天水

 空模様がどこか怪しいなとは思っていたが、まさか人が出かけようとした瞬間に降り出すとは予想していなかった。
 エレベーターホールを抜けて、手ぶらの両腕を何気なく左右に揺らす。甲高い足音が反響する白壁のロビーからロック式の玄関を通り抜けようとした時になって初めて、透明度の高いガラス戸の向こう側に広がる無機質なアスファルトが雨に濡れているのに気が付いた。
「げっ」
 玄関を開けてエレベータに乗る前は、確かに降っていなかったのに。
 高層階から地上階へ移動している短期間に、雨雲は気まぐれを起こしてくれたらしい。
 獄寺隼人は揺らしていた両手でガラス戸を軽く叩き、額を押し付けて外の様子を窺う。見ている間にも勢いと量を増していく雨の行方に、彼は深々と溜息をついて長い銀髪をまだるっこしそうに掻き上げた。
 面倒だが自室まで戻って傘を取ってこなければ。本格的に降り始めた狭い雨空を軒の下から恨めしげに見上げ、彼はちぇ、と舌打ちし腕を下ろして踵を返す。
 途中すれ違った親子連れは、機嫌が悪いと分かるオーラを放っている獄寺を大回りで避け、傘の花を咲かせて町に繰り出していった。
 後姿を視界の端に追い、雨のカーテンに遮れて見えなくなるのを待ってから、彼は戻りついたエレベータのボタンを無造作に拳で叩く。既に一階で待機していた鉄の籠は軽い電子音を響かせて両側に扉を開き、彼を迎え入れた。
 雨の音が街中に溢れている音を隠してしまっているような静けさだった。
 面倒な手間をかけさせられた分、切れてしまったニコチンへの依存度が増した獄寺は苛々と爪先を撫でる雨粒を蹴り上げ、左手に持った傘をくるりと回した。
 ビニルの表面で爆ぜた粒が横へと飛び散り、行過ぎる車のボンネットに弾かれて砕ける。儚い雨粒の一生に瞳を眇めた彼は、行き場の無い右手を擦り切れたジーンズのポケットへ乱暴に捻じ込んだ。
 乾いていたスニーカーは、数分と経たず水を含んで重くなる。裾が綻んでいるジーンズも、路面を擦るたびに水を吸い込んで靴に絡みついた。踵を覆う布を踏みそうになる、失敗したと彼は顔を顰めたが最早どうしようもない。
 こんな日に煙草を切らすなんて、最悪だ。折角の休日、溜め込んでいた映画DVDでもみようとテーブルに置いた煙草の箱に触れたら、中身は空。昼食を作る最中に吸ったのが最後の一本だったらしく、食後の一服も満足できないのが不満で、買い置きを探したが見付からない。
 そのうち、そのうちを繰り返しているうちに、底が付いてしまったらしい。自業自得でしかないが、こういう時の腹立たしさは果たしてどこにぶつければよいのだろう。
 仕方なく獄寺は部屋の片付けも、映画も諦めて家を出た。その矢先に降り出した雨。
 気持ちが荒むのも致し方ない。
「ちっ」
 アスファルトの窪みに溜まった水を跳ねつけ、彼は肩から浮いた傘の軸を傾ける。大股に乗り越えた水溜りに傘から落ちた雫が音を立てて無数の王冠を作り上げた。泥水が側溝に流れ込んでいく音が低く響いている、彼方から唸りを上げて近づいてくるのは乗用車だろうか。
 片側一車線、速度超過だと音を聞くだけでも分かるエンジン音に獄寺は唇を歪め、癪に障ったが自分が撥ねられては元も子もないと道の片隅に自分の身体を押しこんだ。
 けれど。
 背後から迫ってくる車の気配は確かにあるのに、若干の違和感が彼の脳裏を掠めていく。なんだろう、変な感じがする。獄寺は眉間に皺を刻み、確実に近づいてくる車の地響きにまとわり付く奇怪な感情を脇へ流した。
 キィィィ、という金切り音。
 ドスン、と何かと何かがぶつかりあう音。
 彼のすぐ真横を直進していく車、広げた傘を煽った暴風に彼は一瞬身を竦ませて腕に力を込めた。流されそうになった傘を捕まえ直し、車が跳ね上げた泥水の冷たさを左半身に感じ取って彼は大仰に顰めっ面をして過ぎ去っていく車を睨みつけた。
 冷えた空気に霞みがかった視界、雨に遮断された視界で白いボンネットの車は呆気なく彼の前から姿を消した。耳の奥にまだ残っている急ブレーキ音が忌々しく、獄寺は濡れた左腕を振り乱すと伸ばした小指を耳の穴に突き刺した。
