come True

 夢を見ていたんだと思う。
 物凄く痛くて、苦しくて、熱くて、辛くて。
 このまま自分は死んでしまうのではないかと思えて、遣り残したことが沢山次から次に思い浮かんで消えていった。
 コーラルを拾ったことから始まった一連の騒動はまだ帰結の糸口がつかめていない、店だってやっと軌道に乗ったばかり。
 何もかも放り出して、ひとりだけ先に逝くなんて許されるわけがない。
 死にたくない、死にたくない。懸命に痛みを堪えて涙を堪えて、絶対に死んでやるもんかと心に誓う。
 けれどその心が簡単に折れてしまいそうなくらいに痛みは酷くて、いっそ死んで楽になれたらとも思えて哀しくなった。
 嫌だ、まだまだやりたいことは残っている、やらなくちゃいけないこと以上に、やりたいことが。
 聞きたいことが。
 だって、俺はまだ言ってない。言われるばっかりで、聞かされるばっかりで。
 やっと気づいたのに、伝えられないまま終わるなんて、いやだ。
 言いたい、言わせて。伝えたい、伝えさせて。
 お願いだよ、誰か。誰でもいい、アイツに会わせて。
 それが最後になったっていい、せめてこの言葉だけでもあいつに伝えたい。
 微かに開かれた瞳、苦心の末持ち上げた瞼。夢なのか現実なのかも分からぬまま、脳裏を焼く炎の色をした髪を見た。
 泣かないで、そんな顔をしないで。大丈夫だから、そう告げたいのに言葉が出ない。全身が悲鳴を上げて軋む中、どうにか持ち上げた指で彼の頬に触れて、思った以上に柔らかい感触が嬉しかった。
 驚きに見開かれた瞳に懸命に笑いかけて、その時確かに俺は伝えた。
 伝えた、筈なのに。
 夕方、俺は一度眼を覚ました。俺の部屋はこれでもかというくらいに心配そうな仲間で溢れ返り、まだ意識が朦朧とする俺にやたらと話しかけてきた。
 コーラルなんかは布団の上から人にしがみついて離れず、リシェルは大声でわんわん泣き出すしそりゃもう、大騒ぎで。
 俺はその後また気絶するように眠ってしまったらしく、仲間が何を言っていたのかも殆ど覚えていない。ただひとつ、確かなことは。
 あの中に、あいつの姿は無かった。
 あの燃えるような髪と目をした男は、探し得る限りの俺の世界から忽然と姿を消していた。
 

 次に目が覚めた時、窓からは朝焼けにも似た夕焼けが一面に広がり、床には長く濃い影が落ちていた。
「う……」
 最初の時とは違い、今は人気もなく室内は静寂に満ちている。自分の呼吸する音だけが響き渡っているようで、ライは落ち着き無く視線を浮かせると寝返りをうとうと右に身体をずらした。
 直後右足を襲った激痛に、現実を思い出す。仰向けの姿勢のまま爪先が反り返り、腰が沈んで背中が浮き上がる。枕に残った後頭部が一瞬だけ中空に跳ねて沈み、顔の両側で埃が舞い散った。熱風を吐き出した彼はそのまま激しく咳き込み、息を吸いたいのに肺機能を支えている筋肉は強張ったまま体内に残る酸素さえも吐き出そうと躍起になっている。
 肋骨がレンチで締め上げられている気がして、足のみならず全身が痛い。外からも中からも責め苦を受け、ライはぜいぜいと乱れた呼吸で喉を擦り、末端から中枢に流れてくる苦痛を必死の思いで受け流した。心臓が萎縮し、身体の脆弱な部分から悲鳴を上げていく。額から噴出した脂汗が前髪に絡みつき、熱を持った肌に張り付いて空気の流れを遮ってしまう。
 霞んだ視界に見る天井は薄らと歪んでいた。
「っつぅ~……」
 節々の痛みは過ぎ去ったが、右足の太股に残る鈍痛はまだ消えない。じくじくと内側から熱せられた鉄の棒を押し当てられている気分で、吐き気までしてライは何度にも息を分けて吐き、堪える。
 其処が他でもない、あの火掻き棒が突き刺さった場所だと彼も理解している。太股のあの位置は太い動脈が走っているだけに、出血量も相当だっただろう。
 傷口は塞がれているようだが、傷ついた筋肉の再生までは追いついていない。感覚をそこに集中させて傷の具合を確かめる、右足はどう頑張っても踵さえ持ち上げられなかった。
 頭がぼんやりとするのは熱があるのと、血が全体的に足りておらずに貧血状態だから。夢うつつの中でリビエルにそう言われていた気がする、肉体の修復は出来るけれど流れ出た血液までは作り出せないから、暫くは安静にして栄養あるものを沢山食べて、体調を整えるように、と。
 しかし考えてみれば、この宿に住まう人間の食事はライひとりが一手に担っている。彼が倒れたとなると、他の面々の食事も含め、果たして誰が用意立ててくれるというのか。真っ先に思い浮かんだのはポムニットとミントだったが、ふたりにも各自仕事や研究があるので彼女達の手を煩わせてしまうのは正直心苦しい。
 アルバは簡単な料理が出来るようだが、あの大人数を賄わせるのには不安が残る。シンゲンとアカネは専ら食べるばかりだし、リビエルは甘いものしか作れない。アロエリの料理は大雑把で大味……むしろ彼女の料理は料理といえない気がする。コーラルは論外。
 思い浮かんだ背中は、即座に頭の中で打ち消した。期待すまい、あの男には。
「ちぇ」
 見舞いが押し寄せてきたのも最初だけか、みんな冷たい。辛うじて動く上半身を使って毛布に包まり、ライは悪態をつきながら口元までを布で覆い隠した。
 目が醒めて暫くしたからか、痛みも右足以外は和らぎ頭も冴えてきた。ぼんやりしていた視界も今ははっきりと物の輪郭を辿れ、天井の染みの数も計算できる。彼は布団の端を掴んでいた手を片方外し、顔の前に掲げて一度握り締め、開いた。
 五本の指がしっかりと掌に繋がっている。掌は手首に、手首は腕に、腕は肩に。
 無事だ。
 傷は負ったが、治らないものではないと思う。暫くは起き上がるのも難しいかもしれないが、しっかりと養生して治せばまた台所に立てるだろう。それが嬉しい。
