に山積みで、間違った考えを起こさないためにも充分な睡眠時間は必要不可欠。根を詰めすぎると後先考えずに突っ走っては力尽きて病院に入院、なんて事も過去に幾度と無く経験している綱吉は、肩を竦めながら耳にタコができるくらい聞かされた彼の説教を思い出した。
 今はその声ですら、懐かしさで胸が熱くなる。
「帰って来るんだな」
 今頃呟いて、実感して、心臓が耳に五月蝿い。
 会いたい。早く彼に、会いたい。
 会って、抱き締めて、抱き締め返されて、いっぱいキスをして、話をして、それから、それから。
 言葉に出来ず、両手で顔を覆い隠した綱吉は真っ赤になりながら再び膝を折って窓辺に座り込んだ。
 彼の頭上に明り射す光はどこまでも柔らかく彼を包んでいた。

 犬の吼える声がする。
 目深に鍔広の帽子を被った青年は、吹き抜けた風に煽られて飛び去ろうとしていたそれを左手で押さえ込んで不機嫌に口元を歪ませた。
 ホテルを引き払い、タクシーを拾って飛行場へ。前もって予約していた飛行機に搭乗し、休息もままならないまま一足飛びで大西洋を横断して国際便の乗り入れも激しいハブ空港へ到着。そこから更に別の飛行機を利用してまたしても海を渡り、懐かしい地形が窓の外に広がるのを無感動に見下ろして、手荷物のみの入国検査に約三十分。相変わらずこの国の役人は仕事が下手だと心の中で毒づきつつ、タクシーを拾って飛行場を後にして、定時どおりに来ないバスを当てにせず、前々から契約していた駐車場から自分専用の車を引き取り、ここまで来るのに更に約一時間。
 その間口にしたものはペットボトル入りの水が二本のみ。いい加減空腹は絶頂を迎えつつあるものの、これしきで倒れてなるものかという自負が彼を動かしていた。
 一刻一秒でも時間が惜しい、その為に自分なりに最短経路を周到に用意して実行したつもりだったが、飛行場の審査に時間を取られすぎた。本当ならもっと早く戻れていたはずなのに、と赤錆が目立つ鉄柵の門を押し開いて彼は小さく舌打ちした。
 予想よりも随分と早く、尚且つ全く誰にも知らされていなかった彼の帰還に、出迎えた人々は皆一様に驚きの表情を作ってみせた。だが肝心の、唯一報せをやっていた顔がそこには欠けていて、何処へ行ったのかと聞けば皆口を揃えて知らないという。
 慌てながら食事はどうするのか、という同胞からの質問も答えずに、彼はひとり、ゆっくりと城を取り囲む庭を歩きだした。
 彼の手には、書類その他が詰め込まれたアタッシュケースがひとつきり。それ以外のどうでもいいような品は、出立前に航空便で手配済みだ。早ければ今週中、遅ければ永遠に届かないだろうが、それも視野に入れている。
 無くして――奪われて困るものはこの手荷物と、自分自身の頭の中に。帽子から手を下ろした彼は、居場所を奪われた為にガサゴソと人の手首を這いずっていた緑色の奇怪な生物を肩へ移動させ、その肩を緩くだが窄めさせた。
 キィキィと金切り音を放つ門を抜けた先は、鬱蒼と緑の葉を茂らせる巨大な果樹園が広がっている。自然光に満ち溢れ水と気温にも恵まれたこの地方は、古くから果樹栽培が盛んであり、その影響は今もあちらこちらに残っている。この果樹園も昔はもっと敷地も広大だったらしいが、時代の波に押されて、また必要性に乏しくなったこともあり一時は完全撤廃も論議されたそうだ。が、この果樹栽培や土地の借地運営は、この地方に根ざした自分たちマフィアの根源でもある為に、小規模ながら今もこうして残されている。
