桜人

 明け方の少し前、だろうか。
 ガタゴトという物音で眼を覚ました綱吉は、枕に半分埋もれていた顔を僅かに持ちあげ、重い瞼を苦労して持ち上げた。
「……?」
 なんだろう、と耳を澄ます。もぞりと動かした腕に連動して肩が持ち上がり、引きずられる格好で被さっていた布団も隙間を広げた。
 その間も物音は絶える事無く続いている。何かを激しく打ち、揺さぶっているその音には覚えが在るようで、無い。泥棒がもぐりこんでいるとか、夜中に眼を覚ました子供たちのうち誰かが走り回っているとか、そういうのとも違う。
 ではいったい、なんなのか。
 覚醒には程遠いまどろみの中、薄暗い室内に瞳を這わせた綱吉は僅かに開いた唇からそっと息を吐き、物音が一際強く感じられる方向に視線を転じた。そこは他の場所よりも本当に少しだけではあるものの色が違い、明るい。カーテンに遮られてはいるものの、本来なら月明かりの仄かな輝きを受け止めているはずの窓が、今は五月蝿いくらいの音を響かせていた。
 ベッドとはほぼ反対側の天井からぶら下がるハンモックは静かで、先にそちらを確認した綱吉は肘をついて上半身を起こした。顔を上げ、手首に枕の柔らかさを感じながら軽く頭を振る。
 まだ遠ざからない眠気は油断するとすぐに彼の瞼を閉ざしてしまい、夢の世界へと誘おうとしていた。それを無理やりに呼び起こした欠伸でやり過ごし、右手を伸ばして枕元にセットしてある時計を拾う。顔の前まで寄せた文字盤が示す現在時刻は、彼が目覚める予定にしていた時間よりも二時間ほど前倒しされていた。
 脳細胞が時刻を把握した瞬間、綱吉は顔を曇らせて唇を尖らせる。まだまだゆっくり眠れる時間なのに、なんて事をしてくれたのだと正体不明の物音に怒りさえ感じて、綱吉は時計を元あった場所に戻した。
 直後、カーテンの向こう側に痛烈な白の光が走った。
「――?」
 更に数秒の間を置いて、地鳴りを伴う轟音が彼の耳を劈く。
「わっ」
 顔を窓の正面に向けた瞬間の出来事だったため、まともに光を浴びた音を聞いた綱吉は反射的に身体を支えていた肘を崩し、額から枕に突っ伏した。
 騒音は時々静かになったり、また勢いを盛り返したりと忙しない。
 今の光は何だったのだろう、ぶつけた額を撫で擦った綱吉は、指に絡みつく寝癖を押し退けて頭を振った。
「かみなり……?」
 外から激しく窓を打つ音は止まない。ゴロゴロという地響きは数回に分けて轟いていて、半分閉じかけていた瞼を完全にシャットダウンさせた彼は肩から敷布団に沈み込んだ。胸の辺りまでずり落ちた布団を引っ張り、口元を覆い隠す。
 雨が降っているようだ、あと風が強い。天気予報では何も言っていなかったのにな、とうとうとしながら考える。
 朝起きたときまで降り続いていたら嫌だなぁ、でも警報が出るくらいまでの嵐だったら補習授業も休みになるかな。
 折角咲き始めた桜が散ってしまうのは、勿体無いな。
 枕に手を添え、表面の肌触りについ表情を緩ませながら、幾つもの考えが浮かんでは消えていくのを見守る。
 雷の音は次第に遠ざかり、窓を引き裂いた閃光ももう見えない。
 部屋の中には風が窓を叩く音がそれでもしつこく響き渡っていたが、それもやがて時計の秒針が刻む音に飲み込まれる。
 綱吉はいつの間にか、眠っていた。

 朝、目覚めはどうにもすっきりしなかった。
 なんだか寝足りない気がしてならず、目の下に薄く隈を作った綱吉は鏡の中にいる自分の顔色の悪さに絶句したほどだ。
「おはよう」
