黒南風 第五夜(中編)

『お前、誰?』
 初めて顔を合わせた時の印象は、お互いにあまり良いものではなかった。
 雲雀はその頃、言葉という人と人が意思を取り交わすための手段を取り戻していなかったし、山本は山本で長らく会えずにいた綱吉にやっと会えると喜び勇んで石段を駆け上ってきたというのに、その綱吉が見知らぬ奴の背中に隠れている。
 しかも山本が恋焦がれた綱吉が持つ金色の輝きは綺麗に消え失せ、跡形も残されてはいなかった。
 山本は一瞬にして二度、綱吉を失った。
 雨は静かに降り続け、相対するふたりの間に微かな音を響かせる。
「どうして君が……」
 事実に直面しても未だ信じ難いという表情をする雲雀に、山本は木刀を正眼に構え持ったまま瞳を細め、相好を崩した。
「あれ、お前知らなかったの?」
 口調はあくまでも軽く、それ故に彼の心の闇の奥深さを思い知らされる。妖物退治を生業とする以上不気味なものとの遭遇には慣れていて、そう容易く心を乱されたりはしない雲雀でも、ぞっとする寒気に背筋が震えた。
 彼は雨に濡れた短髪から滴る雫を、首を横に振ることで弾く。対照的に雲雀は、自分の武器を抜き取ることもせず、息を呑んで山本を見据えていた。
「俺、お前の事、ずっと大っ嫌いだったんだぜ」
 大、の部分を強調した言い方に雲雀は益々顔を顰め、困惑を表に出す。
 確かに出会った当初はお互いに抱いた悪印象が強すぎて、綱吉を巡ってよく喧嘩もした。だがいつの間にか軋轢は去り、丁度良いさじ加減での関係が形成されていったはずだ。お互いに何でも話したし、時には殴りあったり罵りあったりもしたが、一時間もすれば綱吉を挟んで三人、川の字を作って昼寝をしていた事も一度きりではない。
 関係は概ね好調で、特にここ数年は山本から敵対心めいた感情をぶつけられたことはなかった、修行の最中の稽古以外では。
 だから雲雀には解らない、山本がその十年間、どれだけ惨めな思いで綱吉と雲雀を見ていたのかを。
 何の苦も無く、当たり前のように綱吉の隣を手に入れた男を、自分が手に入れられなかった場所を簡単に手中に収めてしまった男を、山本がどんな目で見ていたのかを。
「俺さ、ツナの事、好きなわけ」
 まだふたつかみっつの頃だったと思う、初めて綱吉を見たその瞬間から、山本の心は彼に引き寄せられた。
 その頃はまだ純粋に、憧れや好奇心の領域が広かったのかもしれない。だがそれが貪欲な黒い感情に入れ替わったのは、雲雀が並盛に現れてからだ。
 雲雀がこの里に来なければ、今でも山本は、綱吉の一番でいられたのに。
 雲雀が山本の居場所を奪った、雲雀が山本から綱吉を奪った。
 それでも綱吉の傍に居たいから、雲雀の事は我慢した。雲雀と一緒にいる時の綱吉は、他の誰と居るときよりも幸せそうで、楽しそうだったから。彼が嬉しいのなら自分も嬉しいと気持ちをすり替えて、耐えた。ひたすら、耐えた。
 綱吉が笑っているから、構わないと。
 自分の心がどれだけ傷ついて、血を流しても、綱吉が笑っている姿を間近で見られていれば、それだけで充分だと。
 たとえその笑顔が、自分に向けられることは永遠に無いとしても。
 綱吉が雲雀と一緒に居るのが何よりも幸せだというのなら、自分はそれを応援しようと。
 そう、決めていたのに。
 この想いは墓場まで持って行くつもりだった、いくら雲雀に対抗してみせても到底彼には叶わないと気づいてしまったから。
 験術も、幻術も、武術も、学術も、なにもかも。誰にも負けないと自負していた綱吉を思いやる気持ちでさえ、雲雀は山本の遥か前方にいる。
 次第に、こいつになら安心して綱吉を任せられるとも思えるようになっていった。しっかりしているように見せかけて間が抜けていて、頼りなくひ弱で、けれど負けず嫌いで寂しがりやの甘えん坊な彼を、雲雀ならちゃんと正面から受け止めてやれるだろうと、そう。
