燦々と輝く太陽は眩しく、穏やかな風に包まれた並盛の里はどこまでものどかだった。
背の低い草が端に茂るあぜ道を抜け、三人は横並びになりながら里のほぼ中央に位置する笹川の屋敷へと向かっていた。
遠くからでも目に付くのは物見櫓で、最上部には半鐘が吊るされ何かあればそれが打ち鳴らされて村中に合図を送る手はずになっている。今は無人で、鐘の音の代わりとばかりに太鼓の音が微かながら蒼空に響いていた。
「祭りですか?」
「うん、もうじきだから。多分練習してるんだと思う」
調子よくリズムを刻む太鼓の音色に首を傾げた獄寺の疑問に、傍らを歩く綱吉が頷いて返す。へえ、と感心した風情で相槌を打った獄寺だが、彼は綱吉の言う祭りがどんなものなのかまるで検討がつかなかった。
「お田植え祭りだな」
「そうそう」
綱吉を挟んで獄寺の反対側に陣取る山本が綱吉に視線を落として呟くと、綱吉はまた嬉しそうに何度も頷いて目を細めた。
暖かな風が吹き抜けていく。田植え前の田には水が張られ、青空を写し取って白い雲が地面にも漂っていた。作業中の村人が何人か、行きすぎようとしている綱吉たちに気づいて頭を下げる。中には近づいて直接声をかけ、山本の肩を叩いては帰って来ていたのかと口々に囃し立てた。
その度に山本は苦笑しながら、口早に昨日遅くだったから挨拶に回れなかったのだと詫びを告げて返していた。
顔なじみの村人は遠慮がなく、いつまでいるのか、何処までいってきたのか、祭りには参加するのかと質問攻めで容赦がない。噂話も少なく、大きな事件も起こることなく日々穏やかに過ぎていく里に置いて、外を巡ってきた彼の旅行記は目新しさに飢えている村人の格好の餌食だ。獄寺も元々は村の外から来た人間であるが、沢田家に居候中ともあって遠慮が働き、更には彼が来た当初の騒動も手伝って、獄寺から話を聞きたいという好事者は未だ現れていない。
道端であるに関わらず、しつこく山本に食いついてくる若い村人にまた今度、と手を振って別れ、道を急ぐ。笹川の屋敷は近いようで遠く、並盛の里が存外に広いというのを改めて実感させられた。
深い山間の隙間に作られた盆地で、気候は穏やかだけれど冬場は雪が多く、夏場は蒸し暑い。里の中央には川が流れ、水量は豊富。農耕に適した土地は盆地故に限られているものの、山を切り開いての焼畑が行われている事もあり、年間通しての収穫物は想像以上に種類が豊富だ。
山の中に分け入れば獣が生息し、肉類も望めば手に入る。だが沢田の屋敷がある並盛山の領内は禁域であり、そこに棲む獣を狩ると一生飢えて食うに困るという言い伝えもあって、良識ある村人は決して足を向けようとはしない。
境界線を知らない他所の村人や旅人が極稀に迷い込む場合もあったが、大体が山に拒まれて奥に行く事無くはじき出されてしまう。本人がそう気づかないうちにいつの間にか里の入り口に立っている場合もある為、並盛山は神隠しの山としても一部では有名だった。
水を張られた田では蛙が輪唱し、頭上を鳶が悠然と飛び交う。小屋の片隅で猫が子育てをしていて、前方遥かだった垣根が次第に大きく、横に長く視界に現れ始めた。
綱吉の足が自然と速くなり、山本がそれにぴったりと寄り添う形で進む。周囲の景色に目を向けながら歩いていた獄寺が若干遅れ、最終的には三歩以上の距離が開いてしまっていた。
遠くからだと全景が見えていた笹川家も、今は垣根に阻まれて屋根の一部が見えるだけ。茅葺の屋根はかなり横に広く大きく、ひょっとすれば沢田の母屋よりも建物だけならば広いかもしれない。首を傾けて見上げなければならない白壁の土蔵だけは瓦葺で、どっしりとした外観に獄寺は溜息をついた。
