鬱金香

 雲の少ない頭上には、遠慮を知らない太陽が我が物顔でのさばっている。そろそろ厚めのジャケットも必要なくなり、身軽な服装が楽しめそうな季節。地上を歩き回る分には心地よい気候であるけれど、全力疾走している人たちには辛いだろうな、と思える温い空気が綱吉の両側を流れていった。
 遠く西から東へと飛行機雲の白い線が延びていく。日差しを避けて額に手を当て庇代わりにした綱吉の耳には、風に乗り小気味の良い打撃音が飛び込んでくる。威勢良い掛け声が乱雑に絡まりあい、そのうちのひとつが一際大きく空を駆け抜けていく。
 綱吉はその場で深呼吸すると、肩から吊り下げていた鞄を腿の前から左の脇へと移動させた。一瞬止まりかけたつま先を叱咤して前に出して、白壁が右手を遮る道を曲がり、学校の正門を目指す。
 三月、春休み。それなのに制服に身を包み学校へ向かっている彼は、進級するには若干授業をサボりすぎたという名目で呼び出しを受けていた。このままでは三年生になれませんよ、と三角眼鏡が怖い教頭の精一杯の心遣いのお陰で、彼は折角の春期休暇の大半を補習授業に費やさなければならなかった。
 とはいえ、教える側の教師だって休みたいに決まっている。だから補修時間の多くは予め用意されていたプリントの回答を埋める自習に宛がわれ、綱吉だけがとぼとぼとひとり寂しく学校に来ては無人の教室で時間を潰す日々。
 奈々の用意してくれたすっかり冷たくなった弁当は、学期中に皆と食べたものとは違いあまり美味しくない。箸を動かす指もあまり働いてはくれず、空白だらけのプリントを前に溜息を零す毎日だ。
 こんなことをして、どうなるというのだろう。けれど顔見知りが三年生に進級する中、自分だけが二年の教室に取り残されるのも嫌。せめて単位だけは最低限確保しなければという義務感が、綱吉を学校へと誘っている。
 正門を潜り抜け、校舎の中へ。上履きに履き替えて乳白色の廊下に立つと、自分の足音ばかりが耳奧に反響し背中が震えた。
 外にいた時は耳障りとさえ思えた運動部の練習声も、今は壁に阻まれて遠い。急激に訪れた静寂に眩暈がして、綱吉は鞄の紐を握り締めると、登校した旨を知らせるべく教室ではなく職員室を目指した。
 歩くたびにカツン、と硬い音が足元から上ってくる。呼吸と心音が重なり、そのリズムに歩調が合って不可思議な気分だった。正面玄関を入って直ぐの角を抜けて細長い廊下を暫く進み、右手に開けた窓からグラウンドの様子をちらりと眺める。
 今はサッカー部の練習中なのか、登校中に聞こえた打撃音は見当たらない。左右の見える範囲でなじみの在るユニフォームを探したが、既に場所を譲った後なのか野球部員の姿はどこにもなかった。
 綱吉は足を止め、ガラス窓越しの外を見詰める。透き通って映る自分の姿を追い越した視線は暫く空と地表との合間を彷徨ったが、やがて諦めたように首を正面に戻し彼は肩を落として息を吐いた。
 考えるのはやめよう、そう自分に言い聞かせて緩く首を振る。
「ツーナっ!」
「うわぁあ!」
 だから隙だらけの背中にいきなり体重がかかり、肩の上を通り抜けて胸の前に覆いかぶさった誰かの手と落ちてきた声に綱吉は驚き、腕を滑り落ちていった鞄の底が右足の爪先に直撃してそちらの痛みにも悲鳴をあげた。
 痛い、そして重い。
 激しく心臓に悪い。
 廊下を突き抜けていった綱吉の悲鳴に驚いたのは、何も彼本人だけではない。背後から子泣き爺よろしくしがみついて来ている存在もまた、彼の大声に「おや」と目を見開いた。抱き締める腕の拘束を緩めてやると、綱吉が弱々しい動きで振り返ってくる。
 目が合ったので笑いかけると、逆に綱吉は泣きそうになりながら酷い、と口にした。
「ごめんごめん、そんなに驚くと思ってなくってさ」
 軽い調子で謝罪を口にし、バックステップで彼は綱吉から離れる。被っていた野球帽を外して鍔を持ち、風を仰がせた山本はまだ膨れっ面をしている綱吉へも汗臭い風を送って、本当に悪かったと思ってるからさ、と重ねて詫びた。
 綱吉は頬を膨らませていた空気を吐き出すと、そのまま大仰に肩を落として足の上に鎮座している鞄を拾い上げた。中身は決して重くないが、弁当箱の角が小指に当たったのは運が悪かったとしか言いようがない。靴の内側でじんじんとした痛みを訴えている指を心の中で慰め、彼は鞄を抱え直した。
 それから漸く山本に向き直り、首を傾がせる。
「練習は?」
「ん、休憩中」
 白地に紺色で並盛と大きく書かれたユニフォームはところどころに土がこびり付き、精悍な顔立ちの彼の男っぷりをあげていた。アンダーシャツには汗が滲み、その箇所だけが少し色が濃い。足元を見れば靴は履いておらず、厚めの靴下だけの状態。そこにも土汚れが目立って、じろじろと見下ろしているのに気づいた山本はサッと片足を後ろへ隠してしまった。
 もっとも軸足にした右足も同じような状態だから、隠す意味がない。視線をあげれば照れ臭そうにしている彼が居て、綱吉はつい笑ってしまった。
「ツナは?」
「俺は補習」
