西行桜

 夜桜見物に行きませんか、と。
 彼がそう言って誘ってきたのは、新学期が始まって間もない頃だった。
 世間で言う桜の満開時期はとっくに過ぎており、学校周辺の桜並木も葉桜が目立つようになっている。路上には風に散った花びらが溢れ、側溝の金網の目を埋め尽くしている場所もあるくらいで。
 だから綱吉は獄寺に言われた瞬間、「は?」という顔をしてしまった。
 花見はやったではないか、既に。そう言いたげな視線を向けると、学校指定の制服を好きなように着崩した彼ははにかんだ笑みを浮かべ、秘密の場所があるのだと小声で、かつ早口で告げた。
「ちょっと遠いんですけど……どうですか」
 それから若干遠慮がちに、少しだけ腰を屈めて綱吉に顔を近づけて問う。
 後ろでは帰り支度を終えたクラスメイトが、思い思いに鞄を片手に教室を出て行く最中。野球部所属の山本は、新入部員を大勢獲得するのだ、と意気込んでホームルームが終わるとほぼ同時に飛び出していった。
 冬のそれに比べ、日は格段に高くなった。夕方に差しかかろうとしている時間帯ではあるが、窓の外は陽も照ってかなり明るい。
 たった数ヶ月前の事なのに、もう冬の日々が思い出せなくなっている自分を感じ取り、綱吉は返事に窮して獄寺を見返す。銀色の髪が横から日光を浴びて、キラキラと透けて輝いていた。
「遠いって、どれくらい?」
 今日も明日も平日で、学校があり授業がある。あまり帰りが遅くなると翌日に響く上、奈々だって心配する。それに四月になり、春が来たとはいえ、夜になればまだ冷え込みは残っていて、ちょっとした事で風邪を引いてしまう可能性も否定しきれない。
 獄寺同様に声を潜めた綱吉は、上目遣い気味に彼の顔を正面に捉えて聞き返した。
 電車やバスを乗り継がなければならないような場所ならば、考えねばならないだろう。いくら獄寺の申し出とはいえ、夜遅くの遠出には躊躇せざるを得ない綱吉の考えを察したのか、彼はにこりと柔らかな笑みを浮かべ、背筋を伸ばして姿勢を正した。
 持ち上げた右手で己の髪を掻き上げる。頬にかかる長さのそれを後ろへ流しやる様は、女子が騒ぐのも無理ないくらいに型にはまっていた。
「自転車で、……そうですね。ゆっくり走って大体、三十分程度でしょうか」
 目的地と綱吉の自宅を頭の中で地図に描き出しているのだろう、瞳を眇めて遠くを見やった獄寺の表情を綱吉はぼんやりと眺めた。
 彼の手はまだ頭の上、丁度生え際より僅かに奥側に行った辺りに置かれている。いつもは前髪に隠れがちの額が片方だけ露になって、指の隙間から零れ落ちた細い髪が肌を擽っている。ヨーロッパ系の血が混じっているからか、彼の肌は綱吉たちよりも色がほんの少し薄い。整った柳眉に細められた眼は、果たして今、どこを見ているのだろう。
 同じものを見てみたい、と綱吉が思った瞬間、彼は頷いて返していた。
「いいよ。あ、でも俺、自転車、無いや」
 返事をしてからしまった、と口元に手をやった綱吉に、瞬間的に背後に花を咲かせた獄寺は構いません、と綱吉の心配を一蹴する。ふたり乗りが出来るようにしてありますから、と最初から綱吉が承諾するのを前提にしていたような物言いに大袈裟なジェスチャーが加わって、眉間に皺寄せた彼を笑わせた。
「じゃあ、運転お願いしようかな」
「勿論です!」
 お任せください、と自分の胸を拳で叩いた獄寺だったが、勢いが良すぎたのか直後に噎せて咳込んだ。
 何をやっているのか、とカラカラ声を立てて笑う綱吉へ、若干ばつが悪そうに表情を歪ませた彼だったけれど、目元は和らいでいた。何度か叩いたところを手で撫でさすり、呼吸を整えて口元を濡らした唾液を拭う。深く息を吐いたところで気持ちも落ち着いたのか、獄寺は綱吉から壁の高い位置に設置されている時計に眼を向けた。
 現在時刻を確認し、夕食が終わる頃に迎えに行くとだけ告げる。
「じゃあ、八時頃かな」
「では、その辺りに。暖かい格好をしてきてください」
 夜はまだ寒いですから、と念押しした獄寺に綱吉は深く頷いて返した。
 獄寺の背後には窓が広がり、さっきよりもやや西に傾いた太陽が、昼よりも少しだけ明るさを弱めて浮かんでいる。ビルが居並ぶ遠景に隠されようとしている眩い光に眼を細めていると、綱吉の意識の外に置かれてしまった獄寺がちょっとだけ不満げに唇を尖らせた。