 水は入っていない、だが背筋を這い登った不可思議な気配に彼はぞっと鳥肌を立てた。
 車は獄寺とすれ違うとき、若干左右に進行方向をぶらせながら進んでいた。慌ててブレーキを踏んだためだろうが、もうちょっと運転手がハンドル操作を誤っていたなら、最悪獄寺に追突していた可能性もある。
 実際には起こらなかった想像に寒気を覚え、彼は下ろした腕で身体を抱くと小さな溜息を零し足元に視線を落とした。さっさと用事を済ませて家に帰ろう、濡れた身体も温めたい。
 ほう、と零した吐息、合わせて吸い上げる空気に水の気配が濃い。そこになにか、嗅ぎなれているようでそうでない違和感を見出して獄寺は伸ばしていた眉間の皺をまた深くさせた。
 そんな難しい顔ばかりしていると、ずっと皺が寄ったままになるよ。そう笑いながら言った人物が即座に思い浮かび、獄寺は首を振る。一緒になって傘が横回転し、水が散った。
 片手で口元を覆い隠す。脳裏には敬愛する綱吉の姿があるのに、彼の身の回りに漂うのは雨ともうひとつ、明らかにこの場に異質なものの臭いだった。意識した瞬間に胃の中で昼に食べたばかりのものが逆流し、喉を圧迫する。獄寺は吐き気を堪えると首筋を撫でた生温い空気に全身の産毛を逆立ててその場で二度、足踏みをした。
 振り返る。
 あの車は、高速で狭い路地を突き進んでいる最中に急ブレーキをかけた。
 直後に聞いた、何かがぶつかり合う音。あれの正体はなんだ。
 路上に放置されているゴミかなにかかと思った、でももし違うとしたら。
 クゥン……と鼻から抜け出る微かな声が聞こえる。
 人のそれとは違う音域の、そして雨を叩く小さな足音。
「……」
 獄寺はゆっくりと背後へ視線を流し、前を向いて、それから斜め下へと目線を移した。
 雨に濡れた道、灰色に覆われた空。無機質なブロック塀、どれも同じに見える家々の屋根模様と少ない緑。通り掛かる人の姿も無く、遠くからは路上で傘を差し立ち尽くす獄寺の姿が掠れ気味に見えたことだろう。
 彼はやがて、長い時間をかけて膝を折り、手首から先までが雨に濡れるのも構わずに両腕を真っ直ぐ前へと差し出した。
 全身を雨に浸し、滑らかな毛並みをぐっしょりと潰した子犬が獄寺を警戒して牙を剥く。迫力に乏しいながらも己が持つ本能のままに獄寺へと吠え付け、立ち去れとでも言わんばかりに彼を牽制し続ける。
 だが獄寺は無感情な瞳を更に曇らせ、子犬ではなくその子犬が背後に庇っているものに触れた。
 キャイン、と子犬が一際甲高い声で鳴いた。その瞬間だけ、獄寺は躊躇するように伸ばした指を引き攣らせ、空中で雨を弾く。だが徐々に弱くなる子犬の気配に息を吐いて首を振り、目の前にある壁を突き破るかのように彼は傘を手放し、力なく路上に横たわるものを抱き上げた。
 ザアアと雨が彼を包み込む。
 降りしきる雨は勢いを増したわけではないけれど、遮っていた傘を失った獄寺の耳には痛いくらいに地表を叩く冷たい水飛沫が反響する。
 親犬を抱え上げられ、まだ生まれて幾許もしないだろう子犬は懸命に前脚を持ち上げた。獄寺の膝に乗りかかり、諦めずに吼え続ける。瞳には怒りと恐怖と孤独と不安とが入り混じり、両掌に伝う冷たさも相俟って獄寺の心をきつく締め上げた。
 吐く息が白い。
「…………」
 何かを言いかけ、結局何の音を紡がなかった彼の唇が静かに閉ざされる。
 彼は蹲っていた身体を起こそうとして肩を揺らし、後ろに落ちた自分の傘を思い出して身を捻る。動いた膝に引きずられて子犬がひと鳴きし、横倒しに水溜りの中へ小さな体を投げ出した。
「あ……」
 ズボンに泥が跳ねた冷たさで気づいた獄寺が、貧相な顔を更に貧相にさせた濡れ鼠、ならぬ濡れ犬の顔を見下ろしてしまった、と唇を歪めさせる。
 彼はひっくり返っている子犬の首に手を添えて起こしてやってから、内側で雨を受けている傘を拾い上げ、中にたまっていた水を排水溝へと追い遣った。縦に構えなおすと、軸を伝って掌に水が滴り落ちてくる。
 片手で胸に抱いた犬はもう動かない。立ち上がろうとして、しつこいまでに食い下がってくる子犬に吐息を零した彼は、再度膝を折って死んだ犬を抱く手の平を広げた。
