Durchschnallen Waltz

「これでよし、と」
 最後の皿を拭き終えて、棚に重ねて積み上げる。一仕事終えた達成感に溢れた心地よい疲れに息を吐き、ライは汗もないのに額に手を当てて拭う仕草をした。
 明日用の仕込みも大方終わっている、汚れた食器も全て片付けた。掃除は客が全員帰った後にやったから、テーブル周りは綺麗なもの。
 ライは手元を照らしていた大き目のランプから持ち運びできる小型のランタンに炎を移し変え、固定の方の火を吹き消す。ふっ、と一瞬大きく揺れた炎は消え去り、室内の影が揺らいだ後周囲は闇に包まれた。
 ランタンひとつでは自分の手元を照らすのがせいぜいだが、移動するにはこの程度で構わない。揺れる小さな炎を手に掲げ、ライはキッチンを回りこんで食堂のフロアへと出た。
 シンと静まり返った食堂は、昼の賑わいを忘れて幽玄の世界に佇んでいる。外から差し込む月明かりは明るいが、青白い光に包まれた世界は一歩踏み誤れば奈落の底に引きずりこまれてしまいそうで、何故か立ち入るのを躊躇させた。
 けれどオープンテラスにもなっている店の窓は、閉めておかなければならない。今は命を狙われることもなくなったが、保安上の問題だ。
 ライは深く息を吸い込んで止め、吐き出すと同時に歩き出す。居並ぶテーブルの隙間を蛇行しながら進み、仄明るい店内を横切って窓辺へと。
 ウッドデッキへ続く境界線で立ち止まる。見上げた空は暗い藍色に覆われて雲が見えない、その代わりに月がぽっかりと大きく、淡く輝いていた。星の姿も遠いのは、月が明るすぎるからだ。
 あの向こうに、嘗ての仲間たちはいるのだろうか。
 ライは小さく首を振り、カンテラを足元に置いた。開放感を与えてくれる、開かれた食堂の大きな窓を戸で塞いでいく。
 暫くの間、静寂を破るガタゴトと戸が動く音が彼の足元に沈んでいく。時折吹く風は夜気を含んで冷たく、ライの肌を遠慮なしに刺した。
 吐く息が数回に一度の割合で白く濁る。残る戸が一枚きりになったところで彼は手を休め、悴んだ自分の手に熱を込めた息を吹きかけた。
 水仕事を終えた後だから、表面は赤く染まっている。営業中に跳ねた油で出来た火傷の痕が右の親指の付け根に残り、そこだけ皮膚の色が他と異なって黒ずんでいた。痛みは無い、この程度の火傷は日常茶飯事だから逐一気にしてもいられない。
 そうしているうちに皮膚は厚くなっていって、同年代の子供の手に比べて随分とライの手は硬い。包丁を握り、そして時には剣も握る手はタコだらけだ。切り傷、擦り傷、火傷は当たり前、健康的に綺麗な肌をした日など一年に一時間としてありえなかった。
 特に少し前までは毎日が戦いで、本来は食材を刻むべきこの手で沢山の生きているものたちを切りつけ、血を流させた。
 人を生かし、活かすべきものを作り出すこの手が、誰かを傷つけていた事実は消えない。たとえ命を奪わなかったとしても、やったこと全てが許されるわけではない。
 無論自分が剣を取ったのは、身を守るためであり、仲間を守るためであり、信じるものを貫くためだった。
 理不尽な攻撃を受け、甘んじて倒れるなんてことはしない、したくない。己の身は己で守り抜く、不条理に屈したりはしない。それが、ライが父親から剣の技術と共に学んだ心だ。
 だが、果たしてこれでよかったのだろうか。
 日が経つにつれて、段々と記憶は色褪せていく。日々の忙しさにかまけて背中を預けた仲間たちを思い出す時間も、自然と減っていった。
 それと同時に、他に選びえた答えがあったのではないかという疑問が頭を掠め、時々手が止まるようになった。シチューをかき混ぜているうちに視界が濁り、何かと思えば意味もなく泣いていたこともある。理由は分からないし、考えたくもない。
 寂しいという感情は、とっくの昔に投げ捨てたのだから。
 今までひとりでやってきた、だからこれからもひとりで生きていける。
 賑やかで楽しかった日々は過去の綺麗な思い出として飾っておくに限る、懐かしんでいても仕方が無い。過ぎた時間は戻らない、仲間たちはそれぞれがそれぞれの役目を果たす場所へと戻っていったのだ。
