喫飯

『今、暇?』
 麗らかな陽気が窓から差し込んでいる、休日の午前も遅い時間。
 のんびりと惰眠を貪り、朝食が片付かないからいい加減起きろと奈々に怒られ、今日一日何をして過ごそうかと思っていた頃。
 机の上の充電器に突き刺したまま存在も忘れかけていた携帯電話が、いきなり並盛中の校歌の演奏を開始して綱吉は驚いた。いったい誰が、こんなメロディーを自分の携帯にダウンロードしたのか。まったく身に覚えの無い楽曲にまず目を剥いてから、そんな勝手なことをする人はひとりきりしかいないのを思い出す。
 多分応接室で居眠りをしていた時に、こっそりやられたのだろう。ならばこの着信音の相手も彼だ、他に考えられない。
「うあぁぁぁ待って、待って、出ます出ますから!」
 ベッドの上に寝転がって漫画本を広げていた綱吉は、一秒後我に返って飛び起き、しかしバランスを崩して机に向かってそのまま前のめりに倒れこんだ。腕を伸ばし顔面が角に直撃する寸前で怪我だけは回避して、なんとか掴み取った携帯を広げて素早く液晶画面に表示されている人物名に視線を走らせる。
 案の定、彼だ。
 綱吉は空中で身を捩り、片足をベッドの柵に引っ掛けたまま反転して背中から床に落ちた。衝撃で通話ボタンに親指が触れて、襲ってきた痛みに苦悶の表情を浮かべた彼の耳に、電子処理された声が脳にまで響き渡る。
「いっ」
『綱吉?』
「ったぁ……」
 無論電話の相手には綱吉が今どういう状況にあるかなど見えていない。ごん、と派手な音を立てて後頭部を床に直撃させた綱吉のくぐもった悲鳴に、向こうは怪訝な声で彼の名前を呼んだ。
 その声が二重に聞こえたのは、錯覚だと思っておこう。
 窓の外は見事過ぎる快晴、今日も暑くなるとテレビのニュースキャスターが呑気に言っていた。ぷかぷかと青空に浮かぶ雲は気まぐれな綿菓子で、見るからにおいしそうな光景が逆さまになっている綱吉の視界に広がる。解放されたそこから吹き込む風は柔らかで、優しい動きでカーテンの裾が波立っていた。
 そこに陰が落ちる。
「すみませ、ん……ベッドから、落ちました」
 机の角と窓を一度に視界に納めた綱吉は、ひとつ息を吐いてから仰向けに寝転がりどうにかそれだけを電話の先に告げた。
 背骨を痛打した影響でまだ呼吸が若干苦しく、変なところで言葉が切れてしまって、それが余計に綱吉に余裕が無いのを教えている。電話口の相手は彼の説明に言葉を途切れさせ、なにやら考え込んでいるのか沈黙が続いた。
 その無言の時間が息苦しさに拍車をかけているようで、綱吉は空いている方の手で口元を覆って咳き込むと、まだベッドに引っかかったままの左足をのろのろと下ろした。床に触れた踵が、冷たさに震え上がる。
「君さ、馬鹿?」
 声は右耳に押し当てた携帯電話からではなく、頭の上から降って来た。
「……返す言葉もありません」
 見れば通話は既に切れている。ツーツーと無機質な音を繰り返す受話器を自分も閉じて、綱吉は床に転がったまま、自分の枕元で前傾姿勢を取りつつ靴のまま立っている男に苦笑を返した。
 だから、いい加減、窓から入ってくるのはやめて欲しいのですが。
「何処から入ろうと僕の勝手だろう」
 なんだか体を起こす気力も失せて、横になった状態で言い返した綱吉に、彼は傲慢さ全開の弁解を口にした。左足を持ち上げて、爪先で軽く人の頭を蹴ってくる。起きろ、という事らしい。
 仕方なく渋々身を起こし、蹴られたところに痛くもなかったが手をやって撫で、綱吉は唇を尖らせた。
 相変わらず物がごちゃごちゃと散らかって、とてもマフィアのボス候補とは思えない部屋。土足で上がられても文句が言えない状況を一瞥し、肩を竦めた雲雀は最後に拗ねたままの綱吉を見た。
 眇められた黒曜石の瞳に、綱吉がどきりと胸を高鳴らせる。
「それで」
 暇?
