万愚節

 遠く、そして段々声が、足音が近づいてくる。極めつけはバンっ、と勢い任せにドアを開け放つ音。
「たいへーん!」
 綱吉が声に反応し、ゆるゆると持ち上げた瞼の奧の瞳が光に包まれた世界を写し取る、その少し前に。
「ツナー、大変たいへーんっ!」
 不躾に、大声で喚きながら幼子がベッドに飛び上がって来た。
 どすん、といくら体重の軽い六歳児であっても勢いをつけて圧し掛かられては、「ぐえ」と蛙が潰れるような悲鳴もあがるというもの。
 しかも腹部を直撃だ、瞬間的に息が詰まり鳩尾に強烈な痛みを感じて綱吉はベッドの上で背中を跳ね上げ、自分の上に飛び乗ったランボごと身体を横倒した。
 腕の中のランボはまだ大変だ、大変、と叫んでおり、目覚めてから一瞬で眠気もどこかへ消し飛んでしまった綱吉は、安眠妨害も甚だしい彼の頭を思い切りシーツへと押し付けた。モコモコの髪の毛が指に絡み、爪の先に硬いものが触れる。また変なものをそんな場所に隠し持っているな、と冷や汗を心の中で拭い、綱吉は呼吸困難に陥る寸前でランボから手を放した。
 ぷは、と元気良く顔を持ち上げた幼子の鼻水がシーツにべったりと染みを作っている。確かこれは一昨日洗濯したばかりではなかっただろうか、と若干曖昧な記憶を振り返って綱吉はがっくりと肩を落とした。
 窓にかかるカーテン越しに、朝の明るい日差しを感じる。いったい何が大変なのか、と綱吉よりずっと早起きで、かつ元気いっぱいのランボを見下ろす。寝癖のついた頭を手で掻き毟り、少しだけ戻ってきた眠気に欠伸を零した。
「えっとねー、ツナ、大変なの!」
「だから、何がどう大変なのさ」
 そこからちっとも話が進まない。子どもであるが故に要点を掻い摘んで喋るのも難しいのか、さっきから同じ単語ばかりを繰り返しているランボに肩を竦め、綱吉は話の先を促した。しかし視線はベッドの上、シーツを濡らす鼻水に向いたままだ、よく見れば掛け布団にまで付着してしまっている。
 今日は良い天気のようだから、奈々に頼んで洗ってもらうしかなさそうだ。溜息を零した綱吉は、ベッドから降りようと膝を折って、腰を軸にして九十度身体を回転させる。太股にぶつかりそうになったランボが、タイミングを見計らってぴょん、と綱吉の膝に飛び乗った。
 顔はあくまで、上機嫌に。
「ツナ、雪だ!」
「は?」
「ゆーきー!」
 寝相が悪い所為で乱れているパジャマの襟元を掴み、腕を揺らしてランボが叫ぶ。
 雪、とはあの冬に降るあの雪のことだろうか。ランボは興奮しきりに顔を紅潮させており、鼻息も荒く時々汁が飛び散って汚い。本人は綱吉の身体を前後に揺らしたいのだろうが、体格差がありすぎて綱吉は服を引っ張られている程度にしか感じなかった。
 真に迫ったランボの様子に、怪訝に顔を顰めて眉を寄せる。
「雪?」
「そう、雪!」
 一応問い返してみるが、間髪入れずにランボは人差し指を天井に突き上げてひと声叫んで返してきた。
 だが、今はもう三月も後半――いや、今日からもう四月だ。雪の季節はとっくに過ぎており、最近は陽射しも穏やかでぽかぽか陽気が続いていた。部屋の中も寒くもなく、暑くも無い快適な温度が維持されている。
 だから綱吉は、ランボがテレビかなにかで見た映像に興奮しているだけだろうと思った。膝から彼を下ろし、半分だけ裾がはみ出ていたパジャマを全部引っ張り出す。前ボタンを外して着替えるべく動き始めた綱吉だったが、後ろではまだランボがしつこいくらい、じたばたと叫びながら暴れている。
 そこまで言われると、信じてしまいたくなるのが人間の性か。
「本当に雪なんて降ったの?」
