黒南風 第四夜(第一幕) 

 彼は前を見ていた。
 彼は、前だけを見ていた。
「うおっ、っとっとと」
 足元を見ていなかったので、見事に転んだ。
「若、大丈夫ですか」
「あー、平気平気」
 若と呼ばれた彼は、自分の足を引っ掛けた木の根を叩きながら、転んだ拍子にぶつけた膝を撫でて手を振った。
 すぐに起き上がり、そしてまた、気まぐれに歩き出す。
 前ばかりを見て。
「……ぎゅ」
「若」
 下を見ないから、彼は其処に段差があろうとなかろうと、一切気にしない。だから、また。
 何かを、思い切り踏みつけた。
 後ろ、つかず離れずの位置に控えていた髭面の男が、若干呆れ気味に彼を呼ぶ。それで漸く、彼は己の右足のその下に、何か、黒い、猪の子供だろうか、小さな丸いものがある事に気がついた。
 脚を上れば、一緒になって、それまで下向けられていた、土に汚れきったものが持ち上がり、冴え冴えとする闇の色をしたふたつの硝子球が、彼を睨んだ。
 二本の腕と、二本の脚が胴体で繋がり、その先に細く括れた首があり、体型と比較して少し大きめの頭が乗っかっている。餓えているのか五体は揃っているものの骨と皮ばかりで、黒かったのは身に着けている服が土と汗と垢に汚れていたからだ。肌も凡そ同じような色合いをしており、薄汚れた身体からは死に瀕した生き物の臭いがした。
 だというのに、瞳だけはぎらぎらと灼熱の太陽よりも熱を帯び、深く激しい憎しみと憤りに染まっている。きつく噛み締められた奥歯から漏れ出る呼気も絶え絶えでありながら、最後まで生き抜いてやるという強い決意が、死に行く肉体に相応しくない輝きを放っていた。
 好奇心を激しく刺激され、興味をそそられた彼が、口元に不遜な笑みを薄く浮かべる。
「――若」
 いち早く察した髭面の男が、苦言を呈そうと一歩前へと踏み出す。男の爪先は、地表すれすれのところで浮かんでいた。
「へえ」
 けれどそれよりも先に、若と呼ばれた彼は、腰を屈めて先ほどまで己が踏みつけていたものへと手を伸ばし、今にも引き千切れそうな襤褸布を摘み上げた。
 まるで猫か犬か、獣を扱う仕草で小さなそれを顔の前まで掲げ持つ。
 ぶらぶらと当て所なく小さな手が揺らぎ、脚をばたつかせ最初こそ抵抗を示したそれは、暴れるだけの力が殆ど残っていないのを悟ったのか、諦めたようにやがて大人しくなった。けれど瞳だけは、地上から彼を睨んできた時同様に鋭い眼光を放ち、決して彼を恐れない。
 食糧が無いとか、そういう意味での餓えではない。
 生きる事それ自体に餓えた眼だ。
「面白いな、これ」
 右手を上下に揺らし、最早気力だけでか細い命を繋ぎとめている存在を揺らす。するとそれの瞳は鋭さを増し、益々笑う彼を睨み殺そうと怨嗟を放った。
 後方では髭面の男を代表に、控えていた複数人の黒染めの着物に袖を通した男達が、次々と溜息を零していく。だが彼は一向に構いもせず、新しく見つけた玩具を楽しそうに角度を数多に変え、眺めていた。
 緋色に牡丹、翼を背に持った天馬の飛翔図を背中に描き出した艶やかな色打掛を肩に羽織った彼は、緩やかな陽光に輝く金色の髪を靡かせ、幼子を両腕に抱え直した。
「坊主、食え。餓えとは無縁になれるぞ」
「若、なりませ――」
 そうして袖口から取り出した小さな匂い袋と共に、幼子の鼻先へ乳白色の、白い丸薬のような、けれど形さえあやふやな、正体不明のものを突きつける。髭の男が止める間もなく、そして幼子が、微かな甘い匂いを漂わせるそれが何であるかを把握する前に、ほぼ無理やり、彼は幼子の口に取り出したものを押しこんだ。