「十代目」
 自分を見ていて欲しくて、彼はつい、声に出して綱吉を呼ぶ。
「ん?」
 元々それ程深く、遠くへは意識を飛ばしていなかった綱吉だったから、獄寺の声に即座に反応して彼は視線を動かした。
「なに、獄寺君」
 まだ何かあるのだろうか、と大した考えも持たずに彼を呼ぶ。けれど反応は芳しくなくて、綱吉は首を傾がせつつ、おや、と片方の眉を持ち上げた。
 どうかしたのかと獄寺に更に呼びかけ、触れようと手を伸ばす。だが指先は空を掻き、何かに触れることなく停止した。
 長い影がひとつに重なり合い、そして、離れる。
「……」
「……すみません」
「いい、けど……」
 一瞬だけ触れあった唇に行き場を失っていた指を置き、表面をなぞる。
 教室は既にふたり以外は無人で、人気は去り物寂しい空気に包まれているものの、消しそこなっている天井の蛍光灯は煌々と明るい光を放ち、廊下に面する窓や扉は全開のままだ。遠く運動部の掛け声と、吹奏楽部のリズムがずれた合奏が聞こえている。隣接する教室からは、居残っている女子の笑い声が時折こだました。
 もし誰かが教室の前を通り掛かっていたなら、そして偶々ふたりだけしかいない教室内部に視線を向けていたのだとしたら。
 そういう偶然が引き起こされなくて良かったと安堵しつつ、綱吉は湿り気を残す指を下ろした。
 なんとなく気恥ずかしさが先に立ち、獄寺の顔を見られない。ちらりと前髪の隙間から瞳を持ち上げて様子を窺うが、彼もまた綱吉と似たような心境なのか、居心地悪そうに脇に垂れた腕を前後に揺すり、右足の爪先を床の上で捻らせていた。
 そうこうしているうちに、窓の向こう側でカラスが啼く。瞬間、びくりと大仰なくらいに反応して体を震わせた綱吉は、どきりと跳ねて破れそうだった心臓を懸命に落ち着かせつつ、帰ろうか、と微かな声で囁いた。
「そう……っすね」
 自分の顎を指で引っ掻き、獄寺も少々かすれ気味の声で頷く。視線は泳ぎがちで、彼は随分と長い間、綱吉をまともに見ようとはしなかった。
 その頬がほんのりと赤く染まっているのは、夕日が当たっているからという理由だけではないと思いたい。再び俯いて自分の手元に視線を落とした綱吉は、もぞもぞと体を横に揺らすと自分の鞄を手に先に立って歩き出した。
 足音が少し遅れてついてくる。教室前方の扉を抜ける寸前に一旦足を止めた彼は、獄寺が咄嗟にぶつかりそうになった身体を後ろへ引くのを見て、漸く笑った。肘を持ち上げ、視線の高さにある教室の照明を消し、扉も一緒に閉める。
 獄寺の鼻先でドアが閉まりそうになって、閉じ込められてはたまらないと彼は慌てて両手を鞄ごと前に突き出して空間を確保した。勿論綱吉も本気では無いから、彼が膝も使って閉まり行くドアの間に割り込んでくる寸前、腕の力を抜いて扉から離れた。だがそんな気遣いを知らない獄寺は必死の形相で、余計におかしくて綱吉は腹を抱えた。
「十代目!」
「あはは、ごめんごめん」
 音を響かせて扉を開いた彼は、廊下に足を踏み出しつつ「ひどいです」と綱吉へと詰め寄ってくる。けれど二歩もいかないうちに動き止んでしまって、薄い影を足元に見た綱吉はおや? と思いながら顔を上げた。
 逆光の中に佇む獄寺の輪郭ばかりが強調されて見え、表情が隠れてしまっている。薄いオレンジ色に染まった髪が綺麗で、つい触れたくなった綱吉は手を伸ばし動かない彼の毛先を擽った。
「迎えに、行きますから」
 今夜の約束を言っているのだろう、それにしては妙に声色が低いのが気になったが、綱吉は分かった、と再度頷いて踵を返した。
 そのまま正面玄関に向かって歩いていく。
 人気が失せた学校内には、グラウンドで部活動に勤しむ生徒の声ばかりが五月蝿く響き渡る。窓から差し込む光は無数の影を廊下に描き出し、綱吉が一歩進む毎に硬質の音が脳裏に反響した。獄寺のそれとの、他愛もない二重奏。
 校門を出たところでじゃあ、と手を振られる。いつもなら途中まで一緒なのに、今日は別の道を使うつもりなのだろうか。怪訝に思いつつも綱吉が手を振り返すと、彼は、今日はこの先に在るスーパーが特価日なのだと笑いながら教えてくれた。
 一人暮らしの彼は親と同居している綱吉と違い、自分の身の回りの世話は自分でしなければならない。勿論、買い物もそのひとつだ。
