黒南風 第五夜(前編)

 彼は、其処に立っていた。
「おいで」
 差し伸べた手は小さく、か細い。
「だいじょうぶ」
 告げる言葉は柔らかく、たどたどしい。
「こわくないよ」
 見詰める瞳は優しく、暖かい。
「こわくないよ」
 光が闇を裂き、風が水を飲み雲を呼び、嵐が天を貫く。
 空が。
「ね?」
 微笑みは、ただ眩しかった。

「恭弥君、ツッ君知らない?」
 部屋で一眠りし、気持ちを静めた雲雀が出向いた先の母屋で、竃の火を調節していた奈々が彼に気づいて立ち上がった。
「綱吉ですか?」
 暗がりから急に声をかけられて一瞬身構えてしまった雲雀は、困った風に表情を曇らせる奈々の様子に首を傾げつつ、見ていない、と結論だけを口にする。
 彼とは庭での騒動の後、顔を合わせていない。そもそも雲雀は現在綱吉を避けて通っているから、知らなくても当然なのだ。だが幼少時から常に行動を共にしてきたふたりを見ているから、奈々はあまりその辺まで深く考えていないらしい。右手を頬に添えて「困ったわね」と呟いて、焦げ臭い臭いを放つ竃を思い出し慌てて膝を折った。
「いないんですか」
「そうなのよー」
 だが雲雀が把握していなくても、行動範囲が狭い綱吉の行き先は大抵決まっている。邸宅内にいなければ庭か、神社だ。ひとりで里へ降りるのは稀なことだし、彼女の口ぶりからして綱吉が行きそうな場所は既に調査済みなのだろう。
 変な気を遣う彼女は離れにあまり近づかないから、雲雀が来たので直接問うたのだと考えられる。けれど離れの綱吉の部屋は無人だったし、人が立ち寄った気配も無かった。
 視線を転じて土間から居間に顔を向ければ、囲炉裏端で獄寺が万能鉤に吊るした鍋の中身をかき回している。そちらからは良い匂いが漂っていて、もうじき日も暮れて夕飯時が迫っていることを教えてくれた。
 獄寺が此処に居るのであれば、綱吉は山本と一緒なのか。ならば大丈夫だろうと勝手に判断し、雲雀は草履を脱いで居間に上がった。そこへ、北側の廊下から両腕を頭の上に伸ばして背筋を反らしつつ、その山本が姿を現す。
 眠そうに欠伸を噛み殺し、目尻に浮いた涙を指で拭っている。昼寝に興じて今しがた起きたばかりという態度に、雲雀は眉を寄せた。
「獄寺、起きてたのか」
「ああ」
 もうひとつ欠伸を零した山本が、機嫌も悪そうにしている獄寺に話しかける。足音を立てずに傍に忍び寄った雲雀は、彼らの邪魔にならぬように素早く自分の指定席へ座布団を敷くとそこに腰を落とした。山本もまた、片隅に片付けられていた座布団をひとつ取って獄寺の左隣に居場所を定める。
「けど、なんだったんだ? いきなり倒れたから吃驚したぜ」
「……」
「あの鬼、お前の姉ちゃんだって本当か?」
「……ああ」
 綱吉がどさくさに紛れて叫んだ台詞を思い出したのか、視線を斜め上に浮かせた山本の問いかけに、獄寺は若干言いにくそうに言葉を詰まらせて返事をする。
 手は休まずに鍋を掻き回し続け、土間の端からは釜が蓋を揺らして泡を零す音が響いた。
「鬼の姉ちゃんがいるって、でもお前、人間だよな?」
「半分だけね」
「ヒバリ!」
 正座から足を崩し、右足を前に投げ出した雲雀が獄寺に代わって簡潔に結論だけを告げて、言い出すかどうかまだ迷っていた獄寺は鋭い声を上げて彼を非難した。
 けれどいずればれることであり、それを獄寺が渋っていたのでは余計な詮索を産むことになって互いに関係が悪化する要因ともなりかねない。奈々は釜の扱いに手一杯の様子で三人の声は耳に入っている様子が無く、彼女の動かない背中に安堵の息を零した獄寺は、気まずい様子で上目遣いに山本を盗み見た。
 当の本人は、けろっとした顔をしていたが。
「へ~、そうなんだ。お前、半魔か。俺、初めて見る」
「うっせぇ、触んな」
 獄寺が恐れていたような反応は一切無く、むしろ興味津々という顔をして山本は不躾に獄寺へと手を伸ばす。菜箸片手に胡坐をかいていた彼は、斜め横から伸びてきた手に視界を邪魔されて鬱陶しそうにそれを追い払った。