 意図を察したのか、子犬は最初こそうろうろとその指先を擽るように動いていたが、獄寺の背後をまた別の車が駆け抜けて行った瞬間に恐怖が先走ったのだろう、きゃいんという吼え声と共に彼の腕へと飛び移った。
 動くものと動かないもの、暖かいものとそうでないもの。ふたつを片腕に抱いた獄寺はもう片手で傘を支え、背筋を伸ばし立ち上がる。しっかり水気を吸い込んだジーンズはみずぼらしい限りの様相を呈していて、俯くと鼻先を雨に薄められた鉄錆た臭いが掠め通る。子犬はそれでも親犬の伏した瞼を懸命に舐めて呼びかけつづけており、その声を五月蝿いと咎めることも出来ず獄寺は途方に暮れたように周囲を見回した。
 土気のないアスファルトとコンクリートで覆われた世界。雨に濡れ、薄暗く先がないように見える世界。
 孤独の海に放り込まれた気分に苛まれ、獄寺は肩を震わせると目的地も決めずに歩き出した。
 交互に脚を、まるでぜんまい仕掛けの人形のように動かす。上下の振動が伝わり、子犬は怯えた風に顔を上げて獄寺を窺い見るが、彼は何の反応も返さずぼんやりと濁った目で前ばかりを見詰めている。
 通り過ぎる自転車、何処かからか聞こえてくるテレビの音。右から入って左から流れて行く無為の音に首を傾けた彼は、やがて右手前方に無機質な住宅地とは違う場所を見つけて歩みを止めた。
「公園……」
 掠れた声はまるで自分のものではない気がして、獄寺は浅く唇を噛み締めてそちらを目指す。人も居ない雨の公園は静まり返っていて、誰かが忘れていった帽子がベンチの上で物悲しげに雨に押し潰されていた。

 ピンポーン、という軽い電子音が雨を掻き分けて響く。
「はいはーい」
 丁度階段を下りている最中だった沢田綱吉は音に顔を上げ、どたどた足音を立てながら玄関へ向かった。
 台所から顔を覗かせた奈々に、大丈夫と手を振って合図を送り鍵を開けてチェーンも外す。どちらさまですか、と扉の向こうへ呼びかけながら重くも軽くもない扉をあけた。
 瞬間、ぬっと前に出た黒い影に、彼は喉の手前まであがった悲鳴を必死に押しとどめた。 
「わわっ」
 けれど動揺は隠し切れず、綱吉は踵を擦って浅く履いていたサンダルを残し、後ろ向きのまま玄関の段差を飛び越えた。
「……ぃめ」
 半身を後ろへ引き、胸の前に持ち上げた腕で身体を庇った綱吉の耳に、覚えのある声が響く。
 中途半端に開いたドアに身体を引っ掛け、ぐっしょりと全身頭の先から足先までを濡らした人物が、重たそうに額に張り付いた髪の毛の隙間から綱吉を見詰めていた。片手は胸元に引き寄せられ、灰色のジャケットには赤黒い色が斑模様を刻んでいる。やや歪に膨らんだシャツを着て、その人物は暗く澱んだ水の色を思わせる瞳を力なく揺らした。
「獄寺君?」
 鉛色の髪は先端からぽたぽたと絶えず雫を零し、乾いていた沢田家の玄関先を濡らした。ズボンからも、シャツからも、布地が吸いきれない水が滴り落ち、それらと一緒に獄寺の生気までもが地に沈んでいくのではと思われた。綱吉は今にも意識を失って倒れそうになっている獄寺に息を飲み、二秒後我に返って彼に歩み寄ろうと右足を前に出した。
 が、一秒半後には考えを改め、
「入って、ドア閉めて」
 ドアから吹き込む冷たい風に眉根を寄せてから指示を出し、そこにいてと言い残して彼は踵を返した。そのまま奥にある洗面所へ向かい、途中台所に顔だけを覗かせて母親になにやら告げる。乾いた足音を立てて戻ってきた彼の両手には、真っ白に洗濯されたバスタオルが載せられていた。
 綱吉は玄関先まで戻ると、言われた通りドアを閉めて屋内に入ったものの、ずぶ濡れのために靴を脱ぐのさえ躊躇している獄寺の頭に向け、無遠慮な手つきで持ってきたタオルを広げた。ふわり、と風を受けて裾をはためかせながらタオルは獄寺に覆いかぶさり、本来の役目を全うすべく柔らかな肌で獄寺にまとわり付く水気を吸い込み始めた。
 だが到底、バスタオル一枚で足りる筈がない。
「どうしたのさ、そんなになって」
