ぷつっ、と小気味の良い音が響き、緑色の莢から大粒の豆が姿を現した。
左手で莢を支え、右手で丁寧に豆を摘んだ山本は、それを傍らに置いた笊に乗せ次の莢に手を伸ばす。彼は南向きの、日当たりも良い縁側に腰を下ろし、時折欠伸を噛み殺しながら豌豆の莢から中身を取り出す作業に没頭していた。
彼の体を挟んで笊の反対側には、今朝収穫したばかりの豌豆が、枝つきの状態で山積みにされている。足元には豆を抜き取り終えた空の莢と、莢が外された枝が同じく山を成していた。それらに触れる寸前の中空に彼の爪先が漂い、周囲には土臭い匂いが立ちこめる。
「ふぁ~……ああ」
田植え作業はひと段落したものの、農作業は一年間休む暇が殆どない。稲だけを収穫していれば良いというものでもなし、幾多の野菜や麦、麻や木綿も全て自分たちの周囲で賄うのが村の常。基本的に自給自足の生活は、この沢田家でも例外ではなかった。
眠そうに大きな口をあけて欠伸をした山本は、膝の上に広げた莢が全て空っぽになったのを確認し、笊を軽く揺すって豆の山を崩した。それから徐に軒先に降り立って、野袴の表面を埋めていた莢を地面に落としていく。軽く布の表面を叩いてやると、土埃も一緒に濡れた砂に沈んで行った。
折角気持ちよく晴れたことだし、外で素振りでもしようか、そう思って愛用の木刀を手に庭に出たのが運の尽きだった。畑から大量の豌豆を抱えて戻ってくる道中だった奈々に、重そうだからと手助けを買って出た山本だったのだが、これ幸いと彼女に殻剥きまでお願いされてしまったのだ。
奈々は沢田家の台所を一手に引き受ける女傑であり、この家の要。彼女に逆らっては沢田家では生きていけず、あの雲雀でさえ彼女には頭が上がらない。無論断れるはずが無い、ただでさえ今の山本は、ただ飯ぐらいの居候でしかないのだから。
武君が居てくれて助かるわ、などと微笑みながら渡された豌豆の束は予想以上に重かった。よくあの細腕で抱えてこられたものだと感心しつつ、ひょっとして自分ひとりでこの豆を剥くのかと思うと憂鬱さが増す。勿論一気にこれだけの量を消費できるわけではないと分かっていながらも、気持ちは晴れてくれない。
誰か手伝ってくれる人間は居ないだろうか、と探しては見たものの、綱吉と獄寺はふたり揃って神社まで散歩に出かけたらしく、残っているのは雲雀くらい。
まさか彼に手伝ってくれとは言えるはずもなく、山本は仕方なしに日向ぼっこを兼ねながらひとりのんびりと豆相手に格闘中。
麗らかな陽気は穏やかな眠気を誘う。朝起きだしてからまだ数時間しか経過していないというのに、目尻に自然と涙が浮かんで、山本は新しい房を手元に引き寄せながら何度目か知れない欠伸を噛み殺した。
並盛の里は一時期の鬼騒動の余韻も薄れ、平和な日々が続いていた。梅雨時に入って外に出る機会は減ってしまったが、奈々はその間も忙しく畑の手入れを欠かさなかった。
もう少し積極的に手伝いを申し出てみるべきか、そんな事を考えながらやや黒ずんでいる枝を縦に構えて持ち、垂れ下がっている房をひとつずつ外していく。
初夏の陽射しはまだ柔らかさを残し、穏やかに東寄りの空高い位置に浮かんでいる。けれどあと数ヶ月もしないうちに、容赦ない鋭さを持って太陽は地表を焦がすだろう。簾の設置の為に屋根に登る役目も雲雀と相談しなければならないな、とそれまで自分が此処に居るかどうかも分からないのに漠然と彼は考えた。
ぷち、と枝から莢が外れて落ちる。軒を支える角柱の方へと跳ねながら転がっていき、山本は思考を中断させて右手を繰り出した。
だが捜し求めた豌豆の莢に届く手前で、彼の腕は止まる。代わりにひょいっと軽い仕草で豆を拾い上げる存在が其処にあって、山本は僅かに目を見開いてから苦笑を浮かべた。