 だが山本は懲りもせず、角は無いのかと彼の長い前髪を掬い上げようと夢中になっている。
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる彼らは年齢よりもずっと幼く見えて、その代表格である綱吉の姿が無いことに雲雀は違和感さえ覚えた。そう、何故この場にあの子がいないのか。
「山本」
 このままでは鍋が囲炉裏の上でひっくり返りそうで、かといって熱せられている鉄の鍋を手づかみで支えるわけにもいかず、雲雀は乱れた湯気の行く先に目を細めてから真向かいに座している山本を呼んだ。
 獄寺の肩に腕を回し、頭を固定して自分の胸に抱え込んでいた山本が、その姿勢のまま雲雀を見返す。
「綱吉を知らないか」
「ツナ?」
 離せ、と腕の中でじたばたともがく獄寺の拘束を緩め、彼は雲雀の質問に質問で返した。黙って雲雀が頷き返すので、彼は少し考え込む様子を見せてから獄寺へと目線を移す。絞められていた首に手を当てて咳き込んだ彼は、ふたり分の視線を受けて慌てたように頭を振った。
「俺も、さっき十代目のお母様から聞かれたんだよ」
 だが獄寺が意識を取り戻したのは小一時間ほど前のことであり、その時既に綱吉の姿は屋敷のどこにも見当たらなかった。探しに行こうかと提案してみたものの、ビアンキに遭遇したお陰で全身を襲った悪寒からはまだ完全に脱しきれておらず、また奈々も、雲雀と一緒かもしれないからと余計な思慮を発揮してくれたものだから、結局彼は夕食の支度をこうやって手伝わされている。
 今度は山本の番で、四つの瞳に見詰められた彼は、大仰に肩を竦めて矢張り首を横へ振った。
「俺も、お前を部屋に運び込んでからツナとは会ってない」
 獄寺を見ながら答えた山本に、雲雀は瞳を伏して考え込む。
「なんかお前に用があるみたいだったし、俺もてっきり、お前と一緒だと」
 今度は雲雀を見ながら彼は言って、眼だけを持ち上げて煙の向こうの彼を睨んだ雲雀は、投げ出していた両腕を胸の前に集めて組んだ。
 彼の眉間に寄せられた皺の深さに薄い笑みを浮かべ、山本は胡坐をかいていた足を左右両側へと投げ出す。背中を後ろへと逸らして胸を上向け、喉仏を露にしながら煤けた屋根裏を見上げた彼は、綱吉に関わることだというのに珍しく他人事な態度だ。
 右側の眉を僅かに持ち上げた雲雀の視線を無視し、彼はそのまま後ろへと倒れて行って完全に床に転がってしまう。跳ね上がった足が獄寺の膝に乗り上げて叩いたので、獄寺は迷惑そうに唇を窄めながらその足を脚で押し退けた。
 北に頭を向けた格好となった山本を更に足で蹴り、せめて体の向きくらいは替えろと獄寺が小言を言う。
「説教臭いと禿げるぜー」
「余計なお世話だ」
 それを山本がからかい、笑う。逐一むきになって相手をする獄寺の損な性分に嘆息し、一瞬普段と違う空気を山本から感じ取った雲雀だったが、それは自分の気のせいだろうと一方的に結論付けてしまった。
 鍋から溢れ出る湯気がぼんやりと三人の視界を白く染め、暖かな空気が場を和ませる。食欲を刺激する美味しそうな匂いも手伝って、本来食物を口にせずとも問題ない雲雀でさえ、胃袋が空腹感を訴えて微かな声で鳴いた。
 この感覚も、この屋敷に来てから手に入れたものだ。
「降って来たな」
 右手を帯の上から腹筋に添わせ、軽く撫でていた雲雀の耳に軽快な山本の声が紛れ込む。
 視線だけを持ち上げれば、彼は大柄の身体を揺らして上半身だけを起こし、肘を支えにしてうつ伏せになろうとしているところだった。
 跳ね上がった脛から先がまた獄寺の足にぶつかって彼を邪魔していて、ひょっとしてそれはわざとやっているのではないかと今頃雲雀は気付かされる。獄寺も、性懲りもなく同じ事を繰り返す彼に鬱陶しそうにしながらも相手をしてやっているところからして、このふたりは見た目に反して案外仲が良いのかもしれなかった。
 幼子のようにじゃれあうふたりから視線を外し、山本の頭越しに雲雀は北側に広がる空間を見た。
