言霊

 そこを通り掛かる少し前、何かに呼ばれたような気がして綱吉は顔をあげた。
 けれど視線を持ち上げて辺りを見渡しても、自分を見ている存在は誰もいない。むしろ自分が首を伸ばしきょろきょろとするものだから、その挙動不審さに周囲が気持ち悪そうにしたくらいで。
「あれ……?」
 おかしいな、と首を捻っていたら右肩に重量を感じ、視線の先を入れ替えればそこには人懐っこい笑みを浮かべた山本が立っていた。
 人の肩を支えにして体重を預け、寄りかかっている。必然的に綱吉の肩は彼の方に傾いていって、綱吉の右側頭部に彼の額がぶつかった。笑いながら押し返されて、だから綱吉も本当に聞こえたのかどうか分からない呼び声の事など忘れて彼に笑い返した。
「どーした? ツナ」
「あー、うん。なんでもない」
 掃除の手をふたりして休めていたものだから、学級委員も兼ねる女子に思い切り睨まれてしまう。山本は恐らく綱吉の動きを見て、心配して声をかけて来てくれたのだろう。だが綱吉自身も上手く表現できないことだったから、曖昧に言葉を濁して彼は山本の脇腹を肘で小突いてから箒を握る手に力を込めた。
 後方に寄せた机を並べている途中だった山本も、「そっか」と軽い調子で頷いて離れていく。
「さわだー、ゴミ捨て頼むー」
「えー?」
「頼むって、俺部活なんだよ」
 足元に溜めていたゴミを塵取りに集めていると、青色のポリバケツを抱えた男子生徒が山本と入れ替わる格好で綱吉の前に駆け寄ってきた。
 ゴミ捨ては掃除が終わった後も集積場まで運ぶというひと手間かかるから嫌われていて、だからこそサボらないようにと当番が日割りで決められている。今日の担当は今目の前で綱吉を拝んでいる少年で、彼はその言葉通りサッカー部に所属している。確かもうじき試合があるとかで、そろそろレギュラーメンバーが発表になるらしい。
 彼がその十一人の中に選ばれるかどうかの瀬戸際にあるという話は小耳に挟んでいたし、一秒でも早く部活に出たい気持ちも解らないではない。クラスメイトとしてレギュラーになれるよう応援してやりたい気持ちも山々だが、綱吉だって面倒な事は正直やりたくない。
 学級委員長が睨みを利かせているのが傍目にも分かって、冷や汗が出る。サッカー部の彼はまだ両手を合わせたまま頭を下げていて、綱吉はどうしたものか、と肩を落として嘆息した。
「俺の時と交替、でいいなら、いいよ」
 このままでは埒が明かない。綱吉がゴミ捨て当番だったのは一週間ほど前の事で、次が回ってくるのは来月に入ってからだ。その頃にはサッカー部も試合は終わっているから、目の前の彼も多少は余裕を取り戻しているだろう。
 右手で箒を握り直した綱吉の妥協案に、目を輝かせて彼は顔を上げた。
「助かる、沢田。恩に着る!」
 これ、頼む。そう言い残し、彼はまだ整列が済んでいない机に駆け寄って自分の鞄を引っつかむと、大急ぎで教室から飛び出していった。あっという間に背中は見えなくなり、綱吉の手元には彼の言葉の余韻と、ずっしり重いゴミ箱が残される。
 クラスメイトの大半は、綱吉の人の良さに呆れている感じだ。折角、やれば出来る奴という評価が与えられつつあるのに、自分からパシリだった頃に戻ろうとしているようにも見えて、山本は机を運びながら肩を竦めた。
 この場に獄寺が居合わせていたなら、結果は変わったかもしれない。だが綱吉を敬愛して止まない彼は掃除当番では無かったので、授業終了とほぼ同時に帰宅の途についてしまっていた。山本も別の友人と喋りながら机を並べている最中だったので、気づいた時にはもう手遅れ。
「ツナ、俺が変わってやろうか?」
 今日は時間があるから、と山本が手を挙げて彼に呼びかけるが、箒と塵取りを先に片付けて用具入れのロッカーを閉めた綱吉は、振り返ってから首を横へ振った。
「いいよ、山本も部活あるだろ」
「ゴミ捨ていくくらいなら、大した時間じゃないって」
 そもそもあのサッカー部所属のクラスメイトは、何かにつけて部活動を理由に掃除をサボりたがる生徒で、これまでにも別の生徒を相手に代替を踏み倒した前科がある。今回も綱吉との、当番を交替するという口約束は果たされない可能性が高い。綱吉本人だって、それはよく分かっているはずだ。
 だのに彼は山本の申し出に再度首を振って断り、教室入り口手前に置いていたゴミ箱を両手で持ち上げると、よろよろと左右にふらつきながら廊下へと出て行った。
 他のクラスでは、既に掃除が終わっているところもあるらしい。すれ違う生徒の大半は鞄を持って正面玄関へ向かって歩き出しており、或いは部活動に参加すべく部室に向かう生徒もそれなりの数に登る。万年帰宅部の綱吉には関係の無い世界だが、時には大勢とひとつのことに熱中してみたいな、という憧れは少なからずあった。