綱吉と山本の背中は垣根で囲まれた敷地に沿って伸びる道を曲がり、一瞬だけ獄寺の視界から姿を消す。慌てて追いかけた獄寺の耳に、唐突に途絶えていた太鼓の音が飛び込んで来た。思わず仰け反って後ろ向きに倒れそうになって、獄寺は履いていた下駄の歯を地面に強く押し付けることでどうにか堪えた。
前を行くふたりも顔を見合わせ、肩を竦ませつつ笑っている。凄いね、と綱吉が呟いているのが唇の動きから読み取れて、獄寺は体勢を立て直すと大股に進んでふたりの間に肩を割り込ませた。
「おっと」
「行くんだろ」
後ろへ身体を反らして避けた山本につっけんどんに言い放ち、獄寺は振り返り様で瞬時に表情を変えて綱吉へはにこやかな笑顔を向けた。
そのあまりの変わり身の早さに苦笑し、山本は頬を引っ掻きながら視線を浮かせる。綱吉は気付いていないのか、それとも分かっていて敢えて受け流しているのか、獄寺に笑いながら頷いて止めていた足を前へと繰り出した。
彼の背中を押すように獄寺が後に続く。まだ動き出さない山本に向かって思い切り睨みを聞かせてきた彼に嘗ての自分を重ね合わせ、山本はやれやれと首を横に振って自分もまた歩き出した。
南向きの門は沢田家のそれよりは簡素な造りであるものの、充分訪れるものを圧倒させる迫力が備わっている。重そうな観音開きの扉は内側から閂がされていて、横にある勝手門が開放されていた。綱吉はそこを潜り抜け、敷地内へさっさと足を踏み入れる。獄寺が家人に断り無く入っていいものか躊躇していると、追いついた山本に仕返しとばかりに背中を突き飛ばされた。
互いの喋る言葉さえ聞こえづらさを感じる太鼓の音色が続いている。遠くからでは分からなかったが、この距離からだと女性の歌声も混じっているのも伝わってきて、獄寺は物珍しさから落ち着きなく周囲を見回した。
前庭は沢田家のような庭園風ではなく、土の広場がただあるだけ。門入って直ぐに枝ぶりも立派な楠が生えていて、屋敷の南西側には松の木が見えた。門入って正面北向けば屋敷の玄関が大きく解放されていたが、そこに人の姿は無い。建物全体は木材をふんだんに使っている沢田邸母屋とは異なって土壁の部分が多く、軒も若干だが浅い。屋敷右手の空間には藁を編んで作ったとも思われる案山子、なのだろうか、土に串刺しにされた人形が傾いていた。ただ案山子にしておくには置き場所が変だし、何より胴体や顔の部分が殴られた痕なのかあちこち凹んでどれもぼろぼろだった。
綱吉は屋敷の正面から左側へ視線を向け、何かに気づいていきなり右手を高く掲げた。
「おーい」
けれど彼の声は太鼓の音に掻き消され、遠くまで届かない。代わりに山本が腹の底に響く声で誰かに呼びかけ、それと同時に複数の太鼓が打ち鳴らされていた空間が急に静寂を取り戻した。
庭先にいた面々が揃いも揃って手を止め、門の前にいる三人を振り返る。
「ツナ君!」
「おお、山本ではないか」
三者三様、十人十色の反応。数えれば片手で足りない年若い人間が一斉に立ち上がり、中には慌てて転びそうになりつつも駆け寄ってくる存在もあった。女性半分、男性半分といったところ。獄寺も見知っているハルの姿も混じっていた。
ただし今の彼女は、以前のような小袖姿ではなく、紺絣に赤の帯と襷、脚絆に手甲で頭には手ぬぐいが。絣の下から花模様の腰巻が覗いていて、思わず見入ってしまった獄寺は顔を赤くして慌てて視線を逸らした。
「ツナ君、ひさしぶり」
「京子ちゃん……お兄さんも、お久しぶりです」
「うむ、沢田も元気そうでなによりだ」
綱吉に駆け寄ったのは小柄な少女で、京子という名前らしい。彼女はハルとほぼ同じ出で立ちで、ただし頭の手ぬぐいは外していた。綱吉よりも若干明るく、色が抜け気味の栗色の髪に、幼さと女性らしさが同伴した年頃の娘だ。
