蛇目

 唐突に降りだした雨は、一瞬にしてバケツをひっくり返した時そのものの豪雨へと切り替わった。
 水しぶきで視界は霞み、三歩先さえも見えない状況。地表へと注がれる雨はシャワーなんていう生易しいものではなく、肌を突く痛みは針に刺されているよう。鞄を頭の上に掲げてみたところで一分と持たず、なお悪いことに水溜りを跳ね飛ばした乗用車が派手な飛沫を上げて綱吉を襲った。
 車にぶつかりこそしないが、波立った水溜りは避けられなかった。見事に左半分に泥水を被る、泣きっ面に蜂とはまさしくこの事を言うのだろう。
 お陰で走って家に帰る気力も削がれ、かといって雨の中をぼうっと突っ立っているのも危険極まりない。どこかで雨宿りできる場所を探そうとして、彼は水に煙る世界にうっすら明るい光を見出した。
 コンビニエンスストアだ。水色のマークが高い位置でゆっくりと、こんな天気であるに関わらず回転している。綱吉は救いの神はまだいたのだ、と普段は信じてもいないものに感謝しながら道路を横断し、急ぎ足でガラス張りの店の軒下へと駆け込んだ。
 バシャバシャと一歩進むたびに五月蝿いまでに水音が響き、靴の裏に張り付いた水滴が飛び散る。背後で駆け抜けていく車のエンジン音をやり過ごし、綱吉は勢い余ってガラスに頭をぶつける寸前で右足をつっかえ棒に、ブレーキを掛けて身体を反転させた。
 けれど完全には殺しきれず、肩が分厚いガラス窓にぶつかる。向こう側には振動は響かなかったようで、書籍が並ぶ棚の向こうにいた人物は顔も上げなかった。
 アスファルトに落ちて砕ける水滴があるし、風が吹けば煽られて雨の筋も動きを持つから、完全に雨避けになったとは言い難い空間。けれど他に逃げ込む場所もなく、こんなずぶ濡れのまま店内に入ってもきっと迷惑がられるだけだろうから、綱吉は大人しく鞄を膝に置くとずるずると身を低くしてその場にしゃがみ込んだ。
 濡れた服が肌に張り付き、靴の内側にまで潜り込んだ水が気持ち悪い。下着にまで染みこんでいるのか、冷たいような生温いような感触に顔を顰め、彼は恨めしげに青空から一転、色を急変させた空を睨んだ。
 果たして止んでくれるだろうか、この雨は。
 天気予報では何も言っていなかった、耳を澄ませば雨を掻き分け走る車の音以外に轟くものがある。遠くで雷が鳴り響いており、ぶるっと肩を震わせて身を竦めた綱吉は、雨に冷えた身体を手で揉み前歯をカチカチと鳴らした。
 通り雨にしては降雨量も多く、勢いもある。直ぐに止んでくれるならいいが、軒下から見上げる限り鉛色の空は一面を覆い尽くしていて晴れる気配は皆無だ。
 最悪だ、と心の中で悪態をつく。この場に小石でも転がっていたなら、拾って投げるか立ち上がって蹴り飛ばしていただろう。それくらいに腹立たしい。
 シュン、と風を切る音がして綱吉の顔に影が落ちる。彼が座り込んだそのすぐ左側が自動ドアになっていて、センサーに反応した扉が左右に開いたのだ。傘を閉じた人がすぐ脇に出されていた傘立てに濡れたそれを差込み、店内へ慌しく消えていく。ドアは綱吉が瞬きをしている間に閉ざされて、元の明るさが戻ってきた。
 だが綱吉の中にはいつまでも薄暗い影が残り、やるせなさを煽る。
 いっそあそこにささっている他人の傘を盗んで行ってやろうか、なんて悪い考えが頭を過ぎり、綱吉はそんな自分に驚いて首を振った。馬鹿なことを想像するものじゃない、と悪魔の囁きを追い出すが、誘惑は甘美で、だから溜息が出た。