 だが自分は天下に名をとどろかせるくらいの運動オンチであり、団体競技で皆に迷惑をかけるのは解りきっている。リボーンの言うようなマフィアのボスになる資質だって、持ち合わせていない。大体自分には人を導くだけの技量も、センスも一切無いというのに、それでもまだ彼は、ボンゴレの十代目はお前が継ぐのだと言って聞かない。
 獄寺にしてもそうだ、彼が思うほど自分は決して強くない。
 思い返せば憂鬱な気分が舞い降りてきて、両腕にかかるゴミ箱の負荷も合わさり彼はがっくりと肩を落としたまま最後の階段を踏み締めた。
 帰宅する生徒の列からはみ出し、校舎裏にあるゴミ集積所に向かう。外はまだ太陽が地平線の上に残り、西から眩しい光を地表に投げつけているものの、その光は校舎に遮られてしまっていて裏手はかなり薄暗かった。
 夜間程ではないにせよ、不気味さは漂う。用事が無ければ人も滅多に寄ってこないので、不良のたまり場としても絶好のポイントになっている。
 だから出来るだけ早くゴミを捨てて、立ち去ろう。痺れてきた指先を叱咤し、綱吉はゴミ箱を抱え直すと建物を囲むようにして聳え立つ針葉樹の並木に足を踏み込んだ。
 なにか、物音がする。
 最初は風の音かと思って視線を持ち上げたが、毛羽立った幹を真っ直ぐ空に向かって伸ばしている樹木は少しも揺れていない。気のせいかと思い直したものの、耳を澄ませばまたもうひとつ、なんだか解らないものの音がして、綱吉は怪訝に眉を潜めるとそのまま足を前へと進めた。
 建物と樹木の間、綱吉の前方大体二十メートルほどだろうか。
 校舎が途切れてその先にようやく目指す集積場があるのだが、その手前に数人のグループが輪を作っているのが見えた。
「……?」
 座っているのはひとりかふたりで、残る三人ほどは立っている。風下に立っている綱吉の鼻腔に嫌な臭いが流れ込んできて、思わず顔を背けた彼はゴミ箱から片手を外して口元を覆い隠した。
 獄寺で慣れているとはいえ、不快なのには変わりない。タバコだ。それと、もうひとつ。
 立っている数人が、交互に足を繰り出して何かを蹴り飛ばしている。最初はサッカーボールか何かかと思ったが、遠目に見えるものはそこまで大きくない。では別のボールかと目を凝らしてよく見れば、それは綺麗な円形をしていなかった。
 こげ茶色で、変な形をしている。
 ゴミ箱の角を地面に擦りつけながら二歩前に進み出た綱吉は、なにやらざわざわと胸の奥底で波立つ気配に気分の悪さを覚えていた。嫌な予感がするが、目的地があの集団の向こう側にあるだけに、引き返すわけにもいかない。無視をして、目を合わさずに横を素通りしよう。口元から下ろした手を握り締めて臍の辺りに置いた彼は、荒波立つ精神を鎮めようと視線を伏して、長く息を吐いた。
 けれど引きずっていたゴミ箱が落ちていた小石に乗り上げ、掴んでいた左手が煽られる。咄嗟に目を見開いて自分の後方を振り返ろうとした瞬間、不良たちの足元に転がる無残な毛並みに鳥肌がたった。
 嫌悪感と同時に強烈な怒りが綱吉の中に沸き起こり、前後左右さえつかめなくなった綱吉は無意識に暴走していた。
 持っていたゴミ箱を、中身が飛び散るのも構わずに不良たちに向かって投げつける。唐突の後方からの襲撃に彼らは驚き、足を退かせたところで綱吉の目にはっきりと、彼らが蹴り飛ばしていたものの正体が映し出された。
 四肢の力を失い、痙攣を起こしている小さな、生き物。
「お前ら、なにやってる!」
 不良は全員で六名、何れも学年が上なのか見知らぬ顔ばかりだ。だが顔を知っていたところで意味は無い、彼らとお友達になることは永遠にないだろうから。
 一番綱吉に近い場所にいた不良がゴミを被るという被害を受けていて、埃と紙くずにまみれた彼は怒り心頭と言った表情で綱吉を睨んだ。他の面々も似たり寄ったりで、タバコを足元のコンクリートに押し付けて消した不良も揃って立ち上がる。
 不穏な空気が場を支配し、綱吉の後ろからゴミを捨てようと来ていた女生徒が悲鳴を上げて逃げていった。
「なんだ、テメェ」
「お前ら、なんて事してるんだ!」
「はぁ?」
 綱吉の怒号に、先頭に立っていた不良が思い切り顔を顰める。
 人差し指を突き立てて何かを指差している綱吉を見ても、彼には綱吉が怒る理由が解らないらしい。他の面々も見たり寄ったりの反応しかせず、それが益々綱吉の怒りを買う。
「生き物に、なんて事してるんだよ!」
「……ああ」
 これ? と輪を作っていた三人のうち、綱吉から向かって右側の不良がポケットに両手を入れたまま右足を持ち上げた。
 薄汚れた靴先が、地面に力なく横たわっているものの脇腹を掬い上げる。そのまま上に動かして裏返し、だらりと垂れ下がるだけの後ろ足を踏みつけた。
