風が騒いでいる。
雲雀は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げ、自身の肌を撫でる空気の流れに薄く唇を歪めさせた。
零れ落ちた吐息はひとつだけ、けれど本来重みを持たないはずのそれは彼の足元で音を立てて砕け散った。欠片が新たな風を呼び起こし、彼を包み込む。
木々がざわめき、枝を擦り合わせて近づきつつある恐怖に身を震わせているのが伝わる。彼はそのうちの一本に差し伸べていた手を戻し、指の表面に残るざらついた幹の感触を、指同士を擦り合わせて忘れさせた。
西に傾いた陽射しは樹木に遮られ、地表には殆ど降り注がない。それでも懸命に日の光を求めて下草は蔓を伸ばし、巨木の幹に絡み付いて栄養を奪い取ろうとしている。足元には枯葉が降り積もり、徐々に腐敗して新しい土となって生命の輪の一端を担う。顔を覗かせた虫が、佇む彼を見つけて慌てて木の葉に身を隠した。
風は止まない、少しずつ勢いを増して強くなる。
雲雀は手を下ろし、指を解いた。腰に巻いた苔色の帯に左手を添えて、空気中に蠢いている何かに耳を済ませる。
頭上の鳥が翼を広げて飛び去り、木の実を齧っていた栗鼠が食べかけのそれを投げ捨てて巣穴を目指して逃げていった。全ての生き物が一様に何かただならぬ気配を感じ取っていて、恐怖を優先させたものがまず真っ先にこの場所を離れていった。
深く地中に根を張り動けない植物だけが、行き場を持たずに息を潜めて震えている。
「なんだ……」
過去に覚えがあるようで、全く知らない気配を肌に感じ取って雲雀は自問した。しかし既に生き物の気配は途切れて久しいこの場所で、彼の声に返事を送る存在は無い。眉間に皺寄せて渋面を作った彼は右手で唇を撫で、珍しく自分が緊張していることに少なからず驚いてみせた。
水の音が微かに響くこの場所は、人が立ち入るのを禁じられた領域だ。ただ例外はあり、そのひとつがこの山に長年仕えている沢田家の直系である事。そして、別のひとつが。
「――!」
風が奔った。雲雀は咄嗟に身を引いて自分に襲い掛かった巨大ななにかを避け、素早い動きで袖口から両手を差し入れて拐を握り締めた。
柔らかすぎる腐葉土が彼の足を取り、左足に履いていた草履が草に奪われる。だが構う事無く彼は右足の草履も脱ぎ捨てると順手に拐を掴み持ち、即座に方向転換をした正体不明の何かが繰り出した一撃をすんでのところで受け止めた。
瞬間痛烈な加重が彼にのし掛かり、右の踵が土の表面を抉った。大人相手でも力比べでは負ける気がしない雲雀だったが、人間とは明らかに異なる尋常ではない力の強さに目を見張り、ひとつ舌打ちをして受け止めているのとは違う左手の拐を緩く回転させた。先端を外向きに跳ね上げ、下から掬い上げる要領で毛むくじゃらのそれに差し向ける。
だがその攻撃は空を掠めただけで終わり、危機を察した毛むくじゃらは薄汚れた腕を曝け出して後方に跳んだ。
その跳躍力も人間離れしており、雲雀は僅かに乱れた息を整えると注意深くその毛むくじゃらとの間合いを計り、正体の探りを入れた。
自慢ではないが、雲雀は魔に属するものが全く、見えない。
魔のみならず聖であっても、力の弱いもの、実体を伴わない霊体は一切合財、その輪郭を瞳に捉えることが出来ないでいる。その代わり魔を駆逐する力にだけは秀でていて、天は二物を与えずを地で行くような存在だった。
だから彼には綱吉の、全ての魔を見抜く力が必要だった。ふたりで漸く一人前とは、随分昔から揶揄され続けてきたこと。
だが今彼の前に存在しているものは、はっきりと雲雀の目でも捉えることが出来た。
理由はふたつ在る。雲雀の目でも誤魔化しが利かないほどに強大な力を持っているものか、もしくは。
「――鬼か」
人と同じ、またはそれに順ずる器、肉体を持っている存在。だから人の中に潜り込んだ悪霊は、人の姿を借りている間だけならば当然雲雀にも見える。だがそれは人としての姿が見えているだけで、内側に潜っている悪霊までは見えていない。
