白南風

「ツナ、今日も上、行くのか」
 離れの戸口を抜け、晴れ渡る空の下に足を踏み出した綱吉に、待ち構えていたらしい山本が声をかける。
 振り返った彼は一歩半山本から距離を取り、若干の警戒心を表に出しながら黙って頷いて返した。しかもその間もじりじりと後退して距離を広げようとしているのが分かって、そうなるのも無理ないことをしでかした山本は、それでも若干傷ついた表情で苦笑した。
「その、雲雀……どうだ?」
「少しは落ち着いたみたい」
 あの日から三日が経った。
 気を失った綱吉を屋敷へ運んだのは雲雀ではなく、リボーンだった。衰弱した彼を連れ戻したリボーンの傍には雲雀の姿は無く、彼がどうなったのか山本たちには分からなかった。
 翌朝意識を取り戻した綱吉は、リボーンに言われるままに山へとひとり出向いた。
 注連縄で入り口を封じられた岩穴の奥、雲雀が祠と呼ぶ二重三重の結界が付加された泉。里へと流れ出す滝とは水源を異にする、決して澱むことない、霊泉。雲雀はそこにいると教えられた綱吉は、途端嫌な予感に苛まれた。
 彼がそこに篭もるのは、それだけ彼が消耗している証拠。綱吉の封印が外れかけていたことを考えればリボーンの処置は当然で、だからこその負担がどれだけ酷かったのかを思い知らされる。
 山本の結界は綱吉の力の流出を阻害した。雲雀に施された封印は、綱吉となんらかの接点を保つことで維持される。たとえ離れていたとしても、余程のことが無い限りどこかでふたりは繋がっていた。
 蛟は雲雀の右目をまず奪い、綱吉との接点をひとつ潰した。邪念に犯されていたビアンキの毒はそのまま蛟の欲に絡みつき、力を悪い方へ増大させた。
 蛟は龍への進化を求めた、そのためには雲雀が幼少時に手放した宝珠を奪い返さなければならない。
 だが綱吉の心臓と化したそれは、既に彼の血肉となって一体化している。抜き取るのは、即ち綱吉の死に直結する行為だ。
 だから雲雀は綱吉を遠ざけた、自力で蛟を封じ込める術を模索した。
 けれど日に日に影響力を増大させる蛟に抗い続けるのは難しく、追い討ちをかけるように山本が綱吉を隠した。
 巡りが悪かったと言えばそれまでだ、山本の暴走も蛟が放ち雲雀が防ぎきれなかった邪念に少なからず影響されたからだろう。
 現に今の彼は、あの夜の狂気も影を潜め、落ち込んでいるのもあってすっかり大人しい。
「そう、か」
「夕方には戻るよ。……多分、ヒバリさんも一緒」
 どうする、と窺う視線を山本に投げやり、綱吉は言った。瞬間山本は緊張したように肩を強張らせ、唇を浅く噛む。
「もう、戻れるのか」
「多分だけど」
 そもそも人の身体に蛟が宿るという事自体に無理があるのだ。強引に封印で捻じ込んでいた力が、一気に外に向けて爆発したに等しい。あれでよく体が粉々に砕けなかったものだ、とむしろ感心させられる。
 過分に傷ついた雲雀の肉体は人の形を維持するのさえ困難な程で、だから彼は今、決して人前に姿を現せない。
 綱吉にさえ、彼は顔を見せようとしなかった。だが泉の霊力で傷も癒え、乱れていた力も安定しつつある。細くなった綱吉の封印も元の状態に戻りだしていて、また散々暴れまわった蛟も、邪気の根源であった右目を潰す事で鎮められた。
 結局のところ、騒動の発端は全てビアンキに起因した事になる。だが本人はそんな事まるでお構いなしで、気がつけば沢田家にちゃっかり居座ってしまっていた。
 お陰で今度は、獄寺が日々死と対決させられている。
「山本、あのね」
 後ろ手に指を結んだ綱吉が、背高の彼を仰ぎ見てずっと考えていたことを口に出した。