「ほんとう、ほんとのほんとうだってばー」
 疑わしげな目線を投げつけて再度尋ねる、答えは先ほどと殆ど同じだ。
 だが三月に雪が舞ったこともある、四月に入ったばかりとはいえここ数年は異常気象も色々と騒がれているから、もしかしたら……という疑念が綱吉の頭を過ぎった。
 一応確かめてみるか、と綱吉はボタンをふたつ外したところで手を止めた。
 パジャマを肌蹴させたまま、数歩の距離を大股に詰めて窓辺に寄る。ベッドには背中を向けているので、ランボがこっそりと開け放ったままのドア前まで移動しているのに綱吉は気付かない。
 薄い水色のカーテン越しに眩しい太陽の輝きが感じられる。額がほのかに温むのを受け止め、綱吉は目を細めたまま窓を覆い隠す布に手をかけた。指二本で抓み、一気に真横へと引っ張る。
 滑りの良いレールに鋭い音が走り、綱吉の視界が一瞬光に埋もれた。輪郭さえも捉えきれない眩さに瞳を眇め、カーテンから外した手をそのまま顔の前に持ち上げて庇代わりに使う。窓ガラス越しに現れた空は青と白のコントラストが美しく、無粋な電信柱が黒い線を縦横無尽に走らせていた。
 視線を下方へと転じる。
 黒いアスファルトで覆われた大地に、庭先の緑が少し寂しい。
 無論、雪なんてどこにも見当たらない。
「――あれ?」
「やーい、だっまさっれたー」
 狐につままれた顔をして瞬きを繰り返した末、改めて窓の外を凝視した綱吉の背後から、床をけたたましく踏み鳴らすランボの陽気な歌声が轟いた。見れば彼は小さな身体を大きく広げ、嘗て無いほどに嬉しそうに声を弾ませている。
 綱吉ははしゃいでいる彼から視線を外し、再び窓の外を。当たり前のような晴天が際限なく広がっており、ランボの「騙された」という単語と目の前の現実がぴたりと重なり合った。
 つまり、一杯食わされた、と。
「ランボ!」
「ツナのばーっか!」
 今日は嘘ついても良い日だもんねー、と握り拳を震わせた綱吉にランボは捨て台詞を吐いて一目散に部屋から飛び出していく。足音は騒がしく、だが階段を下りられてしまうともう聞こえない。やり場のない怒りだけが綱吉の手元に残されて、彼は悔しげに唇を噛むと固く結んだ拳に息を吐いて腕を下ろした。
 一部始終を見ていたリボーンが、ハンモックを片づけながら部屋の隅で肩を竦める。
「エイプリル・フールに化かされる奴は馬鹿の極みだぞ」
 ぽつりと呟かれた痛すぎる嫌味に、綱吉はあんな小さな子どもにまで騙された自分を呪いたくなった。
 

 四月一日、通称エイプリル・フール。
 一年で一度、悪意の無い嘘をついても許される日。
 世界中のあらゆるメディアで、一年を象徴するジョークが展開される日。
 普段はお堅いニュースが多い新聞も、この日ばかりは出鱈目を並べ立てて読者を笑わせる。テレビ番組もこぞって嘘のニュースを流して世間をあっといわせる。
 過去にそのニュースが本当だと誤解されて大騒ぎが起きた年もあったらしいが、それはそれでご愛嬌だと今となってみれば笑いの種だ。
 綱吉だってこの日にそんな風習があるのを知らないわけではない、今日が四月一日だというのもちゃんと理解していたのに。
 恨めしげに壁掛けカレンダーを見詰める。昨晩眠る前に破ったばかりのそれは、真新しい面を表に出して綱吉を正面から睨み返していた。
 後から冷静に考えてみれば、ランボのあれは嘘だと直ぐに分かったはずだ、実際最初は綱吉も疑っていた。けれどあまりにもランボの演技が真に迫っていて、ついつい鵜呑みにしてしまった。寝起きで判断力が鈍っていたというのもある、騙されたのは正直悔しい。