彼女の傍らには、日に焼けすぎたのかすっかり色が抜けた髪を短く刈り揃え、鍛え抜かれた上半身を惜しげもなく晒している男性の姿が。年は獄寺たちよりも少し上、恐らくは雲雀と同年代だろう。綱吉が「お兄さん」と呼んだが、間違っても本当の兄ではあるまい。推察するに京子の兄、といったところか。
京子の横にはハルも並んでいて、見てみてと絣の袖を抓んでその場で幾度か飛び跳ねた。
「ツナさん、どうですか? 可愛いですか?」
「あー……うん、似合ってるよ、とっても」
にこにこと微笑んでいる京子にちらりと視線を投げつけてから、綱吉は若干しどろもどろにハルへ褒め言葉を返した。表情がやや引き攣っているのは、いつもながら元気がはちきれんばかりの彼女に圧倒されているからだろう。
白髪の青年は山本に向き直り、その肩を叩いていた。手と腰にさらし布を巻きつけ、下は白の股引と足袋、頭には捻り鉢巻で、あの壮大な太鼓の音は彼が響かせていたのだと楽に知れた。
彼は何度も山本の肩を着物の上から叩き、その肉付き具合を確かめている。山本は彼のやりたいようにさせてやりながら、ふと遠くから自分たちを見詰めている黒髪の青年に目を向けた。
視線が合った瞬間、向こうが慄いたような素振りをしてぎこちなく歩み寄ってくる。
「おひさしぶりーっす、持田先輩」
「お、おうっ」
腰の強そうな髪を乱し、右手と右足が同時に前に出ている青年は、挨拶を繰り出した山本に向かってやたらと大きな声で返事をした。その視線は女子に囲まれている綱吉と横に立つ山本へ交互に向けられていて、どちらかと言えば綱吉に注がれている時間の方が若干長い。
但しハルに話しかけられて答えるのに必死の綱吉は彼の視線にまるで気づかず、困った表情を浮かべながら甲高い声で詰め寄る彼女を懸命に宥めていた。
「いつ戻ったんだ?」
「昨日の夜遅くっす、了平さん」
「や、山本! 今日、今日こそ決着をだな!」
「持田先輩、まだ諦めてないんすか?」
「当たり前だ!」
和やかに会話を開始しようとした山本と、了平と呼ばれた青年の間に割り込んだ持田が、右の拳を握り締めて前へと突き出した。が、山本は呆れ気味に肩を竦めてみせ、顔を赤くした持田が力みすぎから裏返った声で叫び返す。
横が俄かに騒々しくなり、ハルは言葉を止めて傍らを見た。京子と綱吉も同じく視線を向け、いつの間にか近くに来ていた持田に漸く気づいた綱吉は一秒後ハッとして、急に方向転換すると山本の背後へ回りこんでしまった。
彼の背中に身を小さくしながら隠れる。悪戯を叱られる子供のような素振りに、一同は目を見開いて驚いてから一斉に持田へ視線を向けた。
びくり、と全身を震わせたのは当の持田だ。
「お、俺は別に何も……っ」
「あー、でも持田さん、ちっちゃい頃からツナさん虐めてたし」
「なんだ、沢田。まだこいつが怖いのか」
ハルと了平がほぼ同時に発言し、持田から移った視線を浴びた綱吉は益々萎縮して山本の後ろで小さくなった。
「俺の所為かよ!」
「他に誰がいるのよ」
ぽかり、と持田の頭を叩いたのはそれまで離れた場所に佇んでいた長い黒髪の女性だ。やや大人びた雰囲気を身にまとっているものの、服装はハルや京子とほぼ同じ。腰巻はふたりとは違って、少し色合いが大人しめだった。
彼女は髪を後ろへ流し、叩かれた場所を痛そうに撫でている持田に呆れ果てた視線を投げつける。京子はそういえばそうだったかな、と唇に人差し指を押し当てて空を見上げた。ハルがそうですよ、と横から喚きたて、了平と山本は楽しそうに笑っている。
