Slowly but Surely

 目覚めは最悪だった。いや、むしろ殆ど眠れて居ないに等しい。
 頭がガンガンするし、目の下は熊猫のような黒縁が出来ている。一晩で人はここまでやつれられるのだな、と意味も無く笑いが漏れた。
 息を吸おうと腹筋に力を込めれば、昨晩思い切り蹴られた腹部が鈍い痛みを放つ。怪我人の癖にどこまで怪力なのか、と呆れを通り越して羨望の気持ちさえ湧き上がってきたが、あの一発は本人も相当痛かったようで、直後不貞寝を決め込んだ彼はそれでもどこか辛そうだった。
 あのまま彼の部屋に居続けるのは自分としても居た堪れなくて、ライが赤い顔を隠して頭の先まで布団を被ったのを見届けると、ランプの火も消して自室として宛がわれている客室へと戻った。
 その途中、薄暗く細長い通路へ出た直後。
 遠めに見える曲がり角を、サッと人の影が走った気がした。影は小さく、そして長い尻尾が揺れており、セイロンは見間違いかと瞬きをして息を殺してから、思い当たる節に行き当たって自分の頭を乱暴に掻き毟った。
 まさか聞かれてはいやしないだろうか、と先ほどまで一緒に居た人物の婀娜な声が脳裏に蘇り、いかん、いかんと首を振って打ち消そうとするもののなかなかどうして、思い通りに行かないのが世の常だ。
 艶に濡れた唇、上気した頬に汗ばんだ肌、柔らかく触り心地も良い肢体に熱を孕んで潤んだ瞳、零れ落ちる甘い声。
 その全てが自分の手で生み出されたものだと意識すると、忘れ難い腕の中の温もりが見る間に再現されてセイロンの心を細波立てる。折角鎮めた熱がぶり返しそうで、彼は自分に舌打ちしながら角の先に消えた人物へ強引に意識を引き戻した。
 もう夜は遅く、仲間たちは揃って寝入っているはずだ。物音ひとつ響かない廊下に、セイロンの吐息だけが浅く漂う。
 彼の胸の中にいる黄金色をした髪の幼子は、リビエルと一緒に休むことになっている。だがあまり感情を表に出さないものの、心優しいあの子は、育て親であるライの怪我の具合に顔面蒼白となり、倒れる寸前のところまでいった。心配だっただろうし、不安もあるだろう。ライに何かあったらどうしよう、という気持ちは、周囲の大人がいくら“大丈夫だから”と言い聞かせたところで容易く払拭できない。
 様子を窺いに来ていた可能性は充分ありえる、そしてあの子はセイロンとライの関係に、薄々だが感づいている気配がある。
 果たして、受け入れてもらえるかどうか。
 そんな事をグダグダと考えているうちに夜も更け、日が上り、朝が来た。ベッドの上で寝転がっていてもちっとも睡魔は訪れず、かといって考えがまとまるわけでもなし、無駄に時間を浪費しただけのセイロンは乱れた髪形もそのままに欠伸を噛み殺して部屋を出た。
 起き上がった途端に眠気が来るのは、最早どうしようもない。
 身に纏う衣服は、昨日とさしたる変化が無い。ライの血に汚れたあの服は恐らくもう使い物にならないから、新しく拵えるほかなさそうだ。布の手配から仕立てに、面倒極まりないな、と閉じた扇子で口元を半分隠しながら足音を響かせる。
 いっそシルターンから召喚術で持ち込めないものか、そんなこと事を考えてセイロンは食堂に通じる扉を内側から開けた。
 ライがあの状態だから、店は無論営業していない。だがほかに皆が集まれるだけのスペースはなく、台所も食堂のキッチン兼用なので必然的に店が開いていなくとも、住人は此処に集まる仕組みだ。今も既に、この宿を仮の家とする面々のほぼ全員が顔を揃えていた。
 どうやら自分が最後だったようで、一通り広い食堂内を見回してから扇子を下ろす。ドアが開いた音に一部のメンバーが反応して彼に振り向き、そのうち数名が手を挙げるなり声をかけるなりして、朝の挨拶を彼に送った。
「遅かったな、セイロン。……凄い顔だぞ」
「う、うむ」
 ゆっくりと歩み寄り、ひとまず入り口に近い場所に座っていたアロエリの隣へ向かう。彼女は左腕を椅子の背凭れに預けながら身体を斜め後ろへ向け、近づいてきた彼に挨拶すると同時に怪訝に顔を顰めさせた。
 リビエルの姿は傍に見当たらず、アロエリに向かい合う格好でテーブルの対角上にはコーラルが座っている。だがセイロンが歩いてくるのを視界に収めたと同時に、少し背丈のある椅子から飛び降りてキッチンの方へ走っていってしまった。
 セイロンはその様子を横目で眺め、同じ視界にアルバとリビエルの姿を見つけて肩を竦めた。どうやら今日の朝食当番は、あのふたりらしい。コーラルがリビエルの背中から飛び掛り、彼女が甲高い悲鳴を上げるのを聞いたところで、セイロンはアロエリへと視線を戻した。
 右手奥にはシンゲンとアカネが、ふたりして同じような顔をしてテーブルに寄りかかっている。この宿に間借りしている面々で、ライ以外でまともに米が焚けるのはセイロンくらいだ。彼らが食事当番でない日は、必然的に米ではなくパンが主食となる。その辺りに絶望しているのだろう。
「あれも、酷くは無いか」
「放っておけ、働かざるもの食うべからずだ」
 自分にも他人にも手厳しいアロエリが、セイロンが向いている方角にいる人物に検討を付け、素っ気無く言い切る。彼女の言葉も一理あるが、基本的な食生活がリィンバウムとは異なるシルターン出身とあって、彼らが打ちひしがれる気持ちも、セイロンにはよく分かった。
 後で粥でも作ってやるか、と生気の失せた目を虚ろに天井へ流しているふたりに肩を竦め、椅子を引いて自分も腰掛ける。そして徐に両手を広げて自分の頬を叩いた。乾いた音が数回店内に響き渡り、他所を向いていた面々も一斉に彼を凝視しする。
 窯から取り出した焼きたてのパンを前に、アルバがきょとんとしながら首を傾げている。リビエルはどうにかコーラルを引き剥がし、慣れない料理にまた悲鳴を上げて、と実に急がしそうだ。彼女の甲高い声に一瞬惚けていたアルバが我を取り戻し、「ああ、それはだめ!」と叫んで彼女の手からフライパンを奪い取った。後ろに転びかけた彼女は、偶々そこにいたコーラルに受け止められる。
「おっはよー!」
「おはよう御座います」
「おはよう御座いますです~」
 更にそこへ、外側に通じる扉が勢い良く開けられて三人分の声が響き渡った。先頭を切って姿を現したのはリシェルで、後ろにはルシアンが続く。いつもならこの時間に宿を訪れるのはそのふたりだけなのだが、今日ばかりは勝手が違って彼女らのお目付け役でもあるポムニットが一緒だった。
「どうした、こんな朝早く」
 よほどのことがなければ自分から顔を出さないポムニットが一緒という事で、椅子を引いてあちらに向き直ったアロエリが大きめのバスケットを両手に抱えた彼女に声をかける。すると、その聞かれたポムニットではなく、彼女の前に陣取っていたリシェルが何故か胸を反らせてふんぞり返った。
 表情は自信満々の企み事満々で、斜め後ろに控えているルシアンが若干申し訳なさそうに小さくなっている。
 リシェルはキッチンに立つアルバなど全く目に入っていない様子で、さあ見なさい、とばかりに手を広げてポムニットが持つバスケットを覆っていた布を剥ぎ取った。
 現れたのは香ばしいパンに色とりどりの具を挟み込んだサンドイッチだった、しかも量が半端ではない。
 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らしたリシェルの態度に、そういうことか、と肘をテーブルに立てて頬杖ついたセイロンが苦笑する。
 ライが怪我の為にベッドから起き上がれないので、宿の住人もさぞかし食糧難に陥っていると思ったのだろう。彼女なりの気の使い方なのだろうが、自分で用意するのではなくポムニットにやらせているところが、いかにもお嬢様の思考回路だ。だがポムニット自身も頼られるのはまんざらでもない様子で、キッチンカウンターに置かれたバスケットの中身を覗き込んだアルバは、少し焦げ目がついているお手製のパンと見比べて、自分が作るまでも無かったかな、と肩を竦めている。
 だがいくら量が多くとも、ポムニットが用意してくれた分だけでは足りない。アルバが一度に焼けるパンの量にも限度があったから、ふたりの好意を合わせて丁度いいくらいだ。
 そんなどたばたを経て食卓に並べられたのは、山盛りのサンドイッチと素朴な味がする丸パンに、焦げ目が目立つ目玉焼き。それから残っていた野菜を千切って洗っただけのサラダという取り合わせで、シルターン出身者にはなんとも寂しいものとなった。だが文句ばかりも言っていられず、空腹感に負けたアカネもシンゲンも、不満顔ではあるが口には出さずに黙々と食事を片付けた。