見抜くには矢張り綱吉の存在が必要不可欠だ。が、相手が鬼だと根本的に違っている。
獄寺の例もあるが、鬼は基本的に人と似たような肉体を持っている。根本構造はまるで違っているという説もあるが、互いに子を宿すことも出来るので、何らかの形で人が違う進化をしたものが、ひょっとしたら鬼なのかもしれない。
兎も角今の雲雀には、目の前の存在が鬼なのかそうでないのかの区別が付かない。彼もまた後ろに数歩下がって距離を取り、辛抱強く向こうが動くのを待った。
「まったく、面倒くさい」
そもそもこの山は、人のみならず鬼であろうと悪霊であろうと、妖であろうと、自由に立ち入れる場所ではない。そうとは知らず迷い込んだもの、近づこうとしたものの一切を排除する結界が山全体を覆っているからだ。しかしこの毛むくじゃらが此処に居るという事は、その結界が破られたということ。
目の前の存在がそれだけの力を秘めているとすれば、排除するのも梃子摺らされるのは目に見えている。
だが、やらなければならない。並盛山を邪気で穢されるわけにはいかない。
雲雀は胸の前で拐を交差させて構えを取り、僅かに腰を低くして眼光鋭く毛むくじゃらを睨みつけた。
よくよく見てみれば、しっかりと四肢が揃っている。腰の辺りまで長く伸びた髪が、青白い顔を覆い隠していた。それを形振り構わず振り乱していたので、毛むくじゃらに見えただけだ。
唐茶色の髪は先端に向かって緩やかに波を打っており、隙間からは赤黒く汚れた色の瞳がふたつ、爛々と輝いている。だらしなく開かれた唇からは、絶えず呼気が響いて顔にかかる髪を揺らしていた。
だがもし見た目を調えさえすれば、それなりに麗しい姿になるのではないかと思わせる外見をしている。
女だ。
「……」
やり難いかと思いきや、雲雀はつまらなさそうに思い至った結論を鼻で吹き飛ばし、拐を握る手に力を込めた。
男でも女でも、人であっても鬼であっても、自分に牙を向けた相手に容赦はしない。それに、ただでさえ結界を破られて侵入されるという不始末をしでかしたのだ、遠慮をしてやる必要は何処にも存在しない。
ただぶちのめすまでだ。彼は残酷な笑みを浮かべると、乾いた唇に舌を這わせた。
「ギ……」
奥歯を噛み締めた時の音がそのまま大きく響いたような、とても女のものとは思えない声が発せ要られる。濁った色をした瞳が僅かな動揺を覚えて怯むが、雲雀は構う事無く一歩前に出た。油断なく拐を構え、近頃溜まってばかりだった鬱憤をここで一気に晴らしてやるとばかりに、残忍な色を隠さない表情が愉悦に歪ませる。
女が擦り切れてボロボロになっている着物を揺らし、半歩下がった。何があったのか引き千切られている右の袖から覗く腕が何も無い場所を引っ掻き、意味不明な行動に雲雀は唇をへの字に曲げた。
ひゅっ、と。
「――――!」
その女が右手を、真横一文字に動かした。
目で終えぬ速さに驚愕した雲雀は、咄嗟に上半身を後ろへ反らしてその場に腰を落とす。反動で右足が跳ね上がったがすかさず地面を蹴って横っ飛びに離れれば、つい今しがたまで彼が立っていた地点の背後で山が崩れるような地響きが起きた。
振り返り、そして脚を止める。土踏まずに力が入らずに体が若干滑りはしたが右手で近くの枝を掴んで堪えた先、雲雀と女を遮っていた古木の幹が裂け、己の重みに耐え切れずに傾いて倒れようとしていた。
これには雲雀も目を剥き、慌てて自分の胸元を見る。僅かに避けた布地、直撃していればああなっていたのは自分だという古木の行く末を見守って雲雀は生唾を飲んだ。
「なんなんだ、こいつは」
今まで相手にしてきたどの化け物とも違う。人の形をしているくせに、人では考えられない能力と力を持っていると認めるしかないだろう。雲雀は冷や汗を拭うともう一度唾を飲みこみ、避けた布を指でなぞって不気味に揺らめいている女を見つめた。
