黒南風 第二夜(前編)

 荒く浅い呼吸を繰り返す幼子が目の前に横になっている。周囲は一面の闇、静寂に響く彼の呼吸だけが耳を貫き、心が震えた。
 今にも途切れてしまいそうなか細く弱い息と、苦しげに歪められた表情。尽き果てようとしている目の前の小さな命に、果たして何がしてやれるというのか。
「お前にしか出来ないんだ」
 諭す声は後方から。
「こいつの手を取った以上、お前は救わなければならない。でなければお前と一緒に共倒れだ、誰も報われない」
 遠く雷が轟く。空を劈く光と音に一瞬だけ明るくなった室内には、幼い影がふたつ並んでいた。
 分からない、とでも言いたいのか。片方が首を横へ振り、膝を折った。白い包帯に包まれた右手を伸ばし、布団に横になっている幼子に翳す。吐き出される呼気から感じ取った熱の強さに驚いた指先は、一瞬のうちに臆して停止した。
 傍らの影が揺らぎ、軒を叩く豪雨の音に幼子の吐息は掻き消される。
 何を、どうすればよいのか解らない。風前の灯と化している命を前に、圧倒的無力を痛感しながら幼子は唇を噛んだ。
「いいや、解っているはずだ。お前が知らなくても、お前の身体は覚えている」
 障子を貫いて繰り返し室内の闇を切り裂く雷鳴の群れ、長く伸びた影の片割れが厳かに言い放つ言葉に、膝を折った幼子は戸惑いの目を脇へ流した。
 無意識に宙を彷徨い、辿り着いた先。真新しい帯を結ばれ、小ざっぱりした葵色の小紋に包まれた自身の身体。幼子が着るには少々小紋の丈が短いのは、それが本来は別の誰かの為に設えられたものだからだろう。恐らくは今布団に包まれている、命朽ち果てようとしている幼児の為に用意立てられた着物。
 明るめの栗毛色の髪に、葵色はさぞかしよく映えたに違いない。自分が着るよりはよほど、似合うに決まっている。
 着ている姿を見てみたかった、苦悶に震える小さな肩を掛け布団の上からなぞり、思う。
「ならば、救え」
 声が続く。答えを問う様に振り返った幼子の視線には応じず、黄金色の頭巾を目深に被った存在は皮肉に口元を歪めるのみ。あくまで自分で考えろという姿勢に、真紅の瞳を揺らした幼子は戸惑いがちに己の胸元に目をむけ、手を添えた。
 感じ取る二重の拍動。幼子は左胸に手を置いたまま、足元へ流した視線を這わせ深い闇に眠る子の顔を窺い見る。
 この子が苦しまなければならない謂れは、無い。ならば、選び取る道はひとつきり。
 やめろ、と地の底から響き足掻く声を無視し、幼子は両手を畳の目地に沿って添えた。身を乗り出し、死の淵を漂う魂に呼びかける。戻れ、戻って来い。お前の居場所はそこではない、帰ってこい。
 命ならば、くれてやる。
 惜しいものか、何を迷う必要がある。どうせ最初から拾い物だったのだ。あの男もそう言っていたではないか、珍しいものを拾った、と。
 だから、再び拾われた今、願うはただひとつ。
 もう一度、君に。
 君に、会いたい――――

 ~~黒南風 第二夜

 獄寺は燦々と輝く太陽の光を受け、陰影濃く描き出される樹木の影と風の行方を軒先でぼんやりと眺めていた。
 綱吉が去っていった方向は深い木々の枝に覆われ、少し分け入っただけでも背中が見えなくなってしまいそうなくらいに密度が高い。実際あの小さな背中が緑に呑み込まれたのは刹那の出来事で、彼は綱吉が神隠しに遭う瞬間を目撃した気分だった。
 リボーンが――恐らくは言葉に含ませた意味は異なるだろうけれど――言っていた「二度と戻ってこないかもしれない」危惧が彼の中にはずっと残っていて、不安がとまらない。それなのにこの屋敷に居合わせているほかの面々は誰も獄寺が抱くような不安を感じていないらしく、呑気に食後の茶を啜りながら談笑していた。
 奈々も奈々である、息子のことをもう少し親身に考えてやってはどうか。
 振り返った獄寺の視界に表れた三十台半ばの女性は、遠く旅先より戻ったばかりの青年を前ににこやかな笑顔を絶やさない。やや天然気味の彼女曰く、綱吉は雲雀が面倒を見てくれるから大丈夫だそうだが、獄寺からしてみれば雲雀に預けておく方がよっぽど危なっかしく思える。十代目に万が一のことがあったらどうすれば良いのか、考えるだけでも陰鬱な気分に陥って、彼は溜息ついでに頬杖をついて視線を遠く彼方の山並みへと流した。
 かさり、とその木々が揺れ動く。気づいた獄寺は胡坐の上で立てていた肘を退かし、丸め気味だった背中を伸ばして遠くを仰ぎ見た。野袴から覗く素足を片方引いて膝を立て、腰を浮かせて更に高い位置から緑が互いに擦れあい微かな楽を奏でている場所に瞳を凝らす。