 ライが作ってくれたものよりは当然味も量も劣るけれど、食べられるだけでも感謝しなければならない。サンドイッチからはみ出たソースを指で舐め取ったセイロンは、ふと視線を感じて横を向き、そこで慌てたように視線を逸らしたコーラルを見つけた。
 睨まれていたのは、きっと気のせいではない。それを証拠に、
「セイロン、お前御子殿に何かしたのか?」
 遠慮がちに声を潜め、グリーンサラダの芯の部分に当たったのだろう、小気味いい音を響かせて咀嚼したアロエリがぼそりと呟く。彼女もまた、明らかに動きがおかしいコーラルをテーブルの向こう側に見ていて、セイロンを睨んでは視線を逸らし、戻してはまた半開きの目で懸命に彼を威嚇している竜の御子に首を捻っている。
 言葉には出さないが、この場に居合わせる大方の面々も様子がおかしいことには気づいているようで、どう言ったものか、とセイロンはサンドイッチからはみ出ているスライストマトを見下ろしながら考える。
 本当のことをこんな大勢の前で公表すれば、それこそライから飛んでくるのは蹴りの一発や二発ではすまないだろう。それに、ライとは特別な何かがあったわけだが、
「御子殿とは、何もない」
 嘘でもないが、本当だとも言い切れない、なんとも曖昧な答えを音に乗せ、裏側に隠した部分はトマトと一緒に噛み潰して飲みこんでしまう。甘いけれど酸っぱい、表現しづらい味が舌の上に広がっていった。
 そう、コーラルとはまだ何も起きていない、何かがあるとしたらこれからの話だ。
 いつまでも隠し通せる関係でもなし、コーラルにとってライは大切な存在だ。無論セイロンもそうだと、比較対象として両者を同じラインに並べるべきではないが、存在の重要性をいくばくか先代の財産を引き継いだあの子は理解しているはず。
 守護竜あっての御使い、そして御使いあっての守護竜という関係は、そう易々崩れるものではないと信じるほか無い。
 しかし、いったいなんと説明するべきか。
「参るよの」
「?」
 ひっそりと息を吐いて言葉を紛れ込ませれば、傍らのアロエリが聞き取れなかった様子で首を捻る。コーラルはまたしても机に突っ伏すように両手でパンを持ち、大きな口でかぶりつきながら半眼でセイロンを睨んでいた。
 幼子故に迫力も乏しいが、異様さは充分に伝わってくる。呪いのことばでも念じられているような気がして、皺の多い白いシャツを揺らめかせセイロンは肩を竦めた。
 敵側の攻勢が緩まない以上、こちらとしても下手なトラブルで関係に亀裂が生じるのは避けたい。ライと何かあったのか、とコーラルに直接聞かれた昨日を思い出す。喧嘩はダメだと、幼子にあの時は諭されてしまった。
 ライとはもう仲直りをしたのだよ、と言っても聡いあの子はその裏側で、薄い膜に覆われた真実を見抜くだろう。遅かれ早かれ、ライとセイロンの関係は露呈する。他の仲間たちには誤魔化せても、現状ライと擬似親子関係に在るコーラルだけは誤魔化せない。
 いや、違うか。
 口元に扇子を押し当て、視線を逸らしてしまったコーラルの横顔を眺めセイロンは思う。
 誤魔化したくない、そちらが正しい。
 ライも、コーラルも大事な存在だから、同じ天秤でふたりを計れない。
 できるだけ嘘はつきたくないし、自分を偽りたくもない。これまでの、何も無かった頃の関係を貫くのは難しく、けれど変わってしまった関係を大っぴらに宣言出来るだけの環境はまだ整っていない。
 思えば自分は随分とライにも酷な注文をしたものだ、と竃の前で交わした会話を思い出してセイロンは自分に失笑した。
 多分自分は、もう戻れない。きっと何を差し置いても、自分の本来の目的を放り出してでも、ライの為にならば命を張ってしまうだろう。
 だから参っている、正直ここまで自分があの子に入れ込むとは、思いもしなかった。
 胸の中にぽっと宿った仄明るい光は、大切に慈しみながら守り通していきたいと思える暖かなかがり火だ。常に周囲の喧噪から一歩離れた場所に立ち、全体を眺めて冷静に在るべきと戒めてきた自分が、たったひとりの存在にこうも踊らされている。
 欲しくて、欲しくて、たまらない。
「いっそあのまま押し倒してしまえばよかったか」
 アロエリにも聞こえないように呟き、セイロンは僅かばかり遠い目をして彼方を見つめた。その表情には覇気が無く、珍しく思案気味に溜息などついている彼に、リビエルは眼鏡の奧にある大きな目を細めて額に指を置いた。
 仲間達が次々と食事を終え、食堂を出て行く。その中でセイロンはひとりテーブルに居残り、頬杖をついたままで心此処に在らずの姿勢で何処だか分からない場所を見ていた。考える事は山ほどあるし、今後自分たちが、そして仲間達を導く上で、どう進んでいくべきなのかも決めなければならない。
 ぼんやり無為な時間を過ごしている余裕は、本来の彼にはない。仲間達が忙しなく己のやるべき事に向かって突き進んでいくのに対し、それでも彼はテーブルの前から動かず、組んだ脚の先を遠くに投げやって、やや自棄気味に姿勢を崩している。
 本当に、参ってしまう。
「ひとまず、御子殿に事情の説明からだが……」
 貴方のお父さんをください、だなんて言うつもりなのか、自分は。溜息混じりに小さく零し、脚を解いて頬杖も外す。肘は立てたまま両手を顔の前で結び合わせ、重なった指の上に顎を置いた彼は、肩を落とす仕草のついでに手の位置をずらして額に押し当てた。
 視界が陰に覆われ、手の甲に堅い髪が擦れる。
 あの子からライを奪い取るつもりなど、さらさら無い。コーラルにはライが必要なのだ、竜の子を保護し見守り、慈しみ、育て、愛してくれる存在がライなのだから。
 御使いにも同じ事が言えるかもしれないが、入り込めるだけの距離が違う。コーラルは既にライを“父親”として認め、求めている。無条件に自分を受け入れて愛してくれる存在だと認識し、その必要性を周囲に訴えている。
 失わせるわけにはいかない。
 だから困る。選択肢は既に決していて、横から割り込む余地など最初から否定されているのだから。
 奪わないで。そう無言のうちに訴えてきた瞳が、今もセイロンの背中を責めている。
「ああ!」
 苛々する。
 思わず声を上げて勢い任せに椅子を蹴り倒し、セイロンは立ち上がった。
 ひとり台所に居残って、皆が朝食に使った食器の片づけをしていたアルバが、唐突に叫び声を上げた彼に驚き、洗っていたコップをお手玉した。落とす寸前に泡だらけの手でどうにか透明なグラスを掴み取った彼は好かった、と安堵の息を吐き、カウンター越しに見えるセイロンの立ち姿に怪訝に眉を顰めた。
「どうか、しましたか?」
 聞かなくても良い事を敢えて口に出してしまうのが、彼の性格であり、美徳でもあろう。問われて初めて自分が声をあげていたのを思い出したセイロンは、若干気まずい気持ちで頭を掻き、離れた場所にいる彼に苦笑した。
「いや、なに……ちょっと、な」
 言いづらい事を考えていたのだ、と言葉尻に紛れ込ませて表情を作れば、元々多人数で、しかも様々な種族や経歴の人間と接してきているからだろう、アルバは感覚的に察し、それ以上言葉を紡ごうとしなかった。
 代わりに水洗いしたグラスを逆さ向きに持って水気を切り、顔の前で手を横に振って構いませんよ、と微笑む。
 騎士見習いのくせにどこか庶民的で生活感が漂い、その辺でたむろしている年頃の子供と大差ない外見をしているのに、中身は随分と成育して大人びている彼は、余計な事を口には出さずセイロンを受け入れている。今のだって、単に驚いただけなのだと、深入りして欲しくないセイロンの気心を察してか、特に何も言わず自分の作業に戻ってしまっている。
 損な性格をしているな、とこの年頃から変に大人に混じって生活するのを覚えてしまった彼に、少なからず同情が禁じ得ない。それはライも同じだ、あの子もずっと幼い頃から、子供である時間を手放して生きてきた。
 誰かに甘える事なく生きてきたからこそ、出来れば彼を、せめて自分の前でくらいは、年相応に、甘えさせてやりたい。例えそれが偽善だと言われようとも。
 ライと同年代の彼は、大人数の、しかも各界の召喚獣と(はぐれも多く混じっていたらしい)共同生活を送って来ただけに、他者に対する偏見が少ない。その特徴的な角を見て、リィンバウムの人間はセイロンに対しどこか構えた素振りを見せる場合が多いのだが、彼は最初からそういった様子が全く無かった。
 彼のような人間がもっと多くいたならば、苦しまなくて済む召喚獣も多かろう。けれど現実はそう優しくない。
 彼も将来、この世界の現実を目の当たりにして、己の小ささと力の限界に気づくだろう。その時に絶望に打ちひしがれないよう、傍で彼を支えてくれる存在があればいい。