「セコイなぁ」
「堅実と言ってください」
 マフィアの右腕を自称するくせに、そういうところがやけに庶民臭い。もっとも塵も積もれば山となる、という慣用句が示す通り、少しの無駄も作らないのは褒めて然るべき行動だ。
「では、また夜に」
「うん、また後でね」
 もう一度お互いに手を振り合って、綱吉は右の道を、獄寺は左の道を進み出す。
 綱吉が見上げた先、空に浮かんだ太陽は薄い雲に包まれて朧げな眩さを放っていた。

 今夜、夕食後に出かけたいのだと奈々に告げた綱吉は、予想以上にあっさりと許可が下りたことにある種の脱力感さえ覚えてしまった。
 普通、未成年が夜間外出を要求してきた場合、もっと心配したり、反対したり、行き先や誰と一緒に出かけるのか云々と事細かに聞きたがるものではないだろうか。
 といっても綱吉は男だし、中学二年生ともなればそれなりに大人としての自覚も芽生えてくる。信頼されている証拠だと無理やり自分を納得させ、最後につけたしのように奈々が言った「早めに帰って来るのよ」という言葉で溜飲を下げた。
 翌日も学校があるので、遅くとも二十二時には帰宅しておきたいところ。そこから風呂に入り、宿題もやって、次の日の支度をして布団に入る、それで零時かその手前になる計算だ。獄寺との約束は二十時、彼は片道三十分ほどで着くと言っていたから、自由行動が可能なのは実質一時間程度という事になる。
 食べ物や飲み物は用意していった方が良かろうか、という考えが一瞬脳裏を過ぎったけれど、夕食後にまた何かを食べようという気持ちはあまり起こらない。ただ飲み物くらいはあったほうがいいか、と台所の棚の中に仕舞われていた買い置きのペットボトルを物色していたところ、持って行きなさいという言葉と共に奈々からお茶とカメラを手渡されてしまった。
 さすが母親というべきか、綱吉が考える事はしっかりお見通しだったらしい。
 そうこうしているうちに、就寝時間も早い子供たちにあわせた、少し早めの夕食も終わり、歯磨きをして、服を一枚多めに羽織る。ペットボトルとカメラ、それから連絡用に携帯電話と財布を入れたデイバッグを背負った頃にはもう、時計は二十時手前を指し示していた。
「気をつけてね。遅くなるようだったらちゃんと電話するのよ」
 明日もあるんだから、と夕食の片付け途中だった奈々が玄関先まで出てきて小言を言う。時間直前になって矢張り心配になったらしい彼女の、実年齢よりも若く見える愛らしい顔が不安に歪んでいて、大丈夫だからと声を大きくしたところで呼び鈴がけたたましく周囲に鳴り響いた。
 腕に巻いた時計を、ベージュ色のジャケットの袖を捲りあげて覗き見ると、ジャスト二十時。
 靴を履くべく玄関先に腰を落としていた綱吉は、まだ結び終えていない左足の靴紐ごと閉じている玄関を見詰めた。
 出来すぎだよな、と思って苦笑しながら手早く準備を済ませて立ち上がる。きちんと靴が履けているかどうかを爪先立てて確認してから、彼はそこから見送るつもりらしい奈々に行ってきます、と小声で告げた。
「獄寺君に宜しくね」
「分かった」
 奈々とも顔見知りであり、今回一緒に出かける彼の名前を口に出した彼女に微笑み返し、玄関のドアを押して綱吉は外へ出た。
 昼間の明るさは影を潜め、門灯の細い明りが微かに道路までの道筋を照らしている。ドアを閉めれば暗さは尚強まり、屋内とは違う空気の冷たさに彼は一瞬身震いした。
「十代目」
 ドアの前には誰もおらず、綱吉は肩からずり落ちたデイバッグを正しい向きに戻しながら視線を巡らせる。すると外向きの門灯の手前から声がして、首を伸ばしそちらを向くと、暗い影から声の主である獄寺が顔を出した。
 予想していなければ、いきなり暗がりから現れた彼に悲鳴をあげていたかもしれない。一応身構えていたものの、心臓が少しばかり驚いて動悸を覚えた綱吉は、小さく苦笑しながら一段限りのステップを降りて獄寺が待つ方へと進んだ。
 最近ペンキを塗り替えたばかりの門を開け、外に出る。待ち構えていた獄寺が場所を譲って左にずれたので、つられるままにそちらに視線を投げれば、ブロック塀に寄りかからせる格好で銀色のフレームの自転車が街灯を浴びていた。