 財布は持ち歩いていない。持っていたところで、ワンコインで釣りが出るだろうビニル傘さえ買えないだろうが。残り少ない今月、更にスズメの涙しかない残高。早く月が変わって小遣いがもらえないだろうか、と嘆いた記憶は新しい。
「あーああ」
 二度目、盛大に溜息をついて膝の上に重ねた腕に顎を置く。背中を丸めると背骨の尖った部分が窓に擦れ、ぞっとする冷たさに襲われた。慌てて腰を浮かせて距離を作るが、前に出すぎても雨に当たるので距離感が難しい。最初爪先だけを着地させて踵を浮かせていたのだが、それも次第に疲れてきて、綱吉は靴の裏全部をアスファルトに置いた。
 一緒になって視線も沈み、腕の中を滑り落ちた顎の代わりに額が濡れた腕を擦った。
 吐き出す息が白く濁る。寒気がまた急に襲って来て身震いし、奥歯を噛んで声を殺した彼は、狭まった視界でくしゃくしゃになった自分の服と靴、それから空よりもずっと色が黒いタールで固められた足元をぼんやりと見詰めた。
 誰か知り合いでも通り掛かってはくれないだろうか、そんな都合のいいことあるわけないのに期待してしまう。此処はまだ並盛の学区内だから可能性は皆無ではないけれど、放課後も良い時間帯、豪雨の中好んでコンビニエンスストアまで出かける好事者はいない気がする。綱吉だって、自分がその立場に置かれたら大人しく家に引きこもって雨があがるのを待つだろう。
 灰色に濁った壁の向こう側、そこに広がる曇り空は一向に晴れる気配が無く、見る側の気持ちを陰鬱なものに変えてくれる。耳を劈く雷鳴の声は空気を微かに震わせ、肌寒さに身を震わせて綱吉は尚も身体を縮めこませた。
 もしこのまま雨が止まなかったら、どうしようか。
 そんな事はあり得ないと分かっていても、想像して止まらなくなる。
 世界は水に沈み、何もかも波に飲み込まれ、跡形も無く押し流されてしまう。自分も例外ではなく、光に閉ざされた暗く寂しく、冷たい場所に押し込められて一生、永遠に、出られない。
 嫌だ、と震える唇で言葉を紡ごうとしても悴んだ心はその勇気も残しておらず、綱吉はただ下唇をきつく噛み締めて耳を打つ雨の音に身を委ねた。
 ヒュンッ、と。
 彼の耳元でまたひとつ、自動ドアが開く音がする。今度は外からではなく内側から、店内にいた人が用事を済ませて店を出ようとしているのだろう。身動ぎする音が微かに雨に混じって綱吉にも聞こえ、彼もまた肩を揺らし下向くばかりだった視線を斜めに動かした。
 直ぐに立ち去るだろうと思っていた人の気配は、しかしそこから動こうとせず、綱吉は怪訝に眉を潜めて首を左へ傾ける。持ち上げた目線、雨に濡れた路面と店舗との境界線に敷かれた濃緑のマットの上に立つ足がまず見えた。
 マットの色よりももっとくすんで、けれど淡い感じもするスラックス。跳ねた水に濡れて表面の艶が薄れている黒のローファー、地面から少し上の地点で先端を浮かせている透明なビニル傘は開かれもせず、ピンと背筋を伸ばしていた。
 その爪先が心持ち座り込んでいる綱吉の側に向いている気がして、同時に突き刺さるような視線も感じ、綱吉は首を揺らして前髪から滴った雫を脇へ飛ばした。一度腕の中に顔を伏し、鼻の頭に浮いた水滴を手首にこびりつけてからゆっくりと顔を持ち上げる。
 並盛とは違う制服、スラックスと同色の学生服、詰襟。若干短めながら規定の長さにぎりぎり収まる上着と、長めの袖から覗く白い腕。節くれだった指が傘ともうひとつ、白のビニル袋を握っている。眼鏡、店内と外の気温が違いすぎたからか、僅かに曇っていて瞳の色までは解らない。だから余計に読み取り難い表情、それから。