 世間は存外に冷たい。子供の時代は己の周囲だけが世界の全てだが、その掌に掴めるものが増えるに従って、指の間から零れ落ちていくものも、または選り分けていかなければならないものも、多くなっていく。
 何かを捨てなければ新しい何かを拾えない。そんな事は無い、と声を高くして叫ぶ輩もいるが、綺麗ごとばかりで語れない世界は確かに目の前に広がっている。そこから目をそらして生きるのも或いは可能かもしれないが、やがて自分の理想と現実の境界で板挟みとなり、自滅していくのが大半だ。
 出来うるならば、ライにそんな生き方をして欲しくないし、させたくもない。
 あの子は強いから、と、そんな易い言葉で片付けてしまえない。彼は誰よりも物分りが良く、聞き分けが良く、それでも自己主張を貫こうとして矛盾に苦しむ。正しいと思ったことに、自信が追いつかない。彼はずっとひとりだったから、何もかも自分で選び、決めなければならず、間違えているという指摘をしてくれる大人も、進む道に迷った時に黙って背中を押してくれる存在も無かった。
 その環境は在る意味、彼を自立した大人へと育て上げたかもしれない。
 けれど子供が子供であれる時間は思いの外短く、彼はその大半を大人と同格として扱われ、自分もそうあるべきと考えて生きてきた。
 その上に、今度は実に周囲が騒々しい子供の父親役まで押し付けられて。
 彼は今の環境を楽しんでいるようだけれど、必要以上の責任を担わされたその肩はまだ細く、小さい。血の海の中で抱き締めた体は驚くほど華奢で、頼りなかった。
 無理強いはしたくない、大切に守り通したい。
 彼の笑顔を思い浮かべるたびに、セイロンは自分の胸の内に仄かに明るい、暖かな炎が宿るのに気づいている。その灯火を大切に抱き締めてやれたなら、本当はそれだけで良いのだ。
 ……とはいえ、人というものは欲望に忠実に出来ているから。
 どこまで自分の理性が保てるかは、想像しないでいよう。
 一瞬の間に実に様々なことを思い浮かべ、最後に自分に苦笑したセイロンは、蹴り倒したままだった椅子を直して唯一テーブルに残ったままだった自分の使った食器を手に、カウンターへと向かった。正面ではなく横から回り込み、洗い物途中のアルバの邪魔にならない場所に重ねて置く。何気なく見下ろした床には、一通り拭かれているものの、ところどころに血の痕が残っていた。
 昨晩自分が使った時は、周囲が既に日も落ちて薄暗かったのもあり、あまり気づかなかった。
 感覚もどこか麻痺していた面があったのだろう、今頃になって急に寒気が腰から背中にかけて駆け上っていき、無意識にセイロンは自分の腕を交互に抱く。気づかぬアルバは、水気を切った皿を綺麗に横並びにさせながら追加になったセイロンが使っていた食器を自分の側へ招き寄せた。
 すまない、とセイロンが彼に詫びる言葉も乾いていて、唇がひりひりと痛んだ。
「いいですよ。ライは大変だし、他のみんなだって。おいらに出来る事があれば、なんだって言ってください」
 手間のかかる仕事にも慣れていますから、と屈託なく笑う様は、明るい昼の太陽を思わせた。
 ならばライは、闇夜にひっそりと浮かび上がる柔らかな月か。
 ――ああ、そんな感じだ。
 あの青銀の髪も、アメジストの輝きを内包した瞳も。
 彼にだって太陽の眩さを感じることはあるが、それよりも尚、月夜の印象が強い。
 思い返すとまた欲望が蒸し返して来そうで、素早く思考を切り替えて記憶を彼方へ追い遣ったセイロンは、慣れた手つきで作業に没頭するアルバから視線を外し、ゆったりとした両腕の袖に交互へ手を差し入れて胸の前で組ませた。
 ライが忙しなく動き回っている時は狭く感じられるのに、あらかた片付けられている今のこの場所は、アルバとセイロンのふたりが居ても充分に広い。改めてライという存在の大きさに感服したセイロンは小さく頷くと、興味惹かれるままに後方に積み上げられた、食材が入っていると思しき箱の蓋を持ち上げた。
 毎日不足が出ないように補充する作業も、ライの役目だった。だから彼が今ベッドから動けない以上、食材は減るばかり。案の定、箱の中身はかなり少なく、底が見えていた。
 食堂で出した料理以外に、昨晩から自分たちが食べる分で勝手に使わせてもらった影響もある。普段はライが在庫と相談しながら食事も用意してくれていたから、何がどれくらい残っていて、何から使えば良いのか、そういえば本人に確認していない。
 このままではライが台所に復帰しても、食材が足りずに店の営業も再開出来ない可能性がある。
「人参や玉葱はまだあるが……葉物の野菜が不足しておるな」
「あ、卵も朝使ったので最後でした」
 両手を振って水滴を飛ばしていたアルバが、耳聡くセイロンの独白を聞きつけて声をあげる。リビエルが焦がしていた目玉焼きが咄嗟に脳裏に蘇り、なるほどな、と頷いた彼は思案気味に眉根を寄せた。
 今日の夕食どころか、昼食の食材にも不安が出て来た。パンを焼く小麦だって無限ではない、蓄えが底を尽く前に手を打たなければ。
 つくづく自分たちは、食生活の大部分をライひとりに依存してきたのだなと思い知る。彼の怪我が治れば、少しは手伝ってやろう。
「店主に、食材調達について話をしてこよう」
 必要なものがあれば買い足さなければならないし、かといってセイロンでは要不要の区別がつかない。結局最終的な判断はライに頼るほかなく、彼が甘えられる環境に云々とさっきまで考えていた自分が、急に馬鹿らしく思えてきた。
 依存、結構では無いか。
 寄りかかるだけではなく、互いを支えあえればそれで。
 片方ばかりに負担を強いるのではなく、お互いがお互いを認め合い、助け合って、手を取り合えるのであれば。
 自分も、もう少し自分を見直して、改善できるところは努力してみよう。口元に扇子を押し当てたセイロンは、漸く作業がひと段落したアルバに労いの言葉を投げかけ、台所を後にした。

「どうしたんだ?」
 普段は何を考えているか分からないところがある、他者を寄せ付けない雰囲気のくせに、今日に限ってはやけに人にくっついて離れようとしない。
 ベッドに上半身を起こし、丸めた毛布を腰の後ろに置いて背凭れにしたライは、自分の膝元に頭を置いて寝転がっているコーラルの髪を撫でながら問うた。
 ライの足の怪我には触れぬよう脛の辺りに頭を載せ、身体は壁の方に向けて、丁度ライとは垂直に交差するようにコーラルは横になっていた。両手は重ねて頬の下に置き、足の間の窪みに沈まぬよう下側を支えている。ライの手が優しく頭を撫でていても反応は殆どなく、視線はタオルケットが一枚被さっているライの爪先を向いている。
 拗ねているのか、と思えばどうもそれだけではない様子。
 リビエルが朝食を持ってきてくれたその時に、コーラルも部屋へ一緒に入って来た。それから以後、一言もこの子は口を利いていない。
 コーラルは卵から孵ってからずっと、ライと同じベッドで並んで眠る日々を過ごしている。それが昨晩は、怪我をしたライへの負担になっては困るからと(実際ライは発熱していた)リビエルの部屋で休む事となった。本人はライから離れたがらなかったけれど、今回ばかりは有無を言わさず大人がこの幼子を外へ引っ張り出したといえる。だから足りなかった一晩分の触れ合いを、今補充しているのだろうとライは勝手に理解する。
 実際のところ、コーラルがあの場に居なくて良かったのだけれど。
 とてもではないが、昨晩の己の痴態はこの子に見せられない。
「でもあれは、……あいつが悪い」
 昨晩の出来事を思い出し、体の芯がサッと熱くなる。それを誤魔化したくてわざとぶっきらぼうに小声で呟くと、何を言ったかまでは聞き取れなかったものの、ライが何かを言ったのだけは気づいたらしい、コーラルが寝返りを打つ要領で顔を上向けた。
 波打つタオルケットに金色の川を作り出した髪の毛が揺らぎ、横向いた目で見上げられる。ぼんやりとした感じのする口元は僅かに唇が開き、けだるそうにしている瞳には「どうしたの」と問う色が含まれている。
「顔、赤い……」
「え」
 鈍い動きで持ち上げられたコーラルの右手が、背中を丸め気味のライへと伸ばされる。腕が短すぎて掌全体が触れることはなかったものの、中指の先が辛うじてライの前髪を掠めた。
 支える力は最初からあまり込められていなかったのだろう、コーラルの右手はそのままライの直ぐ横へ沈んでいき、クッションに弾かれて一度だけ跳ねた。緩く湾曲した指先が、当て所なく空を掻いている。
「赤い?」
「……」