居た堪れない様子の綱吉が益々小さくなっていくのが分かって、持田はその場で地団太を踏み虐めてなどいない、と主張して憚らない。
「嘘はいけませんよー。持田さん、いっつもツナさんの髪の毛引っ張ったりしてたじゃないですか」
「そっ、それはだな」
「そういえば、お習字の時間もよくツナ君の邪魔してたかな」
「根本的にやることが子供だったわ」
「そして雲雀にやり返されて教室の隅でよく泣いておったな」
「だからっ」
「持田先輩、ツナのこと大好きだったからなあ」
「やまもっ!」
「…………」
この場に居合わせた獄寺以外の面々は、幼少時からハルの父親がやっている寺子屋塾で学んでいた。机を並べて一緒に学び、遊び、全員が幼馴染のようなもの。多少の年齢差はあるものの、年かさの子は年下の子の面倒を見てやり、分からないことは教えてやり、そうやって育ってきた。
だから彼らが幼い頃を知らない獄寺だけが、会話から取り残されてしまう。自分が入り込む余地を見出せず、彼は遠巻きに皆がはしゃぎながら談笑する様を眺めるほかなかった。
強烈な疎外感。自分は此処にいてはいけないのだといわれているようで、獄寺は哀しいというよりも虚しい気持ちにさせられた。
「あー、そうそう。先輩、手合わせどうします? 今やるならお相手するけど」
山本の脇から顔を覗かせては即座に顔を引っ込める綱吉に肩を竦め、山本は持田に向き直って腰帯に挿していた木刀に手を伸ばした。即座に彼は身構え、表情を険しくして山本を睨み返す。
「やめておけ、持田。お主、山本から一本取れた試しがないだろう」
「うっせぇ!」
雰囲気を読み取った了平が間に入って調停役を買って出るが、彼の言葉で余計頭に血を上らせた持田は聞く耳を持たない。
「待ってろ、今獲物もって来る。そこで大人しくしてろよ!」
「先輩こそ、このまま逃げないでくださいねー」
「山本……」
了平と似たり寄ったりの格好のまま勝手門を抜けて行った持田を見送り、綱吉がくいっと彼の袖を引く。木刀から手を外した彼は「ん?」と脇へ視線を落とし微笑んだ。
「大丈夫だって、負けないから」
「あいつも昔から変わらんなー」
綱吉は小さい頃、頻繁に持田に苛められた。大体その後、雲雀や山本が彼に仕返しをして事が収まっていたのだが、幼少時の習性はなかなか治らず、大きくなった今でも綱吉は持田を見かけると緊張し、萎縮してしまう。雲雀と山本の背中は彼の格好の隠れ家で、ふたりが傍にいない時に持田に会った場合などは一目散に逃げ出す癖がついてしまっていた。
いくらなんでもそれは酷いと思うのだが、脚が勝手に動くので本人の意思ではどうにもならないらしい。
それでいて持田は山本や雲雀にも妙な敵愾心を持っていて、何かとふたりに突っかかっていく。特に山本に対しては、同じ剣術の道を志していた過去も手伝って、頻繁に試合を挑んでは都度返り討ちにあっていた。
その辺りも含め、了平は持田がちっとも変わらないと繰り返ししきりに頷く。
聞いていた京子とハルが声を立てて笑い、黒髪の少女――花は呆れた顔で肩を竦めた。持田が去ったのにまだ山本にしがみついている綱吉は、恨みがましい目で一同を見回して唇を尖らせる。
「他人事だと思って」
「他人事だし」
花が素っ気無く言い捨て、落ち込んだ風に頭を垂らした彼にまた皆が笑う。了平など豪快に胸を仰け反らせ、太鼓の音にも負けない威勢の良さで笑っている。むしろそれくらい笑い飛ばしてくれた方が、嫌な気分まで一緒に飛んでいっていっそ晴れ晴れしい。
ひとしきり笑って飽きた彼は、鉢巻を解いてそういえば、と綱吉に視線を向けた。
「今年は、出んのか」
「え?」
「そうですよ、ツナさん。ツナさんの分もちゃんと用意してあるんですよ?」