「悪いな」
「気にするな」
掌を広げ上向ければ、小さな手から莢が手渡される。相手は黄色い頭巾を目深に被り、それから首を振って口元を緩めて笑った。
「ツナなら、神社に行ったぜ?」
「みたいだな」
この家の守護者でもあるリボーンは、特別な用件がある時以外は殆ど人前に姿を現さない。何もないのに姿を見かけるときは、大抵綱吉が一緒だった。だから今回も、綱吉を探しているのだろう、と単純に考えた山本の言葉だったのだが、リボーンは特に興味を示さぬまま、縁側に、山本と並ぶ格好で座り込んだ。
両足を前に突き出し、膝を曲げてぶらりと揺らす。見た目は赤ん坊のそれなのに頭の中身はその辺の知識人よりもずっと英知に満ちていて、武術にも秀で退魔の術にも優れている。正体不明の存在であるに関わらず、彼を知り、親しく接している者は皆彼の本質を探ろうとしない。最初から調べるだけ無駄だと割り切っているのか、それとも無意識に知る事を恐れているのか。
山本は、後者ではないかと考えている。
彼の父親は、元々この里の住人ではない。定住のきっかけは、山本が生まれる前に、城に出仕するだけの生活に疑問を覚えた彼の父親が、ふらりと旅に出てこの村に立ち寄ったことだ。
元々武士であり、剣術指南役を務めていた彼の父親は、当時近辺を荒らしまわっていた山賊退治を頼まれ、それが縁となり土地を与えられ、妻を娶って山本が生まれた。
現実主義の彼の父親は、彼の母親程敬虔でもなかった為に、山の神や土地神といった迷信ごとをあまり信じない。だから生まれて来た息子の瞳が、人の目には映らないものを当たり前のように写し取っている現実に、随分と苦悩したようだ。
自分が経験した事のない物事は、たとえ愛息子であっても理解してやれない。だから彼の父親は度々、幼い息子の手を引いて長い九十九折の石段を登り、沢田家の当主家光に相談にやって来たらしい。
だから山本は、雲雀が沢田家に引き取られる以前から、綱吉と面識があった。
まだ小さかったので記憶も限りなく朧であやふやながら、初めて綱吉と対面した時の事を山本は覚えている。体もあまり丈夫でなかった為里へ降りることもなく育った綱吉は、激しく人見知りする子供で、同じ年頃の子供に会ったことも無かったので、最初はかなり山本を怖がった。
けれど同じように魔や妖が目に見え、尚且つそれらと言葉さえ交し合える綱吉は、山本にとって救いの神に等しい存在だった。
それまで両親とはまったく会話が成立しなかった、見えざるものに関する話が出来るのも嬉しかったし、自分がおかしいのではないという実証が得られたのも救いだった。予備知識を何も持っていなかった彼は、善きものとそうでないものと見分ける事が出来なかったのだけれど、その区別や対処の方法も沢田家に通うようになってから教わった。
最初こそ山本に近づこうとせず、家光の脚にしがみついて後ろから顔を覗かせる程度だった綱吉も、時間が経つにつれて少しずつ彼に馴染んでいった。
リボーンの姿はその間、時々屋敷で見かけることはあっても、声を掛けられたことは無かった。
人ではないというのは直ぐに分かったが、至極当たり前のように彼は沢田家の面々に、家族として扱われていた。彼に対しての説明は一切無いのも不思議だった。けれど気づけば、山本も彼が其処に居るのは当然のものとして考えるようになっていて、自分でその事実に気づいたときはかなり驚いたものだ。
何故疑問に思わないのだろうか、皆は。知らないことを知りたいと願うのは、人間としての持って然るべき欲のひとつなのに。
だから山本は聞いた事がある、本人に、直接。