 白い球状の飾りがついた、耳まですっぽりと覆い被さる帽子。
 眼鏡の下、頬骨の辺りに刻まれたタトゥー。
「え……」
 その全貌をひとつの光景として捕捉した後、背景を切り取って人物像だけを抜き取る。彼が誰であるかを認識した瞬間、綱吉は尻餅をついてそのまま右へと後退した。
 だが濡れているアスファルトに、不自然すぎる体勢。思うように距離を作り出すのは難しく、綱吉の踵は何度となく宙を掻いて空回りを繰り返した。
 その間彼は無言で、特に何をするでもなくその場に佇み続ける。傘を広げようとしていた手は、結局目的を果たさずに脇へと垂れ落ちて行った。
 綱吉と彼との距離は、歩数にして大体一歩半から二歩。一秒で埋まってしまうだけの幅しか確保できず、綱吉はせめてもの代わりとばかりに濡れた肩を前に突き出して身体を庇うように姿勢を変えた。
 軒下から突き出た肘に雨が降り注ぎ、乾きかけていた肌に珠の雫をいくつも作り出す。
 彼は小さく溜息をついたようだ。
 警戒を露にする綱吉に最初驚いている様子だった彼も、見下ろしている間に綱吉がどういう経緯で此処にいるのかを大まかに理解したらしい。同情よりは憐憫に近い目で見られ、綱吉は思わずムッと頬を膨らませた。
 綱吉は彼がコンビニエンスストアに入っていくところを見ていないから、彼は綱吉が此処に来るより前から店内にいたのだろう。持っている傘には傷も雫もついていないから、店で購入したばかりのものと思われる。
 彼が、雨が降り出してから店に来たのか、店にいる最中に雨が降りだしたのかまでは解らない。しかし現実に彼は綱吉が背中を向けている店に足を運んでいて、今から帰ろうとしている。新品の傘で雨を避けて、ひとりで。
 知り合いに遭遇しないだろうか、と祈りはしたが、まさか此処で出てくるのが彼とは露とも思わなかった。救いにならない、と気まずげに顔を背けた綱吉の態度に、彼――柿本千種は曇った眼鏡を外し、指で拭ってすぐに掛け直した。
 彼もまた、長い間見下ろしていた綱吉から視線を外し、自分の手元へと向け直す。右手に引っ掛けていただけの傘の柄を握り、尖った先端を斜め上に向けて止め具を外した。軽く左右に揺らせば、折り重なっていた部分が空気を含んで膨らみ、雨を弾き返す。
 バサバサというその羽音にハッとした綱吉が顔を上げ、慌てた様子で振り向いた。だが綱吉の視線を無視した千種は、銀色の傘の中心部を貫く支柱の根元に指を置き、八方に広がる傘の骨の固定をも外そうとしていた。
 ばっ、と開かれた傘が透明な花を咲かせる。スチールの骨組みが店の照明を浴びて一瞬輝いた。もしかしたら雷だったのかもしれない。
 兎も角反射的に瞼を閉じて光を遮った綱吉は、持ち上げた右手を握ってそのまま真横へ振り払った。空気が唸り、雨が断ち切られる。濡れた冷たさに構おうとしない綱吉は、やはり濡れたズボンを気にもせずに片膝を立て、自分で広げたはずの彼との距離を自分から詰めた。
「ちょっと、待てよ!」
「……なに」
 綱吉の声の荒々しさに反比例して、千種の声は面倒くさそうで、冷たい。彼は後ろから出て来た人に押される形で綱吉の側へ一歩寄り、更に距離が詰まる。千種の頭上に掲げられた傘がぽんぽんと雨の雫を弾く音が大きくなって、綱吉は水浸しになっている腕を慌てて引っ込めた。また半歩下がって距離を確保し、腹立たしげに彼を睨みつける。
