大南風

 薄闇の中に一瞬の閃光が走り抜ける。
「ヒバリさん、右!」
 間隔を保ちながら枝を伸ばす木々の隙間から、少年特有のやや甲高い声が走った。それを追うようにして、下草を掻き分けて風が駆け抜ける。
「疾っ!」
 腹の底に力を込めた声を喉から搾り出し、再び銀閃が闇を切り裂く。だが手ごたえは伝わらず、唸りを上げた空気が目の前に聳える木の幹に絡みついた蔦を揺らしただけに終わった。
 素早く身を引き、足を止めた黒髪の青年が苛立ちを隠しもせずに舌打ちして後ろを振り返る。今まさに彼の間横を、目に見えざる何かが行過ぎていたのを感じたからだ。
 漆黒よりも尚深い色をした瞳が、木漏れ日射す森の中に広がる空間の最中、一部分だけが他から切り取られたかのように景色を歪ませている様を映し出す。
 なにかがそこにある、のだけは分かる。けれどそれが何か、具体的な形状までは捉えきれない。それは一直線に彼から遠ざかろうと宙を駆っていて、しかも目指す先には先ほど青年に指示を出した少年が立っている。
 己に迫り来るものに少年も気づいているようで、甘茶色の髪を揺らめかせた彼は同色の瞳を大きく見開く。しかし恐怖に凝り固まったのか、その場から動こうとしない。
 強く地面を踏みしめた青年は、即座に方向を転じて見えざるものに追随する格好で地を蹴った。両手に握った青銀の武器を胸の前で構える。
「綱吉、避けろ!」
「え、うわっ」
 惚けていた少年に向けて矢のような怒鳴り声を発し、青年は黒髪を風に嬲らせて拐を振るった。
 淡く青い光が切っ先から放たれ、慌ててその場を退き右へ逃げた少年がいた場所に命中する。空気が震え、小規模の爆発が起こり、巻き込まれた草木が煽られるままに緑の葉を揺らした。
 横っ飛びで逃れていた少年も例外ではなく、足元から膨らんだ空気の塊に小柄な身体は簡単に弾かれ、空中で向きが反転した。自力で跳ぶのよりもずっと遠くまで飛ばされて、背中から柔らかな地面に落ち、勢いを殺しきれずに腐葉土を削りながらなだらかな傾斜を滑った。
「綱吉!」
 真横へ凪いだ青銀の拐を引き戻し、同じく地面を軽く滑った青年が木の幹を捕まえて体を支えながら少年の名前を呼ぶ。前方には濛々と土埃が立ちこめ、視界は悪く状況の確認は難しかった。
 青年は注意深く周囲を探り、先ほどまで自分が追いかけていたものの所在を探る。目では追えないが故に身に着けた技術だが、吹き飛ばされた少年も気になってしまってなかなか集中できない。
 握り締めた拐の固い感触を指でなぞり、舌の上にじわりと浮き出た唾を飲む。視覚に頼るなと目を閉じるが先日傷を負ったばかりの右目は彼の意思に反してなかなか動こうとせず、瞼を痙攣させて瞬きさえも阻んだ。
 ふっ、と一瞬の静寂が彼を取り囲む。
「ヒバリさん、上!」
 突如どこからか響き渡った少年の声に青年はハッとして顎を引き、背を僅かに後ろへと傾けて頭上を仰ぐ。木立の隙間から差し込む眩い陽光が、彼の目にはぐにゃりと歪んで見えた。
「くっ」
 痛みは無いものの違和感を訴えて憚らない右目を、拐を握ったままの手の甲で押さえ、左腕を頭上に掲げる。横に引いた拐で彼は真上から襲い来た衝撃を受け止め、彼は即座に腰を低く落として体を左に傾けた。圧し掛かってくる力をも利用して、聳え立つ古木の幹に狙いを定めて弾き返す。
 だが空間のうねりは飛ばされた先でまた矛先を変えたらしく、荒く息を吐いた青年を嘲笑うかのようにあちこちを飛び回り彼を翻弄する。