 生え揃ってさえいない歯で噛み砕く必要が無いほどにそれは柔らかく、無意識に数回咀嚼した幼子はそれを喉の奥へと押し流す。
 髭の男の、出しかけて途中で止まった腕が虚しく空を掠めた。
「若……」
「え、ひょっとして駄目だった?」
 腕を戻し、額に置いた髭の男の呟きに、彼はひくりと頬を引き攣らせて振り返った。見詰めた先の男が、落胆した様子で肩を竦め、首を振る。縦に。
「当たり前です」
 彼の腕の中では、唾液と一緒に口腔内に残っていた分も飲み込んだ幼子が、微かに全身を痙攣させて呻いた。今食べた正体不明なものを吐き出そうと、身体が反応しているのだ。
 けれど折角数日振りに得たものを、容易く捨てられるわけがない。幼子は両手を口に重ね合わせ、本能が放つ警告を無視して悪寒に耐えた。
 両足が引き攣り、反り返るほどの衝撃も声なく堪え、彼を取り囲む存在を驚かせる。
「おいおい……」
「知りませんよ、若」
 そこまで生きる事に固執する幼子に気圧された彼の肩に、髭の男の手がかかる。
「その子は、もう――」
 告げられた残酷な真実に、けれど彼はただ、面白いな、と笑うだけだった。

 夏が来た。
 田植え祭りの神事が無事に執り行われ、水を張った水田には緑の苗が等間隔で行儀良く並ぶようになった。翡翠が水辺で遊び、若葉が揺れる。陽は高く、長くなった。
 陽射しは強まり、入道雲が東の空にぽっかりと浮かび上がる。雨が降る日も増え、夕方には蛙の大合唱があちこちから聞こえた。
「んー……いい天気、だ」
 両腕を頭上高くに持ち上げ、背筋を伸ばす。小気味の良い音が響き、結んだ指を解いて左右に腕を広げた綱吉は、足元を照らす木漏れ日に目を細めて笑った。
 昨日までの、通しで三日間降り続いていた雨が漸く今朝、止んだのだ。
 この時期の雨は、長く続けば大地はぬかるみ、苗の根を腐らせて駄目にしてしまうが、少なすぎてもまた困るから難儀だ。
 元々水が豊かなこの地方だから、旱魃にはあまり縁が無い。けれど十年前の大雨に代表されるように、雨には深い繋がりがある。長雨、日照不足、冷夏による農作物の収穫量減少は、長い間この地方の悩みの種だった。
 けれどある時からそういった悩みはぱったりと無くなり、収穫高は年ごとに増減するものの、安定したものを見込めるようになっていた。
 昨日、つまり雨が降り始めてから三日目に、心配に感じた庄屋の旦那が濡れた石段を登って訪ねて来たが、今頃彼の不安も払拭されていることだろう。
「雨、鬱陶しいですね」
「でも、降らないと困るし」
 綱吉の斜め後ろを歩く獄寺が、頭上に広がる樹林の影を見上げて呟く。即座に次を補った綱吉は、下ろした腕を背中に回し、腰の位置で再び結び合わせた。
 水を含んだ足元の泥が時々跳ねて、裾を汚す。下駄を履いている獄寺はまだしも、草履の綱吉は踝の辺りまで茶色い土を飛ばしていた。けれど彼は全く気にする様子もなく、歩を緩めずに進み続ける。
 彼にしては珍しい、濃い藍色の着物。但し腰の辺りから裾にかけて、線香花火の図柄が小さく数個散っていた。短い袖にも同じ絵柄が、背中側にだけ染め付けられている。
 対する獄寺は以前とさしたる変化も無い、紺色の野袴姿。黒に染めるのを止めた鉛色の髪が湿気を含んだ風に煽られる度に頬に張り付いて、都度鬱陶しそうに掻き上げている。
「それはまあ、そうですが」
