in a weak Moment

 外から帰って来た時、屋根の上で変なものが揺れているのが見て取れた。
 全形は分からなかったが、木の葉のような形をしたものがふたつ、横並びになって同じ動きをしている。昨日まではあんなものは無かったはずで、だから何だろうか、と気になってセイロンは首を傾げた。
 けれど屋根の上というのもあり、ジャンプしても早々手が届く位置ではない。きっと何処かから飛んできたゴミが引っかかったのだろう、と彼は直ぐに意識の外へ追い出し、屋内に入るべく食堂の出入り口も兼ねているドアを押し開けようとした。
 だが、ガチっ、という閂が壁とドアの間でつっかえ棒をしている感触と音が掌を通じて彼の耳に響いて、彼は流麗な眉を寄せて視線の位置を取っ手から少し上へとずらした。ドアの正面、何故先にそちらに気づかなかったのかと自分で自分を馬鹿にしたくなる、彼のほぼ目線の高さに、「Closed」と書かれた木製の札が出ていた。
 セイロンは益々顔を顰め、太陽の高さを確かめようと背後を振り返った。けれど分厚い雲に覆われた空は地表に降り注ぐ太陽光を遮り、彼が求めるものを隠してしまっている。そういえばこの三日ほど、雨が降りそうで降らない曇り空ばかりが続いていたな、と別段深く気にした事もない記憶を手繰り寄せ、彼はふむ、とひとつ頷いた。
 まだこの時間は昼食時に引っかかっており、普段なら客も減り始めているものの、何人かは長々と居座っている場合が多い。それなのに今日は閉店とは、と思ったのだけれど、よくよく考えてみれば昨日もこの時間既に閉店作業に取り掛かっていた。
 町の中心部から外れている立地条件が災いして、快晴の日ならばまだしも、雨が降っている日は集客がどうしても落ちてしまうのだ。曇り空も、まだ明るさがあるのならば救いがあるものの、昨日今日の今にも泣き出しそうな鉛色の雲が広がっている時は、人は心理的にもどうしても外出を控えがちになる。
 折角おなか一杯になっても、帰り道が土砂降りだったなら哀しいではないか。そういう気持ちが働くから、客足は鈍り、結果、早めの閉店を余儀なくされてしまう。
「難儀なものだ」
 愛用の扇子を唇に押し当て、ひっそりと呟きセイロンは嘆息した。
 兎も角正面の玄関が閉まっている以上、別の入り口を探さなければならない。勝手口ならば開いているだろう、と予測を立てた彼は即座に踵を返し、それからふと何かに思い至って上を向いた。
 軒が邪魔をして、セイロンが探そうとしていたものは彼の視界に現れない。扇子を持っていた腕を下ろした彼は、何を思ったのかまた来たばかりの道を戻って軒下に立つと、背伸びをして右手を真っ直ぐ上に伸ばした。筋が攣りそうなくらいに指も伸ばしてみるが、中指でさえ屋根の端には届かない。
「矢張り駄目か」
 踵を揃えて地面に下ろした彼は、いったい何をやっているのだろうな、と自分の今の行動を顧みて苦笑を浮かべ、今度こそ裏口に回るべく歩き出した。
 裏庭に並べられた物干し竿には何も吊るされておらず、それが余計に景色を閑散とさせている。緑は鮮やかで花も咲き誇っているのに、空の重さが地表をも押し潰しているのか、植物もどこか息苦しそうだ。
 中途半端過ぎる天気が続いていると、思い切り外へ飛び出すのも気が引けて滅入ってしまう。セイロンも気晴らしに街を散策してくるつもりだったのに、風の中に雨の気配が僅かに混じっているのを感じて早めに切り上げてきてしまったクチだ。
 手土産のひとつでも持って帰ってやろうと思っていたのに、雲の流れに気を取られてすっかり忘れていた。扇子しか持っていない両手を交互に見やり、肩を竦めた彼は案の定施錠されていなかった勝手口を開けて素早く屋内に身を躍らせた。