 そうだろうか、と聞き返すと無言のうちに頷いて返される。基本的にコーラルは殆ど嘘をつかないから、きっと鏡を見れば本当に赤い顔の自分がいるだろう。自分でも左手を持ち上げて手の甲で触れてみると、僅かに体温が上昇しているような気がした。
 誰のせいでこんな目に遭っているのかと、今この場に居ない相手に愚痴を言っても仕方が無い。蘇る熱を強引に脇へ押しやって、ライは落とした手でコーラルの掌を擽った。幼子は直ぐに堪えきれなくなって、肘を跳ね上げて手を引っ込めてしまう。それでも尚しつこく追い回すと、本格的に寝返りを打ってライに向き直ったコーラルは、膝が胸に当たるくらいまで体を丸めてライの手から逃げた。
 久方ぶりに、コーラルが笑う。大声をあげたりはしないが、僅かに表情が綻んで、ひょっとしたらこの子はずっと、台所で大量出血した自分を気に病んでいたのではなかろうか、という気になった。
 確かに自分でも、もうだめかもしれないと一瞬思った。傷口は痛いというよりもただ熱く、見える世界はあらゆる角度に歪んでいた。呼びかけてくる声は遠く微かで、自分が何処に居てどんな状態になっているのかも分からない。
 あの時の記憶は覚えているようで、全てがあやふやだった。薄布一枚で隔てられた場所にいる、という表現がぴったり来るだろうか、輪郭は見えるのに何もかもが陰の中に埋もれていて、はっきりしない。その中で辛うじて明確な記憶として瞼の奥に焼き付けられている光景が、自分を膝に抱えて今にも泣き出しそうな顔をしている、セイロンの姿だ。
 いつも偉そうにふんぞり返っているくせに、どうしてそんな気弱な顔をして自分を見ているのだろう、と。
 豪快に笑って、敵を蹴り飛ばして、人には説教するし、そうかと思えば急にしおらしくなって頭を下げてくるし。食べ物に口うるさいと思いきや、好き嫌いもなく出せばなんでも食べてくれる。怠けているように見えて、影で努力をして、またはこっそりと手助けをしてくれているのも知っている。酒を飲んだ時と普段とが随分違っていたのも驚きだったし、彼の手に触れられて自分が変わっていくのは、正直怖かったけれど、嫌ではなかった、と、思う。
 コロコロ変わる表情は、見ていて飽きない。他の世界から来た彼とは随分価値観も違っていたけれど、一本筋が通りやり遂げると決めた事を忠実に貫こうとする背中は、誰よりも大きく見えた。
 今まで周囲に居たどの大人たちよりも自分を理解してくれて、見守っていてくれる。一緒に戦う仲間でありながら、既に家族として彼を認めている自分に気づく。
 彼の事を考えると、頭の中の整理が追いつかないくらい、まだ出会ってからそれ程時間が経っていないのに関わらず、色々な思いが巡っていって落ち着かない。
 流されるままにコーラルを引き受け、戦いに身を投じた自分を、黙って支えてくれている手がとても暖かい。
 ぼんやりと手を休めたライを見上げるコーラルの瞳が、僅かに揺らいだ。
 何かを思案しているように眉が中央により、皺が寄る。閉じた唇に力を込めて前歯を噛み締め、やや表情に険を作ってコーラルは重ねていたライの手をぎゅっと遠慮なしに握り締めた。
「いてっ」
 爪も立てたので、浅くではあるがライの手の肉に食い込む。流石のライも痛みに顔を顰め、肩を窄めて声を発した。瞬間的にコーラルの手を振り解き、自分の胸元へと引き戻す。反対の手で宥めるように表面を撫で、渋い表情を作った彼はコーラルを軽く睨んだ。
 何をするのか、と強めの語気で咎めれば、ツーンとした態度で幼子は顔を背けた。返事は無い、無口さに輪が架かったような様子に、緊張を解いたライは肩を落としながら一緒に手も下ろした。
 ごろんと寝転がったコーラルの頭を脛で受け止める。引きずられた金髪が流星の如くタオルケットの上を流れていった。素足が裏向いて、膝は反対側へ。完全に背中を向けられてしまい、どうしたものかとライは戸惑う。
 さっきからコーラルの機嫌が安定しない。
 笑ったと思えば今度は怒って、反抗的な態度を取る。抓られた箇所をもう一度撫でたライは、ベッドの上から見慣れた天井を仰いで思わず盛大に溜息をついてしまった。
 こんな時あいつならどうするだろう、そんな事を考えつつ、右手で頭を掻き毟る。
「……おとうさん」
 酷く弱々しい声が響いて、考えは中断させられる。耳の後ろに手を置いたまま、ライは自分自身の足元で蹲る小さな存在に目を向けた。
 縋りたくても出来ない、甘えたいけれど躊躇している。そんな色の瞳を揺らし、コーラルが肘を突っ張らせて上半身を浮かせていた。足に感じていた重みが遠くなり、それはそれで寂しいかな、と左足首を左右に揺らしたライがなんだ、と小首を傾げる。するとコーラルは、丸めた拳を唇に押し当て、もぞもぞと体を揺らした。
 トイレにでも行きたいのだろうか、なんて無粋なことを想像していたら、急に顔を上げた幼子は思いつめた様子で勢い任せにライへと詰め寄った。
 反射的に後ろへ下がろうとしたライだったが、背中には毛布が押し当てられていて逃げ場が無い。両腕をベッドに突き立ててライに迫った竜の子は、酷く思いつめた真剣な眼差しの末、またしても急速に、自信を失った様子で俯いてしまった。
 黄金色の毛並みの隙間から、青磁色の角が覗いている。乳白色のセイロンのものとは随分形も色も違っていて、竜と龍の違いはその辺りにもあるのだろうか、などと漠然とした思いのまま考えていると、聞き逃してしまいそうな小さな声がライの耳朶を打った。
「おとうさん、は……」
「ん?」
「おとうさんは、ぼくのこと、すき?」
 最後の単語を発音するときだけ、コーラルはほんの少し首に角度を持たせ、上目遣いに前髪の隙間からライを窺い見た。
 その質問の意味と、コーラルの態度に、ライはさしたる疑問も持たずに頷いて返す。口元には薄い笑みを浮かべ、瞳を細めて自由の利く手で胸元に頭をおく子供の髪を優しく撫でてやる。
「なんだ、急に。当たり前だろ、そんな事」
 今更確認されるまでもなく、ライはコーラルを大事な自分の子供だと認識している。
 無論最初は、こんな面倒なことに巻き込まれるだなんて思ってもみなかったから、迷惑に思う部分もあった。けれど今はそういう気持ちを抱いた過去の自分にさえ嫌悪するくらいで、目の前の小さな存在を、何があっても守り抜く決心は強い。
 自信満々に頷き返したライの様子に、コーラルはホッと安堵の表情を浮かべる。緊張気味に強張っていた頬も緩み、半開きの目には喜びが浮かんだ。
 しかし直ぐにまた物憂げな表情が上書きされてしまって、ライを不可解な気持ちにさせた。
「コーラル?」
「じゃあ、リビエルは? アロエリは?」
 髪を梳く手を止めて名前を呼ぶと、畳みこむようにコーラルは同じ屋根の下に暮らす仲間の名前を列挙し始めた。
 ライはわけが分からないものの、何か思うところがあるのだろうと考え、ひとつひとつを丁寧に返していく。
「好きだよ、当たり前じゃないか。みんな、お前のために頑張ってくれてるんだから」
 コーラルの親代わりであるライと同様、御使いもコーラルを守るために奮起している。最初は衝突することも多かったが、お互いの胸の内を明かし合ってからは、蟠りを抱くのも馬鹿らしく思えるくらいに、今では彼らは心強いライの味方だ。嫌いなわけが無い。
「じゃあ、リシェルは? ルシアンは?」
「好きだよ。幼馴染だし、あいつらには本当助けてもらってる。……急にどうしたんだ?」
 このままではライとコーラルの周囲に居る人々全員の名前を挙げていきそうな雰囲気に、ライは益々戸惑ってコーラルを見返した。
 唇を浅く噛む幼子はそれでも躍起になって、ライの想像通り次から次へと仲間の名前を口に出した。そのひとつずつにライへ答えを求め、ライが返すと次の人物の名前を告げる。
 昨日は殆ど構ってやれなかったこともあり、ライは面倒くさがらずにコーラルの相手をしてやった。ただ胸の内は少しばかり穏やかではなくて、何故今そんな事を確認してくるのか、コーラルの気持ちが少しも読み取れない戸惑いは大きい。
 ただひとり、巧みに幼子が避けて通っている名前がある事に、彼は気づかない。
「……好きだよ、みんな好き。当たり前じゃないか」
「本当?」
「ああ」
 ぽん、と広げた手でコーラルの頭を軽く叩いたライに尚も問い、頷き返されるのを待って竜の子は視線を下向けた。自分の両手を睨むように見下ろし、拳を作って、尺取虫のように腰から体を起こしてベッドに座る。そろえた膝の左右それぞれに手を置いて、急に畏まった態度を作ったコーラルに、ライは更に怪訝な顔をして眉間の皺を深くさせた。