 麻薬のように人を中毒にさせる甘く低い声に、綱吉は無意識のまま頷いて返していた。

 天気がいいから、何処かへ出かけよう。
 雲雀が綱吉の部屋を訪れた理由は、それだけだった。
 電話で人の予定を聞いておきながら直後に部屋を訪問した彼だから、もしかしたら綱吉が暇でなくとも強引に連れ出すつもりだったのかもしれない。彼の身勝手ぶりはいい加減慣れたが、こうやって突発的に思いつきだけで行動される事もあるので、時としてとても迷惑だったりする。
 だのに彼から誘われると、どんなに忙しくてもホイホイと二つ返事でついていってしまう綱吉だから、結局惚れた弱みというのか、彼に構ってもらえるのが嬉しくて仕方が無いのだ。
 何処へ行くんですか、という質問には、さあね、と曖昧に誤魔化されてしまった。
 何処でもいいよ、君となら。さっさと背中を向けてしまった雲雀がそう言ったように聞こえて、でもちゃんと聞き取れなくて、空耳だったかどうか確かめようとしたら雲雀に手を振り払われてしまった。
 空っぽの自分の手を暫く凝視してから、顔を上げて雲雀の後姿を見詰める。艶のある黒髪に隠れ気味の項がほんのりと赤く色付いているのを見つけて、どうしてだか綱吉の方がとても恥かしくなった。
 空耳じゃなければいいな、と心の中でだけ呟いて、綱吉はむず痒い背中を揺らす。
「俺も、何処でもいいです」
 折角の快晴に恵まれたのに、部屋の中に閉じこもっているのは勿体無い。予定がないのは本当で、どうせ家にいてもリボーンから宿題をやれ、勉強しろ、修行だ、と言われるだけだ。それに子供たちの面倒も押し付けられかねず、だったら思い立ったが吉日、目的地を決めるのは後にして、兎に角外に出かけよう。
 そんなわけで、取るものも取らずに、行き先もなにもかも決めずに飛び出した自宅。持ち物は財布と携帯電話と、あとは身体ひとつ。
 昼食の支度に取り掛かっていた奈々に、自分の分は不要だと理由は告げずに言って玄関から外に出る。眩しい光が頭上から降り注いでいて、その只中で雲雀が彼を待っていた。
 今日はいつもの学生服姿ではなく、でも似通った濃紺のスラックスに薄いグレーの長袖シャツ。陽射しは暑い位で、彼は袖のボタンを外して二重に折り返していた。
 綱吉はといえば七部袖の水色のパーカーに、まだ季節的には早いかと思ったが、クローゼットから引っ張りだしたのがそれだったので、他に選ぶのも時間が惜しくて履いた膝下丈の、迷彩柄のカーゴパンツ。大きめのポケットが太股の外側に並んでいて、右側に財布、左側に携帯電話を詰め込んでいた。
 靴はスニーカーではなく、山登りに使うようなものを街歩き用にデザインしたトレッキングシューズで、横幅が広くクッションが過剰なまでに詰め込まれている。だから中身である綱吉の足の大きさに比べると靴自体が随分と大きく見えて、全体的にバランスが悪い。
 だが今更戻って着替えてくるのも手間だ。玄関先で待っていた雲雀はそんな綱吉をじっと見るものだから、変ですか、と尻すぼみな声で尋ね掛ければ、彼は、
「小学生みたいだね」
という、見も蓋もない感想をくれた。
「ど……どうせ俺は小さいですよ!」
 十四歳になったとはいえ背丈はクラスでも前から数えた方が早く、雲雀のみならず獄寺までも見上げなければならないくらい。これでも少しは伸びているのだとぶつぶつ小声で文句を言っていたら、苦笑した雲雀が行こう、と背中を押した。