 ここは、宿。つかの間の休息と安らぎとを与える、日常から隔離された非日常空間。
 だから、これでよいのだ。
「……っ」
 分かっている、頭では理解している。
 けれど感情が追いつかず、ライは木製の戸に右手を預けたまま俯いて首を振った。
 振り返った先に広がるのはがらんどうの、ただ広いだけの場所。一時期は狭いとさえ感じていたこの空間が、今はどこまでも沈んでいける深淵の入り口に思えてならなかった。
 静謐に抱かれた世界、今日も宿泊者はゼロだった。
 思わず苦笑いが漏れる、なんだよ始まりのその前に戻っただけではないか。
 食堂の顧客は固定客もついて、安定した軌道に乗っている。評価もかなりあがって、遠方からわざわざ足を運んでくれる人もいるくらいだ。
 昔の自分であったなら、それだけでも満足できたかもしれない。自分の料理を食べて嬉しそうに笑ってくれる人が増えた現実は、料理人として何ものにも替え難いご褒美だ。
 けれど、満ち足りないのは何故だろう。
 心が砕け散りそうなくらいに、隙間風に凍えている。
「こんなに……静かだったっけ」
 ちょっと前までは、夜更かしをして、子供に隠れてこっそり酒を酌み交わす大人たちがいた。
 人が忙しく走り回っている最中に台所へ忍び込み、作り置きしておいたデザートを盗み食いする奴がいた。
 ただでさえ経費を押さえてぎりぎりで営業しているというのに、余計な事をしてシーツを何枚も破いて無駄にする馬鹿もいた。
 仲間の多くは旅立った、元々この地に定住する人間以外は皆去っていった。
 それぞれの場所へ、求められる地へ、望む世界へ、見果てぬ未来へ。
 一緒に来ないか、と誘われた。けれど首が縦に振られることはなかった。
 自分は此処にいる、此処に生まれてここで生きる。この場所を守るのが自分の役目であり、目的であり、存在意義。だから動かない、動けない。
 間違っても一緒に行きたい、なんて言ってはいけない。
 ライの足首に絡みついた鎖は、ジャラジャラと不快な音を立てて彼を縛り付けている。動きたくても動けない、走りたくても走れない。
 自分で決めたことなのに、悔やんでいる自分が嫌い。自分で貫いたことなのに、揺らぎそうになっている自分が怖い。
 ひとりぼっちがこんなにも寂しいものだなんて、思い出したくもなかったのに。
「……」
 戸を掴む手に力が入る。荒れ放題の肌にささくれ立った木の表皮が突き刺さり、鈍い痛みと一緒に赤い血が滲む。毎日傷だらけの怪我だらけになっている彼の手へ、愚痴と説教交じりにクリームを塗りこめてくれていた人はもう居ない。
 新作料理を作るたびに、誰よりも早く飛びついて皿を空にした上、おかわりを強請る声も聞こえない。
 夜寂しくて眠れないからと人の布団に潜り込んできたくせに、朝になるまで絵本を読んでと甘えてきた小さな子もいない。
 正しい答えかどうかなんて、後になって見なければ分からない。その時はそれが正しいと信じて突き進んだ道を、今更後悔しても遅すぎる。
 左の頬を伝った熱にライは目を見張り、左手を持ち上げてそれをなぞる。顎から頬、頬から鼻筋、更に巡って目尻へと。
 見開いた瞳には月夜が映し出されている、淡く儚い輝きに、その向こう側にいる嘗ての友がもう見えない。
「ちくしょっ……」
 吐き捨てた言葉は、誰に向けられたものなのか。
 コン、とウッドデッキに小石が跳ねる。
 俯きながら目を閉じたライは、右手が軋むまでありったけの力を込めて戸を握った。壊れてしまっても構わない、と投げやりな気持ちで思いを叩きつける。ガタガタと不協和音が静かな夜に響き渡り、鼻を啜る音がそれに重なった。
 カタン、ともうひとつ、石が。
 ガタ、ガタン、と更に大きなものがぶつかり合う音が続く。
 流石にライも、気づいた。
「――え?」
「きゃぁぁぁぁぁ!」
 背中を丸めたまま首だけを持ち上げて、顔を前に向ける。瞬きを繰り返したライの耳に、更に闇を切り裂く可憐な(と言わなければ本人に怒られる)声が轟いた。
 ドカ、ズザザザッ、ドスン!