 かといって、人を騙して笑えるほど綱吉も幼くない。
 もうあれは、子供の無邪気な悪戯のひとつだと諦めるほかなさそうだ。さっさと忘れてしまった方が良い。
 着替えを完了させ、綱吉は時計に目を向けた。春休み期間中の、それも日曜日の折角の惰眠を邪魔されたお陰で、当初の計画よりも一時間以上早い目覚めになってしまった。文字盤は九時台を指し示している。今日は出かける予定もないのにこの時間に起きても、することが無くて困ってしまう。
 だがそれを口に出せばリボーンに勉強しろ、修行しろと口やかましく言われるだけなので表面には出さず、わざとらしい欠伸を噛み殺して綱吉は丸めたパジャマを小脇に抱えた。ランボが開けたままになっているドアを潜り抜け、洗面所へと向かう。
 顔を洗いうがいをし、髪の毛に櫛を入れて、裏返っていた襟を鏡の中の自分を覗き込みながら直す。跳ね返って治まらない髪を数本指で抓み、仕方が無いなと苦笑して肩を竦め、踵を返して今度は台所へと向かった。
 他の子供たち、そしてビアンキは既に食事が終了しているようで、テーブルの上にはひとり分の朝食だけが残されていた。コップを取って牛乳を冷蔵庫から取り出して注ぎ、飲みながら席に着くと湯気を立てたポタージュが奈々から差し出された。
 食パンを一枚取り出してトースターに入れて、タイマーをセットする。
 のどかな日曜日の、少し遅めの朝食。たっぷりとトーストにジャムを載せてかぶりつき、時間をかけてゆっくりと食事を楽しむ。
 今日は目覚めると同時に疲れてしまった。このまま何事も起こらずに穏やかに一日が過ごせたらいいな、とのんびり構えながら綱吉は空っぽになった皿をひとつにまとめ、流し台に片付けた。
 振り返ると隣の部屋からはランボとイーピンがはしゃぐ声が聞こえてきて、そこに微かにフゥ太の声も混じっている。ゲームでもやっているのだろうか、ぎゃはは、と笑うランボの声が一際大きく響いてその元気の良さが在る意味羨ましかった。
 様子を覗き見るとやはり三人はボードゲームに興じていて、リボーンはビアンキの膝に抱かれて窓辺で日向ぼっこの真っ最中。その向こうでは奈々が洗濯物を庭で干している背中が窓越しに見えた。
 なんでもない平凡な休日の光景だ。この様子だとリボーンも綱吉に無茶な注文をしないだろう、ランボも朝の一件で満足したのか、下手な嘘を振り撒いている様子もない。
 ただ髪の毛の膨らみがいつもより大きいところが二箇所ほどあったので、もしかしたら似たような嘘をリボーンについて、逆に怒られたのかもしれなかった。
 気が付けば起きてから既に一時間は楽に経過している。少しくらい宿題を片付けておくか、と台所から廊下に出た綱吉は、腕を頭上に高く掲げて背筋を伸ばした。
 天気も良いし、どこかへ散歩するのも悪くない。どうしようかな、と階段をリズムよく登りながら考える。そしてリボーンが閉めたのだろうドアを開けて部屋に入り、何気なく机の上に放置してあった自分の携帯電話を見た。
 緑色のランプが明滅している。
「あれ?」
 首の後ろを指で引っ掻きつつ、急ぎ足で机へと向かう。中学入学当初に買って貰った電話は、もう大分型も古く表面も塗装が剥げており、角は金属部分がむき出しになっている。けれど初めて手に入れたものであり、友人から送られてきた沢山のメールも保存されていて、なかなか新しい機種に交換することが出来ずに居た。
 奈々も、そろそろ新しいのにしたら、と彼女の前で二つ折りのこの携帯電話を広げるたびに言うのだが、綱吉は未だに踏ん切りがつかない。綱吉は色の薄い緑のランプに目を細め、解放されたままでいたカーテン越しに窓辺に寄って灰色のそれを広げた。