 あれは事故だ、自分の不注意が招いた事故。だからもし彼があのことで何か悔いているのであれば、関係ないからと伝えたい。
 夢だったのか、現実だったのかも分からない。今のように静まり返った部屋で、熱に魘されているこの手を握ってくれたのが誰だったのかも分からない。
 体中の血液が沸騰しているようで、全身が端から腐っていく気がして、痛くて苦しくて辛くて、折角助かったのにこのまま永遠に目覚められないのかもしれないという夢だった。
 あの手が誰だったのか、確認のしようがない。男の、大人の手だったと思う。ただそれも確証は無い、持ち上げた瞼に刻まれたシルエットは闇に紛れてしまって思い出せない。他と間違える事は絶対にないような、個性的過ぎる特徴があった気がするが、それだって高熱の最中に見た幻だと本人に否定されてしまったらどうしようもない。
 ライは右手をきつく握った、あの掌は紛れも無く現実世界のものだったのだと己を信じ込ませる為に。
 でも、だったらどうして、彼はあの時顔を見せてくれなかったのだろう。声をかけてくれなかったのだろう。
 今此処にいてくれないのだろう。
「……ン」
 刻んだ名前は掠れて音にならずに消えていく。不意に視界が滲んで慌てて目尻を擦れば、ほんの少し指先に湿り気を感じてライは奥歯を噛んだ。
 あちこちが痛い、右足だけではなくもっと違う場所が。
「ばかやろ」
 吐き捨てた声には力がなく、自分はこんなにも弱かったのかと思い知って悔しさが募る。涙を拭った指をそのまま唇に押し当てれば、そこに触れられた時の記憶が蘇って来てライは顔を赤くした。
 微かに開いた唇に、己の中指をもぐりこませる。第二関節で緩く曲げ、その背を前歯に押し当てると自然と歯の合わさりが解けて中へ招きよせようとする。けれどいくら体温分は感じるといえど、骨ばった指は決して美味しいものではない。ましてや、あの時の感覚にも程遠く。
 甘く、熱く、柔らかく、体内から自分が自分でないものに作りかえられていく感覚。消そうとしても消えない記憶が順番に再生されていって、最後に脳裏に響くのは低い、微かに寂しそうな、けれど深い決意に彩られたことば。
 ――もうしない。
 誓われてしまった、目の前で。だからもう、忘れるしかない。
「馬鹿は……俺か」
 零れ落ちた声はするりと喉元を抜けて胸に呑み込まれる。真っ直ぐに見上げた天井は昨日までと何も変わっていないのに、いやに暗い色をしている気がして滅入りそうだった。
 後から気づくなんて、どうかしている。いっそ気づかないままでいられたら、どんなによかっただろう。
 追い縋って、届かなかった手。もしあそこで何も倒れてこなかったら、掴めたのだろうか。彼にあんな顔をさせることもなく、自分もこんな風にベッドに寝転がることもなかったのだろうか。
 分からない、望んだところでもう過ぎた過去だ。悔いるくらいなら前に進めと人には偉そうに言うくせに、肝心の自分に関しては同じ場所で足踏みしてしまっている。
 言われた時にはもう全部片が着いた後で、気づいたのは言われてからだった。順番が逆だ、先に終わらせてしまってどうする。何も始められなかったとでも言うのか、自分たちは。
 もうしないと言われた、けれどあんなことをしたのは自分だったから。彼の中の自分がどんな扱いだったのか、きっと、もしかしたら彼自身あの瞬間まで気づいていなかったのかもしれない――ライと同じように。
「くっそぉ」
 吐き出した恨み言は熱の中に溶けていく。自由の利く両腕を持ち上げて交互に目の上に伏せ、口を開閉して喘ぐように息を吸う。そうしていなければ泣いてしまいそうで、ライは整理が聞かない心と、変わらずに痛みを発し続ける右足の両方から責め立てられて動けない。
 こんな気持ちになるくらいなら、気づかないままでいたかった――気づかせないで欲しかった。冗談の延長線上だったのだ、と軽い調子で彼は何故笑い飛ばしてくれなかったのだろう。あんなところで真剣な顔をして、真剣に思いをぶつけてくるなんて卑怯だ。
 火掻き棒に貫かれたときよりも、あの彼の顔を思い出す方がずっと胸が痛い。血まみれになりながら自分を抱きかかえ、懸命に呼びかけてきてくれた彼の声が心臓に突き刺さって新しい血を流している。
 血が足りない、心を潤してくれる水分がまるで足りない。
「セイロン……」 
 中空に囁きかける名に返す声はない。
 床へ伸びる影は少しずつ長くなり、窓から覗く世界は青から朱に変わろうとしていた。時計が無いので正確な時間までは分からないが、空腹具合も相俟ってもうじき夕食時なのだろうな、とは思われた。
 今日から暫く、食事をどうしよう。店の営業だってある、数日閉めるだけで客は逃げていってしまうから死活問題だ。
 少しばかり気持ちが落ち着き、顔の上から手を外して胸に落とす。脇腹の曲線に沿って右腕が敷布団へと沈んで行き、指先が柔らかなケットに埋もれた。一度指を伸ばしきってから軽く曲げると、布地が引きずられて掌を追いかけてくる。
 今後の事を考えると気が滅入る。コーラルに関わる問題は何一つ解決の糸口を見出せていないし、本当はこんな風に呑気に寝転がっている暇などない。自分が倒れ伏していると相手側に知られれば、遠慮ない奴らのこと、今が狙い時と総攻撃を仕掛けてくる可能性だってある。
 まったくもって、面倒くさいことこの上ない。
「ったく、あいつの所為だ」
 こんなことになったのも、こんな感情に翻弄されるのも。
 脚が痛いのも、胸が痛いのも、息が詰まるのも、全部、全部。
 あの月の夜さえなければ。
「……っ」
 だのに何故だろう、嫌いになれない。むしろその反対で、会いたくて仕方が無い。
 幼い日、彼のように大きな背中に置いていかれた。どんなに縋っても、声が枯れるまで呼び続けても、父親は振り返ってくれなかった。病弱な妹の手だけを引いて、ライを置いていった。