 確かに山本の言葉通り、日が暮れて薄暗くなった裏庭に細かな筋が無数に走っており、屋根を打つ微かな音も、地表に雨が降り注がれているのだと教えてくれる。
 折角今朝方止んだばかりだというのに、晴天は長く続かなかった。雨の多い時期なので致し方なくはあるが、澄み渡る青空も時に恋しくて雲雀は顔を顰めると、左の手で右腕を袖の上からさすった。
 寒くは無いが、鳥肌が立っている。何故だろう、と他人には解らない程度に首を傾げた彼は、無意識に強く握り締めた腕の痛みに自分で驚きながら目を細めた。
 竃から釜を下ろした奈々が、せっせと夕飯自宅を続けている。毎日飽きもせず、また文句も言わずに重労働をこなしている彼女に感謝の意を抱きつつ、雲雀は座っているのが苦痛に思えて膝を立てると起き上がろうとした。
 右腕から外れた左手が、視界の端から端へゆっくりと流れて行く。
「――――!」
 直後息を飲み全身を緊張で震わせた雲雀に、様子がおかしいと察した獄寺が顔をあげる。山本は仰向けに転がったまま、首を少し後ろ向けて様子を窺うだけだ。
「どうした?」
「いや……」
 鍋をかき回す手を休めた獄寺の問いに、雲雀は言葉を濁す。彼は僅かに息を呑んでじっと己の右手を見詰めていたが、獄寺がいくら注意深く観察しても、そこに何かを見出すことは出来なかった。
 肩越しに振り返っていた山本が、よいしょ、と掛け声ひとつあげてその場に座り直す。乱れた野袴の裾を引っ張って整えた彼はどっかりと胡坐をかき、そこに肘を立てて背中を丸めた。
「ツナ、何処行ったんだろうな」
 雨が降って来たっていうのに、外を歩き回っていたら風邪を引いてしまう。
「本当に、覚えは無いのか」
「だーかーらー。俺は、ツナがお前に用事があるって出て行ったから」
 それから先は勘繰るのも野暮だろうと思い、後は追わなかった。故に自分は知らないのだと山本は言い張るが、その綱吉が向かった先である雲雀も、彼と遭遇していないのだ。
 ならばいったい、彼は何処へ行ってしまったのか。
 嫌な予感が雲雀の胸を過ぎり、彼は打ち消そうと頭を振った。だが反比例して心臓の鼓動は速まり、全身の筋肉は緊張を強めて痛みさえ発する始末。乾いた口腔に唾を絡めた雲雀は、浮かせた腰を中途半端に持て余したまま、何も無い右手ばかりを睨み続けた。
 彼の瞳にだけは、そこに絡みつく金色の鎖が映し出されている。
 そのひとつがパチリ、と音を立てて爆ぜた。
「っ!」
 直後雲雀の体内から強烈な苦痛が発せられ、彼は咄嗟に右目を押さえてその場に蹲った。膝が床板に擦れて音を立て、浮き上がった汗が項を伝って背中へ流れて行く。
「雲雀?」
「……なんでも、ない」
 怪訝に声を上げた獄寺に首を振って答え、雲雀は立ちあがろうと腿に力を込めた。だが重心が右にずれてしまい、危うく囲炉裏に頭から突っ込むところで、彼は冷や汗をひとつ拭い、息を吐いた。
 明らかになんでもない、とは言い切れない様子に、獄寺は箸を置いて彼に触れようと手を伸ばす。だが直前で雲雀に弾かれて、乾いた音が室内に響いた。
「あら、どうかしたの?」
 お櫃に米を移し変えた奈々が、手拭いを頭から外しつつこちらに向かっていた。丁度雲雀が獄寺の手を叩き落す瞬間を見られてしまったらしく、彼らはばつが悪い顔をして互いに顔を逸らしあった。
 それを、山本が離れた場所でじっと見据えている。
「それにしても、ツッ君ってば、何処行っちゃったのかしら」
 彼女も雨が降り出したのには気づいていたようで、囲炉裏端に櫃を置いて困った表情を作って北を窺い見た。
「ツナも、いつまでの子供じゃないんだから大丈夫だって」
 気まずい沈黙を破ったのは、いつだってお気楽な調子を崩さない山本の一言だ。
 確かに彼の言う通り、綱吉はもう今年で齢十四になる。並盛神社の神事も家光に代わり立派に勤め上げているし、頼りないところは残るけれどそれは周囲が彼を無条件に甘やかすからであって、ひとりになった時の彼は思いの外しっかりしている。