「紺絣、みんなで新調したの。ツナ君も合わせていかない?」
「え」
了平の言葉を皮切りに、ハルと京子が揃って手を叩いて綱吉に詰め寄った。
彼女らの物言いから何が用意されているのかを悟った綱吉は、山本から手を離しその姿勢のまま後退した。草履の裏が乾いた土を踏締める、しかし離れても彼女らは追い縋ってきて、綱吉は助けを求める目で山本を見上げた。
彼はにこやかに、感情が読み取りづらい笑顔を浮かべていた。
「お、いいなそれ。俺も見たい」
「山本!」
「ですよねー」
「きっと似合うよ、ツナ君。今年こそ一緒に早乙女歌、歌おうよ」
ね? と目を細めた京子に話を向けられても、綱吉は頷けない。大体自分には田植え祭りの神事を取り仕切るという仕事が待っている、とてもではないが祝詞を上げた後に早乙女衣装に着替え、斎田での田植え供養にまで手を広げていられない。
それでなくとも昨年は祝詞を途中で失敗してしまい、大恥をかいたのに。
「だめ、駄目だってば!」
「えー、でもみんな楽しみにしてるんですよ? ヒバリさんだってきっと見たいって思ってますよー」
ハルが心底残念そうに握った拳を胸の前で振り回す。
そもそも綱吉は男なのに、村の娘に混じって神事である田植え祭りの早乙女の格好をするだなんて。普通考えれば罰が当たりそうなものだ。
それなのにこの場の誰も反対しない状況に綱吉は心底疲れ果て、最後の頼みの綱だと獄寺を探して後ろに視線を飛ばした。
だが。
「あれ?」
間の抜けた声が漏れ、騒いでいた他の子供達も声を静める。
「どうした、沢田」
「獄寺君が」
腕組みをした了平に問われ、綱吉は困惑気味に持ち上げた指を唇へと押し当てた。同じく振り向いた山本も、此処まで一緒に来た人物がいつの間にか姿を消している事実に眉を潜ませる。
「獄寺?」
「はえ、獄寺さん居たんですか」
了平は獄寺と面識が無いから分からないとしても、言葉を交わしたことさえあるハルまでもが彼に気づいていなかったのは些か驚きだ。
それくらい綱吉と山本の登場は、村の子供達にとっては嬉しい衝撃だったのだ。後ろにいた獄寺に全く意識が向かないくらい、彼らは話に夢中だった。
誰もが顔見知りの中で、獄寺だけが取り残されていた。幼少期での共通する思い出話をされても、外から最近来たばかりの彼は話についていけないに決まっている。気配りを忘れていた綱吉は、影も形も見えない彼を探し視線を彷徨わせた。
ふむ、と頷いた了平が気落ちしている綱吉の肩を叩く。
「まあ、いないものは致し方あるまい。それより、お前達。今日はどうした」
まさか綱吉が早乙女の衣装合わせと歌の練習に参加しようとして、里へ降りてきたわけではあるまいし。声高に笑い飛ばす了平の明るさに少しだけ気持ちを引き締めた綱吉は、すっかり忘れていた本来の目的を思い出して右の袖口に左手を差し込んだ。
獄寺は後で探そう、広い里とはいっても彼が知っている場所は限られている。村から出て行くことはないだろうし、夕刻が迫れば自分から帰って来るようにも思う。
その後で謝れば良い。
「今年の雲読みの結果を、ヒバリさんから預かってきました」
少し皺が寄ってしまった文を取り出し、了平へと差し出す。几帳面な文字が認められた書に目を落とした彼は、急に真剣な表情を作ってそうか、と低い声で呟いた。
数年先、彼はこの笹川の家を引き継ぎ、沢田家とは別の方面から村を支える重要な立場に立たされる。
急に厳粛な雰囲気が周囲を包み、両手で文を持った綱吉から了平は両手でそれを受け取った。
「確かに」
左右の腕の動きを揃えて文を顔の前に掲げた彼は、深々と綱吉に頭を下げて踵を返す。そのまま一直線に屋敷へと入って行って、残された五人は互いに神妙な顔をして向き合った。
