黒南風 第四夜(第四幕)

 解放された山門で、空気が爆発する。砂埃が舞い上がり、白く濁った空気が彼らの視界を塞いだ。煽られた袖が音を立ててはためき、持ち上げたままの右手で顔全体を庇った雲雀は、僅かに後ろに位置をずらしながら門に向かって斜めに体勢を取り直す。
 山本は木刀で一閃した空気で自分に襲い掛かった爆風をなぎ払い、厳しい表情のまま門を睨んだ。彼の周辺だけは空気は凪いでいるものの、視界を覆う砂埃全てを払いきるのは難しい。不意をつかれないようにだけ気を配りながら、彼はふと、自分の足元でちゃっかり爆風を避けていたリボーンに目を移した。
 腕を背中に回し、結んでいる。飄々としている様は感情が読み取りづらく、何を考えているのかも分からない。
「童……?」
「来るぞ」
 若干の違和感を覚えた山本がリボーンを呼ぶが、集中しろと顎で前方を指し示されて慌てて緩めた気を引き締める。木刀を隙無く構え持ち、一応は並盛山を守る結界の中で二番目の強度を誇る門に視線を向け直した。
 最後の最後だけは、素通りするというのは難しかったのか。殆どの妖を遮断する結界を強引に外側からぶち抜いた為、結界自体が内側に押し出されて中心部から千切れたらしい。
 煙が晴れ始めた山本の視界に、きらきらと光を受けて輝く虹色の糸のようなものが映し出される。それは、今まさに破られたばかりの結界の破片だ。
「くっそー、それ直すの面倒くさいんだぞ!」
 結界の破損具合を目の当たりにして、山本は思わず地団太を踏んで悪態をついた。
 山を囲む結界は、構造自体が複雑で扱いには細心の注意を払わなければならない。ちょっとでも緩んでいるとそこから綻びが生じ、穴が空いてしまって敵の侵入を許すことになるからだ。しかも規模が大きいだけに、半端ではない重労働。
 一度雲雀が保守点検に回るのに付いていったことがあるが、その集中力は並大抵のものではなく、とても自分では真似できないと閉口したくらいだ。
 人はどうしても雲雀の強靭な肉体と暴力的すぎる破壊力にばかり目が向きがちになるが、彼はなかなかどうして、術の才能にも非常に恵まれて細かな作業にも苦を言わない精神力を持ち合わせているのだ。但し地味な上に、自分から自慢したりはしないから周囲にはあまり知られていない。本人も机仕事よりは動き回っている方が好きのようだ。
 彼はただ、妖が見えないだけで。
 実力だけを言えば、その辺にごろごろと転がっている退魔師よりも遥かに勝っている。けれど魔が見えないのは致命的なのだ、この仕事においては。
「どうせ修復するのはお前じゃねーだろ」
 雲雀の気持ちを代弁したつもりで叫んだのに、足元のリボーンに冷徹につっこまれ、しかも脛を蹴られる。構えはそのままに唇を尖らせた山本は、様々に色を変化させながら散っていく結界の破片にしばし見とれ、晴れていく砂煙の中にひとつの人影を見出した。
 池のほとりで松の木を左に、右足の踵を水辺を囲む岩に載せた雲雀もまた、同じものを見つけて眉間に皺を寄せる。
 覚えのある姿――
「おん、な……?」
 この場に居合わせた面々の中で、唯一その姿に覚えが無い山本が、現れた人影の正体に驚き、目を見張った。
 もっと仰々しく、おどろおどろしいものを想像していたのに、現れたのは薄茶色の髪を腰の辺りまで長く伸ばし、鴇色の小紋に身を包んだ若い女だった。
 小紋には薄水や若葉色の細かな花柄模様が散りばめられ、帯は白地、大きめの菊型の図柄が紅色を中心に染め付けられている。帯揚げと帯締めは小紋よりも若干色合いが濃い紅色で、手には桜色の巾着袋が。毛先に向かっていくに従って髪は緩く波を打ち、唇は艶がありふっくらとして、差された紅は目の醒める様な血よりもなお赤い緋。すらりとした体躯には豊満すぎる胸が、帯の上で若干居心地悪そうに揺れていた。肌は陶器のように白い。
 並盛の里では先ず見ない顔立ち、そして恐らくは都市部でも滅多に無い美人だ。道行けば老若男女に関わらず彼女を振り返るだろう、伊達男ならばまず声をかけて逃しはしまい。あんぐりと顎が外れんばかりに口を開いた山本は、握りが緩くなって木刀が抜け落ちそうになっている自分に気づいて、慌てて無粋すぎるそれを背中に隠した。
 若い女は輝きを放つ結界の破片の中で、まるで極楽浄土で歌い踊る天女の如くそこに佇んでいた。
 彼女は顔の前に流れてきた自分の髪を柔らかな仕草で肩の後ろへと押し返すと、婀娜な微笑みを浮かべて瞳を細めた。紅を引いた唇が妖しさを増長している、見詰められた山本は思わず頬を赤く染めた。
 雲雀はそんなだらしなく鼻の下を伸ばした山本を見てひとつ舌打ちし、素早く袖の内側から拐を引き抜いた。度々作り直しを余儀なくされている武器はまだ手に馴染みきっていないものの、この際贅沢も言っていられない。見えない右側を庇うようにして左半身を前に姿勢を作り、女を睨みつける。
 放たれている殺気は女も勘付いているだろうに、彼女もまた山本同様に頬に朱を浮かべて恥らうような仕草を作った。両手を頬に添えて腰をくねらせ、伏した瞳は上目遣いに山本を射抜く。