 そういえば彼が自転車に乗っている姿を見たことがなくて、綱吉は首を捻りつつ自転車の斜め前に立った獄寺を窺い見る。まだ真新しさを感じさせる自転車のハンドルに片手を置いた彼は、綱吉の視線の意味を察したのかはにかんだ笑みを浮かべて、最近手に入れたばかりなのだと教えてくれた。
 この春、気候も良く過ごし易かったこともあり、行動範囲を広げる目的も合わせて思い切って専門店で購入。街中を気楽に走れるもので良かったのに、変に拘ってブランド品に手を出してしまった辺りが、彼らしいといえば彼らしいか。
 本当はバイクが良かったのだが、法律で認められる年齢に達していないという問題があり、購入できなかったらしい。それは至極当然の事の筈なのに、何故か悔しそうに言う獄寺がおかしくて、綱吉は自転車に歩み寄りながら笑った。
 周囲が静かな分、声は思った以上によく響く。街灯の明るさに惹かれた虫が頭の上を飛び交って、行きましょうかという獄寺の声に綱吉は我に返った。
 彼は斜めになっていた自転車を垂直に起こし、その動きの最中に自然な動作でステップを蹴り上げた。黒のハンドルをきつく握り、身体は自転車に向けたまま、首だけを傍らの綱吉に向けてどうぞ、と促す。見れば、後輪の軸にはステップが取り付けられているのが暗がりの中でも分かった。
 こういう事はあまり慣れていないものだから、綱吉はつい躊躇する。気後れ気味に片手を胸に押し当てるが、窺い見た獄寺はそんな綱吉の不安が分からない様子。
「十代目?」
「あ、うん……転ばない、よね?」
 後輪部分を前にどうすればよいのか分からずに戸惑っている彼へ、獄寺は不可思議なものを見る目を向けた。振り返った綱吉の言葉には、大丈夫ですよ、と柔らかな笑顔を返す。
 それに安堵したのか、綱吉はサドル部分に跨った獄寺の左肩に手を添えて後輪を跨いだ。デイバッグが落ちないように確認してから、路上に置いたままだった足の裏を片方だけステップに引っ掛ける。つま先から土踏まずまで、少しずつ位置をずらしながら最も安定できる場所を探し出し、行きますよ、という獄寺の声に合わせて残る片足もステップの上へと招き入れた。
 左に傾いていた姿勢が縦に真っ直ぐ伸び、両手を預けていた獄寺の位置がほんの少しだけ持ち上がる。反射的に後ろに体を反り返しそうになって、慌てたように彼は獄寺の首に抱きついた。
「うあっ」
 ふたり分の声が重なって、背中からの衝撃をつんのめって堪えた獄寺は銀の髪を揺らして息を吐いた。ハンドルから放す寸前だった手に力を込め、跳ね上がった心臓の動悸を押さえ込む。首から上、辛うじて動く部分だけで振り返ると、微かに震えている綱吉の前髪が額を掠めた。
「大丈夫ですか?」
 獄寺自身、二人乗りには慣れていない。イタリア時代に自転車を乗り回していたこともあるが、背中を預けられる存在が彼にはなかっただけに、その場所を誰かに貸した経験もまた皆無だ。
 だから綱吉の反応に彼は恐怖する、ここで断られてしまったらどうしよう、と怖気づいた心が彼の表情にそのまま表れていた。
 綱吉は数回に分けて息を吐き、乱れた呼吸を整えるとゆっくりと顔を上げて、両足を地面に置いた獄寺の首からも手を離した。苦虫を噛み潰した表情は怖がっているというより、単純に驚いただけの色が強く、横目で様子を窺っていた獄寺を安心させた。彼はステップに両足を残したままで、踏ん張ってふたり分の体重ごと支えてくれている獄寺に謝罪と、感謝の気持ちを同時に表明した。
「ごめん、ありがと。大丈夫」
 小さくはにかんで、なんとなく分かった、と身体で掴んだバランスに肩を揺らした。それを見て獄寺も強張らせていた表情を緩め、前に向き直る。今度こそ行きます、とむしろ自分に言い聞かせる言葉を口にして、勢い良くペダルを踏み込んだ。
 進行方向を照らすべく、黄色いライトが点灯を開始する。歯車が軋むような鈍い音が耳の奥にこだまして、ゆっくりと、そして少しずつ速度を上げる自転車に跨った綱吉は、頬に感じる風の冷たさに一度だけ身震いした。
 自然と獄寺の肩を掴む手に力が篭もる、けれど彼はちらりと後ろを気にしただけで、直ぐにまた前を向いてしまった。走るのに集中しているからか、無駄口を挟む気配もない。
 暗いアスファルトの川を、微かな音を残影の如くその場に置き去りに、獄寺は綱吉を乗せて暗い道を行く。曲がり角に差し掛かる手前で彼は逐一、次は右に、左に、と先に報告してくれるので、綱吉も途中からは彼の動きに合わせて膝でバランスを取りつつ身体を傾かせた。