「俺、ヒバリさんがたとえ俺のこと嫌いでも、俺はやっぱり、ヒバリさんの事好きだし、離れたくない。これって、我が儘かな」
「――いや」
 誰だって自分の感情を最優先事項にして、押し通そうとする。相手を思いやるなんて考えは、自分に余裕が無ければ不可能だ。
 自分の為でしかないことを、他人の為だと正当化して、想いを相手に押し付ける。狭い視野は相手だけではなく自分をも不幸にする、心にゆとりがもてなくて、余計に必死になって、益々周りが見えなくなる。
 足を止めて冷静に自分を振り返ってみれば簡単に気づけることにさえ、気づけずに。
「俺、山本の事も好きだよ」
「ツナ」
 腰の後ろで腕を弾ませた綱吉が、控えめに微笑む。驚いた顔をした山本に小さく舌を出し、彼は踵を返した。
 出し掛けた手を留め、山本は彼の背中を黙って見送った。行き場の無い指先が空を掻き、拳を形作り、胸に押し当てられる。肩は小刻みに震え、噛み締めた唇の隙間から漏れる嗚咽を消したくて彼は膝を折った。
「俺も……」
 どうせ手に入らないと分かっていたのに、求めずにいられなかった。自分の我が儘を押し通そうとして傷つけたのに、許されてしまった。
 醜いのは自分だ、先に裏切ったのも。それなのに、許された。
 閉ざした世界が優しい輝きに満ちている。涙で曇っているはずなのに、何も見えないはずなのに、嬉しげに微笑むあのふたりの姿が瞼から消えない。笑っているふたりの後ろから、ふたりまとめて抱き締めようとしている自分の姿が焼きついて離れない。
「俺も、……大好きだよ」
 

 綱吉は注意深く苔むした石段を登っていった。
 若葉色の袖を揺らし、伸びた枝の下を潜り抜け、獣さえ通るのも稀な道を少し小走りに進んでいく。最初の頃はたどり着くのもやっとだった道も、今はすっかり覚えてしまった。季節によって風景が大きく異なってたまに迷いそうになるものの、澄んだ水の気配を探ればそう苦にもならず、目的地は綱吉の前に姿を現した。
 滝つぼの裏、更に奥。でこぼこした岩が表面を覆い隠している岩山の中ほどに、ぽっかりと穴がひとつ空いている。人ひとりが通り抜けるのもやっとの空間には注連縄が渡され、中を照らす光も僅かだ。
 綱吉は滑り落ちないように気をつけつつ、足場を確かめて注連縄の位置まで登っていく。昔は怖くてひとりでは覗けなかった高さだけれど、下を見なければ案外平気だといつだったか気づいてからは、身軽に、とはいかないものの登れるようになった。
 着物の裾をたくし上げ、帯に先を挟んで脚を大きく広げて先へ進む。地底世界への入り口となるべく開いた穴の縁に手を置いた彼は、一気に自分の体を上に引き上げて突き出た岩の端に腰を下ろした。身なりを簡単に整え、手で叩いて埃を落とし、深呼吸をひとつ。
 中を覗きこむと、岩の直ぐ向こう側はがらんどうの空間だった。
 水面は遥か下方、影さえ落ちない。鼻腔に水の匂いが漂い、喉を鳴らした綱吉は僅かな光を拡散させて反射している水面の穏やかさに目を細め、息を止めて岩の内側へ身を乗り出した。
 上半身だけを中に入れて、下半身は外で落ちないように踏ん張らせる。自分の吐息さえ密閉された空間で反響して耳に戻って来て、綱吉は息を潜めながら穏やかな泉に目を凝らした。
 風も無いのに細波が立っていて、一瞬遅れでざざ……と水がかき回される音が届く。透明な水が空の色に輝いていて、綱吉は瞬きをすると一度身を引いて身体を祠の外に戻した。
 頭上を仰ぎ見る。背の高い樹木も彼の位置までは枝が届かなくて、遮るもののない空間には吸い込まれそうな青が広がっていた。