 購入当時では最新タイプだった大き目の液晶画面に、着信とメールが到着しているという表示がふたつ一緒に並んでいる。誰からだろう、と素早く左手の親指でキーを操作し画面を呼び出すと、太めの文字で出てきた名前はあの人のものだった。
「なんだろう」
 日曜日に呼び出しを受ける謂れはないのだが、といぶかしみつつ、着信画面を消して今度はメールボックスを呼び出す。着信時間は今から大体三十分ほど前、綱吉が呑気に朝食に舌鼓を打っていた頃だ。
 留守番電話への録音は無い。親指操作で最新のメールを開くと、表示された文字は至極簡潔だった。
 簡潔すぎて、逆に何が言いたいのかが良く分からない。
 それでも一番の用件は、理解できた。
「……ヒバリさん……」

     『学校、屋上』

 文字を読み取ると同時に、ドッと疲れが押し寄せてくる感じがして、綱吉は携帯電話を手にがっくりと頭を垂れた。
 メールが送信されている時間は、着信からほぼ一分以内。電話に出ない綱吉に痺れを切らしている人物像が想像できて、綱吉は肩を落としたまま前髪を掻き上げた。
 大体春休みの日曜日、午前中から、何の用があるのだろう。しかも指定されている場所は学校だ、正直休日にまであそこには行きたくない。けれど。
「行かないと……後で何されるかわかんないからな~」
 学校に呼び出された憂鬱よりも、そっちの方が正直恐ろしい。彼の凶悪無比ぶりは郊外にまで知られているくらいで、死ぬ気弾なしの綱吉でどうこう出来る相手ではないのは確かだ。
 仕方が無い、と画面を閉じて彼は溜息をひとつ零し、窓辺から離れた。学校に行くのだから制服を着ていかないと怒られる、クローゼットを開けて明日までお役御免のはずだったそれをハンガーごと取り出した。
 後ろでピピピ、と軽い電子音。振り返ればベッドの上に放り投げた自分の携帯電話のランプが点滅している。
「はいはーい、なんですかー」
 制服を手に戻り、音が止んだ端末を拾って親指で広げる。げっ、と彼の表情が瞬間青褪めた。

     『まだ?』

 思わず制服と携帯電話を両手に抱いて窓の外に視線を向けてみる。無論、あの人の姿はそこにない。
 待っている、のだろうか。
「……もう」
 仕方が無いな、と心の中で呟いて電話を閉じる。
 手早く制服に着替えた綱吉は、ネクタイの結び目がぐちゃぐちゃになっているのにも構わず、携帯電話と財布だけをポケットに詰め込んで部屋を飛び出した。勢い任せに階段も残り三段のところでジャンプして、靴も緩んでいる紐を締め直さずに玄関のドアを開けた。
 右向こう側では奈々が、干し終えた洗濯物を前に満足げに笑っている。
「あら、どこかいくのー?」
「うん、ちょっと出てくる!」
 吹き抜けた風に前髪が攫われる。思わず首を引っ込めた綱吉は、奈々問いに短く返してアスファルトの道を強く蹴り飛ばした。縁側のビアンキだけがちらりと綱吉の背中を見詰め、膝の上で気持ち良さそうに寛いでいるリボーンの頭を撫でる。
 日頃から綱吉の鬼家庭教師として知られる彼も、今日ばかりは赤ん坊の気持ちに戻っているのか、日向で心地よさげに鼻ちょうちんを揺らしていた。

 学校の正門は、部活動に参加する生徒のために少しだけ解放されていた。
 最悪門を乗り越えなければならないかと危惧していた綱吉だが、これ幸いと狭いスペースに身体を滑り込ませて校舎へと駆け込む。
 電話に残っていた着信履歴の時間から、そろそろ一時間が経過しようとしていた。
「ああ、もう!」
