雨垂

 ぽたぽたと軒を伝った雨雫が己の重みに耐えかね、落ちていく。透明な窓ガラスには無数の水滴が散り、小さいものが下に向かうにつれて粒を大きくして、やはり底辺目掛けて沈んでいった。
 蛇行しながら大きくなったり、小さくなったりを繰り返す雨の行方を目線で追っていると、後ろから近づく足音が耳朶を打って、綱吉は座っている椅子ごと振り返った。
「ほれ」
 差し出された白いマグカップからは乳白色の湯気が立ち上っていて、綱吉は絵柄のないカップからゆっくりと瞳だけを持ち上げて、その向こう側にいる存在に視線を移す。両手は膝の上から持ち上がって胸の高さで並べられ、彼は訝しげにしている綱吉から目を逸らさずにカップの位置を低くした。
 両手でしっかりと綱吉が受け止めるのを確かめて、曲線を描いている持ち手から指を離す。途端に手首から肘にかかる重力が増して、肩を僅かに前に移して重心を安定させた綱吉は、左手を使ってカップを回し、先ほどまで彼が掴んでいた持ち手に人差し指を絡めた。
 顔の前に引き寄せて窄めた唇から息を吹きかければ、煽られた湯気がダンスを踊った。
 頬に触れる暖かな空気も嬉しくて、綱吉はつい表情を綻ばせる。彼の傍らでは、仕事中の机に腰を寄りかからせたシャマルが、自分用の黒いマグカップを傾けて喉仏を上下させながら、物珍しげに綱吉の様子を眺めていた。
 綱吉はそんな彼の椅子を占領している。書類だらけで散らばった机に背中を向けて、肘置きに堂々と肘を預けて背中を丸め、細々と息を吐いてカップの中身をある程度冷ましてからゆっくりと唇を端につけた。ずず、と音を低く響かせ、まだ少し熱かった液体に途端顔を顰める。
「あちっ」
 赤くなった舌の先を伸ばしてカップも顔から引き剥がした綱吉が、背中を背凭れに押し付けて短い悲鳴をあげた。シャマルが顔を上げ、それから横を見る。ひりひりする舌に涙目になった綱吉を視界に収め、彼はやれやれと大袈裟なポーズで肩を竦めた。
 右手に持ったカップを左手に移し替え、自由になったその手で綱吉の頭を後ろから撫でてやる。もっとも彼の仕草は大抵どこか乱暴で、本人は撫でているつもりでも綱吉にしてみれば、ガシガシと髪の毛をかき回されている気分になるのだが。今日も御多分に洩れ随、広げた指で絡まった髪の毛を引っ張られた綱吉は、痛い、と更に目尻に浮かべた涙の粒を大きくしてシャマルの手を払いのけた。
 上半身を左右に大きく揺らしたものだから、一緒になってマグカップの中身も激しく波立つ。こげ茶色の液体が縁ぎりぎりのところにぶつかって砕け散り、一部が境界線を乗り越えて外に滴り落ちた。親指の腹を撫でる液体に、綱吉は慌てて顔を下向けてカップを身体の中心からずらす。
 床を叩いた踵の音が、窓を越えて聞こえてくる雨音を遠くした。左右に開かれたカーテンの間から見える世界は鉛色に染まり、海底を行く潜水艦に乗船している気分にさせられる。
 苦笑いを浮かべて最後にひとつ、ぽん、と軽く綱吉の頭をシャマルが叩く。こっちは笑い事ではないのだと睨み返してやった綱吉だったが、三秒後にはもうすっかり忘れて、まだ暖かいココアを喉に押し流した。
 甘い味が口の中いっぱいに広がり、食道を伝って胃に到達したココアはその温もりを身体全体に伝播していく。ささくれ立った心も一瞬にして和らぎ、ホッと吐き出した息は随分と柔らかかった。