 それなのに。
「……」
 山本の綱吉に対する気持ちは、雲雀も勘付いていたから驚かない。
 自分たち三人の関係が綱吉を中心に、相反する方向に伸びているのも分かっていた。だが追求しなかった。万が一綱吉が彼の気持ちを知り、優しすぎる彼の事、山本を傷つけまいと変に親心を働かせやしないかと、それが怖かったからだ。
 雲雀だって十二分なまでに、綱吉の中で山本の存在がどれだけ大きな比重を占めているか知っている。今はまだ雲雀が占有する部分が多いけれど、いつ関係が崩れて比率が逆転するかは誰にも解らない。
 山本が自分から身を引こうとする様を見て、安心していた。彼は綱吉にも雲雀にも均等に笑いかけてきたから、いつしか彼は綱吉を諦めてくれたのだと、勝手に思い込んでいた。
 なんて身勝手で、傲慢な思い。
「だからさ、雲雀。悪いけど、ツナ、返してもらうな」
 お前が来る以前は、綱吉は自分のものだった。あの時の関係に時を戻す、そう言い放ち山本は木刀の切っ先を僅かに揺らした。
 雲雀は硬直したまま動けず、呆然と見開いた瞳で暗闇に浮かぶ男の姿を見ていた。
「……綱吉はどこだ」
「教えない」
「山本!」
 急がなければならない事情が雲雀にはあるのに、山本は窄めた口で素っ気無く言い放つだけで雲雀の質問に答えない。
 ぎりっ、と奥歯を噛み締めて雲雀は沸き上がる怒りと、それに呼応して身体の奥底で蠢く闇を受け流す。握り締めた拳を取り巻く鎖が、少しずつ光を失って線を細くしていった。
 噴き出る汗が雨に溶け、流れて行く。疼く右目の痛みはこれまでと比べ物にならないほどで、少しでも気を抜けば今すぐにでも倒れてしまえそうだった。
 嘲笑が足元から彼を包み込む。
「ツナは返してもらう」
 きっぱりと言い切った山本が、いつまでも構えを作ろうとしない雲雀に痺れを切らして地面を蹴る。
 飛沫が跳ね、闇が踊った。
「くっ」
 痛みに意識を奪われていた雲雀は、寸前まで迫った木刀の鋭い一閃を直前で左に跳んで避け、草履の裏で泥濘を削りながら姿勢を低く取る。即座に切っ先を変えた山本が第二撃を繰り出して、雲雀はこれも後ろへ体を流してかわした。
 耳元で風と共に水が切れる音がして、顔を顰めた雲雀は勢いを殺しきれずに右肩から地面へと倒れこむ。
 動きが鈍いのは、散々雨の中を走り回って身体が冷えているからだけではない。右半分の視界を奪われ、尚且つ彼の体内には彼の動きを阻害しようと試みる輩が居る。
 最悪だ、と口の中に潜り込んだ泥を唾と一緒に吐き、雲雀は手の甲で顎を拭って身を起こした。
 だが完全に姿勢を立て直すより早く、真上から山本が一撃を打ち放って、避け切れなかった雲雀は咄嗟に右腕を盾として頭の上に掲げた。
 ギンッ、とおかしいくらいに硬質の音がふたりの間から放たれる。
「うっ」
 そのあまりに硬過ぎる衝撃に山本の方が呻き、痺れた右手を思わず木刀から放してしまった。
 木刀と腕がぶつかったような生易しい衝撃ではなかった。むしろもっと硬い、そう、例えるなら岩や鉄に打ち込んだ時に似た感触が、生々しく山本の掌に残される。
 息を呑んだ彼は、左膝を立てたまま右腕で頭を庇って停止している雲雀を雨の中に見出した。
 驚きに染まった瞳が、瞬時に怒りの色に切り替わる。
「お前が!」
 左手一本で握った木刀を振り回し、山本は堪え切れない感情の波に押し流されるままに叫んだ。
「お前が、お前みたいな未熟な奴がいたから! ツナは力を無くしたんだ、お前の所為でツナは!」
「……」
 ひょっとしたら彼は泣いているのかもしれない。だが他人事のように彼の言葉を聞く雲雀の心には、その痛みがまるで伝わりはしなかった。
 彼もまた、明らかに変質し始めている自分自身の肉体に戸惑い、困惑と危機感を強めていたから。
「返せよ、俺のツナを返せ!」
 悲痛な声が闇を貫き、南天で稲妻が尾を引いて空を裂いた。