 ただ相手は、綱吉が何故激昂しているのかが解らないようだ。
「待った。用がないなら、いくよ」
「や、だからちょっと!」
 五秒程度の時間で「待った」と言い切られても困る。ただ、綱吉もつい勢いだけで怒鳴ってしまったようなものだから、彼にどう言おうとして彼を引き止めたのか全く思いつかない。
 単純に、目の前で雨に濡れてみすぼらしくなっている知り合いがいるのに、それを無視してひとりさっさと立ち去ろうとするのはあまりにも冷たいのではないかと、そう言いたかったのだが。
 忘れていた、彼らと綱吉とは、馴れ合いにも満たない非常に薄い関係しか築けていないということに。
 綱吉側から歩み寄ろうとしても、彼らは最初から拒絶を露にしていたではないか。彼らは基本的なところからして、綱吉たちとは大きく違っている。ボンゴレは彼らの後ろ盾になったが、彼らはボンゴレに縋っていない。あくまでも自分たちの主は六道骸であると主張し、憚らず、独自の道を突き進んでいる。
 彼らは綱吉を頼りとしない、それなのに綱吉が此処で一方的に彼に頼るのは、フェアではない。
 目まぐるしく考えが頭の中を駆けずり回り、眩暈を起こしそうになって綱吉は肩から上を左右にぐらつかせた。千種には綱吉がひとり百面相をしているようにしか見えず、両手で頭を抱え込んだ彼にどうしたものか、と二度目の嘆息を吐き出した。
 だがお陰で、綱吉が自分に言いたいことがなんとなく理解できた。千種は左手に持った袋を握り直すと、ほら、と口では言わずに腕を伸ばして綱吉の側へ傘を傾けた。
 注がれていた雨が遮られた綱吉が、蹲ったまま顔だけを持ち上げる。何故か涙目になっていた彼は、思ったよりも近い場所にあった千種に目を丸くした。
「え」
「使えば?」
「いや、え、うわっ。ちょ、ちょっと待って」
 言うと同時に千種は広げたままの傘を手放し、綱吉の上に落とした。空気抵抗と雨の勢いに挟み撃ちされた傘は、手放された時の角度もあって綱吉から向かって右方面に傾きながら落ちてくる。もう少しでひっくり返った状態で地面に落ちるところでなんとか両手を伸ばしキャッチした彼は、その足で店に戻っていこうとする千種の背中に慌てて声をかけた。
 ぴたりと自動ドアが反応する数センチ手前で足を止めた彼は、またしても呼び止められて不機嫌そうだ。
「なに?」
「これ」
 訝しげに眉根を寄せた彼の声に、綱吉も負けじと声を低くして握った傘を千種に突き出す。距離があるのでぶつかりこそしないが、傘の外縁が顔に迫ってきて、千種は身構えつつそれを手で押し返した。
「使えば?」
「俺が使ったら、君のが無くなるじゃないか」
「買って来る」
「それって……」
 恵んでもらった、という事になるのか。一瞬言葉を詰まらせた綱吉は、一秒後ふざけるなと立ち上がって千種に詰め寄った。傘の柄を真正面に突き出し、彼の手に柄を握った拳を押し付ける。だが千種はどこまでも迷惑そうに顔を歪めるばかりで、濡れたガラス越しにも店内にいる店員も、騒々しいものを見る目つきでふたりを観察しているのが分かった。
 突き刺さる鋭い視線に歯軋りし、綱吉はそれでも負けるものかと傘を千種に差し向けた。
「止むまで待つから、いい」
「……止むの?」
 突っぱねて唇を尖らせた綱吉に対し、淡々とした調子を崩さない千種は眼鏡の奥の瞳を上向け、鉛色の空を見上げた。