 何かに葛藤している様子のコーラルは、そのまま黙って数秒間過ごした後、深く息を吸い、吐き出した。
「じゃあ」
 口火を切った幼子に、ライはまだあるのか、と少々うんざりした姿勢で頬を掻く。軽く爪を立てて引っ掻くように動かしていた右手が、次に発せられたコーラルの声に極端すぎる反応を示した。
 思わず力を込めすぎて、皮膚を思い切り削ってしまったのだ。
「いでっ」
「……」
 動揺した、初めて。
 急速に跳ね上がった心臓が、ドッドッと波音を響かせてライの肌に汗を呼び込む。頬を滑り落ちていった指はそのままシーツに沈んだが、唖然と見開かれた唇と瞳に、コーラルは真剣な表情を崩さない。一挙手一投足まで見逃すものか、と迫力の篭もった双眸に、ライは知らず息を呑んで一瞬で乾いてしまった口腔を潤そうとした。
 爪で掻いた部分がひりひりと傷む。切れてはいないだろうが、赤く蚯蚓腫れ程度にはなっているかもしれない。咄嗟に加減が出来ないくらいに自分が動揺したのにも動揺して、ライは答えられずにただコーラルを凝視した。
「おとうさん?」
「え、あ、うん」
 呼びかけにも大仰に肩を揺らしてしまい、長い間瞬きを忘れていた目を急いで瞬かせ、ライは居住まいを正した。けれど動かない足のお陰で思い通りいかなくて、脈打つ心臓の音も五月蝿く心が荒波だって落ち着かない。
 試すよう、挑むような強い眼差しを向けるコーラルから、目を逸らしたいのにそれも出来ない。
「きらい、なの?」
「いや、いや違うそれはない、絶対!」
 無意識に“絶対”の部分を強調してしまい、言ってからしまったと後悔してももう遅い。
 両手を振り上げて横に揺らしながらのライの力説に、けれどコーラルはどこか冷めた目をしていた。
「じゃあ、好き?」
「う……」
「おとうさんは、セイロン、すき? きらい? どっち?」
 他の仲間であれば考えることもなく、即座に首肯出来た問いかけ。だのに今、その名前を出されたライは、返答に窮している。
 嫌いという問いかけには瞬時に否定できても、肯定を求められると頷けない。かといってどちらなのかと問い直されても、直ぐに返事が音として表に出てきてくれなかった。
 心臓の音はその間もどんどんと強まり、家の外にまで響いていくのでは無いかと言う緊張感を彼に強いる。冷や汗は拭いきれないほど汗腺から噴出し、赤い顔は指摘されなくても自分で充分認識できた。
 たった一言、軽い気持ちのまま告げればそれで済んだ話だ。話の流れに乗って、深く考えずに、また変に拘らずに頷いておけば、事は片付いただろうに。
 ライははっきりと見て分かるくらいに動揺し、コーラルの質問への答えに声を詰まらせた。
「……」
 コーラルの考えが読めない、意図が知れない。何が知りたくてこんな頓知を仕掛けてきたのかが分からず、そして見事にハメられた自分がとても情けなくて、ライは口を金魚のように無駄に開閉させながら必死に上手くいかない呼吸を繰り返した。
 鋭かったコーラルの視線が僅かに緩む。瞬間硬直が解けて顔を背けたライの耳に、ぽつりと、それでいてどこか怒気を含んだ声で呟く幼子の声が届けられた。
「ぼくは……きらい」
 まるで吐き捨てるように言い切ったコーラルの、凡そこの子らしからぬ声と口調に、ライは目を丸くして反射的に振り返った。
 コーラルはライを見てはおらず、握り締めた自分の拳をひたすら睨んでいる。そこに憎き相手がいるとでも言うのか、筋張った拳は小刻みに震えていて、見るからに痛々しい様子がライの胸を打つ。
「きらい、って……」
 ――コーラルが、セイロンを、嫌い?
 だってセイロンは御使いで、竜の御子を守護するのが役目で、コーラルのお目付け役であり、保護者のひとりだ。
 セイロンはコーラルを大事に思っていて、時に厳しく接したりするものの、それだって全てコーラルを慮っての事。自分から憎まれ役を買って出るなど損な役どころも多いけれど、仲間を誰よりも大切に思ってくれている年長者だ。
 その彼を、嫌い?
 なぜ?
「コーラル、それ、どういう」
「嫌い、嫌いなの!」
 理由を聞こうにも癇癪を起こした子供は首を振って同じ単語を繰り返すばかりで、両腕を振り上げて自分の腿を叩いたコーラルは、そのまま前のめりに倒れこんでライにしがみついた。
 圧し掛かられた太股に新たな痛みを覚え、ライは喉を引き攣らせて懸命に堪える。今のコーラルにはライの体調を考慮する余裕が殆ど残っておらず、ただ暴走する自分の気持ちを持て余し、泣き叫ぶばかりだ。
「おとうさんは、だっておとうさんはぼくの、ぼくだけのおとうさんなんだから!」
 決して放すものかという意志を込め、ライの腰に腕を回したコーラルが悲痛な叫びをあげる。泣いているのだろうか、と思われる声に、けれど完全に俯いてしまっている幼子の表情は見えない。
 なんと言ってやればよいのだろう。即座に言葉が何も思い浮かばず、ライは自分に縋る子供を呆然と見下ろすことしか出来ない。
「コー……」
「おとうさんは、ぼくのおとうさんなんだから、だから、セイロンなんかきらい! だいっきらい!」
 既に言っている本人も自分が何を言っているのか理解できていないのだろう、支離滅裂気味に言い放つ言葉にまた同じ人の名前があがり、ライは心を抉られたような痛みを覚え、胸を詰まらせた。
 どうして、そんな事を言うのか。
 セイロンがコーラルに悪さをしたとか、そういう事は一切思わない。彼は分別を弁える(酒が入っていた時は仕方が無いとして)大人であり、子供に対してして良いことと悪いことはちゃんと理解している。こんな風に一方的にコーラルから嫌われるのは彼の本意でもないだろうし、ライだって傷つく。
 彼がどれだけコーラルを大事に思っているかが解るから、余計に。
「なんでそんな事言うんだよ!」
 苛立ちが。
 気がつけば荒々しい口調で怒号をあげていたライに、コーラルは顔を上げて涙で潤んだ目を震わせた。
 一方のライもまた、自分が怒鳴ってしまった現実に一秒後気づき、ハッと心臓を萎縮させて息を止める。
 両者の間に思いもがけない溝が発生し、轟音を響かせて水が押し寄せてふたりを遮断する。コーラルは瞳のみならず幼い身体を痙攣させ、唇を戦慄かせて堪えきれない涙に頬を濡らした。
 怯えられた、その衝撃にライはショックを隠せない。
 何かを言わなければ、そう思うのに舌が凍りついたみたいに少しも動かない。喉から零れ落ちるのは音のない呼気ばかりで、瞬きを忘れて乾いた瞳がひりひりと痛む。けれど心臓を締め付ける痛みはその比ではなく、ライは指一本さえ動かせないまま、ただコーラルが声もなく泣きじゃくる様を見ていることしかできなかった。
「やだ、……やだよ……」
 しゃくりをあげる子供が、鼻を啜る合間にたどたどしい声を放つ。
「きらい、に……なっちゃ、やだ……」
「店主、少し良いか」
 コンコンというノックに被せ、男の低い声が室内に響き渡りコーラルの泣き声を隠した。
 瞬間的にふたり揃って顔をあげるが、先に反応したのはコーラルだった。
 両手を荒っぽく顔に擦りつけ涙を拭い、ライがとめる間もなくベッドから飛び降りる。返事がないのに勝手にドアを開けようとしている男が、僅かな隙間から特徴的な赤い髪を覗かせた。
「コーラル!」
 ドガン、と硬いもの同士がぶつかり合う、非常に痛そうな音が直後場を埋め尽くした。
 ライが怒鳴るが、両手でドアを内側から突き飛ばした幼子は、さっきまでの泣き顔は何処へやら、かなり憤慨した表情でベッド上の養父を振り返ると赤く腫れた目の下に指を置き、思い切り舌を出した。
 呆気に取られる、誰だあんなこと教えた奴は。
「おとうさんなんか、きらい!」
 最後に捨て台詞を吐き、コーラルは自分で今し方室内に入ろうとしていた誰かを突き飛ばすべく閉じたドアを開け、出たところに転がっていたものをも飛び越えて廊下に駆け出した。けたたましい足音を残し、去っていく。
 ライも咄嗟に後を追おうとしたが、ベッドから降りようと体を横向きにしたところで激しい痛みに襲われ、自分の怪我の具合を思い出して呻いた。
 上半身は至って健康だし、熱も大分下がったし、触れられなければ痛みも殆ど感じない(麻痺しているだけだと言われたが)ので、ついつい忘れそうになるが、未だに鉄棒に貫かれた足は膝を曲げるのもままならず、介助が無ければベッドから降りる事さえままならない。
 こんな時に限って、と動かない足に思わず拳を叩きつけると、不必要な痛みまで付け加えられてライは背中からベッドに倒れこんだ。先ほどの比ではない痛みに、噛み締めた歯の隙間からは呻き声が漏れる。患部を抱きかかえて庇いたいのにそれも出来ず、悶絶したライは生理的に浮かび出た涙に悔しさのそれを上乗せした。