 一瞬で両脇を流れていく景色は、代わり映えのしないブロック塀に阻まれた狭い道だ。けれど時折商店が混じったり、工場が現れたりと思った以上に忙しなく、幹線道路はこの時間でも存外に交通量が多い。コンビニエンスストア前は昼と紛うばかりに明るく、若者が手持ち無沙汰気味にたむろしているのが見えた。
 何処まで行くのだろう、と獄寺の後頭部から項にかけて眺めて綱吉は思う。自分たちの通常行動範囲は既に通り越してしまって、見知らぬ町の名前が道路標識にぶら下がっていた。
 夜桜見物と言われて誘われたのだが、走り行く光景は街中の至って普通の住宅地だ。何処に桜が咲いているのだろう、と視線を上げて左右を確かめてもそれらしきものは見当たらない。自転車で三十分は相当な距離だから、もっと先なのだろうか、と耳の中で唸る風に奥歯を噛んで、彼ははためく袖から見え隠れする腕時計を覗きこんだ。
 首を傾けて距離を詰めると、獄寺の呼吸がほんの少し乱れているのに気づかされる。風に靡く髪の隙間から覗く白い肌も、僅かながら赤く色付いていた。
「獄寺君?」
 街灯の明りだけでは文字盤を読み取れず、目を眇めた綱吉は意識の矛先を運転手である獄寺に直した。呼びかけるが即座に返事は来ず、捕まえている肩を揉むようにして指を動かしたところで、彼は額に汗を浮かべた顔を横にずらした。
 吐く息が上がっている、何処と無く辛そうなのは二人乗りの夜間運転で神経をすり減らしているからだろう。ペダルを踏む太股への負荷も、綱吉の想像を超えているに違いない。
「大変なら、代わるよ」
「いえ……平気、っす」
 唾を飲みこみながらだったので、彼の発音は若干詰まり気味に。交差点に光が見えて、彼はブレーキを握り減速した。ガクン、と遠心力で綱吉の体が揺らぐ。唸りを上げて走り抜けていく車をやり過ごした獄寺は、綱吉の申し出に構う事無く前傾姿勢を取ってより強くペダルを踏み込んだ。
 もうどれくらいの時間を走ったのかも分からない。意固地になっている獄寺にひっそりと嘆息し、綱吉は細めたままの目で闇を見詰めた。銀フレームの自転車は静かな住宅地をもう暫く走りぬけ、そうして不意に、止まった。
 キッ、と甲高い音を立ててブレーキがタイヤの回転を止める。後ろに飛びずさる要領で完全に停止する前にステップから降りた綱吉は、後ろ向きによろめきながらも膝を広げてどうにか耐えた。獄寺は胸の高さまで在る石垣の傍でスタンドを立て、前輪後輪両方のタイヤに鍵をして離れた場所に立った綱吉に、此処です、と汗に濡れて前髪が張り付いている顔で微笑んだ。
 綱吉にとっては右手、獄寺にとっては左手に当たる先に、石垣の切れ目が在る。区切りには赤い、けれど今はどす黒い感じが最初にしてしまう、大きな鳥居が。
「神社?」
「こっちです」
 それは住宅地の真ん中で、世間から忘れ去られたようにひっそりと佇む鎮守の森だった。
 鳥居の先には凡そ三十段か、もう少々在るだろうか、石段が続いている。幅は人が三人横並びになればいっぱいになりそうなほどで、見上げてはみたものの石段の先は闇に埋もれていて分からない。
 獄寺が自分の鞄を自転車の前籠から引き上げ、中から懐中電灯を取り出す。鳥居の先は本当に闇が支配していて、虫の声さえせず、かなり静かだ。足元を照らす明りも、今はまだ街灯が近くにあるから良いものの、一歩踏み込めば深淵が口を開けて待っているようで、かなり心細い。
 獄寺が親指で灯した電灯の人工の明りにホッと胸を撫で下ろし、綱吉は担いだデイバッグからペットボトルを取り出した。先に自分でひとくち飲み、続けて獄寺に差し出す。
「いえ、自分は」
「汗かいてるでしょ、水分補給は大事」
 両手の平を綱吉の側へ向けて遠慮を表明する彼に、殆ど強引に押し付ける格好でペットボトルから手を放す。空中に一時支えなしに放り出されたそれは、地面へ沈んでいくより前に獄寺の手の中に納まった。
 苦笑して肩を竦めた彼が、蓋を外したボトルを傾ける。露になった喉仏が数回上下運動を展開し、何気なく其処にばかり眼を向けていた綱吉は彼が姿勢を正すと同時に、顔ごと視線を逸らしてしまった。
 今が薄暗い夜の世界でよかったと、自分で分かるほどの赤い顔が彼に見付からないで済んだことに感謝した。