 自分には差し出されなかった手、それが漸くつかめたかもしれないのに。手に入るかもしれないと思ったのに。
 また逃げられてしまった、すり抜けて行った。
「――――なんでだよ」
 右腕を引き、唇に甲を押し付ける。じわりと浮かび上がった涙が目尻を濡らし、そのまま耳の後ろへとこぼれていった。
 届かない、手に入らない。気づいたときにはまたひとりぼっちだ。
「セイロン……っ」
 会いに来て、なんていえない。我が儘な自分は嫌いだ、在るがままの今を受け入れてそうやって生きてきたではないか。彼にだって立場がある、そう簡単に行かないことくらい理解できる。
 でも、心が折れそうだ。
 痛い。
「……いたい」
 痛くてたまらない。
 誰か、助けて。
 ひとりでだって生きていられると信じていた頃の自分を返して。抱き締められる温もりを知らなかった頃に帰して。
 あの夜の前に時を戻して。
「どうしよう……どうしよう、おれ、俺」
 熱と痛みに朦朧としている意識の中で、いい大人が泣きそうな顔をしてライを見ていた。
 大丈夫、といいたかった。伝えたかった。
 やっと分かったから、どうしてあの時逃げなかったのか。どうしてあんなにも胸が破裂しそうだったのか。どうして彼の声を無視しようとしたのか、視線から逃げたのか。
 去り行こうとする背中に手を伸ばしたのか――
「……好き…………」
 だいすき。
 閉じた瞼の隙間から大粒の真珠が零れ落ちて枕を濡らす。噛み締めた指は痛い、けれどそれにも増して張り裂けそうな心臓が軋みをあげてライを苦しめた。
 何故ここに彼がいないのだろう、この手を握ってくれないのだろう。
 自分をこんなにも弱虫にしておいて、ひとりで立ち上がる方法さえ忘れさせたあの男が憎らしくて仕方が無い。
「すき――――」
 喉を震わせた思いは空間を揺らし、世界に融けて霧散する。
 その扉の向こう側に佇む小さな影にさえ気づけぬまま、ライは静かに腕を下ろした。

 遠慮がちにドアをノックする音で目が覚めた。
 気づかないうちにまた眠ってしまっていたらしい、身体に受けたダメージは予想以上に大きかったのが些かショックだったライは、長い間同じ姿勢でいた為に重く硬くなっていた体をどうにか引きずりながら起こした。
 右足は感覚が麻痺したのか、あれだけ感じていた痛みも今は遠い。寝起きでややボーっとしている頭を振って後ろ頭の寝癖を掻き毟った彼は、ベッドの上で身動ぎしながら上半身を枕に預けた。
 掛け布団を捲って薄暗い中で覗いた右足の傷跡は、周辺の皮膚も巻き込んで黒く変色していてあまり気持ちがいいものではなかった。即座に持ち上げていた布団を落として視界から消し、顔も逸らす。
 向いた先の壁にはめ込まれた窓の外は室内同様に暗く、完全に日は沈んでしまっていた。どれくらいの間眠っていたのかも分からず、持ち上げた肩の骨が不機嫌にボキリと音を響かせるのに顔を顰める。怪我が治って立てるようになるまでに、筋肉が鈍ってしまいそうだ。せめて腕力だけでも衰えないように気をつけなければ、と回したその肩に反対の手を添えたライは再び響いたノックに漸く顔を上げた。
「どうぞ」
 返事をしなければ延々ドアがノックされ続けそうな雰囲気に苦笑し、呼びかける。誰だろう、と首を傾げあの人見知りが激しい竜の子辺りかなと予測をつけたライだったが、控えめに開かれたドアから真っ先に見えた爪先に反射的に息を止め、背筋を緊張させた。
 カツリ、と木靴の底が床を叩く音が小さく響く。彼は普段とは異なる服装で身を固め、片手にこげ茶色の盆を持ち、もう片手で扉を支えていた。
「起きていたか」
「……起こされた」
「そうか。すまんな」
 軽く握った拳を扉の外側に沿え、身体半分を室内に引き入れた彼は短くそう謝罪を口にする。盆を傾けないようにゆっくりと前に出て、扉に置いた右手を下へずらし中に入った彼の背後で勝手に扉が閉じて空気の流れがそこで途絶える。パタン、という音はまるで外界と部屋の中がその瞬間に遮断される衝撃に似ていた。
 彼は戸口で足を止め、両手で盆を掴み直す。
 白い洗いざらしのシャツは七分丈で、袖口が広い為に布が肘までずれ落ちてしまっている。露になっている手首のうち、右側だけが掌にかけて白い包帯で覆われていた。シャツの裾は脇のところで前後に分ける切れ目が入っており、太股にかかる部分までの丈が長いものだった。彼はその腰の部分に黒い組紐を巻き付けてウェストで縛っていて、いつも手にしている扇子は畳まれてそこに挟み込まれていた。
 下は黒、それもただの真っ黒ではなく墨を絞ったような微妙な色合いだ。柔らかな布地はゆったりとしていて身体のラインを隠している。腰の部分と同じように足首のところを紐で縛っているが、こちらの色が白かった。
 見慣れない格好、普段着にしているあの赤と黒の文様が際立つ服装よりは随分とラフな印象を与えてくれる。シャツの襟刳りは大きく開いていて、鎖骨とそこに連なる肌が隠そうともせずに露になっていた。
 鍛え抜かれた筋肉が見え隠れしている、彼は着痩せするタイプなのだと今頃知った。
「……なに」
 物珍しいものを見たと彼を見上げていたら、あちらも其処から一歩も動こうとせず人の顔をじろじろと見ている。居心地の悪さを感じてライは腰を引き気味にしながら上目遣いに彼を見上げた。朝焼けの太陽を思わせる赤い髪が、今は心持ちくすんだ色合いに見えるのが気になった。
「いや、思ったよりも元気だと」
 セイロンはそう曖昧に笑って言葉を返し、ゆっくりと脚を交互に前へ出して扉前から移動した。
 胸の前に掲げた盆を揺らさぬように配慮しつつ、ベッド脇に置かれた椅子の横に移動を果たす。彼はそのまま盆を傍らの棚に置き、椅子へ腰掛けようとして躊躇してやめた。
「元気じゃ悪いか?」