 痛みを堪えているのは何もライだけではなく、コーラルに踏みつけられたセイロンもまた、扉にぶつけた鼻を押さえながら身を起こした。
 コーラル自体は体重が軽いので、踏まれてもよっぽど勢いをつけていない限り痛みはそれ程酷くはならない。無論踏まれる場所次第だが、幸いにも蹲って小さくなっていた肩を踏み台にされた程度だったので、衝撃はあったが骨が折れるほどのものでもなかった。問題は扉と正面衝突した顔の方で、鼻腔の奥がツンとするのは、もしかしたら切れてしまっているからだろうか。
 ふたつ並んだ穴の下に指を添わせ、右になぞる。出血はなさそうだと安堵して頭を振り、開け放たれたままの戸口に目を向けていると苦しげな呻き声が聞こえて来た。
 セイロンは若干ふらつく足を叱咤して立ち上がり、ドアを閉めつつ中に入る。即座に目を向けたベッドでは、ライが体を横向きにしながらベッド端に顔を埋めていた。
「ライ!」
 焦りが何よりも先に立ち、セイロンは泣きながら去っていったコーラルよりもライを優先させた。
 心臓が鷲掴みにされたに近い衝撃に肝を冷やした彼は、ベッドサイドに駆け寄ると直ぐに膝を折ってライの顔に視線の高さを揃えた。手を伸ばし、苦悶に歪むライの頬へ触れる。一旦下がっていた熱がまたぶり返しているようで、その皮膚はセイロンが息を呑むまでに熱かった。
 顔を覗き込むと、人の気配を察してライもまた辛そうにしつつ、瞼を持ち上げる。
 アメジストの中に浮かび上がった姿に、彼はホッとしたのか厳しいばかりだった表情を僅かに和らげた。けれど痛みが完全に引いたわけではなく、直後に襲い来た波に全身を引き攣らせる。
「……っぁあ!」
「ライ!」
 苦しげに息を吐き、ぜいぜいと喉を鳴らした彼の額に手を置いたセイロンは、荒ぶる自分の心を懸命に宥め、静かな湖面に等しい状態へ持って行くのにどうにか成功した。そのまま呼吸を整え、ライの波長に合わせて掌に思いを集める。数秒後には触れ合った箇所に仄かな輝きが宿り、辛そうにしていたライの表情も徐々に和らいでいった。
 見開かれたままだったライの瞼がゆっくりと閉じられ、額を通して流れ込んでくるセイロンのストラに身を任せる。呼吸も落ち着きを取り戻し、一定のリズムを刻むようになってから彼は長い息をひとつ吐き出した。
「大丈夫か」
「……ん、なんとか」
 不用意に興奮したのが悪かったのだろう、と自己判断をしてライは苦笑する。心配そうに目を覗き込んでくるセイロンに微笑み、もう平気だからとだるい腕に無理を言わせて彼の手を押し返した。
 だが離れる前に掴み取られ、そのまま握られる。流れ込む熱は、ストラとは関係なしに暖かかった。
「何があった?」
 コーラルとの怒鳴り声の応酬は、外にいたセイロンにも僅かながら聞こえていた。どちらも普段声を荒立てるのが稀なだけに、珍しいなと思いつつノックをして入ろうとしたら、あの始末だ。
 思い出したら痛みがまた蘇って来て、まだ赤い自分の鼻を撫でたセイロンに、ライはまた笑いながらそちらに手を伸ばす。
 指で触れようとしたら避けられて、顔を寄せられる。ちょっと不満を露にしたライは、ちぇ、と悪態をつきつつも首を伸ばし色付いている彼の鼻の頭に触れるだけのキスを落とした。そのまま赤い舌先を覗かせ、傷ついているそこを舐める。
 微かに濡れた音がふたりの間に流れ、それがなんだかおかしくてライは笑った。
 彼の前にいると、不思議と心が温かくなる。包まれている、とでも言うのだろうか、自分は自分で良いのだと言われているようで嬉しくなった。
 舐められる一方だったセイロンは、緩くライの前で首を横へ振るとそのまま伸び上がり、ベッドに右肘をついて更にライとの距離を詰めた。ギシ、とベッドを構成する板が軋みをあげ、ひとりと半分の体重を受け止める。ライの前に濃い影が落ちて、やや目を丸くして動向を見守っていた彼だったけれど、鼻先に感じた吐息に反射的に目を閉じた。
 上唇を掠めるだけの触れ合いが一瞬にして離れていき、微かに濡れた柔らかな感触につい、ライは顎を仰け反らせて唇を上へと突き出してしまった。まるで自分から求めていったような仕草に、気付いてすぐ赤面しながら引っ込めようとするものの、真上の気配が楽しそうに笑ってライの望み通りの口づけを与えてくれた。
「ん……」
 最初は表面を掠めるだけで、何度も繰り返される触れ合いが。
 やがて触れあっている時間が少しずつ長くなって、自然と閉じていた唇が相手を求めて意思を持って動き出す。鳥が果樹を啄むように何度も開閉を繰り返していくうちに触れ合いは段々と深まり、時間をおいて最終的には互いを貪り合う獣のそれへと移り変わっていった。
 濡れた音が耳の奧に響き渡り、赤い顔をしたライは堪えきれずにきつく瞼を閉ざす。
 けれど最後に見えたセイロンの赤い髪と、思ったよりも長い睫毛がいつまでも頭の中から消えてくれず、苦しげに鼻で息をしながら彼は口腔内に忍び込むセイロンの舌を必死で追いかけた。
「ぅ、ン――っあ、ふ……」
 舌の表面を擽られ、撫でられたかと思えば先端へ浅く噛み付いてチクリとした痛みをライの中に残す。混じり合った唾液が淫猥な音を漂わせ、飲み下せない分がライの顎を伝って彼の頸を濡らした。枕に薄いシミが幾つも浮かび上がり、セイロンは下顎に噛み付いて生ぬるい河の水を掬い取った。
 そのまま彼はライの白い首筋に顔を埋め、吸い付いてはいくつかの痣をそこに刻み込んだ。ライが痛がれば宥めるようにして舌を這わせ、その度にちゅ、と軽い音がライの脳裏を打つ。
「んっ……待っ、や……セイロ、ん……」
 ぞくりとした感触が背中を駆け抜けていき、怪我による発熱以外の熱を感じ取ったライが慌てたように自分にのし掛かる彼を押し返した。だが神経が麻痺したのか、力が巧く入らず思い通りに動かない。
 ライの鎖骨へ、右から左へと舌を這わせていたセイロンは、自分の肩を弱々しく押す彼の声に、舌を伸ばしたまま視線だけを持ち上げた。
 唾液をひと雫飛ばして、さながら蛇の如く舌を口腔に戻す。熱を帯びて鋭さを増した彼の瞳を直視してしまったライは、咄嗟に手の力を緩めて肩を引いた。その動きに呼応するように、セイロンは身を乗り出してライへと迫る。
「う……」
 どうにもいたたまれない気持ちが押し寄せてきて、ライは目を閉じた。噛み締めた奥歯の表面が擦れ合い、歪んだように思える。セイロンはけれど其処ではなく、きつく閉ざされたライの瞼へ交互にキスをして、緊張を解してから離れていった。
 耳の側でベッドが軋む音がして、陰が遠ざかる。
「……ぁ」
「いや、すまん。つい、な」
「……うん」
 自分の口元を手で拭い取ったセイロンが、若干気まずそうに言って視線を遠くに投げた。
 本来ならこんなことをしている場合ではないことくらい、ふたりとも分かっている。けれど無意識に求め合って、危うくそのまま止まらなくなるところだった。
 気恥ずかしさが先に立ち、ライは肘で上半身を支えて起こし赤い顔を伏せる。セイロンもまた、跳ね飛ばされて上の方に転がっていた毛布の塊を引き寄せて、ライの背中に押し当ててやった。姿勢が楽になり、人心地ついたとライはホッと息を吐く。
「それで」
 コホン、とわざとらしい咳払いをひとつして、セイロンが意識を切り替えてライを見下ろした。ベッドに対し斜めに腰掛け、シーツを浅く握っているライの左手に手を添える。すると彼は甘えるように左半身を下げ、セイロンの右肩に頭を預けて来た。
「ん……」
 何処となくトロンと融けたような眼をして、ライは遠くを見る。答えづらいのか、頭の中がまだ整理仕切れて居ないのか、もしくは両方なのか。辛抱強くセイロンが無言を貫いていると、彼の手の下でライは指に力を込めたらしい。
「店主?」
「コーラルに、嫌われたかなー……って」
「御子殿に?」
 普段の元気のよさが形を潜め、気弱な声で呟かれたライのことばに、反射的にセイロンは聞き返していた。返事はなく、けれど辛そうに瞼を閉ざした彼は一度だけ頷き、更にセイロンに体を寄りかからせる。開いていた右手で彼の肩を掴むが、表面の布地に邪魔されて指先が表面を滑った。皺になっている部分の襞を摘んで落下だけは阻止するが、動きもどこかぎこちなく、覇気に乏しい。
 横から圧し掛かられているようなものだから、セイロンは必然的に上半身の動かせる部位が限定される。首から上だけでライを覗き見た彼だが、俯いてしまっているライの細かな表情までは、その位置からでは見えなかった。
「そのようなこと」
「でも」