「やっと……」
 門の前に居る女と山本との距離は、大体歩数にして二十歩少々といったところだろうか。雲雀とは更に離れているが、女は一切彼を無視した。
 覚えていないのか、と既に過去の記憶と化している出来事を振り返り、雲雀は顔を顰める。
「やっと、見つけた……」
 感極まった心情の篭もる声で女はそう呟き、顔を上げる。上気した頬に瞳は感激に潤み、年頃の女特有の色香を放って妖しく山本を魅了する。一瞬何のことだか分からない山本は、「へ?」という表情を作って首から上だけを女に突き出した。
 何かが変だと気づいたものの、具体的に何がどう変なのかまで分からず、彼は目を見開いて女を凝視する。
 変。
 そう、女はどこかが変だった。
「見つけたわ……やっと。会いたかった!」
 嬉しそうに破顔して女が駆け出す。そして漸く、山本は女に関してのひとつの違和感に気づいた。
 女の額、前髪の生え際付近に左右、ひとつずつ。
 小さな三角形の突起がそこに、生えていた。
「え?」
 細い目をまん丸に見開き、山本は瞬きもして彼女の頭部を確認する。だがいくら目を擦っても、その角は消えてなくならない。
 そんなものを額に持つ存在は、ひとつきり。
「お、……鬼ぃ――!?」
「山本!」
 おっかなびっくり叫んだ山本の手から木刀が抜け落ちる。退魔師としての自覚を忘れて男としての本能を先走らせた大ばか者に怒鳴りつけ、雲雀は前に出ようと構えを解いた。 
 だが誰かに見られている意識が先に働き、彼の動きを阻む。飲み込まれそうになった雲雀は胸を反り返らせて反射的に後方に飛んでいて、砂利を掻いた足の裏の衝撃に顔を歪めて前を見た。
 リボーンが雲雀を見ていて、その横では女が一直線に山本に向かって駆け寄っていく。
 彼女の指にはあの禍々しい爪は伸びていなかったが、気配は紛れも無く並盛山を囲む結界を破壊した鬼そのもの。以前のような邪気は感じないものの、相手が人外の存在であるのに間違いない。それにそもそも、あの鬼が探していたのは弟である獄寺隼人ではなかったのか。
 何故山本に、と雲雀が目まぐるしく頭の中で考えを切り替えている間に、逃げることも忘れた山本に向かって、女が両腕を真っ直ぐ伸ばした。怯んだ彼が左肘を前に突き出して背を仰け反らせる。
 だ、が。
「会いたかったわっ!」
 女の手は山本に達する直前で、下に沈んだ。
 手だけではない、膝を折った彼女はそのまま地面に勢い良く滑り込んで行き、地面すれすれのところにあった何かを抱き上げて己の胸に抱きこんだ。感動に浸る表情で赤い頬の顔を横に何度も振り回し、歓喜に震えながら小袖が汚れるのも気にせずに地面にそのまま座り込む。
「……え?」
 身構えていた山本としては、いきなり眼前から女の姿が消えたわけで、意味が分からず酷く間抜けな表情を作り出していた。一部始終を見ていた雲雀もまた、呆気に取られた顔で庭の中央部分で繰り広げられた喜劇に目を瞬かせる。
 女が頬擦りしているのは、他でもない。
 黄色い頭巾が今にも脱げ落ちそうになっている、リボーンだった。
「ああ、嬉しい。嬉しいわ、探したのよ、とても。あれから大変だったけれど、貴方に一目会いたいが為に戻って来てしまったわ」
 嬉しくて仕方が無いのだろう、鬼の女は髪を振り乱して、リボーンが苦しいのではないかというくらい、きつく彼の胴体部分に腕を回していた。だがどういう構造をしているのか、リボーンはやれやれと溜息をつくといとも容易く女の腕から逃れてしまった。それは見た目、腕の中から逃げる鰻の動きに似ていた。
 よっ、と掛け声ひとつで地面に降り立った彼は、ずり落ちかけていた頭巾を戻すと涙目になっている女の膝をその小さな手で叩いた。
「元気そーだな」
 そしてまるで旧知の仲の相手に話しかけているように、にこやかに微笑む。
 女は一瞬虚を衝かれた顔をしていたが、声を掛けられたのが嬉しかったのか表情を直ぐに緩ませて姿勢を低くし、彼に顔を近づけた。
「ええ、貴方のお陰よ」
「たいしたことじゃねーぞ」
 鬼の女は、あの日山に侵入してきた鬼で間違いない。だがリボーンによって邪気は完全に取り払われ、今の姿が恐らくは彼女本来の姿なのだろう。何処か遠くへ飛ばされたと聞いていたが、まさか彼女はあの一瞬だけ見えた相手に再会したいが為に、わざわざ歩いて戻ってきたというのか。
 むしろよくぞ場所を覚えていたと褒めるべきか。
 俺じゃなかったのか、と安堵するのか残念がるのか、どちらともつかない複雑な表情をしている山本が、木刀を拾い上げてリボーンを見る。彼も大体のところは察したのだろう、やれやれと肩を竦めた。
「しっかし、派手にぶっ壊してくれたもんだなー……あんた」
「愛の障害になるものに遠慮は不要よ」
「そりゃ……すげえな」