 雨の夜道が危険だというのも解らないはずがなく、だから大丈夫だと山本は主張する。いい加減ひとりの男として認めてやれよ、とまるで雲雀の心配が悪いことだといわんばかりの彼の口ぶりに、奈々はそれもそうね、と肩の荷をおろして膳の支度に戻っていった。
「……」
 雲雀はその間、特に何も言わずに黙って彼の言葉を聞いていた。獄寺もまた、若干の違和感を山本に抱きつつ、焦げようとしている鍋底を思い出して慌てて箸を手に取る。手際よく夕餉の準備を整えていく奈々の手元には綱吉の膳も当たり前のように揃えられていて、それが余計に雲雀の心を波立たせた。
 握り締めた右手が痛む。
「それに、さ」
 山本の声が一際大きく聞こえて、雲雀は顔を上げた。
「分かるんだろ、お前なら。ツナの居場所」
「……」
 伝心の事を言っているのだろう、彼は。それは元来ふたりだけの秘密事項であったが、いつの間にか周囲に知れ渡っていて、今となっては公然の秘密状態だ。
 山本は無論気づいていて、獄寺も直接確かめたわけではないが、なんとなく勘付いてきている。双方の視線を浴びた雲雀は、苦虫を噛み潰した顔をして舌打ちした。
 綱吉の心は聞こえないし、感じ取られない。空に向かって伸ばした手が、星もつかめずに空気ばかりを掻き乱す時に似ている。手ごたえがまるでなく、いや、むしろ届く前に見えない壁にぶつかって全て弾かれてしまっているような感じだ。
 何が邪魔をしているのか分かっていても、取り払うのが難しくて、だから雲雀は悔しくてならない。
 黙りこんで反応が鈍い雲雀に、山本が首を右側に大きく倒す。
「雲雀?」
「探してくる」
 山本の声が雲雀を嘲笑するあの声に重なって聞こえて、彼はいても立ってもいられず、完全に腰を浮かせて膝を伸ばした。
 膳を手に戻ってきた奈々が、土間へ降りていこうとする彼の動きに合わせて首を巡らせる。
「恭弥君?」
「綱吉を探してきます。あの子がこんな時間に、連絡もなくいなくなるなんておかしい」
 草履を履きながら言った彼は、奈々や他の面々の返事も待たずに玄関に通じる細い土間を南へと下っていった。背中は見る間に暗がりに紛れ、居間に残された人々の視界から消え去る。
 獄寺は鍋の中に箸を突っ込んだまま暫く呆然として、奈々が膳を置いた音で我に返った。
「あ、俺も探しに」
「恭弥君に任せておけば大丈夫よ」
 慌てて胡坐を畳んで身を起こそうとした彼だが、奈々ののんびりとした声に阻まれて気勢を削がれ、結局座布団に尻を戻す結果に落ち着いた。山本は頬杖着いた顔を他所向けて、雨に濡れる軒から落ちて行く雫を見送る。
「鎖は、俺が解いてやるから」
 ぽつりと彼が呟いた声は、雨の音に呑まれて誰の耳にも届かなかった。

 雲雀が最初に向かったのは離れの自室で、雨に濡れた前髪を払いのけつつ暗い室内を覗き込む。だがそこは自分が離れた時の状態のまま何も動いておらず、隣の部屋にも変化は見られない。
 彼は部屋の片隅に放り出していた汚れた着物を一度掴み、何をするでもなくまた積み重ねて溜息を零す。
 綱吉の気配は残っていない。かなり薄まったものが彼の部屋に僅かに漂っているだけだが、それもこの雨で宵のうちに流されてしまうだろう。
 右腕をだらりと脇へ垂らした彼は頬を打つ冷たい風に首を窄め、左手で感覚が鈍くなりつつある右半身を叱咤して雨の勢いが強まりつつある外へと戻った。
 布地に水が染み込み、否応無しに肌に張り付いてくる。草履を履いていてもぬかるんだ土の感触は顕著で、露出している足指は直ぐに泥に汚れた。歩く度に踵が跳ね上げる泥水は着物の裾を遠慮なく土色に染め、晴れた昼間とは違う様相が彼の前に広がっていた。
 見慣れた庭が、とてつもなく不気味な光景に思えてならない。
「……綱吉」
 見慣れた金色の輝きが見えなくて、雲雀は不安げにその名前を呼ぶ。
 声は細く弱く、今にも尽きそうなほどに頼りない。自分がこんな声を出すとは思っていなくて、雲雀は離れの軒先で雨を浴びながら暫く呆然と立ちつくした。
 綱吉の気配が、まるで感じられない。