彼は当然ながら答えをくれなかった。にやりと口角を僅かに持ち上げて意味ありげに笑って、「さあな」とたった一言、それだけ告げて姿をくらましてしまった。
それ以後はなんとなく聞きづらくて、山本は胸の内に鬱積する疑問を解決する術もなくこの年を迎えてしまった。恐らく一生かかっても答えは出てこないだろうと予想している、だが決して諦めたわけではない。
幼い山本にとって、綱吉も不思議な存在だった。
里に暮らす幼馴染達とはどこか雰囲気が違っていて、目には見えない金色の光に包まれて守られている。きらきらと輝くそれは太陽の眩しい光にも似ていて、不用意に触れれば自分が火傷をしてしまう、そう思わせる空気が彼にあった。
どこか近寄り難く、一歩距離を取ってしまう存在。だからこそ興味を惹かれ、心を擽られ、山本は綱吉に近づきたくて仕方が無かった。
どうしてそんなにも綺麗なのか、彼を守る光の正体は何なのか。
当時の山本は、綱吉が呪言も触媒もなしに幻術を使いこなし、一部から神童とまで呼ばれていた事実を知らない。だが彼が常人とは異なり、一段高い場所に座す存在だとは無意識に認識していた。
村の子供たちとも違い、大人たちとも違う綱吉と、ただ妖の類が見えるだけだった山本。ふたりの関係はどこかたどたどしい面もあったが、仲は決して悪くなかった。
そんな関係に変化が訪れたのは、雲雀が並盛の里にやって来た頃。
綱吉が病に伏したという話を大人から聞かされた山本は、急ぎ彼の元へ駆けつけようとしたけれど、周囲はそれを許してくれなかった。
高熱が出て意識が戻らない、もしかしたらもう駄目かもしれない、そうとも言われた。
丁度同じ時期、この周辺の村々では長雨が続いていた。梅雨時前だというのに日は翳り、一日中雲が空を覆い隠している。雨が降り始めると丸一日止むことはなく、風が嵐を呼び、雷が鳴り響き、作物は根が腐りまるで育たなかった。冬が漸く終わり、雪が解けて春の息吹が感じられるはずの時期に、世界はまるで湖の底に沈んでしまったかのように、水に溢れかえっていた。
川は増水し、堰は破られ、田畑のみならず水辺に近い家々も次々に押し流されて、何人もの村人が巻き込まれ犠牲になった。並盛の里も例外ではなく、日に日に水量を増す川は濁流となって村を襲い、大人たちが蓑を背負って決壊しそうな場所に土嚢を積み上げる作業に終始していたのを、山本はよく覚えている。
何故いきなり、そんな異常気象が襲ってきたのか。
誰かがまことしやかに告げていた、水神様の怒りに触れたのだと。
聞いた当時は、何のことだか良く分からなかった。
そうしているうちにある日突然嵐が引き上げ、急に晴れ空が広がりだした。長らく面会謝絶が続いていた綱吉に会う許可が漸く下りて、急ぎ足で山本が向かった沢田家の邸宅には、もう雲雀がいた。
そして綱吉は、家光ではなく、彼の後ろに隠れるようになっていた。
綱吉を包み込んでいた、あの眩いばかりの光は鳴りを潜め、彼はそこいらにいる子供と何ら変わらない、ただの子供になってしまっていた。
山本の知る綱吉は居なくなった、あの金色に輝いていた彼はもう何処にも存在していない。
彼が魔を見抜く眼以外、全ての力を失ったと知るのはもっと後のこと。
雲雀が沢田家に住み着くようになり、山本は綱吉の隣という場所を失った。
無愛想、無口、無表情。三拍子揃った雲雀の後ろを、綱吉はけなげについて回る。雲雀は綱吉を迷惑そうに扱うけれど、彼が何かに躓いて転んで泣き出したりした時は、黙って開いていた距離を詰め、綱吉の頭を撫でて泣き止むまで辛抱強く傍にいてやっていた。
綱吉は幼馴染だった山本よりも、雲雀を選んだ。山本には控えめな、ちょっと照れ臭そうな笑顔しか見せたことはなかったのに、雲雀には満面の、心を許しきった笑顔をいっぱいに振り撒いていた。