 犬の吼え声はその一画から響いているようだった。
 果樹園はバラ園にも繋がっていて、行き来は自由に出来る。今は丁度真っ赤な薔薇が見事に咲き誇っている季節。どうせ数日後には慌しくまた別地へ向かわなければならない自分だから、今のうちに見ておきたかった。
 ここの庭師は優秀な人材が揃っているから、その辺の陳腐な品評会に出展されるような薔薇とは比べ物にならない見事なものが咲く。年に一度しかめぐり合えないのだから、時間が許す限り眺めておくのもまた一興だ。
 バラ園は記憶の通りならば果樹園を抜けた先にあって、丁度通り道で犬も吼えている。歩を進めるたびに犬の声が大きく響いてくるので、そろそろ五月蝿いなと顔を顰めた彼の肩では、獣に怯えた様子もなく形状記憶カメレオンがおっとりした表情で彼の首裏を通り、反対の肩へと移動していた。
 右手に持ったアタッシュケースが前後に空を掻く、澱みの無い足取りは確実な一歩を大地に刻み込む。遠く眼下、岩肌も無骨な崖を越えた先では穏やかな波が一面に広がっており、頭上に戴いた太陽は燦々と陽気な微笑みを浮かべていた。
「いけって、あっちいけー」
 その足が思わぬところで石に躓き、実に彼らしくない動きで彼は前のめりにつんのめった。
 肩の上のカメレオンが慌てて落とされないようにと彼の背中側に回りこむ、カクリと折れた膝が斜めに崩れていきそうだったのを堪えた彼は、聞こえて来た実に情けない青年の声に呆れた様子で唇を尖らせた。
 外れ落ちかけた帽子を取り、崩れた形を整えて被り直す。ついでに首の後ろから黒のジャケットの中にもぐりこもうとしていたカメレオンの尻尾を引っ張り、定位置たる帽子の鍔に戻してやった。
 彼は木漏れ日射す頭上を仰ぎ見てから左、右へと視線を巡らせた。柔らかな地面には、自分の足跡以外に獣が走ったと思しき跡が微かに見て取れるのみ。犬の声は未だに響き渡り、しかし密集して枝を広げる木が多すぎて発生源はなかなか特定まで至らない。
 やれやれ、と彼は大仰に肩を竦めるとアタッシュケースを握り直し、こっちだろうと当てずっぽうに見当をつけて歩き出した。
 南国を思わせる幅広の葉に、土と緑の匂いが交じり合う。陽射しは枝葉が遮ってくれているのでさほど厳しさは感じられず、足元も均してあるので比較的歩き易い。
 右から聞こえたように思えた犬の声は、少し行けば左から響いてきたり、後ろからだったり。どうにも方向感覚が危ういなと、曲げた指で顎を掻いた彼は乾いた唇をひと舐めしてから、これまで嗅いで来た周辺の空気とは若干異なる色を敏感に感じ取って眉根を寄せた。
 柑橘系の中に混じる、微妙で曖昧な芳香。帽子上のカメレオンも鋭敏に感じ取ったらしく、鍔を裏側から見上げた彼は、もっと早く気づくべきだったと嘆息の末、進路を確定して更に歩を進めた。
 そうして漸く、一本の太いブラッドオレンジの木の根元で喧しく吠え立てる犬を発見する。
 黒く短い毛並み、しなやかで細く長い脚にすらりと伸びた鼻筋。開閉を繰り返す口からは鋭い牙が幾つも覗き、垂れ落ちた涎で顎が汚れていた。前脚を何度も跳ね上げて後ろ足だけで器用に立ち、幹に爪を立てて引っ掻きながら上ばかりを見てけたたましく吼え続けている。
 彼は興奮しきっている犬の様子を一頻り観察してから、呆れた様子で樹上に視線を走らせた。