感情が読み取れない表情は、在る意味脅威だ。次の行動を推し量る材料がひとつ欠けてしまっているだけに、雲雀は注意深く女の一挙手一投足に注視する。
女の爪は、蜘蛛の足よりも長く蠍の尾よりも鋭い光を放って雲雀を狙っていた。
「鬼、の方か……」
木の葉を細波立てる風が吹き、女の髪を攫う。それまで髪に隠れていた頭の一部が露出し、小さいが特徴的な角がふたつ、額を線対称にして並んでいるのが見えた。
雲雀は喉を鳴らして低く笑い、最近鬼に縁があると屋敷に押しかけてきて居候となった男を思い出す。あれは人との合の子だったが、こちらはどうやら純血種らしい。鬼は人里に降りてくるなど滅多に無く、蛤蜊家初代に封ぜられた場所で一生を静かに送るものとして教わってきたが、この鬼はいったいどんな理由で掟を破ったのだろうか。
気になるが、どうせ話をしても通じないだろう。完全に狂気に取り付かれた瞳は、理性の箍を外して久しい輝きをしている。
「まったく」
騒動は次から次へと舞い降りてきて、のんびりする暇もない。
雲雀は新調して間がない拐の感触を確かめつつ、ゆっくりと距離を測り鬼の爪の動きにも気を配った。
間合いは向こうの方が若干長いだろうか、あの素早さで連続攻撃を仕掛けられたらかなり危険だ。かといって接近戦に持ち込もうにも、あの爪を掻い潜って懐に入り込むのは至難の業。加えて向こうには最初の取っ組み合いでも感じた怪力がある、力負けして倒されたら終わりだ。
どうしたものか、妙案が思い浮かばずに雲雀はただ無為に時間が過ぎていくのを感じ取る。その間も鬼の女は薄気味悪い笑みを浮かべては人を挑発するが如く腕を揺らし、爪を研ぐ仕草をした。夕暮れの木漏れ日を浴びて爪の先は怪しく光り、この拐でどこまで持ち堪えられるだろうか想像して雲雀は眩暈を堪えた。
どう計算しても、自分の体が真っ二つになる未来しか浮かんでこない。それでは駄目だろう、と少ない計算材料を模索して彼は生温い汗を首筋に流した。
どくん、と心臓が跳ねる。
「――黙れ」
声ならぬ声が雲雀を臆病者と罵り、嘲り笑う。聖域を守ると言い張っておきながら所詮は虚勢でしかなく、実力を伴わない腰抜けと謗る声が頭の中に響き渡る。
腹の底から響く声で唸り、雲雀は頭の中に響く声を打ち消した。だが耳の奥に反響する声はやまず、顔を歪めた彼は骨に食い込みそうなまでに拐を握りしめた。
心臓の音が五月蝿く、彼は首を振って嫌な汗を払いのける。だが一度意識してしまったものを手放すのは難しく、雲雀は構えを緩めて右手で頭を抱え込んだ。
嘲笑が脳裏にこだまする、ただ風が吹いているだけなのにそれが分からない。
「黙れと言っている!」
吐き捨てられた雲雀の怒号に、女は一瞬たじろいだ。けれど彼の様子がおかしいのを悟った途端、にぃっと唇を横に引き伸ばして妖艶な笑みを浮かべて己の爪をいとおしむ様に舌を這わせる。
「あの子は何処」
初めて鬼の口から発せられた、人が解せる言葉。顔を上げた雲雀は一瞬何を言われたのか理解できず、全身から噴き出た汗の気持ち悪さと息苦しさに苦しみながら瞬きを繰り返した。
女はうわごとのように同じ単語を繰り返す。あの子は何処、私の可愛い弟、早く返して。人間は嫌い、人間は許さない。怒りと憎しみに満ちた数多の呪詛に、雲雀は吐き気すら覚えて足元に唾を吐いた。
空気が女の怒りに引きずられているのが分かる、周囲を包んでいた清浄さが毒に犯されて徐々に狂いだしている。この時期瑞々しい緑色をしている草木が色を失って先端から枯れ始め、逃げ遅れた虫がからからに干上がってぽとりと枝から転落する。萎れた枝が己を支える力を失って幹から剥がれ落ち、どす黒い気配が雲雀を呑み込もうと渦を巻いて彼を覆った。
息苦しさに拍車がかかり、雲雀は重くなった脚を引きずって距離を稼ごうと動く。だが鬼はそれを許さず、また頭に響いた声のお陰で切れた集中力も戻ってこない。荒く肩で息を吐いた雲雀は指先の感覚さえ麻痺している自分を罵りそうになり、寸前で堪えた。