 どうやっても直らない寝癖頭を掻き毟り、爪が引っ掻く痛みで眠気を頭から追い出しながら足を向けた台所。奈々はいつも通りにエプロン姿で朝食の支度をしており、彼女の背中に声をかけて彼は自分の席に座る。そうして食パンを自分でトースターに押し込んで、目玉焼きの皿を引き寄せた。
 キッチンの向こう側に広がる窓は曇りガラスだが、今は半分だけ開かれて外から風が流れ込んでいる。少し前までは朝のこの時間だと空気も冷たくて、とても窓を開けっぱなしになんか出来なかった。
 季節の移ろいを肌で感じ取り、綱吉は朝霧に濡れた空気を胸に吸い込む。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
 振り返った奈々がドレッシングをまぶしたグリーンサラダを差し出して、礼を言って受け取った綱吉は笑っている彼女に首を捻った。
 なに、と視線で問いかけると、思い切り他とは逆向きに跳ねている前髪を指で弾かれる。枕を抱いて眠っていた所為でついたもので、どれだけムースを馴染ませてドライヤーと櫛を手に格闘しても、それだけ元に戻らなかったのだ。
 自分でも気にして入るのに、と唇を尖らせるとなお彼女は楽しげに目を細め可愛らしい声でクスクスと笑う。それから時計を気にして、早く食べてしまいなさい、と丁度焼きあがったトーストを指差して言った。
「今日も学校?」
 綱吉に遅れて台所へ現れたランボが、眠い目を擦りつつ椅子によじ登り始める。けれど途中で一度足を滑らせて後ろ向きに転がり落ちそうになって、横から手を出した綱吉が支えてやってから、ほぼ襟首を捕まえて吊り上げる格好で椅子に座らせた。
 お礼の言葉は無い、いつものことだから綱吉もあまり気にしない。
「うん、補習。いただきます」
 二年生の時分は色々とありすぎて、結局出席日数がぎりぎり足りなかった。進級するに当たって必要なテストでの点数も足りなくて、春休み返上で毎日が補習授業の連続だ。先生も年度の変わり目とあって忙しく、時間もまちまちなのでもう四月だというのに、全部の課題が終了していない。
 ぼんやりしていると、一学期が始まってしまう。二年生のままなのか、三年生に無事なれるのかの瀬戸際だから、迂闊にサボるわけにもいかずこのところ毎日、真面目に学校に通う日々だ。
 同じく出席日数が危なかった獄寺や山本はテストで挽回しており、綱吉一人だけが置き去りにされてしまっている。
 ひとりで二年をやり直すのは恥かしいよな、と適度に焦げて香ばしいトーストにかぶりつき、綱吉は口の周りをジャムまみれにさせているランボの顔をタオルで拭いてやった。
 黙々と食事を平らげる、その最中。半分に切られたミニトマトを摘んでいた綱吉に、不意に奈々が話を振って来た。
 それまで上機嫌に食器を洗っていた手を休め、何気なく彼女が仰ぎ見た視線の先。解放された窓から覗く空は綺麗な青色に染まっていた。
「そういえば、明け方の雨、凄かったわね」
「ふぁえ?」
 硬めの皮を奥歯ですりつぶしていた綱吉は、何を言っているのか自分でも分からない声を出して彼女の背中を見やった。形がずれて縦結びになってしまっているエプロンのリボンが小刻みに揺れており、短く切り揃えられた髪は綱吉のそれとは違ってサラサラと真っ直ぐに伸びている。
 口の中にあるものを咀嚼し、飲み込んで居住まいを正す。空っぽのコップに新しく牛乳を注ぎ足して、ついでにランボの分も注いでやって改めて彼女を見返すと、奈々は爪先立ちになって流し台の前にある窓から外を覗き込んでいた。
 けれど離れた場所で、しかも座っている綱吉には狭い空間に広がるこぢんまりとした空くらいしか見えない。雨なんて降っていただろうか、と首を傾げて牛乳を飲み込む最中、ふと夢に見た出来事を思い出した。