 両手で大事にカップを抱き、唇を寄せる。舌を火傷せぬよう注意しながらちびちびと飲んでいたら、もう自分の分は飲み干したらしいシャマルがカップを机に置く音が響き、彼は肩を震わせて横を見上げた。
 彼もまた、机に左手を伸ばしたままの体勢で綱吉を見ていて、中間地点で視線がぶつかり合う。火花が散ったような気がして綱吉が目を瞬かせていたら、退けと言わんばかりに背凭れを掴んだ彼が綱吉ごと椅子を回し始めた。
「わっ」
 椅子にはコマがついているほかに、中心で支えている軸が回転するようになっている。右へ三十度ほど回されたかと思うと、今度は左へ四十五度ほど戻されて、続けてまた右に回される。綱吉はぐらぐらと不安定に体を揺らし、中身が減ったカップもそれに呼応して波を立てた。頭の真上で鐘を鳴り響かせられている感覚が彼を襲い、車酔いに近い感覚に見舞われる。
 折角ココアを呑んだばかりだというのに吐き気がして、綱吉はカップを落とさないように注意しながら背凭れに伸びるシャマルの腕を捕まえた。肘を突っ張って力を込め、これ以上椅子を振り回せないように意識する。反動は多少残ったものの振動は静まり、綱吉は安堵の息を吐いてカップを机に置いた。
 積み上げられた書類の山からはみ出していた紙が底を掠め、茶色の染みが薄く残った。
「シャマル」
「仕事の邪魔」
 いきなり何をするのか、と咎める目線を投げつければ、彼はきっぱりと言い切って手首を右から横へと流す。降りろ、という意味らしい。だが唇を尖らせた綱吉は、嫌だと突っぱねて右側の肘置きを両手で握り締めた。
 腰を捻って片側に重心を寄せ、抵抗を試みる。今度は椅子の足を蹴られ、綱吉ごとそれは十センチほど後退した。
 弾みで背骨が柔らかな背凭れに浮き沈みし、頭を揺らした綱吉は尚も強固に椅子は自分のものだと主張する。ぐるりと床に置いた爪先に力を込めて椅子を反転させ、シャマルに背中を向けた。
「こーら」
「やだ」
 そこまで意固地になる必要は何処にも無いのだけれど、彼が体よく綱吉を追い出そうとしているようにも思えて、つい意地悪をしてしまう。今度はゴン、と丸めた拳の一撃を浴びて、本気で痛かった綱吉は首を窄めて低く呻いた。
 右手を持ち上げ、殴られた場所を指で探る。たんこぶにはなっていないが、触れた瞬間痛みがぶり返してきて本気で泣きそうになった。
「あのな、俺はまだ仕事中」
「どうせ真面目にやってないくせに」
 机に広げられた書類を指差した彼に、綱吉は肩越しに振り返って言い返す。実際彼がまともに保険医としての職務を全うしているかどうかは甚だ疑問であり、男子生徒を真面目に相手にしないことで保護者からも数回苦情が出ているらしい。女子生徒へのセクハラまがいの行動も見咎められる場合が多く、本人がどうであれ彼の態度は世間一般的には認められたものではない。
 しかし彼はそういった他人の評価などまるでお構いなしで、飄々とした態度を崩さない。誰に取り入って雇ってもらったのかまでは綱吉も知らないが、クビになる可能性が皆無らしい彼は余裕の表情だ。
 仕事をしなくても給料がもらえて、身分は保証される。悠々自適で、駄目な大人の見本のような男。剣呑な目つきで改めて見上げてから舌を思いっきり出してやると、自分の髪を掻き毟ったシャマルは心底困りきった声で綱吉を呼んだ。
「おーい、ボンゴレ」