悔しかった。
自分の居場所を横からあっさり奪っていったあの男が、正直嫌いで憎らしかった。
雲雀恭弥。
何処から来たのか、何故沢田家に引き取られたのか。並盛に来る前は何処に居たのか、両親はどうしたのか。彼についての情報は何ひとつ里に齎されなかった、ここでも村人はいつの間にか、彼は村に居て当たり前の存在として認識し、質問を投げかけることもしなかった。
山本の中に積み重ねられていく疑問は、誰からも解決の糸口を見出せぬまま、長い間彼の胸の内に燻り続けた。
きっかけは、本当に些細なところから。
見えるだけの能力というのに飽き足らず、父親に武術を叩き込まれていたこともあって、山本はリボーンから正式に退魔師として修行してみないかという誘いを受けた。断る理由は無く、父親に勘当同然で家を追い出されたものの、その件は今でも後悔していない。
そして厳しい修行の最中、偶然この近隣の地図を見ていた山本は、並盛からそう離れていない場所に雲雀山という名の山がある事を知る。雲雀山と雲雀、共通点を即座に見出した山本は、その瞬間確信めいた何かを胸の中に抱いた。
後はこっそりと調べれば済む話だった。この地域に伝わる伝承、迷信、土着信仰の類を退魔師としての知識を得ると言い訳して片っ端から読み漁って、古老から話を聞いて回り、得た結論。
十年前の嵐の日、沢田家光は退魔師としての仕事を命じられ、雲雀山に出向いていた。そうして嵐が止み、家光が里に戻って、山本が並盛山中腹にある沢田家を訪れた時にはもう、雲雀はそこにいた。
ここに何の関連も見出せないという方が、おかしい。
その日何があったのか、何故家光は雲雀山に出向いたのか。雲雀はそもそも何処の誰なのか、詳細は憶測の域を出ないが、凡その見当はついている。山本は手の中に転がる豌豆の莢を日に透かし、地表遠くへと投げ捨てた。
その向こう側遥か、庭の南端に設けられた池のほとりに、雲雀が立っていた。
視線は山本には向かず、南を向いている。手には黒光りする鉄製の鋏が握られ、袖は邪魔にならぬようにと襷でまとめられていた。彼の前には立派な枝ぶりの松の木が久方ぶりの太陽の光を気持ち良さそうに浴びていて、時々ぱちん、と音がするのは雲雀がその松の枝を剪定しているからだ。
山から流れる小川は屋敷の脇を走りぬけ、玉砂利の河川敷に挟まれて池へと注ぎ込む。池は東西に長い瓢箪型をしていて、中央に朱色の可愛らしい太鼓橋が架かっている。
あの川は、並盛神社の神域と、屋敷の人域とを区切る境界線の役目も果たしている。川向こうは神の国、そういう意味合いがあるのだとか。
「調子はどうだ?」
「ん? ああ、悪くないぜ」
不意に声がして、隣にリボーンが居たのを思い出す。彼は背が低いので山本の目線だと視界に入ってこない、だからつい存在自体を頭の中から追い出してしまっていて、彼は苦笑しながら頭を掻いて答えた。
我ながら無難な、面白みに欠ける返答だと思う。けれどそれ以外に答えようがないのもまた事実だ。何の調子が良いのかを聞かれていないのだから、仕方が無い。
腕を下ろし、摘んだ豆を笊に入れる。もうそろそろ良いだろうか、と平底の笊を揺らして眺めていると、池の方からまたひとつ、鋏の音が聞こえて来た。
「俺より、あっちの心配した方がいいんじゃ?」
横目を向けた先に佇む人影に顎をしゃくって言えば、リボーンは揺らしていた足を止めてそうだな、と相槌を返してくる。彼も気づいているのだろう、雲雀の体調がすこぶる宜しく無いことに。
日常生活には全く不便を感じていないように思われる、むしろ本人が周囲に悟られないように涙ぐましい努力をしているのが、山本にも分かった。彼は右目が今、ほとんど見えていない。雲雀が敢えて綱吉を突き放してまで隠そうとしているのは、それだろう。