 リボーンに会いたい一心で本来は弾き返される結界を潜り抜け、最後は強引に破ってきた彼女の言い草に、山本は頬を引き攣らせて指で掻いた。いったいどんな術で結界を破壊したのか興味はあったが、実践されると怖そうだから聞かないことにする。正気を失っていた時だとはいえ、彼女は一応、山本でもまるで歯が立たなかった並盛山中心部への結界を破っているのだから。
 近くにいるだけでも膝が震えてくる。彼女は紛うことなき、純血の鬼だ。下界で生活する為に力の大部分を封じているのだろうが、それでも肌を刺す霊気の鋭さには山本も鳥肌を立てずに居られない。
 こんな奴と、しかも正気を失って力の制御も外している状態の相手と戦って、右目ひとつだけで済んだ雲雀の実力の高さを間接的に思い知らされる。
 ――だからって、俺だって……
 無意識に握り締めた拳には汗が滲んでいて、山本は今にも逃げ出したいと本能が訴えている両膝を右から左へと殴りつけた。
「……ああ、ねえ、貴方名前はなんと言うのかしら。私はビアンキ、見ての通り、その……人じゃ、ないけれど」
「俺はリボーンだ」
 人ではない、と言った時だけ視線を脇に流した女――ビアンキに、リボーンはそんな事はどうでも良いという態度で名前だけを名乗る。そういえば彼も、人間ではない。気にしないのは当然といえば当然か。
 どうやら彼女には、此処に居る人間を攻撃する意思は全くないらしい。単にリボーンに惚れたか何かで、彼に会いたかっただけ、と結論付けるのは早計だろうか。いくら殺気を向けてもまるで反応を示さない彼女からは悪意の欠片も見当たらず、雲雀もまた困惑気味に拐を元に戻すと、どうしたものか、と頭を捻らせた。
 ひとまず、彼女はリボーンに任せてしまっても問題ないだろう。彼ならば何かあっても、彼女を即座に遠方へ飛ばしてしまえるだけの力がある。純血の鬼をも上回る能力者、ある種彼が一番恐ろしい存在だ。
 雲雀は肩の力を抜くと、そのまま足元に向いた視線に地面へ突き刺さる鋏を見つけた。そういえば剪定の途中だったのだと思い出し、拾い上げるべく腰を落とす。声が聞こえて来たのは、その最中だった。
「……さん、ヒバリさん!」
 珍しく声を荒立て、息せき切らして走って来た綱吉の小さな姿が、松の木の陰から見て取れた。
 透明な壁に阻まれ、彼の心の声は雲雀に聞こえない。しかし声にも出して名前を連呼されているので、返事をせぬわけにはいかないか、と雲雀は鋏に触れる寸前だった手を戻した。
 だがそれより早く、山本がどうしたのかと彼に声をかける。庭を南北に横断する小川を一足飛びで越えた綱吉は、これまた珍しく着地に失敗しないで地面へと降り立ち、肩を怒らせながら雲雀はどこだ、と早口にまくし立てる。
 彼の後方からはもじゃもじゃ頭の幼子と、同じく脂性の髪と髭面の男と併走する獄寺の姿があった。皆一様に息を弾ませて走ってきており、山本は何事だろうかと首を捻った。徒競走にしては、変なものが混じっている。
 あの男は確かシャマルとかいう、村はずれに住み着いた怪しい奴……と獄寺が必死に肩で押し返しながら追い抜こうとしている相手にまず疑問を抱き、そんな奴と何故獄寺が一緒に仲良く(そうはとても見えないが)走っているのかが分からなくて、眉間に皺が寄る。綱吉はぜいぜいと肩で息をしながら残りの距離を大股で詰めてきていて、あと少しで山本の立つ地点まで到達できそうだった。
 けれど綱吉は、山本の傍らで膝をつき、リボーンに向かって頬を染めている女性に気づいた段階で足を止めてしまった。
 彼もまた、ビアンキには覚えがあった。直接の面識は無いのだが、以前リボーンによって巡らされた獄寺の過去の記憶で、今よりも少し若い彼女を見ている。だが即座にふたつが繋がらないのか、あれ? と自分で自分に首を傾げながら彼女を不躾にじっと見詰めた。
 綱吉の真正面からの視線には流石にビアンキも気づき、やや剣呑な表情を作り出して彼を睨み返す。その迫力に怖気ついたのか、綱吉は半歩後ろに下がると彼女の膝に座ったリボーンに助けを求める視線を送りつけた。
 この状況は、いったいなんなのか。答えを求めた彼に、リボーンはにやりと不敵に笑った。
「いやまぁ、なんていうか、ほら、あっただろ。前に」
「前……?」
 まとまらないままに説明を買って出た山本だったが、まだぴんとこない綱吉は反対側に首を傾がせながら唇をへの字に曲げた。一度視線を持ち上げて山本を見た後、彼はまた斜め下に顔を向けて座っているビアンキの顔を見る。
 誰だっただろう、と懸命に記憶の引き出しを探し回って、彼女の額に特徴的過ぎる角があるのにまだ気づかない。
「あれぇ……?」
「ほら、鬼騒動、村で」
 あっただろう、と、しどろもどろに説明を、身振り交えて繰り広げようとしている山本の声も、微妙に綱吉に届かない。そうしているうちに小川の飛び石を越えてきたランボが綱吉の足にまとわりついてきた。獄寺とシャマルもまた、数歩分の距離を置いて皆の手前へ到着。