 締め切られた空間は少し湿度があがっているようで、後ろ手にドアを閉めた彼は薄暗い食堂を真っ先に視界に収め、やれやれと首を横へ振る。
 明りひとつ灯っておらず、また外からの光も板戸で遮断してしまっているので内部まで届かない。足元不如意とまではいかないものの、ひっそりと静まり返っている広いばかりの空間は、少々不気味だ。
 営業を終了してからどれくらいの時間が過ぎているのだろう、噎せるような人いきれは遠くなり、自分の足音しか跳ね返さない壁や天井をぐるりと見回したセイロンは、見当たらない背中を捜して視線を端から端まで二往復させた。
 どうやら今日は、よっぽど営業成績も悪かったらしい。歩を進めて無人となったキッチン内部に立ち入った彼は、最初に目に付いた深底の鍋の蓋を持ち上げ、苦笑を零す。
 朝から丹精込めて下ごしらえをして用意したスープが、三分の一ほど残ってしまっている。湯気も消え、香りも薄い。すっかり冷めてしまっているのが分かって、これではあの子が拗ねるのも無理無いこと。
 彼は料理にたっぷり愛情を込めている。作るのだけが楽しいのではなく、多くの人に食べて喜んでもらうのが嬉しいのだ、彼は。だから客足が鈍り、折角作ったものが無駄になることを嫌がる。美味しく食べて貰う為に用意したものがゴミ箱に捨てられる、それは彼にとって苦痛以外の何者でもない。
「今日の夕食は、これだな」
 暖めなおしたところで落ちた風味は戻らないが、まったく食べられないわけではない。蓋を鍋に戻したセイロンは、同じくナプキンを広げて被せられている幾つかのパッドを視界に収め、額に軽く爪を立てて筋を書いた。後ろに流していた前髪のうち、何本か前に垂れ下がっていたものを拾って指に絡ませ、改めてキッチン内を見回してから表へと出る。
 人気は完全に薄れ、随分前にここの主が台所を去ったのだと容易に知れた。水場には汚れ物が山積みにされていて、片付け作業もそこそこに出て行ったらしい。
 行き先は、と考えて顎に曲げた人差し指を置いた彼は、ふむ、と上唇を舐めて瞳を上向ける。
 屋根の上に見かけた、木の葉のような形をしたもの。
「実に分かり易い」
 大勢いて騒がしいばかりだった宿も、ひとりまたひとりと住人は減り、すっかり寂れてしまった。今でもたまにあの頃の事を思い出すのか、ひとりきりで宿にいると気が滅入るのだと彼は言っていた。
 振り返る過去の思い出は、時を経ると共に色褪せ、かえって輝きが増すのかもしれない。特に今という時間に重みが足りないと、充実していた頃がただ懐かしくて、あの頃の方が楽しかった、と今の自分を後悔する場合も増える。
 後ろばかり見ていても仕方がないのは本人だってよく分かっているだろう、けれど分かっていても心が追いつかない時だってある。セイロンは閉じた扇子で自分の肩を叩き、食堂を出た。
 固い足音を床板に響かせて廊下を進む。もう目を閉じても目的地まで一直線に進めてしまえそうなくらい、この風景も慣れてしまった。それを感慨深く思いながら階段を登り、廊下の突き当たりに設けられた斜め上を向いている明かり取りの窓の前で立ち止まる。
 思った通り、そこだけ窓が開いていた。生温い空気がねっとりと窓枠に絡んで屋内に潜り込もうとしている、それを手で払い落とし、彼は扇子を帯に挿して人一人が通り抜けるのもやっとの隙間に手を掛けた。
 窓のすぐ下には木箱がふたつほど積み上げられている。中身は掃除用具などだが、この木箱の使い道はもっと他にあるのだ。
 彼は爪先で箱の角を踏み、片方を自分の側へ転がす。そして残るもうひとつに反対の足を載せ、全体重をそちらへ移動させて窓の隙間から身を乗り出した。逆手に持っていた窓枠を手放し、両方揃えて下向きに突っ張らせる。鼻筋を撫でた空気は湿っており、西の空に視線を移せば分厚い雲がゆっくりとこちらに進行している様が見て取れた。