 伝心は封じられたものの、意識すれば彼の気配は常に雲雀の身近なところにあった。それは雲雀が綱吉を求めていたからに他ならず、たとえ自分から拒絶を表そうとも彼が雲雀を望む限り、切れることは無い糸だった。
 自分たちは繋がっている。目に見えない、けれど複雑に絡み合った命という糸が根深い部分で絡み合い、永遠に解けることは無い。無理に解こうとすれば反発は必至で、だからこそ家光は長く屋敷を留守にしてまでその手段を求めるべく旅に出たくらいだ。
 それなのに。
 今、雲雀は綱吉を感じ取ることが出来なかった。
「どうして」
 呟かれた自問に答える声はなく、耳に響くのは地表を打つ雨の音ばかり。顔を上げた彼は暗闇に飲まれた空を見上げ、全身が鉛のように重くなるのをただじっと耐えることしかできなかった。
 胸が張り裂けそうなまでに苦しい、息が出来ない。
 彼は雨に濡れて重くなった袖を引きずり、右腕を持ち上げた。広げた掌を上にして雨粒を受け止めながら、五本の指とそれを繋ぐ部位に視線を注ぎ込む。
 その本来柔らかいはずの表面にまで、黒い鱗状の結晶が侵食し始めていた。
 彼を包み込んでいた金色の光は少しずつ弱まり、絡み付いていた鎖がまたひとつ、甲高い音を立てて砕け散る。
 山本や獄寺、そして奈々の前では言わなかったが、こんな事が起こること自体、綱吉の身に何かがあった証拠だ。雲雀は感触さえも遠くなった手を握り締め、降りしきる雨を切り裂いて腕を真横に凪ぐ。
 屋敷にはいなかった、神社も探した後だろうから可能性は低い。
 綱吉は何処へ消えたのか。
 雲雀は思わず屋敷の裏手に聳える黒々とした輪郭を闇夜に浮かび上がらせている霊山を見上げ、それから違う、と首を横に振って考えを否定した。
 あの場所は、夜は危険だ。日が暮れてからの世界は冥界の時間、特に並盛山は霊的な要素が強く、綱吉の体質とも相俟って異界の口が開かれ易い。だから夜間、決してひとりでは近づかないこと、それは雲雀がこの地にやってくる以前から家光によって定められた決まりごとのひとつだった。
 父親っ子だったあの子が、その約束を破って山に行くはずが無い。行く理由もない。
 ならば、と視線を転じて雲雀は闇の中に点々と薄明かりが散る里を見た。
 可能性は低いが、此処でこのままじっとしているよりは動き回っている方がいい。雲雀は気弱になりたがる自分自身を奮い立たせる意味も込め、両手で頬をきつく叩くと、前髪を滴った雫を振り落として強く地面を蹴った。
 泥を跳ね飛ばし、昼間壊されて修復したばかりの結界を飛び越える。
 補修は完全に完了したわけではなくて、明日の朝にでももう一度確認するつもりだった。夜目が利かない中、繋ぎ直した結界に変化が無い事を確かめた彼はそっとその目には映らない微弱な力の波動を掌で受け止め、綱吉が此処を通り抜けたかどうかの気配を探る。
 だがこの雨で流されてしまったのか、それとも元々の彼の感知能力の低さからか、指先には何も伝わってこなかった。
 唇を閉ざしたまま舌打ちし、雲雀は踵を返して九十九折の石段を下り始めた。
 一段ずつ降りていくのはまどろっこしくて、最初は二段飛ばしに、徐々に速度を上げて最後にはほぼ三段飛ばしの勢いで里へと下る。
 雨脚は弱まることを知らず、ゆっくりとだが確実に水量を増しつつあった。
 こんな天候は自分が予測した雲に無かったと、闇色に染まる山の輪郭を仰ぎ見た雲雀は唐突に湧き上がった焦燥感に駆られた。不安が胸の中で大きなうねりを作り出し、彼を飲み込もうとしている。風が吹いて横っ面を叩いた雨の激しさに顔を顰め、彼は冷たい空気に熱い息を吐き出した。
「どこだ」
 一刻も早く綱吉を見つけ出さなければ。何かが狂い、歪み出している。正体不明の闇が背後からひたひたと迫っている感覚に抗おうと、彼は小声で呟き明りすらない道に視線を流した。
 走り出す、一直線に里の中心部を目指して。
 けれどずぶ濡れの彼を待っていたのは、誰一人として綱吉を見かけていないという冷酷な現実だった。
 まず出向いたのは里のほぼ中心にあり、また村役も務めている笹川の屋敷。