 自力でベッドに身を起こしていたことを言ったのだろうセイロンに、つい嫌味で返してしまう。ライは右足を庇いながら身体全体を揺すって腰の落ち着き先を探し、枕を縦に起こしてベッド脇の壁の間に差し込んだ。
 凭れかかると、ただ座っているだけの時よりも少しだが楽になった。
「そうは言っておらん、安心しただけだ」
 セイロンは行き場のない右手を宙に浮かせ、そのまま右側へと伸ばし棚の縁を掴んだ。中指の先が置いてある盆の角を擦る。押されて僅かに身じろいだ盆の上には丸い土鍋らしきものが蓋をされ、隙間から微かな湯気を立てていた。
 それは店でも使っている食器で、粥や鍋料理を供する時に使っている一人用の小振りなものだ。脇には白いレンゲも添えられていて、怪訝に眉を顰めたライは土鍋からセイロンに視線を移した。
 彼はライの動きに気づいていて、少し言い難そうに目線を上向けた後、左手で頬を掻き苦笑した。
「大鍋のまま持ってくるわけにはいかんであろう?」
 言われて、ライも「ああ」と頷く。蓋を開けてもらうと辛うじて見えた中身は案の定粥で、それまで蓋で封じ込められていた湯気が一気に立ち上り視界が一瞬だけ白く濁る。ライが作るものとは若干異なる匂いが混じっていて、覚えの無い香辛料か材料に首を捻った。
 蓋を逆さまにして棚の隙間に置き、代わりにレンゲを浅く差し入れたセイロンが盆ごとライへと差し出す。
「薬膳粥だ。勝手に台所を使わせてもらった」
「それは別に……いいけど」
 手習い程度の料理、にしては見栄え良く出来ている。匂いも最初は違和感を覚えたが、慣れてしまうとどうって事は無い。緑と赤、黄色の野菜が細かく刻まれて水をたっぷりと含んだ米の間に紛れ込んでいる。
 上に添えただけのレンゲの先が、時間をおくに従って己の重みで沈んでいく様が見えた。このままだと全体が粥に埋没してしまいそうで、気づいたセイロンが慌てて端を持ち上げて縁に傾け直した。
 けれどライは動かない。ベッドの上で半身をセイロンに向けているものの、両手を差し出して盆を受け取ろうという気持ちが全く彼にはなかった。それはセイロンにも充分伝わっていて、彼は困惑気味に盆を手にしたまま中腰で動きを止める。
 もう一度盆を差し向けるが、ライに変化は生まれなかった。
「店主」
 食べなければ治るものも治らない、少しでも栄養を摂取して体力を回復させるのが怪我人の務めだ。今のライは、以前アルバが怪我をした時と同じ状態にある。あの時彼は、彼の為にあんなにも奮起したではないか。
 それなのに、どうして。
 困惑が広がるセイロンをちらりと盗み見たライは、ぶすっとした表情で頬を膨らませて両手を伸ばしている脚の上に置いた。
 右太股は左のそれと太さが違ってしまっている。ケットの上から撫でるように触れれば、ずきんとした痛みが奥歯を伝った。
「店主」
「食べさせろ」
「は?」
 胸の奥がもやもやして治まらない。傷の痛みもそうだけれど、それ以上にもっと、言葉にし辛い苛立ちがライの内側を騒音響かせて駆け巡っている。
 考えがまとまらない、落ち着かない。腹立たしいのに、それを的確に表現できるだけの語彙が自分の中にない。
 だから八つ当たりに近いぶっきらぼうな声は、不自然なくらいに我が儘な道へとライを誘った。
 セイロンが聞き間違いだろうか、と目を丸くする。ストンと椅子に落ちた腰、彼の手の盆が左右に揺れて粥の中のレンゲが半分沈んだ。
「だから」
 室内は薄暗い。誰かが眠っている間に灯してくれたらしいランプが、少し離れた場所にある机の上で燻っているくらいだ。床に落ちる影は色濃く、無数に折り重なって不可思議な世界を演出していた。
 鳥の声さえ聞こえてこない、仲間たちはもう寝入ったのだろうか。静か過ぎる空間でふたり見詰め合って、ライは募る苛立ちを堪えるのを諦め、セイロンに向かって僅かばかり身体を突き出した。
「食べさせて」
 わざと口を開いて彼に示す。乗り出して傾いた身体を左腕で支えていると、鼻先に薄くなった粥の湯気が掠めて行った。
「俺は怪我人」
 だが怪我をしたのは脚であり、腕ではない。現に今も自由に上半身を動かしているライの主張に、セイロンは益々顔を顰めさせ渋面を作る。そんな我が儘は聞けないとでも言いたげな視線、けれど真正面から受け止めたライもまた負けてはいない。
 結局先に折れたのはセイロンだった。
 深々と溜息を零し、座っている己の膝に盆を下ろす。半分以上沈んでいたレンゲを再び引き上げた彼は、どこか草臥れた様子で背を丸めて粥を外から内へ向けて渦を書くように掻き混ぜ始めた。
 分かれば良いのだとひとつ鼻息を荒く吐いたライは、前向けていた姿勢を戻すと両手を使ってベッド脇に居場所を替えた。力の入らない右足は左足で慎重にずらし、セイロンとの距離を詰める。
 左目に眩しいものを感じて瞳を細めて、光源が何だろうと横を向いたらそれは誰かが置いていった水の入った瓶と、その細長い首に逆さ向きに嵌められたグラスだった。ランプが灯す光が水の中で乱反射し、ライの目を刺したらしい。
 辛うじて手が届く範囲だったので、ライは腕を伸ばしそれを掴んでグラスを外す。いつから置かれていたのか温くなっている水を注いでひとくち飲むと、自分の身体が意識していた以上に乾いていた現実に辿り着いた。
「店主」
「ん」
 空になったグラスを両手に抱いて手持ち無沙汰にしていたら、横から呼びかけられて顔を上げる。瞬間目の前に突き出された湯気にまみれたレンゲに目を剥いて驚き、ライは何事かと身を仰け反らせてそれを避けた。
 ピントが合わなくてぼやけていた視界に、気難しそうに口元を歪めているセイロンがいる。
「あ……」
「要らぬのなら帰るぞ」
「ごめん、要る」
 自分でせがんでおいたくせに、何をやっているのだろう。宙ぶらりんになっているレンゲを引っ込めようとしたセイロンの低い声に慌て、ライは引き離した分の距離を詰めてレンゲにかぶりついた。