 降り出しそうだ、だがまだ時間はある。
 セイロンは自分の手元に目線を戻し、木箱を転がした方の足を胸元に引き寄せて両腕の間に膝を挟ませた。よっ、と軽快な音頭ひとつで身体を浮かせ、素早く彼は腰から上を屋根の上に躍らせた。引っ張りだした足の裏で窓枠を踏みしめ、滑り落ちないように注意しながら傾斜している足場に降り立つ。
 視界が一気に四方に開け、なだらかな坂道の向こう側に広がる町並みが目の前に広がった。絶景かな、と額に手を置いてぐるりと気持ちよさげに背筋を伸ばした彼は、振り返る動きの最中で少し離れた位置に寝転がる存在を見出す。
 靴の裏を下向けて、屋根の傾きに背中を沿わせて、頭の下に両腕を挟んで組んでいる。目を閉じているが眠ってはいないのだろう、それを証拠に所在無げな足が左右に揺れている。
「店主」
 呼びかけるが返事は無い。仕方なく一歩ずつ足元を確かめながら先へ進み、窓辺から離れたセイロンはライの直ぐ傍まで近づいて腰を下ろした。右足を伸ばし、屋根瓦の縁に引っ掛ける。左足は膝を立てて、胸元に。
 少し風が出て来たようで、視界の端をチラチラと己の赤髪が掠めていく。足元遥かで枝を揺らす木々の緑に見入っていたら、やっとライは薄目を開け、首を傾けてセイロンを視界に入れた。
 何かを言おうとしたのか、閉じていた唇が微かに動く。けれど息をひとつ吐いただけで、彼はまた腕の在り処を変えてそっぽを向いてしまった。
「もうじき降り始めるぞ」
「……降って来たら戻る」
 西から押し寄せてくる雲の速度は、少しずつ増している。彼方の丘陵は色合いも濃くなり、湿っぽい風がふたりの首筋を舐めていった。
 だるそうに言い放ったライは、瞼を閉じて唾でも飲んだのだろう、幼い喉仏を上下に動かした。投げ出している足を交互に揺らし、眠るでもなく、深く考え事をするでもなく、ただじっとしている。セイロンは肩を竦め、帯から扇子を抜き取って顔の前で広げた。煽ると前髪が浮き上がる。
「何を拗ねておる」
「べつに」
 そんなんじゃない、と尻すぼみな声で言い返したライは、瞬きをして暗雲立ちこめる空を睨んだ。尖らせた唇を舐め、後頭部に敷いていた右腕を引き抜く。広げた指先を顔の上に晒して、彼は見えない光を遮った。
 セイロンが肩を揺らし、苦笑いを零す。じろりとアメジスト色の瞳が彼を見据えて、今度はセイロンが彼の視線を手で遮った。
 掌でライの額から鼻筋に掛けて覆い隠す。彼は最初、嫌がって首を振りつつ自分の手で引き剥がそうとしたが、肌が触れ合った段階で彼は肘から力を抜き、重くないのかセイロンの手に自分の手を重ね合わせた。
 浅い呼吸を繰り返し、唇を開閉させて最後に長い息をひとつ吐き出す。
「店主?」
「ん……」
 抑えつけぬようにしながらも、浮かせるには自分が押さえられているので力加減が難しい。訝しげなセイロンの声に、ライは相槌にもならない呟きを漏らした。彼の吐いた息が手首を擽る、吹き抜ける風よりも暖かいそれは彼の肌を粟立たせた。
 落ち込みもするし、哀しくもなるだろう、生きているのだから。同じ事を日々繰り返していても、一日として同じ日は無い。失敗することもあれば、思いがけず上手くいくこともある、雨の日もある、晴れの日だって当然。
 客足が伸び悩むのは確かに問題だが、明日になればまた状況は変わるだろう。逐一落ち込んでもいられない、そういう暗い雰囲気は彼には似合わない。
 ライの好きなようにさせながら、セイロンは口元を緩めた。触れ合ったところから互いの熱が相手に逃げていくのが分かって、鼓動も伝わってくる。分離していた血管がひとつに繋がったみたいで、暖かい。