 人影が、そこに。
「じゅうだ……」
 思わず呼びかけようとして、途中で彼はその人影が黒髪である事実に気づき喉を窄めて声を止めた。しかし獄寺の変化にいち早く勘付いた山本が、囲炉裏端から視線を持ち上げて北側の縁に中腰になっている彼の背中を見詰める。小首を傾げ、彼もまた傍らの木刀を持ち立ち上がった。
 奈々は飲み終えた湯飲みを床に置き、唇を当てた部分に指を添えて表面に残っていた僅かな水分を拭い取る。リボーンのおかわりの無心に彼女は微笑み、歩き出した山本をそのままの姿勢で見送った。
 獄寺の斜め後ろまで山本が接近した辺りで人影はいよいよ輪郭を際立たせ、はっきりとその姿をふたりの前に現した。
 黒髪、黒眼。唐茶色の長衣を乱雑に着込み、胸元を大きく肌蹴させ、筋骨隆々とはいかずとも引き締まった肉体を隠そうとしない。苔色の帯を締め、両腕は背後へと流している。時折立ち止まっては窺うように肩から後ろに視線を流し、僅かに身体を上下左右に揺らすのは、彼がその広い背中に誰かを負ぶっているからだった。
 彼の腰の辺りから前に垂れている白い足、肩に預けられた細い手。確かめるまでもない、獄寺は力なく雲雀に寄り掛かっている綱吉の姿にある種の衝撃を受けてその場に立ち尽くした。
 山本もまた不穏な空気を一瞬だけ立ち上らせるが、結界石を軽々と越えて白砂の庭に舞い戻ってきた雲雀と綱吉を同時に視界に収めると、途端に柔和な表情に仮面を切り替えて握り締めた木刀を背中に隠した。
 ずずず、とリボーンが湯気立つ茶を啜る。
「よー」
「……」
 軽い調子で片手を挙げた山本の声に、幾度目か綱吉を窺い見ていた雲雀は眉間に皺寄せ、彼を見上げた。鋭い視線を浴びても恐れようとしない山本の立ち姿に、彼は数秒間立ち止まってなにやら考え込み、それから、ああ、と何を納得したのかひとつ頷いた。
 休めていた歩を進め、縁側の前にまで近づく。
「雲雀、てめー、十代目になに」
「邪魔」
 拳を今にも突き出さんばかりの勢いで怒鳴る彼を一言で蹴散らし、雲雀は腰を屈めて縁側に向かって斜めに身を沈めた。山本が半歩下がり、獄寺の襟を掴んで自分の動きに従わせる。急に後ろから引っ張られた彼は踵でたたらを踏み、引きずられるようにして厠に続く板戸の側にまで連れて行かれた。
 何をするのか、と獄寺が真上を仰ぎ見ながら叫ぶ。いいから、と苦笑している山本は獄寺をからかって楽しんでいる様子だが、その間に雲雀は背中を完全に縁側に向けなおし、負ぶっていた綱吉を降ろして端に座らせた。
 彼の尻を支えていた両手を解くと、雲雀の肩に預けられていた綱吉の腕はゆっくりと落ちていく。遠ざかった他人の熱に綱吉は鼻をひくつかせ、瞼を数回、閉じたまま瞬かせた。
「綱吉」
 地面に擦れそうな彼の爪先に膝をつき、素足の裏を撫でて汚れを払い落としてやりながら雲雀が呼びかける。綱吉はそれでも眠そうに薄く持ち上げた瞼を指で擦り、欠伸を数回に分けて噛み殺した。
 意地悪をしてみたくもなる。反応が鈍い彼の左足の小指をつまみ、付け根を擽った雲雀はそれでようやく全身を硬直させた綱吉に薄く笑みを返した。あげそうになった甘い声を寸前で呑み込んだ彼は、足元に蹲って好き放題している相手を弱々しく睨み、まだ遠ざからない眠気に苦労しつつ湿っている髪をかき回す。
「十代目、あの」
 苦戦の末に漸く山本から自由になった獄寺が、縁側で和んでいるふたりへ遠慮がちに近づいていく。ただし声をかけるのは綱吉だけで、低姿勢気味の彼は意図的に視界から雲雀を追いやった。
 彼の後れ毛に滴る水気に微かに違和感を抱きつつ、半分眠ったままの無防備な表情を晒している彼に問いかける。
「朝食は、どうされますか?」
 行き場の無い彼の右手が虚空を掴み、腿の上へと落ちた。野袴に皺を新しく刻んだ獄寺の問いかけに、後ろで聞いていた山本が小さく噴出す。
 問われた本人はというと、ぼんやりしたまま獄寺から雲雀へと視線を流し、肩を竦める彼の態度に何を受け止めたのだろう、緩やかに首を振った。横へ。
「いらない」
 膝を折って縁側に上り、裾の土汚れを払う。けれど吸い込んだ水気が完全に乾ききっていない為に、こびり付いた汚れはなかなか思うように落ちてくれず、頬を膨らませた綱吉は諦めたのか裾から手を離して肩を落とした。