 どうしてこういう日に限って、通学路が工事で閉鎖されているのだろうか。電線の張替えだとかで大型トラックとクレーン車が道を占拠しており、通行止めになっている脇を無理矢理通り抜けようとしたら見付かって、思い切り怒られてしかも説教までされてしまった。
 急いでいるのに、と恨めし気に工事現場の監督者らしき人を睨みつけた、その綱吉の態度が気に食わなかったらしい。目上の者に対する礼儀がなっていない、とこってり絞られた。
 お陰で家を出た時に軽く計算した到着時間より、余裕で十五分近く遅れてしまっている。
 雲雀の我慢は既に限界に達しているのではなかろうか、これでは折角出向いたのに意味が無い。また殴られるかな、という恐怖と同時に、自分ばかりがどうしてこうも理不尽な目に遭わなければならないのか、という怒りが次第にふつふつと綱吉の胸に滾り始めた。
 元はといえば、身勝手な振る舞いをして人を振り回す雲雀が悪いのだ。彼が呼び出しさえしなければ、綱吉は今でも家でのんびりと寛いでいられた。携帯電話など見なければ良かった、日曜くらいゆっくりと自分の時間を過ごさせて欲しい。
 やっぱり文句のひとつも言ってやる。そう心に固く誓って、綱吉は最後の階段を駆け上り屋上へ続く扉を押し開けた。
 密閉された薄暗かった屋内から、風が騒々しい晴れ渡る空の下へ。一気に明度が増した前方に瞳が焼かれ、視界が白に染められる。反射的に息を呑んで目を閉じた綱吉は、風の中に微かに感じ取れる人の気配に首を揺らした。
 結び目が緩いネクタイが、白いシャツの胸元で踊っている。ズボンからはみ出た制服が風を含んで膨らみ、そして凹んで胸を打つ。
「遅い」
「なっ……」
 憤然とした態度を崩さない人物が、腕組みをして扉の直ぐ横に立っていた。
 綱吉は扉から手を外し、絶句する。背中に戸が閉まる音が重苦しく響きながら、あまりにもあんまりな台詞を吐いただけの彼に地団太を踏んだ。
 人が折角、息せき切らして階段を駆け上ってきたというのに、顔を見るなりその態度はなんだ。
「遅いって、大体ヒバリさんが一方的に」
 人を呼びつけたくせに。
 頭の中に朝のランボの挙動が蘇る。まっさらな四月のカレンダー、その初日を飾る今日。
 新しい年度が始まる、一年に一度きりの嘘が許された日。
 我ながら子供っぽい仕返しだと思う、けれど言わずにいられない。
 雲雀は扉前で立ちつくしている綱吉を置き去りに、屋上を囲むフェンスの一角に足を向けてそこで膝を折った。頭上を飛行機が低い位置で飛んでいく、轟音が比較的近くに感じられて、風が吹いた。
 綱吉の襟、ネクタイに絡みつき悪戯をして去っていく。吐き出した息は綱吉に覚悟を促し、吸い込んだ息は彼に勇気を与えた。
「何してるの、こっち」
 早く来なよ、とコンクリートの上にしゃがみ込んだ雲雀が自分の横の何も無い空間を叩く。
 大体、いつも偉そうに人に命令ばかりして。我が儘だし、言い出したら聞かないし、一方的で人の話にも全然耳を貸さないし、強引だし、勝手になんでもひとりで決めてしまうし、人を振り回してもちっとも悪びれないし。
 どうして自分はこんなはた迷惑な人の言うことに、いちいち一喜一憂しなければならないのか。
 握り締めた拳が震える。これまで積み重なってきた無数の我慢がひとつの塊を形成し、導火線に火がついて爆発寸前だった。
「綱吉?」
 どこか様子が変なことに、雲雀も気付いたのだろう。左手を足元に置いたまま顔をあげ、元から細い目を更に細める。
 艶やかな黒髪が風に靡いている。喉元できっちりと結ばれているネクタイが、綱吉を笑っているようだった。
「俺は」
 顔を上げた正面には、この学校の最高権力者として君臨する人物。