「雨が降るぞ」
「まだ降らない」
「そうか?」
「うん」
 雨雲の範囲は広まり、気配は色濃さを増している。だが見てもいないライは妙に自信満々に断言し、セイロンの手を離そうとしない。視線を遮り、顔を隠し、表情を読み取らせまいとして。
 けれど離れて行ってしまうのを拒んでいる。
「明日は我も店を手伝おう」
「いいよ別に」
「そうか?」
 笑みを零しながら手伝いを買って出ると、拗ねた声で突っぱねられてしまった。同情を示されているようで、嫌なのだろう。相変わらず分かり難い性格をしている、と意固地になっている彼に肩を竦め、セイロンは伸ばしていた足を戻した。
 片腕の自由が利かぬまま、腰を浮かせて座る位置を変える。だがやはり少しは掌が浮き上がったようで、広がった視界でライはセイロンの黒と赤が織り交ざった衣服が近づくのを見た。斜め上に瞳を動かして彼の顔を捜す、だがそれより早くセイロンはライに対して直角に位置取り、頭を垂らした。
 勢いは極力殺したつもりだったが、それでもぼすっと落ちた彼の頭で腹部を圧迫され、ライの肩から上と腰から下が陸に揚げられた魚の如く跳ね上がった。
「ぐあっ」
「ああ。すまん」
 力加減が上手くいかなかったようだ、と人の腹を枕にしたセイロンが、そのまま身体を横倒しにして笑う。圧迫感は更に増して、息を喉に詰めたライは青銀の髪を揺らし奥歯を噛み締めて胸元に埋もれている彼を睨んだ。
 セイロンの片手は、まだライの頭の上だ。衝撃を受けた時にライ自身の手は横に飛び去って行って、もう彼の動きを封じる力はかけられていない。だから遠慮なく肘を伸ばした彼は、ふわふわと綿菓子のように膨らんでいる彼の前髪を柔らかく梳き、脇へ流していった。
 擽られる感触に顔を顰め、ライは右目だけを眇めて落ちては消える影を視界から追い出す。窄めた唇を最後に指で押して、セイロンは腕を引っ込めた。頭はまだ、ライの腹筋に載っている。
「重い」
「そうか?」
「退けって」
「まだ雨は降らぬよ」
 じたばたと足を動かしてどうにかセイロンを退かそうとするライだが、そうはさせないとセイロンも抵抗するので思うようにならない。そのうちになんだか真面目にやっているのも馬鹿らしく思えてきて、深呼吸をした彼は急に噴き出した。
 一度笑い始めると、後は堰を切ったように次から次へと笑いがこみ上げてくる。呼吸が苦しくて喉が上擦り、勝手に涙まで浮かんできて、それでも笑いが止まらない。ひーひーと息も絶え絶えに必死で呼吸を繰り返し、吸った酸素は全て笑い声となって吐き出される。
 気がつけばセイロンは身体を起こしていたが、いつ彼が離れたのかも分からなかった。涙で滲んだ世界に彼の顔を見つける、穏やかに微笑む姿にライは目を細めた。
 手を伸ばし、頬に触れる。柔らかな肌が指先を滑って、顎を外れて落ちそうになったところで手首を掴まれた。
「わっ」
 そのまま力任せに引き起こされる。
「セイロン?」
「なんだ」
「あ、いや……」
 勢い余って今度は自分が座っている彼の胸元に頭を埋める、跳ね返ろうとした体は背中に回された腕で封じ込められた。視線が泳ぎ、布の海を漂う。耳朶を打った心音の力強さにどきりとして、しどろもどろに彼を呼んだ。けれど何を言おうとしたのか自分でも分からず、答えられなくてライは言葉を詰まらせる。
 背中を撫でる手は優しい。
 行き場に困った両手が湿度を上昇させた空気をかき回す、ライの鼻腔にも雨の匂いが流れ込んできた。けれど喉は渇いていて、幾度も小分けにして唾を飲みこみ、彼は仕方なく手首を内向きに曲げてセイロンの上着を掴んだ。
 上下運動を繰り返す胸が右の頬に触れている。セイロンの吐いた息が襟足を擽り、彼が前傾姿勢で自分を抱き締めているのだと分かった。
