焦思

 風が温く感じる日だった。
 一日、というよりは半日だけだぞ、と許された休日。本当なら自宅のベッドでゆっくりと羽を伸ばしたいところだったけれど、それでは普段と何も変わらない。折角手に入れた自由に使える時間を、惰眠を貪るだけに使うなんて勿体無すぎる。
 けれど仲間の多くは各自修行に勤しんでおり、こちらが休みだから付き合え、だなんて我が儘を言えるわけもなく。
 もとより自分が原因で巻き込んだようなものだから、彼らには既に酷い我が儘に付き合って貰っている。だからこれ以上勝手なことは言えないし、折角集中しているところをわざわざ中断させてまで付き合わせたいとは思わない。
 だから、というわけでは無いけれど。
「沢田殿、どうかなされましたか?」
 ちらりと様子を窺うように視線を流した先で、同じ速度で歩くバジルが聡く勘付いて小首を傾がせた。
「あ、ううん」
 まさか気づかれるとは思わず、虚を衝かれた綱吉はやや背を仰け反らせ気味にして首を振った。心の中では冷や汗が流れ、そうですか? と長い前髪に隠れがちの瞳を細める彼に、本当だからと曖昧に笑ってどうにか誤魔化す。
 本日の半休の原因は、綱吉に修行をつけているリボーンにどうしても外せない用事があったからだ。内容までは教えて貰えなかったが、恐らくは戦いに関わる何か重要なこと。見張っていないとどうせサボるだろうから休みをくれてやると言い放った赤ん坊の横顔を思い出すと、遅れた分を取り戻さねばならない明日以後の特訓に気が重くなった。
「沢田殿、体調が優れないのでしたら、今からでも戻った方が」
 想像するだけでも陰鬱な気持ちになり、溜息が零れる。それを勘違いしたバジルの心配そうな声は周囲の雑踏を貫いて綺麗に綱吉の耳にまで届き、我に返った綱吉は慌てて彼を見返した。
 薄茶色の髪が陽光を浴びて更に薄く輝いている。モデルばりの容姿に外国人ということもあって、明らかに周囲から浮いているバジルは、通り掛かる複数人に振り返られたりしているのに本人はまるで気づいていない。隣に立っている綱吉との相性もあまりにちぐはぐで、どういう関係なのかと興味本位で向けられる視線は正直気持ちが良いものではなかった。
「大丈夫だよ。ちょっと、修行のこと考えて憂鬱になってただけ」
 今はその修行を一時でも忘れるべく、こうして私服に身を包み街まで出てきたというのに。
 漸く手に入れた念願の休日、けれど善良な中学生でしかない綱吉の小遣い程度では外出先も限られる。遊園地に行くなんていう考えは財布の事情から呆気なく却下され、選び取ったのは結局他愛もない、街中のデパートだ。
 買い物をするつもりはあまりないが、沢山の商品が並んで賑わっている場所は生活の場と大きく違い、眺めているだけでも楽しい。気分転換にはもってこいで、冷やかしだけで店を出るのもよし、本当に欲しければ購入に踏み切るのもよし。
「ならば良いのですが」
 無理はしないでくださいね、とどこまでも人の心配をして止まないバジルに苦笑し、綱吉はそこだよ、と見え始めた目的地を指差した。そこは、思い返せば本当に一寸前でしかない、彼と初めて遭遇した場所に存外に近かった。
 バジルも気づいたようで、覚えのある景色をじっと見上げている。あの時は本当にただ驚くばかりで、その後街がどうなったか確かめる余裕も無かった。数日経った今、あの日の出来事がまるで幻だったかのように街は賑わい、ざわめいている。爆発の痕跡も探さなければ見つけられず、ただ少し警官の姿が多いようには思われた。
「行こう」
 周辺を警戒している制服姿に緊張する。歩調を速めた綱吉は、急な態度の変化に戸惑っているバジルを伴って目的地へと急いだ。
 デパートは夕刻に近い時間帯だからか、適度に混雑していた。食料品売り場は特にこの時間から人が増えるだろうと予想され、正面入り口前すぐの案内板を前にしたふたりはまず何処へ向かうかで躊躇する。
 けれど特別欲しいものがあるわけではない。行き先を限定してしまうくらいなら、と綱吉は物珍しそうにしているバジルの腕を引くとエスカレータへ向かった。
 地上階はほぼ女性向けのコーナーで占有されており、自分たちには用は無い。化粧品臭い通路を抜けて自動で動く階段に乗り、とりあえず紳士服売り場へ脚を運ぶ。居並ぶ高そうなスーツのひとつに気まぐれに手を伸ばすと、遠くから店員が不審な目を向けるのが気になった。
「スーツでしたら、イタリアで良い仕立て職人を知っていますが」
 必要でしたら手配しますよ、と横から顔を覗かせたバジルが言う。無論綱吉にそんなつもりは無かったのだけれど、バジルは構わずに綱吉が見ていたと同じスーツを見上げ、布地があまり宜しく無いとか縫製が甘い等辛口のコメントを次々と連発する。
 益々店員の視線が痛く感じられ、綱吉は彼の腕を取るとまだ喋っているバジルを引っ張って通路を突き進んだ。次に出向いたのはスポーツ用品売り場で、カジュアルな衣服も一緒に並べられている。
 トレーナーでも買おうかと手を伸ばせばまたバジルが薀蓄を開始し、此処でも店員の視線が微妙に気に掛かって仕方が無い。