 立て続けに響いた騒音と、最後には物凄い衝撃が追加されて風が舞い上がり埃が派手に散った。顔を煽られたライは咄嗟に左手で顔を庇い、首も後ろに向けて口や鼻から潜り込もうとする砂を避けた。しかし一歩遅く異物が気管に潜り込み、咳込んだ彼は漸く右手を戸板から外して両手で口元を覆い隠す。
 いったい、何事か。物音は上から下へと一直線に駆け抜けて行った、足元を揺らした衝撃はその何かがウッドデッキに落下したときのもので間違いない。また隕石、ではなく卵でも降ってきたのか思いきや、濁った視界が晴れるのを待ったライの目に飛び込んできたのは、春の陽気を思わせる暖かなピンク色の髪をした女性だった。
 しかも落ちた時のポーズそのままで、頭が下に、足が上になっている。スカートの裾が捲れ上がり、ペチコートが丸見えだった。
 ライは目を丸くし、呆気に取られた後不意に我に返って顔を赤くしながら視線を外した。
「な、なにやってんだよ、ポムニットさん」
「えへへ、着地に失敗しちゃいました~」
 そこは笑いながら言うべきではない、と思う。ぺろっと可愛らしく舌を出した彼女は、そのままでんぐり返りの要領で身体を起こすとスカートの裾を両手で軽く叩き、まとわり付いていた埃を落とした。
 呆れ顔で、というよりはどちらかと言えばうんざりしている感じのするライにもうひとつ笑いかけ、彼女は右に大きくずれていた帽子のリボンを結び直す。これでよし、と自分に頷く様は在る意味滑稽というべきか、それとも立ち直りが早いと褒めるべきなのか迷う。
 頭が痛くなりそうで、ライはこめかみに指を押し当てた。
「着地って……どこから落ちてるんだよ」
 聞くまでも無いと思いつつも、一応念の為に確認する。渋い声を出したライに、彼女はトテトテと歩み寄ってきてからいつものように胸の前で両手の指を合わせた。
「そりゃぁ、もちろん」
 ライさんのおうちの屋根からです、と少しも悪びれた様子もなく、むしろ楽しそうに微笑んだ彼女の回答に、対照的な表情を作ったライは思い切り肩を落として溜息をついた。
 彼女が高いところも平気、それどころかこの程度の高さからだったら頭から落ちても怪我ひとつしないだろうというのは、ライもよく知っている。けれど今問題にすべきなのは、そこではない。金の派閥に所属する召喚師の屋敷に住み込みで働いているメイドが、何故こんな時間にひとりで、人の家の屋根から滑り落ちてくるのか。
 そちらが問題なのだ。
 まさか彼女が盗みを働きに来たわけではあるまい、そういう手癖の悪さが無いからこそ、今の今までブロンクス家でメイドとして雇われ続けているのだから。
 ならば何故。
 訝しみの眼差しを向けるライに、ポムニットは跳ね上がった毛先を指で抓むと、そこに挟まっていた埃を摘んで空中に放り投げた。息をそっと吹きかけ、遠くへと飛ばす。ライの頬にその息が掠めた、人の体温を感じた。
「今日はお月様が大きくて、綺麗だったので」
 何も言わず、何も聞かずにただ少しばかり鋭さを持った瞳をじっと見下ろし、彼女は胸元から手を下ろした。白の手袋に包まれた掌が若干所在無げにエプロンの前で揺れ動く。ライはその指先から視線を外し、彼女が言う月を見た。
 今にも落ちてきそうな、丸く巨大な月。淡い銀とも金ともつかない光を仄かにまとって、変わらずにふたりを見下ろしている。微笑んでいるようで、怒っているようで、泣いているようで、やっぱり笑っているようで。