 閉ざされていた門を荒々しく叩いて家人を呼び出した雲雀だったが、応対に出た了平は来ていない、とただそれだけを告げて首を横に振る。騒ぎを聞きつけて顔を出した京子も全く同じ反応だった。
 濡れ鼠状態に必死の形相をしていた彼にふたりは驚かされて、それだけで綱吉に何か大変なことがあったのだと気づかされる。良平が気を利かせて蓑を貸してやるから、と雨宿りを勧めてきたが、雲雀は時間が惜しいと断り即座に踵を返して次の地点へと向かった。
 だがその次に訪れた三浦の家でも、ハルは綱吉とは会っていないと言うし、それ以外に聞いて回った家々でも答えは同じ。
 綱吉が好んで立ち寄るとは考え難い場所も、思いつく限り探し回ってみたものの、彼が通り過ぎた形跡はどこからも見つけ出せなかった。
 完全に行き詰ってしまい、心当たりを一周し終えた雲雀は震える両膝に手を置いて、乱れきった呼吸を整えた。
 顔を上げればそこは、村はずれに設けられた稲荷神社の小さな社だ。
 並盛神社とは異なり、半畳ほどの小さな社に小ぶりの赤い鳥居。敷地は他と区切られておらず、本当に村の片隅にぽつんと存在している。社の手前左右には石造りの狐の像が濡れて黒く濁った赤い涎掛けを結ばれて鎮座しており、色の無い瞳がおぼろげに雲雀を見据えていた。
 雲雀は背筋を伸ばすと顎を伝った水滴を腕で拭う。だがその腕自体もとっくにびしょ濡れであまり意味が無くて、肌に張り付く着物の気持ち悪さに胸焼けを起こした彼は、垂れ落ちる前髪を鬱陶しげに掻き上げて後ろへと流した。
 この社がいつ、誰の手によってここに作られたのかは実は解らなかったりする。随分昔からあるようだが、逸話などは何も伝わっていないのが現状だ。社の造り自体はしっかりしており、規模は小さいがなかなか立派なもの。両脇に侍する狐像も、素人が彫ったものとは考え難い出来の良さをしている。
 雲雀は首を振り、白く濁った息を吐き出してから足首にこびり付いていた泥を跳ね飛ばした。折角掻き上げたばかりなのにまた落ちてきた前髪を邪魔に扱いながら、彼は数歩の距離を詰めて社へと近づこうとした。
 だが黒い気配を直前で感じ取り、雲雀は出し掛けた右足を慌てて引っ込めた。
 ばさり、と雨を払い風を打つ音が頭上に轟く。
 この距離で、どうして気づけなかったのか。自分の迂闊さを呪いそうになった雲雀が、素早く身構えて両腕を袖の中へと差し入れた。
 しかし湿っている所為で布同士が張り付いており、指はなかなか奥へ進まない。それに雨で体が冷やされて指先も悴んでおり、感覚自体も遠くなってしまっていることを思い出して雲雀は立て続けに心の中で悪態をついた。
 酒臭さが雨に混じる。
「こーんな雨ん中、な~にやってんだ?」
 人を嘲笑って憚らない不愉快な口調が聞こえて、雲雀は露骨に顔を歪めると額を打つ雨を無視して斜め頭上に目を向けた。
 大粒の雨がひっきりなしに地面を、雲雀の身体を叩く。だが桧皮葺の屋根を持つ稲荷の社上だけはぽっかりと雲の隙間が出来ているようで、不自然なまでに雨が途切れていた。
 不機嫌だと見た瞬間に分かる顔をした雲雀に、その屋根の上に座った人物はからからと愉快そうに声を立てて笑う。右手には土色をした酒瓶が握られていて、彼はそれを高く掲げ持つと逆さにして先端を口に押し込んだ。
 雨に濁っていた酒の臭いが強まり、益々露骨に表情を歪めた雲雀は、相手をしてやる義理もないと心を決めて彼に背を向けようとした。
 その彼を、屋根上の男は高下駄を履いた足をひとつ回して高笑う。
「愛想尽かされたんじゃねーの?」
「――――!」
 ぐさりと音を立てて雲雀の胸に突き刺さった言葉に、男はまた笑って酒を煽った。咄嗟に足を止めて肩越しに振り返ってしまった雲雀は、実に悔しげに奥歯を噛み締めると膝の高さまで持ち上げた右足で強く地面を蹴り、男をきつく睨みつけた。
 だが既に酔いも佳境に差し掛かっているらしい男は、ひっく、としゃっくりをして空っぽになったらしい酒瓶を屋根の上で揺らすだけ。
「勝手なことを!」