 雲雀がゆっくりと視線を持ち上げ、虚空の彼方を見据えて腕を下ろした。ぱきり、と鎖がまたひとつ、粉々に砕け散る。
「お前がいるから、ツナは自由になれない。お前に縛られてる。お前の所為で、ツナは」
 大丈夫だよ、と両手を広げていたあの子は。
 金色の影が薄くなる。闇が濃くなる。
 雲が蠢く。
 雲雀は頬を打つ雨をぼんやりと見上げ、己の体が鉛よりも重く、そして羽根よりも軽くなっていくのを感じていた。
 黒い鱗が、鈍く雨を打ち返している。
「俺がツナを自由にしてやるんだ!」
 今一度強く木刀を構え直した山本が、虚ろな目をした雲雀を睨んで怒鳴った。
「お前の中に居る蛟、お前ごと叩き斬ってやる!」
 雷鳴が迸る。
 雲雀はゆっくりと立ち上がり、彼にしては随分とだらしなく身体を左右へ揺らめかせた。
 一瞬明るくなり、そしてまた闇に戻る世界。その僅かな隙間、山本が仰ぎ見た雲雀の瞳は、両目共に鮮血の色に染まっていた。

 暗闇の中、綱吉はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
「う……」
 固い床に寝かされていた所為で体の節々が痛み、骨が軋む感覚に声が漏れる。両手を頭のすぐ下に広げて敷き、上腕に力を込めて肘を突っ張らせ彼は鈍い動きで起き上がった。
 首を緩く振り、身体のどこにも異常が無いかを無意識に確かめる。乾いた唇に舌を這わせて湿らせれば、埃っぽい味がして彼は盛大に顔を顰めさせた。
 瞼を持ち上げたというのに見回した世界は何処もかしこも真っ暗で、ひょっとしてまだ自分は目を開ききれていないのではないかと錯覚する。だが瞬きを繰り返しつつ息を吐き、試しに手の甲を抓って痛みに肩を窄めた彼は、自分がどこか明りもない屋内に居るのだと漸く理解した。
 耳を澄ませば激しく屋根を打つ雨の音が聞こえてくる。だがどれだけ目を凝らしても、床と壁と天井は闇色で統一されていて境界線が見えない。
「ここは」
 何処だろう、とその場で座り直した綱吉は、自分の身体がまるで濡れていない現実に気づいて首を捻った。
 真上を見上げ、それから手探りで自分の足元を探る。障害物は見当たらず、手の届く範囲はがらんどうらしかった。荒っぽい仕事で作ったらしい床は木屑が散り、角が尖って突き出している。指を擦ったささくれに慌てて腕を引っ込めた綱吉は、呼吸を整えてからじっと息を殺した。
 聞こえてくるのは雨音ばかりで、人の気配はしない。自分以外に誰かが居る様子はなく、鼻腔を擽る空気の感じからしても、此処は住み慣れた沢田の家とも離れとも違うと分かる。雨の所為で空気は湿っているが埃っぽさは拭いきれず、指や頬やらにこびり付いた量からして、長らく人が使っていなかった何処かの小屋、物置の類では無いかと推察できた。
 しかし何故自分がそんな場所にいるのか。
「なんで、俺」
 目覚める以前の記憶が酷く曖昧で、深い靄がかかっているのかはっきりと思い出せない。両手を揃えて口元に運び、浅く上唇を噛み締めた彼は、広げていた膝を寄せて擦り合わせると寒さから一度身震いし、自分の体を抱き締めた。
 胸騒ぎがして、記憶を振り返るのを心が拒絶している。けれど思い出さなければならない気もして、綱吉は着物の袖ごと腕を抱き首を横に振った。
 心拍数が徐々に上昇していくのが分かる。折角整えたばかりの呼吸がまた乱れだして、彼は荒く息を吐くと瞬間的に前のめりに倒れこんだ。
 吐き気がする、気持ちが悪い。勝手に涙が溢れ出して嗚咽が止まらず、吸った途端に酸素も吐き出してしまって肺が苦しさに悲鳴を上げた。
 身体中が大蛇に締め付けられているみたいに痛み、引き千切られそうな心が血の涙を流している。座ってもいられなくなった綱吉は床へと崩れ落ち、指に突き刺さった棘をそのまま握り締めた。