 雲雀もまた、綱吉が動き出すと同時に履いていた草履をその場で交互に脱ぎ、縁台に登った。見下ろしていたものを途端に見上げなければならなくなった獄寺は、気配に圧されて数歩後退して肩から山本にぶつかった。
「お?」
「あ、悪ぃ」
 ぶつかられた方が驚きであげた声に、獄寺は反射的に後ろへ顔を上げて言葉を返す。綱吉はそんなふたりの前を瞼を擦りながら通り過ぎ、一気に薄暗さが増す居間へ足を踏み入れた。
「おかえりなさい」
「母さん、布団貸して」
「あらあら、どうしたの?」
「俺の部屋、今使えない」
 欠伸を合間に挟みながら呟く愛息子の願いに、奈々は膝を揃えて立ち上がる。近づいて彼の顔に顔を寄せ、頬を撫でて具合が悪いのかを確かめてからその眼を覗き込み、彼が単に眠いだけなのだろうと察して淡く微笑んだ。
「お腹一杯で眠くなっちゃったのね」
「……うん」
 ちらりと後方に佇んでいる雲雀に視線を投げ、彼にも微笑みかけた彼女は綱吉の額に額を軽く押し当て優しい声で彼を撫でた。虚を衝かれた雲雀は呆気に取られた後、彼女の含み笑いの意味に気づいて顔を僅かに赤く染め、横を向く。彼の髪もまた湿り気を残しており、雲雀が動く度に重そうにしながら、若干遅気味について回っていた。
 山本が密かに嘆息し、状況が全く理解出来ない獄寺が右往左往しながら助けを求めて視線を巡らせる。が、誰一人として彼に構おうとしない雰囲気を察し、疎外感を存分に感じた彼は俯いてその場にしゃがみ込んでしまった。
 一方で奈々は綱吉の髪を撫でながら背筋を伸ばし、いいわよ、と笑顔を振りまいて己の息子に頷いた。
「ごめん」
「謝る事なんてないわよ」
 好きなだけ使いなさい、と笑顔を崩さない彼女の表情にひとしきり安堵の様相を浮かべた綱吉は、有り難うと頷いて返し彼女の右側へ避けると歩き出した。板敷きの床を頼りなく踏みしめ、前の間に続く襖を開けて出て行く。
 見送った各々の視線は彼の背中が襖の向こう側へ消えていったのを境に、個々人の反応を示してそれぞれに溜息をついた。奈々とリボーンはやや苦笑気味に、雲雀は安堵を秘め、獄寺は困惑に戸惑いがちに。山本は己が抱く感情さえも把握しきれていないのか、複雑に想いを混ぜ込めて吐息を零していた。
 その中でも雲雀がいち早く復活し、濡れた前髪の滴を弾いて瞳を浮かせる。静謐に包まれた森林に眠る泉を思わせる冷たさと鋭さを今は内に隠し、右腕を下ろす仕草の最中に山本を振り返った。
 いつの間にか追い抜かれてしまった身の丈を僅かに悔しいと思いながら、ふたつばかり年下である男を見上げた彼は肘を軽く外に向けて曲げ、手首を腰に置いた。目が合い、なんだ? と相手は眉間の皺を解いて彼を見返す。
「戻っていたのか」
「ああ、昨日のうちに」
「ふぅん」
 綱吉、奈々にも同じ感想を告げられている。流石に三度目ともなると山本もいい加減答え飽きていて、肩を竦めながらことばを返した彼に雲雀はさして興味ない素振りで相槌を打った。
 会話は途切れ、微妙な空気が場を支配する。落ち込んだままの獄寺は未だに床の上に両脚を抱いて座り込んでいて、奈々は気を取り直して雲雀の分のお茶を用意すべく土間へと降りていた。ずず、と音を響かせるのはリボーンの湯飲みばかりで、その緊張感の足りなさに吐息を零した雲雀は首筋を伝った、汗か髪から流れた雫かも分からない水滴を指で拭った。
 人差し指の指紋の隙間にもぐりこんだ湿気を親指で擦る。折角奈々が好意で茶を供してくれようとしているのだから、甘えるべきかで躊躇していた彼は、ぷは、と満足げに息を吐いたリボーンが唐突に己を見上げる視線に気づいて顔を顰めた。
「ヒバリ」
 湯飲みを床に置き、半分だけ回す。立っていても座っていても殆ど身長に違いが無いリボーンは、けれど存在感だけは充分に大きい。
「なに」
「あんま、霊泉汚すなよ」
 ふっ、と皮肉に口元を歪めて意地悪く笑った彼に、雲雀は絶句して顔を背けた。奈々に視線を向けられた時よりも如実に赤い顔をして、口元を手で覆い隠している。
 下方から成り行きを眺めているだけの獄寺は、またしても意味が解らなくて首を捻り山本に視線を流すが、彼も声を立てずに苦笑していた。戻ってきた奈々が新しい茶を山本にも差し出したので、彼は受け取って囲炉裏端に戻り座り直す。獄寺も気持ちの切り替えが完了したのか、膝を使って床を這い、戻ってきた。
「さっきから、何の話」
「んー? いや、知らないなら知らないで」
 でも知っておいた方がいいかもな、とひとりごちる山本に、獄寺はひたすら頭に疑問符を浮かべている。が、助け舟を出す面子はこの場に居合わせておらず、赤い顔の雲雀は恨めしげに山本を睨むとリボーンの横、即ち綱吉が最初座っていた座布団の上に腰を落とした。