「……あれ?」
 もう一度祠に頭を突っ込んで、綱吉は水の中を泳ぐものに視線を走らせた。
 少ない光の中、空を思わせる青がうねりを帯びて悠然と泳いでいる。
 素早く目を瞬かせた綱吉は、首を捻って唇をへの字に曲げた。
「ヒバリさん」
 声に出して名を呼び、両手を岩の縁に載せて胸から上を岩山の内側へ。続けて右足を持ち上げて両腕の間に膝を挟み、左足の爪先で彼は足場にしていた岩の表面を蹴った。
 小柄な綱吉の身体が、光の中から薄闇の中へ躍り出る。
 恐怖心は無い、彼は重力に導かれるままに両手両足を広げ青く澄み渡る霊泉へと身を投げた。
 渦を巻いていた水面が波飛沫を上げ、綱吉を受け入れる体勢に入ろうとしている。ざざざ、と水音が徐々に激しさを増して勢いを速め、最後にざっ、と大きな水柱をひとつ立てた。
 綱吉は自分の肉体が淡い光に捕らえられるのを感じ取る。
「ヒバリさん」
 立ち登った水音に彼の呼び声は掻き消される。だが届いたはずで、綱吉は両腕を伸ばし水柱の中から現れた蒼をそっと抱きしめた。
 光が弾け飛び、水柱に吸い込まれていく。綱吉の体はゆっくりと水面へと沈んでいくが、勢いは身を投げた時とは比べ物にならないほどにゆっくりだった。何かが彼を下から押し上げ、支えている。目に見えない力の流れを全身で受け止め、綱吉は目を閉じた。
 爪先が水に触れる。彼の体は一瞬だけその場で停止し、肩の力を抜いて息を吐くと同時にいきなり、綱吉は水に沈んだ。
 ぶはっ、と吐き出した息が気泡となって水面に消えていく。逆に綱吉の体は自由を失って暗い水底へと落ちていくかに思われた。
 白い腕が二本、彼の身体を抱きとめて引き寄せる。呼吸はすぐに楽になり、少しだけ水を飲んだ彼は自分を抱えている存在にしがみついたまま激しく数回咳込んだ。
「げほっ、けはっ」
「むちゃをする」
「だって」
「だって、じゃない」
 背中を撫でてくれる手が優しくて、息苦しいのに構わず顔を綻ばせた綱吉の頭を人差し指が押し返した。額のほぼ中心部分に突き立てられて、ぐりぐりと捻られる。巻き込まれた薄い皮膚が痛みを発して、咳込んだ苦しさもあって涙目の綱吉はばじゃり、と手で水を叩いて首を振って逃げた。
 背中に回っていた手が離される。泳げない綱吉の体はゆっくりと沈んで、彼は慌てた。
「わっ、やっ、ちょっ!」
 助けて、と両手両足をばたつかせて水しぶきを撒き散らす綱吉に、仕方が無いと呆れた様子の雲雀が救いの手を差し出す。引き寄せると綱吉は問答無用で彼の首に腕を回し、絶対に離れるものかと抱き締めた。
 濡れた肌に触れる肌は、人間のそれ。柔らかく、暖かくて、綱吉を安心させる。
「つなよし?」
 若干たどたどしい舌使いで名前を呼ばれ、そっぽを向いていた綱吉は顔を上げた。
 顎を滴り落ちた水滴が水面に新たな波紋を刻み、広がっていく。視界の端へ消えていくその行方を途中で諦めた彼は、足の裏で水を蹴って雲雀の胸に顔を寄せた。頬を押し当てると、耳を通さなくても直接彼の心音が聞こえる。
 綱吉と同じ音色を刻み、綱吉と波長を完全に重なり合わせた、それ。
 いつからか、この音が聞こえないと不安になった。自分の半分が欠落してしまったようで、不安で仕方が無くて夜も眠れない。自分がいかに雲雀に依存しているのかを思い知らされ、彼の存在が心の寄る辺になっているのかを痛感させられる。
 彼は優しいから、綱吉の我が儘にずっと付き合ってくれていたのだろう。彼の事が好きだから、これからは出来るだけ、彼の迷惑にならないように自分を律せられるようになりたい。甘えるばかりだった自分を反省する、だからどうか、嫌いでも傍に居て。