 傘を持ってこなかったの、と綱吉が呆れた声で両手を伸ばし、身体を斜めにしながら獄寺のタオルに隠された顔を覗き込む。指先が荒い目地のタオルに触れ、ぐしゃぐしゃと髪の毛を巻き込みながら荒っぽく拭き始めた彼にも獄寺は無言で、気の抜けた――或いは死んだ魚のような目をぼんやりと見返すばかりだった。
 反応がない、首を傾げた綱吉はふと、もぞりと動いた獄寺の胸元に気づいて視線を落とす。
 指から力が抜けて行き、タオルから離れた右手が獄寺の肩へと落ちた。それを合図としたわけではなかろうが、更にもこりと膨らんでは凹んだ獄寺のシャツの襟首から、唐突にこげ茶色の塊が飛び出してきた。
「わっ」
 今度は腰を抜かしそうなくらいに驚いて、綱吉は爪先が獄寺のシャツに引っかかったままだというのも忘れて身をよじり腰を引く。前に引きずられた獄寺がよろめき、姿勢が低くなったところで完全にシャツの中から飛び出した塊は玄関の床に四本の脚で降り立ち、盛大に身体を振り乱して体毛にしみこんでいた水を弾き飛ばした。
 きゃん、と甲高い吼え声がそれに続く。
「あ……」
 漸く生物らしき反応をした獄寺と、足元に飛び散った細かな水気に顔を顰めた綱吉がほぼ同時に声を出し、目を丸くした。
 ふたりそれぞれ異なる意味で驚きながら、今度は綱吉の足元でくしゃみをした子犬を凝視する。短い尻尾が怯えているのか後ろ足の間に潜り込み、警戒する瞳は新たな存在である綱吉を睨みつけていた。
 その綱吉は顔を子犬から獄寺へ移し、タオルを引いて表情を隠した彼を下から覗き込む。
「……説明は後で聞くから」
 言いたくないのか、言いづらいだけなのか、唇を浅く噛んだ獄寺に溜息をついて綱吉は身体を引いた。構わないから、と告げて靴を脱ぐように促しその背中を押す。
「お風呂、シャワーだけど。暖房入れてきた、入って」
「ですが」
「ボス命令」
「……はい」
 膝を揃えて曲げ、低い唸り声を上げて四肢を突っ張らせている子犬を難なく抱き上げる。大きな口をあけて牙を覗かせた子犬に、綱吉はけれど臆することなく両腕で冷えた子犬を抱き締めると、まだ動かない獄寺にほら、と肩を向けて顎では通路の奥を示した。
 泳いだ獄寺の瞳が体の左半分だけをこちらに向けている綱吉を捕らえる。彼は子供をあやす要領で、じたばたと逃げようともがく子犬を扱っていた。まだ湿り気を残す背中を繰り返し撫で、自分の服が濡れるのも厭わないで。
「――すみません」
「いいから」
 早く、と俯きっ放しの獄寺を促し、綱吉が先に立って歩き出す。獄寺は視線だけを動かして彼の背中を追いかけてから、内側まで水浸しの靴から爪先を引き抜いた。
 靴下に、靴の色が移ってしまっている。これは乾かしてももう履けないな、と心の中で苦笑して彼は靴下も脱ぐと軽く絞った。雫が糸を引き、縄となってコンクリートの床に沈む。外側に向かって緩やかに傾斜しているのか、水は一直線にドアを目指し染みを広げていった。
「獄寺君?」
 素足の裏をズボンに擦りつけ、無駄とは思いつつ残る湿り気を他所へおいやってから沢田家の玄関に上がりこむ。ズボンの裾から水が垂れ、ナメクジが這った後のような跡が薄茶色の床板に一直線に伸びていった。
 綱吉は獄寺を洗面所の前で待っていて、彼が近づくとドアを開けて中へ誘導する。
 頭に被さったままだったバスタオルで顎を拭った獄寺は、僅かにムッとした熱気を感じさせる狭い空間に口元を歪めた。暖房を入れている、という綱吉の台詞を思いだし、曇りガラスで遮られた浴室に目を向ける。その間に綱吉は手際よく新しいタオルを複数枚用意し、蓋を閉じた洗濯機に重ねた。
「ゆっくり暖まってきて」
「あ、の」
「この子はこっちで面倒見ておくね」
 清潔なタオルを一枚手に取り、もう片手で抱いた子犬を獄寺に示して綱吉は洗面所を出て行く。獄寺が呆然としている前でドアは閉ざされ、静寂に包まれた空間に雨の音は遠くなった。耳の奥に張り付いていたブレーキ音と子犬のけたたましい鳴き声までもが薄れていく気がして、獄寺は最初に被せられたタオルを握り締めるとそこに額を押し当てた。
 重くなった前髪がけだるげに揺らめく。足拭きマットに吸い込まれていく水に呑まれそうになって、彼は緩く首を振ると綱吉の好意に甘えて上着を脱いだ。