 キィ、と椅子が軋む。背凭れに右の肘を置いて体を寄りかからせてきた彼は、もう片方の腕を腰に押し当てて前傾姿勢を作る。背中を丸めているので身長も低くなって、自然綱吉と視線の位置も近くなった。
 濃くなった男の気配に、様子を窺おうとした綱吉が身を捻って振り返る。
 だが近すぎた所為か、耳のすぐ上が彼の頭とぶつかってそれ以上進まない。無骨な音で脳を揺さぶられ、綱吉は前髪の隙間から見える範囲でシャマルの顎のラインを眺めた。
「退かないんだったら、上から座るぞ」
 無精髭が狭い視界の中で踊る。タバコ臭い息を鼻に感じ、つい顔を顰めた綱吉はだから彼がなんと言ったのか、即座に理解できなかった。
 え、と瞬きをひとつして顔を上げる。シャマルはその頃にはもう背筋を伸ばして姿勢を戻していて、つられるままに顎を仰け反らせた綱吉は急に椅子を回されて、今度こそ酔った。
 うぷ、と胃の内容物を吐きそうになって、食道を逆流する固形物に慌てて両手で口を塞ぐ。息と一緒に飲み込み直そうと必死に試みて対応が遅れた、その間に綱吉の正面を自分の側へ向けた彼は、徐に右足を軸にして体を反転させ、綱吉に尻を向けた。
 有言実行。彼はそのまま膝を折り、綱吉の太股に全体重を預けて圧し掛かった。
「ぎゃっ」
 肉が骨に食い込み、押し潰される感触に綱吉が悲鳴をあげる。メキメキと太股から膝にかけてが自分の倍近い体重を懸命に受け止めているが、到底支えきれるものではない。ふたり分の体重を受けて椅子も若干丈を低くした、このまま地面に陥没してしまいそうで綱吉は奥歯を噛んで必死に痛みに耐える。
 眉間に深い皺が刻まれ、脂汗が額を濡らす。苦悶に歪んだ頬が紅色に染まり、吐き出す息は細く短い。
「シャマル、おもっ……」
「失礼な奴だな、お前」
 すわり心地があまりにも悪かったのか、シャマルが一旦腰を浮かせる。重みが遠ざかって綱吉はホッと胸を撫で下ろしたが、更に奥に腰の位置を狙い定めたシャマルはまたしても綱吉を踏みつけて椅子に座ってきて、彼の肩甲骨が綱吉の鼻にぶつかった。咄嗟に息が出来なくて綱吉は舌を噛んでしまい、うぐ、と声にならない悲鳴を飲み込んで首を左右に激しく振り回した。
 綱吉の髪の毛がシャマルの襟足を擽る。広げた両手にも上からシャマルの腕が被さって、肘置きの上で位置を固定されてしまった。床に沿えただけの足まで靴で踏まれてしまう、このままでは本気で彼に押し潰されてしまいそうで、直感的な恐怖に綱吉は心臓を竦ませた。
 抵抗が止まり、様子が変わったことにシャマルも気づいたのだろう。体の力を抜いて綱吉にもたれかかろうとしていた彼は寸前で動きを止め、綱吉を振り返ると同時に椅子から立ち上がった。
 心底怯えきった表情で唇を震わせ、噛みあわない奥歯をカチカチと響かせている綱吉に、彼は冗談でもやり過ぎたことを知る。
「ボンゴレ」
 大丈夫か、と掌を差し伸べるが、綱吉は返事も出来ずにただ喉を上下させて唾を飲むばかり。大きめの瞳がすっかり萎縮してしまっていて、緊張でガチガチになった身体は小刻みに震えている。試しに肩に手を置いてみると、びくりと過剰なまでに綱吉は反応を返した。
 怖がらせてしまったことへの後悔は、今抱いたところでどうしようもない。シャマルは自分の軽率さを心の中で恥じ、綱吉に詫びてからちらりと雨雫が垂れる窓へ視線を流した。
 水のカーテンの向こう側を、咲き乱れる傘の花が幾らか流れていった。
「ツナ」