 雲雀のいない世界はもう、綱吉の中にあり得ないから。
「……なに、それ」
「え?」
「丸聞こえ」
「ええ!」
 不意に不機嫌な声が響いて、綱吉は素っ頓狂な悲鳴を上げた。そういえばいつの間にか、雲雀との間に感じていた見えない壁が消えている。心の中で思ったことは、肌を触れ合わせている分、よりはっきりと雲雀にも伝わっていた。
 隠そうという意識が無かった分、思い描いた情景も含め丸ごと雲雀には見えていたらしい。慌てて飛び退こうとした綱吉は、ここが水面だという事をすっかり忘れていてまた頭まで水に沈んだ。
 そろそろ辟易し始めた雲雀が、綱吉の脇に腕を差し入れて彼を引っ張り挙げる。
「学習能力が無い」
「すびばぜん……」
 鼻に水が入って痛い。顔をあげることも出来ず綱吉は俯いたまま、口の下半分を水に浸して息を吐いた。泡が鼻の頭にぶつかっては弾け、上目遣いに額に張り付いた前髪越しに雲雀を見上げる。
 艶やかな黒髪を梳きあげた彼は、霊泉の唯一の光源を見詰めていた。眇められた瞳のうち、右側はまだ完全に再生が完了していないのか、瞼が半分不自然に閉ざされていた。
「で」
 不機嫌に輪をかけた声が奥底から響き、綱吉はびくりと肩を震わせて水に潜った。
 ぱしゃり、と水の輪が綱吉を取り囲む。
 冷たさをまるで感じられない霊泉に浸っていると、空洞化が進んでいた自分の胸がいっぱいに満ち溢れていく感覚に襲われるから不思議だった。実際、雲雀は雲読みなどで力を過剰に消費した時など、この祠に暫く篭もって消耗した力を補充させる。ここは、雲雀山にあった泉によく似ているのだという。
 腕を下ろした雲雀が、綱吉の耳を掴んで斜めに引っ張った。
「誰が誰を嫌いって?」
「いだっ、いたい、痛いですヒバリさん!」
「つなよし?」
「だ、だって」
 水の中から耳だけで引き上げられ、引き千切れそうな痛みに綱吉が悲鳴をあげた。だが問答無用の雲雀は聞き入れてくれず、苦痛を堪えながら綱吉は喘いだ。足で何度も水を蹴り、手も水面を叩いて飛沫を飛ばして抗議する。
 ただ、「だって」の後が続かない。
 思い出したらまた泣けてきて、綱吉は頭を振り涙を堪えた。けれど気持ちが負けてしまって、大粒の涙が濡れた頬をなぞっていった。
 泣き出すとは思っていなかった雲雀が、怪訝に顔を顰めて彼の頬に指を添える。目尻を拭ってやると、嫌だといわんばかりに綱吉は首を横へ振った。
「だって……ヒバリさん、俺のこと、きらい、なのに」
 ひっく、と我慢できずにしゃくりをあげた綱吉の肩に手を置いた雲雀が、彼のことばにあからさまに顔を顰める。
 そんな事、一度も言った覚えが無い。それなのに綱吉はその手さえ突っぱね、両手で顔を覆い隠した。
「きらい、なのに……優しくされたら、俺、つらいっ」
「ちょっと待った」
 なんだか色々と話がかみ合わなくて、雲雀は眉間に皺を寄せて目を閉じた。
 綱吉の心の中は、ただ哀しいとか寂しいとか、そういう薄暗い感情に満ち溢れていて、それらがごちゃ混ぜになり濁流となってあふれ出している。一気に広がりを見せた感情の渦に飲まれそうになって、雲雀は綱吉の手を強引に解かせて自分の胸に抱き込んだ。
 抵抗して暴れた綱吉を、構わずに絞め付ける。
「いつ、誰が言ったの」
「ヒバリさんがそういったじゃないですか!」
「だから、いつ」
 顔を覗き込み、正面から目を見据えて問いかける。苛立ちが雲雀の中に生まれつつあって、気圧された綱吉は首を仰け反らせながら反射的にあの日の事を思い出した。