 軽く押されただけだが胸から上が前につんのめり、慌てて支えにすべく出した右足が地面を踏締める。触れられてすぐ離れた場所に暖かさを感じて、不思議な気持ちが綱吉の中に残された。
 横を見上げればそこには綺麗な顔があって、視線を感じた彼もまた綱吉を窺い見る。
「なに?」
「いえ、なんでも」
 思わず歩きながら見詰めていたら変な顔をされてしまい、慌てて前に向き直ろうとしたところで危うく電信柱に正面衝突するところだった。
 脇を行く雲雀が噴出し、口元を手で覆い隠して肩を小刻みに震わせる。綱吉自身も驚きつつ、恥かしいやらおかしいやらで、怒っていいのか笑うべきなのか分からなくてただ顔を赤く染めた。
「本当、危なっかしい」
「悪かったですね!」
 雲雀が笑い止むのを待っていると、合間にそんな事を言われて綱吉の顔が益々赤くなる。見ていて飽きないし、面白いという感想は以前から貰っている、むしろそれが雲雀の中にある綱吉に対する評価の全てだ。
 唇を尖らせて大声で怒鳴り返すと、道行く人が何事かと驚いた顔で振り返って来て余計に恥かしい。
 ちぇ、と足元に転がっていた小石を蹴り飛ばし、腰の後ろで手を結んでそっぽを向いていたら、やっと笑い治まった雲雀が深く息を吸って吐き出すのが聞こえた。そうして見えない位置から伸びた手で指に触れられ、なんだ、と構える間もなく結びが解かれる。
「ヒバリさん?」
「いくよ」
 時間が惜しい、と左手首に巻いた時計を読み取った彼が、その手で綱吉の右手を掴む。意志を持って動き回る指は勝手に綱吉の指に絡められ、ひとつに繋がった。
 きょとんとしたまま雲雀を見上げ、それから胸の高さまで持ち上げられているひとつになった手に視線を向ける。伝わってくる体温と拍動が自分のものと重なり合って、瞬間、綱吉の頭は火山の如く火を噴いた。
 耳まで真っ赤になって慌てた綱吉は、恥かしいからと振り解くべく腕を回す。けれどあの雲雀が簡単に放してくれるわけがなく、逆に益々指に力を込めて握り返されて、拘束は強まり、綱吉から抵抗力を奪っていった。
「ヒバリさん、あの、人が」
「僕は気にしない」
「でも……」
「いや?」
 誰が見ているかも解らない公道のど真ん中で、男がふたり手を繋いでいる。正直あまり一般的にあり得る光景ではなく、恥かしさが先に立って綱吉は困惑に表情を染め上げる。だのに雲雀はまるでお構いなしで、堂々としているものだから、余計に恥かしくて綱吉は俯いた。
 でも受け止めてしまった熱はもう手放せなくて、顔を下向かせたまま首を横へ振った彼に、雲雀はじゃあいいよね、と満足げに、それでいてどこか意地悪く笑みを浮かべた。
 行こう、と人の目など一切気にしない雲雀が綱吉の手を引き、歩き出す。ペースは綱吉に合わせてゆっくりで、最初は強引かつ乱暴に引っ張っていた彼だけれど、少しすれば勝手がつかめたのか、肩が抜けるような痛みも、噛みあわない足の動きも減っていった。
 何処へ行くのか、決めなければ。このままではただ闇雲に街中を歩き回るばかりで、手を繋いでいるふたりの目撃者を増やすばかりだ。知り合いに会ったら言い訳が出来ないよ、と苦虫を噛み潰した顔をした綱吉は、平然と前を行く彼の背中を恨めしげに見上げた後、仕返しだと握られた右手を少し乱暴に振り回した。
「なに」
 肩を煽られた雲雀が即座に振り返り、綱吉に問う。
「なんでもないです!」
「そう? 変な子」