 コーラルがライを大好きで、ライもコーラルが大好きなのは周知の事実だ。ちょっとやそっとの口論程度で、その絆が砕かれることはない。
 過去幾度となく経験した苦難や危機も、彼らの絆が強かったお陰で切り抜けられたようなものだ。自信を持って良いとセイロンは諭すけれど、ライは聞いているのか居ないのか、心此処にあらずの瞳で壁ばかりを見ている。
「喧嘩になった原因は、なんだ?」
「……」
 静かな声でセイロンが問うが、やはりライは答えない。しかし聞いた瞬間だけ触れ合った場所が揺れたから、言いたくない理由が何かあるのだろうとセイロンは推察する。けれどそこに触れない限り何も解決しないわけだから、同じ質問を重ねた彼に、ライははっきりと分かるほどの溜息を零した。
 揺れ動く瞳が、遠慮がちにセイロンに向けられる。
「コーラルのこと、その……怒らないでやって欲しいんだ」
「無論、弁えている」
「あの、さ」
 言いづらそうに、ライは上半身を揺する。肩に頭の片方を預けていただけだったライだが、そのうちにまたずるずると下がって行って最終的に額がセイロンの肩に落ちた。鼻先に男性特有の匂いを感じ取る、といってもライはセイロンのものしか知らないが。
「自分のことは好きかって、聞かれたんだ」
「ふむ」
 何処から話したものか、と思い悩んだ末、ライは結局そこから始めることにした。頭の中がまだ整理できておらず、若干話は前後しながらも、たどたどしい説明を展開していく。彼が何かを言い、一呼吸置いて黙るたびに、セイロンは合いの手や相槌を返し、先を促す。けれどそのどれもが、ライへ無理を強いるものではなかった。
 言いたくなければ本当に言わなくても構わないと、そう言っているようで、ライはつい泣きたくなった。
 どうしてあの子は、あんなことを言ったのだろう。
「それで……最後に、俺が、その。お前、を……好きか、って」
「?」
 仲間の名前を列挙し、逐一好きかどうかの確認をしていったコーラルが、最後に取り出した名前。
 セイロンは好き? そう問うたあの子に、ライは咄嗟に答えられなかった。
 だって、意味合いが違う。仲間としての好きだけでは、もう彼を計れない。仲間の多くが同じフィールドにいるのに対し、ライは彼だけを、心の中の別の場所に移してしまった。だから答えに迷った、仲間として好きなのか、それとももっと違う次元での好きなのかが、判断つかなかったから。
「……」
 ひょっとして、とセイロンの胸にとある予感が過ぎる。ライの身体がずれぬように気を配りつつ、持ち上げた手に握った扇子で顎を叩く。浮き上がった視線が天井を這いずり回り、今だけライの存在もが遠いものとして彼の中を駆け抜けて行った。
 昨日の、そして今朝のコーラルの態度を思い返す。感情の露呈が少ないあの子が、自分に向けていた視線の意味を考える。
 しまった、という思いがセイロンの中で暴れだす。
 ライが自分を好いているかどうかの答えに迷った云々よりも、コーラルがそんな確認をライにした事が衝撃だった。自分に八つ当たりするならまだしも、矛先が先にライへ向くとは思っていなかった分、余計にショックも大きい。
 あの子は賢い。周囲が思っている以上に様々なものを見て、考え、知っている。
「そしたら、あいつ。お前のこと」
 きらい、だなんて言うから。
 つい、無意識に、怒鳴り返してしまったのだ、と。
 自分の軽率さを恥じ、悔やみ、傷ついたライがぽつりと零した。
 このまま消えてしまいそうな儚さを表に出し、セイロンの肩に顔を埋めた彼はきつく手を握り締め、また彼の上着に爪を立てた。
「俺、……父親失格、かなぁ」
 子供を泣かせて、ひとりぼっちにして。哀しい思いをさせて、追いかけることも出来ずにいる。
 自分を置いていってしまったあの男の後姿を覚えているからこそ、あんな風にだけはなるものかと心に誓っていたのに、上手くいかない。今のコーラルの気持ちがさっぱり分からなくて、ライは戸惑いに瞳を曇らせた。
「俺はなにがあっても、あいつの父親のつもりだったんだけど」
 コーラルはそうは思ってくれていなかったのだろうか。自分にしがみつきながら叫んでいたあの子の顔が、もう記憶に遠い。
「お父さんは僕のお父さんなんだから、お前は嫌い、なんだって」
 わけが分からないよな、と力の無く口元を緩めたライが、顔を上げて無理をして笑おうとする。セイロンはそんなライの手を持ち上げて大事に握ると、そこに己の額を押し当てて首を振った。
 セイロンには、コーラルが何を思ってそんな事を言ったのかが、容易に理解できた。
 あの子はセイロンが、父親であるライを横から奪っていってしまうのではないか、と思っている。自分だけの父親が、自分だけのものではなくなってしまおうとしている。だからあの子は、セイロンを敵対視して、嫌いだなどと言ったのだろう。
 本来その役目は自分が果たさなければならない事だったのに、気が回らなくてライに辛い思いをさせてしまった。悔いが残り、自分が情けなくてセイロンは心の底からすまない、とライに詫びた。
「なんで、お前が謝るんだよ」
 コーラルから一方的に詰られた彼なのに、まるでその責任は自分にあるという態度。分からない、と首を振ったライに、視線を上げたセイロンは彼の手を解放してから控えめな笑みを浮かべ、彼の頬に触れるだけの口付けを贈った。
「我が、店主を……ライを、独占してしまうと思ったのであろう」
「なに……それ」
 声のトーンを落としての呟きに、ライは若干剣呑な眼を持ち上げてセイロンを見る。
「詳しくは御子殿本人に聞いてみるほか無いが、恐らくは――我がライを、つまりは御子殿にとっての父親である御主を、自分から取り上げてしまうのではないかと、そう考えたのではないかと、思う」
 後半に行くに従って自分の発言に自信が無くなっていくのか、セイロンの声は小さくなっていく。相反してライの表情は険しいものへと切り替わり、セイロンが言い終えた頃には彼は拳を固くして肩を怒らせ、震えていた。
「なんだよそれ、そんな馬鹿なことあるわけないだろ!」
 セイロンの言葉が止まるのを待って、ひとつ長い息を吐いた彼は苛立ちを隠さない声で荒々しく言い捨てた。背筋を伸ばしてひとりでベッド上に座り、右の拳を腿の横に叩きつける。その程度でベッドは揺らぎもしないが、僅かな振動を感じ取ってセイロンは柳眉を顰めて落ち着け、とライの肩を叩いた。
 最初は嫌がり、抵抗していたライだけれど、耳元で囁き続けられると力が抜けてしまう。そうでなくとも元から熱を出しており、体力も減退気味の彼の事、怒鳴り続けるだけの力もあまり残されていない。やがてしな垂れてセイロンに再び体重を預けた彼は、それでもまだ納得がいかない様子で「なんでだよ」と呟いた。
 そんな彼の肩を抱きとめ、セイロンはよりライに近くなるように体の向きを動かす。胸に彼を抱え込んでやると、同じく腰を浮かせてライは自分の居場所を彼の腕の中に求めた。
 後頭部がセイロンの喉元近くに接する。その柔らかな髪を肌に感じ取り、擽られる感触に僅かだったがセイロンは表情を和らげた。
「なんか、それじゃ俺がまるで、お前のこと、その……――になっちゃ、……いけなかったみたい、だ」
 赤い顔を落ち着きなく左右に動かし、唇を尖らせてライが言う。肝心な箇所は声を潜めてしまってセイロンにまでは聞こえなかったが、ひとつしか当てはまる単語が思い浮かばなかっただけに、セイロンは苦笑を禁じえなかった。
「笑うなよ!」
「いや、すまん」
 怒られた。胸元に回したセイロンの腕を両手で抱え込み、首だけを振り返らせたライが不満げに頬を膨らませる。そして直ぐにまた前に向き直ってしまって、ほんの一瞬しか彼の顔を見られなかったセイロンは悪戯心を刺激され、胸を反り返らせて背中を預けてくるライとの間に距離を作った。
 足が動かないライは、必然的にそのまま背中を後ろへと倒す。支えを失っただけでも充分怖くて、心臓を竦ませた彼はひっ、と短い悲鳴を飲み込んで真上に覆いかぶさってきた陰をねめつけた。斜め四十五度、実に中途半端なところで傾きをとめられ、腹筋が鍛えられそうだと上から覗き込んでくるセイロンに文句を言い放つ。
 しかししっかりと人の腕にしがみついたままでは説得力が無いな、と切り替えされ、ライはまたムッとした表情を作り出した。セイロンは声を立てて笑いながら、ライの身体ごと自分の側へ引っ張って再び彼を胸に抱き締めた。首筋に顔を埋め、気まぐれに左の鎖骨に噛み付いて離れていく。