 物言わぬ月に見入るライに、ポムニットは微笑んだ。
「お散歩してたんです。そうしたら、なんだか急にライさんに会いたくなって」
「俺に?」
「はい」
 だからと言って何故屋根から。まさか窓からもぐりこむつもりだったのではないだろうか、と懸念を抱いてから、ライは自分がさっきまで此処でひとり、どんな顔をしていたのかを思い出す。
 持ち上げようとした左手を先に制され、代わりに彼女の指が濡れた後が僅かに残る頬を撫でていった。
「……なんか、格好悪い」
 微妙に気まずくて、ライは唇を尖らせて呟く。そうですか? と首を傾げる彼女には分からないのだ、と拗ねているとまた彼女は屈託なく笑った。
「でも、私も似たようなものかもしれませんから」
 眠れないのは月が彼女を呼ぶから。おいで、おいでと魂の領域で目に見えない彼女の仲間が手招くから。
 霊界サプレスの悪魔と人との合いの子である彼女は、ライと同じ響界種。その事実を彼女はひた隠しにして来たが、それも少し前に公になってしまった。彼女が大切にしている、リシェルを護るために。
 彼女もまた、この地に残る道を選んだ。同じような境遇にある響界種たちが救いの地を求めて旅立っていったのに対し、彼女は自分を慈しんでくれたこの大地に愛着を抱き、リィンバウムに残った。
 後悔していないのだろうか、そう問いかける瞳に彼女は笑みで返す。
「だって、ここにはお嬢様やお坊ちゃまに、なにより、ライさんもいますから」
「……」
 臆面も無く言い放った彼女に益々顔を合わせづらくて、ライは頬を赤くしたままそっぽを向いた。
 ポムニットの指が離れていく、同時に人の体温も遠ざかっていった。彼女は腕を胸の前に戻し、それからウッドデッキと食堂内部とを繋いでいる狭い空間に目を向けた。床にはライが置いたカンテラが薄い光を放っている、足元に伸びる影は空からと地表からの二手に分かれふたりを中心に交差していた。
 片方は薄く、片方は濃い。折り重なって、木目の上に幾何学模様を描いている。
 寂しくなっちゃいましたね、とぽつりと独白した彼女の声が聞こえた。本人は声に出したのさえ気づいていないのか、ライが反射的に顔を上げて彼女に振り返ったのに、ポムニットは無反応だ。胸の前で指を結び、帽子に隠れ気味の瞳は遠くを見ている。
 ほんの数ヶ月の、けれどとても長かったあの騒々しく慌しい日々を思い出しているのだろうか。
 望まぬ争いに巻き込まれ、隠し続けてきた正体を知られ、護ろうとしたものに一瞬でも拒絶された彼女。元の姿に戻れないかもしれないと子供みたいに泣きじゃくり、そんな事は耐えられないと命を絶つ道さえ選びかけた彼女。
 けれど、と今その彼女は笑うのだ。
 生まれてきて良かった、育ててくれた母に感謝している。助けてくれたケンタロウや、素性の知れない自分を雇い入れてくれたテイラーにも。自分の正体を知っても、怖かったけれどポムニットはポムニットだと言い張り、抱き締めてくれたリシェルにも。
 誰よりも一番傷ついているのに、人のことばかりに気を回して損をしている、それなのにちっとも表に出そうとしない人一番頑張りやな、ライにも。
 だから自分は此処にいる。自分を認めてくれた人たちがいるこの場所が、自分の居場所なのだと。