「ヒバリさん!」
 晴れ出した視界の片隅で、身を低くした少年が頭に枯葉をいっぱい載せた状態で叫んだ。
 声だけでなく姿も見えたことで、青年は瞬間安堵の息を零した。そして力を抜いた肩を再び怒らせ、隙無く拐を構え直す。
 両手を前に突っ張らせて身を起こした少年もまた、首を横に振って頭の枯葉を払い落とし素早く瞬きを繰り返して曇っていた視界に目を凝らした。瞳に意識を集約させ、呼吸を整える。薄い茶色だった瞳のその奥が、木漏れ日を浴びて琥珀色の輝きを帯びた。
 密集する木々に遮られた世界さえも遍く見渡し、乾いた上唇に舌を這わせて潤いを与えた彼が蛇の如くその舌を素早く咥内に引き戻す。彼のすぐ真上を、小さな黄土色の物体が走り抜けた。
 木々が揺れ、ざわめきがふたりを包み込む。息をふたつ吐いた少年を振り返った青年が、琥珀に彩られた彼の瞳に薄く笑みを零した。
 完全に青年の視界からは見失われた力の流れが、渦を巻いて何処かから彼らを見下ろしている。
「掛介麻久母畏伎 伊邪那岐大神」
 青年は拐を引き、呼吸を鎮め瞑目した。高らかに謳いあげる言葉は彼を囲む風に力を与え、矢張り渦を生み出して彼を包み込む。
 少年も身を起こし、手早く身なりを整えてから柏手をふたつ打ってそこに息を吹きかけた。
「筑紫乃日向乃 橘小戸乃阿波岐原爾」
 青年の声に続き、少年が唱和すべくことばを重ね合わせる。
 朗々とした声が森の中に響き渡り、大地に眠る力が呼び起こされて震え上がる様が目に見えぬ形で現れ始める。即ち水を打ったように静まり返っていた空間に、音にならぬ振動が耳朶を打ち、空気よりもより密度の濃い大気が地表を高い場所目指して蠢いていく。
 樹上に息を潜めていたものが己の逃げ道を封じ込める力の檻を鋭敏に感じ取り、怯えた声でひとつ啼いた。
 鳥よりも甲高く、金切り声よりも毒々しい。聞くものの鼓膜を切り裂いてしまえるだろうその声に、けれど地上に佇むふたつの影は臆することなく声を合わせ続けた。
 両手を広げた少年が、掌の中に集まってくる淡い輝きを放つ力を胸に抱きとめる。
 見開いた少年の瞳が、真っ直ぐにある一点を貫いた。
 刮眼した青年が、即座に膝を曲げて腰を低く沈めた。木漏れ日を受けて鋭く輝く青銀の拐を強く握り、丹田に集約させた力を移し変える。
 本人の目には映らないが、少年の目にははっきりと青白い炎にも似た力の波が腕を通し、拐へ乗り移る様が見えていた。彼はそれを、渾身の力を込めて少年が瞳で指し示した方角に向けて打ち放つ。
「白須事乎聞食世登 恐美恐美母白須」
「消え失せろ!」
 ほぼ同時に発せられた声が、森の静寂の突き破って激しく大気を震わせた。身動きが取れなくなっていた樹上のそれは、慌てふためき懸命に逃れようと手足をばたつかせる。だがその願いは虚しく、青光りする光に呑まれたそれは一瞬にして灰燼に帰し、バラバラと残骸を地表へと降り注がせた。
 ただそれらも、大地に眠るより前に風に誘われて完全に消えうせる。
 最後に轟いた断末魔の叫びに、少年は耳を押さえてその場に蹲った。けれど拐を手にざくざくと大股に近づいてくる青年の気配を感じ取ると、安堵の表情を浮かべて途端、年相応の子供らしい表情を浮かべた。
 疲れた、と両手両足を投げ出してその場に五体を広げて寝転がる。
「綱吉?」
「あー、もう、こんなのばっかり」