 軽く強張ったままの綱吉の肩を揉み、シャマルは極力優しい声を務めて作って綱吉の頭も撫でた。今度は乱暴になり過ぎないよう、彼が痛くないように注意しながら腕を動かし、なんとか彼が縮めこませていた心臓を元のサイズに戻したところで急に彼は綱吉の脇腹に両腕を差し入れた。
 面食らって動けない綱吉を他所に、ぐっと腕に力を込めて彼を椅子から引き上げる。
「わっ」
 足が宙に浮いて膝の裏が椅子を蹴る。コマがついているので反動で後ろへ流れて行くそれを目で追ったシャマルは、腕の中で暴れるべきかどうか迷っている綱吉を胸に抱えこんだ。弾みで跳ね上がっていた綱吉の膝が彼の腰骨にぶつかったが、痛いという顔もせずに椅子が動いた分彼も自分で動いて、くるりと体の向きを変えて椅子に腰を落とす。
 綱吉は彼の膝の上に落ちた。
「うっ」
 互いに正面を向き合っている為に外側に開いた綱吉の踵が椅子の脇を蹴り、背凭れと肘置きが邪魔になって脚を下ろせない。中途半端に腿を上げた格好に顔を赤くして、綱吉は今度こそじたばたと腕を振り回しシャマルから逃れようと暴れだした。
 軽く握った拳が、思いがけず彼の顎を打つ。勢いは無かったものの当たり所が悪かったようで、一瞬息を詰まらせて目を閉じたシャマルは、同時に綱吉を支えていた腰から手を片方離してしまった。勢い余った綱吉が体を右に傾がせる、だがそちらにはもうシャマルの支えは無いのだ。
 当然の如く綱吉はそのまま身体を床に向けて沈める結果に終わる。視界が斜めから横に動いていって、逆さまになりかけたところで、またガクンと腕を起点に振動が彼を襲った。なんだろう、と間の抜けた顔で瞳を持ち上げればそこには冷や汗を鼻筋に浮かべたシャマルの真剣な顔があった。
「脅かすな」
「あ、ごめん」
 自分が椅子から横倒しに転落するところだったのだと思い出し、引っ張り上げられながら綱吉は反射的に謝罪の言葉を口にする。反省の色が感じられなかったのだろう、シャマルは若干頬を膨らませて不満を表しながら、今度は綱吉を前向きに座らせた。
 彼の膝が綱吉の膝裏に治まる。腰から力を抜くと、肩が彼の胸板にぶつかった。
「えっと……」
「座ってろ」
「此処?」
「そう」
 その生温い椅子の座り心地に綱吉がものを言いかけるが、それより早くシャマルに畳みこまれてしまい、何も言い返せないまま綱吉は肩を窄めて小さくなった。
 手の置き場に困り、彼の足に合わせてやや広がり気味の膝の上に丸めて載せてみる。自然と体が前のめりになって視線が下を向き、自分の脚よりもずっと太く逞しい肉付きのそればかりに目が行ってしまった。
 勝手に顔が赤くなって、身体が熱くなる。けれどシャマルは気づく様子もなく、すっかり大人しくなった綱吉の項がほんのりと朱色になるのだけを確かめて、椅子を机の前まで引いた。
「ほれ」
「……どうも」
 長く置き去りにされていたマグカップを渡され、顔も上げずに綱吉が受け取る。湯気はすっかり消えてしまって、口をつけると生温かった。
 シャマルはといえば、腿の上に綱吉を置いているというのに重みを感じていないのか平然としており、書類の山から救出したボールペンを片手に仕事を再開すべく紙の束を机に広げた。ただ、このままでは机との距離が遠すぎるので、彼は椅子の上で一度体を横に揺すってから綱吉の背中に胸を押し当ててきた。