「あ、あれ」
 夢ではなかったのか、と声に出して呟いてコップを置く。縁で円を描くようにテーブルに添えて、綱吉は空いた手で唇を拭った。
 現実味に乏しい記憶でしかなかったから、夢かなにかだと勝手に思い込んでいた。奈々に言われるまで実際忘れていたわけで、そういえば凄い風の音がしていたと小さく呟く。雷も、鳴っていた。
 どうりで寝足りないわけだ、意識すると欠伸が漏れて綱吉は使い終えた食器をひとまとめにすると立ち上がり、奈々へと手渡す。振り返った先の壁時計はまだ登校時間に余裕があるが、のんびりし過ぎると怒られるのは確実、という実に半端な頃を指し示していた。
 歯を磨き、制服に着替え、鞄の中を確認する。ネクタイの結び目を気にしながら階段を駆け下りて玄関へ向かっていると、台所から姿を見せた奈々が弁当の包みを持たせてくれた。
「ありがとう」
「気をつけてね」
 春休みくらい、奈々だって早起きをしたくないだろうに、彼女は愚痴ひとつ零さずに毎朝綱吉に弁当を持たせてくれる。外へ買いに行くのは面倒だから、これはかなりありがたかった。
 もっとも、ひとりっきりの教室で食べるのは相当に寂しいものがあるが。
「行ってきます」
「早く帰ってくるのよ」
「は~い」
 寄り道しないようにね、と手を振って見送る奈々に大きな声で返事をして、綱吉は玄関を飛び出した。
 鞄を肩に担ぎ、少し急ぎ足で道路を進む。夜明け前に降っていた雨は完全に去ったようで、見上げた空は大きな綿雲が浮かぶ晴天。但し路上には水溜りがあちこちに残っており、アスファルトの表面もまだ湿っている。道端に生える草の表面には大きな雫が垂れ落ちる寸前で引っかかっていて、日の光を浴び表面を宝石のように輝かせていた。
 爪先で小さな水溜りを蹴り上げ、学校への通い慣れた道を進む。幾つかの曲がり角を越え、クラクションを鳴らしながら走っていく車を避けて更に前へ。
 そしてふと、頬を撫でる春めいた風に気を取られ綱吉は歩みを止めた。
「あ……」
 河川敷の片側に、誰が植えたのか数年前から咲き誇る桜。並木、とまではいかないものの数本が片寄せあって並んでいる一画が広がっているのを見つけ、綱吉はつい口をぽかんと開いて景色に見入ってしまった。
 あとちょっとで満開だな、というところまで至っていたのを思い出す。昨日もこの道を通っている綱吉は、日々蕾を膨らませて弾けんばかりの薄紅色を露にする桜の行方を楽しみにしていた。ちょうど昨日は七部咲きというところまで来ていて、今週末が最大の見頃を迎えるだろう、と勝手に予測を立てていたのに。
 昨晩の風と雨にやられたのか、綱吉の足元に広がる水溜りには無数の花びらが散らばり、樹木の枝も蕾より無粋な茶色の樹皮ばかりが目に付いた。
 犬を連れて散歩の最中らしき人も、残念そうな顔をして去っていく。居並ぶ桜の根元に伸びる草花も雨に濡れ、葉先を枝垂れさせてどこか寂しげだ。
「散っちゃってる」
 完全に散りきっているわけではないが、蕾を広げていた大半は風に煽られてその可憐な花弁を地に落としていた。まだ固い蕾だけは辛うじて枝にしがみついて難を逃れていたが、無事な蕾の数はかなり少ない。
 これから本格的に咲き誇る時期だというのに、なんと勿体無いことか。花見だって予定はまだ先だ、折角皆で賑やかに開催しようとしていたのに、肝心の桜が散ってしまった後では味気なさ過ぎる。
「残念」
 けれど、散ってしまったものを再び咲かせるのも不可能。