 歴史を感じさせる立派な胴回りに、太い枝。青々と茂る葉の隙間から差し込む光は柔らかく、それでいて眩い。思わず瞳を細めた彼の姿は果たして、そこに居る存在の視界に入っただろうか。甘茶色の髪をした青年がひとり、両手両足を突っ張らせて懸命に木の根元に一番近い枝にしがみついていた。
 地面に近いとはいえ、その枝は彼の背丈よりも高い位置にある。足場に出来そうなものは殆ど無いに等しい木の幹をどうやってあそこまで駆け上ったかは知らないが、人間なんだって死ぬ気になれば出来るもの、本人も意識しないうちにそこに辿り着いたに違いない。
 原因は、そこで尻尾を逆立てている犬か。
 視線を転じて彼方を向けば、思ったよりもバラ園が近い。更にバラ園から続く道筋に点々と赤いものが散らばっていて、彼の足元近くに風で飛ばされたものを拾い上げれば、それは肉厚の花弁だった。
 キャンキャンと吼える犬は新たな来訪者よりも、バラ園への侵入者を追い払うのに躍起らしい。鋭い牙と瞳にすっかり怯えた様子の青年が、情けない声で誰か助けて、と悲鳴を上げた。
「城主が飼い犬に顔を忘れられて、どうする」
「ふぇ?」
 青年にしてみれば、それは唐突に降って沸いた声に聞こえただろう。彼の呆れ声に拍車をかけるような間抜けな声を出し、青年は樹上から樹下に視線を投げた。
 いい加減五月蝿い、と彼は持っていたアタッシュケースを唐突に犬の鼻先へ突き出す。急に覆われた視界に驚き、キャンッと吼えた犬は怒りの矛先を彼に向けようとして、しかし先に射られていた彼の鋭く、底深く暗く冷たい視線に恐怖を露にし、尻尾を巻いて一目散に逃げていった。
 鳥の囀りが周囲に戻り、風に揺られる枝葉の細波が耳を打つ。人の心を落ち着かせる静けさに青年は素早く目を瞬かせ、彼はと言うと一度置いたアタッシュケースを背中に担ぎ直して根性の足りない犬を嘲笑った。
 完全にその姿が見えなくなるのを待ってから、振り返り、上を向く。
「チャオ、ボス」
「リボ……!」
 帽子を軽く持ち上げて笑みを浮かべながら挨拶した彼に、樹上の青年は人の名前を最後まで言えず、危うく枝から転落する寸前で息を止めた。ずり落ちかけた胴体部分を枝に縫いつけ冷や汗を拭い、頭から落ちれば無事では済まないだろう高さに眩暈を起こしている。
 帽子を戻したリボーンはそんな綱吉に何をやっているのかと視線で問いかけるが、嫌な場面を目撃されたからか、彼は気まずげに視線を泳がせてそっぽを向いてしまった。
「ツナ」
 露出している首が赤く染まっているのが見えて、リボーンは含み笑いの末、指で摘んでいた薔薇の花びらを風に流した。
 名前を呼ばれたら返事をするのが礼儀。ナマケモノ宜しく枝にしがみついている綱吉は、躊躇しながらも控えめな動きで首を持ち上げ、瞳を横向かせて樹下に佇むリボーンを見詰める。だが目が合う直前にまた反対側に顔を逸らしてしまって、リボーンは仕方が無いなという素振りを見せた後アタッシュケースを足元に置いた。
 丈の短い草が上ではなく横向きに伸びていて、柔らかなそれが重みに潰される。隙間からは先ほど彼が落とした花びらが、鮮やかな色を放って存在を主張していた。
 バラ園から伸びる小道、散らばった無数の花びら。
「何、やってる」
「いや、だからその」
 帽子を若干後ろへずらした彼の問いかけに、綱吉は言いにくそうにもごもごと口を動かして視線を落ち着き無く泳がせる。地中海の太陽は眩いばかりの輝きを放ち、生い茂る樹木は白いシャツを着込んだ彼の体を斑模様に染め上げていた。