それにしても、運がない。よりによってこんな状況下でこんな敵に遭遇する羽目に陥るとは。
「あの子を里に下ろしてよかった」
ぽつりと汗と一緒に零れ落ちた本音に、雲雀は我ながら女々しいと苦笑を禁じえず口元を僅かに緩めた。
雲読みの疲弊、力が回復せぬままに綱吉に食事を与え、更に追加分も食われてこちらの空腹が絶頂に至りかけている最中の襲撃。誰かの策略かと疑いたくなる一連の流れに、果たしてどれくらい体力が持つだろうかと考えて彼は首を振った。
綱吉の所為では無い、あの子を無条件で受け入れるのが自分の役目なのだと戒める。
本調子ではないからといって、それを言い訳には出来ない。聖域を穢す存在は許してはならないのが、過去より連綿と受け継がれてきたこの地の掟であり、自分が新たに生かされた時に与えられた勤めだ。だから異物は排除する、たとえ何が起ころうとも。
ぐっと腹の底に力を溜め込み、雲雀は鬼を睨んだ。己の優位性を悟っていた女は途端に眼力を取り戻した雲雀に怯み、足を止めた。
風が唸り声を上げる、空を見上げれば周囲が枯れた為に開けた頭上に夕暮れの雲が無数に靡き、鮮やかな赤に彩られていた。
乾いた空気が地を走り嘆きの声を上げる。この山が何故霊山と呼ばれ、人を嫌い魔を受け付けないのか、この鬼は知らない。
何故彼女が、急きたてられるように自分の体が傷つき原型を失おうともこの山を目指したのかを、知らない。
「この山より立ち去れ」
宣告は放たれた。雲雀は低い姿勢で拐を構え、夕焼けよりも赤い瞳を凛と輝かせると静かに息を吸い、吐いた。
「――!」
鬼の女が気づくよりも早く、自分の間合いにまで距離を詰めた雲雀が右に握る拐を振り上げる。女は奇声を上げて大袈裟に身体を捻って避け、足場を崩しかけて横へ跳んだ。そこへすかさず左の拐が女の顎を捕えて繰り出され、薙いだ風が彼女のくすんだ色の髪をひと房だけ切り裂いた。
首を即座に後ろへ倒し、拐の切っ先を寸前で避けた鬼はそのまま中空に身体を投げ出して反転させ、垂直にそそり立つ木の幹を足場に上体を捻らせた。
来る、と雲雀が視覚で認識した瞬間にはもう、鋭利な鬼の爪が眼前に迫っている。すかさず両手の拐を顔の前で交差させて受け止めるが、拐の表面を浅く削って尚も迫り来る蠍の棘に雲雀は舌打ちし、交差させたままの拐を地面に叩きつけるようにして鬼の腕を振り払った。
鋭さを追求するあまりに強度は保てなかったらしい爪はその一閃で呆気なく中ほどで折れ、草葉に紛れて失われる。だが鬼は少しも怯まずに残る四本の爪を蜘蛛の脚の如く蠢かせ、反対の手をも前に突き出しその爪を閃かせた。
これであちらの武器は合計九本。
足場の悪さ、呼吸の乱れ方、全身を内側から締め上げる苦痛、満たされない空腹感。どれをとっても自分に不利な条件ばかりが揃っており、雲雀は滲み出る汗の気持ち悪さに辟易しながら乾いた喉に唾を送り込んだ。不敵に笑う態度は変わらないが、形勢の悪さにも変化は生まれない。
こちらは体力が有限だというのに、あちらは底なしだとでも言うのか。そういえば治癒能力の高さも鬼の持つ特性のひとつだったと、あれだけ手酷く痛めつけてやったのに、翌日にはすっかり元気を取り戻していた半魔の男を思い浮かべて薄い笑いが漏れた。
彼が混血だからそうなのか、全ての鬼がそうなのかどうかは、調べていないので分からない。だが並々ならぬ生命力の持ち主だと認識してほぼ間違いないだろう、即ち長期戦になればなるほどこちらが圧倒的に不利。
厄介だ、と爪を研ぎながらにじり寄る女を睨み、雲雀は西から降り注ぐ赤焼けた太陽光に瞳を細めた。
日に透かせた自分の腕がきらきらと輝いて見えるのは、決して錯覚ではない。汗に濡れた肌を撫でてもそこには何も無いが、次第に翳りを深め弱まりつつある陽光を反射する何かが、彼を取り囲んでいた。
「逢魔が時……よく言ったものだ」
赤い瞳が僅かに泳ぐ。溜息ついでに呟いた彼は、落とした視線の先で腕のみならず自分自身を絡め取る琥珀色の輝きに目尻を下げて唇を緩めた。