 寝転がった少年の真横まで歩み寄った彼は、慣れた動作で拐を袖口から差し入れて腕の留め具で固定する。そうすれば外側からは腕と一体化してはっきりとは形も見て取れず、そこに武器が隠されているとも一見しただけでは分からなくなった。
 元々は長い年月を大地に根を張って育ち、一種の霊力を備えた古樹から木材を切り出して作っていた拐なのだが、最近頻繁に壊れる状況が続いており、強度の確保が急務となっていた。その辺に跋扈している害も少ない妖の類ならば問題ないのだが、それを上回る強力な力を内包している、例えば鬼のようなものを相手にした時は簡単に破壊されてしまって、役目を果たさない。
 それ故、霊木に成り代わる新たな材料を探した結果。
「拐、新しいのどうです?」
 両手足をじたばたと交互に動かしていた少年も、そのうちに疲れてきたのか大人しくなった。澄んだ瞳を見開いて脇に佇む青年を下から見上げ、注意して見ないと外からでは解らない拐に視線を巡らせた。
「悪くないよ」
「そっか、良かった」
「剥がされた部分は、まだ痛むけどね」
 そう言った青年が、自分の右脇腹を労うように掌で揉んで撫でた。聞いていた少年が苦笑し、肩を揺らす。木の葉と同化してしまいそうな色合いが木漏れ日の中で波を起こし、膝を折った青年の手が彼の額に降りかかっていた数本の髪を横へ払いのけた。
 少年の枕元近くに腰を落とし、青年が右目を気にするように瞬きを繰り返す。
「帰ったら、治療しますね」
「いや、構わない。明日には戻るだろう」
「……むう」
 枯葉に沈んでいた左手を持ち上げて青年の脇腹に指を置いた少年の言葉に、彼は緩く首を振って低い声で囁くように言う。途端唇を尖らせた少年は、不満を隠しもせずに表に出して青年を笑わせた。
 戯れに伸びた彼の手が、寝転がったままの少年の鼻を摘んで上に引っ張りあげる。
「ひゃっ」
「龍鱗がこんな風になるとは思ってもみなかった」
 パッと手を離し、僅かに浮き上がっていた少年の後頭部が土に沈む。小さな虫が何事かと這い出て来て上に居座る巨人に驚き、慌てて逃げていった。
 抓まれた箇所を涙目で撫でた少年も、数秒後に我に返って青年を見上げる。ごろりと寝返りを打つ要領で身体をひっくり返し、顎を横たえられていた青年の膝に載せた。
 喉の下に両手を重ね、軽く手首を曲げて支えにする。距離がぐんと近くなり、土臭い中にあってもはっきりと青年の匂いを感じ取れて少年は嬉しげに眉尻を下げた。
 髪に絡み付いていた枯葉を一枚外し、足元に落とした青年がそんな少年の仕草に呆れた風に肩を竦める。
「綱吉?」
「ちょっとだけ、だから」
 何もこんな場所で、と思うのだが、我が儘を押し通そうとする少年に結局絆されて、青年は仕方がないかともうひとつ肩を竦めた。
 手を広げてくしゃくしゃに跳ね上がっている髪の毛を撫でてやると、猫のように彼は甘えた声を喉に響かせて青年に擦り寄った。
 持ち上げた足で地面を軽く叩き、少年はにこにこと上機嫌に青年を見詰めた。頭に置かれた手の優しさと温もりが何よりも嬉しくて、少し前までそれを失っていたのがまるで嘘のように思えてしまう。
 だけれど眇めた瞳を持ち上げた先、木漏れ日を肩に浴びている青年の右目はまだ完治には至っておらず、痛々しい傷跡が今も目尻から鼻筋に向かって一直線に伸びていた。皮膚が引き攣っている瞼は完全に閉じるのも難しそうで、時折ヒクヒクと痙攣しているのが傍目からでも分かる。
 少年は右手を胸元から引き抜き、肘を伸ばしてそこに触れようとした。けれど距離が足りず、指先は彼の顎辺りに触れるだけで落ちていく。