 けれど雨の日は外に出るのも億劫で、しかも湿度が高いから何もしていなくても汗が肌から滲み出てくる。最初は面倒な農作業などからも解放され、ゆったりと自分の時間を作れるのが嬉しかったが、三日も続けば流石に飽きるというも。借りてきた本もあらかた読み終えてしまい、することがなくなると怠け心が働いて身体が鈍ってしまうのが悩みだった。
 太陽が恋しくて、朝、障子越しに日の光を感じ取った時は飛び上がるほど嬉しかったと、獄寺は呟く。
 だが日が高くなり、空気が温むに従って、地表付近に残っていた水分も蒸発して湿度ももれなく上昇。襟足を擽る長い毛先を邪魔そうに払った彼に、綱吉は呵々と乾いた笑い声を立てた。
 表面上はとても楽しげで、寛いだ雰囲気を醸し出している彼だけれど、本心が其処にはないと獄寺は知っている。
 綱吉は時々、誰も見ていないと本人が思っているところで、非常に物憂げに、苦悩した表情を浮かべる事が多くなった。それは半月ほど前から始まり、今も継続中。しかも本人は、人前では平気な素振りを貫こうとしている分、余計に痛々しい。
 原因は分かりきっている。綱吉をあんな表情に出来る人間は、この世界にひとりきりしか存在しない。
「そういえば、離れの修復工事、梅雨入り前に終わってよかったですね」
 思い浮かぶ黒髪の背中。
 獄寺が知る限り、綱吉を誰よりも溺愛し傍に置いて離さなかったあの男が、この数週間殆ど彼に触れていない。綱吉が追いかけても、なんだかんだと理由をつけて距離を取りたがる。同じ屋根の下で暮らしているのだから顔を合わせる機会は無論多いけれど、それさえも極端なくらい時間を制限させて、周囲にもはっきりと分かるくらいに、彼は綱吉を避けていた。
 綱吉もそれに気付いている、けれど理由を聞いてもきっとあの男は答えないだろう。
 獄寺は彼が何故ああも綱吉を、馬鹿みたいに避けて通ろうとしているのかを知っている。けれど綱吉には決して教えてはならないと釘を刺されており、教えてやりたい気持ちはあるのだけれど、わが身可愛さに躊躇しているのも事実だ。
 闇の中に見た赤黒い瞳の禍々しさは、あれからかなりの日数が経過しているというのに未だ記憶に新しく、生々しい。
 あの時と同じ感覚を、以前にも獄寺は感じたことがある。だが、その時よりももっと、ずっと、毒々しさは強まっていた。雲雀の中に別の、異質な存在を感じた、とでも言おうか、雲雀なのに雲雀ではない存在を見た気がする。無論根拠も無ければ、間違いないと断定出来る自信も無い。
 何気なく話を振った獄寺に、綱吉は一瞬だけ表情を凍りつかせて前に出した足を地面に滑らせた。だが動揺を他者に悟らせまいとして、瞬時に平静さを装いそのまま前に進み続ける。
「そう、だね。すんなり工事も終わってくれて、良かった」
 山本と獄寺が破壊した道場に隣接する離れの壁は、つい先日――五日ほど前になるだろうか、無事に修復工事が完了し、少々の土臭さを周囲に放っていた。
 内部への明り取り窓も新調され、以前よりも室内は明るくなった。もう使われなくなった土間も整備されたので、綱吉の部屋に比べて若干狭かった雲雀の部屋も、少しだが広さを増した。
 但し当初取り外すと言われていたふたつの部屋を区切る壁は、そのままにされてしまった。
 獄寺は安堵したが、綱吉はそれが不満らしい。
 道場の屋根も葺き替えられ、雨漏りへの対策も完了したところで梅雨時の到来。まるで天候を予想していたような雲雀の手配と段取りの良さには、感心するほか無い。
 部分的に腐っていた道場の床も新しくしたとかで、出費は嵩んだが無駄ではなかったと皆、概ね満足している。ただひとり綱吉だけが、まだ壁が云々と唇を尖らせていた。