 前歯と閉じた唇で窪みに沈んでいる粥を引き出す。一緒にレンゲがついてきそうになったのは、セイロンが握りを強くして支えてくれたお陰で問題なかった。
 問題があったのは、別のところだ。
「あふっ、あふひ……」
 いくら冷めかけていたとはいえ、それは表層部分に限られたこと。底までかき混ぜなおされた粥は熱を取り戻し、一息で呑み込むのも難しいくらいだった。当然ライも舌に火傷を負う寸前で、吐き出すのだけはどうにか回避したが噛み砕くことも出来ない粥は暫く彼の口の中で大暴れを展開してくれた。
 上を向いたり、下を向いたり。無意識に開きそうになる唇を両手で押さえ込んで必死に堪え、涙目をきつく閉じたライはぐっと息を詰めて粥を呑み込んだ。
 セイロンは空になったレンゲを手にしたまま、どうにも出来なくて困惑を顔に出してうろたえている。大丈夫か、のひとことさえ出てこなくて、彼はライの膝に転がったガラスのコップを拾い上げて棚に戻すのだけが精一杯だった。水を与えようという思考にも至らず、たっぷりと時間をかけて粥を飲み下したライにきつく睨まれ、恐縮して椅子の上で小さくなる。
「ちゃんと冷ませよ、馬鹿!」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
「お前は自分で食べる時に冷ましたりしないのかよ!」
 唇と舌の根がひりひりするのも構わず怒声をあげたライに、言い返したセイロンだったが更に畳みかけられて口篭もる。指摘された通り、自分で食べる時はレンゲに掬った後息を吹きかけて冷ますもので、人に食べさせる上での配慮をすっかり失念していた彼は、馬鹿と重ねて言われてももう反論できなかった。
 レンゲを土鍋に突き刺し、やり場のない憤怒を込めてかき混ぜる。けれど自分に非があるのは明確であり、吐息ひとつで気持ちの整理をつけた彼はレンゲ半分ほどに新しく粥を掬い、持ち上げた。
 今度はしっかり、息を吹きかけて冷めるのを待ってからライへと差し向ける。
「ん」
 肩から上をセイロンの側へ乗り出して口を開く。差し入れられ、口を閉じ、レンゲが引き抜かれる時に啄ばみ切れなかった粥が唇の端から滴り落ちた。濡れた感触を感じてしまった、とライは一瞬閉じた目を見開くが、視界の端から何かが迫ってきてまた目を閉じてしまう。
 撫でたのはセイロンの親指で、彼は当たり前のように滑りと拭って腕を引いた。そのまま自分の口元に寄せて伸ばした舌先で掬い取った米粒を口腔内へと引き込む。一部始終を見てしまったライは自分の口の中にある粥を咀嚼するのも忘れ、ボッと頭に火を焚いて赤い顔を俯かせた。
「店主?」
「なんでもない!」
 それなのにセイロンはちっとも照れた様子が無い。一連の行動に彼は何の作為も無かったのだと思えば理解出来ないことも無いが、自分ばかりが意識させられるのは正直、悔しかった。
 ただライが口惜しげに奥歯で柔らかな米粒をすりつぶしている間にも、セイロンは粥をかき回してはレンゲに掬い、息吹きかけて冷まして次を待っている。そうやって食べるように促される度に何故か毎回無意識に目を閉じてしまって、レンゲとの距離感が最初はうまくつかめなかったのだが、数回やっているうちにセイロンの方がタイミングを見切ってくれたようで、口を開けば直ぐに粥が口の中に運ばれてきた。
 まるで雛鳥に餌をやっている気分だといわれ、ならばお前が親かと言い返せばそんな歳ではない、と怒られる。気づけばふたりで笑いあっていて、粥の減り具合も明らかに早くなっていった。
 誰かと喋りながらの食事は楽しいし、心が温かくなる。相手が彼であれば尚更だと思っている間に、カランとレンゲが落ちる音がした。
「セイロン?」
「終いだ」
 もごもごもと口を動かしながら歯の隙間に挟んでしまった野菜の切れ端を舌で引っ張り出していたライに、セイロンは両手を空にして万歳のポーズを取った。
 見下ろせば彼の膝に載せられていた土鍋は確かに綺麗になっていて、あれだけあったものがもう無くなったのかと思うと物足りなさを覚えてしまう。空腹は解消されたが、満たされていない。昼も食べていないのだから当然だが、すきっ腹にあまり大量に入れるのも宜しく無いとセイロンは御代わりを許してくれなかった。
 代わりに、と彼は盆を棚へと移動させ、緩い袖の中に手を差し入れた。
「なに、それ」
 取り出されたのは緑の葉で幾重にも包まれたもの。大きさは掌ですっぽり包めるくらいだから、中身はもっと小さいだろう。
 彼はそれを左の掌に載せ、ライに示した。覗き込んだライは視線だけを持ち上げて彼を見返す、問いかけに肩を窄めた彼は葉の包みを固定していた白く細い紐を解いた。指で解し、広げる。
 出てきたのは黒く丸い物体だった。特徴的な匂いが鼻をつき、思わずライは仰け反って顔を引き剥がした。粥に感じた匂いよりも倍以上凶悪な香りをしている、葉に包まれているときは感じなかったから、きっと葉自体には防臭効果があったに違いない。
 ベッドの上で上半身を転がしたライに、セイロンは予想通りの反応だと声を立てて笑った。
「うー……眼の奥がジンジンする……」
 後頭部をクッションに沈めた彼は、持ち上げた右手で眉間を抓み涙を堪えて呻いた。セイロンも笑い止んで、その丸い物体を棚に置く。グラスへと水を注ぎ込んだ彼は改めて黒い球体を指で掴み持ち、ライの前へと運んだ。
 即座に顔を背けて避ける。近づけられてはたまらないと鼻を布団に押し付けた彼の涙目に、セイロンはあきらめろと容赦がない。
「造血作用のある薬草を煎じたものだ。飲んでおけ」
「いやだ」
「店主」
「絶対、嫌だ」
 そんな臭いものを飲むくらいなら、一生ベッドの上で生活する方がマシだ。
 無論売り言葉に買い言葉なのだが、一瞬でも本気でそう思ってしまうくらいの凶悪な臭いがその丸薬からは発せられている。セイロンはよく平気だなと盗み見ると、彼は慣れているからなと笑うばかりだ。