 沈みかけたその手首を青年が寸前で握り締め、一瞬込めた力を即座に抜いて広げた掌を自分の頬に押し付けた。逃れられないように少年の手に自分の手を重ね合わせ、温もりが確かなものであるかどうか感じ取ろうとしているようだった。
 少年は顔をあげ、身体の位置を少しだけ前に移動させた。上半身を反らして胸を浮かせ、腕が楽になるように体勢を取り直してから静かに口元へ笑みを浮かべる。やがてそれははにかんだ、照れ臭さを隠すものに変わった。
「えへへ」
「綱吉?」
「なんか、嬉しい」
 青年の膝に寄りかかり、額を太股の辺りに押し付けて足をばたつかせる。父親に甘える子供の仕草にも似ていて、少々複雑な気分になりながら青年は彼の柔らかな髪の毛をゆっくりと梳いていった。
「なにが?」
「またヒバリさんと、こうやって過ごせること」
 全く解らないわけではないだろうに、それでも敢えて聞き返した青年に、少年は素直すぎるくらいに率直に自分の思いを言葉に乗せて吐き出した。
 ぴたりと青年の手が止まる。うつ伏せで顔も下向けていた少年は、だから青年が腕を下ろして彼の手を自由にした瞬間に一層複雑な、なんとも言葉では表現しづらい表情を浮かべたのに気づかなかった。
「そう、……だね」
「ヒバリさん?」
「僕も、そう思う」
 遠くを彷徨った視線が手元へ戻され、青年は取り繕うように早口で頷いた。顔を上げた少年と間近で視線がぶつかり、放された手の置き場に困った少年は肌に残っている温もりを握り締めて青年の腰に腕を回した。
 ぎゅっとしがみついたのは、ほんの一瞬にも及ばない時間でしかなかったけれど、青年の心が読み取れなかったからだ。
 一抹の不安めいた思いが少年の中に暗い影を落とす。だがそれも、青年の手が彼の耳朶を擽り、項へと落ちていったことで簡単に取り払われた。
「右目、痛いですか?」
 青年の顔に傷が残るのを良しとしない彼は、毎日のようにその質問を繰り返している。いい加減耳に胼胝が出来そうな青年は、苦笑してから少年の襟足を指で擽った。弱い部分を狙い撃ちされ、少年は「ひゃぅ」と短い悲鳴を上げて小さく飛び跳ね、膝を曲げて身体を丸めた。
「痛くないよ」
「でも、痛そう」
 本人は良いかもしれないが、その顔を見せられる側はなかなか心が落ち着かない。顔の一部分ともあって、どうしても視線はそこに集中してしまう。不躾にじろじろと見られるのは青年だっていい気がしないだろうに、彼はまるでお構いなしだ。
 今も少年が、自分が痛い思いをしているみたいな悲壮な顔つきをしているのに、平然としたまま痙攣を起こした瞼に指を置いた。
 隆起した肉の筋をなぞり、一度は自分で抉った部分が着実にもとの状態に戻ろうとしている様を確かめる。潰したはずの眼球の修復に時間はかかったが、神経も無事に繋がって視力も回復しつつある。
 ただの人間であったならば、あり得ない現象だ。だからこそ余計に、自分が人ではない別の生き物だと教えられているようで、青年は少しばかり複雑な気分だった。
「蛟は?」
「大人しいよ」
 左手も青年の腰に回し、拘束を強めた少年の問いかけに、青年は気を取り直すように息を吐いて肩の力を抜いた。
「いや、大人しいというか……これは童にも言われたけれど」
「リボーンに?」
「どうやら、……完全に混じってしまったらしい」
「へ?」
 がばり、と勢い良く顔を上げた少年の頭と危うく顎が激突するところで、青年は体を後ろへ流して慌てて避けてから胸に倒れこんできた少年を両手で抱きとめ、支えた。