最初に噴出したのは妹の京子で、似合わないとけらけら笑い出す。
普段が大雑把で細かい事など一切気にしない、実に大らかな性格をしている了平だから、今の生真面目な対応とあまりに落差がありすぎておかしい。腹を抱える京子につられ、花やハルも一斉に笑い出す。綱吉も嘆息してから山本を見上げて小さく笑い、そのまま澄み渡る空に目を向けた。
獄寺は何処へ行ってしまったのだろう、今まで黙って姿を消すなんて無かった。
彼は幼い頃にあまり楽しい経験をしていない。友人と些細な悪戯をして叱られたり、日暮れ前の川べりで蜻蛉を追いかけたりすることもないのだろう。周囲は大人ばかりで、期待と恐怖半々の視線を常に投げつけられていた。息の詰まる環境は如何程か、想像しただけでも胸が苦しくなる。
もっと気を配ってあげるべきだった、目の前のことしか見えていない自分の視野の狭さが嫌になって綱吉は唇を尖らせるとその場で俯いた。そこを山本が、気にするなと言わんばかりに彼の肩を抱いて引き寄せ、乱暴に頭を掻き回して大人しくなった綱吉を慌てさせた。
「山本!」
「気にすんなって、腹が減ったら勝手に帰って来るさ」
「そうですよー、ツナさん。それよりも、ほら。衣装合わせしましょうよ」
「ハル、だからそれは」
着ないと言っているのに、通じていない。綱吉は彼女に片腕を取られて引っ張られ、つんのめりながら仕方が無いな、と乾いた笑みを浮かべた。
一方その頃、獄寺は連なる田圃の隙間を縫うようにして走る畦道をひとり歩いていた。
頭上では鳶が円を描きながら甲高い声でひと啼きして西の空へと飛び去り、両側の田圃では作業中の村人が鍬を振るって汗を流している。
山本や綱吉が一緒の時とは違い、彼らはちらりと通り過ぎようとしている獄寺に視線を投げるものの、親しげに声をかけたり歩み寄ったりはしない。作業の手を休める事無く、そこを獄寺が通り掛かっていようといまいと同じこととして扱っている。
まるで空気のように。ならば一瞬の涼を齎し通り過ぎる一陣の風よりも、自分の存在は彼らにとって劣ると言うのか。
こちらから歩み寄れば、彼らもまた応じよう。だが笹川の屋敷で綱吉たちを囲む村の若者達を遠巻きにして以降、彼は少々気が立っていた。眉間に皺を寄せて荒々しく足を踏み出している様を見れば、誰だって近寄り難く感じるに決まっている。だがそれすら気づけなくなっていた彼は、益々身に沁みる疎外感を募らせて大仰に息を吐いて肩を落とした。
里に来た当初に比べて、幾分環境にも慣れたと思っていた。
奈々に頼まれて遣いにでたこともあるし、綱吉に(強引に)ついて里へ降りたことも何度かある。その時はまるで感じなかった違和感が急に獄寺の中で増大して、不安を呼び込んでいた。
あんな風に昔なじみばかりが顔を揃える中では、たった数ヶ月間しか並盛に滞在していない獄寺は完全に浮いてしまう。思い出話に花を咲かせられても獄寺にはさっぱり分からないし、かといって教えてくれと割って入るのは無粋の極みだろう。しかし大人しく後ろで聞いているだけでは自分の心が苦しい。自分にも分かる話をしてくれと頼み込むのはおこがましくて、自然足はあの場から遠退いてしまった。
断りも入れずにでて来てしまったのを、少し悔いる。けれど話しかける隙が見付からなかったのだから仕方が無い。
獄寺は下駄の歯の裏で感じ取る土の柔らかさに舌打ちしながら、畦道を横断して彼の進路を塞いでいる鴨の親子に肩を竦めた。
水の流れる音が遠くから聞こえてきて、顔を上げて右を向く。けれど今度は音が遠ざかった気がしたので反対に向き直って、彼はそこに掘っ立て小屋があるのに気づいた。