 生きているから痛いのなら、いっそこのまま死んでしまいたかった。
 ――ちっとは好いてやっていると思ってたんだがな。
 ――冗談。
 淡々とした会話、そんなつもりは無かったけれど盗み聞きしてしまった内容。
 溢れ出た涙で視界が曇る。しゃくりをあげた綱吉は顔をくしゃくしゃに歪めて両手で顔を覆い隠すと、抑え切れない嗚咽を零しながら白黒で蘇った記憶をなぞっていった。
 雲雀とリボーンの会話を聞いてしまった彼は激しく狼狽し、本人に真意を確かめる余裕もないままに離れを飛び出した。
 獄寺を彼の部屋へ運び、今度こそ雲雀に右目の事を聞きだすのだと意気込んでいたのに、そんなもの一瞬で霧散した。心臓を槍で貫かれた気分で、全身の血液は沸騰して呼吸は落ち着かず、溢れ出す涙に声は殺しきれなくてわんわんと大泣きした。まるで五歳かそれくらいの子供に戻ったみたいで、足がもつれて転んだ後、起き上がりもせずに綱吉は泣き続けた。
 あんなのは嘘だ、何かの間違いだ。
 懸命に自分に言い聞かせて涙を止めようとするけれど、何度も何度も繰り返される雲雀の冷たい声に身体は完全に麻痺してしまった。
 確か庭の、外れだったように思う。敷地を東西に分断している川を越えることが出来ず、その手前、松の木が群生する庭園区画の片隅で綱吉は蹲っていた。全身が砂埃とぬかるんだ土に汚れるのもまるっきり構わずに、声が枯れるまで、涙が尽きるまで泣き続けた。
 そうしているうちに、声を聞きつけたのだろう。彼が、現れた。
 泣きじゃくる綱吉を見て驚いた彼は、いったいどうしたのかと当たり前の質問を綱吉に繰り出す。けれどただ泣くばかりの綱吉は上手く受け答え出来ず、幼児に退行してしまった仕草で頬を掻き毟っていた。
 皮膚が裂け、血が滲む。やめろ、と手を伸ばした彼の温もりが辛くて、押し返そうとしたら逆に抱き締められた。背中に腕を回され、優しく撫でられる。
 触れ合った他者の体温、長い間感じていなかったもの。雲雀とは違う体臭がツンと鼻を刺したが、涙に紛れて直ぐに分からなくなってしまった。
 これは違う、この人は違うのに。
 この人にこんなに優しくされる資格は、自分には無いのに。
『ツナ、どうした。何があったんだ』
 問いかける声は何処までも優しくて、背中を撫でる手はとても暖かくて、その温もりに安堵している自分に気づかされる。誰だっていいんじゃないのかと嘲笑う声が聞こえて、綱吉は違う、と首を振った。
 否定したいのに、それなのに、彼の手を振り払えない。
『ヒバ……りさっ……って……』
『ツナ?』
『おれの、ことっ、きらい……って……』
 そこから先が繋がらない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、彼を見詰める。溢れ出る涙をとめる術はなく、綱吉は何度も息をつきながらたどたどしい舌使いでどうにかそれだけを告げた。
 彼の目が大きく見開かれ、驚きが綱吉にも伝わる。
『そんな、嘘だろ』
 俄かには信じ難い台詞に、彼は声を上擦らせて聞き返してきた。
 けれど綱吉は聞いてしまったのだ、その耳で確かに。リボーンに受け答えする雲雀が、雲雀本人が、その声で、何の迷いも躊躇も無く告げた言葉を。
 冗談ではない、好いてはいない。迷惑だ、と。
 知らなかった。
 知らずにいた。
 知りたくなかった。
 知らないままでいたかった。
『おれ、の……所為、だか、らっ』
 あの日、あの時。
 ああする以外、雲雀を救い出す方法は無かったと今でも思う。けれど綱吉に力が足りなかった所為で、彼は多くのものを失わざるを得なかった。彼は行動を制限され、抑圧される事となった。
 心臓が苦しい、今にも止まってしまいそうなくらいに。
 全て綱吉が悪い。他に道があったかもしれないのに、綱吉は自分の我が儘で彼を束縛した。
 あんなにも綺麗だったから。
 欲しがったりしたから!
