蜂蜜

 朝、目覚め直後の洗顔で使う水が冷たいと感じなくなった。
 陽射しは柔らかくなり、吹く風も咄嗟に身を竦めて耐えねばならないものがなくなった。
 日暮れまでの時間が遅くなり、夕方が長く感じられるようになった。
 少しずつではあるけれど、季節は移り変わろうとしている。一日の変化は至極微細でしかないが、確かな歩みが一歩ずつ後ろから迫っているのだと分かる。
「んー、いい天気」
 空はどこまでも澄み渡る青。大きな雲ぷかぷかと浮かんでいる隙間に太陽が顔を出し、地上を燦々と照らしている。日陰に立つとまだ僅かに肌寒さを覚えるものの、日向にいると欠伸が出てきそうなくらいに長閑な陽光が心地よい。
 綱吉は所属中学指定のジャケットの裾を左右に広げると、前後に揺らして風を内側へと誘いこむ。立ち止まっていれば日差しもただ暖かいだけで済むのだが、先ほどまでやや小走りに駆けていた彼の首筋には薄く汗が滲んでいた。
「……寄り道なんかするんじゃなかったな」
 ぽつりと呟き、手を休めてジャケットを解放する。まだ完全に息が整い、暑さが遠ざかったわけではないけれど、吹き抜けていった風に表層の熱は攫われていって、彼は喉を曝け出しながら全身で呼吸を繰り返した。
 まだ明け方の冷え込みは時として激しいけれど、日中は穏やかな陽気が続いている。気の早い春の花があちこちで芽吹き咲き乱れていて、鮮やかな色合いが瞳に楽しい季節がもうじきやって来る。
 学校は既に春季休暇に入っている。一年の締めを飾る通信簿は相変わらず赤い文字ばかりで閉口させられたが、それでも実り多く充実した一年間だったように思う。リボーンにはこっぴどく叱られたけれど、学生は勉強だけが本分じゃない。思春期に必要なのは勿論勉強もそうだけれど、良い仲間や友人を得て日々を多感に楽しく過ごすことにあるのだと、綱吉は勝手ながらそう結論付けていた。
 中学入学当初の、毎日起きるのも面倒で学校に行くのにも嫌気が差していた頃からすれば、格段の進歩だと思う。今は学校に行くのが楽しくてならない。何が起こるか分からないありきたりではない日常はハチャメチャ過ぎて時には逃げ出したくなることもあるけれど、夢も見ない程に深い眠りへと誘う疲れはとても心地よい。
 毎日が充実していると、それまで見えなかった周囲の様々なものも見えるようになっていく。気づかなかったもの、気づいていても気に留めなかった色々な事が、新鮮で素晴らしいものに思えるから不思議だ。
 今日もまた、新年度に並盛中学へ入学してくる生徒を迎え入れる準備の為学校へ行かなければならないというのに、少し余裕を持って家を出た綱吉は気まぐれに遠回りの道程を選び、気づけば集合時間を一時間近くオーバーしてしまっていた。
 学校の正門はもう間近に迫っていて、窓を開放した校舎からは生徒達の賑やかな声が微かに響いている。今から行ったところで何の役にも立てない気がするが、行かなければ後で何を言われるかも分からない。歩調を緩めないように気を配りつつ、綱吉はブロック塀越しに背高の校舎を見上げた。
 ふと、鼻先を掠めた軽い匂いに眉根を寄せる。覚えがあるけれど具体的に何の匂いだったのか思い出せず、彼は首を捻りつつ正門を潜り抜けた。そして上履きに履き替えるべく建物内に入ろうとして、行き違いになりかけた男子生徒が綱吉に気づいて足を止めた。綱吉もまた相手に気づき、振り返る。
「こらー、沢田。お前、遅刻!」
「うわっ、ごめん」
 見知った相手は同じクラスの男子だった。彼は時間通りに集合していたようで、買出しに行くつもりだったのか靴を履き替えて爪先は外へと向いている。思わず飛び上がってしまった綱吉は逃げ腰気味に謝罪を口にしたが、彼は眉を吊り上げて怒りの表情を隠さない。
「お前なー、俺だって休みに来んの嫌だったんだからな」
「分かってる、ごめん。本当ごめん」
 一歩詰め寄って綱吉に拳骨を振り上げる仕草を取る級友に、両手を顔の前で合わせて懸命に謝る。けれど納得する様子のない彼は更に一歩にじり寄ってきて、元々負け犬根性が据わっている綱吉はつい三歩ほど後退していた。それが余計に級友の癇に障ったようで、益々怒りを露にする彼にどうしようかと綱吉は視線を左右へ泳がせた。
 校舎と道路を遮るブロック塀の内側、遠く角。空に向かって開く真っ白い花弁が見える。
「ダメツナ、聞いてんのか?」
 一瞬だけ意識が他所へ向き、惚けた表情を作った綱吉に怒声が飛んだ。
「だから、本当ごめっ……うあ?」
 三度目の謝罪を口にしようとした綱吉だったが、その寸前に後ろからいきなりぐいっと何かに引っ張られた。首根っこを掴まれたに等しい、ブレザーの襟を後ろから掴まれて喉が絞まった。
「さわ……わわわ」
 クラスメイトの方も、綱吉に後ろからちょっかいを出した相手を視界に確認し、呂律が回らないままに狼狽して数歩後ろへ下がった。恐怖に引き攣った彼の表情に、綱吉も何事かと首元に手を伸ばしながら必死に爪先で地面を蹴る。だが抵抗して暴れようとした矢先、首を絞めていた力がスッと抜けて綱吉はその場に尻餅をついた。どすん、という音を契機にしてクラスメイトは逃げるように駆け出していく。