 蕾以外でも少しばかり花は残っているが、五枚の花弁全てが無事なものは見付からない。距離を詰めて間近から見上げても、結果は同じだ。むしろ寂しいことになっている枝ぶりをありありと見せ付けられただけで、落胆の度合いは増しただけ。
 綱吉は左手を持ち上げ、表面が湿っている桜の枝に触れた。しっとりとした感触が指の表面を伝い、放して顔の前で手を裏返すと、うっすらと茶色い屑のようなものが指紋の間にこびり付いていた。
 ザッ、と耳の奥に風が響く。
「――っ」
 反射的に首を窄めて左手で頭を庇った綱吉の身体を、右から左に向かって強い風が駆け抜けて行った。
 頭上の枝がざわざわと波立ち、枝にしがみついていた僅かな桜の花びらさえも根こそぎ奪い取っていく。水溜りの表面が波紋を広げ、浮かんでいた花弁がゆらゆらと不安定に揺れ動き中には転覆して沈むものも。音が聞こえているのに壁一枚を隔てた世界のように感じ取れて、綱吉は目を閉じて自分の心さえ攫っていこうとする風を堪えた。
 いいようにいじられる髪が頬を、首筋を擽る。一瞬の出来事だったはずなのにとてもそうは思えなくて、綱吉は目を開けた後も暫くぼうっとその場に立ちつくした。
 見上げた桜の木の枝からは、木漏れ日が差し込んでいる。眩さに目を細め、綱吉は肺の中に沈殿していた息を一気に吐き出した。
「急がないと」
 急に現実が目の前に戻ってくる。あまり時間が無かったのを思い出して、彼は鞄を抱え直して並木道から外れ、アスファルトの固い地面へと場所を移した。
 学校までの道が遠く感じる。いつも駆け抜ける道なのに、雨上がりだからだろうか、今日は妙に全てが重くくすんでいるように見えた。
 不思議だな、と左右に視線を巡らせて道を行く。まだ早い時間だから、という理由だけではなく、学生は長期休暇期間だから、という理由だけでもなく、すれ違う人の数は普段よりもずっと少なく感じられる。息せき切らせて駆け込んだ学校にも人気は無くて、上履きに履き替えて廊下に飛び出すと自分の足音ばかりがいやに耳を打った。
 真っ白な、本当は灰色であちこち汚れが目立つのだけれど、兎も角その時は何故か全てが白に埋め尽くされているような印象を受けて、綱吉は靴箱を抜けた先で足が勝手に止まった。時間さえも停止してしまった気がして、息を呑む。
 人の気配がしない、薄暗い校舎。なにかを遠くに置き去りにしてきた錯覚が胸を打ち、呼吸が止まりそうになる。
 踏み出した一歩に呼応して鳴り響く足音に心臓が竦み、見知った場所なのに初めて訪れる気持ちに陥って綱吉は立ち竦んだ。
「よっ」
 だからいつの間にか背後に人が迫っていて、腕を伸ばせば簡単に触れられる近さまで来ていて、しかも持ち上げられた右手が綱吉の肩を打つまで、彼はその存在に気づけなかった。
「うわぁ!」
 完全に油断していた所為もあり、裏返った悲鳴は大仰なまでに静寂に包まれた校舎に轟いた。
 叫んだ方が驚いたなら、叫ばれた方も当然吃驚して目を丸くする。飛び上がって振り返った綱吉は鞄を胸に抱きこみ、バクバクと一瞬にして態度を表現させた心臓に冷や汗を流した。息苦しさは変わっていないが、その理由は大きく異なる。大きく揺れる前髪の隙間から覗く見開かれた瞳は、よれよれの白衣を真っ先に捉えた。
 彼はボサボサの手入れも行き届いていない髪を掻き回し、幾分下がり気味の目尻を細めて綱吉を見下ろしている。白衣の下には青摺色のダブルのスーツ、けれど皺が寄っていていつクリーニングに出したものなのかはさっぱり分からない。スーツから覗くシャツは鳶色、ネクタイは結んでいない。
「おいおい、大丈夫か」