 キャイン、と甲高く、そしてか細い悲鳴が綱吉の聴覚を刺激する。
「止めろ!」
「うっせーよ、なんだテメェ」
 凄みを利かせ、タバコを吸っていた不良が一歩前に出る。剣呑な雰囲気に怯みそうになった綱吉は、腰をやや落として姿勢を低くすると、油断なく構えを作ろうとした。
 だが甲高い悲鳴がもうひとつ続き、迫り来る不良の背後でまた別の不良が子犬を蹴り飛ばしている姿が見えた瞬間、綱吉の中で音を立てて何かが切れた。
 振り翳された靴の裏が、逃げる力も失っている子犬の腹部に狙いを定めている。見た感じでしか分からないが、目も開いているかどうか微妙な生後間もない子犬に対する仕打ちではない。
 ざわりと綱吉を包み込む空気が揺れて、波立つ。奥歯を噛み締めて見開いた瞳で睨み返せば、先頭にいた男子だけが彼の変貌振りに気づいて歩を止めた。
「やめろって、言ってるだろ!」
 牙を剥いて怒鳴った綱吉が、虚を衝かれた不良に肩からぶつかっていく。体格で言えば綱吉の方がはるかに貧弱なのだが、不意をつかれた所為もあって不良は簡単に吹っ飛んだ。後方にいたもうひとりを巻き込みながら後ろ向きに倒れて行き、地面に転がっていたゴミ箱にも踵を引っ掛けて更にひとりを道連れに派手な音とと共に転ぶ。
 子犬を蹴ろうとしていた不良が、驚いた様子で綱吉を振り返った。立っている人数は半分の三人になったが、ぶつかっていた衝撃で跳ね返されて肩が痛んだ綱吉は、苦虫を噛み潰した顔をして浮き上がった汗を乱暴に拭った。
「てめっ、何しやがる」
「それはこっちの台詞だ!」
 生き物を無生物と同列で扱い、残酷な仕打ちを平然と、それこそ笑いながら行う。人間のすることではない。
 どうしてそんな簡単なことが解らないのか、と憤りが隠せないまま綱吉は拳を固くして振り上げた。
 自分が脆弱な存在であるとか、この場には頼りになる獄寺や山本、それからリボーンもいないというのは完全に忘れ去っていた。ただ目の前の出来事にカッと頭に血が上って、冷静な判断力が著しく欠如してしまっている。喧嘩に勝てるかどうかではなく、単純に子犬に酷い事をするのが許せなくて、なんとしてでも止めようという意識しか彼の中には残っていなかった。
 つまりは、彼はどうやって不良を止めるか、という考えにまでは至っていなかった。
「んだと、やんのかコラァ」
 こめかみに青筋を立てた不良が、凄みながら綱吉に迫る。最初に転がった男達も、ぶつけた箇所を気にしつつそれぞれ起き上がろうとしていて、そうなれば自分の不利さ加減は目に見えて明らかだ。
 今頃になって我に返った綱吉は、しまった、と表情を曇らせたが既に遅い。
 なんとかこの不良たちの壁を抜けて、あの子犬だけでも救いだけ無いだろうか。素早く横一線に視線を走らせた彼だけれど、流石にあちらも喧嘩慣れしている様子が窺えて、ちょっとやそっとでは突き抜けられそうにない。
 投げ捨てられたゴミ箱を忌々しげに蹴り飛ばした不良が、唾を吐いて綱吉との距離を詰めていく。思わず尻込みして後ろに下がりかけた綱吉だったが、かといって子犬をこのまま見捨てて逃げるのは嫌だし、教室のゴミ箱も此処にいつまでも転がしておくわけにはいかない。
 当番を交代したばっかりに、こんなことに。爽やかな似非っぽい笑顔を振り撒いていたクラスメイトを恨みがましく思い出しながら、綱吉はどうしようかと懸命に頭の中で考えを巡らせた。
 けれど焦れば焦るほど妙案は遠ざかって行って、あっという間に五人に取り囲まれて逃げ道も塞がれてしまった。体格が勝っている不良たちが壁になり、傍目からは綱吉が間にいるのも見えないかもしれない。不良の姿を遠目にし、ゴミを捨てるのを諦めた生徒もあるだろう、救いの手は期待できない。
 余計なお節介だったのだろうか、と後悔が先ず先に出る。嫌らしい笑みを口元に浮かべた不良を窺い、なんとか突破口を探し出そうとするものの、段々と包囲網は狭められていくばかり。子犬の傍にはひとり残ったままで、ニヤニヤと気分が悪くなる笑みのまま籠の鳥となりつつある綱吉を見ていた。
 考えなしに突っ込むから悪いのだ、弱いくせに。
 以前にも似たようなことをしでかし、大怪我を負った自分に反省を促した人物の台詞が蘇る。
 けれど、いくら自分が弱いからと言って、自分よりも弱いものが虐待されているのを見過ごすのは嫌だ。強いものが何をしても良い世の中なんて間違っている、脆弱な存在にだってちゃんと意志が在るし、生きていく権利がある。
 弱くて何が悪い、誰だって好んで強者と弱者の区分けに身を置いているわけではない。蟻だって象を倒すことがあるのだ、そう主張した綱吉に、彼はほんの少し驚いて、ほんの少し複雑な表情で笑った。
『なら、もう少し考えるか、もしくは弱いなりに弱いものを守れるようになることだね』