 ランボがまだまだ元気一杯なのに対し、ふたりは息も苦しそうで足を止めると同時に膝に両手を置いて背中を丸めてしまった。激しく肩を上下させ、噴出した汗を拭うことも出来ずに苦しそうに呼吸を繰り返している。体力が無いな、と横目で見た山本が笑った。
「うっせぇ!」
 顎を伝った大粒の汗だけはどうにか手の甲で拭い取った獄寺が、悪態をつく。背を丸めるだけでは足りず、その場に腰を落として空を仰いだシャマルは更に辛そうで、今にも息絶えそうな彼は両腕を広げるとそのまま後ろへと倒れていった。
 流れ落ちる汗をもうひとつ拭った獄寺が、
「大体、俺はお前らみたいな体力馬鹿とはちがっ……!」
 山本を怒鳴る勢いに任せて顔を上げ、両手を膝に置いたまま硬直する。
「あら」
 綱吉を飛び越えてビアンキと目が合った彼は、きょとんとした様子で何度か素早い瞬きを繰り返した。
 先に声をあげたのは、彼女だ。
「隼人ったら、何してるの、こんなところで」
「え?」
 いきなり会話が頭の上を飛び越えて遠くまで飛んで行き、綱吉も山本も唖然とさせられた。ひとりだけ理解していた雲雀が、やれやれと諦めた様子で首を振る。リボーンもまた、にっ、と意味ありげに笑ったのだが、誰も彼らに気を留めていなかった。
 綱吉はビアンキに名前を呼ばれた獄寺を振り返り、知り合いなのかと視線で問いかけるものの、反応がない。妙に青白い顔をしている彼だったが、最初はただここまで全力疾走してきたその影響かと思われた。
 だがだらだらと噴出す汗は一向に止まらず、青紫に変色した唇には生気が無い。大きく見開かれた瞳は瞬きを忘れていて、顔色はどんどん悪くなっていく。
 息を整え終えたシャマルが頭にこびりついた砂を払いながら顔を上げて、真横で異様な状態になっている獄寺に顔を顰めた。おーい、と広げた手を彼の顔の前で振って見ても、やはり反応がない。
「獄寺君?」
「お前、このねーちゃんの知り合いなのか?」
 山本もビアンキを指差しながら問いかけるが、獄寺からの返事は皆無。そんな彼らの間で、この状況に全く感知しないランボがきゃいきゃいとはしゃいでいた。
 見知らぬ存在だからなのか、それとも女性だからなのか。神木の精霊でありながら鬼に興味惹かれたのかどうなのか、ランボはビアンキを物珍しそうに見詰めた後、綱吉の足から離れて彼女の方へと歩みよっていく。もしかしたら、膝に載っているリボーンが羨ましかったのかもしれない。
 兎も角幼子はリボーンだけが見守る中、小さな足でそろりと前に進んでいった。彼らの頭上では相変わらず、状況がお互いに飲み込めていない会話が展開されていた。
「獄寺君、どうしたの? 大丈夫?」
「隼人、返事くらいしたらどうなの。そんな失礼な子に育てた覚えはないわよ」
「育てた……って、あんたが? ひょっとして獄寺の母ちゃん?」
「私はそんな歳じゃないわよ!」
 山本の方向違いの質問に拳を硬くして怒鳴ったビアンキだが、元もとの造詣が整っているから目尻を吊り上げていても様になる。怒られた山本は、しかし悪びれた様子もなく歯を見せて笑って、まだ青褪めている獄寺と本来の目的を忘れているらしい綱吉を同時に見た。
 そこにシャマルが居ない。
「あれ?」
「お美しいお嬢さん、いつまでもそんな汚らしいところに座っていないで、どうぞ、お手を」
 頭の後ろに手を回した山本が視線を巡らせて探していると、左横から急に真面目ぶった声が聞こえて来た。首を曲げてそちらを向けば、さっきまでだらしない格好をしていたくせに、いつ整えたのか、髭は流石にそのままだったが服装だけはきっちりと直したシャマルが、遠く池の前で松の木相手に剪定を再開させた雲雀を背景に立っていた。
 左手は胸元に、右手は控えめに前へ。座っているビアンキに立ち上がるよう促す仕草に、けれど彼女は不機嫌そうに顔を顰めさせただけ。
「誰、あんた」
「おお、これは失礼、美しいお嬢さん」
 好意を向けられていないと分かりそうなものなのに、ビアンキの受け答えに少しも挫けず、シャマルは大袈裟な身振りで上半身を揺らすと、仰々しいくらいに右手を横に広げてから胸の前に曲げて行き、一緒になってお辞儀をした。深々と下げられた頭には砂残りがまだ残っていたが、山本は敢えて指摘せずに黙って見守る。
 綱吉の横では、獄寺がぱくぱくと酸欠の鯉のように口を開閉させて空気を必死にかき集めていた。その異常な様子に、焦った綱吉は彼に手を伸ばし、大丈夫かと再度呼びかける。返事は依然としてない。
 雲雀は池の北側に生えている松の木の傍で、庭を右手に見ながら作業を続けていた。
 あの中に混じるのは至極面倒くさそうだと、彼は最初から我関せずの姿勢を一貫させるつもりだった。綱吉が呼んでいたけれど、あちらに気を取られている間は暫く自由が出来る。ぱちん、と音を響かせて枝を切り、形が整っていく松の枝ぶりに満足そうに彼は頷いていた。
 ランボはビアンキの膝に到達すると、リボーンが占有していない面積に両腕を伸ばして期待に満ちた眼差しを彼女に向けた。けれどそのビアンキは、明らかに嫌そうにシャマルを睨みつけている。無精髭の男は、お構いなしに彼女にあれやこれやと話しかけるのをやめない。