 こんな風に抱き合うのは未だに慣れないけれど、ひとりでいるよりもずっと安心できて、だから涙が出そうだった。
「あの、さ。セイロン?」
「なんだ?」
「雨……降りそう」
「まだ降らぬよ」
 もごもごと口澱みながら、遠まわしに離してくれるよう懇願するが聞き入れられない。幾分笑いを含んだ彼の反論に、ライはむぅ、と頬を膨らませて握った彼の上着に爪を立てた。
 皺だらけの服に新しい皺が刻まれる、引っ掻かれたのだと遠い感触を受け止めた彼は肩を揺らして大いに笑った。
「明日には晴れよう。そうすれば、また客も戻る」
「……だと、いいんだけど」
 仲間がひとり、またひとりと本来あるべき場所に戻っていった宿。そう、此処は宿。
 一宿一飯の塒を提供する地、決して此処に定住する者はあってはならない。ただ平素とは少しばかり違うもてなしを、普段とは違う場所を提供するだけの。
 そのうち彼もまた旅立つ、己がこの世界にやって来た目的を果たすために。それがいつになるのか、まだライにもセイロンにも解らないけれど。
 遠退いた皆の足、ルシアンは軍学校へ入学し、リシェルも毎日勉強漬けで自由になる時間が限られてしまった。みんな少しずつ、あの頃から変わっていく。ライもまた、例外ではない。
 この腕がいつまで自分を掴んでいてくれるか不安で、同じように毎日店に食べに来てくれていた人たちが、数日顔を見せてくれないと心配になる。
 何かあっただろうか、病気や怪我でもしているのか。それとも。
 自分の料理に飽きてしまったか。
 曇り空の所為もあるのだろう、悪く考え始めるとどんどん意気消沈して益々落ち込んでしまう。ライだってこの辺鄙な場所で営業をして長いのだから、天気ひとつでも用意に客の数が変動してしまうことくらい分かっている。それでも、だ。上手くいかないときは何をやっても巧くいかず、空回りばかりが増えていく。
 空回りした気合は行き場を失い、足元に沈殿して膿になる。自暴自棄にならないだけまだ救いはあるが、浮上するのは少し時間がかかりそうだ。
 セイロンはライを胸に押し込んだまま、屋根の上に鎮座する分厚い雲を見上げた。もういつ降り出してもおかしくない顔色をしている、こんなものが二日も頭の上にあったのだ、気持ちが落ち込むのも致し方ない。
 よしよし、とライの頭をそっと撫でる。彼は子供扱いされるのを嫌がって額を浮かせてセイロンの胸に頭突きを繰り出した。背中が後ろへと反れ、屋根から滑り落ちそうになる。
 もっともそうはならず、しっかりとライの存在を確保した彼は彼の柔らかな髪に鼻先を押し付け、水の気配に紛れる彼特有の匂いに喉を鳴らした。色々な料理の匂いが混ざり合っているが、悪くない。おいしそうだ、と不覚にも思ったことが声に出てしまった。
 身動ぎしたライが、意味を勘違いして顔をあげる。狭い隙間から首を伸ばしているのでどうしても上目遣いで、前髪の隙間から覗くアメジスト色は不安にゆれていた。
「俺の料理、変になってたりしないよな」
「ライ?」
「料理の腕が落ちたとか、そういう事ないよな?」
 握り締めた上着を下へ引っ張り、反して背筋を伸ばして顔を寄せて、ライが必死の顔でセイロンに問う。その切羽詰った声に面くらい、セイロンは一瞬言葉に詰まって返事が遅れた。
 その一瞬の沈黙で、ライもまた泣き出しそうな顔を作り出す。
「セイロン」
 縋る声に、自分の発言をライがどう受け取ったのか悟った彼は、やや引き攣った笑みを浮かべ、宥めるべく彼の背中と頭を同時に軽く叩く。落ち着け、と耳元で囁いてから同じ場所に軽く口付けを落とした。
 触れられた感覚は一瞬だったが、思いの外大きく耳の奥に響いた吸われる音にライは驚き、瞬時に顔を赤くして寄りかかった胸を乱暴に叩いた。