 話の腰が折れてしまって、どこまで進めただろうか、とぼやく声がライの耳朶を掠めた。二人揃って同じように天井近くに視線を向かわせていて、気づいたライが喉を仰け反らせ下から彼を見詰める。すると姿勢はそのままに目線だけを下ろしたセイロンがまたにっ、と笑うものだから、さっきの仕返しとばかりにライは自分の胸を支えている彼の手を指で軽く抓った。
「痛いではないか」
「うるせー。……で、なんだっけ」
「店主が、我を好きになってはいけなかったのか、という話だ」
「……」
 折角自分では言わなかったのに、と耳まで赤くしたライが下を向く。露になった項までも朱色に染まっていて、セイロンはクスリと微笑みながらそこにも触れるだけのキスを落とした。
 ぴくん、とライの身体が小さく跳ねる。調子に乗って舌で舐めてやりたくなったが、また止まらなくなりそうだと感じたセイロンは自重した。
 実際、人は感情に制限を設けることなど出来ない。それが必然か偶然かはまた別問題として、惹かれあう衝動は本人の意志をもってしてでも防ぎきれるものではない。ましてや周囲がどうこう言って制御できるものでもなく。
「俺が、その、だから……お前の事、……ってなっても、だからって俺が、コーラルの父親じゃなくなるわけじゃないのに」
 また言ってもらえなかった。それ程に照れ臭いものなのだろうか、と天を仰いだセイロンは、少しばかり傷つきながらも、しどろもどろに言葉を連ねていくライに黙って耳を傾ける。
 ライの言いたいことは分かる。そしてコーラルの言い分も、セイロンにはよく分かる。
 ふたりには大きな認識のずれがあって、それはきっと、コーラルがまだ“好き”という概念に幾つかの種類があるのだと知らないからだ。
 家族愛、親子愛、兄弟愛、師弟愛、友愛、そして恋愛感情。どれも相手が好き、という事に変わりは無いけれど、ちょっとずつ意味合いが違っていて、心のおき場所も違ってくる。コーラルはまだそれらの細かな定義を理解出来ていない、あの子にしてみればライがセイロンを好きなのも、コーラルを好きなのも、同じ場所で同じ感情として、同等に扱われていると思っているのだ。
 そして自分に向けられる愛情が、セイロンに向けられるそれを下回ってしまうのを怖がっている。
 好きだから、一番でいたい。好きだから、一番で居させて欲しい。
 自分よりもライが好いている存在があるなら、その存在は自分からライの隣を奪ってしまう存在に等しい。だから嫌い。
「……なんだよ、それ」
 やっぱりまだ分からない、と言いたげに声を膨らませたライが、セイロンの腕に寄りかかって呟く。
「なんでそこで、比べたがるんだよ。関係ないじゃん、そんなの」
「まだ幼い故、理解は出来ても感情で追いつかぬのだよ。そういうものだ」
「……そう?」
「御主も、経験があるだろう」
 言われて、ライは口を閉ざした。
 蘇ったのは父親が、妹だけを連れて出て行った日のことだ。自分は要らない子、妹の方が父にとっては大事で、自分はどうでもいいのだという気持ちは、確かにあの時ライの中にあった。彼が妹だけを連れていったのは、彼女が身体も弱く、この地に留まっていても改善の余地が見込めないからだと知っていても、思わずにいられなかった。
 今になってみれば、理由もちゃんと理解できる。けれど幼かった当時はどうしても感情的になって、自暴自棄気味になりつつ父親を呪ったりもした。恨む気持ちは今もまだ燻っているものの、ただほんの少しだけ、気持ちは落ち着きつつある。
「それでも……」
「なら、たとえを変えてみるか」
「え?」
「もし我に、ライよりも大切な存在があるとしたら?」
「――!」
 セイロンが言った直後、彼の腕の中にある存在は全身の筋肉を硬直させ、呼吸まで止めて彼を振り返った。
 大きなアメジスト色の瞳が頼りなく揺らめき、何か言葉を紡ごうとした唇は、けれど何の音を発することなく閉ざされる。身体機能全てもとめてしまったのではないかという静寂さに、セイロンはしまったかな、と思いつつ彼を安心させるべく表情を緩めた。
「いる、……の?」
「おらぬよ」
 本当のことなど、どうして言えるだろう。
 表面上は何も悟られぬように繕い、セイロンはまだ表情を強張らせているライの髪を撫でて、閉じるのを忘れている瞼に口付けた。睫を軽く咥え、目尻にもキスをして離れる。漸く息を吐き出したライは、それでも疑いの視線を拭いきれぬまま彼を見ていた。
「お主だけだ」
「……本当に?」
「誓って」
 静かな低い声に、やっとのことライは安堵した風に強張りを解いて胸を撫で下ろす。その背中を本当は撫でてやりたがったのだが、空間的に無理があって叶わず、セイロンは若干渋い眼でよかった、と唇だけを動かして呟いているライの姿を見つめた。
 いずれは言わなければならないと知りつつも、結局自分もまた、感情に押し流されてしまっている。
「なんとなく……分かった気がする」
 腿の隙間の窪みに両手を置き、左右の指を絡ませてライが言う。互い違いに動かして其処に息を吹きかけ、ゆっくりと顔を上げた彼の後頭部がセイロンの胸を打った。
「でも、やっぱり、わかんない」
「ライ?」
「だって俺は、お前とコーラルを、一緒に考えられない」
 ふたりとも大事で、大好きだ。けれど其処にランク分けは持ち込めない、比較も出来ない。
 ふたりとも、愛おしい。守りたい。一緒にいたい、傍に居て欲しい。抱き締めたい、抱き締められたい。
「我も、同じだ」
「だったら」
「だからそれを、我から御子殿にどう説明するか考えていたのだが」
 先にコーラルが自我を爆発させてしまった。最初にセイロンがライへ謝ったのは、その配慮が遅れてしまい後手に回ったことに対してだ。
 ライも、セイロンも、お互いを思うのと同じくらいにコーラルを思っている。ただ感情のベクトルが若干互いに向け合うものと異なっているのを、コーラルは気づけないまま自分が輪から追い出されてしまうのではないかという恐怖に駆られ、暴走した。
「怒って……ない?」
「なにをだ」
「コーラル」
「怒らぬよ。むしろ、御子殿が店主をそれだけ大事に思っておられるという事だ」
「そっか。そう、だな」
 ぼふっ、と勢いをつけてセイロンの胸に凭れかかったライが笑う。屈託無いその表情に、漸く彼本来の姿を見た気がしてセイロンも表情を緩めた。
「後で俺からも言っておく。えっと……上手く説明できるかどうか分からないけど」
「一番がどっちか、と聞かれたら御子殿だと答えてやってくれ」
 杞憂であればいいのだが、と前置きした上でのセイロンの物言いに、ライは不服だったのか頬を膨らませて尖った唇から一気に息を吐いた。
 自分をねめつけてくるライに、しかしセイロンは前言撤回の様子もなく、分かってくれと頬を寄せてライの耳を擽った。耳朶を甘く噛み付かれ、ヒクリと喉を鳴らして背筋を緊張させる。両目を閉じた彼の赤い表情に微笑んで、セイロンは更に告げた。
「嘘も方便と言う。それに、我ならば御子殿を抱えた御主を、まとめて抱きかかえてやれるぞ」
「――ばっ!」
 反射的に起き上がって振り返ったライだったが、皆まで言わせて貰えずに唇を塞がれる。
 覆いかぶさる相手との距離が近すぎる所為もあって、顔が見えない。セイロンが今どんな表情をしているのかが見えないのが、悔しい。
「ン――」
 いえなかった言葉を無理やりに飲み込んで、ライは目を閉じると胸の奥底から湧き上がる熱から視線を逸らして誤魔化した。
 下唇に歯を立てられ、慰みに舌で撫でられる。甘い匂いが何処からか流れてくるようで、暖かなものを感じると共に、自分の知らない何かが芯から滲み出てくる気がしてならなかった。
「っふ……んぁ、んん……」
 時々唇をずらして口呼吸もしながら、また互いを貪りあって熱を分け合う。濡れた音が頭の中で反響して意識が歪み、視界が霞んで何も見えなくなりそうだった。
 このまま食い尽くされてしまうのではないかという気持ちがライの中にはあって、意味も知らず体内で暴れだす熱に恐怖が拭えない。
 セイロンもそれを分かっているのだろう、存分にライの口腔を弄り回した後、妙にあっさりと離れていった。
 濡れた唇を艶めかしく拭い、ライの口元も親指でなぞってやる。沈殿してしまった赤が消えないライの顔に小さく笑って、彼はこの話は終わりだと一方的に切り上げてしまった。
「二番目で、いいのかよ」
「構わぬよ」
「……でも、俺は嫌だ」
「ライ?」
「セイロン」
 好き、と。
 熱に浮かされたあの時以来の言葉を紡いで、ライは益々赤くした顔をセイロンに押し付けた。
 呆気に取られた数秒後、セイロンはライの体を抱きとめながら破顔する。
「知っておるよ」
「うるさい、馬鹿」
 ぶっきらぼうに言い放った彼は、最後まで顔をあげてくれなかった。

2007/4/11 脱稿