日が暮れ切ってしまえばそこからは魔の領域だ、不利な条件はどんどん上積みされていく。短期決戦でさっさと片付けてしまおう、雲雀は肩を交互に揺らして力を抜き、体の中に残っていた空気を全て吐き出して深く吸い込んだ。
草木の緑、水の流れ、鬼の気配に歪められてしまったそれらから微かに残る清浄な霊気を集め取る。身体の隅々まで満たしていく見えない光に雲雀は呼吸を整え、鬼の動きを涼やかな目で追いながら一歩踏み込んだ。
「ギ……ッ」
不気味さを強調させた声が鬼から発せられる。雲雀の動きを追って繰り出された爪の刃は空を切り裂き、枯れた木の皮を抉って剥いだ。ガサガサと葉が擦れあって耳障りな音が響く、吹き抜ける風は冷たさを増していつしか遠かった水音が近くまで迫っていた。
雲雀は躊躇する事無く苔むした石が底に広がる小川へと脚を突っ込み、その冷たさに一瞬だけ身を竦ませた。だが冷たさと入れ替わるようにして彼の足元からせりあがってきた霊気の濃さに彼は身震いし、空っぽに近かった状態から若干持ち直したと唇を濡らした。
背後から迫り来る鬼の一撃を、背を向けたまま拐を回転させて受け流し、右へ薙ぎ払う。いとも容易く投げ飛ばされた鬼は驚愕に目を見開きはしたが、腰から地面を擦って着地し即座に身体を反転させて起き上がった。衝撃の殆どは柔らかな地表に吸収されてしまっており、目に見えて鬼に変化はない。
だが直後、柔らかすぎた土に足場を崩された彼女は水が流れ行く川の中へと転落した。激しい水しぶきが飛び散り、雲雀の黒い前髪を容赦なく濡らす。顔の前に右手を掲げて瞳を庇った彼は、予想していなかった展開に唖然として次の対応に遅れた。
更に鬼の口から発せられた鼓膜をも破かれそうな苦痛に声に、脳が締め付けられて思わず後ろへとよろけてしまう。
「ギ――アぁガガガガぅアアアアアーーーーー!」
水より身を起こした女は髪を振り乱し、両手を天に突上げる格好で断末魔にも近い悲鳴を掻き鳴らす。彼女から飛び散った水滴は黒く濁り、それが凶悪な毒性を孕んでいると瞬時に悟った雲雀は慌てたように水を打って地上へと上がった。だがこのままでは毒水が下流の村にまで到達してしまう、いくら流水に洗われて薄められたとしても、飲めば腹痛程度ではすまないはずだ。
「まったく!」
どこまでも面倒くさい、と雲雀は女を水から引き抜く方法を考える。強引になぎ払うのが一番手っ取り早いが、苦悶の表情を浮かべて苦しんでいるあの鬼が素直に弾き飛ばされてくれるとは思えない。けれどやらなければ確実に毒は村にまで到達する、川の近辺を枯らしながら。
田植え前のこの大事な時期に、水を穢されるのは困る。雲雀は舌打ちを二度繰り返し、地面を蹴って女へと突進した。
拐を縦に構え、角の生えた頭を振り乱している女に狙いを定める。幸か不幸か彼女は己に降りかかった突然の苦痛に意識が集中しているようで、雲雀の接近にまるで気づいていない――筈だった。
「ガァあァ!」
「ちぃ!」
繰り出した一閃が女の弾く。が、浅い。
寸前で赤黒い瞳が雲雀を捕え、水柱を無数に立てて女は紙一重でかわした。肩を掠りはしたが吹き飛ばすには足りず、女はばしゃばしゃと水を毒に変えながら浅い川底を足の裏で何度も蹴り飛ばす。
不愉快に彩られた瞳は狂気のままに雲雀を捕えて逃がさない。苦痛よりも目の前の敵を倒すのに集中する道を選んだのか、さっきよりも鬼気迫る表情に雲雀は冷や汗で背中を濡らし、唾を呑んだ。
やり応えのある相手だ、かなりやり辛いが。
女が立っている水面は、まるで鍋の湯が沸騰しているかのように白く濁った泡が立ち、同じく濁った空気が湯気の如く立ち上っている。揺れる空気は上には流れずに横へと広がって行き、川面に垂れ下がる細長い草を枯らしていった。範囲は広がる一方で、雲雀の足元にも漂ってくる。吸い込めば今までの何倍も濃い毒の香りに、彼は咄嗟に腕で口と鼻を塞いでこれを耐えた。