「……鬼の、だよな」
「ああ」
雲雀は何も言わないが、想像はつく。彼の様子がおかしくなったのはあの鬼騒動のその日からで、態度から獄寺も雲雀の右目に関しては気づいている様子。だが雲雀がひた隠しにしているお陰か、綱吉と奈々にだけは悟られていない。本人も、綱吉にさえ気付かれなければ良いという風情だ。
知れば綱吉は、無理をしてでも彼を癒そうとする。綱吉は雲雀の怪我に関しては馬鹿みたいに頑固で、小さな傷ひとつ残すのを許さない。だが鬼の微かな気配にでさえ体調を崩してしまう彼が、あの雲雀の視神経を麻痺させる毒を取り除くのに、いったいどれだけ消耗するのか。
雲雀が危惧するところはそれだろう。だから彼は、知られないように綱吉を遠ざける。
ふたりのぎこちないやり取りは、この十年間付き合いがある山本の眼からしてもかなり鬱陶しい。
雲雀は綱吉を突っぱね、綱吉は理由が知りたくて雲雀を追いかける。けれど雲雀は答えないまま綱吉を無視し、憤った綱吉が余計に雲雀に絡む。絡まれるから雲雀は綱吉の前に姿を現さない、そうしたら綱吉は雲雀を探して走り回る。
なんていう堂々巡り。
「なんとかならねぇ?」
「俺に言うな」
特にここ数日、綱吉は輪にかけて不機嫌だった。雨が続いていて湿気がある天候だから、というのもあるだろうが、やっと修復が完了した離れの自分たちの部屋の、取り外すといわれていた壁がそのまま残されていたのがよっぽど不服だったらしい。
「なーにやってんだろうな、あいつは。本当」
右足を持ち上げ、左腿の部分に足首を置く。横に倒した右膝に肘を置き、頬杖をついた山本は曲げた指で頬を掻きながら小さく笑った。
ふたりの関係が不味くなると、屋敷の空気も濁る。綱吉に元気が無いと、山本も悲しい。獄寺もきっと同じだろう。なにやら裏でこそこそと調べ物をしているようだが、まだ行動を起こしていないところを見ると、彼も何の解決方法も見出せていないのだろう。
山本も最初は放っておけば良いと思っていたが、こうもこう着状態が長期化するとは予想していなかった。雲雀の回復能力は常人の良識を逸脱している、だから今回も十日もすれば事は収まるとばかり考えていたのに。
鬼の毒がそこまで強烈なのか、もっと別の理由があるのか。
顎の位置を置き換えた山本の言葉に、リボーンは彼から庭に立つ雲雀に視線を移し変えた。黒の縦縞の着物に身を包んだ彼の背中に何を思うのか、リボーンもまた頭の位置を低くして頬杖を作り、ふむ、と小さく頷く。
だが何かを言うわけでもないので、ただ単に庭の景色を眺めているようにも思える。山本は若干居心地の悪さを感じながら、野袴を汚している豌豆の屑を手で払い落とした。
「変な意地張ってないで、さっさとツナに頼っちまえばいいのにさ」
不本意だが、山本はもうそれ以外ふたりの関係が元の鞘に戻る方法は無いと思っている。人の薬では雲雀に効果が無い、そもそも失った視力を取り戻す術があるのかどうかも分からない。綱吉の治癒力で賄えるのであれば、大人しくそれに賭けるのが得策というもの。
確かに綱吉は暫く体調を崩すだろうが、それだってずっとではない。雲雀がここまで意固地になる理由は、どこにもない筈なのに。
「分かってねーな」
ぶつぶつと文句を並べ立てていく山本に、リボーンがさらりと言い返す。反応があるとは考えておらず、殆ど独り言のつもりだった山本は、驚きすぎて危うく手から顎がずり落ちるところだった。
自分の考えをつらつらと呟いていただけなのに、其処へ割り込んできた合いの手が、よりにもよって「分かっていない」という冷たいことば。いったい自分はどこをどう見当違いなことを言っていたのだろうか、顎を浮かせて疑いの視線を投げつける山本に、リボーンはただふふん、と鼻を鳴らして笑うだけ。