 雷雲が彼方に立ちこめ、ゴロゴロと不穏な音が周辺に響き渡る。走り抜ける車が残した飛沫が路上に飛び散り、雨の勢いは弱まる気配がない。空一面薄暗く、まだ本来なら日も高く残っている時間帯なのに、もう夜が来てしまったのかと何も知らなければ錯覚してしまえるだろう。
 千種の問いかけに答えられず、綱吉はぐっと息を詰まらせて奥歯を噛んだ。
 それでも、彼に憐憫の情をかけてもらわなければならないほど自分は落ちぶれていないつもりだ。覚悟を決めれば、いつでもこの軒下から飛び出して家まで走り抜けることだって出来る。意志の強さを瞳に込めて更に睨み返せば、やがて千種が諦めたように肩を落として綱吉の拳に広げた手を重ね合わせた。
 その触れ合った、人間同士の熱に綱吉の方が驚いてしまう。肩を強張らせて肘を引き戻しかけたところで、千種が傘の柄に食い込みそうなまでに握り締めている綱吉の手を解こうとしているのだと気づき、綱吉は慌てて自分から指を広げた。
 支えを失った傘が真っ直ぐに下へと落ちていく。柔らかなビニル生地ではなく、傘を形作っている骨組みに頭がぶつかり、髪の毛もそこに絡んでしまった綱吉は、下から掬い上げるようにして傘を握った千種が傘を上向けるのに合わせて背伸びをさせられ、髪の毛を数本抜く羽目に陥った。
 頭皮を引っ張る痛みをそのまま顔に出し、百面相を締めくくった綱吉に千草は怪訝気味に、しかし僅かに驚いたような、笑っているような分かりづらい表情を作った。
「いったぁ……」
 髪の毛が抜けたところを指で探り、撫でる。押せば余計に痛いのも分かるのに、触れずにはいられないのが人間の性か。
 千種はというと、甘茶色をした髪の毛が絡みついている骨格の関節部分に視線をやり、ビニル袋を肘に引っ掛けた手でそれを引き抜いた。
 二本、いや、三本か。はらはらと雨に湿気た空気に流されてあっという間に綱吉の髪の毛は闇に消えうせる。
 大丈夫、といった類の心配する声や、同情を示す言葉は一切かからない。相変わらず無口で冷たい奴だと頭を抱えたまま下からねめつければ、彼は予想外に戸惑った風に顔を顰めていた。
「要らないなら、帰る」
「だから、ちょっと待っててば」
「必要なら、持って行けばいい」
「だから……あのさ」
 傘を間に挟んでの押し問答はさっきの展開そのままで、どう説明したものかと疲れてきていた綱吉は、まだ僅かに痛みが残る髪の毛をガシガシと掻き回しながら肩を落として横へ視線をずらした。
 脇に挟んで持った鞄の底に雫が垂れ、ズボンを濡らす。持ち上げた右足をそのまま地面に戻すと、ぐちゃっと濡れた靴下が水の上で泳いだ。
 ことばにすれば短い一言で済むはずなのに、相手が彼だというだけで非常に言い難くある。どうしよう、と心底困った顔で唇を舐めた綱吉をじっと見据えた千種は、やがて瞳を眇めて顎に指を置き、何か得心するものがあったのか小さく頷いた。
 動かした足が水溜りの端を蹴り、水音が綱吉の耳を打つ。
 彼が顔を上げた時、千種は綱吉から二歩先を悠然と歩き出していた。
「えええ、だからちょっと待ってって!」
「来ないの?」
 軒下で右腕を前に突き出した綱吉を肩越しに振り返り、彼は淡々とした口調で問い返す。
 台詞に合わせて彼は握った傘を少し綱吉側へ傾け、空気を掻き込む仕草を取った。
「え……」
 思わず惚けてしまった綱吉を無視し、千種は再び彼に背中を向ける。肩で傘の軸を数回叩いてビニル面に載った雫を後ろへと落とし、更に後ろを窺い見て。
 目が合った瞬間、綱吉は弾かれたように軒下を飛び出して彼の隣へ駆け込んだ。