 あとは、強いものに助けを求めること。ひとりで突っ走らないこと。怪我をした部分を避けて鼻を摘んでそういった彼の、優しい笑顔が蘇る。
『何かあれば、先ずは僕を呼ぶこと』
 けれど、ダメだ。今はもう、それでは間に合わない。
 約束を破ってごめんなさい、でもどうしても、自分は辛抱が出来なかった。
 ずい、と不良が綱吉との距離を詰め切って、目の前が暗くなる。日陰だから今までも充分薄暗かったのが、視界を半分塞がれてしまって余計に暗さが増したのだ。人の気配が密になり、放たれる殺気に背筋が震える。
 負けるものか、と臆してしまう自分の心を奮い立たせ、弱いものだって自己主張するくらいするのだと睨み返せば、不遜な態度で胸を反り返していた男が拳を作る様がスローモーションで見えた。
 こんな奴は、――こんな奴らは、怖くない。
 自分はもっと恐ろしい相手を知っている、死ぬ気で戦った経験は一度や二度では片付かない。
 こんな愚かしい連中には負けない、絶対に。だから、大丈夫。
「死ねや!」
「誰が!」
 怒声を放った男の一瞬の隙を突き、振り上げられた拳でがら空きになった胴体部分にタックルを繰り出す。体重の軽い綱吉だけれど、腰を落として膝を使えばそれなりに当たりはきつくなるものだ。ぶつかられた方としては綱吉が一瞬で視界から消えたようなもので、目を見開き周囲の仲間の反応を見てようやく、自分が突き倒されたのだと気づく有様。
 思いがけない綱吉の攻勢にたじろぎ、残る四人がその場でたたらを踏む。
 倒れていく仲間を乗り越えて駆け出した綱吉の背中を黙って見送る彼らは、次の挙動に困惑している感じだ。それが綱吉には逆にチャンスで、惚けたままでいる子犬の脇に残っていた不良へ、綱吉は勢い任せに突進していく。
 だが寸前で我を取り戻したそいつは、苦々しい表情を作ると邪魔だといわんばかりに右膝を後ろへ引き、蹴りを繰り出した。
 綱吉にではなく、足元に横たわったままぐったりとしている子犬の、腹部目掛けて。
「やめっ――」
「うっせえんだよ!」
 あんな近距離から蹴られたら、幾らなんでも子犬の内臓が潰れてしまう。既に避けるとかどうこう出来る状態にない子犬には、次の一撃が致命傷となるだろう。それは綱吉でも即座に理解できて、彼は一瞬泣きそうなまでに表情を歪ませると、地面を蹴った爪先の向かう方角を僅かに左へとずらした。
 不良が怒鳴り声を上げ、力なく仰向けになっている子犬を蹴り飛ばす――はずだったが。
「ぐあっ!」
 悲鳴は不良たちからすれば意外なところからあがって、綱吉はもんどりうって左肩から地面に落ちた。
 咄嗟に彼は体勢を低くしてジャンプし、スライディングの要領で子犬を寸前で抱きかかえ不良の足に背中を向けたのだ。だが蹴りまではかわしきれず、右の脇腹に不良の爪先が食い込んだ。咄嗟に息が出来なくて、胃の内容物も全部吐き出してしまいたくなる。逆流した胃液が喉を焼き、軋んだ骨の痛みも合わさって目の前に無数の星が散った。
 どすん、と大きな音を立てて綱吉の体は地面に跳ね、三十センチほど滑ったところで止まる。綱吉を蹴り飛ばした相手は、自分の右足が受けた重みに驚いた様子だったが、綱吉が激しく咳き込んで倒れこんでいる様を見て、徐々に気勢を取り戻し肩を震わせて笑った。
 コイツバカだ、こんな犬っころ庇いやがった。嘲笑が綱吉の頭上で渦を巻き、ぐらぐらする。歪んだ視界は半分以上が土色をしていて、そこに影が落ちたかと思うと今度は鼻っ面に強烈な痛みが走った。
 目の前が真っ暗になり、骨がぶつかり合う嫌な音が体の中に走った。痛いというよりも熱い衝撃に脳が揺れて、咄嗟に何が起こったのか理解出来ない。再び後頭部から地面に落とされて、鼻の頭を中心に顔を蹴られたのだと理解したのは生温い汁気が唇を濡らしてからだった。
「うっ」
「ほーらほら、どうした? さっきまでの威勢はよ」
 意識が遠くなりかけたところで、今度は下にしていた左肩から胸部にかけてを痛打される。人は腕よりも足の方が力は強いので、下手に殴られるよりも蹴られた方がよっぽど痛い。沈みかけていた意識が霧散して呻き声が噛み締めた歯の隙間から漏れていって、悔しくて言い返したいのに呼吸さえもままならず、綱吉は生理的に浮かんだ涙で頬を濡らした。
 ぬるりとした感触はまだ唇を伝っていて、鼻の中が切れて血が出ているのだと分かる。
 今度は膝を蹴られ、容赦ない力が綱吉の身体を激しく揺さぶった。
 ミシミシと全身の関節が悲鳴を上げ、筋肉が寸断される痛みに息が詰まる。骨でも折れているのではと思うのだが、止めてくれるように懇願する事も許されず、綱吉はただ必死に、腕の中に抱え込んだ小さな存在を守ろうと背中を丸めた。
「なんだ、コイツ」