『ヒバリさん、はっ……もっと、遠くにいける、のに』
 綱吉が彼を縛り続ける限り、雲雀は遠くへは行けない。
 綱吉が彼を求め続ける限り、雲雀はこの地から逃れられない。
 綱吉が生きる限り、雲雀は本当の彼にはなれない。
 綱吉が在る限り、雲雀は永遠に地上に縫い付けられる。
 彼は人にもなれず、龍にもなれず、神にもなれず、中途半端のまま。
 成り損なったまま、ずっと、ずっと。
 綱吉は泣く、雲雀を想って。
 綱吉は泣く、自分の存在を呪って。
 彼に嫌われるくらいなら、殺して欲しい。優しくされるくらいなら、最初から突き放して欲しかった。
『……なさっ……ごめ、なさい……』
 彼が最近極端に綱吉を遠ざけたのも、冷たくなったのも。
 十年も経ったのに、いつまでも成長の兆しが見えない綱吉に呆れ、見限ってしまったからだ。雲雀は綱吉がいなければとっくに遥か高みへと上り詰め、自由気ままに空を駆る術だって手に入れていたに違いない。
 その可能性を、綱吉が奪った。
 彼が綱吉を見限っていたとしても、なんら不思議ではない。
『雲雀が本当に、そう言ったのか?』
 声が遠く聞こえる。わんわんと声をあげながら泣き叫ぶ綱吉が頷くのを見て、彼は少しの間考え込み、膝を地に置いて綱吉の顔から両腕を引き剥がした。
 顔を寄せ、真正面から真っ赤に腫れあがった綱吉の目を覗き込んだ彼は、底冷えのする黒々とした瞳を狐のように細め、綱吉に微笑みかけた。
 いや、綱吉にはとても彼の表情が、笑みを形作っているはずなのに、そうは思えなかった。
 背筋に悪寒が走り、綱吉は咄嗟に身体を引いて彼から逃れようとした。けれどがっちりと両手首を掴まれており、剥がせない。
 逃げられない。瞬間的に涙まで止まって、綱吉は怯えた顔で彼を凝視する。見開いた瞳に映し出された彼は、綱吉が知るあの優しく穏やかな彼ではなかった。
 綱吉の世界が凍りつく。折れそうなくらいに握られた手首が痛い。
『そっか。……悪い奴だな、雲雀は。お前を、こんなに泣かせて』
 彼が顔を近づけてくる気配に、綱吉は首を背けて固く目を閉じた。首も窄めて距離を作ろうとするものの、上半身を拘束されていて逃げ場などない。生温い感触が目尻から頬にかけてなぞっていき、その気持ち悪さに吐き気がした。
 嫌だ、と拒絶を表したいのに唇は震えるばかりで何の音も刻まない。
 綱吉のその反応を、どう受け止めたのか。彼はもう一度同じ場所に舌を這わせると、まだ暖かな涙を舐め取って離れていった。
『ツナを泣かせるような奴は、ツナの隣にいる資格なんてないよな』
『や……』
『俺が、やっつけてやるよ』
『……まも、と……?』
『俺が代わりに傍に居てやる。だからもう、泣くなよ』
 にっ、と白い歯を見せて笑った彼なのに。
 細められた瞳はちっとも笑っていなくて、逆に怖いくらいで。
 違う、駄目だ、それは間違っていると言いたいのに、心が麻痺してしまって、喉からはひゅぅひゅぅと乾いた空気しか出て行かない。瞬きも忘れた綱吉の瞳が目の前の彼を捕らえる、ぞっとする静かさを背負った山本に、綱吉は何も言い返せなかった。
 そこから先の記憶は、残っていない。
「山本、駄目だ。駄目だよ、違うんだ」
 握り締めた拳で床を叩き、そこに涙を零して綱吉が奥歯を噛む。
 雲雀が悪いんじゃない、綱吉が全部悪いのだ。山本は勘違いをしている、雲雀が綱吉を縛っているのではない。逆だ、綱吉が雲雀を地上に縛っている。
「ヒバリさん、山本……っ」
 もしシャマルの言う通り、雲雀が右目から視力を失っているのだとしたら。
 心臓は拍動五月蝿く苦しいままだけれど、頭ばかりは急速に冷静さを取り戻しつつある。綱吉は肩を上下させて呼吸を整えながら、唾を飲んで手の甲で唇を拭い、起き上がって彼方を見据えた。
 闇ばかりが広がり、雨の音がこだまする。綱吉はそこを、慎重に四つん這いで進みだした。