 項に雨が降りかかり、直後に途絶える。たった数歩の距離しか移動していないのに心臓が破裂寸前まで速度を上げて血液を全身に送り出し、息を乱した綱吉は肩を激しく上下させて呼吸を整えた。
 綱吉の為に傘の右半分にスペースを作った千種が、少し高い位置でそんな綱吉に呆れている。
「あ、ありがと」
「……べつに」
 鞄を胸に抱え、肩身が狭そうにしながら綱吉が顔を上げて千種を見る。彼は素っ気無さにより一層磨きが掛かった様子でそっぽを向き、黙々と歩き続けた。
 何処へ行くのだろう、帰り道は決して同じ方向ではなかったはずなのに。
 雨で煙る景色が、いつもの晴れた日に通る景色とは別の世界を曝け出す。何もかもが水に濡れ、湿り、重そうに色を変えて静かにこの時が終わるのをじっと耐えて待っている。
 コンビニエンスストア前の通りを離れ、住宅地へ。迷いもせずに突き進む千種の足取りは一定のペースを保ち続け、綱吉は傘から置いていかれぬよう、そして前に出すぎないように注意しながら彼の横を進んだ。
 会話は無く、ふたりの間を通り抜けていく空気は冷えている。とても居心地が悪く感じられて、綱吉はだから下ばかりを見ていた。
 千種は大きな水溜りは避けて、側溝の傍を歩きたがる。綱吉は壁と千種に挟まれて身動きも取りづらく、時折上から落ちてきた大きな水音にびくりと肩を震わせては、その度に千種の失笑を買った。
 彼の歩みはとてものんびりしたものだった。やや前傾姿勢を取りつつも、傘は真っ直ぐピンと背筋を伸ばしてふたりのほぼ中央に陣取っている。幅の取り具合はふたりとも均等で、変に遠慮されたり邪険にされたりもしていない。それだけが唯一救いで、気兼ねしないで済む分綱吉も楽だった。
 下を見てばかりなので綱吉の目には彼の足の動きもよく見えた。右、左、右、とリズムもよく一定の歩幅をキープするその歩調は、綱吉でもとても合わせやすい。 
 揺れる肩が時々ぶつかり合って、けれどそれも回数は以前に獄寺と同じ傘で帰った時に比べてずっと少なかった。揃った歩調もそうだが、彼と並んで歩くのは少しも苦ではない、むしろ誰と歩くよりもずっと、自然でいられる。
 変に緊張もしていない、相手に気遣いばかりして自分のペースを乱すことも無い。下手な馴れ合いをしないから、余計に気を回すこともせず、ただ黙々と歩くという作業を繰り返すだけ。けれど、それだけでは片付かない空気。
 綱吉はずり落ちかけた鞄を、胸を上下させて腕で支え持ち、ちらりと傘を持つ手越しに千種を見上げた。
 視線に気づいていたわけではないだろう、それなのにほぼ同じタイミングで彼も綱吉へ目を向けていて、雨の音に弾かれながらふたりの視線は直線状で交差した。
「――」
 声を失った綱吉に、千種もまさかここで綱吉が自分を見上げるとは想定していなかったらしく、驚きに細い目を見開いて白い息を吐き出した。
 直後にふたりの背後から迫った車が、エンジン音を響かせて勢い良く走りすぎていった。千種は何かを言ったはずなのに綱吉は聞き取れなくて、どうしてこんな時に、と心の中で地団太を踏む。
 その千種は矢張り自分が今発した言葉に驚いた顔をして、片手で口元から鼻筋を覆い隠す。綱吉が言いなおしてくれるのを期待する眼差しを向けているのには気づいているだろうに、知らないフリをして彼はまた、歩き出した。
 濃い霧に包まれているようにも思える町並みが新鮮で、そして薄気味が悪い。元々雨に濡れて身体が冷えていた綱吉は、ぶるりと鳥肌を立てて背中から広がった悪寒をやり過ごした。