 人に言えないことをしていたのか、と揶揄ってやろうと思ったリボーンだが、それでは綱吉を余計拗ねさせてしまいかねない。
 幾つになっても手間のかかる奴だ、と呆れ気味に嘆息してから彼は表情を緩め、両腕を高く上へ掲げた。
 指も広げ、少しだけ角度をつけて顔の前で左右に広げる。
「ツナ」
「……」
「どうせ犬に追いかけられて登ったはいいが、自分で降りられなくなったんだろう」
 綱吉は答えない。だが指摘を受けた瞬間彼の顔はいよいよ赤く色付き、腕の力が緩んでまた上半身を枝の上で滑らせたから、リボーンの予想でほぼ間違いなさそうだ。
 木登りなんてまともに出来た試しは無いのに、無茶をする。
 これが、歴史あるマフィア界でも名実共にトップクラスのボンゴレを総指揮する立場にある人物だと、いったい誰が信じられるだろう。
 だがこれこそが、沢田綱吉という人間なのだ。どう足掻いても、教育しても、鍛えても、彼の根底あるものは覆せない。
 リボーンは掲げた腕を更に前に突き出し、ほら、と綱吉をせっつく。だが腕の隙間から下を見た彼は、戸惑いがちに首を横へ降った。無理だ、怖い、受け止めきれない、お前まで怪我をしてしまう。そう思っているのがありありと分かる表情の変化に、リボーンはまったく、と右の肩だけを竦めて目を眇めた。
「心配ない」
「けど、リボーン」
「受け止めてやる」
 不安がる必要は無い、安心して良い。リボーンの力強い瞳は綱吉を真っ直ぐに射抜いて外さない、ざっくりと胸に突き刺さった矢の痛みに息を飲んだ綱吉は揺れる瞳を静かに閉ざし、枝を掴んでいた腕から力を抜いて逆に腿でしっかりと抱え直した。
 両腕を左右に大きく広げ、バランスを取りながら上半身を起こす。木の表面に指が擦れたのか、一瞬痛そうに眉を寄せた彼につられてリボーンまで表情を歪ませたが、綱吉は直ぐに首を横へ振ってやり過ごすとリボーンの立ち位置にあわせるべく、恐々ながら身体の位置を枝の先に向かって少しずらした。
 生温い風が吹く。遠くの教会からは時間を告げる鐘の音が響き、バラ園の方からは庭師らしき男が犬の名前を呼んでいた。
 柔らかな午後のひと時を想起させる甘い色をした髪を風に靡かせ、綱吉が歳の割に小さな喉仏をひとつ鳴らして唾を飲んだ。真下で腕を広げて待つリボーンの楽しげな表情を一度ねめつけた後、奥歯を噛んで恐怖心を堪え、彼は首も窄め、固く瞼を閉ざした。
 一気に腿を枝に引き上げて身体を左側へ倒す、重力に導かれるままに綱吉は宙へ身を躍らせた。
「――!」
 空気抵抗を頬に感じ取り、強張らせた綱吉が咄嗟に身体を丸めて小さくなる。頭からの転落は避けたい、だが身動きの自由が利かない場所では思うようにならず、またいくらリボーンよりも高い位置とはいえ、距離はせいぜい二メートル程度しかないから落下は一瞬だった。
 どさっ、と折り重なりあうようにして柔らかなものがふたつ、塊を作って地面へと倒れこむ。柔らかな土と緑の匂いを鼻先に感じ取り、そこから更に派生した男臭さと言うのだろうか、汗の染みこんだシャツの匂いが綱吉の鼻をくすぐった。
 体の両側から背中に回された腕がしっかりと綱吉の腰を抱え、首を前に倒して頚部への衝撃を和らげたリボーンの頬が綱吉の耳から首筋に触れている。ぶつかったつもりはないが、衝撃で横倒しになったアタッシュケースの角が塞がりがちの視界に覗いて、まるで痛みを感じない自分の代わりに地面に背中を衝突させた男を下に敷いた綱吉は、三秒後、慌てて彼の胸から退こうとした。