 血の臭いが鼻腔を掠める。覚えた眩暈に後ろへ倒れかけた彼は、洗面台の出っ張りを支えにし、その場で短い間項垂れていた。
 

 充分暖まったかどうかは分からないけれど、適温にまで熱せられた湯は温度計で見るよりもずっと熱く感じられた。
 想像以上に冷えて感覚が麻痺していた身体に血流が戻り、動きを鈍くさせていた頭も少しは本来の状態に戻ってきたらしい。濡れた髪の毛をタオルで掻き回した獄寺は、いつの間にか用意されていた水色のスウェットの上下に身を包んで洗面所を出た。
 身体からは薄く湯気が立ち上っていて、手首が丸々覗いている丈が合わないスウェットに苦笑が漏れる。これが本来誰の所有物なのか、考えるまでもなく分かってしまい、嬉しい反面申し訳なさが募って獄寺はまだ濡れている髪を指で抓んで揺らした。
 足首も見事に外に飛び出している。端から冷えて行きそうだなと思っていると、台所から顔を出した奈々がにこやかな笑顔で出迎えてくれた。足元にはランボとイーピンがまとわり付いており、トーンの低い女性の声も壁の向こうから聞こえてくる。
 瞬間、ぎゅるると腹の虫が嫌な音を響かせる準備を始めた。
「ツー君なら、上にいるわよ」
「あ、はい。有難う御座います」
 逃げ腰気味に台所の入り口から遠ざかろうとする獄寺に、奈々が綱吉の所在を教えてくれる。短く礼を返して頭を下げ、落ちかけたタオルを支えた獄寺はばたばたと大急ぎで玄関を回り込み階段を目指した。
 後ろで、奈々が「やっぱり小さいわね」と呟く声が聞こえる。何のことを差しての発言か、口に出せば綱吉への侮辱になりかねず獄寺は笑いを噛み殺して階段を登った。
 途中ちらりと見た玄関では、獄寺の濡れた靴は丸めた新聞紙が突っ込まれ斜めに壁へ傾けられていた。出口側はまだ濡れていたが、身を乗り出し見下ろした廊下には獄寺が歩いた水の跡も残っていない。誰かが、恐らくは綱吉がやってくれたであろう心配りに、不意に涙がこみ上げてきて彼は鼻を鳴らした。
 長くも短くもない階段を登り行き、二階へと到達した彼は通い慣れた扉をその手でノックする。
「はーい」
 中から聞こえて来たのはのんびりとした、リズムも良い明るい声。獄寺はもう一度鼻を啜り、頭から肩へとタオルを移動させて息を吐くと同時にドアノブを回した。
 室内の空気は洗面所や浴室ほどではないものの、この季節にしては少しやりすぎではと感じる温さがあった。窓からではない風を頬に受け、獄寺は視線を上げて部屋のドアが閉められていた意味を知る。彼は素早く綱吉の部屋に体を滑り込ませると、そのまま後ろ手でドアを閉めた。顔をあげていた綱吉も、ドアが閉まる音を受けて視線を己の手元へと戻す。
 そこには広げられたタオルがあり、銀色で底が浅い広口の小皿があった。更にこげ茶色の小さな塊が腹を上にして綱吉の手にじゃれ付いており、暖かな風は部屋の上部から一定の間隔でゆっくりと流れ込んでいる。
「おかえり。……って、これは変か」
 綱吉の前にあるテーブルにはスイッチが切れたドライヤーが。そういえば洗面所に無かったな、と記憶の片隅に引っかかっていたどうでもいい事を思い出し、獄寺は歩を進めて綱吉の傍へ寄る。すると彼は膝を使って腰を浮かせ、テーブル前の狭いスペースを横にずれて場所を譲った。
 強引に、獄寺は開いてしまった分の隙間に体を捻じ込ませ、座る。
「すみませんでした、色々」
「いいよ」
 慣れてる、と唇が動きかけた綱吉は、言いかけた言葉を呑んで無音を空間に送り込んだ。怪訝に顔を顰める獄寺に取り繕った笑みを浮かべて返し、甘えてくる子犬の腹を撫でて擽る。それはすっかり綱吉に馴染んだようで、濡れていた時は分からなかった毛並みの模様が柔らかく浮き上がっていた。もっと色が濃いと思っていたけれど、乾いてみれば何処にでもいそうな野良犬の顔をしている。
「お腹空いてたみたいだね、ミルクをあげたら凄い勢いで飲んでた」
 獄寺が浴室に引きこもっている間の出来事を、綱吉は笑いながら簡単に説明してくれた。