「おーおー、怒るって事は、図星?」
「黙れ!」
 冷静さを失ってただ怒鳴り声を張り上げるだけの雲雀を指差し、男は実に楽しげに笑い続けた。雲雀がいかに鬼の形相を作り出そうと男には一切通用せず、逆に彼を愉快な気分にさせてしまう。荒々しく息を吐いて肩を上下させた雲雀は、その後数分経ってから漸く、自分が良いように男にあしらわれている状況に思い至り、疲れた顔で唇を拭った。
 落ち着きが戻って来て、踏みしめた足元の泥を爪先で均す。
 雨は止みそうにない、仰ぎ見た空は相変わらず黒々とした水底を思わせる。
 自分のものではない記憶がそれに重なり、雲雀は我知らず右目を手で覆い隠していた。
 静かになった雲雀を見下ろし、稲荷を尻に敷いた男が寄せた膝に肘を置いて頬杖をついた。
「落ち着いたかー?」
 赤ら顔の男に言われ、大人しく頷くのも癪に障った雲雀は返事もせずに矢張り男を睨み返す。だが瞳に戻った力強さは伝わったようで、彼は胡坐を崩した体勢のまま空っぽの酒瓶を背中へと引っ込めた。
「焦ってちゃ、見付かるもんもみつからねーぜ?」
「……貴様か」
「違うちがう、俺じゃねーって」
「どうだか」
 全てを見透かし、見通した物言いをされて、雲雀は声を低くし男に凄んだ。
 だが彼は雲雀の疑いを手で追い払い、立てた人差し指で自分のこめかみを数回小突いた。
「魔縁の言うことなど、あてにもならない」
「言うなよー、落ち込むなぁ」
 実際その通りなんだがな、と雲雀の言葉を否定しつつも肯定した男は、脂性の髪をゆっくりと掻き上げてその手を横に振る。こいつの上にだけ雨が降りかからないのは不公平だ、と心の中で思っていると、別のところから頭に声が響いて、雲雀は黙っていろと内側で蠢くものを無理矢理奥底に押し返した。
 一瞬黙り込んで難しい顔をした雲雀に目を眇め、酔っ払っているのかいないのか判別がつきにくい顔をした男が膝を叩く。
「けど、ま、今回は俺じゃないのは本当。俺だったらもっと上品にやるぜ」
「やったら咬み殺すけど」
 即座に険のある瞳で言い返すと、屋根上の男は大仰に肩を竦めてくれた。
 だがこれで、可能性がまたひとつ減った。綱吉がこの男に好んでついていくとは思えないが、何か別の手段で攫ったとしても、ならばわざわざ今こうして雲雀の前に姿を現すのはおかしい。
 ただ、何かを知っているのはその口ぶりから間違いないだろう。
 疑いを強めた雲雀の視線を受け、男は無精髭の顎を撫でながら目を逸らす。わざと焦らしているのが感じられて、雲雀は自分の気性の荒さと気の短さを思い出させてやるべく、左手を袖口に差し込んでそこに潜められている拐を握り締めた。
 ざわりと周辺の空気が膨らむのが分かり、男は慌てて手を広げて抵抗の意思がない事を表明した。
「待てって。今のお前は俺とやりあっても得になること、なにひとつ無いんだぜ?」
「だったら、さっさと知っている事を言ってくれる?」
 引き抜いた拐の切っ先を男に向けて突き出し、雲雀は淡々とした口調で追求する。すると男は心底呆れた顔をして頭を掻き毟り、もう一度自分のこめかみ付近を指で小突いた。
 頭を使え、そういう意味らしい。
 けれど即座には何も思い浮かばない。眉間に深く皺を寄せた雲雀に馬鹿の烙印を押した男は、彼が怒るのも無視して伸ばしていた指先を天に差し向けた。くるりと回すと、小さなつむじ風が渦を巻いて手元に出現する。
「灯台下暗し、って知ってるか?」
 雲雀は顔をあげた。
 つむじ風の向こうに、意地悪く口元を綻ばせた男がいる。
「……まさか?」
 そんなはずは無い、と真っ先に消した可能性が今になって雲雀の中に舞い戻ってくる。
 言われて見れば確かに、彼はどこか、変だった。
 探して欲しくないようだった、探す必要は無いと言い張っていた。けれどあの男が、こんな暴挙に出るはずがない。
 だって彼は自分と、綱吉と、幼い頃からずっと一緒にいて、友人で、それこそ心の底から信頼していて、お互いに何でも分かり合える存在なのに。
 その彼が、自分を騙した?