 だが腰を掴んでいる手は緩まず、許してもらえない。身動ぎしてじたばたともがく事さえ出来ず、綱吉は顔に降りかかる他者の吐息と肌を通して伝わってくる心音、感じ取る体温に困った様子で頬を染めた。
 抵抗を止めて大人しくなると、耳の傍で微かに笑う気配がする。
「……ごめん」
 小さな声で呟いて、綱吉はリボーンの胸元に顔を埋めた。額を押し当てて鼻を摺り寄せると、彼の匂いがもっと近くなる。
 大地、緑、海、空、甘くそしてほんのりと苦い、懐かしくも暖かく、柔らかな中に棘の隠れた蜜の香り。
「ま、お前の体重くらいなら痛くも痒くも無いわけだが」
 いつも乗せてるしな、と口角を持ち上げて意地悪く笑った彼に、言われた内容が即座に理解出来なかった綱吉は暫く考え込み、十秒後頭から湯気を立てて彼の胸を二度強く叩いた。
 寝転がったままのリボーンが声高に笑って、その声が風に溶けて空へ消えていく。
「で? ツナ、謝るより先に言うことは無いのか?」
 恥かしくて顔を上げられない綱吉の頭を撫で、指先にその柔らかな感触を楽しみながらリボーンが問う。またしても即答できなかった綱吉は、たっぷり二十秒使って考え込み、ああ、と頷いた。
「ありがと」
 ゴッ、とリボーンの拳が綱吉の右側頭部にクリーンヒットした。
「いったー!」
「馬鹿ツナ」
「お礼言ったのに何で殴られなきゃいけないのさ!」
 両手で殴られた箇所を庇い、涙目になった綱吉が怒鳴る。だが綱吉ごと身体を起こしたリボーンは不機嫌極まりない表情をしており、据わり気味の目が余計に怖い。
 彼は後ろに手を伸ばし、転がった時に頭から零れ落ちた帽子をレオンごと引き寄せた。土埃を手と息で払い落とし、被る。
 綱吉は彼の膝に座ったまま、俯き加減の上目遣いで彼の様子を窺う。間違ったことを言ったつもりはないのに、怒られるのは心外だ。けれど解らないと正直に言えば余計に彼の怒りを増幅させてしまうのは明らかで、迂闊なことも言えなくて彼は唇を噛んだ。
 動き回るレオンに意識を向けるリボーンの顔を眺め、自分の手元を見下ろしてから綱吉はふと、風に乗って微かに香る薔薇の匂いに首を横向けた。
 なだらかな丘陵を描く台地に沿って広がる緑の群れ、そこに宿る目の醒めるような赤。
 嗚呼、そうか。言われてみれば確かに、未だ言っていなかった。彼が怒るのも無理は無い、遠くを見据えた綱吉が心に平穏を取り戻しながら乾いた唇を舐めてはにかんだ笑みを零した。
 リボーンが怪訝に顔を顰め、綱吉を見る。彼は両手をリボーンの腿に置き、実年齢よりもずっと幼い表情でリボーンを見詰め返した。
「おかえり、リボーン」
 無事に帰ってきて嬉しい、お仕事お疲れ様。お腹空いてない? 疲れたでしょう、ゆっくり休んで。
 次から次へと溢れ出す、当たり前に言えることが嬉しくてならないことばたち。
 微笑みながら早口にまくし立てる綱吉にしばし目を見開き唖然としていたリボーンだが、直ぐに表情を緩めて破顔し、してやられたと声を立てて笑い出す。
「ああ。ただいま、ツナ」
 一頻り言い終えた彼に告げ、春の日差しにも似た笑顔を向けて。
 数十日ぶりに触れた唇は、以前と変わらずどこか甘酸っぱかった。

2007/6/3 脱稿