 行き先を間違えただろうか、それとも相方の選択ミスか。楽しむ為に来たのに余計に疲れてしまいそうで、天井を仰ぎ見た綱吉はそっと溜息を零す。これならひとりで来た方が楽だったかもしれない、なんて無邪気に微笑んでいるバジルにいえるわけがなく、綱吉は早足にエスカレータを目指した。
 幾つかの階を行き過ぎる。人の流れは絶える事無く、ざわめきは止まない。幼い頃母に手を引かれてやってきた時はもっと大きく感じたデパートも、この歳では端から端まで歩くだけなら一時間とかかるまい。
「なんか……変な感じ」
「なにがです?」
「懐かしい気がするのに、そうじゃない」
 建物自体は古いけれど、増改築が繰り返されて内装も綺麗に整えられている。ピカピカに磨かれた床に乱反射する天井光、眩い世界は色褪せた綱吉の記憶をあやふやにぼかしてしまう。十年前と同じ場所に立っているのに、今目の前に広がる世界は極彩色に溢れていて、思い出と何ひとつ一致しなかった。
 物寂しい、と言うのか。表現しづらい感情に綱吉は足を止める。降り立った場所は催事場で、一際賑やかに人が押し寄せていた。
 後ろが詰まってしまうので端へ場所を移動し、頭上に吊り下げられた看板の文字を読み解く。イタリア、と彼の国の国旗をあしらったポップに目を奪われ、前方に視線を投げれば装飾品を筆頭に置物や食器などの販売ブースが並んでいた。
 なんたる偶然、いや、因果か。
「イタリア展、か」
「はあ……」
 隣に立つバジルも人の多さに圧倒されている様子。ふたりしてポカンと口を開けた状態で人の往来を眺め、折角だしと見て回ることにした。
 スピーカーからは異国の音楽が流れ、皮細工の職人が実践販売をしている。興味を惹かれて近づくと、矢張り傍らに陣取ったバジルが現地から招いたという職人にイタリア語で話しかけ、綱吉の分からない言語で談笑を始めた。周囲も突然展開された外国語のやり取りに呆気に取られ、じろじろと綱吉達を見詰めてくる。
 不躾な視線はちくちくと背中に刺さり、首の後ろの産毛がチリチリと痛む。居心地の悪さを感じて綱吉はそれとなくバジルの肘を小突き、注意を自分に向けさせた。すると彼はあっさりと会話を中断させ、手を振って職人から離れ綱吉の所へ戻って来た。
「いいの?」
 まだ話の途中だったのではないか、と揶揄すれば彼は作業に戻った職人を窺い見て、邪魔し続けるのも悪いですから、とはにかむ。
 確かにその通りかもしれないが、異国に来て故郷と同じ言葉を話す人との出会いは貴重ではなかろうか。邪魔をしたのは自分の方の気がして、綱吉は俯く。床に摺れた靴の間近を他人の足が急ぎ気味に通り過ぎていって、嫌な気分になった。
「沢田殿?」
「なんでもないよ、大丈夫」
 人ごみに酔っただけだから、と控えめな表現で首を振る。違う、そうじゃない。分かっているけれど言葉に出来なくて綱吉は息と一緒に思いを飲みこんだ。
 感じているのは、そう、疎外感。
 人は多いのに通路は狭く、歩みが遅い綱吉の両脇を人がどんどん通り抜けていく。背中を、肩を押され流されて進む彼の姿はどこか危なっかしい。その都度バジルが懸命に手を伸ばすのが見えるが、綱吉は握り返せなかった。
 彼の事は嫌いではない、むしろ自分なんかの為に一所懸命になってくれて、好感が持てる。けれど彼を遠いと思うのは、出会ってまだ時間が短いのと、何より事の発端を持ち込んだのが彼だという理由もあるだろう。胸を突上げる不安の種は彼が撒いたもの、爆発と血の記憶は未だ生々しい。
 綱吉を庇い、戦うその背中が重い。
 額に宿る炎が、まるで我武者羅に戦う自分に重なるようで。彼を直視するのが怖いのは、彼もまた自分のように、誰かの為に犠牲になるのを厭わない心を持っているから。自分なんかの為に命を削っても構わないという思いが伝わってくるから。
 けれど。
「あ……あれ?」
 考え事をしていたからだろう、気づけば綱吉は人波に随分と流されていた。注意力も散漫だった所為で何処辺りを歩いていたのかも思い出せない。ただ行き過ぎていく人の雑然とした空気が彼を取り囲み、掻き乱す。
 バジルの姿を探しても、見付からない。こんなにも人は行きかって混雑しているのに、道半ばで戸惑っている綱吉に注意を払う人は居ない。人と人の間に出来た壁は分厚く、息苦しさを覚える程で。
 己を知る存在が何処にも無い現実が、綱吉の視界を暗く覆い隠す。
 不安なのは。
 本当に不安なのは。
「沢田殿!」
 矢を射るより早い声が飛び、腕が引かれる。傾いた右半身、感じ取った熱に綱吉は呆然としたまま振り向いた。
「良かった、ご無事で」
 安堵を隠さないバジルの素顔、微笑んでいる彼から感じ取る呼気、その匂い。まだ慣れない、けれど親しみを感じる……懐かしささえ抱く匂いに、綱吉は瞳を大きくして息を呑んだ。
 心を縛り付けた茨が解けて行く。誰もいなくなってしまう恐怖が薄れ、綱吉を覆う闇は一瞬で霧散した。残るのは眩しいライトと、君の姿。掴まれた手首が痛い。痛いのに、どうしようもなく。
 嬉しくて、涙が出そうだった。

2007/2/26 脱稿