 幾度目かの角に差し掛かり、千種が足を止める。迷う風に首を巡らせた彼に、綱吉は此処に来てやっと、自分たちは随分と長い間歩いた事を思い出す。
「あ、途中までで、いいから」
「こっち」
「だから人の話を少しは聞いてってば」
 ちぐはぐで噛みあわない会話、けれど少しも崩れないペース。交わす言葉は最低限度に留まり、無駄口も世間話も一切挟まれない、綱吉にとっては苦痛でしかない筈の時間。それなのに彼の持つ傘の下は雨を阻み、綱吉を守ってくれている。
 適度の緊張感、居心地が悪いはずなのに何故かとても安心出来る空気。変な感じだ、と自然と浮かんだ笑みに表情を綻ばせていたら、急に肩を掴まれて真っ直ぐ進もうとしていた綱吉は動きを強制的に止められた。
 それまでの穏やかな空気が一変し、急に仰々しくなった気配に綱吉は心臓をひとつ竦ませて引っ張られるままに千種を仰ぎ見た。
 眼鏡の奥の涼しい瞳が狂乱の色を僅かに浮かべていて、怖くなる。自分たちは矢張り結局は分かり合えないのだろうか、と絶望が胸を過ぎって、彼は強く胸の鞄を抱き締めた。
 と、肩から外れた千種の腕が綱吉の左側へと伸ばされる。立てた人差し指が傍らのブロック塀を越えた先を指し示し、虚を衝かれた綱吉は目を丸くして彼が指差す方向に首を曲げた。
「あ、あれ?」
 思わず間の抜けた、素っ頓狂な声が頭の裏側から飛び出した。急ぎ目を瞬かせて何度も景色を確認する。
 閉じられた門の横に掲げられている表札には「沢田」の二文字がはっきりと刻まれていた。
 見慣れた屋根、見慣れた外観、見飽きた玄関。間違えようがない、そこは綱吉の自宅に他ならない。
 慌てて千種を振り返ると、彼は入らないのか、と下ろした腕で閉じている門を叩いた。
 下ばかり見ていたから気づくのが遅れた、むしろ全く気づかなかった。先ほど千種がきょろきょろと周囲を見回していたのも、記憶の中にある綱吉の家を探していたからだろう。それだというのに今の今まで当の本人が気づかなかったとは。
 間抜けにも程がある。
「あ……りがとう」
 雨の勢いは一時期よりは幾分弱まったものの、まだ降雨自体は終息まで時間がかかりそうだった。しかし西の空がほんの少し明るさを取り戻しているから、あと一時間もすれば止むだろう。
 綱吉は急き立てられながら門を開け、小さな庭に入る。そのまま玄関前のポーチに駆け込み、犬のように全身を振って水気を飛ばした。
 彼を玄関先まで傘で庇った千種が、その瞬間後ろへ跳んで水しぶきを避ける。垂れ下がった前髪を掻き上げた綱吉は、鞄を右手で持ち直し、そのまま立ち去ろうとしている千種を呼び止める。
 果たしてこれで何度目だろうか、面倒くさそうに振り返った彼を手招いて綱吉は閉まっている玄関のドアを指差した。
「上がって行ってよ、タオル出すから」
 曰く、濡れているから乾かして雨宿りをしていけ、という事らしい。だが透明な雫の向こう側で屋根を仰ぎ見た千種は、その位置からでは見えない窓より放たれる鋭敏な殺気に肩を竦め、首を横へ振った。
 よもや拒否されると思っていなかった綱吉は、それでもなおしつこく彼を誘うけれど、反応は芳しくない。ぽとぽとと零れ落ちる雨だれに顔を顰め、彼は「じゃあ」と両手を背中へ回して結んだ。
 胸を反り返らせて伸び上がり、踵で着地する。ジッとしていられないのだろうか、と珍しげに綱吉の動きを観察していた千種が、急に話題を変えてきた綱吉に険のある目を向けた。だが臆する事無い綱吉は肩を左右に揺らすだけ。