 こんなことを言って、自分が無事で済むはずが無いと心の中で警告が発せられている。けれど、煮えたぎったマグマは綱吉の中で暴走を開始して、ついに言葉に載せて吐き出された。
「俺は、ヒバリさんのことなんか嫌いです!」
 腹の底から吐き出した言葉に、自分で眩暈がした。
 まさか本当に言えてしまうとは思っていなかった綱吉は、自分が今の今発した言葉を脳裏に思い返し、目を見開く。唇が震えて上手く閉じられず、間違って噛んでしまってその痛みに喉が引き攣った。
 吐く息が熱い、吸い込む酸素が苦い。自分で言った内容が信じられずに目を丸くして、綱吉は狼狽しきったまま正面を見た。
 右の膝を軽く曲げて胸元に引き寄せ、雲雀はその姿勢のまま座っていた。彼もまた僅かに目を見開き、瞬きするのも忘れて綱吉を凝視していた。薄く開かれた唇からは何の音も発せられない、時間が止まった錯覚に陥って綱吉は呼吸を止めた。
 唾を飲みこむ、その仕草で意識が弾ける。
「へえ?」
 ゆっくりと両腕を持ち上げ、曲げた膝の半月板に載せて指を結んだ雲雀の、第一声がそれ。
 瞬間背筋が震え上がり、綱吉は言いようの無い恐怖に襲われて全身の毛を逆立てた。首の後ろがチリチリと痛む、体のあらゆる場所から汗が噴き出て爪が勝手に反り返りそうだった。鳥肌が立ち、寒くも無いのに奥歯が震える、膝が震えて気を抜けば簡単に崩れてしまいそうだ。
 剣呑な色に揺らいだ雲雀の目が、実に愉快だと言いたげに歪んだ。右手の親指を立て、下唇に押し当てる。捕食者、そんな表現がぴったり当てはまりそうな野生の獣の視線が綱吉の内側を抉りだす。
「――だっ」
 しまった、失敗した。どう言い訳しよう、そればかりが綱吉の頭の中を騒音目まぐるしく駆け回っている。だが混乱すればする程冷静さとはかけ離れた状況に綱吉は追い込まれ、そんな状況で考えがまとまるわけもなく。
 今すぐ謝らなければ、冗談です、とその一言さえ発せられたら。けれど彼は質の低い冗談は嫌いだ、火に油を注ぐ結果にもなりかねない。ならばどうする、今日がエイプリル・フールだと本当の事を言うべきか。けれどそれでは自分がさも彼の事を好きだと言い張っているようなものだ、仕返しをしたかったのにこれでは意味がない。けれどこのまま放置していたら雲雀に嫌われてしまう、どうしよう、どうするのが一番良い?
 ぐるぐると頭の中に渦を巻いた綱吉に、やがてどれくらいの時間が過ぎただろう。
 いきなり、雲雀が噴出した。
「――なっ」
 今度はいったい何なのか。雲雀は口元に手を押し当てて懸命に笑いを堪えている。けれど我慢しきれない笑い声が溢れ出し、やがて腹を抱えて彼は後頭部をフェンスに押し当てるくらいに身体を仰け反らせた。肩が激しく震えている、跳ね上がった踵が何度もコンクリートを叩いて、何故彼がそこまで大笑いしているのかも分からず綱吉はただおどおどするばかり。
 泣き出したい気持ちがこみ上げてきて、綱吉は唇を浅く噛んだ。持ち上げた両手が意味もなく空気を叩く、雲雀の笑い声は長い間その場所に留まって、静かに消えた。
「綱吉」
 目尻を指で拭った雲雀が、名前を呼ぶ。
「……っ」
「おいで」
「でも、だって、俺」
「嘘だろう?」
 不遜な態度で言い切った雲雀に、綱吉は硬直した。
 彼の口元にはまだ微かに笑みが浮かんでいる、けれど真っ直ぐ綱吉を見詰める目は先ほどまでの凶悪な輝きをすっかり打ち消して、綱吉が良く知る、綱吉だけが知っている優しい眼差しに切り替わっていた。
 胸の前で握り締めていた拳を解き、綱吉は制服のズボンを握り締める。
「……なんで、嘘だって、分かるんですか」