 それに、と続けかけた彼女がふと何かに気づき、ライを振り返った。そのままずいっ、と顔を近づけてくるものだから、ついついドキリと心臓を鳴らしてライは後ずさった。
 しかし逃げ切るよりも早くポムニットの両腕は彼の肩へと回され、そのまま腕を巻き込んで背中へ落ちていった。悔しいが若干身長が負けているのもあり、容易に囚われてしまう。体力勝負では無論自分に軍配があがるのは分かっているが、いくら彼女が頑丈とは言え女性相手に乱暴なことは出来ない。
 大人しく捕まっていると、調子に乗った彼女が更にぐいぐいとライを自分に引き寄せる。柔らかなものが右頬に押し当てられて、これには流石に焦ったが。
「ポムニットさん!」
「はい、なんでしょう」
 だのに彼女は至って呑気に聞き返してくる。本人だって分かってわざとやっているに違いない、それを証拠にライが声を荒立てた途端、クスクス笑いながら更にライを自分の胸へと抱き込んだ。
 幼少期に母親に触れて以来、全く縁が無かったものが顔に押し付けられている。恥かしさと照れ臭さからライは身動ぎしたが、本気を出すわけにもいかなくて結局上手くいかなかった。
 最終的には諦める、抵抗すればする程柔らかなそこに顔を埋める結果になると悟ったからだ。
「えー、もういいんですか?」
「……俺で遊んで楽しい?」
 押し返そうとしていた手を地面に向けて下ろした途端、ポムニットはお気楽な声を出してそう尋ねてくる。もう言い返す気力も乏しかったライはどうにかそれだけを聞き返し、溜息をそっと零した。
 膨らみを間近で感じるのも恥かしくて、目を閉じる。闇に閉ざされた視界に、とくん、と何かが波打った。
 とても懐かしい、そして初めて感じ取る、なにか。
「知ってますか?」
 ライの頭を両手で優しく撫でながら、ポムニットの囁く声が響き渡る。
「え……?」
「心臓の音って、人が一番落ち着ける音のひとつなんですって」
 トクン、とポムニットの声に呼応するように耳元で響く音。
 一定のリズムを刻み、優しく深く、柔らかな音が伝わってくる。
「心臓の?」
「はいです」
 大きく頷いた彼女の髪がライの額に落ちてきて、肌を擽る。僅かに身をよじって瞳を上向けたライだったが、まるで視界を塞ぐ如く首を窄めた彼女の肩に邪魔されてしまい、今ポムニットがどんな顔をしているのか見えなかった。
 息遣いを耳元に感じる。甘えるように頬を摺り寄せると、青銀の髪に潜り込んでいた彼女の右手が肩へと落ちていった。
 体勢的に立場が逆なような気がする。薄目を開けて見つけた自分の手は傷だらけな上に、小さい。角張ってカサカサの、掴み取りたいものが未だに見付からない子供の手だ。
 泣いていた彼女を抱き締めてやることも出来なかった、幼すぎる手だ。
 ポムニットの心臓の音が聞こえる。生きているよ、此処に居るよ、そう囁いている声が聞こえる。
「ライさんの心臓の音も、聞こえますよ」
 幼子をあやす仕草にも似た動きでライの背中をさすり、彼女は小さく呟いた。
「俺の?」
「ええ」
 耳を澄ませても、聞こえてくるのはポムニットの息遣い、そして心臓の音。微かに虫の啼く声が響く、他には何も聞こえない。
 世界が、青白い月明かりと共に彼女に包まれていく。
「どんな音?」