 本人は大した意図もなく、ただ机の上に置いた書類を読もうとしているだけなのだろうけれど、綱吉は心臓が口から飛び出すかと想うくらいに驚いた。バクバクとけたたましい悲鳴をあげて、心拍数が一気に倍近く上昇する。両手で大事に持ったマグカップに振動が伝わって、飲み込んだ濃い甘さに鼻血が出そうだった。
「シャマっ……」
「んー?」
 上擦った声で彼を呼ぶが、呂律が回りきらず最後まで言えない。シャマルの返事もどこか上の空気味の生返事で、綱吉は自分だけが緊張していると思い知らされて悔しくなった。
 本気でもっと仕事の邪魔をしてやろうか、と意地悪な考えが頭を横切っていく。だが盗み見た彼の表情は真剣そのもので、しかも間近で見てしまったものだから不用意には何も言い出せず、綱吉は居心地悪そうにマグカップに残っていたココアを飲み干した。
 さて、この空になったコップは何処へ置こう。俯き加減のままごちゃごちゃしているシャマルの仕事机に視線を走らせた綱吉だったが、急に両手が軽くなった気がして慌てて瞳を下向ける。シャマルの左手がそこにあって、カップの上辺を指三本で摘んで引っ張り上げていた。
「シャマル?」
 カップを掴んだまま抵抗を示すと、更に彼は力を込めて綱吉から奪い取ろうとした。名前を呼んでも返事はなく、目を向けてもくれない。綱吉は若干不満げに唇を尖らせ、片隅に残っていた甘みに舌を伸ばしてから両手をカップから解放した。
 白色が影の中から抜け出して、黒の横に。後でまとめて片付けるつもりなのだろう、モノトーンカラーでおそろいの形状が机の片隅に鎮座して、たったそれだけなのに綱吉は急に嬉しくなった。
 空になったシャマルの手が戻ってくる。軽く肘を曲げ、締め付けない程度に綱吉の腰に絡まった。
 だから綱吉も、彼の負担にならない程度の力加減でその腕に手を添える。
 右腕一本を机上に走らせて忙しく紙面の文字を目で追い、なにやら書き込みをしてはペンを持ち替えて紙を捲り、次の書類に移って行く。片腕しか使えないのはとても効率が悪そうなのに、あまり不便だと感じていない様子のシャマルをぼんやりと眺めた綱吉は、先ほど彼に抱いた仕事をしない駄目な大人、という評価は取り消してやろうと心の中で決めた。
 耳を響くのは彼がペンを走らせ紙を捲る音と、窓を打つ雨の音。
 シャマルが身動ぎし、綱吉の肩に彼の胸が押し付けられる。矢張り自分は邪魔だろうか、と窺う視線を下から斜め上へと投げつけた綱吉だったが、シャマルは別のところを見ていた。
 持ち上げたボールペンの尻を唇の下に押し当て、雨の雫が散る窓の外を眺めている。
「止まないな」
 低い声が間近で聞こえ、綱吉はどきりと心臓を跳ね上げて慌てて彼から視線を逸らした。
「だね」
 心持ち彼の腕を取る手に力を込めて、同意を返す。
「いいのか、帰らなくて」
 盗み見た壁の時計は夕方の五時手前を指し示して、放課後の部活動が無い生徒はとっくに帰宅している時間帯だ。今日は雨だから、運動部系も筋トレ程度で早々に活動を引き上げているに違いない。学校は恐ろしいほどに静かで、だから余計に互いの心音や吐息が肌を擽る。
 白衣の袖の撓みを握った綱吉が、ゆっくりと一度だけ首を横に振る。動きが伝わったのか、背凭れに体重を預けたシャマルは椅子を軋ませながら背筋を反らした。
「傘でも忘れて来たか?」
「ううん」
 今日は朝からずっとこんな天気だ。登校時も、鉛色の空は今みたいに泣いていた。
「じゃ、なんだ?」
「止んだら帰ろうかな、って」