「僕だって、カレンダーくらいは見るよ」
 クスクスと小さく笑いながら雲雀は左足を前方に大きく投げ出し、背中をフェンスに預けて座り直した。
 つまりは、彼もまた今日が何の日かを把握していた、という事。最初から全部見抜かれた上で、綱吉はからかわれたのだ――ランボのみならず、雲雀にまで。
 騙したはずなのに、騙された気分に陥って、綱吉は唇を尖らせる。すると彼はまたひとつ、声を立てて肩を揺らした。
「それで? うそつきな悪い子には、お仕置きが必要かな」
 口元から手を外した彼の瞳は深い森の静けさを思わせる漆黒で、胸をどきりと跳ねさせた綱吉は赤い顔を誤魔化そうとそっぽを向いた。
 手が自然と後ろに回り、腰のところで結ばれる。指を互い違いに絡めて爪を弄り、見上げた空には飛行機雲が一直線に南を目指していた。
「きょ、今日は嘘ついても良い日なんです」
「うん。でも」
 若干どもりながら言い返した綱吉に、雲雀は手招きをして言葉を繋ぐ。少しだけ気持ちが落ち着いた綱吉は、深呼吸を二度繰り返してから突っ立っていただけの足を前に動かした。
 フェンス前に座っている雲雀の、左斜め横に座る。何故か正座だった。
「でも?」
「うそつきは泥棒の始まり、って言うしね」
 意地悪く細められた瞳に間近で見詰められ、綱吉は無意識に唾を飲んで喉を鳴らした。
 雲雀の右手が持ち上がる。中空を撫でた指先がツ……と上を向き、綱吉の顎を下から持ち上げた。そのまま視線が合って、綱吉は反射的に目を閉じる。
 触れられたのは、額だった。
「それに君は」
「……?」
 間近から覗き込む瞳に吸い込まれそうだと思った。
 半端に途切れた雲雀の台詞に、綱吉は顎に彼の指を置いたまま首を捻る。触れられた額が風を受けて少し、冷たい。
 彼は不思議そうにしている綱吉に淡く微笑みかけ、それ以上の言葉を封じた。代わりに顎にやっていた人差し指を裏返し、むき出しの喉を撫でて粗いネクタイの結び目を弾いた。隙間に指を差し込む、そのまま下に引っ張ると細い布地は簡単に解けていった。
「ヒバリさん?」
「うそつきは、地獄に落ちて閻魔大王に舌を抜かれる」
 綱吉のネクタイを弄り、指に絡めて襟から抜き取った彼が声を潜める。怪訝に眉を顰めた綱吉に挑発的な目を向けた雲雀は、完全にネクタイを引き抜くとそれを己の手首に絡みつかせて先端にキスをひとつ落とした。
 仄かに綱吉の顔が赤く染まる。自分のものにそんな風に触れられると、自分のもの全てが彼の所有物だと主張されているように思えてしまう。
 くっ、と喉を鳴らした雲雀が笑う。拗ねた様子を隠さない綱吉の額を額で小突いた彼に首が揺さぶられ、綱吉は上半身を揺らめかせてそろそろ疲れてきた正座をだらしなく崩した。
「それに君は、随分前に僕の大事なものを盗んで行ったしね」
「え?」
 そう、だっただろうか。
 突然言われたことに綱吉は驚き、目を丸くして素早く瞬きを繰り返した。
 目の前の雲雀をじっと見詰めるが、彼はまたしてもそれ以上言葉を継ごうとしない。口元に綱吉のネクタイを巻きつけた手を寄せて、滲み出る笑みを押し殺せずに肩を震わせている。
 益々分からない。綱吉は頻りに首を捻り、彼を見詰めた。
「あの、それとこれと」
「だから君は、地獄行き」
 でも、と死の裁判官を気取った彼がそこで一度息を止める。
 垂直にそそり立った人差し指が彼の唇に押し当てられた。綱吉もついつられ、言いかけた言葉を飲み込む。瞳は真下に滑り落ちていく彼の手と、絡んだ臙脂色のネクタイの動きを追っていた。
「君を閻魔大王なんかに渡すのは癪だから」