 しかし尚も詰め寄ってくる少年に、どういうことだと説明を喧しく求められ、彼はややうんざりした様子で片耳を指で塞ぐと、落ち着けと少年の背中を撫でて彼を自分の膝に座らせた。
 まだ唇を尖らせて、自分に知らされていなかったことを憤っている少年の額に軽く口付ける。それで彼の機嫌が直るわけではないが、少しは冷静さを取り戻したらしい少年は、右手を伸ばすと青年の襟元を掴んで不安げに睫を震わせた。
 心配ない、とあまりに緊張している彼の背を抱き、青年が淡く微笑む。
「僕は、なにに見える?」
 青年の膝に乗っているので、身長差があるふたりだけれど目線の高さが殆ど違わなくなっていた。間近からじっと見詰めて問われ、少年は頬を朱に染めて唇をもごもごと動かした。
 何に、とは随分抽象的な質問だ。目に見える形を指すのであれば、彼は人間に見える。だが魂の段階で指すのであれば、彼はもう人とは違う分類に属するだろう。しかもあの日を境に、白っぽくある中に蛟の黒が混じっていた彼の魂の色合いが、淡い青色に変化していた。それは少年も感じていたところであり、ならばそれが、青年の言う「混じってしまった」状態に当たるのだろうか。
 顔を顰めさせて返答に窮する少年の鼻の頭へ、青年がもうひとつ触れるだけの口付けを送る。
 目を凝らせば、青年の周囲には暖かな光を放つ金色の鎖が今も絡み付いている。手に触れることは叶わないので、彼の動きを妨げる役割は持たない。ふわふわと綿毛のように緩く青年を拘束している鎖に指を伸ばした少年だが、案の定彼の指先は鎖を素通りして青年の着衣を握りしめた。
「もう、必要ない?」
「まさか」
 震える声で問われ、青年が即座に否定する。衿を握っている手を解いて緊張に強張っている指先へも口付けし、青年は彼の背中を押して自分の胸に抱き込んだ。
 とくん、と跳ねた心臓の音が聞こえ、青年は笑みを零す。
 この腕に抱いた存在が、かけがえの無い自分自身の一部だというのが嬉しくてたまらない。
「君がいないと、僕はこの形を保てない。あの姿ではこうして抱き締めることも出来ないだろう?」
 結界の中、水の祠での青い輝き。記憶を呼び起こした少年は目を丸くし、改めて青年を見詰めてから急に噴き出した。
 確かに彼の言う通りなのだけれど、想像したら急におかしくて、笑いが止まらなくなってしまった。
「あはっ、あははっ。そうか、そうだよね。そうだった、忘れてた」
 違う、安心したのだ。少年が、他の誰よりも青年の傍にいたいと思っているように、彼もまた少年の傍にいてこうやって触れ合っていたいのだと思ってくれていると分かって、安堵が笑いの形となって現れただけだ。
 息継ぎもせずに笑い続け、お陰で苦しくなって噎せた少年の背中を撫で、青年も微笑む。
 嘗て彼は、その体内に人ならざるものを封印された。
 それは長い年月をかけて彼の中で育ち、いつか自由になる時を待ち望み続けた。
 青年もまた内なるものの力を享受し、いつか自在に制御し、使いこなすことを望んだ。
 鬼の毒により猛り狂った蛟は支配関係の逆転を狙い、青年の体を奪い取ろうとした。
 青年は抵抗し、最後の力を振り絞り逆に蛟を完全なる支配下に置いた。
 彼はその力を喰らい、己の血肉とした。ひとつの身体の中に宿っていたふたつの魂は混ざり合い、ひとつとなった。
 だが宿る力は強すぎて、人の形を己の力量のみで保ち続けるのは難しく。結局は青年が得た新しい力は、以前と同様少年によって封ぜられることとなった。