 其処には恐らく、長期間雲雀に接していないことへの不満も含まれているのだろう。獄寺としては今が綱吉に取り入る好機とも取れるのだが、どうにも決心がつかなくて二の足を踏んでいるのは、雲雀が自分の気持ちを押し殺してまで綱吉に触れない理由が分かるから。
 気づいていないのは、雲雀が巧妙に隠して避けている綱吉くらいだ。
 雲雀の右目は、まだ治らない。片目での生活には幾分慣れた様子だが、綱吉に活力が足りていないのと同じくらい、雲雀にもどこかぎこちない、とでも言うのか、力が感じられないのだ。
 彼が治癒に綱吉を頼りたくない気持ちも分かる、元々身体が頑丈ではない綱吉は悪い気の影響を受け易い。
 あの頑丈な雲雀の右目を麻痺させるような毒を引き受けたなら、綱吉がどんな目に遭うのかは想像に難くない。それに雲雀自身、自尊心の塊のような面があるので、一度決めた事は是が非でも貫き通すだろう。たとえ相手が、綱吉であろうとも。
「厄介――」
「え?」
 お陰で関係ない筈の自分たちがとばっちりを受けているのだと、辟易した獄寺が肩を竦めつつ呟く。流した視線の先には風に煽られて揺れる樹林が広がっていて、ざわめく木々の声に遮られた彼のことばは綱吉の耳にまで届かなかった。
「獄寺君?」
「あ、すみません。なんでもないです」
 自分に向かって言われたような気がして、綱吉は上半身を捻らせて歩きながら彼を振り返る。だが到底彼に言えるはずの無いことを考えていた獄寺は、慌てたように首を横へ振って場を誤魔化した。
 足元不如意になっていた綱吉が、大き目の石に爪先をぶつけて転びかかる。獄寺が腕を伸ばして急ぎ支えてやると、注意力散漫の綱吉は自分に舌打ちして膝を叩いた。
 近頃はこういった、苛立ちを隠さない仕草が綱吉には目立つようになり、大人しいと思っていた彼の気性が実は違ったのか、と思わされる。
 獄寺は離し難い綱吉の腕を自分から逃し、爪が食い込むまで拳を握った。
 雲雀が綱吉を遠ざければ遠ざけるほど、彼は雲雀だけを追い求めようとする。悪循環であり、雲雀の望みは目論み外れてまるで叶っていない。
 以前の、雲雀と綱吉がべったりしていた頃の方が、綱吉は余裕があったのか、獄寺も見てくれた。それが今や綱吉は、雲雀しか見ていない。苛立つし、不満も募るけれど、自分ではどうしようもなくて、だから余計に獄寺は傷つく。
 どうすれば、雲雀の右目は癒えるのか。
 時間に任せるだけの自己治癒力頼りでは難しいのは、この十数日間で実証済みだ。何か別の要因が働いて毒が抜け切らないのか、それとも本当に毒の力が雲雀の回復力を上回っているのか、それは直接診たわけではないので獄寺にだって分からない。聞くのも憚られる、けれど何もしないでじっとしているのも嫌だ。
 こうなれば一日でも、いや、一刻でも早く雲雀の右目が治ってくれた方が有り難い。癪に障るが、自分の心の平穏を取り戻すためにも致し方ない、と気持ちを切り替えられたのはここ数日の事だ。
 一直線に伸びる林の中の道はやがて途切れ、両側を木々に塞がれていた視界は急速に開かれた。獄寺は目に飛び込んできた眩い光に、咄嗟に腕を持ち上げて目を庇う。綱吉も瞼を半分以上閉ざして明るさに耐え、熱っぽい息を吐き出して、水気を含んだ午前も遅い時間の空気を吸い込んだ。
 白砂利で埋められた地表が陽光を反射させ、瞳を焼きほどの輝きを放っている。左手遠くには丹色の鳥居が仁王立ちし、そこから真っ直ぐに伸びる石畳の左右には阿吽を模った狛犬が来訪者に睨みを利かせている。境内の中央を貫く石畳を進んだ先、綱吉たちの位置からだと丁度右手奥には社殿が、雨に濡れた屋根を日の下に晒していた。