 残された綱吉は呆然と彼の背中を見送り、それから今自分の背後にいる人物をなんとなく理解してまだ痛みが残る喉をさすった。この中学であそこまで生徒を恐怖のどん底に突き落とせる存在など、そう多くない。
「ヒバリさん、ひどいです」
「遅刻、って聞こえたけど?」
 呟くとほぼ同時に上から声が落ちてきて、そこに反応されたのかと綱吉はがっくりと肩を落とした。
 春休みではあるけれど、生徒の多くが学に来ているこの日に彼が不在なわけがない。しかも休みの日にまで遅刻と聞けば飛びついてくる辺り、彼らしいというべきなのか。
 級友の追求から助けてくれたのだろう、という淡い期待は一瞬で砕け散り、脱力感だけが綱吉に残される。溜息を零していると上から不満げな気配が伝わってきて、綱吉は顔を上げた。
 いつまでもここで座っているわけにもいくまい。気が乗らないが教室に行こう、と立ち上がってズボンの裾にこびり付いた土を払う。その間に雲雀も何処かへ立ち去るだろうか、と思いきや彼は綱吉たちとは一線を画す学生服姿のまま仁王立ちしていて、綱吉の方が何か用でもあるのかと首を捻った。
 甘い、微かな芳香が何処かから流れてくる。
「あ、これ」
 学校に来る直前に感じた匂いと同じ。思わず声に出た綱吉は首を上向け、風上へ視線を流す。
「…………」
 そこには、仏頂面を崩さずに立っている黒髪の人物がいるだけであり。
 ついついふたりして沈黙しあって、気まずい空気が間を流れて行く。まさかこの人が香水なんかつけるわけがないよな、と怪訝に思っていると、いきなり雲雀の手が伸びてきて今度は綱吉の襟首を捕まえた。
 引きずるように顔を寄せられる。噛み付かれる、と咄嗟に目を閉じた綱吉だったが、雲雀の首は随分手前で傾き、怖々片眼を開けた綱吉の視界は黒一色に染められた。艶のある髪が陽の光を受けてキラキラと輝いている。彼は何をやりたいのか、引っ張っている綱吉のシャツに鼻先をつきつけていた。
 微かに感じた芳香が強くなる。それは雲雀の髪からも流れてきて、酔いそうな空気に綱吉は息苦しさを覚えて目を閉じた。
「君、さ」
 頭上からは騒がしく学生の声。いつ誰が教室の窓から下を覗き込むかもわからない環境で、こんな風に雲雀と密着している瞬間を見られたらなんと思われることか。気持ちは落ち着かず、背中に冷たい汗が流れて行く。雲雀の発した声さえも聞き逃しかけて、綱吉はいつの間にか彼が視線を持ち上げて顔を覗き込んでいるのにも気づかなかった。
 鼻腔を擽る匂いは消えない。甘い、淡い香りが心臓を波立たせる。
「何処行ってきたの」
「え」
「匂い」
 シャツを解放され、綱吉は後ろにふらつきながらもどうにか自力で立つ。咄嗟に胸の前に手を置いて上着の下で皺くちゃになったシャツを直し、ズボンの中に裾を押し込んで身繕いを整えた彼は、匂いがするのは貴方じゃないですか、と言いたくなる気持ちを抑え左腕を引き、そこに鼻を押し付けた。
 息を吸うのと一緒に匂いを嗅いでみるが、分からない。けれど言われて思い出した、寄り道道中で見かけた菜の花畑。
 一面黄色に染まり、紋白蝶が飛び交って風に揺れる様は圧巻だった。ついつい見惚れ、足を踏み込み、寝転がって黄色い世界から空を見上げているうちに時間が過ぎ去って今回の遅刻に繋がった。
 季節がもう春なのだなと思うと同時に、学年がひとつ上がるという実感がじわじわと沸いてきて、離れ難かった。新入生の面倒を見切れるだろうか、どんな後輩が出来るのだろうか。胸が躍り、同時にひとつの背中を思い出して憂鬱になった。
 もう学校では会えないのかもしれないと思い至って、泣きたくなった。
 それだというのに、この人は。
「ヒバリさんこそ」
 何故まだ学校にいるのですか、という問いかけは、よくよく考えてみれば並盛中を誰よりも愛している彼の事、愚問でしかないと気づき嘆息に置き換える。吹いた風に遠くから流れてきた匂いは雲雀から感じるそれよりも強くて、導かれるままに右手に視線を流すと、壁際に隠れるようにして白い花をいっぱいにつけた白木蓮の木が聳えていた。
 一斉に空を向き、光を受けて輝いている純白。葉のない枝に無数に連なる花の存在は異様とも思えたが、漂う匂いは心地よい。
「僕が?」
「あ、いえ。なんでも」
 匂いの発生源が知れて、聞く必要がなくなってしまった。言いかけて半端に途切れさせた言葉を繋ぎたがる雲雀に首を振り、綱吉は片足で地面を軽く叩いた。今なら聞けるかもしれない、貴方は春になったら何処へ行くのですか、と。
 卒業していくのか、二度と会えないのか。
 それとも。
 見上げると目が合って、彼は不思議そうに眉を寄せた。
「ヒバリさん」
 紋白蝶飛び交う葉の花畑でも、羽音は聞こえた。あの小さな羽根があれば、匂いを頼りに何処までも彼を追いかけられるだろうか。
「俺、ミツバチになりたい」
 甘い蜜をください、そう背伸びして触れた耳元で囁きかける。
 彼は笑いながら黙って綱吉の背に腕を回した。

2007/2/14 脱稿