普通の人間だったらこれだけで充分死に至れる、至らずとも昏倒し意識は直ぐに戻らないだろう。
こんな奴が野に放たれていたとは、正直驚きだ。いったい蛤蜊家をはじめとして退魔師の連中は何をやっていたのか、鬼が人里に出没するという話は聞かされていない、何の通達も無かった。
この地に至るまでに被害が皆無だったとでも言うのか、ありえない。
本当に見つけたのが自分でよかったと思う反面、毒々しさを増していく鬼の女の扱いに苦慮して雲雀は奥歯を噛む。間合いを開きすぎれば逃げられてしまう可能性もあり、かといって距離を詰めればあの毒の餌食だ。
水場に誘いこんだのは迂闊だったとしか言いようが無い、力の補充のつもりが、相手方に有利にしてしまった。おまけに毒水大量発生ときた、リボーンに後でどんな小言を言われるか分かったものではない。
出来れば長々とした説教は遠慮願いたいところだが、今回ばかりは諦めるほかなさそうだ。水の処理も、彼に頼らざるを得ないだろう。
いや、既に向こうも気づいているか。
「……終わらせよう」
時間が経てばたつほど被害は拡大する。枯れた植物の悲鳴が耳を打ち、心臓を圧迫して雲雀を責めている。内側から嘲り笑う声は止まない、聞こえないふりを押し通すのもそろそろ限界だ。
「綱吉に怒られるな」
また勝手なことをして、と何があったのか問い詰めてくる顔が楽に想像できる。
ころころと変わる表情は楽しくて、けれどどちらかと言えば笑っているほうが多いから、怒った顔は珍しくてそれも好きだった。本人に言えば拗ねるから言いはしないが、普段人に怒られる事ばかりしている彼が眉尻を持ち上げて憤慨している様は、見ていて面白い。
怒るのには力が要る、嫌われないかという不安もあってなかなか真正面から怒ったり出来ない場合も多い。
だがそういう懸念も脇へ押しやって自分を怒ってくれるという事は、それだけ心配したり心に案じたりしてくれているのだと伝わってくる。だから嬉しい。
脳裏に浮かんだ優しい笑顔に微笑み、雲雀は拐を構えた。
息を吐き、止める。腰を低くして右手を前に左腕は後ろに、拐は地平と水平になるように握って顔の高さへと。そしてふっ、と息を吐いた瞬間に風が唸りをあげた。
「――シッ!」
右腕を大きく捻って反動を利用しながら前へ放つ。渦を巻いた風を纏った拐が女の横っ面に挑みかかり、彼女はそれを、左腕を盾にして正面から受け止めた。
みしっ、と拐が軋む感触が腕に伝わってくる。同時に女の腕も衝撃を吸収しきれずに脇へと流れて行き、入れ替わるようにして突き出された四本の爪が雲雀の頭を掻き切ろうと縦に走った。
下から梳きあげるような動きに、雲雀は右足の踵で地を蹴って後ろへと飛びずさり避ける。跳ねた水が女の着物を汚し、雲雀の長衣にも散った。じゅっといって焦げた臭いが鼻をつき、一瞬だけ意識をそちらに向ければ布に小さな穴が空いている。凶悪な酸性を発揮しているのか、と不用意に触れるのも危険な存在となった女に歯軋りをして、彼は着地と同時に再び鬼へと攻撃を繰り出した。
立て続けに拐を左右から繰り出し、女を水から押し出す。だが毒に変わった霊水に雲雀が触れられないと悟った女はしつこいくらいに水を叩いて彼を牽制し、不敵に笑っては彼の攻撃をひとつずつ爪で弾き返していく。
このままでは埒が明かない、と焦りが出るに従って雲雀の体力の消耗も激しくなり、息が上がって肩がぐらついた。
毒が肺にまで回りこんでいる、息を吸う度に喉が焼けるような痛みを訴え吐き出せば胸郭が軋む。拭った汗が黒ずんでいて、苦笑した彼は不気味に水の中に立っている女を忌々しそうに睨んだ。
「……五月蝿いと言っている」
入れ替われ、という甘い囁きに首を振り、雲雀は荒い息を吐いて自分の膝を叩いた。
背中に感じ取る霊気が、痛い。山の神も随分とお怒りのようだと呼吸を整えながら呟き、雲雀は既に意識があるのかないのかも分からない鬼の女に再度狙いを定めた。
これが躱されたら、恐らく次は無い。