 拾い上げたばかりの鞄を持ち上げ、彼に示しながら答える。落とした衝撃で弁当の中身が傾いていないか心配だが、この場で確かめるわけにもいかなくて、苦笑したままの綱吉は脇に鞄を担いだ。
「そっか、大変だな」
 山本も出席日数は危なかったのだが、テスト前に猛勉強してどうにか合格点を取って補修を免れている。綱吉はそのどちらも足りなくて、今回の有様。獄寺も出席日数をテストの点数で補っており、ボンゴレ十代目は勉強では完全に部下に置き去りを食った形だ。
 春休みにまで勉強をしに学校へ来たくないのは、誰だって同じ。綱吉の境遇に同情気味の視線を向けた山本に対し、綱吉は肩を揺らして笑いながら大丈夫だよ、と首を横に振った。
「山本こそ」
 紺の帽子を被り直した彼の、潰されて横に跳ねている髪を指で弾いた綱吉は、その指で彼の左腕に巻かれた腕章を小突いた。何のことだろうときょとんとしていた山本だったが、揺れた赤いマークに横目を流してああ、と納得行った様子で数回頷いた。
 間違っても風紀委員の腕章などではない。それは野球部の、主将という身分を証明するものだ。
 彼は昨年引退した三年生に代わり、野球部を引っ張っていくキャプテンに任命された。責任感の強さに人望の厚さ、実力も申し分ない彼が主将を継ぐ決定に反対する部員は誰もおらず、山本は二つ返事で先代キャプテンから渡されたこの腕章を受け取った。
 とはいえ、主将の役目は重い。
 今までは自分の好きなようにボールを投げ、練習に励み、気楽な調子で仲間を応援しながら頑張っていればよかった。けれどキャプテンとして部のトップに立った以上、部員全員に気を配り、オーバーワークになっているメンバーが居れば休ませ、逆にサボっている部員には注意をして自覚を促す。自分ひとりだけではなく、部内全体の様子を逐一確認しては気を配る。
 それでいて個々人の練習メニューの相談を受けたり、ペース配分を調整してやったり、悩みを聞いてやっては解決のために奔走する。彼は以前にも増して野球部に入り浸り、朝から晩まで野球一色に染まりつつあった。
 山本がどれだけ野球が好きで、それに熱心に打ち込んでいるのを知っているから、綱吉は敢えて何も言わなかった。彼が無理をし過ぎていると感じた時だけ、さりげなさを装って気晴らしに誘ったり、ゆっくり休めるように根回しをしたり。
 自分の事には割りと鈍感な彼だけれど、他人の動きには妙に鋭敏なところがある山本は、ひょっとしたらそんな綱吉の気遣いにとっくに気づいているかもしれない。けれど彼もまた何も言わなかったから、綱吉も山本の斜め後ろに立ったような状態を維持してきた。
 山本はずっと遠く高い場所を見ている。その先にあるものは、綱吉が目指す道と大分違う。
 我が儘はいえない、言いたくない。彼は彼の夢を優先して欲しいし、綱吉だって彼の意志を尊重したい。だから綱吉は山本の前に決して出ない。 
 半端で、曖昧で、微妙な距離感。隣ではなく、後ろでもなく、斜めに。そのうちお互い離れていく将来を意識しての綱吉の位置取りを、山本はどう思っているのだろう。
 聞いた事はない、聞けるはずもない。確かめれば今の薄氷を踏むような関係さえ壊れてしまいそうで、怖くて出来ない。
「大変だけど、結構楽しいぜ」
「そうなんだ?」
 綱吉の不安を他所に山本は片腕をあげて力瘤を作る仕草をとり、上腕を反対の手で軽く叩く。俺に任せろ、と言わんばかりの態度に綱吉は噴出し、似合わないと笑うと彼は不満げに胸を反り返らせた。
 そうして綱吉が笑い止むと、急に周囲が静かになる。前髪に感じる彼の呼気を上目遣いに見上げれば、何か躊躇するような山本が赤くなった頬を掻きながら遠くを見ていた。
「なんか……凄い久しぶりな気がする」
 綱吉はこの補習期間、教室からずっと山本を見ていた。けれど声はかけず、いつも遠くから眺めるだけだった。野球に集中している彼の気を削ぎたくなかった、見ているだけで充分だと自分に言い聞かせて。
 だから彼の言う通り、こうやって顔を突き合わせて会話するのは終了式以来。指折り数えて片手では足りない日数に驚きつつ、綱吉はそうだっけ、と誤魔化すように小首を傾がせた。ただ、耳が肩に付くには程遠い位置で動きは遮られた。
「やまもと」
「悪い、ツナ。ちょっとだけだから」
 真正面から抱き締められ、彼の匂いが近くなる。鼻腔を擽る汗と土の匂いに、春の日差しを感じて綱吉は目を閉じた。
 おずおずと持ち上げた腕は、しかし彼の身体に触れる前に止まって力なくしな垂れる。ごめんね、と心の中で謝っても伝わらないと知りながら、綱吉は言葉に出来ずに涙と一緒に飲みこんだ。
「俺、汗臭いよな。ごめんな、けど、俺」
「ううん」
 懸命に言葉を捜している彼を今度は綱吉が遮り、緩く首を振った。どうにか捕まえた彼のユニフォームの裾をぎゅっと指で握り締め、そこにこびり付いている土を爪で引っ掻く。
「すき、だよ」
 君が好き、君の匂いが好き。君の全部が好き、大好き。
 だから。だから。
「うん、俺も」
 強く抱き締める山本へ、綱吉は笑い返せなかった。

2007/2/21 脱稿