「……と、いう事らしい」
 あくまでも童から教わった形式を取り、青年は話を終わらせる。聞き終えた少年は暫く同じ姿勢で固まった後、瞬きを数回繰り返し、忘れかけていた呼吸を取り戻して深呼吸を何度か行った。
 頭の上には疑問符が若干浮かんでいる、こめかみに立てた人差し指を置いて首を捻る様に青年が失笑した。
「ええと、だから、つまり?」
「表面上は、昔となんら変わりないってことだろう」
 封印の要として青年の傍に少年がいる必要があるのも、少年の生命維持に青年の命が必要である事にも、変化は無い。今まで通り、ふたりでひとつ。
 その大きな瞳を今にも零れ落ちそうなくらい見開いた少年は、一秒後満面の笑みを浮かべて相好を崩した。ぎゅっと尚強く青年を抱き締め返し、自分から彼に擦り寄ってその整った顔の中心部に口付ける。そこへ青年の手が伸びて彼の後頭部を押さえ込み、逃げられないようにして矢張り彼もまた、微笑みを浮かべながら少年の唇に唇を重ね合わせた。
 しっとりと濡れた感触が互いに伝わって、触れ合った場所から熱が舞い込み鼓動が高らかに鐘を鳴らす。吐息さえ相手に飲み込まれ、次第に深くなる口付けに少年は脊髄を直撃する感覚に打ち震え、必死に青年の長着を握り締めて堪えた。
 ふっ、と吐いた息が鼻先を掠めていく。更に温まった箇所に舌を這わされ、ぬるっとした感触に背筋を震わせている間に、青年は少年の身体を脇の下にやった両腕で持ち上げた。
 濃緑の長着の隙間から覗く白い肌に鼻を押し付け、周囲に立ちこめる樹木や土の匂いの中から少年の持つ特有の体臭だけを嗅ぎつける。喉元に頭を潜り込まされているようなもので、少年は顔を赤くしたまま青年の背中から外れた手でその黒髪をそっと包み込んだ。
 肉の薄い骨ばった身体のうち、浮き上がった鎖骨の右側を舐められる。途端にゾクッと全身の筋肉が硬直し、あげかけた声を寸前で噛み潰した少年は腕の中にある青年の頭を小突いて止めてくれるよう懇願した。
 だが想いとは裏腹に、少年の体は浅ましいくらいに青年が吹きかける熱を持った吐息に翻弄させ、色を変えようとしていた。
「ん、やだ……」
「どうして?」
 脇から外れた青年の右手が前へと流れ、襦袢もしっかりと着込んでいる少年の肌を柔らかく撫でまわす。広げられた親指の腹が、隠されていた突起を見つけ出して押し潰すように力を加えてくると、彼は切なげに瞼を閉ざし、彼の質問にも答えず濡れた唇を噛み締めた。
 胸元で青年が意地悪く笑っている気配が感じ取れて、少年は唇に曲げた中指の背を押し付けてそれに牙を立てる。気を抜くと直ぐに陥落してしまう自分と分かっているから、出来るだけ彼が与えてくる感覚をやり過ごそうと試みるのだけれど、そうでなくとも全く触れ合わない時期が間に長かっただけに、そんな彼の頑張りは実に呆気なく瓦解してしまう。
 青年も分かっているだけに、指使いに遠慮がない。
 右ばかりだけでなく左側も同じように刺激を与えながら膝を立ててその峰に少年を座り直させて、びくっと震え上がった彼の首筋にすかさず唇を寄せて柔らかな皮膚に思い切り吸い付いた。
「っ……」
 息を殺した少年が一瞬泣きそうな顔をして、青年の頭を掻き抱く。
「どうする?」
 青年が囁く低い声さえも、肌に触れた瞬間に甘い蜜を零して少年を濡らした。彼は咥内に生まれた唾を飲みこみ、熱っぽい息を青年の後ろへと吐き出す。胸元を逸れた青年の腕は更に下方へ向かい、少年の長着を縛っている帯へ指が掛かっていた。