 痛む膝も曲げて胸に近づけ、母親の中にいる胎児の体勢を作り出した綱吉に、興ざめた様子で男のひとりが呟く。別の不良はまだ中身が半分ほど残っているゴミ箱を手に綱吉に近づいて、肩の高さまで掲げあげているところだった。
 綱吉は腕をさすり、中にいる存在に意識を向ける。まだ微かに息があって、仄かに暖かい。鼓動は弱いが命の灯火は消えたわけではなく、その現実に胸を撫で下ろした綱吉は一瞬だけ自分の痛みを忘れた。
 馬鹿な子、とまた怒られてしまう。どうして呼ばなかったのか、とも。
 でもあの人は忙しいから、きっと自分が呼んでも気づいてくれないだろう。こんなことであの人の手を煩わせるのも嫌だ。
 けれど、もし、届くなら。
 届いて欲しい。
「ヒバリ、さ……」
 ざり、と遠くで地面を擦る足音がした。
 綱吉の頭上で嘲笑を繰り広げていた男達が一斉に震え上がり、見苦しいばかりの悲鳴をあげて蟻の子を散らすように逃げていく。
 だが立ち登る砂埃に視界を覆われ、既に限界点に達していた綱吉は現実の変化に気付く暇もなく、息苦しさの合間に瞼を落として、そのまま力尽き意識を失った。

 鳥の囀る声が聞こえる。
 もう朝なのだろうか、ならば起きなければならない。
 けれど全身がムチウチになったみたいに痛んで、指の一本を動かすのさえ苦痛だ。息をするのも苦しくて、熱があるのか、吐き出す息が唇を掠めるとそれだけで火傷をしそうだった。
「……ぅ、……った」
 遠く微かに人の声も聞こえてくる、朝にしては部屋の間取りが違うのか感じる光の加減もどこかおかしい。
 此処は自宅の、自分のベッドの上ではないのか。綱吉は浮遊しては沈んでいく意識を当て所なく彷徨わせ、閉ざした瞼越しに感じる光と耳に流れ込んでくる音に安堵の息を漏らした。
 途端肋骨が凶悪な痛みを放ち、呼吸が詰まって彼は激しく咳込んだ。背中を丸め、仰向けになっていたのを右上にして横になり、両手を持ち上げて口元を覆い隠す。だが弾みで動いた膝にも激痛が走って、痛いし苦しいし、涙が止まらず咳も治まらなくて、綱吉は嗚咽を漏らして体を揺らした。
「げほっ、カハッ……はっ……」
 必死に喘ぎながら酸素を肺に送り込み、二酸化炭素を吐き出す。そうしているうちに少しずつ現実味が戻って来て、自分が校舎裏で不良に絡み絡まれて、子犬を庇って何度も蹴られたのだと思い出す。ならばこの全身を貫く痛みはその後遺症と分かるのだが、背中から肩に掛けて感じている柔らかなクッションは何なのか。
 自分を見つけてくれた誰かが保健室に運んでくれたのか、と思うけれど、それにしてはあの部屋特有の消毒薬臭さは感じられない。
「ふっ……」
 息苦しさに涙が零れて、それが地面で摺り切った部分を掠めた。一瞬肌を焼いた痛みで苦痛に顔が歪み、喉を引き攣らせていたら急に浮いた背中に手が添えられた。呼吸が楽になるように、と上下に優しくさすられる。
 それが手伝ったからかどうかは分からないが、確かに気持ちは少しだが和らいだ。ほうっと息を吐くと一緒に痛みも抜けていく気がして、しつこいくらいに背中を撫でる手の温もりが心地よかった。
 いったい誰の手だろうか、と覚えがあるような、ないような感触に眉尻を下げ、綱吉は鈍い動きで瞼を持ち上げた。
 顔のすぐ先は何も無い空間で、その向こう側にはやや黒ずんだ灰色の絨毯が広がっている。頬のすぐ下は黒光りする革張りのソファ、頭は肘置きに添えられていて背中側に背凭れがあった。
 人の姿は視界にはなく、背後に立っているのだと想像出来る。首を持ち上げて振り向こうとして、右手が空を掠めたところで、綱吉は何かを忘れている気がして眉根を寄せた。握って開いたこの手には、少し前まで何かを大切に抱えていたはずなのに。
 確かな温もりが、そこにはあったのに。
 今は空っぽで。
「子犬!」
 唐突に記憶が蘇り、綱吉は叫びながら上半身を起こした。ソファのスプリングが尻の下で弾み、跳ね飛ばされた手が背中から離れていく。そして起き上がったのはいいものの、急に無理な動きをしたものだから忘れかけていた全身の痛みがまた戻って来て、一秒半後の彼は再びソファの上で無様に転がっていた。
 あきれ返ったため息が、背凭れ越しに聞こえた。
「バカ?」
「……すみません」
 この学校でこんな上等なソファがある部屋はひとつきりしかなくて、だから綱吉の背中を撫でていた手の主が誰であるのかも、ちょっと想像を巡らせれば簡単に答えは導き出せる。耳慣れた声が人を詰りつつも裏側に心配する声色が隠れて入るのを感じ取って、綱吉は顔を伏せるとくぐもった声で謝罪を口にした。
 蹴られた鼻の頭がソファに摺れて少し痛い。鼻血は止まっていたがまだ感触は残っていて、試しに舌を出して上唇を舐めると、微かな血の味が広がった。
「犬は、後ろ足が折れていたみたいだけど、命に別状はないらしいよ」
「え」