 こんな時にそんな事をするな、と矢張りまだ慣れない行為に心臓の具合を悪くさせたライがくぐもった声で怒鳴る。馬鹿正直すぎる反応が楽しくて、セイロンは此処が斜め向いている屋根の上だというのも忘れて、ふんぞり返りながら声も高らかに笑った。
 バランスが崩れ、今度こそ危うくふたりして滑り落ちそうになった。
「おっと」
「わわっ」
 セイロンが足を横に伸ばして屋根瓦に引っ掛け、ライを庇いながら踏ん張る。突っ張らせた腕も関節が悲鳴をあげるのを無視してつっかえ棒に使い、数十センチばかり沈んだところで動きは止まった。恐怖心から彼に遠慮なくしがみついていたライは、二秒後顔を上げた先で彼と視線をぶつけ合って、咄嗟に彼を突き飛ばして飛び退いた。
 折角堪えたのに、ごん、と後頭部を屋根にヒットさせたセイロンが、仰向けの状態で屋根を滑り落ちていく。
「うわぁ!」
「ライ……」
 慌てたのはライの方で、大急ぎで立ち上がって彼を追いかける。だが腕の力で滑力を相殺させたセイロンは既に止まっていて、気づいた時にはもう彼を追い越していた。
 ライの右足が宙で空振りする。転落寸前で襟首を後ろから捕まれ乱暴に引っ張り揚げられたライは、一瞬だけだったが確かに空を飛んだ。
 心臓がバクバク音を立てており、吐き出してしまいそうな勢いでライはセイロンにしがみつく。折角逃げたというのに結局またこの体勢に逆戻りで、セイロンもまたしっかりと、今度は離すものかとしっかり抱き締めた。
 息が出来ないほどに強く、背中に回した腕に力を込められる。
「セイロン」
「ああ、すまん」
 最初は良かったけれど段々苦しくなってきて、ライは足掻いた指で捕まえた布を引っ張り、彼の注意を自分に向けるよう促した。咄嗟に顔を上げたセイロンが、若干申し訳なさそうに笑んで腕の力を緩める。けれど完全には放してもらえず、自分の身の置き場に困ってライは赤い顔を隠し俯いた。
 肩から力を抜くと自然と上半身は前に傾いて、セイロンの胸元に額が落ちる。
 彼は少し汗臭く、それから漢方薬の匂いがほんの少し体臭に馴染んで混じっていた。最初は苦くて嫌いだったのに、それもいつの間にか平気になった。今はこの匂いがないと、夜も巧く眠れない。
 くん、と鼻を鳴らして顔を寄せる。
「ライ?」
「ん」
 彼の上着を止めている直垂に指を置き、表面を波立たせてそこに顔を埋めた。目を閉じるともっと近くにセイロンを感じられて、雨の気配にも負けない彼の存在の確かさが嬉しかった。
「猫のようだな」
「うっせぇ」
 戯れに喉を撫でられ、背筋が震える。わざと突っぱねて頬を膨らませると、楽しげに笑った彼が額にキスをくれた。
 ぼっ、と火がついたようにライの顔が赤く染まる。瞬間沸騰した彼の頭を冷やすべく、ではなかろうが、今頃になって雨雲がぽつり、と雫をひとつ地面へ落とした。
 ぽとり、ぽとり、またひとつ。
「降ってきたか」
「あ、やべ。窓開けっ放し」
 自分たちが屋根に登る時に使った窓以外にも、宿泊客のいない部屋も換気の為に窓を開放してあるのだという。大変な状況を思い出した彼はハッと手で開いた口を塞ぎ、ワンテンポ遅れてセイロンが彼を巻き込んで立ち上がる。爪先は最初の一歩から出入り口に使用した窓へ。
 移動中にも段々と雨の勢いは増し、ふたりを濡らす。先ず先にセイロンが屋内に戻って、ライは彼が伸ばした両腕を頼りに宿内部へと戻った。どさっ、と何かが何かにぶつかって落ちる音、それからけたたましい笑い声。閉じられた窓が雨音を隠し、少しの静寂の後走り去る足音が宿に響いた。
 ふたりで歩いた跡が、点々と廊下に刻まれる。
 それはきっと、雨が上がり、空が晴れて空気が乾いても、消えることは無いのだ。

2007/5/26 脱稿