 胡坐を組み、着崩れている長衣を直す。帯を押さえて腰の辺りから布地を引っ張り、湯飲みを差し出した奈々に彼は軽く頭を下げて黙って受け取った。
 冷えていた身体に染みこんで来る熱は正直ありがたく、立ち上る湯気を息で吹き飛ばした彼は半分ほどを一息で飲み干した。湯飲みを丁寧に両手で包み込み、指先からも熱を吸収して彼は人心地着いたと息を吐く。その飲みっぷりの良さを感心した風情で見守り、山本は胡坐を崩して片膝を立ててそこに上半身を寄り掛からせた。
 手を伸ばし、火掻き棒を取って囲炉裏に燻っている炭を小突く。
「今年の雲の様子は?」
「去年並みに」
 指三本で持ち直した湯飲みを床に置き、音を微かに響かせた雲雀が山本の問いに素っ気無い声で返す。くるりと回せば湯気も遅れて動きについて回り、掌を暖めた彼は一瞬何かを考えて押し黙ると視線を持ち上げて山本を振り向いた。
 獄寺も一緒の視界に納まるが、会話に置いていかれている彼は完全に無視された。
「時間があるなら、後で笹川の家に雲読みの結果を届けてくれ」
「俺が?」
「ほかに誰がいると」
 笹川家は並盛の里のほぼ中心に居を構える豪農で、庄屋だ。田植えの時期を見定めるのもまた彼の家の主人の勤めであり、雲読みの結果はその手助けとなる。雲の流れを読み、雨の時期を推測し、稲がより健やかに育ち、豊かに実りをつけられるよう、日取りを選ぶのだ。
 それが出来るのは雲雀だけで、だからというわけではないが、彼がこの村にやってきてからは毎年豊作が続いている。多少作付けが悪い年もあったが、近隣の村々が飢餓に苦しむ中で並盛だけが金色の稲穂を風に揺らしていたという話は枚挙に暇が無い。
 突然の依頼に自分で自分を指差した山本は、黙ってじっと睨みつけてくる雲雀に解ったよ、と肩の緊張を解いて呟き返した。
「けど、これで田植えの手伝い決定か」
「義務だろう」
 湯飲みを持ち上げ、茶を啜る。音を立てずに上品に呑み込んだ彼は、顔は楽しそうなのに嫌だな、と愚痴を零す山本にぴしゃりと言い切って立ち上がった。着物の崩れを手早く直し、玄関へ向かって歩き出す。それを山本が何処へ行くのかと問い、雲雀はやや不機嫌気味に足を止めた。
 行く先など決まっている、部屋へ戻るのだ。
 雲読みの結果を、忘れてしまう前に書き留めなければならない。田植え祭りの日程も迫っているだけに、雲雀の仕事は急務だった。
 が、山本は言いにくそうに頬を爪で引っ掻くと、参ったなと口篭もって唐突に獄寺を振り返った。
「今は行かないほうがいいかも。な?」
 同意を求められても獄寺は何のことだか分からず、きょとんとした顔で山本を見返すばかり。さらさらと長い銀の髪が肩に揺れ、視線を浮かせて黒ずんだ梁を右から左へ眺めた彼は、雲雀が向かおうとしている場所を思い出して「あ」と急に声をあげた。
 あまりの声のひっくり具合に、洗い物を開始していた奈々は茶碗を危うく落とすところだった。両手で大事に抱き留め、振り返って妙な姿勢で停止している獄寺に小さく噴出す。その彼は右膝を半端に立てて腰を浮かせ、両手は胸の前で左右共に大きく広げて口もぱっくりと開ききらせていた。
 しまった、とでも言わんばかりの瞳。怯えにも近い感情を内包している視線を向けられ、左手を腰に置いた雲雀は怪訝に顔を顰めた。
「なに?」
「いや、その、な?」
 そもそも綱吉が何故自室ではなく、奈々が使っている奥座敷へ向かったのか。朝の騒動を知らない雲雀が疑問に思うのも無理は無く、かといって彼の怒りを買うのが分かっているだけに易々と説明するのも恐ろしくて、言葉をひたすら濁して誤魔化そうとする山本に獄寺までもがコクコクと何度も首を縦に振って冷や汗を流した。
 これでは埒が明かない。言いたくないなら自分の目で確かめるまでだと、雲雀はふたりを置き去りにして土間へ降りていった。北の縁側に草履は置いたままなので、履物は用いずひやりとした土の感触を足の裏で確かめて進んでいく。
「ああ、待てって」
 さっさと立ち去ろうとしている雲雀を追いかけ、山本と獄寺も起き上がって土間へと下りた。彼らは各自草履を履き、足元に転がる砂利を蹴り飛ばして駆け出す。どうにか現場を目撃される前に彼を引きとめられたなら、と玄関を抜けて裏手に向かった二人は、井戸の手前で動きを止めている雲雀に気付き歩を緩めた。