 彼の女好きは病的だと知っている山本は、無駄な事をと彼の行動に肩を竦めて呆れ顔で笑う。だが顛末を見守るのは楽しそうなので、彼女がリボーンにほの字だというのは黙っておくことにした。
 どうなるかな、とわくわくした気持ちを抑えきれなくて、綱吉に同意を求めようと振り返った先。彼は真っ青になった獄寺が、突然泡を吹いて後ろ向きに倒れる様を目撃してしまった。
「ご、獄寺君?」
「獄寺!」
「お嬢さんのようなお美しい方と出会えるなんて、今日の俺は本当に運が良い。どうです、お嬢さん。俺と一緒にひと時の愛の語らいを……」
「寝言は寝てから言ってくれるかしら」
 ばたりと仰向けに倒れた獄寺に驚く二人を蚊帳の外に、シャマルの申し出をぴしゃりと絶ち切るビアンキも容赦が無い。しかし男はそれでも挫ける事無く、
「そんなに照れなくても……さあ、恥かしがらずに俺の胸に飛び込んでおいで!」
 どこまでも自分本位に物事を解釈して話を続けようとしていた。
 いい加減しつこいと、ビアンキの堪忍袋の緒が切れる。
「獄寺君、獄寺君、しっかり!」
「おいおい、どうしたんだいったい」
 雲雀がぱちん、と松の枝をまた一本切り落とす。
 獄寺は顔面蒼白のまま白い泡を蟹のように吹き出して、白目を剥いて地面に倒れていた。痙攣した両腕が意味不明に空を掻き、膝を落として顔を覗き込む綱吉の呼びかけにも一切応答しない。彼の身に何が起こったのか誰も理解出来ないので、どう対処してよいのかもわからず綱吉は泣きそうになりながら傍らに駆け寄った山本を仰ぎ見た。
 だが助けを求められても、山本にだって何がなんだか分からないのだ。
「どうしよう、どうしよう山本」
「いや、俺に聞かれても……」
 医者も兼ねる男はあの調子だし、と鼻の下をだらしなく伸ばしてビアンキに迫ろうとしているシャマルを振り返る。彼は両腕を広げ、自分の周囲に花を飛ばしながら、あれやこれやと聞いているだけで鳥肌が立ちそうな口説き文句を滑らかな舌使いで繰り広げていた。
 うんざりした調子のビアンキが、いい加減にしろと怒鳴りつけても効果が無い。彼女の手が苛立ちに染まり、膝に登ろうとしていたランボをそうと知らずぶった。
 小さな子供は転がり落ち、うつ伏せに倒れこむ。その丸い頭を、彼女は長い爪を鋭くさせて捕まえた。
 雲雀がまたひとつ、枝を落とす。
 大きな目を歪ませたランボが、涙を一杯にためて鼻をひくつかせる。今にも泣き出しそうなのを懸命に我慢しているのだが、落ちた時にぶつけた部分が痛いのかビアンキの手の中で声ならざる声を張り上げて暴れだした。
 だが大人は誰一人気づかず、子供も白目を剥いている獄寺の対処に追われて、精霊の泣き声に興味を示さない。
「さあ、俺と一緒に天国を目指さないか!」
「五月蝿いのよあんたは!」
 決め台詞とばかりに天に手を向けて言い放ったシャマルへ、ビアンキが怒髪天の勢いで叫び、ランボを掴んでいる手に力を込める。めき、と何かが軋む音がして、凄まじい殺気に驚いた山本が慌てて振り返った。
 だが既に最終体勢に入っていたビアンキを止める術はなく、彼女は膝立ちになると右腕を大きく振りかぶらせ、其処に立つシャマル目掛けて握っていたものを、投げた。
 ランボを。
 至近距離から投げ放たれた黒と白の斑模様の子供は、高速回転を繰り広げて一直線にシャマルに向かっていく。投げられた当人は(人ではないが)とっくに目を回し、外から与えられた力にあえなく飲みこまれてしまっている。
「うおっ、と」
 しかしシャマルは彼を避けた。
 予めある程度は予想していたのか、日頃の酔っ払いの彼からは想像がつかない素早い動きで右に体をずらし、自分の体を制御する能力を失っているランボを呆気なく見捨てた。受け止めもしない。
「避けるんじゃないわよ!」
「だって、当たったら痛いだろ~?」
 握り拳を作って悔しがるビアンキに平然と言い放って肩を竦めたシャマルに、山本までもが彼女と同じ事を口にした。
「やば……雲雀、避けろ!」
「え――?」
 シャマルの後方遥かには、雲雀が居る。庭先の騒動を完全に他人事として扱い、松の枝を切るのに意識を向けていた彼は、当然ながらビアンキがランボを投げたことも知らない。
 山本の焦りを含んだ声を間近で聞いた綱吉は、すっかり忘れていた本来の目的を思い出して顔を上げる。そして山本が見詰めている方角に自分も目を向けて、庭の池の前に佇む男の姿を見つけた。
 空中に直線の軌道を描き出し、ランボが彼目掛けて突進している。しかし雲雀はそれに全く気づく様子が無い。
 体の右半分をこちらに向けている彼は確か、今、右目が見えない。もっともそれ以前に、雲雀は、ランボ自体が見えないのだ。
「ヒバリさんっ!」
「……?」