 きっと我が道を行くこの人には、説明しても一生理解出来ないだろう。急に怒鳴り声をあげた綱吉に首を傾げ、笑みを零してから雲雀は晴れ渡る空を仰いだ。
 澄んだ青空に、幾つもの綿雲が浮かんでいる。それは風に流されながら気まぐれに形を変え、時に太陽さえ覆い隠して傲慢に空を支配する。
 誰かそのものだ、と顎から鼻筋にかけて綺麗な輪郭線を浮かび上がらせている彼の横顔を眺め、綱吉は思った。
 何処でもいい、というのは、実際問題とても困る答えだ。騒ぎたいのか静かに過ごしたいのか、遊びたいのかのんびりしたいのか、どっちつかずの他人任せで無責任な回答で、現実に立ち返ったふたりはこの後の行き先に苦慮して顔を見合わせる。
 どうしましょう、と表情をほんの少し険しくした綱吉は、ポケットの上から携帯電話をなぞり、右の爪先で地面を削った。雲雀も同じような表情で視線を遠くへと投げやって、繋いだままの手に力を込めると、じゃあ、と控えめな口調で「あそこ」とだけ呟いた。
「あそこ?」
「そう」
 そんな指示代名詞だけでは何処のことだかさっぱり解らない、と綱吉は首を傾げるのに、雲雀は綱吉の疑問符を無視して遠くを眺める。
 恐らくはその方角に、彼が言う場所があるのだろう。どういう場所なのか、怖いところではなければいいのに、と色々想像を巡らせながら綱吉も同じ方向に視線を向けた。
 ぐぅ、と腹の虫が鳴る。
「え」
 それはまるで、計ったかのようなタイミングの良さだった。
 綱吉は大焦りで思い切り両肩を振り上げると雲雀から逃げ、背中を向けて両手で腹を隠す。そんな事をしたところで空腹を訴える胃袋は泣き止んでくれるわけがないのだが、冷静さを著しく失っていた綱吉は穴があったら入りたい気分で奥歯を噛み締めた。
 肩越しに雲雀が笑っている気配が伝わってくる、今日はずっとこの調子なのだろうか。
「うぅ……」
「時間もいい頃合だね。あそこにコンビニも在るし、何か買っていこう」
 久方ぶりに自由になった左手の時計から顔を上げた雲雀が、まだ後ろを向いている綱吉の肩を叩いて進行方向右手を指し示す。言われるままにそちらを見た綱吉も、そこに水色の看板が出ているコンビニエンスストアを確認した。
 手を繋ぎたがる雲雀から逃げつつ、道を急ぐ。昼前とあって店内は若干混んでいたが、補充されたばかりらしく弁当コーナーはどれも商品が山積みだった。
 綱吉は入って直ぐに重ねられていた黄色の買い物籠をひとつ取り、中へと足を進める。半歩遅れて自動ドアを潜った雲雀は、奥へ直進した綱吉とは違い、いきなり左に曲がって雑誌コーナーへと行ってしまった。
「あれ、ヒバリさん?」
「適当に選んでおいて」
 それまで着かず離れずだった彼が急に遠くなったものだから、困惑した綱吉が振り返るが彼は相変わらず自分勝手で素っ気無い。支払い用にと財布から取り出された五千円札を受け取って、綱吉は渋々彼と別れ当初の目的である昼食を選び始めた。
 並べられた弁当は色目も鮮やかで、目移りしてしまう。個別包装のおにぎりも、新製品が発売されたようで色々と種類が揃っていた。
「どうしよう」
 自分が好きなものは把握しているが、そういえば雲雀が何を好きで、何が嫌いなのかはあまり気にした事が無かった。
 甘いものが苦手で、コーヒーはブラックばかり飲む。間食はしない方で、綱吉が大好きなスナック菓子にもあまり興味が無い。その程度しか彼の味覚を知らない現実が目の前に急に振ってきて、大量の惣菜を前に綱吉は途方に暮れた。
