Go easy on

 朝起きた時、軽く眩暈がした。ただそれは、昨晩遅くまで新レシピの開発に熱中して寝不足だからだろう、と思っていた。
「おはよう、ラ……どうしたの?」
 寝ぼけ眼のコーラルを起こし、連れ立って食堂へ向かう。先にテーブルを拭きながら開店準備を始めていたリビエルと顔を合わせ、いつものように挨拶を交わそうとしたのだけれど、彼女は人の顔を見るなり怪訝気味に細い眉を寄せた。
「なに」
 どうしたの、と聞かれても何のことだか分からない。まだ半分夢の中に居るコーラルが隣でうとうとと舟を漕いでいて見るからに危なっかしく、彼女はどちらかと言えばそちらを真っ先に心配していいはずだ。けれどリビエルは完全に手を休めてライに向き直り、爪先立ちになって僅かに背丈が勝っている彼に顔を近づける。目つきは真剣で、むしろ怖いくらいだ。
 別段悪い事をしたわけではないのに彼女に気圧され、ライはコーラルから手を放し一歩後退する。
 ぐらり、といきなり世界が揺れた。
「え、あれ」
 本日二度目の眩暈が彼を襲い、力の抜けた右膝がカクリと折れ曲がる。上向いた先の天井がぐらぐらと歪んで見えて、瞬間目の前が真っ暗になった気がした。額に手を押し当てる、吐き気がする。
「ライ、大丈夫ですの?」
 突然の彼の動きに驚いたリビエルが、開いた距離を尚詰めて手を伸ばす。ぼんやりしたままのコーラルもいい加減育て親の異変に気づいたようで、片方の眉を顰めて彼を振り返った。
 分かっていないのは当の本人だけのようで、額に手をやったまま首を振ったライは頭の中で壮大に鐘が鳴り響くのを聞いた。もう片手を口に押し当て、喉を遡ろうとしている胃液を堪える。体の節々が小さく痛みを発し、手の甲に感じる吐息は妙に熱い。
「顔色が悪いですわよ」
「赤……青?」
 どちらだろう、と首を捻るコーラルの緊張感のなさに、ライと同時にリビエルもまたがっくりと項垂れた。しかしその間にもガンガンと脳裏に響く痛みは治まるどころか酷くなる一方で、自分の体調の悪さを自覚し始めたライは参ったな、と溜息を零した。
「店、あるのに……」
 少しでも店の評判を良くして収益を上げなければ、最悪ここを追い出されかねない。そうなって困るのは自分だけではない、責任感は重く彼の両肩に圧し掛かり、手近なところにあった椅子の背凭れに片腕を預けてライは痺れかけている指先に力を込めた。
 おずおずと心配そうにコーラルがライに触れ、小刻みに震えている彼の変調具合に可愛らしい顔を顰めさせた。
「お店、一日くらい休めませんの?」
 この様子では到底キッチンに立てるはずがない。ましてや人に食べ物を供する店だ、最悪病気を客人に伝染してしまう可能性だってある。それは彼も充分理解しているようで、リビエルの言葉に難しい表情を作り、ライは背凭れを握り締めた。
 けれど実質問題、店を開けなければ収入は限りなくゼロに近い。居候が増えた今、食料だってミントの畑からのおすそ分け程度ではとても賄い切れなくなっている。
 考えるだけで頭が痛い。響き渡る鐘の音は二重奏どころか四重奏にまで幅を広げ、立っているだけでも辛く、今すぐ床に倒れこんでしまいそうな勢いだった。吐き気も治まらず、喉の奥で嫌な気配が塊になっていて、出てこない唾を飲みこんで懸命に押し戻そうと躍起になる。
 本当にこのままでは倒れてしまう。悲壮な思いでライは縋る目を向けるコーラルに視線を移した。
「おはよう、皆の衆。そんなところに集まって、どうかしたのかね?」
 頭上を飛ぶ軽快でお気楽な声。振り返らずとも誰が来たのかが直ぐに分かって、ライはもうひとつ気が重くなった。うえ、と別の意味で吐きそうになり目が泳ぐ。ライの後ろから近づく足音にリビエルがおどおどした視線を向けて、困ったことになったと告げる声が小さく聞こえた。
 彼女は目の前にいるのに、どうしてだろう、声が遠い。その理由が、ライの意識が遠退きつつあるのだと幸か不幸か本人は気づくことはなかった。
「店主?」
 最後に聞いたのは驚きに染まるセイロンの声、最後に見たのは視界いっぱいに広がった彼の赤い髪。
 倒れた、と思った瞬間にはもう、目の前は真っ暗闇に落ちていた。