 雲雀にもはっきりと、色なしで情景が伝わってくる。綱吉視点で、投げ飛ばされたランボにぶつかった雲雀が池に落ちようとしている光景だった。
 あの神木の精霊はこんな姿をしているのか、と初めて見た変な生き物に感心すると共に、雲雀は頭の中で何かが引っかかり、かちりと音を立てるのを聞いた。
 綱吉が言っている内容、それはひょっとして、あれのことだろうか。
「綱吉」
「……はい」
「盗み聞きしたね」
 にっこりと、それこそ子供が見たら瞬時に泣き出しそうな笑顔を浮かべた雲雀に、綱吉も顔の筋肉を硬直させてダラダラと冷や汗を流した。
 怒っている、明らかに。半端ないくらいに、雲雀が怒っている。笑顔なのにちっとも笑っているように見えない、にこやかな笑顔を装っているだけに、余計に怖い。震え上がった綱吉は咄嗟に返事も出来ず、がくがくと震えながら引き攣った笑みで彼に返した。
「ご……めんな、さい」
「まあ、いいんだけどね」
 呂律が回らずに途切れがちになりながら謝罪を口にして俯くと、広げられた雲雀の手が綱吉の頭を撫でた。
 さっきまで荒れ狂う嵐にも似た怒気を背後に漂わせていた彼の、あまりに早すぎる変わり身に、綱吉は水の中で目を開けて痛みも構わず瞬かせた。ざばっ、と波を起こして顔をあげると、今度は肩を竦めて苦笑している雲雀がいる。慌てすぎていて彼の心を読み解くのも忘れた綱吉が呆然としていたら、おでこを小突いた指がそのまま綱吉の間抜けに開きっ放しだった唇を押した。
 雲雀の指を咥え、上目遣いの綱吉がその指に牙を立てる。
 いったい何が良いと言うのか、こちらは死活問題だというのに。恨めしげな綱吉の視線を受け止め、雲雀は小さく肩を竦めた。
 そういえば山本も、綱吉を泣かせた云々とやけに主張していた。そういうことか、と漸く合点が行って、だから雲雀は少しリボーンを恨みたくなった。
「綱吉、それ、君の事じゃない」
「はひ?」
 思わず甘噛みしていた指に思い切り前歯を食い込ませてしまって、顔を顰めた雲雀に綱吉は焦ってまた余計に噛んでしまった。
 宥めるべく舌を絡ませて舐めてから、舌の表面で押し出す。いったいそれはどういう事なのか、と唖然とした顔の彼に雲雀は矢張り、と溜息を零した。
 綱吉は随分と半端に、そして非常に都合の悪いところだけを盗み聞きしていったらしい。ぐるぐると回転している綱吉の記憶は、壁越しに雲雀の部屋を窺っている彼の視線をそのまま描き出している。若干雑音が混じって聞き取りづらいものの、綱吉の耳を通して聞こえてくる雲雀とリボーンの会話は、解釈次第で綱吉に向けての発言と充分聞き取れた。
『僕がこんな身体になったのは誰の所為だと?』
『助けてくれだなんて頼んでいない』
『冗談だとしても気持ちが悪いね』
 思えば雲雀も迂闊だった、誰かに聞かれるかもしれないという配慮の一切がこの時の彼には欠けていて、しかも不条理な出来事が続いていた苛立ちから集中力も途切れ他人の気配にも鈍感だった。
 平素ならば綱吉がそこにいるのに気づけただろうに、それが出来なかったのは無論蛟の影響もあるだろうが、そこにばかり原因を求めるのも勝手だろう。元はといえば、山本の言葉通り、雲雀が未熟であったのが悪い。
「え……と?」
「だから」
 まだ頭が混乱している綱吉に盛大な溜息を繰り返し、雲雀は殆ど忘れかかっていた綱吉が走り去った後のリボーンとの会話を再生してみせる。今度はちゃんと綱吉にも伝わって、ゆっくりと二度届けられた過去の記憶に、目を瞬かせた。