「今度、お礼する。それでいいでしょ」
「礼?」
「送ってくれた」
 何の、と言いかけた千種を遮り、綱吉が言葉を連ねた。きょとんとした顔をする彼が物珍しくて、綱吉はつい目を細めて彼の顔をじっと見詰めてしまう。
 すると同じく眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに向けてきた彼と目が合って、視線を逸らすどころか瞬きをするのさえ憚られる状態に落ちてしまった。勝手に顔が赤くなって、綱吉は慌てる。
「や、あの、その……あんまり高いものとか、なしね。俺、貧乏だから」
 急にしどろもどろになって両手を広げ、慌しく動かしながら綱吉は苦しすぎる弁解を開始した。あまりの狼狽振りに、次第に自分でも何を言っているのか分からなくなっていく。
「ほら、俺、コンビニで傘も買えなかったくらいだし。あ、でも命っていうのも無しね、俺まだ死にたくないから。それから、えっと……」
 落ち着き無く指を開いたり、握ったり。自分を指差してから首と一緒に横へ何度も振り回して一方的に喋り続ける彼を一頻り楽しんだ後、千種は傘を斜め後ろに傾けて重くなっていた雫を背中側へ滴らせた。
 地面に落ちて弾け散る水音に目を瞬かせ、息を呑んだ綱吉が瞬時に動きを止める。
「いらない」
 短く、どこまでも素っ気無く、味気なく、淡々と。
 感情の篭もらない低い声がひとつだけ綱吉の耳に響き、脳へと到達する。
「けど……」
「何かが、見返りが欲しくて、送ったわけじゃない」
 だから貰う必要もないし、受け取らなければならない義務もない。綱吉の好意をあけすけなく突っぱねてみせた千種に、綱吉は驚くよりむしろ泣きそうな顔を浮かべて千種を困らせる。
 善意の押し売りは要らないと言っているのに、少しも聞き入れてくれない。
「けど、なんかそれじゃ、フェアじゃないっていうか」
「フェア?」
「俺ばっかり、って、なんか、嫌だ」
 俯いて、両手の拳を握り締めて、震わせて。唇を噛んで何かを堪えている綱吉に、千種は一瞬考え込んだ。
 多分それはきっと、千種の事を言っているのではなく、普段の彼を取り巻く環境を指しているのだろう。思い出せる限り、彼の周囲に陣取る人間は皆が皆、彼に対して評価が甘い。庇護欲をそそられるのかどうかまでは知らないが、過保護過ぎるくらいに彼に対して見返りを求めないお節介を買って出ているのだろう。
 その一員に自分も加わるつもりは毛頭ない千種だが、あの連中と同じに思われるのも癪だ。どうしたものか、と今日何度目か解らないため息をついた彼は、傘で肩を叩いてから伸ばした指で綱吉の下向いている顎を押し上げた。
 強引に視線を自分に向けさせると、薄ら涙目の彼に挑むように睨まれた。
「なら、これ、貰うけど」
 構わない? と聞けば、何を指して千種がそう言っているのか解らない綱吉は怪訝に眉を寄せて顔を顰めた。
 鈍感、と率直に感想を言いかけてやめる。ここで拗ねられてはまた面倒くさいし、いつまで経っても帰れない。用件はさっさと片付けてしまうに限る。
 だから千種は、顎から外した手で今一度、綱吉を指差した。
 首を捻る綱吉が、彼を真似て自分自身を指差す。黙って頷き返してやると、益々わけが解らないと綱吉は唇を尖らせた。
 その幼い表情に、千種がつい微笑む。
「正解」
 傘を後ろへ倒し、体は前へ。そっと触れた唇は、以前食べた苺よりもずっとずっと、甘い匂いがした。

2007/5/22 脱稿