相変わらず、何を考えているのか分からない。
「俺、変なこと言ったか?」
物事への洞察力は自信があったのに、と山本は自分を指差しながら問いかける。けれど黒目がちな瞳をゆっくりと持ち上げたリボーンの表情からは何も読み取れず、渋い表情を浮かべて山本は手を下ろした。
リボーンがまた、雲雀へと視線を移し変える。
「あいつが恐れているのは、そんなちっぽけなものじゃねーぞ」
「?」
いったい彼は何を知っているのだろう。不敵に笑っているようにも見える表情は、角度を変えれば悲しんでいる様子にも見て取れて、山本を混乱させる。
「あいつが、何を恐れているって……?」
「お前はもう、分かってるんだろう」
自問を口に出した山本に、意味ありげな言葉を更に投げかけたリボーンが近場にあった豌豆の莢を拾いあげた。彼の小さな手の中で、豆がひとつきりしか宿らなかった莢は外圧を加えられ、音にならない悲鳴をあげてぷつりと端を裂いた。中身が僅かに頭を覗かせている、そのままリボーンが指を繰っていけば、完全に開ききった莢から、緑色も鮮やかな豌豆は勢い余ってリボーンの顔目掛けて飛んでいった。
だが届く前に失速し、豆は地に落ちる。縁側で一度跳ね、屑の山に埋もれてしまった。
言葉も無く一連の彼の、意味のない光景に見入っていた山本は、急にハッとして雲雀の背中を見た。彼は相変わらず鋏を使って、伸びすぎている松の枝を刈り込んでいる。形を整え、顔を出し始めた毛虫を摘んでは踏み潰していた。
「ツナを縛っているもの、か……?」
「違うぞ、山本」
「違わないだろ、あれが居なければツナは力を失ったりしなかった!」
声を荒立てた山本に、雲雀が顔を顰めながら振り返る。だが話の内容までは聞こえてこなくて、彼は黒髪を風に揺らしながら害虫である毛虫を見つけると、鋏の先で摘み上げた。
綱吉は小さい頃、不注意に毛虫に近づいては手を伸ばし、刺されて皮膚を腫れ上がらせていた。だから一匹でも見つけたら、必ず駆除する。出来れば残らず排除してしまいたいところだが、他の虫まで滅してしまうわけにはいかないから、一匹ずつ見つけては潰すほか無い。面倒くさいが、未だに綱吉は年に一度くらいは毛虫に噛まれるから、やめるわけにもいかなかった。
一寸の虫にも五分の、とは言うけれど、雲雀は躊躇する事無く草履の裏で毛虫を踏み潰していく。嫌な感触は一瞬だけで、視線は既に松の木に向いていた。
リボーンと山本の口論はまだ続いている。どちらかと言えば山本が一方的に喚いているだけなのだが、あの赤ん坊に口で敵うわけがないだろうに、と彼らの話の内容が自分に関することだとも知らず、雲雀は山本に対して同情に近い溜息をついた。
他と比べて全体から見ると飛び出ている印象を抱かせる枝に鋏をあて、指に力を込める。僅かに重い音を周囲に向かって掻き鳴らし、小指ほどの太さがある枝が落ちていった。風がざわめき、植物に刃を向ける雲雀を咎めているようにひとつ啼く。だが彼は表情ひとつ変えずに、次の犠牲者を探して視線をめぐらせた。
不意に右眼の奥が痛んで、彼は持ち上げようとした右腕を下ろした。入れ替わりに左手を掲げ、広げた掌で瞼の上から疼きを押さえ込む。噛み締めた唇の隙間から声にならない呻きが零れ落ちて、彼は前によろめき右の肩を松の幹にぶつけた。
不定期に訪れる、予告の無い痛み。脳天を貫いて全身の神経を硬直させる痛みの間隔は、日に日に短くなっていって、お陰で近頃は夜もろくに眠れなくなってしまった。
原因は分かっている。理由も、対処方法も。