 敷き詰められた砂利には幾分水気も残っていたが、石畳は継ぎ目に当たる溝の部分を除けば大方表面は乾いていた。歩くたびにざくざくという音が耳に響き、普段は大量の砂埃が舞い上がるのだけれど、今日は雨上がりとあってそれも少なかった。
 先ずは並んで社殿に詣で、拍手を打つ。互いに何を願ったかは口に出さないが、獄寺が顔を上げた時もまだ綱吉はきつく目を閉ざしていた。
 その時後ろから迫る何かの気配を感じ取って、腕を下ろした獄寺は振り返った先の段差の下で、小さく丸くなっている存在を見つけ出した。
 毛むくじゃらの頭に、小さな身体、対照的に大きなふたつの目。白と黒の斑模様の衣装に、短い手足。綱吉たちの方へ来たいのか、人間にはどうってこともない段差を、身体全部使って懸命に登ろうとしているその幼児には、獄寺も覚えがあった。
 たまに境内から沢田家の敷地に繋がる長い林の小道を抜けて、一人遊びに来たりもするその子供は、見てくれは人間の幼子と大差ないものの、実際のところ人間ではない。
 この境内の裏手にある巨大な楠が、数年前に雷に撃たれて根元から折れてしまったのだという。ご神木として他の樹木とは違う霊気を内包していた楠は、しかし折れた程度では命を失いはしなかった。どういう仕組みなのかは知らないが、そこから新しく芽吹いた若木の精霊がこの子だ。
 言われてみれば確かに、人とは違い、尚且つその辺の半端な精霊とも違う霊気がこの幼子に宿っているのを感じ取れる。成長すればさぞかし強大な力を持つだろう、けれど今はまだ弱々しく頼りない存在であるに変わりない。頭の中身も見た目通りの幼稚さで、好奇心旺盛。綱吉によくなついており、彼がわざわざ神社から遠出してまで沢田家に来るのも、綱吉に遊んでもらいたいが故だ。
 そして霊的な存在である為、そういったものを見抜く眼を持たない雲雀や奈々には姿が見えない。ランボもそれが分かっているので、こっそりと雲雀に悪戯を仕掛けようとするのだけれど、見えなくても気配だけは辛うじて感じ取れる彼に、巧みに逃げられているのが実情だ。
 獄寺の視線に気づいたようで、ランボがのっそりと重そうな頭を持ち上げて顔を向けてくる。もじゃもじゃの髪の毛からはみ出ているものは、彼の宝物なのだという、どう見てもがらくたでしかない品々だ。
 目が合って、思わず苦笑が漏れる。出会った当初はかなり嫌われていたのだが、今ではそれなりに打ち解けてきたように思う。とは言え悪戯大好きな子供に等しいから、獄寺も度々彼の悪さに巻き込まれて、その度に大人気ない怒りを爆発させているのだけれど。
 よいしょ、と言わんばかりにのっそりとランボが一段上に到達したところで、瞑目を続けていた綱吉がひとつ拍手を打った。小気味の良い音が湿った空気を裂いて周囲に響き渡り、突然の音に驚いたランボが両手を上にして万歳の姿勢を作る。そのまま小さな身体は背中から地面に落ちて行って、獄寺が止める間もなく彼は後頭部から段差の下に転がった。
 体重も軽い、というよりも殆どないに等しいから、ころん、とでんぐり返りをして仰向けになったところでランボは止まる。だが痛いのか、衝撃に驚いたからなのか、幼子は瞬時に大きな目を潤ませて泣きの体勢に突入した。
 ぐしゃぐしゃに顔を歪め、ここまでよくぞ不細工になれるものだとある種の感動を獄寺に与えながら、ランボは声なき声で泣きじゃくり始めた。