 綱吉の悲鳴にも似た叫びが聞こえ、彼は枝を挟んでいた鋏をそのままに首から上だけを軒先に向けた。なにやらさっきとは随分と状況が違うようだが、何かあったのだろうか。完全に意識の外に置いていたので何も知らない雲雀は、首を傾げてそれからやっと、凄まじい怒気に後押しされた見えない何かが自分に迫っているのを知った。
 ただ、気づいたところで、もう遅い。
「――なに?」
 超高密度に圧縮された空気が渦を巻いて自分に向かって来ている。避ける暇など、ない。
 ぶわっ、と雲雀の前髪が自然界の風とは異なる風に煽られて膨らんだ。驚きに目を見開いた彼の手が前から上へと流れて行き、後ろに向く。まだなにやら叫んでいる綱吉の姿が見えたのはほんの一瞬で、気づけば空が其処にあり、水の匂いが感じられた。天地の感覚が消えうせ、踵が宙に浮く。自分が今どうなっているのかも理解できぬまま、雲雀は右側頭部に痛烈な衝撃を受けて一瞬だけ意識を飛ばした。
 何か、目に見えないものが自分を直撃した。それだけが辛うじて理解できたが、このときにはもう彼の身体は左側へ吹っ飛び、肩を下にして落下の途にあった。
 巨大な水柱が立ちあがり、日の光を受けて薄い虹が即席に完成する。凄まじい爆音が庭を埋め尽くし、口論を続けていたシャマルとビアンキも会話を止めて一瞬の降雨に濡れる池の周辺を呆然と見た。
「ヒバリさん!」
 綱吉が両手で顔を抱いて慌てて駆け出す、だがとっくに体力の限界が来ていた彼は、見事に何も無い場所で足を絡ませて転んだ。
「いっつ……」
 勢い余って池の底に肩をぶつけた雲雀が、最初にぶつけた頭を右手で庇いながら体を起こす。彼のすぐ横の水面は、変に凹んでバシャバシャと飛沫をあげていた。目に見えないが、その場所だけ空間に歪みが生じているのが分かる。彼はそれが今の今、自分に向かって飛んで来てぶつかったものだと理解し、左手を伸ばすと適当に指を絡ませ、捕まえた。
 水から引っ張り出すと、案の定飛沫は止んだ。代わりに左腕の周辺に奇怪な空気の流れを感じ取る、恐らくはランボが泣いているのだろう、と彼は姿を捉えきれない精霊の状況を冷静に理解しながら、面倒くさそうに吐息を零すと無造作に掴んでいたそれを地面目掛けて放り投げた。
「なんなんだ、いったい」
 人が折角剪定作業で気を紛らわせていたというのに、余計な邪魔が入った。水が入り込んだ右目がまた痛んで、雲雀は頭を押さえていた手で顔半分を覆い隠すと、ずぶ濡れの自分の体を今度は池の中から引きずり出す。黒髪が湿って余計に色合いを濃くし、着込んでいる着物が肌に張り付いて気持ちが悪い。
 しかもここ数日の雨続きで、池の水は泥で濁っていた。水と一緒に飲みこんだ砂利が歯に絡まり、じゃりじゃりした感触が口の中に広がる。唾と一緒に吐き出しても全て取り除くのは難しそうで、湧き上がる苛立ちに舌打ちを繰り返し雲雀は頭を振った。
 ぶつけたところが痛む。右目も、だ。
 あれくらい避けて見せろと嗤う声が脳裏に反響し、苛立ちを増幅させて雲雀の精神を傷つける。池の傍から点々と水の跡が軒先へ伸びていくので、ランボが綱吉のところへ戻っていく最中なのだろう。それを証拠に、ちらちらと雲雀に目を向けていた綱吉も、膝を折って別のものに意識を切り替えていた。
「くそっ」
 どうしようもない感情が胸の中で渦を巻き、雲雀の居場所を奪っていく。乱暴に右手を振り下ろした彼は、大丈夫かと遠くから声をかけてくる山本を無視し陸にあがった。水の這う跡をその場に残し、ランボとは違う方向へと歩き出す。
 気づいた綱吉が声を高くして雲雀の名前を連呼するが、視線を向けさえしない。
「ヒバリさん!」
 胸を裂く悲痛な声に耳を傾けぬように努力し、彼は奥歯をきつく噛み締めて急ぎ足に離れへと向かった。やがてその背中は綱吉の視界から消え、ランボを抱いた彼は沈痛な面持ちで俯く。
「悪い、ツナ。獄寺このまま寝かせておくわけにいかないから、運ぶの手伝ってくれ」
 雲雀なら大丈夫だろうから、と慰めにもならない事をいい、山本は膝を折って獄寺の傍らにしゃがみ込んだ。
 実際、泡を吹いて倒れている彼をいつまでもこのままにしておくわけにはいかない。シャマルとビアンキのことはこの際置いておくとして、先ずは目の前に転がっている問題から解決していかなければ。
 びしょ濡れのランボを地面に下ろし、綱吉もまた山本と視線を揃えて倒れている獄寺を窺い見る。どうやらビアンキを見て反応したようだが、事の詳細も彼が意識を取り戻してから聞けばいい。
「そっち、頼むな」
「分かった」
 まだ泣いて縋るランボに言い聞かせ、綱吉は山本に言われた通り彼の足を抱えるべく場所を変える。山本が獄寺の肩を抱えて引き起こし、移動させようと綱吉も引きずられる彼の足首を掴んだところで、ビアンキが何をしているのか、といきなり話に割り込んできた。
 気づけばシャマルまでもが泡を吹いて地面に倒れている。
「隼人を何処へ連れて行くつもり」
「え、いや、何処へって……」
 答えに窮した山本が視線を泳がせて、気を失っている獄寺を見る。綱吉も困惑気味に彼女を見上げ、そして今頃になって彼女の額に特徴的過ぎる角がふたつ並んでいるのに気がついた。