「行きましょうか」
「うん」
 ボトルを受け取るついでに時計を見たら、もう到着予定時刻だった八時半を余裕で十分以上オーバーしている。ただ獄寺は気づいていないのか、足元をライトで照らしながら先に立って石段を登り始めていた。
 慣れない二人乗り、暗い道。獄寺が言っていた所要時間は、彼がひとりで昼間に走っていた時のものなのだろう。
 夜の神社は人気が、当然ながら全く無く、獣の気配もしなくて両脇を埋める緑は闇と同化し、月明かりを阻んでいる。風は少なかったが、時々思い出したように木立が揺らめき、葉を擦り合わせて合唱を始めてくれるものだから、その都度綱吉はびくりと肩を強張らせて足を竦ませた。
 先に立つ獄寺が笑う。空いているほうの手を差し出されたが、それはなんだか癪に思えて綱吉は最後まで突っぱねた。
 そうこうしているうちに石段は最後を迎え、視界は急速に奥行きを持って広がりを見せた。ひんやりした風が火照った身体をじんわりと冷やし、包み込んでいくのが分かる。風の囁きは遠くへと去り、薄明るい境内の奥には古い瓦葺の社が厳かに鎮座していた。
 石段の終わりにも鳥居があり、そちらは月明かりを受けてほんのりと淡く輝いている。こちらの方が、入り口側にあったものよりも造りが古い。真っ直ぐに伸びて境内を左右に二分している石畳の両側には、二対四体の阿吽の獅子が、冷たい眼で夜更けの来訪者を睨んでいた。
 どくん、と綱吉の心臓が鳴ったのは、あまりの静謐さに気圧された部分が大きい。ついつい足を止めて一枚絵のような光景に見入っていると、その間に大分先まで進んでしまっていた獄寺が遠くから彼を呼んだ。
 藍色の世界には明るすぎる小さな光が、まるで蛍のように踊っている。我を取り戻した綱吉は瞬間びしっと背筋を伸ばして、それから徐に九十度の角度で腰を曲げた。夜分に領域へ立ち入る許可を、無意識に社に座す眼に見えぬものへ求めてから、彼は漸く獄寺を追いかけて小走りに砂利を蹴って社殿右奥へと向かった。
 ひっそりとした空間に、冷たい空気が漂っている。地上との高低差がそれ程あるわけでもないのに涼しさを感じるのは、この場所が寺社と言う、通常人が生きるのとは別に区切られた空間だからだろうか。
 踏締める砂利の音だけを聞きながら綱吉は懐中電灯の明りを頼りに獄寺を探し、視線を巡らせて社殿の角を抜けたところで、目の前に広がった光景に息を呑んだ。
「わ……」
 もっと他に言葉があるだろうに、語彙に乏しい綱吉は口をぱっくりと開けた状態でそれだけを喉から零すのがやっと。彼は数秒間そのままの姿勢で硬直し、顔の近くに一瞬の眩い明りを感じて目を瞬かせた。
 埃っぽい空気に、唇を閉ざす。大股に歩を進めれば、先に着いていた獄寺が手元の明りを消してしまった。
 闇の帳が舞い降りて、紫紺に包まれた夜空に浮かぶ仄かな月明かりがふたりを包み込む。
「どうですか?」
「うん、……凄い」
 それは樹齢百年を越えると予想される、胴回りも立派な、そして何よりも枝ぶりが素晴らしい枝垂れ桜だった。
 薄紅色が視界一面を鮮やかに染めていて、人工的な懐中電灯の明りを消したことで、逆に月明かりに映えて桜の花びらが綺麗に闇の中に浮かび上がっていた。風もないのにひらひらと、時々綱吉の頭上に花弁が舞い散るのは、満開の時期を過ぎて散り行く頃だからだろう。
 なるほど、夜桜だ。
 綱吉は感覚的に、川べりや公園で宴会に勤しむ人たちが集うような場所を想像していた。だからいつまで経っても途切れない街中の景色をずっと不思議に思っていたわけだが、こんな場所があるとは思ってもみなくて、感嘆に心が震えて瞬きをすることさえ忘れてしまいそうだ。
 獄寺は淡々と、綱吉の横で同じく桜を見上げながら、この場所を見つけた経緯を教えてくれた。
 休日、昼間。自転車に乗って遠出をした最中、コンビニエンスストアでおにぎりを何個か買った後、どこかに食べる場所が無いかと探し回った結果、この場所に偶然行き当たったのだと。明るい時間帯だったので境内には散歩に訪れていた人も何人かいて、木陰に座り込んで黙々とおにぎりを食べていた彼に、裏に回ってみるよう勧めてくれたらしい。夜の桜も綺麗だよ、と教えてくれたのも同じ人なのだとか。