 彼は真っ直ぐに離れの外観を眺めている。板葺きの屋根に、板の上から土を塗って固めた壁。格子窓が軒の下にふたつ横並びになっていて、その奥に雲雀と綱吉の部屋がある。今朝、獄寺と山本が壊した壁はその内側に隠れているはずだったのだが。
 ゆらり、と雲雀の背中から怒りの気配が立ち上るのを感じ取り、山本は半歩体を引いて頬を引き攣らせた。
「いや、その、だから……不可抗力」
「…………」
 山本と獄寺が母屋に戻る時は大丈夫だったし、あとから合流した綱吉も何も言っていなかったから、その後の出来事だろう。この数ヶ月で二度も強烈な衝撃を受けた離れの外壁は、元々さほど強度があったわけでもないために内側から崩れ、見事に屋内の様子を外部に曝け出していた。
 隙間風が云々どころの問題ではない。北側にある元々あった戸口以外にもうひとつ、西側の壁に大きな出入り口が出来上がっていたのだ。
「へえ?」
「だからさ、なんて言うか……こいつがいきなり変な術使うから」
 咄嗟に山本が防御したら余波で獄寺が吹き飛び、綱吉の部屋の壁をぶち抜いて外壁に背中から激突した。濛々と立ち込めた煙と埃は綱吉の部屋のみならず、隣にある雲雀の部屋にも少なからず悪影響を与えている。爆風で部屋に片付けられていた散乱している惨状は確認済みで、それを知られるのを忌避したかっただけなのに。
 予想外に被害は大きかった。
「俺の所為か? 元はといえば、テメーが十代目の寝所に潜りこんでたのが悪いんだろう」
「それは、まー、……言うなよ」
「へえ?」
 自分だけを悪者にされてはたまるものか、と拳を握り締めた獄寺の怒鳴り声に、山本は苦笑したまま遠くを見やる。それは初耳だ、と傍で聞いていた雲雀はまたも怒りを増強させたようで、ゆっくりと振り返った彼からは赤黒い霊気がにじみ出て見えた。
 獄寺と山本、ふたり同時に息を飲んで悲鳴を堪える。雲雀は実に愉快そうに、少しだけ引き攣った笑みを浮かべて袖口へ交互に腕を通し、隠し持っていた拐を引き抜いた。両手に構え、じり、と一歩前に出る。
「待て、待とう。なぁ。話し合おう、な?」
「そそそ、そう、その通り。話せば分かる、話し合いは大事だ」
 外向きに、拐を逆手に握った雲雀の迫力に気圧されながらも、必死に呂律が回りきらない舌でふたりは首を振りながら落ち着けと彼を思いとどまらせようと試みる。だが聞く耳を一切持たない雲雀は尚もふたりににじり寄り、覚悟は良いかとばかりに右肘を顔の高さまで持ち上げて切っ先を山本の鼻筋に狙い定めた。
 ひっ、と獄寺が喉を擦るように息を吸い、全身を硬直させた。
 蘇るのは、先日の出来事。完全に忘れ去るにはまだまだ記憶が生々しい限りの、鬼神の如き強さを露見させた彼の姿。地獄の業火に焼かれても奴ならきっと生き延びるに違いない、背筋を流れた冷や汗に獄寺は生唾を飲む。
 山本も雲雀の強さを充分承知しているのだろう。獄寺ほど緊張して萎縮していないものの、参ったなと木刀を持ったままの手で頭を掻いている。人が見れば余裕綽々の様子であるが、内心の焦りは隠しきれない。
 乾いた唇に舌を這わせて湿り気を与え、こめかみを流れる汗を感じ取る。首筋を撫でる風は生温く、昼も近い時間帯だからか頭上で輝く太陽は遠慮を知らずに地表に熱を降り注いでいた。
 地に走る影は短く、濃い。じりじりと距離を詰めてくる雲雀に対し、山本は後退しながら仕方が無いかな、と視線を浮かせて木刀を構えた。正眼の位置に構えを作り、滑らないようにきつく握り締める。使い慣れて手に馴染んだ木の感触に、決して雲雀に遅れを取るつもりはないという意志を込め、彼は自分を鼓舞する為に深く長い息を吐いた。
 両者の真剣なにらみ合いに、獄寺が居心地悪そうに距離を取る。最早止めても無駄だろうという雰囲気に圧倒され、ことばを放つのさえ難しい。ごくりと唾を飲む音さえ五月蝿く聞こえ、彼は息を殺して状況を見守った。
 が。
「何をやっている」
 唐突に三人の頭上から振ってきた声と軽い衝撃音の連続に、皆が皆揃って首を竦めて頭を抱えた。
 すたっ、と地面に格好良く着地を果たしたリボーンは、右手に持っていた細長い撥を煙の中に消し去り、それからまた徐に飛び上がって山本の肩に乗りあがった。赤ん坊の姿をしている彼は殆ど重みが無く、落ちないように左手を添えて支えてやった山本は反対の手で撥に殴られた後頭部を撫で、苦笑した。