だが実行に移せないでいる彼を嘲笑う戯言は耳の内側から響き渡り、南から吹く湿気を帯びた風に乗って勝手気ままに地表を這いずり回っている。
臆病者と謗る声に唇を噛んで、雲雀は五月蝿い、と心の中で毒づいた。
「いずれ……完全に封じ込めてやる」
出来るものか、と反論は頭の中にこだまして、そこに嘲笑が加わる。頭を振った雲雀は、胸の内にわだかまる苛立ちをぶつけるべく、まだ辛うじて生き延びていた毛虫を思い切り踏みつけた。左足に力を込め、そのまま右に捻る。ぐちゃ、と嫌な音が体感的に足の裏から伝わってきて、胸糞が悪い。
鈍い赤が視界に明滅している。奥歯を噛み砕きそうなくらいに力を込めた彼は、今度は鋏を握ったままの右手で、肩をぶつけた松の木を殴りつけた。衝撃に幹が揺れ、わさわさと緑が揺れる。池の上に突き出していた枝が、支えを失った葉をいくつも水面に落とした。音もなく、ただ水紋を広げて沈んでいく。
左目の視界さえもがぐにゃりと歪み、天と地が逆転したような感覚が彼を襲う。少しでも気を緩めれば膝が崩れて倒れてしまいそうで、雲雀は鋏を地面に落としそのまま右手で松の木を支えにした。
歯を下にした鉄鋏が、柔らかな地面に突き刺さる。あと少しばかり位置がずれていたら、雲雀の足に突き刺さっていただろう。そんな事にさえ気を払う余裕が、今の彼には残されていない。
ぼやける視界に、金の鎖が浮かび上がる。日の光に透けて淡く輝くそれは、彼の腕を包み込むようにして絡まっていた。
「綱吉……」
名前を呼ぶが、声は届かない。
随分と哀しい思いをさせているのは分かっている、けれどだからといってどうすればよかったのだ。
光の鎖は雲雀の皮膚に触れるか否かの空間に、実体を持たずに浮かんでいた。良く見れば腕だけではなく、彼の全身を、まるで重罪人を拘束するかのように、包み込んでいる。だがそれに重さは無い、そもそもこれは、他者の眼には映し出されぬものだからだ。
柔らかな金色の光。雲雀を戒めながらも、彼を守るようにして巻きつけられた鉄壁の鎧。
雲雀は光を強弱させる鎖にしばし見入ってから、引いていった右目の疼きにほっと胸を撫で下ろした。頭の中に響いていた低い声も遠ざかり、苦痛は和らぐ。だが首筋に流れた汗の気持ち悪さは消えていなくて、ひとつ舌打ちした彼は落とした鋏を拾うべく膝を折った。
と。
リィィィィ……
どこからか、鈴を鳴らすのに似た音が聞こえてきた。
「――――!」
雲雀はハッと顔を上げ、左の耳を押さえて右を向いた。縁側に座っていた山本とリボーンも気づいたようで、特に山本は厳しい表情を作ると素早く後方に手を伸ばし、愛用の黒光りする木刀を引き寄せて膝に抱く。雲雀もまた鋏を諦め、警戒を緩めずに注意深く音の出所を探った。
これは沢田家の周辺に張り巡らされた結界が反応している音だ。常人の耳には殆ど届かないが、感覚を研ぎ澄ませれば空気が震えているのが微かに伝わってくる。
結界は幾重にも張り巡らされ、その最たる強度を誇るのが屋敷の後ろに聳える山全体を包む結界。だがそれ以外にも、山裾から伸びる九十九折の石段入り口から順々に結界は施され、人外のものの侵入を拒んでいる。
それが反応した、という事は。
「雲雀!」
「分かっている」
勢い良く縁台から飛び出した山本が彼に呼びかけ、ぶっきらぼうに声を返した雲雀は難しい表情をして隠し持っている拐の位置を指先で確かめる。以前にも感じた覚えのある気配の気がして、彼は右に首を捻りつつ袖口からいつでも武器を取り出せるように身構えた。
何も無い庭のほぼ中央に陣取った山本が、周囲を警戒しながら一度空を仰ぎ見る。遮るものが無い南の空は晴れ渡っているものの、東に目を転じれば山並みの表層を覆い隠すように入道雲が姿を覗かせ始めていた。