「そうですねぇ」
 中空に視線を投げた彼女が、立てた人差し指を唇に押し当てて背筋を若干反らせる。
 解放された視界に彼女の細い肩が大きく見え、首を引いたライは手持ち無沙汰の自分の手を扱いあぐねながら彼女の顔を真下から見詰めた。
 赤い、鮮やかな瞳が月明かりを反射して薄く輝いている。ほんのりとピンクに色付いた唇は、考え事をしている最中だからか、咀嚼している時にも似た動きをしていた。

 呼吸のたびに柔らかな胸が浅く上下を繰り返していて、意識してしまうとどうしてもそちらに目が向く。距離を取ろうにも彼女の片手はまだライの肩から背中にかけてを包み込んでおり、不用意に動けば彼女の考え事を中断させてしまいかねない。
 彼女は心臓の音が人を落ち着かせるのだと言った。実際、さっきまであんなにも頭の中がぐちゃぐちゃになっていたのに、今はすっきりと一本芯が通ってしゃきっと伸びている感じがする。
 それは単に、彼女に抱き締められた所為でそちらに思考が傾き、余計な事を考えなくなったから、なのかもしれないが。
 ただ、もう涙は乾いて完全に消えていた。
 自分の心音もまた、彼女の心に安らぎを与えられるものであればいいのに。ふと、そう思う。
「ええっと、なんだか難しいですね」
 的確に表現できる言葉が見付からなかったのか、彼女はえへへ、と笑いながら片手で頬を引っ掻いた。そして腕を下ろすと今度は頭ではなくライの背中へ腕を回し、さっきほどではない力で彼を引き寄せる。
 抵抗もせずにすんなりと彼女の胸に治まったライは、赤い顔を隠して視線を伏した。
 心臓の音が聞こえる。
 彼女のものと、そして今は、自分自身の音も。
 最初はちぐはぐだったものが、いつの間にかリズムが重なり、ひとつになっていく。引きずられるのではなく、強制するわけでもなく、ただ自然に、そうなるのが当たり前のように、ふたり分の心音がひとつの音として胸に響き渡った。
 目を閉じる、懐かしい誰かに抱かれていた頃を思い出した。
「でも、とっても、安心出来て、それから、嬉しくなる音です」
 生きている、生きていく。この場所で、自分の足で立って、歩いていく。
「……うん、そうだな」
「でしょ?」
 同意して頷くと、頭上からは弾んだ明るい声。肩甲骨の中間辺りで結ばれた彼女の手がライを引っ張り、顎が胸の谷間に沈んだ。頭の上に彼女の存在を感じる、乗りかかられたらしい。
 いつかこの身長差、絶対逆転してみせる。
 ぶつぶつと愚痴を零していると、柔らかな彼女の髪が頬に落ちてきた。それを掬い上げ、彼女の肩から後ろへ流すついでにそのまま背伸びをする。
 腕に力を込めると、重なり合った心音が更に近くなった。
「ライさんは成長期ですからね~、直ぐに追い抜かれちゃうかも」
「任せろ」
 耳の横で響く声に自信満々で頷けば、身体を揺すりながらポムニットは笑った。
「はい、お待ちしております」
 今はまだ、傷だらけの小さな手でしかないけれど。
「私は、ライさんの隣が、私の生きていく場所ですから」
 笑い止んだ彼女がそっと囁いた言葉を守り通せるくらいには、大きくなりたい。
 追いかけて来い、と言った自分が実は追いかけている、だなんて格好悪いから口が裂けてもいえないけれど。
 並んで歩けるくらいには、いつか。
 いつか――

2007/4/1 脱稿