 雲雀もまたすっかりやる気を削がれてしまい、不満顔ではあったが大人しく拐をしまった。どうやって固定しているのか獄寺は常々疑問なのだが、まさかその状態で上を脱げとも言えず、一瞬にして片付けられた彼の武器がどう収納されているのか想像しようとして、やめた。
 機嫌よく前脚を投げ出してえんこ座りのリボーンが、爪先を揺らして山本の頭を手で撫でる。宥めているつもりはなく、単に身体がずり落ちないようにしているだけのことだ。
「童」
「暴れたい気持ちは分からんでもないが、今やるとツナが起きるぞ」
 山本の実力は雲雀も認めていて、ふたりが本気でぶつかり合えばそれこそ局地的な嵐が発生しかねない。綱吉が休んでいる奥座敷と彼らが居る西側の井戸前は距離があるが、騒動は響いて眠っている彼にも伝わるだろう。
 大切な子の安眠を持ち出されては、雲雀も反論できない。彼が諦めた様子で肩を落としながら息を吐くと、大仰な素振りで背後の離れを見上げた。
 南の高い位置から照りつける日差しを受け、離れの壁に出来上がった大穴は陰影濃く彼らの前に存在を主張している。片隅には獄寺が潰した、通算二枚目の板戸が丁度真ん中でふたつに割れて横倒しになっていた。崩れた壁の残骸が風に煽られて時折埃を周囲に撒き散らし、土に混ぜ込んで練った藁の欠片が空に上って消えていく。
 板戸一枚ならば雲雀でも材料を揃えて修理できたが、この壁の大穴はどう考えても専門職の人間に依頼しなければなるまい。並盛の里には大工がいないので他所の村から呼んでこなければならないのを考えると、雲雀はそれだけで気が滅入りそうだった。
「どうせなら、道場の屋根も葺き替えてもらうか」
 最近雨漏りが酷くなっているし、と己の顎を撫でやり彼が呟く。そうなのか、と山本が目を細めて離れに隣接する道場の外観を見詰めるが、雨漏りを起こすという屋根は当然ながらこの位置からだと見えない。
「ついでに、離れも改築して真ん中の壁も外してしまうか」
 どさくさに紛れて呟かれた雲雀の言葉に反応したのは、リボーンの一撃をとばっちりの格好で食らった獄寺だった。耳聡く聞きつけ、それはだめだ、と雲雀に向かって一歩踏み出す。
「どうして」
「十代目が危険だからだ」
「……君と一緒のほうがよほど危険なんじゃない?」
 綱吉と雲雀に与えられた部屋は昔から別々であったが、寝る時は大抵どちらかがどちらかの布団にもぐりこんでいたため、部屋を分ける意味はあまり無かった。ただ離れには綱吉が生まれる前から部屋がふたつあって、中央の壁を取り払うのは建物の構造上無理があったから放置していただけ。
 離れ裏手の湯屋を作った時に雲雀が壁を破ろうとして失敗した傷跡は、今も綱吉の部屋に残っている。
 袖口に手を差し込んで腕を胸の前で組んだ雲雀の冷ややかな言葉に、獄寺はぐぐぐと唸って牙を向く。だが言い返すだけの気力は残っておらず、溜息混じりに雲雀が彼から視線を逸らしたところで、この話題は終わりを迎えてしまった。
「けど、いいのか? 親父さんがいないのに、勝手に決めて」
 現在の沢田家当主は、綱吉の父家光だ。この家に関わる重要な項目の決定権は彼にあり、雲雀の一存だけでは屋根の葺き替えも離れの改修も決めることは出来ない。
 なにせ実費がかかるのだ、これには。人件費に材料費、他所の村から招く為に修理を行っている間の宿泊の面倒もこちらで見なければならない。具体的に幾ら必要かは試算してみないと分からないが、本格的に離れを解体工事するとなるとかなりの金額になるのは間違いないだろう。
 それを、一応当主代理である綱吉にも相談なく決めてよいものか。山本の危惧はもっともであり、雲雀は顎から手を離すと後方に佇むその山本を仰ぎ見た。
 いや、正確には山本の左肩に座っている小さな存在を。
「構わないかい、童」
「いいんじゃねーか?」
 まさか其処に問いかけるとは思っておらず、虚を衝かれた山本と獄寺は目を丸くして赤ん坊の形をした黄色い頭巾の存在に目を向けた。が、ふたりから見詰められても飄々としているリボーンは呆気なく許可を下し、山本の肩から飛び降りた。
 彼の動きを目で追い、最後に雲雀を見た山本に彼は肩を竦めた。忘れていた、この屋敷で最大の発言権を持つのが誰であるかを。
 リボーンの決定には当主である家光も逆らえない、綱吉もあの離れの現状を見たら修理工を呼ぶのに反対すまい。ことの展開は楽に想像できて、山本もまた諦めの心境で天を仰いだ。ただ獄寺だけが、ふたりの部屋をひとつにするのにまだ反対の様子で、もの言いたげに雲雀を睨んでいる。