また雨が降るのかと渋い顔を作り、舌打ちした彼は素早く意識を切り替えて雲雀同様に侵入者の所在を探ろうと目を閉じた。
山本の足元では、黄色い頭巾に片手を置いたリボーンが興味深そうにふたりを交互に眺めている。彼だけは侵入者に興味が無いようで、周囲を警戒する素振りもなくのんびりと、何処かの隠居のような風情で佇んでいた。
「石段を登って……向かって来ている?」
片方の眉を持ち上げた山本が、怪訝気味に口元を歪めて呟いた。同じ疑問は雲雀も感じていて、侵入者の動き方に疑問を抱いた顔をして右腕を僅かに引いた。
結界の振動は山裾をぐるりと囲んでいるものから始まり、人が山を登るために設けられた石段に沿って進んでいる。しかも“破る”のではなく、潜り抜けてきている。壊さずに、意図的に必要な空間だけを歪ませて、通り抜けた後自然と元に戻るようにという配慮まで感じられて。
この山の霊気を求めて猛進してくる、通常の妖や魔の類とは異なる、明確な意思が其処から伝わってきた。
結界を破壊せずにすり抜けて来る、人ならざるものがいる。それは充分に脅威だ。ただ闇雲に破壊行動に走るだけの輩は、知能も低く簡単に退治が出来る。だが人と同様に意志を持ち、考えて行動する術をもっている輩は得てしてどれも厄介で、その最たるもののひとつが鬼なのだが、知恵比べに入ると寿命も短く知識量にも限界がある人の方が不利に回る場合は多い。
まさかあの鬼が戻ってきたのではなかろうか、一抹の不安が胸を過ぎり雲雀は光を失った右目に奥歯を噛む。
毒の浄化は既に完了している、綱吉の力を借りずともあの程度の毒気であれば消しきるのに五日とかからない。
だが、視力は戻らない。
また右目の奥が疼き、雲雀は噛み締めた奥歯を軋ませて腹の底に響く嗤い声に罵りの言葉を投げつけた。
「黙れと何度言えば分かる……」
吐き捨てた言葉は誰の耳にも届かず、ただ雲雀の周囲に沈んで行った。鼓膜を打ち付ける結界の振動音も止まず、雲雀は意識の矛先を徐々に近づいてくる巨大な気配へと強引に転換した。今はお前に構っている時では無い、そう心の中でだけ呟いて。
それもまた、雲雀の意識に関わらざるところでいつの間にか作られた、透明な壁に阻まれて外に伝わらない。
運が悪かった、それ以外に表現の仕様が無かった。雲読みに莫大な力を消費し、残っていた分も一日ぶりの逢瀬で気が緩んでいた所為で浪費した。だから補充すべく山に入ったのに、予想外の襲撃を受けてまたしても霊力は空に近い状態に。
付け入る隙を与えたのは、他でもない自分自身だ。
あれの力を一時的とはいえ、借りなければならないほどに、雲雀はあの時、弱体化していた。誘惑に負けたのは自分だ、だから自分で決着をつけなければならない。
思い浮かぶ哀しそうな綱吉の表情に、歯軋りが強まる。無意識に持ち上がった右手は鋭く爪を立て、小刻みに震えていた。
「誰、が……お前などに」
記憶の中の綱吉の表情が真っ二つに切り裂かれる。止めろ、とあげそうになった悲鳴を寸前で飲み込み、雲雀は額に浮かんだ脂汗に荒い呼吸を重ね合わせた。
心臓の鼓動は速まり、どくどくと脈打って全身が軋んでいる。鋭い痛みは日増しに強くなり、少しでも気を緩めれば自我を手放してしまいそうだった。
だが、それは出来ない。
それだけは、出来ない。
押さえつけた右目、指の隙間から覗く眼球が濁った赤に染まったかと思えば、直ぐにまた乱れた闇の色に戻る。交互に入れ替わる瞳に、彼は生温い唾を飲み下して懸命に吐き気を堪えた。
山本が体勢を低くして構えを取る。抜き身の刀を扱う仕草で、左の腰に添えた木刀に右手を向けて。彼は真っ直ぐに、石段と屋敷とを隔てる巨大な瓦屋根の門を見ていた。
「来るっ!」
一声発し、彼は木刀を振りぬいた。