 わざわざ自分のために用意立ててくれたのだろうとは思う。アカネの師匠が作った薬もそうだが、シルターンの薬は兎に角良く効く。しかし反面材料となる薬草の入手が困難だったりする為、値段も半端ない。この丸薬ひとつだって、売りに出せば幾らになるのか想像が付かない。
 右足を庇いながら上半身を捻り、布団の上で横向きに体を倒す。左頬に布団の柔らかさをいっぱいに感じ、呼吸を楽にする為その前で右手をついたライは恐々と上目遣いにセイロンを見上げ、パッと視線を逸らした。
 握りこんだ両手の拳がシーツを巻き込み、無数の皺を刻んでいる。セイロンは諦める様子が無い、ライが丸薬を飲むまで梃子でも動かないだろう。
 脳裏に浮かぶのは、淡く輝く月の光だ。
「ライ、御主の体のためだ」
 椅子から腰を浮かせたセイロンの声が重く頭の上に圧し掛かる。顔半分をシーツに埋め、ライは握った右手を開いた。肘から肩に掛けて力を込める。
「じゃあ、さ」
 ――もうしない。
 見上げる先にいる彼と、あの夜の彼は本当に同一人物なのだろうか。
 自分に触れるのにも遠慮が見え隠れする今の彼が、本当に自分の知る彼なのだろうか。
 ――だから、どうか今まで通りに。
 そんなの、無理だ。出来ない。
 時間は動いている、思いは動き出した。自分を誤魔化して、嘘をついて、表面だけを取り繕って、それでどうにかできる程人の心は軽くない。
 こんなに親切にしてくれるのは、どうしてなのだろう。こんなにも気を配ってくれるのは、どうしてだろう。気遣ってくれる、その気持ちを嬉しいと感じているのは何故なんだろう。
 ――ライだったからだ。
 だったら、どうして。
「店主?」
 ライは頭を振った、今にも泣きそうな顔をしてセイロンを見上げる。何かを堪える口元が微かに震え、気づいた彼は驚いた風に目を丸くして両腕を後ろに引いてしまう。
 確かにあの時彼に伝えたはずの言葉が、想いが、空回りしている。
 重荷だったのだろうか、枷になったのだろうか。
 もしそうなのだとしたら、では何故、今もこうして傍にいてくれるのだろう。わざわざライに心を配ってくれるのだろう。
 期待してしまう、こんな風に触れられると。彼もまた自分を好いてくれているのだという期待が、確信に変わりそうで揺らいでいる。
「飲ませて……セイロン」
 伸ばした手、指先が彼のシャツに絡みつく。
 俯かせた顔は、彼から表情を隠す。長い前髪に覆われた額とそこから覗く鼻筋、僅かに突き出た唇だけを視界に収め、果たしてセイロンは何を思い、感じ取ったのか。空気が停止したふたりの間を沈黙が流れ、耐え切れなかったライは喘ぐように息を吸って吐き、セイロンを掴む手に力を込めた。
 薄い布地ごと身体を前に引っ張られた彼は狭まった互いの距離に困惑した目でライを見返している。僅かに泳ぎ気味の瞳が彼の葛藤を如実に表していて、じれったさを覚えたライは強い気持ちを込めて同じ単語をことばに乗せた。
「しかし」
「いいから」
 ――もうしない。
 彼の中に巡っている誓いが重石になっているのは分かっている、それを言わせたのがライである事も本人は充分承知している。
 それでも。
「……いいから」
 潜めた声、唾を飲んだ直後に告げたことば。彼の袖に縋ったままの腕に力を込める、見上げる先間近に宿る赤く鈍い光が僅かに剣呑に、凶暴な野獣の色を濃くしてライを貫いた。
 近すぎて彼が今どんな顔をしているのかが分からない。けれど射抜かれた瞳から目を逸らせず、ライはもう一度口腔を濡らす唾を飲みこんで息を潜めた。
「知らぬぞ」
 低い、地の底から響くような彼の声が。
「次はもう、止められぬ」
 彼の吐く息が鼻にかかる。濡れた唇が迫るのが分かり、ライは全神経が麻痺したように頷いて目を閉じた。
 溜息が聞こえる。
「……止めてやれぬ」
「いい」
 躊躇が見え隠れする言葉に、ライは静かに首を横へ振った。
「とめなくていい、から」
 額を覆う髪が擦れ合う。互いの吐く息を肌に感じて、心が震える。心臓が波打って激しく鐘を掻き鳴らし、全身の毛が逆巻く感触に背が粟立つ。
「セイロン」
 薄く瞼を持ち上げて彼を見る。獣の瞳は月明かりの夜よりも濃く、暗く、ライを見据えている。首筋へ落ちていく彼の息が熱い、まだ何もしていないのに体中の血が逆流してどうにかなってしまいそうで、ライは彼の腕を掴んでいる指で爪を立てた。瞬間跳ね除けられ、逆に拘束される。布団に磔にされた右手の上に彼の左手が覆いかぶさり、指を絡めて強く握られた。
「ンぅ――――」
 反射的に身を引こうとした身体を追いかけて、セイロンが上から飢えた獣宜しくライに圧し掛かる。肩を肩で押されて身動きが取れぬまま、起こしたばかりの身体を再びベッドへ横たわらせられて呼吸が止まった。
 荒々しくあわせられた唇から吐息が漏れる。ただ我武者羅に貪りつくだけの口付けには恐怖しか宿らなかったが、次第に息を合わせて角度を変えていくうちに、不意に胸の奥から塊になった熱が競り上がってきてライを困惑させた。
 上唇に牙を立てられ、閉じようとしたところを未然に防がれる。
「ふっ……ぅ……?」
 そのまま熱がもぐりこんでくるのかと期待して待っていれば、彼は一度頭を引いて離れていった。なんだろう、と左目だけを持ち上げて彼の動きを追う。ピントのずれた視界で彼は、左膝をベッドに乗り上げた姿勢で横を向き、水を張ったグラスを口元に傾けているところだった。
「セイロン……?」
 自由になった右手を持ち上げ、彼の裾を引く。腰帯代わりの紐の飾り房がふわふわと掌に当たって肌を擽る、その柔らかなさわり心地に笑みを浮かべていたら、落ちてきた影に邪魔されて再び手はベッドの上へ。
 口を開けろ、と顎を親指で下向きに押さえられ、大人しく従う。最初から右に少し角度をつけて重なってきた彼は、すんなりと侵入を果たしたライの咥内に濡れたものを流し込んだ。