 ディーノ、聞いた事がある。雲雀があまり話したがらない、並盛以前の記憶の中で最も光り輝いている人。異人のような容貌に、派手な伊達姿。雲雀の記憶から盗み見た姿に「格好良い」と感想を漏らしたら暫く口を利いてもらえなかったのが懐かしい。
 雲雀の養父。
「気持ち悪いからその表現はやめてくれないか……」
 彼は心底げんなりした顔をして額に手を置く。本気で嫌がっているのが分かって、逆におかしくて綱吉は笑った。
 放浪癖があり、呑気で、面白いことが好きで、けれど一応自分の役目はきちんと果たしているらしい。百七の眷属を従え、自在の空を翔ける。各地に分社を持ち、年単位で渡り歩いているので本殿に戻ってくることは滅多に無い。
 奇なる偶然か、否か。
 ディーノ。
 並盛神社にも片隅に彼の分社がある。太陽の運行を司る、神の一族。
 餓えて死に逝こうとしていた幼い雲雀を拾い、神饌を無理矢理食べさせた張本人。飢餓とは無縁になれるぞ、という彼の言葉どおり、以後の雲雀は確かに餓えることは無くなった。その代わり、人が食するものを食べても一切の栄養分を吸収できなくなってしまったが。
 神饌とは即ち、神の食物。
 人でありながら神の食物を口にした雲雀は、その瞬間、人の体を持ちながらも厳密な人間ではなくなった。魂が神気を帯び、彼の食事は大気に満ちる霊気を補充する行為に切り替えられた。
 もし雲雀がただの人間であったなら、蛟に食われた瞬間魂が先に悲鳴をあげて砕けていただろう。
 だから彼が今こうして生きていられるのはディーノお陰。色々と厄介ごとを背負いこまされたのも、ディーノが原因。もっとも雲雀が彼を毛嫌いする理由は更に別のところにあるのだけれど。
「つまり?」
「人の話聞いてた?」
 まだまだ理解するには程遠い綱吉の疑問符に、雲雀は疲れた顔で額を擦り合わせてきた。ぐりぐりと捻りながら押され、後ろに身体が流れて行く。
 一瞬触れ合った柔らかさに綱吉は目を見開いて、やがて照れた様子で顔の下半分を水に浸した。
「君が気に病むようなことは、何も無いんだけど」
 若干怒った風に雲雀が断言し、綱吉の鼻を突っつく。ぶくぶくとそこに泡を浮かせた綱吉が、直後聞こえてきた伝心に真っ赤になって完全に水の中に逃げ込んだ。
 とはいえ、水の中は雲雀の領域。逃げられるはずが無い。
「ぶはっ」
 息も苦しくなって、手首を掴まれたまま浮上する。目の前に雲雀の顔があって、視線を逸らすのも許してもらえない雰囲気に狼狽した綱吉は、最終的に覚悟を決めて水の中で背伸びをした。
 触れ合うだけの口付けが、やがて深くなり、離れがたくて自分から彼にしがみつく。
「んぅ……」
 重なり合わせた舌から透明な糸が伸び、軽く雲雀の肩に爪を立てた綱吉は、もう一度自分から彼を求めて目を閉じた。
「霊泉、汚すなって童に言われてるけれど」
「ん、でも……ひゃっ」
「僕も、我慢出来そうにない」
 探り寄せられた熱に綱吉が甘い悲鳴を上げ、益々雲雀にしがみつく。耳元で彼が笑い、全身に鳥肌が立った。
「ね、ヒバリさん。さっきの、もう一回言って」
「どれ?」
「声に出して、ちゃんと言って」
 雲雀の目を覗き込み、黒真珠の中に浮かび上がる自分の姿に赤くなりながら綱吉が強請る。重ねあった肌がしっとりと汗を帯び、猛り始めた熱に綱吉は雲雀へ擦り寄って彼を煽った。
 背中を撫でる雲雀の手が、とても優しい。手繰り寄せられる身体が雲雀の手によって簡単に色を変えていく、たまらずに淡い息を吐き出した綱吉の耳に雲雀の笑い声が響いた。
 そっと、耳朶を甘く咬んで彼が囁く。
 最高に幸せな笑顔を浮かべ、綱吉は目を閉じた。

2007/5/29 脱稿