「そんなわけは」
 ない、と言い切れない声が震えている。
 雨を乱す風の向こう側で、漆黒の羽根を広げた男が魔性に満ちた笑みを浮かべて雲雀を惑わす。彼が言う言葉が真実なのか否か、決めるのは雲雀自身だ。信じるも信じないも自由、彼はただ無限に積み重ねられた数多の知識から、たったひとつの水滴を彼の中に落としただけ。
 そこから生じる波紋も、荒波も、どう扱い、どう始末するかは雲雀次第。
「俺は別に、どっちでもいいんだぜ」
 高下駄を掻き鳴らし、男が屋根の上で立ちあがる。遠ざかった男の視線を今一度正面から受け止め、雲雀は先入観を捨てようと首を横へ二度、強く振った。
 右目の奥が疼き、身体の内側から引き裂かれそうな痛みに眩暈がする。つむじ風はどんどんと大きくなり、最初は掌の上に浮かぶだけだったものが男を包み込み、社を取り巻き、雲雀の立つ位置までも巻き込んで周辺の樹木を次々と薙ぎ倒した。
 払われた雨粒が霧状に広がり、視界を塞ぐ。煽られて顔を上げていられなくなった雲雀の耳に、男の声がいつまでも響き渡った。
 そして唐突に、盥の水をひっくり返したような雨が彼の頭上に戻ってくる。
「うっ」
 上から押し潰してくる水の勢いに呻いて、雲雀はいつの間にか屋根上から姿を消した男に、次会った時は覚えていろ、と心の中で雑言を吐き出した。
「じゃーなー、成り損ない坊や」
 誰がなりそこないだ、と硬く握った拳で空を叩き、口の中に入った水を唾と一緒に吐いて雲雀はびっしょりと顔に張り付いた黒髪を引っ掻き回した。
 濡れた唇に指を押し当てて瞑目した彼は、余計な先入観を捨て、事実だけを拾い上げてもう一度冷静に事を振り返る。
 綱吉は何処へ消えたのか。
 雲雀が最後に彼を確認したのは、鬼の女が投げ放った神木の精霊であるランボと衝突し、池に落ちた時だ。ずぶ濡れになった彼は綱吉の縋るような視線を無視し、離れへと戻って着替えた。リボーンと雑談を交わし、色々と疲れてしまったのでそのまま昼寝に興じた。起きてからは結界の修復作業に入り、頃合よく切り上げて母屋に出向いたところで、初めて綱吉の不在を聞かされた。
 その間、綱吉は全く雲雀の前に姿を現していない。門を通って外に出て行ったのだとしたら、雲雀が起き出すより前の事になる。
 山本の言葉が正しければ、気を失った獄寺を部屋に運び入れた後、綱吉は雲雀の部屋を訪れているはずだ。だが雲雀は彼を見ていない。眠っている間に顔を覗きに来たなら分かるが、だとしても気配くらいは残っていそうだし、誰かが近づいて来たなら雲雀も目を覚ましているだろう。
 意識を取り戻した獄寺もまた、綱吉を見ていないという。山本も、母屋を出て行った後の綱吉を確認していない。
 誰かが嘘をついている。
「…………」
 口元を手で覆い隠し、眼光を鋭くした雲雀は一秒後、拐を仕舞うと身体ごと社に背を向けて走り出した。
 夜の雨の中、足場が悪いのも全く意に介さずに彼は息を弾ませ、来た道を戻っていく。
 一歩進むたびに右目が痛み、体中に激痛が走り、高めた気持ちが萎んでいきそうになる。けれど彼は奥歯を噛み締め、必死の形相で己の中にいる敵を封じ込めると、嘲笑う声を無視して石段を駆け上った。
 そうして彼は目撃する。
 門を抜けた先、広い庭。
 雨戸を閉めた屋敷の前に佇むひとつの影を。
 黒光りする木刀を片手に、呼吸を乱している雲雀に優しく微笑みかける姿を。
「遅かったな」
 にこりと屈託なく笑う様は、これまでの彼となんら変わっていないのに。
「……った」
 雲雀の中で怒りが増幅していく、赤黒い炎が己自身を焼き尽くさんばかりに勇んで、雨は冷たいのに苦にもせず雲雀は目の前に立つ背高の青年を睨みつけた。
「綱吉を何処へやった!」
 ぱきり、と握り締められた雲雀の拳の上で、金色の鎖がまたひとつ、爆ぜる。
「教えると思うか?」
 静かに告げられたことば。出来るなら嘘であって欲しいとの願いは儚く砕け散り、雨に流され闇に沈んだ。
 山本は普段と同じ優しい笑顔で、ゆっくりと雲雀に向かって木刀を構えた。