女の動きには癖がある、本人も意識していないだろうが、彼女が最も動き易い手順を経ているのがこの数回の打ち合いで理解できた。ならばその手順を崩してやればいい、隙を作りさえすれば勝機は生み出せる。
狙いが上手くいくかどうかは運次第、けれどやらなければ被害は広がるばかりだ。最悪綱吉にも被害が及ぶ、それは避けたい。
だから止める、必ずとめてみせる。
強い意志を確固として胸の奥に滾らせ、雲雀はぎっ、と臼歯をかみ合わせて力を込めた。拐に己の霊気を注ぎ込み、全てを打ち砕く刃と成す。
「貴様に恨みは無いが」
高度に圧縮された霊気に慄き、鬼がひくりと喉を鳴らした。
「この山に踏み込んだ報いだ。――受けろ」
何故この山が霊山と呼ばれるのか。
何故神聖な山として人々の崇拝を受けるのか。
魔を惹き付ける山、その力を増幅させるとも、内側から焼き尽くし滅ぼすとも言われている、聖地。
故に、禁域。
「アアァあァガガァァァあアぁ――」
鬼が吼える。雲雀は構わずにその懐へ飛び込んだ。
雲雀が勝負をつけようとしているのを察したのだろう、女も爪を繰り鋭い切っ先で彼を八つ裂きにすべく動く。だが赤い瞳を輝かせた雲雀は軌道の全てを読み取り、拐を一閃してなぎ払った。折れた爪がくるくると回転しながら彼方へと消え去り、片手分丸々武器を失った女の細腕は虚しいばかりに水面を叩く。
――もらった!
そして慢心が。
「あの子を返して!」
不意に叫んだ女の、理性を持った声に意識が散る。瞬間右の眼球を焼く痛みに彼は息を飲み、鬼はすかさず身体を捻って川面から飛び上がった。
水面を叩いただけだと思っていた女の手が、僅かな水滴を指にまとわりつかせて雲雀へと放ったのだ。
「しまっ――」
「馬鹿野郎が」
上流から流れてくる水に半身を浸し、雲雀が右目を押さえて呻く。なんという不覚を取ったのだろう、と自分を苛みながら彼は残る左目で女の動きを追った。
牙を剥き、醜く悪辣な形相で迫り来るその女が一秒後、突風の中に姿を掻き消す。同じく駆け抜けて行った冷淡な声に、彼は背筋を震え上がらせて生温い唾を飲みこんだ。
女の姿は跡形なく消え失せ、その場には鬼が荒らした嘗て緑豊かだった森が変わり果てた姿となって残される。白い煙を棚引かせていた水面は徐々に洗われて清浄さを取り戻すが、枯れてしまった植物までは元に戻せない。馬鹿野郎、という声がまた聞こえて、雲雀は打たれた頭を亀のように引っ込めた。
「童」
「妙に山が騒がしいと思ってきてみれば」
雲雀の肩に乗ったリボーンが、手にしていた巨大な緑色の扇を一振りで畳んで煙として消した。そして雲雀が未だ呼吸が元に戻らないうちに一回転しながら近くの枯れ草の上に降り立ち、ずれた頭巾の位置をしきりに気にしながら彼を睨み上げた。
雲雀は傷だらけになった拐を弱々しく握って立ち上がり、首を振って頭を横から叩いた。まだくらくらする上に、右目の奥に響く痛みが消えない。左右で見えるものが違っていて、平衡感覚が狂ったのか川から出ようとしたところで足を乗せる場所の目測を誤り、右向きに身体が傾いだ。
リボーンが頭巾から手を外し、顔を顰める。
「毒か」
「恐らく」
短いやり取りの後にまたリボーンから溜息が漏れた。呆れられるのは癪に障るが、後手に回ったのは事実だから認めるしかない。言い訳もせずに受け止めていると、リボーンは足元の枯れ草に指を添わせて一本引き抜いた。
だが触れた途端に先端からぼろりと崩れて行き、彼の掌には砕け散った屑だけが僅かに残される。
「厄介だな」
「どうなる」
「結界の補修はお前に任せる、出来るか」
「……やらざるを得ないだろう」
今は水の浄化が先で、けれど同じくらい破られた結界の修復も急務。穴が開いたところから違うものが闖入されては元も子もない、至急塞がなければならないのは雲雀もよく分かっている。
山は魔を惹き付ける、故に魔は払わなければならない。
それが、沢田家がこの領域へ自由に立ち入る代わりに定められた掟だ。
「ところで、あの鬼は」