 雲雀の右目が見えない、獄寺は鬼に関する文献を調べていた。雲雀が綱吉に触れなくなった、それは思い返せば里で、そして裏山で鬼騒動が勃発したその日に他ならない。
 鬼を撃退した直後、豹変した雲雀の態度。
「俺は、馬鹿だ」
 雲雀の身体が、鬼の毒に蝕まれた程度でたった一箇所でも機能を欠落させるなんてあり得ない。直後の数日間ならまだしも、あれからいったいどれだけの日数が過ぎ去ったと思っている。
 何故気づけなかったのか、何故気づこうとしなかったのか。
 雲雀が綱吉を遠ざけ続けた本当の理由。彼がひとり苦しみ、必死に抗っていた時に、自分は何も知らずに彼の行動を身勝手だと詰っていた。
「馬鹿だっ」
 悔しさに唇を噛み、綱吉は強く床を叩いた。弾みで傍にあった木箱らしきものがひっくり返り、埃が舞い上がる。吸い込んでしまった綱吉はその場で激しく咳き込み、そうして微弱な風の流れを埃の動きに見出した。
 目を見張り、凝らす。乱暴に拳の背で涙を拭って視界を取り戻し、息を呑んで注意深く気配を探った綱吉は、ふと、懐かしく暖かなものを感じて眉間に皺を寄せた。
 なんだろう、と息を止めて周囲を見回す。休めていた足を動かし、綱吉は手探りで周囲を警戒しながら進んだ。
 指が、何かとぶつかる。
 その向こうで、淡い輝きが灯っては消えていた。
 夏の蛍にはまだ時期が早い。なにより蛍よりもずっと光は弱々しく、まるで綱吉に何かを訴えかけるかのように輝いては消え失せる。手を伸ばして掴み取ろうとして、けれど見えない壁に阻まれて届くことはなかった。
 空間的にはそこに何も無いはずなのに、壁がある。構わず突き進もうとして、綱吉は頭をぶつけてひっくり返った。
 光が爆ぜる、次々と。
 細かな欠片が、最後の力を振り絞って綱吉に訴えかけている。
「これ、これ……俺の、だ」
 即座に起き上がり、掌を広げた綱吉が思い出した光の波長に目を剥いた。手を伸ばすがやはりそこには壁が立ちはだかり、綱吉を先へ行かせない。そうしている間にもどんどん光の数は増え続け、そして消えていく。
 蝋燭よりももっと明るい光が次々に明滅して小屋の内部を照らし出す、そこは破棄された山小屋のようでさっき綱吉が崩した木箱以外に、やはりもう使い物になりそうにない農機具などが乱雑に積み上げられていた。
 その隙間を広げ、綱吉が身体を納めるのに充分な空間が作り出されている。
 雨の音は止まない、むしろ激しさを増している気がして綱吉は視線を持ち上げた。
 弾け散る光が、綱吉の薄汚れた姿を映し出す。
 光。光の鎖。光の鎖の――欠片。
 与えられた役目を失い、本来在るべき場所へ戻ろうとして、けれど戻れずに尽きていく力の破片。
 阻んでいる透明な壁、綱吉と世界とを遮断しているもの。
 結界。
「そんな……」
 誰がこの結果を作り出したかなんて、想像するより簡単だ。あの状況で、綱吉をこんな人気の無い、人も来そうにない場所に運び込めた人物はひとりしかいないのだから。
 けれど、何故。
 綱吉をこんな場所に閉じ込めて、いったい山本は何をするつもりなのか。
 そして目の前で今も朽ち続けている光の意味。
「ヒバリさんの、封印」
 それは綱吉と雲雀を繋ぐもの。
 綱吉が雲雀を縛るもの。
 雲雀が雲雀である為のもの。
 雲雀の中に在るものを封じ込めるためのもの。
 幼き日、嵐の中、両手を伸ばした綱吉が捕まえたものが、勝手に何処かへ飛んで行ってしまわぬようにつけた鎖。
 綱吉が命を賭してまで生み出した、生涯唯一の最初で最後の封印。
 それが、解けようとしている。
「だ……駄目、戻って!」
 綱吉はがんっ、と強く結界の壁を殴り叫んだ。
「戻って、早く! ヒバリさんのところに戻って! お願いだから!」