 彼の声は獄寺には届かないものの、綱吉には聞こえるらしい。ぴくりと肩を一度震わせた彼は、驚いた様子で慌てて振り返った。そして獄寺がどうするか迷って中途半端な体勢で止まっているのを先ず目撃してから、五段とない階段を一足飛びで降りて行った。
「ランボ、どうしたの」
 殆ど瞑想に近い状態にあった綱吉は、ランボが彼の柏手に驚いて落ちたという事実を知らない。知らせないほうが良いだろう、と勝手に結論付けて獄寺は出しかけていた足と手を引っ込めた。綱吉が膝を折って大泣きしているランボを両手に抱きかかえ、立ち上がる。幼児特有の動きで、彼は顔を綱吉に向けるとその胸に頭を埋めた。小さな両手を突っ張らせ、遠慮なく綱吉にしがみつく。
 正直見ていて羨ましい、と獄寺は思った。
「ああ、もう。ほら、泣かないの。男の子だろう?」
 ランボをあやすのは綱吉も慣れっこで、膝で調子をとって身体を揺すりながら優しい声で彼に語りかける。それは普段の綱吉の声とは違い、また最近の荒み具合からはかけ離れた声だった。
 矢張り彼は本質的に優しいのだ。誰にでも、平等に愛情を注いでいる。
 彼が我を忘れたり、自暴自棄になったりするまでに心を乱す相手は、あの男ただひとり。
 うえっ、と鼻を啜って涙を必死に止めようとしている赤ん坊が、しゃくりをあげて唇を噛み締める。緩み放題の瞳にはまだ大粒の涙がいくつも浮かんでいたが、綱吉の暖かさに触れて少しは落ち着いたようだ。これが獄寺であったなら、きっと彼は一生泣き止まなかったに違いない。
「よしよし、いい子だ。ランボは強い子だな~」
 泣き止もうとする努力を見せる子供に明るい笑顔を向け、綱吉は彼の脇に手を差し入れて高い、高い、と己の頭よりも高い位置まで彼を持ち上げた。視界が急に開けて変化を見せたからだろう、さっきまであんなにも泣きじゃくっていた子供がもう楽しげに笑った。
 小さな手足をばたつかせ、きゃっきゃ、と声は聞こえないもののそう笑っているようで、獄寺まで何故か嬉しくなる。
 綱吉は伸ばした腕を戻し、ランボの頭が自分の左肩に乗るように位置を定めて抱き直した。背中を数回軽く叩いてやりながら、視線をぐるりと巡らせる。
 朝の露に濡れた榊が、境内の本殿に近い場所で静かに揺れていた。反対側に目を転じれば、眼下遥かに緑に覆われた盆地が広がっている。南の端にはなだらかな丘陵線が伸び、左右、つまり東西には高低差の在る山が峰を連ねていた。
 雨が多くなるよ、と言われている。あと、夏は蒸し暑いとも。冬が終わったばかり、春先からのこの里しか知らない獄寺も、昔は山間の中にひっそりと佇む集落に暮らしたことがあるから、夏の暑さと冬の厳しさは想像がつく。簾を出す用意をしなければいけないな、と雲雀が山本と話をしていたのを思い出した。
 蚊帳も虫干ししてと、途端に忙しくなる。梅雨の合間の晴天は貴重だから、のんびりしてもいられない。すっかり忘れていた里に降りる用事を思い出した獄寺は、いっそ向こうから訪ねて来てはくれないだろうかと無駄な期待を一瞬胸に抱いて、直ぐに首を横に振った。
「獄寺君?」
「え?」
 急に真横で首を振られたので、沸き起こった風に頬を擽られた綱吉が不思議そうな目を彼に向けた。咄嗟に反応できなかった獄寺は、言葉に詰まって後ろに一歩後退する。抱き位置を変えてもらい前に向いていたランボが、人を指差してけたたましく笑った。
 何がそんなにおかしいのか、俄かに怒りがこみ上げてきてつい拳を高く掲げてしまう。だが鋭い目で獄寺を睨んだ綱吉が、ランボを庇うように左肩を前にして体を捻らせたので、行き場の無い手は虚しく空を叩いただけで脇へと下ろされた。