 おにぎりの具ひとつにしたって、人には好みがある。雲雀は和食好きだから梅干はきっと大丈夫、でもサラダ巻きは邪道だとか言い出しそうだ。納豆は平気だろうか、牛肉や天麩羅を巻いたものもあるが、彼はそういうものに免疫があるだろうか。
 考えれば考えるほど分からなくなってしまって、綱吉の頭の中がぐるぐると渦を巻く。本人に聞きに行くのが一番手っ取り早いのだけれど、任されたのだからそれは出来ない、だなんて屁理屈を捏ねて綱吉は乾いた唇をそっと舐めた。
「知らないぞ、っと」
 適当に選んで、と言ったのは彼なのだから、後から文句は言わせない。彼の好みが解らないなら、それこそ本当に適当に、目に付いたものを選んでしまえ。
 でも出来るだけ自分が好きなものを多めに、と綱吉は手当たり次第といった様子で籠の中に次々とおにぎりやサンドイッチを放り込んでいった。
 食べ物が終われば次は飲み物で、こちらも適当にお茶と炭酸系の清涼飲料水を籠に入れる。会計を済ませると、最初は一枚だった貨幣が二枚に増えていた。
「終わった?」
 細長いレシートを片手に、もう片手に小銭を広げ、重い袋を肘にかけて釣銭があっているかどうか計算していたところに、背後から声がかけられる。振り返るまでもなくそれは雲雀で、肩越しに覗き込んできたので面倒くさくなった綱吉は握り締めた拳をそのまま彼に突き出した。
 レシートは要るか、と聞けば首を振られる。黒革の財布に渡されたお釣りを仕舞った雲雀は、綱吉がぶら下げている乳白色のビニル袋の大きさに顔を顰めた。けれど特に何も言わず、行くよ、と綱吉を促して揃って店を出る。目的地は雲雀しか知らないので、綱吉は彼の後ろをついていくだけだ。
 住み慣れた街、けれど歩き慣れない道。ありふれた町並み、けれど目新しい景色。両手で袋を持ち替えた綱吉は、雲雀に遅れないようについていきつつも道の両側に広がる風景に目を見開き、好奇心の赴くままに視線を左右へ忙しなく動かす。
 十四年間生活していても、一度も通ったことがない道は案外に多いものだ。何処へ続いているのだろう、と時折雲雀の背中を窺うが、振り返りもしない彼は黙々と足を交互に前に繰り出していて、油断すればコンパスの差で距離が開いてしまう。なるべく間隔が広がり過ぎないように気をつけながら、綱吉は現在地の目印になるようなものはないだろうか、と背伸びをして生垣が続く道の脇を覗き込んだ。
 そしてふと、目に覚えがあるような景色に出くわす。
「あれ?」
 思わず声を出してしまって、足もほぼ同時に止まる。反動で跳ね返ってきた袋が膝に当たり、がさがさと不快な音が響いた。
「綱吉?」
「ヒバリさん、ここって」
 音に気づいて数歩先にいた雲雀が振り返る、けれど彼が何か言う前に言葉を連ねた綱吉は、視線を遠くに向けたまま、覚えているのに思い出せない出来事を懸命に記憶の引き出しから引っ張りだそうとした。
 だのになかなか目当てのものに行き当たらなくて、もどかしさに綱吉がその場で足踏みをする。リズミカルに体を動かす彼に目を細め、雲雀は綱吉が見ている方向を仰いで「そうだよ」と笑った。
 雲雀には綱吉が頭に引っ掛けている内容が分かっているようだが、教えてくれるつもりはないらしい。行くよ、と開いていた距離を大股に詰めた彼は、綱吉から昼食の入った袋を引き受けると答えを与えずにさっさと歩き出した。
 置き去りにされかけた綱吉が、慌てて小走りに駆け出して彼を追う。