 ランボとイーピンが興味津々に乱入してきて騒ぐので部屋から追い出したとか、ビアンキが用意したミルクを飲ませるわけにいかなくて必死だったとか、ドライヤーで乾かしてやろうとしたら逃げられて転んだとか、そんな他愛もない話を。
 その間獄寺はただ頷くばかりで、一言も発さない。綱吉の手にじゃれつく子犬の顔をしんみりとした表情で見詰めるばかりで、綱吉のことばをちゃんと聞いて、内容を理解しているのかは見ている限りでは分からなかった。
 だから綱吉が一通り報告を終えると、場は静まり返り気まずい沈黙が流れ始める。
 ヴン、という空調が動く音が時折忘れた頃に蘇って、生暖かな風が手元をすり抜けていく。濡れた身体を拭ってもらい、ドライヤーで毛並みを乾かして、暖めたミルクを飲み、綱吉に遊んでもらって、目まぐるしい状況の変化に疲れたのか、暫くすると子犬は眠ってしまった。鼻の周囲と足の先だけが他よりも色が濃く黒い毛をした子犬は、短い尻尾をだらりと垂らして左半身を上にタオルに頬擦りをする。
 伏した耳を優しく撫でた綱吉が、穏やかな表情を変えぬまま子犬の頭を起こさぬ程度に軽く叩いて手を放した。それから、ゆっくりと傍らの獄寺を振り返る。
 ベッドとテーブルに挟まれた狭いスペースに横並びになっているから、身体をちょっとでも動かせば相手の肩に肩がぶつかる。身を引こうとした獄寺だったが、間近から己を覗き見る綱吉の瞳にどきりと心臓が跳ねて動けなかった。
「――で」
 綱吉の短い呟きに、空調の音が重なり合って響く。耳の奥で不意に反響した音に彼は生唾を飲み、竦みあがった身体を抱いて風呂上りだというのに鳥肌を立てている腕を慰めた。
 影が伸びて、髪に触れる。外したばかりの視線を綱吉に戻した獄寺は、彼がまだ湿っている獄寺の髪を気にして肩に掛かっているタオルを引きぬく様をぼんやりと眺めていた。
 生暖かく湿っているそれを広げ、再び頭に被せられる。視界の上半分が白く染まり、獄寺は反射的に背を丸めて姿勢を低くした。上目遣いに見やる綱吉の顔が隠れがちになり、左手をのろのろと持ち上げて端をつまみ上げる。
「どうしたの?」
「……」
 声を潜める彼の表情からは笑みが消えていて、代わりに獄寺を案ずる色に染まっている。獄寺は言っていいものかどうかを逡巡しながら視線を外し、手も下ろして顔をタオルの影に隠した。
「車に……そいつの、親、撥ねられたらしくて」
「――――」
 胡坐を組み、折り重ねた足首に両手を置く。スウェットからはみ出た肌は白く、今にも崩れてしまいそうな砂の人形を思わせた。吐き出した声がそこに溜まっていく、雨からは遮られたのに心の中はまだ土砂降りだった。
 空調の音だけが耳に五月蝿い。部屋の中は窓もしっかりと閉められているから降雨の様は感じられないけれど、濡れた髪がたまに頬に触れ、自分がまだ屋外の公園にいる気分になって獄寺は首を振った。
「最初は無視しようかとも思ったんすけど、結局放って置けなくて、親犬抱き上げたらそいつ、きゃんきゃん吼えるんすよね」
 暖かかった肉体から、熱が消えていく。降りしきる雨に濡れているからだけではない、もっと別の理由であの犬は冷たかった。獄寺の腕の中で軽くなり、重くなった。
 親犬の死を理解しない子犬だけが五月蝿く吼え続ける。蘇った記憶に獄寺は一度だけ肩を震わせ、足の上の手をきつく握り締めた。
 埋める場所を探して辿り着いた公園、晴れた日ならきっと子供達で賑わう場所の片隅に、手で穴を掘った。水を吸っていたのと、人も殆ど入らなくて踏み固められていない柔らかな土だったので苦労はなかったが、さほど深くまでは掘れなくて、むき出しになった木の根に指が触れたところで諦めた。
 被せて覆うには土が足りず、雨で落ちた濡れた葉もかき集めて上にかけて埋めた。その間子犬はじっと、獄寺のやることを見ていた。
 犬は吼えなかった。
 立ち去るかどうかで迷い、汚れた両手を雨に晒して洗ってから獄寺は立ち上がった。踵を返し、振り返る。子犬はその場から動こうとしなかった。
 呼びかけても動かない、冷たい土の中で野ざらしに近い状態になっている親犬の前から離れようとしない。
 振り返らなければ良かったと思う、そのまま立ち去るべきだったとも思う。