 大袈裟すぎる程に驚いている綱吉へそう問い、頭にやっていた手を下ろした彼はそのまま肩を竦めた。
「ごめん、びっくりした」
「むしろ俺が吃驚だ」
「うん、だからごめん」
 いくら真後ろから声をかけられたといっても、綱吉の驚き方は尋常ではなかった。心を遠くに飛ばしていて、身体と乖離していたとでも表現するのか。ぽっかりと空いた胸の空洞に隙間風は絶えず吹き込んでいて、翳りを帯びた綱吉の表情に彼は首を傾げる。
 元気が無いな、と伸ばした指で眉間に浅く出来上がっていた皺を小突かれた。
「補習疲れか?」
「ま、そんなところ」
 ほんの少し背中を丸めて顔を近づけ、目を覗き込んできた彼の問いかけに綱吉は小さく舌を出して誤魔化した。
 とはいえ、半分は本当だ。実際のところ、いい加減補習続きの毎日には飽きてきている。勉強をするのが学生の本分だとは理解しているが、皆が遊び惚けているときに自分だけが机に向かって難問に頭を抱えているのは、正直不公平だ。
 だが文句も言っていられない。ひとりだけ二年生に取り残されるのは避けたい、せめて中学くらいはまともに卒業させて欲しい。
 友達と、学生らしく肩を並べて笑いあえる時間を大切にしたい。だからこそ、嫌いな勉強だって頑張ってみせる。
「沢田、教室いくぞー」
 廊下の真ん中を塞いでいるふたりを避け、数学の教科書と問題集、それからプリントをひとまとめに持った若い教師が歩いていく。すれ違い様に声をかけられて、綱吉は「はーい」と間延びした声を返した。
 二年生の時、数学はあの教師が担当ではなかった。けれど前に担当していた先生が、この春で勤務先の学校が移動になったので代わりに面倒を見てもらっている。まだ二十代後半で、熱意もあり教え方も上手い。女生徒からも人気が高く、綱吉も彼に教わるようになってから若干だが問題を解くスピードがあがった。
 分からなくても辛抱強く説明してくれるし、正解を導き出すとちゃんと褒めてくれる。良く出来たな、といいながら頭を撫でる仕草は時として小ばかにされている気にもなるが、努力を認めてくれているのだと思うと怒る気も失せるというもの。
「んじゃ、行くね。また」
「おう。……っと、待った」
「ん?」
 数学教師の後を追いかけようとした綱吉の肩を掴み、彼は綱吉を引きとめた。
 綱吉は首から上だけを振り向かせ、視線を上げる。それを塞ぐようにして伸びてきた白布に覆われた腕が、数秒してから引っ込んでいった。
 綱吉は訝しげに目を細め、相手を見詰める。その中間地点に留まった彼の指は、何か小さくて薄いものを摘んでいた。
「何処寄り道してきたんだ、お前」
「してないよ」
「花なんかつけて。どこの娘っこかと思うだろ」
「……」
 自分でつけたんじゃない、と反論しようとしたが一瞬考えてやめた。代わりに目も口も平たく引き伸ばしてうんざりした表情を作り出す、見た彼が不満げに顔を顰めさせた。
 彼が綱吉の髪から攫ったもの、それは桜らしき花びらだった。
「河川敷の桜、かな」
 彼の人差し指と親指とに挟まれた、うす紅色の薄い花弁。風に散って綱吉の頭に落ち、そのままだったのだろう。走って来たのに途中で飛んでいかなかったのは、表面が今朝方の雨で濡れていたからか。
「あー、あそこな。そういや、雨で大分散ってたな」
 彼もまた、彼処の側を通って学校まで来たのだろう。綱吉の簡単なヒントだけで場所を思い浮かべたらし彼は、視線を若干浮かせ気味に空いている方の手で自分の顎を撫でた。
「だね。満開前だったのに」
「ああ、けど」