 一歩進む毎に視界を狭める垣根は取り払われ、一歩進む度に緑が濃くなっていく。雑踏は遠くなり、吹き抜ける風からは微かに花の香りがした。
「ここって……」
「久しぶりだろう?」
 広葉樹が緑の葉をいっぱいに茂らせ、風を受けて涼しげに枝を揺らしている。頭上を流れた葉が擦れ合う音に圧倒されていると、笑みを隠さない雲雀が座るのに丁度良さそうな木の根元を見つけて綱吉を手招いた。
 足元を覆い隠す芝生も緑が鮮やかで、木漏れ日差す木々の下から見上げた空はどこまでも青い。眩しすぎる色のコントラストに瞳を眇め、綱吉は肺の奥底に溜まっていた息を一気に吐き出した。
 足元に落ちていたギザギザの葉っぱを拾い上げる。桜だ。
 花の季節はとうに終わり、芽吹いた緑がいっぱいに生い茂っている。風が引き起こした音の波に攫われそうになりながら、綱吉はおいで、と先に腰を下ろしていた雲雀の元へゆっくりと近づいていった。
「ヒバリさん、ここって」
「懐かしい?」
 皆まで言わせず雲雀が聞き返してきて、彼の左横にしゃがんだ綱吉は、膝を抱えながら太い木の幹に背中を預けた。
 此処は、いつだったか花見の席で雲雀と場所取り争いをした公園だ。今はもう花は散り、その名残すら感じさせない緑一色の空間ではあるが、雲雀の物言いからしても間違いないだろう。
 それは嫌味か、と傍らの彼を睨むと、雲雀は笑みを隠そうとせず持ち込んだ袋の口を広げ、中身を芝生の上に広げた。
 どさどさ、と大量のおにぎりが彼の足元に山を成す。合計幾つ購入したのかも数えていなかった綱吉は、思っていた以上に量が多い現実に目を瞬かせた。
 雲雀も同じ気持ちだったらしい。
「綱吉?」
「えっと、あの、……ごめんなさい」
 笑顔で名前を呼ばれるが、細められた眼は笑っていなくて正直怖い。ここは大人しく謝っておくほうが無難だろう、と畏まって頭を下げた綱吉に、雲雀は諦めたらしく、肩を落としながら山積みの食糧を手でかき回した。
 種類が異なるおにぎりをひとつずつ手に取って中身を確認していき、最終的に雲雀が選び取ったのはオカカ入りのおにぎりだった。
 彼が包装紙を剥いで行くのを待ち、綱吉も自分が食べたくて選んだものを探し出して膝に載せる。横向きに広げた脚が少し邪魔で、場所を広く取ろうと雲雀から離れようとしたら、何も言わずに雲雀は開いた分の距離を詰めてきた。
 肩が擦れ合う近さ、ちょっとでも動けば肘がぶつかってしまう。けれどそれが良いのか、もう一度身動ぎしようとしたら今度は腕を掴まれてとめられたので、綱吉は諦めてそこに居場所を定めた。触れ合った肩からは雲雀が腕を動かす動きがダイレクトに伝わってきて、少し落ち着かない。
 肩身が狭い思いをしながら膝に置いたおにぎりを取り、三角形の頂点にある切れ込みに指を添える。ちらりと雲雀が様子を覗き見るのが気配で分かって、綱吉はフィルムの表面に貼られた商品名を書いたシールを彼に見せてやった。
 他のおにぎりに比べて少しだけ値段も高かった、新発売の製品。人気なのか棚の同列に並べられていたもののどれよりも数が少なくなっていて、興味惹かれてつい手に取ってしまったのだ。
 手首の向きを戻し、フィルムを剥がして海苔に巻かれた米飯を取り出す。ゴミは散乱しないように空になったビニル袋に押し込み、両手で三角形の底辺を支え持った彼は、食べる前にまず目礼した。
「いただきます」
 先ずはこうやって、日々、おなか一杯になるまで食べられることに感謝を。