 後ろから前に回り込み、低い位置で横になっている綱吉に視線を合わせて膝を折った雲雀が、やれやれといった様子で肩を竦めながら告げる。
 彼の手には、ふたつに折り畳まれた携帯電話が握られていた。小さな液晶窓で点滅するデジタル時計は今がまだ放課後だと教えてくれる、綱吉がゴミを捨てに行って気を失ってから、三十分程度しか経過していない。
 目を瞬かせて無言のまま雲雀を見返した綱吉を前に、雲雀は自分の電話をスラックスの後ろポケットへと捻じ込んだ。恐らくは、彼に命じられた風紀委員の誰かが、近隣の動物病院まで子犬を連れて行ってくれたのだろう。
 ならば意識を取り戻した直後に聞こえた声は、その風紀委員とのやり取りか。
「ヒバリ、さん?」
「なに」
 右膝を床に下ろしてしゃがんでいる雲雀を呼ぶと、斜め向いていた彼は素早く視線を戻して綱吉の顔を覗き込む。表情が険しいのは、綱吉の怪我の具合を心配しての事か。そっと伸ばされた指で項を擽られ、くすぐったさに身を捩って綱吉が微かに笑うと、漸く雲雀の表情も若干だが和らいだ。
「痛む?」
「少し……」
 頬に残っていた涙の跡を指の背で撫でて拭い取り、静かに問うた雲雀に同じく控えめな表現で綱吉が答える。
 いったい自分は、どうして此処に居るのだろう。気を失う寸前、自分を取り囲んでいた不良たちが慌てふためいて逃げていった気がするが、その時から既に雲雀はあの場所にいたのだろうか。それとも他の風紀委員が見つけてくれたのか。
 口の中も切れていて、迂闊に喋ろうとすると血が滲んで痛みが発せられる。だから物言わず、けれど雄弁に物事を語る瞳を彼に投げつけると、意図を察した雲雀が傷口に触れぬように頬を撫でてから完全に床に腰を落としてしまった。
 ソファはテーブルを挟んで真向かいにもあるが、そこに座れば距離が出来てしまう。かといって綱吉が横になっているソファには、彼が座るだけの空間が無かった。
 絨毯の上に黒色を広げた雲雀の膝の辺りに視線を落とし、綱吉は肩を揺らして下にしている頬のその下に右手を添えた。ずり落ちかけていた肘置きの頭を上に移動させ、楽になるように体勢を整える。今なら起き上がっても平気な気はしたが、さっきの手痛い失敗がまだ頭の片隅に残っていて実行出来なかった。
 顔の位置が近くなり、彼が吐く息の欠片が頬を撫でた。じっと見詰めていると変な顔をされてしまい、思わず頬に朱が走って綱吉は自分から目線を逸らした。
 と、視界が急に暗がりに覆われて、瞳だけを動かして雲雀を窺い見ればもうそこには彼の顔が迫っていて、綱吉は反射的に目を閉じる。
 キスは唇ではなく、擦り切れていた鼻筋を掬うように落とされた。
「……っ」
 チリリとした痛みは一瞬で、それよりも胸を締め付ける切なさが後に残った。
「馬鹿な子」
「……ごめんなさい」
 額にかかる前髪を梳き上げられ、頭を撫でられる。髪の毛一本一本を解き解す彼の指先を目で追いかけ、力の無い声で返事をした綱吉はしゅん、と落ち込んだ顔で唇を噛んだ。
 血の味はまだ口の中に残っている、不良に蹴られた痛みは引きつつあるものの、完全ではない。暫くは不自由な生活を強いられるかもしれないと考えると、後先考えない自分の行動に悔いばかりが残される。
 でもあそこで子犬を見捨てたら、自分が自分でなくなってしまう気がしたのだ。だから行動を起こした事自体に、後悔はない。
 あるとするなら、またもや雲雀に助けられ、彼に無用な心配をかけてしまったこと。
 自分の非力さを思い知る、無力さを痛感させられる。
「僕があそこを通り掛らなかったら、どうするつもりだったの」
 肩を落とした雲雀が、足を崩して伸ばしながら尋ねて来る。けれど綱吉は答えられない、考えてもいなかったから。
 むしろ雲雀があそこを通り掛かることさえ、考えに入れていなかった。そんな都合が良すぎること、奇跡が起こらない限りあり得ないと。
 でも現実に、奇跡は起こった。
「なんか、呼ばれた気がして」
「なにに?」
「……」
 教室で感じた、正体不明の気配、呼び声。今考えれば、あれはあの子犬が放っていた思念だったのかもしれない。
 痛い、助けて、怖い、苦しい。そんな声にならない声が、何故自分には聞こえたのか。考えても詮無いことだし、馬鹿馬鹿しい空想だと笑われるかもしれないが、綱吉は本気でそんな風に思えたのだ。
 淡々と、極力感情を抑えつつ告げた彼の考えに、最初は鼻で笑うだろうかと思われた雲雀は、しかし妙に真剣な顔をして黙って綱吉の言葉を聞いている。そうして一通り綱吉が喋り終え、口の中で唾液に混じった血の苦さに顔を顰めたところで、顎においていた手を離した雲雀は、そうだね、とだけ呟いた。
 てっきりそんな事あり得ない、と現実主義的な事を言ってくれるとばかり思っていた綱吉は、雲雀のそんな思いがけない反応に目を丸くする。