 けれど出来なかった。獄寺は出した足を戻し、距離を詰め、子犬を抱えようとして思いがけず反撃を食らい傘を落とした。元々ずぶ濡れだった身体に雨が染み込み、重い鎖で縛られた気分になった。
 傘はその場に置いてきた。雨の中で命を失ったものが、魂を喪ってもなお雨の中に置き去りにされるのは心苦しいと思えたから。
 本当は家に戻るつもりだった、マンションだけれど一日くらいは匿えると思った。
 それなのに気づけば此処に居た。まるで自分が親に捨てられてしまったような気分で、生きている実感もしなくていつの間にか呼び鈴を叩いていた。
 あとは、綱吉の知る通り。
「そ……っか」
 密やかな吐息に織り交ぜながら、綱吉が呟く。彼は優しい目をして、眠っている子犬の体を指で撫でた。甘えるような声で子犬が鳴く、起きたのかと思ったが違うらしい。夢を見ているのか、表情は幸せそうだった。
 獄寺がタオルの内側から綱吉を見詰める。彼はぽつりぽつりと語る、決して綺麗に文章としてまとまっていない獄寺の言葉を、ひとつずつ丁寧に聞てくれた。下手な合いの手も打たず、静かに流れる空気が極寺には嬉しかった。
 彼は右手をあげ、タオルを頭から外した。冷え始めた爪先に落とし、頬に重なった部分を耳に引っ掛けて後ろへと流す。綱吉はまだ子犬を見詰めていて、手は中身が空になった小皿を脇へ移していた。
「辛かったね」
 腕を戻す最中に何気なく彼が呟いたことば。獄寺は僅かに眉根を浮かせて綱吉の横顔を見、それから呑気に寝入っているこげ茶色の子犬を見た。
「そう……っすね」
 恐らくは野良だろうが、唐突に親を失った子犬の未来を思う。飼い主を探す努力はするが、見付かるかは分からない。獄寺の家はマンションでペットは禁止だ、一戸建てに暮らす綱吉に頼むのも気が引ける。この先どうなるのか分からない、行き場を失った子犬に同情しかけていた獄寺は、柔らかな毛並みを撫でてやろうとして腕を伸ばした。
 綱吉が顔をあげる。
「ちがうよ」
 僅かに目を見開いた表情で、真っ直ぐに獄寺を見据える。思わず肩を引いて胸を反り返らせた獄寺は、いったい何が違うのかと目を眇めて彼に向き直った。
 銀髪が視界に揺らいで獄寺の世界を邪魔する。するりと伸びてきた綱吉の指が断りもなくそれを払いのけ、横に退くかと思いきや彼はそのまま、眉間に寄ったままだった獄寺の皺を小突いた。
 抵抗しないまま首が後ろへと傾ぐ。角度の変わった視界の下隅では、綱吉が真剣な表情を崩さない。
「君が」
 背筋を伸ばし、腿に力を込めて倒れかけた姿勢を正す。顔の両脇で髪が揺れている、開かれた中央に綱吉が座っている。優しい、そして力強い、迷いのない瞳が一直線に獄寺を捉えて逃がさない。
 彼は息を呑んだ。呼吸が出来なくて、胸が苦しくなる。じわじわと腹の奥底から上がってくるものに身体全部が圧迫されて、持ち上げた左手で口元を覆い隠す。吐いてしまいそうな気分の悪さに、けれど喉元を通り抜けていったのは胃の内容物なんてものではなかった。
「え……――」
「つらかったね」
 広げられた綱吉の手が、獄寺の髪をそっと撫でた。耳元を細い指がすり抜け、一度肩まで落ちたそれは向きを替えて今度は頭を撫でる。よしよし、と子供をあやす仕草にも似て、見返した綱吉はどこまでも深い笑顔だった。
 辛いのは、親をなくした子犬の方だ。そう言おうとして、言葉が詰まって音にならなかった。指の隙間から漏れ出たのは声にならない声で、ひゅぅひゅぅと喉を擦ってただ出て行くばかり。中指の表皮を前歯で噛む、歪んだ視界に雨が降った。
「っ……」
「いいよ」
 何が、とまでは言わないで綱吉は獄寺の頭を撫で続ける。獄寺は体を前に傾がせ、頭から綱吉の胸にぶつかっていった。
 勢いを殺しきれなかった綱吉の身体が強く揺れたが、倒れるところまでは行かずにやがて静止する。獄寺の頭があった場所に取り残された綱吉の手が、行き場をなくしてもどかしげに拳を作り、床を叩いた。
 獄寺は嗚咽を漏らし、何度も首を振って綱吉に額を押し付ける。抉られるようだ、と綱吉は思った。これと同じ感覚を、獄寺もまた己の胸に感じ取っていたのだろう。