 農家の人たちに感謝を、食べられる状態に加工し、搬送し、販売して自分の手元に届けてくれた数多の人たちの労力に感謝を。
 綱吉に倣って雲雀も瞑目して僅かに頭を垂らし、それからふたり顔を向き合わせて笑って、おにぎりにかぶりついた。
 パリッとした海苔の食感と、柔らかな米の弾力が心地よい。ぱさつかず、べたつかない絶妙な具合で炊かれた米粒が口の中で踊って、間から顔を覗かせた具と絡んで咀嚼するたびに味が広がっていく。
「ん。美味しい」
 初めて食べる具なものだからちょっと勇気が必要だったが、人気商品なだけあって味に間違いは無かったらしい。
 親指にこびり付いた米粒を舐め取り、綱吉が率直で飾り気の無い感想を呟く。彼が食べたおにぎりの中身は、タレに漬け込んだ焼肉が細く刻まれて詰め込まれているものだった。
 肉の種類やタレにもこだわったのだと、包装紙にはあった。その謳い文句は嘘ではなかったらしい、最初のひとくちで齧り取った分を飲み込み終えた綱吉は、飲み物に手を伸ばそうとしてふと自分に突き刺さる視線を感じて横を向いた。
 正しくは綱吉の手元に集中していた視線、だ。雲雀が半分ほどに減ったおかかのおにぎりを片手に、じっと綱吉が持っている焼肉のおにぎりを見詰めていた。
「ヒバリさん?」
 彼の口は全く動いていない、動く気配もない。視線を受けて首を捻った綱吉は、彼が見詰める先にあるものを思い出してああ、と肩の力を抜いた。
「食べます?」
 目新しさも募るだろうし、綱吉が「美味しい」との感想を述べたのにも興味を覚えたのだろう。綱吉は右手だけでおにぎりを持ち直し、雲雀の方へ向けてやった。自分が齧っていない角を斜め上にして、どうぞ、と差し出す。
 促されるままに雲雀の体が前に傾ぎ、大口を開けた彼は綱吉の指まで咥える勢いでおにぎりに噛み付いた。
 海苔が千切れる音が綱吉にも聞こえて、直後彼は目を見開き悲鳴をあげた。
「ひ、ヒバリさん酷い!」
 慌てて身体ごと腕を引っ込めようとするが、既に前歯で削り取ってしまっていた雲雀の前では意味が無い。浮き上がった米飯が幾つか足元に飛び散って、体を後ろへ倒した雲雀はもぐもぐと口の中いっぱいに詰め込んだものを噛み砕いていく。
 綱吉の手に残されたのは、具が殆ど消えうせて黒い海苔と白い米ばかりが目立つ、最初の大きさから比べれば三分の一以下になった、かつておにぎりだったもの。
 男らしい喉仏が数回に分けて上下に動かされ、雲雀は咀嚼を終えた分から飲み込んで胃に押し流す。涙目になっている綱吉など全く意に介さないマイペースさは健在で、唇に残っていた焼肉のタレを指で拭い、そこにも舌を這わせた。
「うん、確かに」
「……ヒバリさん……」
「悪くない味」
「俺、殆ど食べてないのに!」
 最初にひとくち齧っただけで、味見程度だった綱吉は実際のところ殆ど食べていないに等しい。それなのに詰め込まれていた具も大半は雲雀が持って行ってしまって、穴の空いたご飯の塊にタレがこびり付いている程度しか残らなかった。雲雀ひとりが食べたようなもので、綱吉は悔しさと哀しさが入り混じった表情で傍らの彼の肩を叩いた。
 酷い、ともう一度口にして、今度は彼の膝を叩く。
 綱吉がこんなに怒るとは雲雀も想定していなかったようで、彼は口の中に残っていた最後の塊を飲み込むと、口元から手を外した。まだ人を叩こうとしている綱吉の腕を掴んで動きを封じ込めると、困った表情で眉尻を下げて天を仰ぐ。
「……悪かった」