「なに」
 その表情が不満だったようで、雲雀は若干拗ねた様子で綱吉を睨んだ。
「いえ、なんか、意外で」
「そう?」
「はい」
「僕も聞こえたから」
 雲雀はそういう、虫の報せとでも言うのか、科学的な根拠もなく言葉でも上手く説明できないような、けれど確かに“感じた”ものには無縁で、信じない人だと思っていた。目に見えないものや、言葉に言い表せない霊的なものは鼻で笑って切り捨ててしまうタイプの人間だと思いこんでいた綱吉は、雲雀がぽつりと言い放った言葉の意味も即座に理解出来ず、眉間に皺を寄せて瞳を眇めた。
 矢張りそういう表情を浮かべた綱吉が気に入らなかったようで、彼は軽く丸めた拳で綱吉の額を小突く。
「悪い?」
「そういう意味じゃ……」
 単純に意外だったから驚いただけだと弁明しても、雲雀はなかなか機嫌を直してくれない。相変わらず扱い難い人だな、と苦笑が漏れた。
 綱吉は両手を枕元に添えると、肩に力を込めて上半身を慎重に起こした。両足も揃えて床に下ろすと、靴下が見える。靴は脱がされたのか、近くに見当たらなかった。
「何が聞こえたんですか?」
 あちこちがまだ痛むが、最初よりは大分マシだ。両膝に丸めた手を添えてソファに座りなおした綱吉は、まだ足元でしゃがみ込んでいる雲雀に笑みを浮かべて右に場所をずらす。だが雲雀は立ちあがろうとせず、右膝を曲げて身体に寄せ、そこに上半身を傾けて預けた。
「君の」
「俺?」
「呼んだろう?」
 背筋を伸び上がらせた雲雀が、顔を上げて高い位置に移動してしまった綱吉の顔を見詰める。
 普段と状況が逆なのが慣れなくて、綱吉はドキリとしながら彼が今しがた言った意味を懸命に考えた。
 呼んだ、だろうか。
 そんな気はするし、呼んでいない気もする。記憶はそこだけが曖昧で、綱吉は自信が無い様子で首を傾がせた。
「綱吉?」
「本当に、俺の……でした?」
「さあ」
 緩慢な仕草で前髪を梳きあげ、綱吉が聞き返す。だが雲雀の返答は至極あっさりしていて、聞いた綱吉は思わずソファの上で転んでしまった。
「さあって、なんですか、さあって!」
「知らないよ」
 怪我が痛むのも構わずに怒鳴り声をあげた綱吉に、雲雀はしれっとした様子で言葉を連ね、五月蝿いと綱吉の唇に人差し指を押し当てる。その強引さは彼らしくもあって、綱吉は噛んでしまわぬように大人しく口を閉じると恨めしげに足元の雲雀を見下ろした。
 だって、彼が言ったのではないか。自分に呼ばれたのだと。
「そんな気がしただけだよ」
 あくまでも断定は出来ないと前置きし、雲雀は肩を竦めて腕を引く。自由になった口で息を吐いた綱吉は、それでもまだ納得がいかない様子で唇を尖らせた。
 ふっ、とそこへ雲雀が急に微笑むものだから、真正面から見てしまった綱吉は顔を赤くして腰を浮かせた。
 雲雀が立ちあがる。
「何かに呼ばれた気がして、見回りのコースになかったあそこに行ったら、君が倒れていて」
 勇敢に不良に立ち向かっていった行動力は、賞賛に値する。
 けれど勝算も無くただ闇雲に突っ込んでいっただけの無謀さは、自分自身の命を軽んじていると受け止められても仕方が無い。
 実際綱吉は子犬を守り抜いたものの、自分自身は守りきれなかった。自分よりも小さく弱いものを守る心意気は感心するが、もしあそこで雲雀が来なければどうなっていたか、もう一度良く考えろと雲雀は早口にまくし立てた。
 反論が出来ない綱吉はソファの上でただ小さくなるばかりで、言い終えた雲雀が息を吐くのにあわせ、ごめんなさい、と蚊の泣くような声で呟いた。
 項垂れた頭を、雲雀の手が撫でる。
 前のように、連絡を受けて出向いたら病院のベッドで寝ていた、という状態ではなかったから、まだいい。傷だらけ、包帯まみれ、顔もあちこち切れて見るも無残な姿。しかもかつ上げされていたところを助けた相手は綱吉を見捨てて逃げたという、非常にやるせない結果だけが残った前回よりは、まだ救いがある。
「呼んだろう?」
「……はい」
 確かめるようにもう一度雲雀が問うて、綱吉は今度こそ大人しく頷いた。
 くしゃくしゃと髪を撫でられ、かき回される。上から押し付けてくる感じなので顔を上げられず、次第に首が疲れてきた綱吉は困った風に表情を作ってちらりと雲雀の胸を覗き見た。
「ヒバリさん、あの……怒ってます?」
「怒ってるよ」
 いつもならある程度撫でたら満足する彼が、いつまで経っても離れていかない。顔も向けてくれないのは機嫌が悪い証拠で、綱吉は俯かされたまま雲雀の淡々とした声を聞いた。
 無感情で無機質な声が、彼の怒りの大きさを表している。
 どうしよう、と綱吉は両手を握っては広げ、目を閉じた。