リボーンが起こした突風に呑まれ、瞬時に姿を消した鬼の女。拐に刻まれた傷跡のひとつを指でなぞり、雲雀は右目を閉じた状態で足元のリボーンに問うた。
「飛ばした。ついでに絡み付いていた邪気も払っておいたから、気づく頃には正気に戻ってるだろ」
「邪気?」
鬼が放っていた気配は、確かに邪気と呼ぶに相応しいものだった。けれどそれを払ってどうなるというのだろう、分からないと首を傾がせた雲雀に、リボーンは水の流れに指を浸して首を振った。
「人里に降りて時間が過ぎすぎたんだな、人間の邪念に当たって少しずつ精神が歪んでいって、ああなった」
鬼は元々、人里離れた蛤蜊家の敷地に庇護される存在だ。中には人間の監視下に置かれるのを嫌った鬼もいたらしいが、そういった輩が今も生き延びて隠れているという話は聞かない。増えすぎた人間の中に異形である鬼が混じって生活するのは困難の極みだし、精神的にも敏感なものがある鬼も多く、そういった特性を持つものには殊更、邪念にまみれた人間の精神はかなり苦痛らしい。
常に誰かを妬み、謗み、見下している人間の輪に加わるには、鬼と言う存在の性質はあまりにも素直すぎる。獄寺がそうだったように、人に触れすぎるうちに自身も気づかぬまま、黒く変質した邪気を溜め込んでいってしまうのだ。
獄寺は綱吉によって浄化されたが、あの鬼の女はそうではなかった。祓われることなく内側を穢され続け、そして精神が先に悲鳴をあげた。
「鬼の里に送り返したのか?」
「まさか。いくら俺でも、あそこまでは遠すぎる」
山から少し離れた場所にでも落ちているだろう、と呑気に言い放ったリボーンに肩を竦め、雲雀は拐をしまって長衣の汚れを払い落とした。
戦っている最中は気づかなかったが、あちこちに虫食いのような穴が空いている。皮膚のそこかしこにも火傷に似た黒ずみが出来ていた、但し痛みが右目のそれを上回ることは無い。
散々な風体だと皮肉に口元が歪む。見上げるリボーンの視線に気づいてなんだ、と不遜な態度で睨み返すと、彼は浅く眉間に皺を寄せた顔で「大丈夫か」と問うた。
「……平気だ」
悟られたか、と息を呑み、けれど即座に否定の言葉を口に出して雲雀は首を横へ振る。若干呆れたような顔をして、リボーンは「そうか」とだけ呟いた。
「俺は下流に流れた水を追う。穴は丑寅の方角だ、注意して探せ」
「分かった」
雲雀の力では結界は塞げても、毒水の浄化までは出来ない。やれるとしたら綱吉だろうが、それには彼がまずその毒に触れなければならない。
本人が倒れるが先か、毒が抜け切るのが先か。
獄寺の時は雲雀が支えてやれたからどうにかなったものの、今の状況では雲雀自身に浄化が必要かもしれない。
右目の疼きが止まらない、視界は暗闇にぼやけて輪郭はあやふやだ。辛うじて左目が無事なので視界は確保できても、遠近感の狂いは訂正しきれない。リボーンには見栄を張ってああいったが、いざひとりで移動となると薮に脚を取られ何度も転びそうになった。
それでも注意深く周辺を探り、言われた地点を重点的に探す。流れてくる風の色が他とは違う場所は確かにあって、雲雀は黒髪を撫でる空気の濁りに吐息を零した。
「綱吉に、なんと言い訳するか」
鬼の毒は、綱吉には強すぎる。それなのに、もし雲雀の右目が見えないと知れたら、彼は強固に治すと主張するだろう。
けれどその治療の所為で綱吉の身体が傷むのは本意ではない、毒気に当たって倒れるだろうとも楽に予測できる。幸い、この先数日は状態を保てるだろう食事は与えている、誤魔化すしかない。
暫くは触れさせない、触れない、近づかない。自分を戒めて雲雀は臍を噛んだ。自分の力量不足が恨めしい、雲読みで消耗していなければあんな鬼程度に遅れは取らなかったのに。
「……だから、五月蝿い」
負け惜しみを、と嘲笑する声を振り払い、雲雀は袖をたくし上げて結界に手を翳した。雑念を押し退け、意識を集約させる。
黒に沈んだ瞳に、眩しいばかりの夕焼けが映えた。
(後編へ続く)