 だが青空を泳ぐばかりの視線は結局何も見つけ出せなかったようで、雲雀に掴まれた腕を構わずに差し向けてくる綱吉に肩を落とし、小さく短く、彼は言った。
 一瞬狐に抓まれたような顔をした綱吉が、目を丸くして数回瞬きを繰り返す。ばつが悪そうにしている雲雀がとても意外で、驚いた様子を隠さずに露にしていると、逆に今度は綱吉が雲雀に怒られてしまった。
 軽く握った拳で、軽く頭を小突かれる。
「あいたっ」
「そんなに食べたかったなら、買って来るけど?」
 本当はそんなに痛くなかったのだけれど、つい鋭い声をあげてしまった綱吉に、肩を竦めた雲雀が言葉を重ねてくる。
 咄嗟に閉じていた目を開けば、正面に映し出される雲雀の表情は変に構えていると分かる色を浮かべていて、綱吉は手元に残されたおにぎりと彼とを交互に見詰めてから、静かに首を横へ振った。
 大体、この場所からあのコンビニエンスストアまではそれなりに距離がある。あと時間も時間だし、売り切れてしまっている可能性は高い。
 それに、考えてみればこれはいつだって買えるのだ、食べたくなればその時に自分で買いに行く。
 今はただ、雲雀と一緒にこうやって肩を並べながら、青空の下で食事をしていることが特別なわけであって。
「えっと、ヒバリさん。ちょっとこっちに」
「綱吉?」
「そう、そのままじっとしてて」
 まじまじと近い場所から雲雀を見詰めた後、綱吉は左手で彼を招き寄せ、自分からも距離を詰める。完全に肩同士がぶつかり合って骨が擦れる感触が服の布地越しに伝わり、雲雀は怪訝気味に顔を顰めたものの、言われた通り綱吉の方へ再び上半身を傾けた。
 膝頭も正面衝突する。気づいた雲雀がそちらに気を取られている間に、腰を低くした綱吉は彼の胸元に頭を寄せた。
 雲雀の視界には、綱吉の蜂蜜色をした柔らかな髪の毛がいっぱいに広がったことだろう。驚いて身を引こうとした彼より早く、綱吉は首を上向けて彼に向かって背筋を伸ばした。
 早めに目を閉じてしまった為に、ほんの少し位置が右にずれてしまった。もう少し逸れていたなら、完全に頬にぶつかっていただろう。だがどうにか唇は目的の場所に無事掠めて、綱吉は赤い顔を隠しながら後ろへと姿勢を戻していった。
 雲雀はといえば、二度吃驚した顔で今しがた綱吉の唇が触れた場所に指を置き、呆然と綱吉を見詰め返す。
「つ……」
「今日は! これで、許してあげます」
 自分でやったことだけれど恥かしすぎて、綱吉は誤魔化そうとわざと大声で叫んだ。
 離れた場所に陣取っていた親子連れが一斉に彼らを振り返るが、喧嘩をしているわけではないと分かって直ぐに注意は逸れていった。
 綱吉は言い終えてふん、と鼻息ひとつ荒々しく吐き出すと、残っていたおにぎりをひとくちで頬張り、ペットボトルのお茶を取ってろくに噛み砕きもせずに胃の中に押し込んでいった。無論無理がありすぎて途中で噎せ、苦しげに咳き込んで雲雀へともたれかかる。
 此処に来てやっと我に返った彼もまた、綱吉に負けず劣らずの赤い顔を作り出した。
「あー……もう、恥かしい」
「綱吉」
 なにをやっているのだろう、自分は。
 まだ胸の辺りが気持ち悪いのを堪え、頭を上げた綱吉の愚痴に雲雀の声が重なって響く。
 なんですか、と見上げた先。
「また、こよう」
 青一色に染まった空、流れて行く白い雲、風に揺れる緑の木立。
 漆黒の瞳を細めて微笑む彼に口付けられて、綱吉は咄嗟に返事が出来なかった。

2007/5/10 脱稿