 幼いだけで、得をしている。その立場を少しは自分にも分けてくれ、と恨みがましくランボの横っ面を睨むものの、神木の精霊はそ知らぬ顔で鼻の穴をほじっていた。
 腹の立つ奴だ、と憤りを内面にひた隠しつつ獄寺は乱雑に目に被る前髪を掻き上げる。一時期は黒く染めていたものの、今は隠す必要もなくなって地色を表に出した鉛色の髪は、梅雨の晴れ間の柔らかな日差しを浴びて薄く輝いていた。
 境内を見回せば、雨に打たれて落ちた緑の葉や、風に流されてきたのであろう枝などの芥があちこちに散らばっている。数はそう多くないものの、このままでは見た目も汚らしい。獄寺は両手を腰に押し当て、どうしたものかと思案して傍らの綱吉を窺い見た。だが先ほどまでそこにいたはずの姿が見当たらず、あれ、と思って真後ろを向いたところで漸く見慣れた薄茶色の髪を見つけた。
 彼はランボを膝に抱き、本殿正面の段組最上段に腰を下ろしていた。
 日頃から元気に爆発している髪の毛も、多量の湿気を含んでいるからか若干先が垂れ下がり気味だ。それが珍しいのかランボは頻りに其処へ手を伸ばし、触れて引っ張ろうとする。最初は好きにさせていた綱吉だったが、あまりにもしつこい為に最後は両腕ごと彼の胴体部分を拘束して、胸に抱きこんでしまった。
 傍目からすれば、兄が幼い弟とじゃれ付いているような長閑な光景。このところずっと引き篭もりがちだったし、いい気分転換になるだろう、と獄寺はふたりをその場に残し、裏に回って掃除道具がどこかに無いだろうか、と探しに出た。
 そうして偶々見つけた箒を手に戻ってきたところで、綱吉がランボを前にして声高く力説している場面に遭遇した。
「だから、ね。いつもだったら俺が幾ら×××××って言ったってちっとも聞いてくれなくてさ、×××な上に×××××だし、××××とかまでしてくるんだよ? それが最近は妙に冷たいって言うか俺から×××××して×××××ても全然×××してくれないし。酷いと思わない? ねえ」
 同意を求められているランボは、綱吉がいったい何を言っているのかそもそもの内容を理解しておらず、きょとんとしながら自分の指を咥えている。しかし綱吉は別段相槌が欲しいようでもなく、ただ自分が日頃鬱積していた不満を吐き出す先が欲しかっただけのようで、全く気にする事無く拳を硬くして構わずに喋り続けていた。
 凡そ獄寺とは無縁の、想像するのも精一杯で聞いているだけでも赤面してしまう単語が、次から次へと綱吉の口から飛び出して行く。
「だからね! ヒバリさんの××××を××××して俺に×××××してくれって、こっちだって恥ずかしいの我慢して凄い誘ってるのに、ヒバリさんってば××××どころか×××××もいやだって言うんだ。今までは×××××なんて毎日してたのに!」
「じゅ……だい、め……」
 あられもない綱吉の痴態を想像してしまい、鼻血が出そうだと箒を片手に蹲った獄寺が、自分が胸に抱いていた綱吉の幻想が打ち砕かれるから止めてくれるように懇願する。鼻息荒く段差の上から振り返った綱吉は、心外だと頭に血を上らせたままぷんすかとまた雑言を吐き出した。
 だが一通り声に出したので、少しは落ち着いたし気も済んだのだろう。深く息を吐き出した彼は胸を反り返らせ、澄み渡る青空に視線を移し変えた。
 ランボが彼の膝に寝転がり、手足をばたつかせる。獄寺は静かになった綱吉に安堵の息を漏らし、箒を杖代わりにして立ちあがった。
「十代目は、本当に……あの男が、なんていうか、好き、なんですね」