 水、それも微かに苦味を伴った。
「ん……」
 鼻で息をし、ライは受け止め切れなくて口端から漏れる水に喉が濡れるのも構わず、自分から彼へと舌を差し出して流れ込んでくるものを受け止めた。目を閉じると触れてくる舌先の動きまでもが闇の中で明らかに感じられて、先端を擽られて喉の奥に引っ込めようとした時一緒になって何か大きな塊が前歯に削られながら落ちてきた。
 苦味が強くなり、思わず吐き出したくてライは顔を顰める。
 けれど頭の下に潜んでいたセイロンの手が離れるのを許さず、逆にしっかりと抱えて合わさりを深くしようと企んでくる。鼻に抜ける呼気にも苦い味が伝わってきて、嫌だと首を振っても放してもらえなかった。
「んぅ……っは――――ぁ」
 舌で押し出そうとすればまた上から覆いかぶさるセイロンが阻止し、行き場を失って右往左往するそれは最終的に呑み込むほか無かった。喉の奥に溜まった水もいい加減苦しくて、ライは涙目を隠さずに喉を反らせた。
 生温い水なのか唾液なのか分からない液体と一緒に、飲みこむ。溢れ出た水が顎を濡らし、しゃくりをあげるように立て続けに口の中にあるものを呑み込んだライは、やっとのことでセイロンから解放されてゼイゼイと息を吐いた。
 口の中にはまだ苦味が残っている。紛れもない、あの丸薬だ。
「うー……最低」
「飲んだな」
「初めてが酒の味で、次が漢方臭い――お前俺のこと嫌い?」
 唾を呼んで口の中を漱ぎ、何度も嚥下して洗っているライの上でセイロンは涼しい顔だ。濡れた顔を拭う手は優しいが、正直嫌味のひとつも言いたくなる。
「……そう思いたければそう思えば良い」
「だから」
 ライの顔の右横に腕を置いているセイロンの低い囁き声に、ライは持ち上げた手で彼の赤い髪を捕まえると力任せにただ引っ張った。
 当然痛みを訴えかける彼に、口角を歪めて意地悪く笑いかける。
「そういう言い方、卑怯」
 髪から離した手のうち人差し指だけを伸ばして彼の鼻頭を小突き、にっと不遜な態度を取ったライに、セイロンは一瞬顔を顰めてから不機嫌そうに唇を尖らせた。
 ライは呵々と声を立てて更に笑い、彼の尖った唇に自分から顔を寄せて触れるだけのキスをして、だるさが残る両腕を奮起して持ち上げると彼の延びきった首に絡めた。頸椎の後ろで交差させ、両腕をだらりと先を下にしてしがみつく。ちっ、と啄んだ唇から漏れた音色に僅かに頬へ朱を走らせたライは、そのまま落とした首を左に傾けて顔を伏した。
「俺……――言ったよな?」
 あの時に。
 くぐもった声にセイロンは反応しない。ただ静かに細めた瞳でライを見つめ、その内側を覗き見ようとしている。だから大人は狡いし卑怯だ、と吐き捨てたくなる気持ちを振り切り、ライは下唇を咬んで胸の内側に篭もる息を掻き消した。
「ライ」
「言ったよな」
 熱に浮かされる中、痛みに嘆く最中で。夢か現実か、その狭間さえも曖昧なうちに言った思いを。
 ライは決して忘れる事が出来ない。
 あれが真実であり、あれが全てだ。偽りはそこに宿らない、たったひとつの純粋過ぎる願いが、あのひと言に込められていた。
 それを、簡単に妄言として片づけられてしまいたくはない。
 気付いて。そして、応えて。
「……ああ」
 長い時間を掛けて、セイロンがやっと吐き出したことばにライは一呼吸置いて、目を数回に分けて瞬かせた。
「セイロン?」
「聞いている」
「だったら」
「言えと?」
 教えて、と言う前に先手を打たれたことばに、ライは目を数回瞬かせて言葉をそのまま飲み込んだ。
 言われて、問われて。
 気付いた、その気恥ずかしさに。
 自分で言うならば簡単だ、だがそれを相手に言わせるとなると。ましてや、そういう類に不得手というべきか、そぐわない相手の言葉となると。
 改めて思う、彼に直に目を向けて言われるかもしれないその気恥ずかしさを。
「う、えっと……」
 ライは瞳を浮かせ、横に漂わせて声を詰まらせた。気付かされるとかなりこれは、肩身が狭くなるとでも言うのだろうか、落ち着きが足りなくてそわそわしてしまう。
 確かに言うのは簡単だ、あの時彼が言うばっかりにして自分の反論を抑え込んだのを思い返すとすんなり得心もいく。だが聞きたい気持ちは嘘ではない、問題になるのは、そう。
 果たして言われた瞬間の自分が平常心でいられるかどうか、だ。
 そもそもあの夜、ライが最終的にどういう行動に出たか。セイロンを突き飛ばして逃げたではないか。 
 昼間にセイロンが最後まで言わずに去ろうとしたのだって、彼の配慮の賜物だ。ライがこういう状況に慣れていないのだと知っているからこそ、敢えて身を引こうとした彼を引きずり込んだのは、他でもないライだ。
「だから……」
 今度こそライが逃げないという保証は無い。自分から煽っておいてまた逃げ出すなんて、恥の上塗り以外の何者でもない。けれど真正面から受け入れる覚悟が無いのなら、この場は本来流すべきだった。
 セイロンはライに決断を迫っている。そして彼は、ライがまた逃げたとしても簡単に受け入れ、許すだろう。
「セイロン」
 真正面から見上げた先に、彼が居る。
 答えは出ている、自分の導き出した結論はひとつだ。ならば、逃げる必要なんてどこにもない。だったら。
 分かっているから。
「……お前は、だから、俺のこと」
 好きか、嫌いか。
 単純な二者択一。
 迷いを孕んだライの瞳に、数秒の間を置いて彼は微笑んだ。二秒前は強気で、一秒前は弱気だったライの全てを受け入れてあまりある笑顔で、彼は柔らかな笑みを浮かべて彼の鼻筋にそっと口づけを落とす。
「聞きたいか?」
「……」
 間近で見上げる赤は、燃えるようだと表現したのが嘘のように、綺麗だった。これは火ではない、もっと違う何か――そう、日の出の太陽よりも、日暮れ時の太陽よりももっと赤い、大地を焦がす灼熱の炎だ。