 そして、その頃はまだ満開少し手前だった桜の花を見上げたとき、どうせなら綱吉にも見せたいと、それも出来るなら綺麗だと言われた夜の時間に訪れたいと、そう思ったのだという。
 最後はちょっと照れ臭そうに、頭を掻き毟りながら言った彼のあどけない表情に、綱吉は桜からゆっくりと彼へ視線を向け、有難う、と口にした。
 確かにこの光景は、綺麗だ。一見の価値が在ると思える。
 ライトアップされ、ショービジネスの最中に放り込まれた庭園の桜よりも、ひっそりと人々の間に息づいて花を咲かせているこの枝垂れ桜の方が、よっぽど月明かりにも映えて美しさを滲ませている。奈々にカメラも持たされてきたが、これは写真ではきっと表現できないし、伝えられない気がする。実際に目の当たりにして、その立派さに息を飲むほうが格段にいい。
 こんな場所があるなんて、長いこと近隣に住んでいるのに、ちっとも知らなかった。
「俺より、獄寺君のほうがこの辺に詳しいかもね」
「そんな事、ないですよ」
 とは言え、綱吉は自分の行動範囲を、自分が知りえる世界に限定してしまいがちだ。他所からやって来た獄寺の方が、この町を知るためと称してあちこちでかけている気がする。
 彼の方が胸の中にある世界が広い、それを少し悔しいな、と綱吉は思った。
「ここを教えてくれた人が言っていたんですが」
 少しだけ声を潜めた獄寺が、一歩前に出て右手を伸ばす。掌でごつごつした幹に触れ、表面を撫でた彼は綱吉ではない別のものを見据えていた。
「桜が綺麗なのは、その根元に屍体が埋まっているからだ、って……」
 屍体の血を吸っているから、桜の花びらは薄い紅色に染まっているのだと。
 そう告げた彼の様子が少し変だったので、綱吉は首を傾げながら横に立つ彼の顔を下から覗き見た。若干血の気の失せた肌色をしているのは、汗をかいた身体が冷えただけとは思えない。
 本気でそう思っているのだろうか、遠い記憶のどこかで同じ話を誰かから聞いた記憶が蘇り、冗談だよ、と綱吉は肩を揺らして笑う。そんなはずが無いじゃないか、と彼は右足を持ち上げて己を支えている大地を、遠慮なしに靴底で叩いた。
 けれど獄寺は――そういえば元々彼は信心深く、幽霊などの類も信じる方だった――そんな事をしては駄目だ、とやや声を荒立てて綱吉の肩を衝く。思わず後ろによろけてしまって、綱吉は唇を尖らせながら自分の行動に焦っている獄寺をねめつけた。
「……すみません」
 本気で申し訳なさそうに頭を垂れた彼へ、綱吉は呆れ混じりに溜息を零す。怒らせていた肩を落として首を揺らし、自分も獄寺に倣って桜の幹に手を伸ばした。
 ざらりとした感触は一瞬で、より強く感じたのは、ひんやりとしている中にも微かな温かさがあったことだ。地中深くに根を張り巡らせ、一歩としてこの場所から動くことは叶わないけれど、桜も立派に生きているのだと思い知らされ、綱吉は淡く微笑む。
 そしてふと足元に目を落とし、硬く踏み固められた砂の表面を爪先で払った。
 この大地は、綱吉たちが生まれるずっとずっと前から、此処に在る。そして綱吉のずっとずっと前から、この場所で人々は生きている。
 歴史の教科書くらいでしか知らない、そして教科書に名前が載ることは永遠に無いだろう市井の人々が、夫々の人生を送って死を迎え入れている。
 中には望まぬ死を受け入れさせられた人もいるだろう、悔いの残る人生しか送れなかった人もいるだろう。逆に己の生き方に満足して安らかに眠った人も大勢いる。戦で、戦争で、天災で、大勢の人々が、獣が、虫が、花が、鳥が、数多の命を散らしてきて、今が在る。
 ならばひょっとすれば、この根元にも、名も知らぬ誰かの命が眠っているのかもしれない。
 綱吉は幹に片手を預けたまま、顔を上げた。根元から見上げる枝垂れ桜の花も美しく、優雅で派手さこそ少ないが、心にしっとりと染み入る何かがある。
 命は無限ではないからこそ、生きることに意味がある。
 花はいずれ散ってしまうけれど、散る間際に自分が最高に輝ける瞬間を持っている。
 嗚呼、そうか。綱吉は納得した様子で頷いた。梶井基次郎が何故、桜の下に屍体が埋まっているなどと言ったのかが、その狂気が、少しばかり理解出来てしまった。
 命の美しさと儚さがこの花には備わっている、だからこそ桜は人を魅了して止まないのだ。