 頷いた綱吉と視線を合わせる事無く、彼は鼻筋を指でなぞってから急に綱吉の頭に手を置いた。ぐしゃりと跳ね上がった髪の毛を押し潰し、無遠慮になで回して離れていく。
 首を竦めた綱吉が、体温の遠ざかった頭を抑えて顔を上げた。
 目が、合った。
「雨に濡れた桜ってのも、なかなか風情があっていいな」
 誰かが言っていた。
 桜は、満開だけが美しいのではない。二分咲きには二分咲きの、散り際には散り際の、それぞれ異なる美しさがあるのだ、と。
 毎日少しずつ蕾を膨らませ、少しずつ花を広げ、咲き誇り、散っていく。時の流れの中で二度と戻らない一瞬を、一歩ずつ刻みながらその時々の美を主張する。
 雨に散った花びらをたたえた水たまり、そこに浮かび上がる澄んだ青空。それさえも優雅で、美しい。
「……そんな、の」
 ただ花は咲くものだと思っていた。桜は、満開になった木を見るものと思っていた。
 咲く前とか、散った後とか、そんな桜には興味がなかった。
 けれど、違うのだろうか。見つめあげた先の彼が、呆然としている綱吉に向かって僅かに表情を緩めて目尻を下げた。
「お前らと一緒だな」
「――え?」
「どんな風になったって、お前はお前で変わらねーのと一緒ってこった」
 言わせるな、と小声で付け足した彼にまた頭を押さえつけられる。今度は容赦なく力を込めてきて、綱吉の首は堪えきれずに前につんのめった。視界が自分の足で埋まる、傍らを小さな何かが揺れながら沈んでいった。
 桜の、はなびら。
 散りゆくその潔さと、儚さと、美しさは。
 堅いつぼみをゆっくりと綻ばせ、膨らませ、内から外へ己が持つ最大の魅力を発揮して、弾けて、散る。
 お前はまだ五分咲きにもなっちゃいない、と揶揄する声が耳の奧に響いて、綱吉は頭を振り回して彼の手から逃げた。
 横へよろめき、二歩ばかり飛んで止まる。僅かに弾んだ息が胸の中を駆け回る、見つめる先の彼は口元に緩慢な笑みを浮かべて瞳を細めていた。
「シャマル」
「んー?」
「今日、この後暇?」
 急がなければ補習はいつまで経っても終わらない。今日の予定は巧く行けば二時頃で終わる、けれどもっと頑張れば昼をちょっと回った頃には全て片づくかもしれない。
 昼ご飯をひとりで、学校のがらんどうの教室で食べるのではない良い方法を思いついた。
「んー? 今日は新入生の健康診断用のカルテ作りくらいだから、暇じゃないが忙しくもないな」
「じゃあ、さ。お昼一緒に食べよう」
「は?」
「河川敷、花見にいこう」
 彼が言った、雨上がりの桜を見に行こう。満開ではないけれどけなげに嵐に耐えて咲き残った桜を見に行こう。
 きっと、どんな満開の桜よりも、綺麗だ。
 声を弾ませた綱吉に、一瞬虚をつかれた顔をした彼だったけれど、すぐに表情を取り戻して仕方ないな、と肩を竦める。
 呆れ気味の態度なのに、声は笑っている。
「なら、ちゃっちゃと補習済ませてこい」
「分かった!」
 背中を押すような勢いのある彼の声に、綱吉は大きく頷いてことばを返した。
 遠くからは運動部のかけ声が聞こえてくる、風が吹く音が窓を叩き、どこかではきっと桜の花びらが空に舞っている。
 その一瞬、一瞬を輝きながら咲き誇る花が散る。
「……ったく、よぉ」
 足音響かせて廊下を駆けていく背中を見送り、シャマルがひとりごちった。
 脂性の髪を梳き上げ、皮肉に歪めた口元を、けれどどこか嬉しげに緩めて目尻を下げて。
「お前の方がよっぽど、……まぁ、いいか」
 雨にも負けず、風にも負けず、嵐にも灼熱の炎にも屈しない。
 瞼を伏して空を仰ぎ見る。窓を隔てた先、その輝きはどこまでも目映い。

2007/4/3 脱稿