 雲雀の右手が膝に落ち、跳ねる。掌を下にして裏返ったそれは綱吉の膝に触れ、そこで止まった。
 はみ出た白いシャツの裾を掴まれる。軽く引っ張られ、気づいた綱吉が顔を上げた。
 息が触れる距離に、彼が居る。
「僕が今ここで、君の舌を抜いてしまおう」
 見開いた目に雲雀の長い睫が映る。閉じるのを忘れた唇から差し込まれた舌が、綱吉の表面を柔らかく撫でて包み込んだ。

 お腹がすいた、と言ったら不愉快な顔をされてしまった。
 けれど時間はもう昼時を過ぎている、いくら朝食が遅めだったとはいえ、空腹感は否めない。
 シャツのボタンを嵌めて、弛みを伸ばす。朝には無かった無数の皺と、屋外のコンクリートで擦った汚れが否応なしに目立ってしまって格好が悪い。
 なんだか胸元がスースーするな、と思って襟元を弄っていたら、頭の上にネクタイが飛んで来た。
「わっ」
「ネクタイくらい、ちゃんと締めてきなよ」
「ほっといてください」
 確かに時間が無かったので結び方がなおざりになったのは認めるしかない。けれどそれだって、基をただせば雲雀が急に呼び出したりするからだ。
 まだ? なんていう文面を見せられて、焦らないほうがおかしい。
 口を尖らせて不満を表明すると、黙れといわんばかりに伸びてきた手で横から挟まれる。アヒルの嘴のように唇が曲がって、綱吉は首を振って慌てて逃げた。
 頭の上から落ちてきたネクタイを掴み、襟の下にもぐりこませる。途中で捩れているのを直しながら左右の長さを揃えていると、向かい合っている雲雀もまた緩んでいたネクタイを一度解いて結び直そうとしていた。
 手際よく、綺麗に結び目を形作って手を放す。どうしたらこんなにも手馴れた動きが出来るのだろう、と未だに上手く結べない自分が悔しく思えた。
 視線に気づいた雲雀が顔を上げる。なに、と目で問われて綱吉は咄嗟に顔を逸らした。
「何か食べに行くかな」
 裾の汚れを払って先に立ちあがった雲雀が、もたもたしている綱吉に尋ねるというよりは自問に近い声で呟く。
 結局、彼もお腹が空いているのだ。意識したら腹の虫が鳴りそうで、綱吉はシャツをスラックスに押し込むついでに臍の辺りを撫でる。仄かに暖かいのは、気のせいではない。
「そういえば、さっき俺が盗んだどうこう言ってましたけど」
 雲雀のものを勝手に持ち帰った覚えは無い、そんな怖いこと試したいとも思わない。
 それに、今日呼び出した用件はなんなのか。考えてみればそれもまだ聞いていなかった。
 ベルトを締めながら聞いた綱吉に、右手を腰に当てた雲雀は呆れた顔で肩を竦める。そんな事も分からないのか、と綱吉の鈍感さを詰る視線を向けてきて、居た堪れない綱吉は同じく皺だらけのスラックスに握った拳を押し当てた。うっ、と声が詰まる。反論できないのが何より悔しい。
「まったく、君はどこまで鈍いんだろうね」
「うぅ」
 左手で髪を梳きあげ、普段は前髪に隠れている額を晒した雲雀が笑う。
「会いたかったからに、決まってるだろう?」
 学校が休みでも、眠っている間でも。
 ただ会いたかったから、会いに来て欲しいと思ったから、呼んだ。
 至極単純明快、裏もなく表もなく、ただ純粋に、綱吉に会いたかったから。
「言っておくけど、僕は君の事は嫌いだよ?」
「え――」
 それなのにいきなり真逆の事を平然と吐き捨てる。
 目を丸くした綱吉は、その二秒半後に今日と言う日を思い出した。
 理解する、瞬間綱吉の頭が火を噴いた。
「ひ……ヒバリさんなんかやっぱり嫌いだー!」
 力いっぱい、心の底から叫んだのに。
 雲雀は楽しそうに笑うばかりで、ちっとも信じてくれなかった。

2007/3/26 脱稿