 くっ、と喉の奥で笑いながら問う青年に、彼は恨みがましく潤んだ瞳を向ける。もう一度唾を飲んだ彼は下向かせていた瞳を持ち上げ、また伏して、答える代わりに彼の身体を抱き締めた。
 悔し紛れに彼の頸に爪を立て、引っ掻く。だが直後に体が浮き上がる感覚に見舞われ、視界が反転したと思ったら背中に柔らかな土の感触を覚えた。圧し掛かるようにして青年が影を作り出し、否応無しに少年の心臓が緊張に震え上がる。
 す……と顔の横に携えられた彼の掌が強張っている綱吉の頬を撫で、離れていった。
「ヒバリさん?」
「いいか?」
 影の動きを眼で追った少年に、彼は静かに問いかけを繰り返す。間近から自分を見下ろす漆黒の瞳の揺らぎに、彼は息を潜め、ゆっくりと頷いた。
 瞼を下ろし、頭を後ろへ沈めて顎を突き出す格好で身体から力を抜いていく。青年の両腕が彼を中央に挟む形で地面へと下ろされ、僅かに遅れて低くなった彼の顔が、互いの唇を触れ合わせる距離にまで迫った。
 鼻腔を甘く擽る匂いを胸いっぱいに吸い込んで、青年もまた目を閉じる。
 ざわっ、と。
 光を遮る樹木が一斉に風を受け、南から北に向かって大きく枝を撓らせた。
 緑の葉が擦れ合う細波にも似た音が周囲を取り巻き、大地が急速にざわめき立つ。今頃になって山を囲む結界が、破られたことを知らせる警告音を聞こえざる音としてふたりへ届けた。甲高い鳥の鳴き声にも似た叫びが鼓膜を激しく震わせる、目を開けたと同時にふたりは揃って苦虫を噛み潰したような顔をした。
「――――」
「……まっ、またあ!?」
 頭上高くを駆け抜けて行ったつむじ風に、がっくりと青年は頭を垂らし、少年は素っ頓狂な声を上げて遠くを仰いだ。乱れていた胸元を手で掴み、青年が身体を起こすのに合わせて自分も身を起こす。
「なんで、多いよ最近」
 もぞもぞと居心地悪そうに腰を揺らし、肌蹴ていた素足も長着の下に隠した少年が不満を露に背中の枯葉を落とした。青年が先に起き上がり、座り込んでいる少年に手を差し伸べる。彼もまた、少年ほどではないにせよ表情は不服げだ。
 だが結界を破り侵入を果たした妖は、処分しなければならない。
「盂蘭盆会が近いから、騒いでいるんだろう」
「それは、そうだけど」
 青年の袖に引っかかっていた木の葉を摘み取り、少年がまだ納得いかない様子で頬を膨らませた。その頭を宥めるように青年が叩く。
 そして腰を屈め、少年の耳元に顔を寄せた。
「帰ったら、ね」
「うっ」
 囁き、笑って、姿勢を戻した彼が先に立って歩きだす。少年は茹蛸宜しく耳の先まで顔を真っ赤にし、パクパクと口を開閉させて頭から湯気を立てた。
「綱吉、どっちへ行った?」
「うえ? え、あ、はいっ、ちょっと待って」
 袖口に腕を交差させて差込み、拐を引き抜いた青年が振り返って指示を仰ぐ。少年は弾かれたように顔を上げ、我に返って真剣な眼差しを取り戻し、目を凝らして四方に広がる広大な世界に意識を飛ばした。
 風が走り、大地が匂い立つ。眩しい陽射しが空から地表を遍く照らし、暖められた空気にじっとりと汗が滲み出る。
「北西、此処から十間先を移動中!」
 鋭い少年の声が地表を走り、青年のもとへ齎される。力強く彼は頷き返し、地を蹴って彼が告げた方角へと駆け出した。少し遅れ、少年も置いていかれまいと走り出す。
 彼らの背中に、陽光が燦々と降り注ぐ。
 夏が始まろうとしていた。

2007/5/30 脱稿