 いい加減気づけばいいのに、と雲雀ではなく獄寺に同情を寄せ、山本は木刀を帯に挿した。抜け落ちないように何度か弄って場所を定め、小刀の柄を撫でてから手を離す。雲雀は壁が崩れた離れに近づくと、見事に貫通している穴の縁に手を沿え、ぼろりと乾いた白土をもぎ取った。
 指で扱けば簡単に砕けてしまう。こんな強度でよく今までもったものだと感心しながら、彼はそのまま穴を潜り抜けて建物内部に入った。
 程なくして彼は文具関係を手に外に出てきて、日光の下で積もっていた埃を払い落とす。中の様子がどうなっていたかは流石に聞けなくて、山本は彼に今後どうするのかを問うた。
「雲読みの結果を出さなければ始まらないだろう」
「どこで?」
「奥座敷」
「十代目に何する気だ!」
「「……」」
 短い雲雀と山本のやり取りに割って入った獄寺の怒声に、ふたりは揃って彼を振り向いて呆れた表情を作った。
「いや、あのな」
「和机は僕の部屋と、奥座敷と、君が今使っている部屋にしかないよ」
 ほぼ同時に口を開いた二人だが、雲雀の説明が若干早かった。実に無駄のない的確な彼の指摘に、山本はそういうこと、と獄寺の肩を叩いて楽しそうに笑う。
「じゃ、じゃあ俺の部屋――」
「出来たら渡しにいく」
「おう」
 最後まで言わせてもらえなかった。獄寺の脇を、荷物を抱えた雲雀が草履の裏で地面を擦りながら通り抜けていく。彼の声は山本に向けられていて、完全に蚊帳の外状態の獄寺は悔しいと地団太を踏んだ。
 そんな真似をしても雲雀が相手をしてくれるわけもなく、彼はずんずん突き進み屋敷の前に広がる庭園の端を抜けて奥座敷へと向かっていく。見送る山本が獄寺の仕草にからからと声を立てて笑い、リボーンはいつの間にかまた姿を消していた。
 獄寺が踏み均す地面に埃が舞い、それを風が攫う。南から吹き抜ける風に促されて空を見上げた山本は、遠く山並みを撫でるように広がる白い綿雲に目を細めた。
 微かに太鼓の音が里から響いてくる。
「夏が近いなー」
 感慨深く呟いた彼の声は、そのまま北の神山へ吸い込まれ消えた。

 かたん、とものが擦れ合う音で綱吉は目を覚ました。
 日光をたっぷりと吸い込んで暖かく柔らかな布団を全身に感じ、自分の使い慣れたそれとは違う微かな匂いに困惑した彼は眠い目を数回瞬かせ、丸めて横向けていた背中を伸ばし頭を布団から抜き出した。
 陽の光は感じず、室内は薄暗い。障子越しに感じる明るさはまだ昼も盛りだと彼に伝えているが、白い紙を一枚隔てているだけでも眩さはかなり軽減され、寝起きの彼にはむしろ好都合だった。
 肩を寄せて首を窄め、もそもそと布団の下に隠れている両足を伸ばす。反らした背筋がぽきぽきと小気味良い音を響かせて綱吉の体内を伝わり、目を閉じてやり過ごした彼は浅く息を吐いて上を向いた。人の気配はそちらから感じられるが、綱吉が動いているのに気づいているだろうに相手はちっとも振り返ろうとしない。
 寝返りを打った彼は敷布団にうつ伏せになり、反転時に巻き込まれて角を丸め腹の下に入り込んだ綿入りの掛け布団を抱き締めた。清潔な布に紛れた母の微かな匂いに安堵を覚えつつ、芋虫のように身体を縮めては伸ばし、彼は敷布団ごと前方へ擦り寄る。畳を擦る音が否応なしに響くのに、それでも家光の和机に向かっている人物は振り返らず、頬杖をついてなにやら深く考え込んでいた。
 胡坐を崩した姿勢で座っている彼の座布団に迫り、綱吉は胸に抱いた布団を放す。後頭部の逆立つ髪に引っかかった綿入れが抵抗を示し、綱吉は思い切り顔を顰めてそれを振り払った。
 かたん、と物音がもうひとつ。
 黒塗りの和机は代々この家の当主が引き継いできた年代もので、重厚でありどっしりとした存在感がある。勉強が嫌いで物分りの悪い綱吉も、この机の前に座すと何故か背筋がぴんと伸びて心が引き締まった。だからか綱吉は幼少期、よくこの机に座らされて勉強した。あの頃はまだ家光も屋敷にいて、家族四人賑やかだったのが不意に思い出された。取り戻した布団の端を口元に押し付けて甘く歯を立てていると、置いた毛筆に指を添えた雲雀が脚の組み方を替えるべく腰を浮かせた。
 前方外向きに折り曲げていた膝を正面に、腰の前にあった足を後方へ。座布団の上で正座に姿勢を切り替えた彼の長衣を掴んだ綱吉は、いい加減自分にも構ってくれと寝転んだままそれを引っ張った。
 しかし雲雀は綱吉の意志など気にも留めず、小筆の先端を硯に浸し墨を含ませ手元に広げた紙になにやら書き記していく。動きは流暢で迷いもなく、思い切りの良さを感じさせる筆遣いは彼の性格をそのまま現している。だが少し進んだところで彼はまた手を休め、微かな音を残し、筆を置くと物思いに耽ってしまった。