 もうしない、とは約束できない。きっと似たような状況に遭遇した時、綱吉はまた後先考えずに突っ走っていくのだ。それはもう、性格なのだから直しようがない。
 いくら自分が弱くても、守りたいものは守り抜きたい。出来る事なら最後まで足掻きたい、諦めたくない。諦めたらそこで終わり、だからがむしゃらなまでに綱吉は走る。何かが、結果が欲しいわけではない、全ては自己満足だと本人が一番よく分かっている。
 それでも、なお。
 自分が自分である為に、自分が自分であり続ける為に。
 雲雀もそんな綱吉の性格を分かっている、だからこそ咎めはしても「やるな」とは言わないのだ。
 思慮深く、もう少し周囲を見て、自分だけではどうにもなりそうになければ素直に助けを求めろと。
 ぽん、とそれまで撫でるばかりだった雲雀の手が綱吉の頭を軽く叩いた。髪の毛に紛れていた空気が両側から吐き出され、重力に逆らった毛先が潰される。そのまま雲雀は手を退かそうとしないので、本気で困ってしまった綱吉はのろのろと右手を持ち上げると彼のシャツを握った。
 スラックスからはみ出ている布地が撓んだ部分に指を絡ませ、下へと引っ張る。別に脱がそうとかそういう意味ではなく、なにやら意識を遠くへ投げやってしまっている雰囲気の彼に、自分に注意を向けてくれるよう行動で頼み込んだだけ。
 そうしておずおずと上目遣いに潰れている前髪の隙間から雲雀を見上げると、予想外に彼はじっと綱吉の顔を見詰めていて、一瞬だけれど視線がぶつかった。
 意識すると顔が赤くなって、恥かしくなる。咄嗟に目を泳がせて逸らした綱吉だったが、雲雀は気にする事無く掌を返すと、ずり落とす仕草で綱吉の頬を右手全部使って包み込んだ。
 指の先が傷口に振れ、微かな痛みが生まれる。思わず綱吉が顔を顰めると、雲雀はその周辺を特に気にしながら指を動かして撫でていった。
「こんなに、顔に傷を作って」
「……ごめんなさい」
「さっきから謝ってばっかり」
「ごめんなさい」
「ほら、また」
 直ぐに頭を下げてしまうのは綱吉の悪い癖で、直そうと努力するものの雲雀を前にすると萎縮してしまうのもあって、どうしても「ごめんなさい」の回数が増えてしまう。言えば雲雀は怒ると知っていても、無意識に口を突いて出る言葉がそうなるように体に刻み込まれていて、どうしようもない。
 瞳を伏せた綱吉はしゅん、と肩を落として上唇を舐める。鼻の奥がツンとするのは、切れた部分から血が滲んでいるからではないだろう。
「綱吉」
「はい」
 名前を呼ばれ、ソファの上で畏まる。頬に添えられていた手が離れて行って、遠ざかる体温に追い縋る目を上向ければやや困った様子の雲雀が肩を竦めている姿が見て取れた。
「ほかに、言うことは?」
「え……と?」
 散々謝ったけれど、まだ足りないのだろうか。そちらが先に頭に思い浮かんで、綱吉は困惑気味に雲雀を見詰め返す。だが先ほどそれは指摘されたばかりだから違うだろうし、と本気で考え込みだした綱吉を見て、彼はやれやれと呆れ顔で首を振った。
 また頭に手を置いて、髪の毛をかき回される。優しい指先はなるべく変に刺激を与えないように気配ってくれているのが伝わってきて、震えていた心がほんのりと暖かくなった。
 そういえば、と綱吉の心の片隅で何かが引っかかった。
「まあ今回は、遅かったけど、ちゃんと呼んだから、許してあげる」
「あの、ヒバリさん」
 次からはもっと早く、行動する前に自分を呼べ、と言い放った雲雀を遮り、綱吉は下ろしていた手を持ち上げて彼の手を握り締めた。
 急な彼の行動に雲雀が右の眉を剣呑に持ち上げる。細められた瞳が黒光りするのを正面から受け止め、綱吉は緊張した面持ちを一瞬で崩した。
「なに?」
「あの、えっと、だから……有難うございました」
「綱吉?」
「助けてくれて」
 指に力を込め、確かな雲雀の腕を強く握る。
 すっかり忘れていた、綱吉は謝るばかりで助けてくれた彼に、子犬を病院に連れて行ってくれた彼に、何の感謝も示していなかった。
 ありがとう、と繰り返した綱吉の懸命な表情に、最初は目を見開いて驚いていた雲雀だけれど、いい加減痛いよ、と遠慮なしに握ってくる綱吉の手を解いた彼は目元に微笑みを浮かべていて、どこか照れた様子があった。
 滅多に見られない彼の表情に、綱吉も嬉しくなる。
「あの、ヒバリさん」
「でも僕は、まだ怒ってるんだけど?」
「う……」
 腰を屈めた彼が額にキスをくれて、途端落ち着きがなくなった綱吉が自分の耳を掴み持つ雲雀の手に掌を重ねて腰を浮かせる。
 だのに息が触れ合う距離でそう告げられて、綱吉は息を詰まらせて小さく呻いた。
「……ごめんなさい」
 上目遣いに謝れば、一際優しい目をした雲雀の顔がそこにある。
 意地悪をされたのだと気づいたのは、どこまでも優しいキスが降ってからだった。

2007/5/10 脱稿