 獄寺が恐れているものとは違う場所で、綱吉は桜を恐れた。同時に、魅入られてしまった。彼は両手を使って桜に寄りかかる、体重を預けて頬を添えると、自分の息吹が桜と一体化したような錯覚に陥った。
「十代目?」
「んー?」
 怪訝な表情を作った彼の呼びかけに生返事をし、綱吉は藍色の世界にはらはらと煌く血の色に、琥珀色の瞳を眇めた。
「そうだね、埋まっているのかも」
 幹にしがみついたまま顔を上げ、弱く吹いた風に枝を撓らせる桜を見詰める。その枝が降りてきて、恍惚と微笑む綱吉の心臓を串刺しにし、彼が干乾びるほど血を吸い取る光景を想像した獄寺は、小さく悲鳴を上げて彼を強引に桜から引き剥がした。
 驚きに表情を染め、綱吉はその場でたたらを踏む。地面から露出した木の根に踵が引っかかり、危うく転びそうになったのは獄寺が支えてくれた。
 そのまま両腕でしっかりと抱きとめられる。暖かな鼓動を放つ彼の胸に顔を埋め、綱吉は喉を鳴らして小さく笑った。
 震えている背中に両手を回し、パシパシと数回叩いてやる。心配しなくても大丈夫だよ、と不安がる獄寺を宥め、綱吉は息苦しさに身動ぎした。
「桜に攫われるとでも思った?」
 まさしく獄寺が想像していたものを言い当てられ、彼はばつが悪そうに綱吉を解放しながらそっぽを向く。その様子がことさらおかしくて、今度は声を立てて笑い出すと、拗ねたのか獄寺はまた綱吉に腕を回して思い切り自分の側に抱きこんだ。
 むぎゅ、という音が聞こえるようで、鼻が押し潰される。耳のすぐ近くに彼の心音を感じて、その肌の暖かさが心地よかった。
「俺は、嫌ですからね」
 ぶっきらぼうに言い放つ、彼の言葉が心に響く。
「うん」
「十代目は、絶対、生涯、俺がお守りするんですから」
 だから桜なんかに奪わせやしないのだと、植物にまで猛々しくライバル心を燃やした彼は真剣に言い放ち、綱吉を笑わせると同時に切なくさせた。
「俺より先に君が死んだら、どうするのさ」
 生涯をかけて守るといわれても、その獄寺が綱吉より前に逝ってしまってはどうしようもない。わざと意地悪を口にすると、少しだけ腕の力を緩めた獄寺はぶすっと頬を膨らませて子供じみた表情を作った。
「死にません!」
「本当に?」
「本当です!」
 半ばやけっぱちにも聞こえる荒々しい語調で言い切り、獄寺は綱吉の頭を広げた手で抱きこんだ。それからゆっくりと前へとずらして行き、薄赤く染まっている綱吉の頬を挟み込む。視線を反らせられないように先手を打たれてしまい、急に居心地の悪さを感じた綱吉は慌てたように己の膝をぶつけ合わせた。
「獄寺君?」
「……嫌ですか?」
「まさか」
 嫌だったら、君とこんな場所にこんな時間に、ふたりだけで来たりなどしない。
 彼の両手に自分の両手を重ね合わせ、俯き加減に囁いた綱吉の額に、獄寺はそっと唇を寄せた。
「ああ、でも」
「でも?」
「もし、なんていうか。君は怒るだろうけど、もし俺が先に、君より先に逝くことがあれば」
「十代目!」
 そんな事は言わないでくれと、声を荒立てた獄寺の勢いにもくじけず、綱吉は静かな顔で彼を見返した。
 心が凪いでいる。万が一、億が一の可能性かもしれないけれど、ゼロではない。自分が死ぬとき、死んだ後のことなど誰だって考えたくはないものだが、綱吉は自分でも驚くくらい穏やかな気持ちで、その様を想像していた。
 瞼を伏し、世界を闇に塗り替える。けれどそれは毒々しく死を連想させる荒んだ闇ではなく、静謐に眠る沈黙の泉を思わせる優しい闇だ。
「俺は、桜の下に眠りたい」
「いやです!」
「そうすれば、春になれば」
「……十代目」
「俺はまた、君に会えるだろ?」
 泣きそうになっている彼の頬に手を伸ばし、見えない雫を指で辿る。傷つけてしまっただろうか、という思いはあったけれど、きっと今言わなければ伝える機会は永遠に失われるだろうと思ったから。
 綱吉は、言わずにいられなかった。
「そんな、俺、はっ」
「約束したから、ね?」
 最後までいえない獄寺へ、綱吉はにこりと微笑みながら一方的な約束を取り付ける。
 願わくば、どうか、この約束が果たされる日が来ませんように。心優しい君が、桜の花を見て涙を流す日が来ませんように。
 祈りを込めて、目を閉じる。
「十代目……」
「きっと、だよ」
 微笑みながら交わした口付けは、桜色に濡れて、微かに、血の味がした。

2007/4/14 脱稿