 気がつけば自室のベッドに寝かされていた。
「癒しの奇跡を使っても良いですけれど、ライの体力が限界まで低下しているのが一番の原因ですから。今日はゆっくり、安静にして休むことですわね」
 軽く診察をしてくれたリビエルの言葉に、後ろに勢揃いしていた仲間たちは一斉にうんうん、と頷いて彼から反論のタイミングを奪ってしまった。
「そうでなくたってこの頃は気の休まる時間が少なかったからね~」
「そうですよ、ご主人。今日だけはお店のことを忘れて、体調を万全な状態へ戻すのを優先してください」
 アカネが言えばシンゲンが頷いてベッドで上半身を起こしているライの肩を叩き、アロエリは倒れたのは鍛錬不足だと手厳しい。
「うるせぇ」
 単に体力が低下しているところに睡眠不足、更に夜中遅く冷え込んでいる時にも昼と同じ格好をしていたので身体が冷えてしまい、熱が出たという事らしい。リビエルの言葉通り栄養を取って安静にし、眠っていれば一日で治るだろう。それが結論だった。
 ライが熱を出すなんて珍しい、とリシェル達も騒いでいたが、ライを静かな環境に置かないとダメだという理由でリビエルにより追い出されてしまっていた。仲間たちも次々と「お大事に」とだけ言い残し去っていく。コーラルは嫌がったが、傍に人が居ると落ち着けないでしょうから、とリビエルに諭され渋々という顔で部屋を出て行った。
 最後にぽつん、とひとりライだけが残される。
 他に誰も居なくなった部屋はガランとしていて、物寂しい。この部屋はこんなに広かっただろうか、と長年住み慣れたはずなのにそんな事を思ってしまって、ライはちぇ、と舌打ちすると背中からベッドに倒れこんだ。
 枕に頭が勢い良く沈む。その柔らかなクッションは心地よいが、胸の中ががらんどうになったようでライは面白くない。いつもなら忙しく店で動き回っている時間帯なだけに、ベッドの上に縫い付けられている自分の体が非常に恨めしかった。
 大丈夫だから、と言い張ってみてもひとりで立てないようでは説得力がない。実際目の前で一度倒れているだけに、コーラルは特に不安を感じている様子だった。意識を取り戻した時のあの子は顔面蒼白で、むしろコーラルの方がよっぽど倒れそうな状態だった。
「心配……させちまったな」
 縋り付いて来た手の震えを止めてやれなかった、育て親として情けない。自分の体調管理も自分の責任のひとつだというのに、まだ大丈夫、大丈夫と過信して限界をとっくに超えてしまっていたらしい。持ち上げた腕を額に落とし、伝わる熱と首筋を撫でる汗に苦笑する。
 トントン、と遠慮がちにドアがノックされたのはそんな時。
 仲間は皆ライを気遣って部屋に近づかない筈で、誰だろうと寝転がったまま首を捻る。返事もするのも正直億劫で眠ったフリでやり過ごそうかとも考えたが、しつこく重ねてノックされるうち、次第に無視するのも悪い気がして彼は「どうぞ」と声を出した。
 しかし思った以上に喉が掠れ、声は小さくしか響かなかった。それでもどうにか外には届いたようで、ドアは静かに開かれた。赤と黒の鮮やかな着物が真っ先に見えて、ライは目を見張る。
「セイロン」
「起きていたか」
 入って来たのはセイロンだった。手にはこげ茶色の盆を持ち、肩でドアを閉めてゆっくり近づいてくる。運んでいるものは浅底の手鍋で、蓋の隙間から薄く湯気が立ち上っていた。
「なんか、寝付けない。明るいし」
「そうであろうな」
 言いながら彼は椅子を引き寄せ、盆はベッド脇の机に置く。良い匂いがライの鼻腔を擽り、そういえば朝目覚めてから何も食べていないことを今頃思い出した。
 空腹を自覚した途端、ぐぅと正直な腹の虫がひと鳴きする。聞こえたのか、セイロンが声を立てずに肩を揺らして笑った。
「仕方ないだろ」
 笑われて恥かしくなったライが唇を尖らせる。その間もセイロンは手を休めずに手鍋の蓋を外し、小皿に盛っていたものを中へ流し込みレンゲでかき混ぜた。美味しそうな匂いが部屋中に広がっていく。
 それは粥だった。野菜を沢山一緒に煮込んだ卵粥、最後に彼が入れていたのはどうやら薬味のようで、どうぞと盆ごと膝に載せられたライは面食らった。思わず粥とセイロンとを交互に見やってしまい、変な顔をしていると失礼な、と怒られた。
「お前が?」
「我とて、これくらいは作れる」
 彼が料理も出来るというのは知っていたが、意外性は拭えない。白と黄色の間に鮮やかな緑が浮かぶ粥は見た目も匂いに負けず美味しそうで、恐々レンゲでひと掬いして息吹きかけ幾らか冷まし、口へと運び入れる。
 数回の咀嚼。柔らかな米は芯まで水を吸っていて、出汁も効いているのか味もしっかりしている。正直、悔しいが旨い。
「どうだ?」
「ん……おいしい」
 自信満々にしていた割に、声を潜めて尋ねてくる彼がおかしい。つい表情が緩み、ライは二口目を運びながら目を細めた。
 横から安堵の息が聞こえてくる。料理が出来るとは言えそう頻繁ではない彼の事、苦労しながら作ってくれたのだなと思うと、身体だけでなく心まで温かくなっていくから不思議だ。
「あ、っと……」
 食欲はあまりなかったのに、気づけば半分以上平らげてしまっている自分に驚く。残り少なくなった手鍋を傾けながらレンゲを運んでいると、口から零れた出汁が顎から喉に伝った。思わず声が漏れ、手が止まる。
 拭い取ったのは横から伸びてきたセイロンの手だった。彼の指がライの濡れた喉を撫で、反り返った顎を辿りやがて唇に触れる。そこに残る湿り気さえも拭い去って、彼は離れた。
 レンゲを鍋に戻す。熱で浮かれた顔を彼に向けると、困ったようにセイロンは笑った。
「これは、参ったな」
 それはライも同じで、触れられた唇に指の背を押し当てる。熱だけではない顔の赤らみが恥かしくて、視線は遠く壁を這った。
「絶対安静なんだぞ、俺」
「承知しているが……な」
 ぶっきらぼうに言い放てば苦笑したままセイロンがそう返し、言葉とは裏腹に腕を伸ばしライの膝から盆を退かした。入れ替わりに圧し掛かる他人の重みに、ライもまた肩を竦める。
「熱、あがりそう」
「ならばまた、粥でも作ってやろう」
 覗きこまれた赤い瞳が悪戯っぽく細められ、ライは求められるままに瞼を閉じた。

2007/2/14 脱稿