 ライは静かに頷く。乾いた口腔の唾を呑み、確信めいた思いを込めて、力の籠もった瞳で静かに彼を黙って見返した。
「愛しておるよ」
 だから、と声を潜めてセイロンが掌を返した。
 ライの胸を優しく撫で下ろしていき、脇腹を擽るように動き回る。くすぐったくて身を捩ったライは、けれど逃がさないと反対の手で頭を抱えられて額に口づけを受けた。
 開いた目の前に、セイロンの赤い艶がかった唇がある。
 ぼうっと見上げていると、顔を下ろした彼と間近で目があった。
「セイロン?」
「ライ……お前が欲しい」
 唇が触れあう寸前の距離で告げられた言葉にライは息を飲み、目を見張る。
 臍の周辺を撫でるだけだった彼の手が逆向き、ライの下肢へと触れた――その刹那。
「――――――!!」
 ズガーーーン! と、素晴らしい騒音が室内に轟き、頑丈に建てられているはずの宿全体が雷にでも打たれたかのように揺れ動いた。
 きっと寝入っていた仲間たちも一斉に、何事かと驚き飛び起きたに違いない。
「な……っ」
 ライは真っ赤になりながら、荒く肩を上下させて息を吸った傍から吐き出している。握り締めた拳は右手が脇に引き締められ、左は腹の下辺りで小刻みに震えていた。右足から鈍痛が響くものの、それを上回る衝撃に感覚が麻痺してしまってあまり気にならない。左足はベッドの下に垂れ下がり、爪先が床板を擦っていた。
 彼の上にいた人物は、――向かい側の壁に背中を預けて天井を仰いでいる。
「……なっ」
 濡れた声が次第に乾き、冷静になれない思考がライの頭の中でぐるぐると縦横無尽に駆け回る。
 背中を壁で痛打したセイロンは低く呻いて頭を振り、腹筋に残る痛みにこみあがってきた吐き気を堪えた。そしてはたと我に返り、もう片方の手を前に出して床を殴りつける。
「なにをするか!」
「それはこっちの台詞だ!」
 バンッ、と勢いよく床を殴ったはいいものの、当然ながら痛みは手首を抜けて肘まで駆け抜けていって、けれどそれさえも意に介せず続けて怒声を上げたセイロンに、負けじとライも太股に残っていた布団を抱きかかえて怒鳴り返した。
「なにがだ!」
「だっ……お前が変なところ触るのが悪いんだろ!」
 ぎゅぅぅ、と両手で束にした布団を力いっぱい抱き締めたライの赤い顔を見て、セイロンはぎょっと表情を間抜けに竦ませた。照れている、というのか。見ている分には非常に可愛らしいが、こういう状況下でそういう顔をされるのはセイロンも予想外だった。
 まさか、という思いが胸を過ぎり、彼は床に突き立てたままだった腕を引いて腰を浮かせる。ズボンにまとわり付いた埃を叩いて払い落とし、一歩ライのいるベッドに近づこうとしたら、向こうは同じタイミングで腰を捻ってベッドの奥に移動を試みた。
 右足が痛むのか、自由に動かない所為で彼の身体はその場に留まり続けている。じれったそうに更に腰を捩った彼は赤い顔のままセイロンから顔を逸らした。
「変なところ?」
「だって……だって、汚い」
「いや、だからな。ライ」
「それに俺、今凄く変だし。おかしいし」
 益々布団に抱きついて顔を俯かせているライの前に立ち、セイロンは膝を折った。自分をつい今しがた蹴り飛ばしたばかりの脚をそっと撫で、傷が酷くなっていないかを確認する。
 触れた瞬間にライはぴくりと全身を硬直させ、肩を小さくして可哀想になるくらい怯えた目に涙を浮かべた。そうやっていると実年齢以上に幼い彼が姿を現し、苛めている気分になってセイロンは肩を竦める。
「汚くなどないぞ」
「でも」
 両脚を閉じて一瞬だけだがセイロンが触れた昂ぶりを隠したライは、三度同じ単語を繰り返して首を振った。
 その様を涼やかな顔をつくろって見守っていたセイロンだったが、彼の背中にはじわりと冷たい汗が噴き出ていて、心の中ではまさかな、という思いが次第に色濃く状況を優勢にさせていた。
「あー……ライ、ひとつ確認したい」
 確か彼は今年で十五になるはずだ、それは間違いない。だから当然、最低限の知識は持ち合わせているとセイロンは踏んでいた。けれど実際には、この反応。
 特にそういう事柄には敏感になる年代に達しているはずの彼を前にして、俄かには信じがたい。一連の行動には確かに反応があって、手応えが皆無ではなかったのだけが救いではあるが。
「……なに」
「その、だな。赤ん坊はどうやって生まれてくるか、……当然、知っておるな?」
「……」
 ライが沈黙した。
 セイロンの問いの意味を取りあぐねているのか、それとも真剣に考え込んでいるのか。はたまた、あまりにも当たり前すぎる問いかけにあきれ返っているのか。
 出来れば最後であって欲しい。
「ばっ、馬鹿にしてんのかお前」
 数秒の間の末、ライは胸に抱いた布団を拳で叩き潰し喚いた。聞いていたセイロンがあからさまにホッとした表情を浮かべ、益々憤然としたライはもう一発布団を殴りつけてそれから赤い顔をそっぽ向けた。
 壁に斜めに伸びている絵画の影をジッと見詰めて、
「て……天使が運んでくる」
「――は?」
「だから! 結婚した夫婦のところに、天使が運んでくるつってんだよ!」
 至極真剣な表情をして、間違っても照れ隠しで誤魔化しているような素振りは一切ないままに、ライは握ったままでいた拳でセイロンの横っ面を思い切り殴り飛ばした。
 しかもセイロンは逃げもせず、また堪えようともしなくて反動のままに床に横向きに倒れこむ。
 目を丸く、呆然と見開いた彼の頭の上で星がチカチカと瞬く。脳裏にはリビエルが赤ん坊が入った編み籠を手に空を飛んでいる、というなんとも間抜けな光景が描き出され、セイロンは夜だというのに、何処かから烏の鳴き声を聞いた。
「…………」
 落胆に気持ちが沈んでいく。そのまま泣きたくなって、彼は額を床に押し付けた。

2007/3/25 脱稿