 両手の拳を結界の内側に叩きつける。けれど山本が生み出したそれには罅ひとつ入らず、無情に綱吉を弾き返す。その間にも彼の目の前で、綱吉が長年維持し続けてきたものが粉々に砕け散っていく。
 がらがらと音を立て、壊れていく。
「いや、だ。いやだ、いやだあ!」
 たとえ雲雀に嫌われていたとしても。自分の傲慢さに彼が嫌悪していたとしても。
 百歩譲ってそれが本当で、雲雀が自分の事を恨んでいたとしてもいい。嫌われていたとしてもそれはもう構わない。
 けれど、こんなのは嫌だ。
「戻って! 戻ってよ、俺の力だろう!」
 いつか彼が本当に望んだ時、綱吉は自分でその鎖を解くつもりでいた。彼が自らの力だけでかの強大な力を制御し、自在に操れるようになれば綱吉の鎖は役目を終える。けれど今はまだあれの力は強すぎて、雲雀ひとりでは負担が大きすぎる。
 十年前、綱吉は雲雀の中に暴れ狂う蛟を封印した。
 それしか雲雀を救う術は無かったし、嵐を鎮める方法も無かった。
 綱吉は何故その場に雲雀がいて、蛟が雲雀を食らい、雲雀が蛟を飲み込んだのかまでは知らない。ただ切ないくらいに助けを求める声が聞こえて、なんとかしたいと、ただそれだけだった。
 こんなことになるなんて、思ってもいなかった。
 光は次から次へと現れ、消え、散っていく。結界を叩きすぎた手は赤く腫れ、握りすぎた指の感覚は薄れて痛みさえ感じない。皮膚は裂け、血が滲む。それでもなお構わず、綱吉は結界を殴り続けた。
「いやだ……いやだ、助けて……」
 たとえ彼に嫌われていたとしても、自分は彼が好きだ。
 たとえ自分が死んだとしても、彼だけは失いたくない。
 綱吉が生きた証でもある彼を、なくしたくない。
 彼を好きでいた自分を否定したくない。
「助けて……たすけてよ、ヒバリさん……」
 心が張り裂けそうなくらいに痛い。雲雀の鼓動が遠い。
 急速に力を失いつつある心臓が悲鳴を上げる。命を保ちきれずに、ゆっくりとだが確実に衰弱は始まっている。
 息苦しくて綱吉は喘いだ。咳込んだ時に奥歯に引っかかるものを感じて吐き出すと、赤黒いものが掌を汚す。
「……待って」
 目を見開いた綱吉が、信じられないと首を振る。見上げた結界は弾け散る光を受けて鈍い輝きを反射させ、綱吉の前に展開していた。
 もしこの結界が、本当に綱吉を外界から遮断しているのだとしたら。力の往来の一切を拒絶しているのだとしたら。
 最悪の予想が綱吉の脳裏を駆け抜ける。ぞっと背筋が粟立ち、綱吉は愕然と闇を見据えた。
「だ、駄目だ!」
 どん、と力が抜けそうになる肩で結界を叩く。
 それは駄目だ、それだけは駄目だ。想像してしまった結末に青褪め、綱吉は地に濡れた拳を握り締めた。
「出して! ここから出して!」
 懇願の声は雨に濡れ地に沈み、誰の耳にも届かない。
 綱吉は身を丸め、己の胸を掻き抱いた。汚れた着物の上から心臓を鷲掴み、鼓動を確かめる。
 途切れてしまった糸、残り僅かな力。届かない、感じられない。何もかもが遠い、薄い。雲雀の息吹が聞こえない。
 ――止まってしまう。
 固く目を閉じ、綱吉はたったひとりを脳裏に描き出した。
「ヒバリさん……たす、け……て……」
 雨はまだ止まない。

 雷鳴が南の空に迸り、強く吹きつけた風が樹木を打ち、枝を激しく揺さぶっている。
 ぼんやりとそんな強風の中靡きもせずに佇んでいる雲雀と、風に耐えながら足を踏ん張らせている山本。彼らの姿を遠くから眺める黒い影があった。
 沢田邸の玄関、直ぐ脇。軒先で雨を避けながら立つうら若き女性は、婀娜な笑みを口元に浮かべ楽しげに胸に抱いた赤ん坊に頬を寄せた。黄色い頭巾が雷鳴の轟く一瞬だけ光を浴び、闇に浮かび上がる。
「かわいそうに。あの坊や、死ぬわ」
 鈴を転がしたような声が軽妙に響き、両腕で大事に抱えられた赤ん坊はちらり、と背後の女性を振り返る。今は暗すぎてはっきりと表情は見えないが、愉悦に浸っている声からして、口ではそう告げつつも顔は笑っているに違いない。