 見覚えのある髪色、艶のある唇、ふくよかな体躯にやや高圧的な態度。どこかで会ったことがあるだろうか、とさっきから疑問に感じていた答えが、漸くひとつに繋がった。
 頭の中で導き出された結論に、
「あーー!!」
 驚きのあまり両手を離してしまって、獄寺の足が地面に落ちた。がくん、と肩に掛かる負荷が増した山本があげそうになった悲鳴を飲み込む。自分までもが彼を落としてしまいそうで、限界を訴える肩の筋肉がみしみしと嫌な音を響かせた。
 いきなり叫んで指を差され、ビアンキが整った顔を不機嫌に染めながら綱吉を睨み下ろす。リボーンの姿はいつの間にか見えなくなっていて、それも彼女の機嫌の悪さに拍車をかけているのだろう。鋭く伸びた爪で綱吉を牽制し、一瞬だが山本との間に剣呑な空気を作り出した彼女だが、大人しく腕を下ろした綱吉が次に放ったことばに、更に不可解だという顔をして唇を尖らせた。
「獄寺君の……お姉さん!」
「えええー!?」 
 綱吉の発言に、山本の驚きの声が重なり合う。
 肝心の獄寺だけが、未だ目を丸くして夢の中。

 ぽたり、と顎を伝った水滴が支えを失って床へと落ちていく。そのまま乾いた足場に吸い込まれていった水の行方も追わず、雲雀は薄暗い土間を抜けて自室の扉を横に開いた。
 ずぶ濡れの草履を脱ぎ捨て、髪を後ろへと梳き流す。露になった額はぶつけた痕が残って、右側だけ僅かに赤みを帯びていた。
 土臭さが残る室内は、土間以上に薄暗い。元々寝て起きる為だけの用途でしかない離れのこの部屋は、遠地から道場に通う門下生に貸し与えられていたものだ。だが今となっては道場の主もおらず、部屋は本来の目的を見失った。偶々空いていたからとこの部屋が自分のものとなったのは、十年も前のこと。
 母屋で寝起きしていた綱吉が、同じく空いているからと隣の部屋を占領するようになってからは、もうじき八年になるだろうか。
 かなりの時間が過ぎた、この家に引き取られて人間らしい生活を送るようになってから。
『恭弥、ってのはどうだ?』
『なんですか、若。それは』
『こいつの名前。よーし、お前は今日から恭弥だ。俺の息子だ』
 不意に蘇った懐かしすぎる記憶に吐き気がして、雲雀は黒ずんだ柱に拳を叩きつける。苛立った気持ちは荒い波となって彼を飲み込み、虫唾が走ると即座に記憶の彼方へ現れた男の顔を追い出した。
 誰が父親なものか、そう吐き捨てて雲雀は覚束ない足取りで一段高くなっている部屋へと上がりこむと、雫を垂らす着物の帯に手をかけて結びを解いた。暗い室内に入り口から注ぎ込む細い光だけが手元を照らしている、だがもう慣れてしまっているのもあって、雲雀は光に頼らずとも簡単に装束を解いていった。
 布を組み合わせて縫い付けただけの簡単な衣装が、足元に層を成して積み上げられていく。肌に絡み付いていた湿った布の不快感から解放された彼は、けだるそうに今一度髪を梳きあげると疲れた顔をして溜息を零した。
「辛そうだな、かなり」
「……童」
 ひょいっ、とまたしてもいきなり空中から現れたリボーンが、くるりと一回転して床へ降り立つ。何故だか彼の周囲だけは仄明るく、彼自身が発光しているようにその姿が闇の中でもはっきりと見て取れた。だが雲雀は興味すら抱いていない様子で、現れたリボーンに驚きもせず、ただ吐息をもうひとつ。
 腕を下ろし、反対の肘に残っていた砂を水気ごと払い落とす。床には今朝起きた時の状態のままの乱れた布団が転がっていて、リボーンはその枕を座布団代わりに腰を落とした。
「なかなか、元気そうじゃねーか」
「……どうだか」
「お前の慢心が招いた結果だぞ」
 主語の無い感想に愛想無く言い返した雲雀だったが、次に続けられた台詞には言葉を重ねられず、黙り込む。自業自得なのは重々承知しているからこそ、他人から指摘を受けると腹が立つ。だが本当のことなので反論も出来なくて、彼は吐き出しかけた雑言をぎりぎりのところで噛み砕いた。
 ぎり、と奥歯が軋む音が暗い室内に沈んでいく。
「共倒れになるつもりか?」
「あの子の手を煩わせるつもりはない」
「それが傲慢だと言ってるんだ」
 最早お前達は個々に数えられるような存在ではないだろう、と言葉少なに諭すリボーンではあるが、頑なな雲雀の心は少しも動かない。聞いてやるものか、という態度が如実に現れていて、リボーンはやや困った風に黄色の頭巾を被り直した。
「このままじゃ、俺がお前を殺さなきゃならなくなる」
「……そうなるね」
 くっ、と喉の奥で言葉を震わせた雲雀が嗤う。最早自分の命などどうでも良いといわんばかりの態度に、丸い瞳を僅かに眇めたリボーンはやれやれと肩を竦めると自分の額をぽんと叩いた。
「もっと大事に扱え。お前に何かあって、文句を言われるのは、この俺だぞ」
「どれに?」
「……」
「言っておくけれど、僕はあいつを、父親だと思ったことは一度としてないよ」