 シャマルの手伝いをするでもなし、保健室にもぐりこんで時間を無駄に潰している綱吉の頬をボールペンで小突いた彼に、綱吉は若干言葉を選びながらしどろもどろに答えを返した。
 だが相槌は素っ気無く、視線を泳がせている綱吉の気持ちにシャマルは無関心だ。
「止みそうにないぞ」
 窓の外はどんよりとした空の下に灰色の町が広がるばかりで、彩りは影を潜め生き物も息を殺している。道を行く人も雨を避けて皆急ぎ足で、梅雨の長雨を歓迎しているのは、昨今姿もめっきり見かけなくなった雨蛙か、蝸牛くらいだろう。
 外を覗き見たシャマルの率直な感想に、綱吉は肩を竦めてそうだね、と同じく素っ気無い相槌を打った。
「でも、止むかもしれないし」
 現に昼間、一度雨は止んだ。ただ雲は切れず、青空は遠い。太陽もこの数日見ていない気がする、今年は降雨量が多いとテレビの天気予報は告げていた。
 言い訳は形を持たず、綱吉の足元に落ち込んで溜まっていくばかり。踵で踏み潰せば簡単に雪崩を起こして散り散りになり、余韻さえ残さなかった。
 おずおずとシャマルを下から覗きこむ。彼は窓から視線を手元に戻し、リズムを刻んでいたボールペンを机上へ転がしていた。躍動的に動いた腕が遠くに置いてあった書類の束を引き抜き、近くへと移動させる。埃が散って、綱吉は鼻に飛び込んできたそれにくしゃみを堪えた。
「……っ」
「あとこれだけだから」
 肩を怒らせて吸い込んだ息をとめた綱吉の耳朶を、シャマルの低い声が打つ。目も閉じて拳を作っていた綱吉は、一秒後驚きに顔を染めて同時に盛大なくしゃみをした。
 沸き起こった風で書類が浮き上がり、シャマルが大慌てでそれらを押さえ込む。
「ご、ごめっ」
 口で息を吸うのと謝るのと、一緒にやろうとして綱吉は失敗する。またくしゃみが出て、鼻水まで出て来た。
 シャマルが笑う、けたたましく。腰に添えられるだけだった手が綱吉の胸を支え、彼の胸に引き寄せられる。肩口に顎を埋められ、首を振ると彼の無精髭がちくりと肌に刺さった。
 それさえも、心地よい。
「シャマル?」
「ああ」
 気にするな、と余所を見たままの彼の手が綱吉の頭を大きく撫で、胸へと引き寄せる。節くれ立った指は彼が過ごして来た綱吉の知らない月日を思わせた、その手が父親に似ているのだと言ったら、彼は怒るだろうか。
 ボールペンで唇を擦った彼が、一瞬だけ視線を浮かせ、自分をジッと見つめている綱吉を垣間見た。
 濁りのない瞳が綱吉を射抜き、どきりと胸を弾ませた彼は息と唾を同時に飲んだ。
「んで、これ終わったら、雨も止みそうにないし」
 まるで自分に言い訳をしているみたいに、シャマルが書類を捲りながら呟く。
「一緒に、帰るか」
 雨の音に掻き消されてしまいそうな声で。
 綱吉は目を見開き、一瞬だけ自分を見て即座に視線を逸らしてしまった彼の首筋が僅かに色味を帯びているのを確かめて、ぽかんと開いた口を慌てて閉じた。
 手を伸ばし、彼の首に巻かれているしわくちゃのネクタイを掴む。引っ張るって、問答無用で彼を自分の方へ顔向けさせた。
 痛がった彼が、怪訝に眉を寄せて綱吉を見返す。
「なんだよ、嫌か?」
 ぶっきらぼうに言い放った彼へ。
「――ううん」
 綱吉は首を横へ二度振って。
 梅雨の晴れ間の青空にも似た顔で、嬉しい、と笑った。

2007/5/20 脱稿
2008/8/23 一部修正