 誰にも吐き出せずに、溜め込んで、押し殺して。
 胸の中に積もり積もった感情が膿を出し、獄寺の心の中で暗い渦を巻いている。
 冷たくなっていく身体、魂が抜けて軽くなったと思った瞬間に両腕に圧し掛かる重み。
 綱吉は彼の過去を深くは知らない、聞いた事は無いしあまり聞きたいとも思わない。彼が語りたくなった時に語ってくれる内容を信じればいいとだけ思っている。だから獄寺が過去にどんな出会いと別れを繰り返してきたのかも、当然知らない。
 深い絶望が彼を支配した夜もあっただろう、孤独感に苛まれて膝を抱き震える日もあっただろう。けれど彼が自ら進んで語った内容ではないから、綱吉は勘繰るだけで確認を求めはしなかった。
 獄寺は怒ったり、困ったりした顔はよくする。笑ったり、呆れたり、そういう表情は綱吉の前で惜しげもなく晒していた。
 ただ、彼はあまり泣かない。
 だから不安になる。彼は自分が悲しいと、辛いと感じる心を、どこかに置き忘れてきてしまってはいないだろうか、と。自分が深く傷ついていることに自分自身で気づかぬように、そうやって自分の心を守るために。
 獄寺の腕が空を掻き、綱吉の脇腹から背中にかけてを勢いのままに締め付けた。
 強引過ぎる締め付けに綱吉は一瞬だけ身を硬くしたが、背中のシャツの皺をたくし上げて掴んだ瞬間獄寺の腕は緩み、呼吸はどうにか保たれた。
 その代わりに胸から下は完全に自分の自由が利かなくなり、困ったなと密やかに嘆息した綱吉は、胸元に埋もれている獄寺の頭を変わらない調子で撫でながら瞳を細める。
 嗚咽はすぐに聞こえなくなって、ただ小刻みに体を震わせているだけになっているが、ほんの数秒でも感情を吐き出せたのならそれで良いと思う。濁った水底の澱となっていた鬱積した感情は、時を待たなくてもいずれどこかで爆発していたはずだ。
 右手を獄寺の頭に添えたまま、左手を斜め後ろへと投げ出す。曲げた小指の先に子犬の温もりを感じ取り、首を動かしたところで獄寺もまたもぞりと動いた。
 冷静さが戻ってきたのか、髪の隙間から覗く耳が心持ち赤い。恥かしさを覚えてか顔を全く上げず、綱吉に寄りかかったまま彼は腕を外そうとしてバランスを崩し余計綱吉に体重を預けて来た。
 シャツの間から覗く鎖骨に彼の髪が当たって、肌が擽られる。
「すっ……みません十代目」
「いいってば」
 許したのは自分だ、と謝る獄寺の上で笑って綱吉は彼には見えないだろうに、手首をパタパタと揺らした。
 それでも獄寺は恐縮しきりで、下ろすに下ろせなくなった腕をしどろもどろに動かした後、結局他に落ち着く先を見つけられず綱吉の上着を握り直した。薄い皮膚が巻き込まれそうになって軽く痛んだが、顔にも声にも、態度にも出さず綱吉は受け流した。
 その綱吉がぽんぽんと丸まった獄寺の背中を叩く。なんだか泣き疲れた子どもをあやしている気分だ。
「落ち着いた?」
「……はい」
 頷かれると、押し当てられている服までもが一緒に上下に動く。首を引っ張られる感覚に綱吉は身体を傾け、背を叩いていた手でそのまま彼を抱き締め返した。
「あったかい?」
「はい」
 問えば獄寺はまた頷き、綱吉の背を掴む手に力を込める。ぎゅぅ、と脇腹を締められた綱吉は苦笑して、背から登らせた手で彼の髪を丁寧に梳きあげた。
 床に流したままだった左手が、子犬に触れる。いつの間にか眼を覚ましたそれは、円らな瞳を綱吉に投げつけてきゃん、と一度だけ吼えた。
 窓の外はまだ雨模様だ、空調は休まずに動き続け穏やかな眠気に人を誘う。こんなことをしている場合じゃないのに、と思うのに安心したからか、それとも綱吉の暖かさがあまりにも心地よかったからか。勝手に閉じようとする瞼を堪えきれず、獄寺は誤魔化そうと綱吉の肩に額を移動させた。更に強く抱き締めて腕の中に引きこむと、彼は抵抗らしい抵抗もみせずに好きなようにさせてくれた。
 背中を、髪を撫でる手はどこまでも優しい。
「今度、花を供えにいこうか」
「そう、ですね」
 外を見ているらしき綱吉の声に頷き、獄寺は両目を閉ざす。
 闇の中、それでも確かな温もりを感じて彼は小さく鼻を啜った。

2007/3/15 脱稿