 図星だったのか、リボーンはそのまま黙り込み、やがて長い息をゆっくりと吐き出すと下向かせていた目を持ち上げて、闇の中に雲雀を見た。
 黒光りする輪郭が薄く浮かび上がり、知らぬものが見れば恐怖に身を竦ませるだろう笑みを薄らと浮かべている。その表情からリボーンが言いたい人物を心底嫌っている様子が感じ取れて、もう一度額を叩いた彼は大袈裟に落胆した素振りを見せた。
 カタン、と何かが擦れる音がする。だが意識をリボーンにだけ向けていた雲雀は、そのことに気付かない。
「ちっとは好いてやっていると思ってたんだがな、俺は」
「冗談」
 リボーンの言葉を即座に否定した雲雀は、脱ぎ捨てた自分の着物を拾い上げると部屋の端へと投げ捨てる。そして壁際の箪笥に近づき、上から二番目の抽斗を両手で引いた。
 彼の背中に薄い光が当たり、肌を照らし出す。肩甲骨の辺りから右半分を覆い隠すようにして、常人の皮膚とは異なる形状のものがそこに浮かび上がり、埋め尽くしていた。腰骨を過ぎた辺りから再び人の肌へと戻っているものの、それはさながら、鱗のようでもあった。
 だが水に潜む魚とは大きさも色合いも異なっていて、虹のように輝いたかと思うと彼を包む闇のように黒くくすんだりもする。絶えず変化を見せながら、一向に留まらない。まるで彼の不安定さを示しているようで、リボーンは眉間に僅かな皺を寄せて唇を尖らせた。
 一瞬だけその開いた戸口から外に気を移し、また雲雀へ戻す。彼は引き出した抽斗から、適当に折り畳んで収納されていた襦袢を取り出して手の中に広げている最中だった。
「冗談、か」
「ああ、冗談だとしても気持ちが悪いね」
「酷ぇ言い草だな」
 振り返りもせずに言ってのけた雲雀に、リボーンが戒めるわけでもなくどちらかと言えば若干笑みを含む声で返す。コトン、とまた音がしたものの雲雀はそれを、手元の箪笥の抽斗が揺れる音だと解釈した。
 広げた襦袢の袂を掴み、右側の袖から腕を通していく。
 再び枕に腰を落としたリボーンが、両足を交互にぶらつかせて両手を後ろに添えた。えんこ座りの赤ん坊にちらりと視線を移し変えた雲雀は、袖を通し終えた襦袢の身頃を左右夫々の手に持って、裾をあわせながら手早く形を整えていった。そして位置を決めると、先ほど端に投げ捨てた着物から固定に使う紐を一本抜き出す。
「大体、僕がこんな身体になったのは誰の所為だと? あいつさえ居なければ、僕がこんな目に遭うことはなかったんだよ」
 器用に片手で襦袢を押さえながら、腰に紐を回して斜め前で結ぶ。左手を解放してももう襦袢は肌蹴なくて、具合を確かめた彼はリボーンに言った後また箪笥に手を伸ばした。
「だが、あいつが居なければお前は死んでいたぞ」
「それは否定しない。けれど、僕は、助けてくれだなんて頼んでいない」
 がさごそと着物を探りながら言い切った雲雀は、この時になって、先ほどから響いている微かな音が自分の前方ではなく、横からでもなく、後ろから聞こえてきているのだと気づく。
 手元に向けていた視線を持ち上げ、何も無い壁と天井の継ぎ目を見てから、振り返る。数歩の距離を大股に戻って開いている戸口から顔を覗かせ土間を窺うが、誰もいないし、なにもない。
「……?」
 気のせいだろうか、と首を捻る。だが何故だか直ぐに戸口を離れて室内に引き返す気分になれなくて、雲雀はそんな自分に対し怪訝に顔を顰めた。
 よいしょ、と勢いつけて立ち上がったリボーンが低く笑う。
「ディーノの奴が聞いたら、泣くな」
 外を覗き込んでいた雲雀が首を戻し、大仰に肩を落とした。
「泣こうが喚こうが、――僕があいつを嫌いなのは変わらないよ」
 

 
 綱吉は走っていた。
 息が切れ、呼吸が苦しく、脚は棒となり、足は鉛よりも重くなっても、彼は走り続けた。
 目の前が真っ暗で、何も見えない。何も考えられなかった、ただ彼は闇雲に走っていた。
 行き先があるわけではない、行かなければならない場所があるわけでもない。けれど此処から逃げ出したかった、この場所にいたくなかった。
 涙で世界は歪み、色を失って彼の前に広がっている。鳥の声は遠く、風のざわめきも聞こえない。何もかもが虚無に飲み込まれる中を、綱吉は必死になって走った。
 だが力尽きた両足は大地を蹴るのを勝手にやめてしまい、もつれた足が絡まって彼はもんどりうって地面に倒れこんだ。溢れ出た涙が止まらず、ぐしゃぐしゃになった顔は転んだ痛みも相俟って益々不細工になっていく。道理の分からない子供のようにしゃがみ込んだ彼は、そのままわんわんと声をあげて泣き叫んだ。
 誰か。
 誰か。
 助けて。
 こんなのは嫌だ。
 こんなのは嘘だ。
 こんな残酷な真実は知りたくなかった。
 泣き喚く綱吉の顔に陰が落ちる。差し伸べられた大きな手は、今の彼には天から差す光にも等しかった。
 南から生温い風が吹き、彼を包み込む。西の空から立ち登った入道雲は、やがて空一面を覆い隠した。

 そして綱吉はいなくなった――

2007/5/2 脱稿