外観は荒れるに任せているようで、完全に崩れる前に修繕の手が加えられているのか、見た目はかなりちぐはぐだった。軒下には草が生え放題と思わせて、間から菖蒲の微かな匂いが鼻をくすぐる。水場が近いのか、足を向けると音も次第に大きくなっていった。
と、獄寺の足元が唐突に沈んだ。
「うあっ」
驚きに声があがり、袖口から腕を入れて胸の前で交差させていた両手が外側へと飛び出していく。肩の高さまで肘を持ち上げて身体の均衡をどうにか保った彼は、自分の右足首が泥濘に埋もれているのを見つけて眉間の皺をより深くさせた。
下草の茂り具合に誤魔化され、この距離まで気づかなかったのは完全に迂闊だった。そもそも菖蒲が咲いている段階で怪しいと思うべきだったのだ、獄寺はそうと知らずにいつの間にか湿地帯に足を踏み込んでいた。
視線を北向きに変えれば、村落の背後に聳える並盛山の緑がある。転じて南に目を向けると、掘っ立て小屋の外側に設置された不器用な水車が軋みと共にゆっくりと回転している。獄寺の足元前方には川が流れ、頭上は迫りくる森の緑が濃すぎるくらいの影を伸ばしていた。
知らぬうちに大分村はずれまできていたらしい。この辺りまでは足を向けた経験が無い獄寺は物珍しげに水車が回る様を眺めながら、泥から足を引き抜いた。しかし下駄の歯は湿った土に絡め取られていて、鼻緒を強く挟んでいたつもりだったのだが見事にすっぽ抜けた。
「くそ……」
人が苛々している時に、余計腹立たしい。忌々しげに舌打ちした獄寺は、首を擽る銀の髪を後ろへと流すと腰を曲げて泥汚れのついた鼻緒を指で抓んだ。
引き抜く瞬間にねっとりとした泥の感触が腕にまで伝わってきて、寒気がする。日陰になっている湿地帯とあって気温も若干低いらしく、彼は下駄を履くかどうかで躊躇しながら案山子の如く片足立ちで暫く思案した。
緑黄色の菖蒲の花が、扁平形の葉の間から顔を覗かせている。芳香の強さに眩みを起こしそうになった彼は首を振り、仕方が無いと諦めて下駄を足に当てると後ろ向きに数歩下がった。
濡れた下駄の表面が気持ち悪い。顔を顰めやり過ごそうと必死の獄寺は、耳障りな水車のギィという音にまたも顔を顰め、不機嫌に小屋を振り返った。
早く去ろう、綱吉たちも用事が済めば屋敷へ帰るはず。日暮れまでに戻らなければ彼らもきっと心配するだろう。そう思いながら野袴の裾にこびり付いた泥を落とすべく、再び腰を曲げて姿勢を低くした獄寺は、ふと小屋の端に転がっているものに気づいて首を傾げた。
黒く、丸い……いや、細長い。その先には白く細い筒状のものが繋がっており、更に横長く藁を編んで作ったと思われる袋、だろうか。
いや。
いや、違う。
違う、これは袋などではない。
「まさか」
獄寺は一瞬にして顔色を青くし、足元の泥濘になど構いもせず水車小屋へと駆け寄った。
「おい!」
呼びかける、けれど返事も無ければ反応も無い。
「おい、しっかりしろ!」
菖蒲の匂いが充満し、立ち眩みさえ覚える空間。緑の合間に埋もれるようにして倒れている男を抱え上げ、獄寺は険しい表情のままその肩を前後に揺さぶった。
知らぬ顔、血の気の失せた額に青紫の唇。だがまだ辛うじて息がある。
「しっかりしろ、どうした!」
年の頃は四十台前半だろうか、獄寺に肩を掴まれた男は低く呻き、薄く瞼を開いて彼を見上げた。力の感じられない濁った色に、獄寺は奥歯を噛み締めて男が呟こうとしている言葉を懸命に拾い上げる。
風が吹いた。微かな、とても微かだけれど、とてもとても懐かしい匂いが胸の中を過ぎっていく。
瞬間、驚愕に目を見開いた獄寺は、力尽きた男の手が地に落ちるのを呆然と見送る事しかできなかった。
2007/3/15 脱稿