「随分と嬉しそうだな」
「そりゃあ、そうよ」
 赤ん坊を抱く腕に力を込めた女が、見る者を虜にして止まない微笑を浮かべ、コロコロと喉を鳴らした。
 雷がまたひとつ、空を駆け抜けていく。しかし光ばかりが空を埋める一方で、音は少しも耳に残らず、不気味な静けさがこの場所には漂っていた。
 山本が木刀を構え、雲雀に斬りこんで行く。だが切っ先は目標に到達することなく、柳の枝が揺れるが如く身体を撓らせた雲雀は、容易く彼の攻撃を見切って避け、彼との距離を一定に保ち続けた。
 自分からは一切攻撃を繰り出さず、また視線も、殆ど山本に向けられることは無い。いったいどうやって彼の動きを把握しているのか、荒く肩を上下させた山本は、舌打ちしてそれでもしつこく雲雀へと突進していく。
 傍から眺める分には随分と滑稽だ。道化と成り下がった山本に憐憫の視線を送り、女は赤ん坊の言葉をさらりと肯定してみせた。
「だって私は、人間が大嫌いですもの」
 雷光に輪郭を浮かび上がらせた女の額には、小さな突起物が左右にひとつずつ、並んでいた。
「蛤蜊家初代とは人間には手を出さないよう盟約を結ばせられたけれど、人間が私達に与えた屈辱を私は忘れないわ、永遠に」
 雨よりもずっと冷たい声に、彼女の怒りの深さが秘められている。腕の力を強められ、息苦しさに手を叩いた赤ん坊はそうか、とだけ呟いて黒々と広がる暗雲に視線を投げつけた。
 稲光が散り、渦を巻いている。それは龍が蠢いている様に似ていた。
 彼女も同じように空へ目を向け、雨に濡れた赤ん坊の頭巾を指で撫でる。愛しげに目を細めた彼女は、続けて地表を這う山犬の如き男たちを視界に収めた。
「それにしても、面白い時に巡り会えたわ」
「……」
 どこまでも楽しげな女の声に、僅かに表情を歪めた赤ん坊が頭巾の端を引いて目深に被り直した。
「蛟が龍になる瞬間だなんて、数百年に一度あるかないか、だもの」
「ならねーぞ」
 とぐろを巻く暗雲、吹き荒ぶ風、降り止まない雨。生き物は大小関わらずに息を潜めじっと朝を待ち、この一時の騒乱が早く通り過ぎてくれることを願っている。
 十年前と、同じ。
 雲雀山で起きた一夜の出来事と、同じ。
 だが決定的に違うのは。
『リボーン、リボーン! 頼む、俺達神族が関わっちゃいけないとは分かってる、けど、頼む!』
『息子なんだ、俺の。頼む、あいつを……俺の息子を、蛟から』
『恭弥を助けてくれ!』
 悲痛な叫びは今でも記憶に新しい。あの男があれほど取り乱したのは恐らくあれ一度きりだろう。そう思うと、珍しいものが見られたものだと赤ん坊はつい口元に笑みを浮かべた。
「何故? その資格は十二分に有しているのではなくて?」
 素直すぎる女の問いかけに、赤ん坊はにっ、と意地悪く笑って彼女の腕から抜け出した。
「あいつは、なりたくてもなれねーんだ」
「?」
「雲雀の奴は、自分で手放しちまったんだ。龍になれる資格を、な」
「それって……」
 蛟から龍へ。変化の過程で手に入れる、唯一無二の宝物。
 彼はそれを、十年前自らの意思で手放した。奇跡を起こす為に、願いを叶える為に。
 息絶えようとするものを蘇らせ、生き長らえさせるために。
 息を呑んだ彼女に、リボーンは低い声でことばを重ね合わせる。投げかけた視線、その先には黒々とした力の奔流に押し潰されようとしている男がいる。
 リボーンは広げた小さな手をきつく握った。
 もし、その時は。
 雲雀が雲雀で無くなった、その時は。
「あいつは、如意宝珠を捨てた」
 このままでは彼は龍にはなれない。
 だから雲雀の体の支配権を奪った蛟は、失われたそれを取り戻すべく、動くだろう。
 命を宿す、あの子の元へ。
「雲雀の宝珠は、ツナの心臓だ」
 雷鳴が迸る。