 綱吉が右手を引いて彼の注意を呼び込もうとするが、上手くいかない。集中している時の雲雀は周囲の物音も全く聞こえなくなってしまうから厄介で、伝心で語りかけても届く前に見えない壁に跳ね返されて思いは叶わなかった。
 頬が自然と膨れ、唇を突き出した綱吉はちぇ、と呟いて彼から手を離した。その一瞬だけ上半身を起こし、仰向けに天井を見上げて背中から落ちる。彼の重みを受けて跳ね返った綿入れが埃を撒き散らし、流石にこれは癇に障ったのか小筆を取ろうと動いた雲雀の手が寸前で停止した。
 反応があった。彼の作業の邪魔をして怒られるよりも、無視され続けるのが苦痛だった綱吉はたったこれだけでも充分嬉しい。隙が出来た雲雀の心にすかさず語りかけ、遊んで、とせがむと大きなため息が目の前から落ちてきた。
「綱吉」
「はーい」
 空腹を満たし、充分に眠ったお陰で綱吉はすっかり元気いっぱいだった。対して雲雀は雲読みの結果を分かり易く人に伝える為に言葉を吟味し、読み易い字で紙に記すのに苦心している最中。とてもではないが綱吉を相手にしている余裕は彼になく、駄目だと言い聞かせるのだけれど綱吉は拗ねるばかりだ。
「これが終わったらね」
 元気が有り過ぎて持て余し気味の綱吉の頭を撫で、雲雀が抑揚の乏しい声で言う。ただそれで納得して大人しくなる綱吉ではなく、構ってくれなければもっと悪戯するぞ、と肘を立てて両手で頬杖を付いてまた身体を裏返した。膝を曲げて足の裏を天井に向け、交互にぶらぶらと揺らす。仕草はとても十四の男子のそれではない。
 雲読みの重要性は綱吉もよく分かっているはずで、毎年この時期になると雲雀も忙しくなるのは綱吉も承知している。田起こしは重労働で、ひとりでも人手が欲しい村人は無駄と知りつつも度々雲雀に手伝いを頼みにくる、それに田植え祭りの準備だってある。今年の豊作を祈願しての神事は綱吉の出番でもあるので、忙しいのは何も雲雀だけではないのだが。
 本人も忘れているわけではないが、目の前に転がる退屈の二文字を解消するのが何より先決と考える綱吉の心を読み解き、雲雀は細かな毛並みから滴る墨を見守ってから小筆を硯の端に引っかけ置いた。後少しで終わるのだから我慢して欲しいと思うのだけれど、最近は特に突っ慳貪な態度が多い綱吉、こんな風におおっぴらに甘えてくるのは珍しく、さしもの雲雀も対応に苦慮するのは致し方ない事。
 それでなくとも血気盛んな年頃の彼ら、周囲の目を気にしなくて良い環境に置かれていると意識した途端、互いの熱に貪欲になるのも無理ない。特に昨今の綱吉には常に周囲に獄寺隼人という人物がつきまとい、彼の目の前で雲雀と接触しようものなら容赦なく間に割り込んで邪魔をしてくる。元々甘えたがりの綱吉にしてみれば、彼の存在が好ましくあっても雲雀との接触を制限されるのは命に関わるだけに、出来ればあまり干渉して貰いたくないのだが。
 理由を大っぴらに公言出来ぬだけに、苦労は尽きない。
「ヒバリさんが言ったのに」
 此処なら彼の邪魔は入らない。滝壺の前で綱吉を甘く誘い出した台詞をそらんじた綱吉に、雲雀はどうしたものかと嘆息して布団にくるまったままの彼を見返す。それは精一杯の綱吉からの誘い文句に等しいことばだったが、残念ながら今の雲雀には彼に構っているだけの時間がない。その滝壺でのひとときで存分に楽しんだではないかと伝心で語れば、綱吉は益々頬を餅のように膨らませて拗ねた。
 肘を伸ばして顎から布団に顔を沈め、綱吉は右から順に脚を床に落とした。どさどさと畳ごと床を叩く音が続き、心底呆れ果てた感のする雲雀が左手で額を押さえると同時に長い前髪を梳きあげる。首を振り、作ったばかりの正座を崩して右膝を外側へ倒すと開いた空間を叩いた。
 おいで、と声なきことばで告げてやる。
「わーい」
 無邪気に喜びを表現する綱吉が布団の上で両腕を持ち上げて跳ね、地面を漕いでその雲雀の腿に顔を置いた。気持ちよさそうに目を細めて首を右に傾けて彼の脚に抱きつく。そこに照れ臭いという感情は一切なく、純粋に雲雀に甘えられる環境を喜んでいるようだった。
 実際、獄寺が沢田家に居候になる前は毎日がこんな風だった。綱吉は雲雀にべったりだったし、雲雀も綱吉の好きなようにさせていた。彼が雲雀から長く離れられないのは周知の事実だったし、雲雀も素直に甘えてくる綱吉を大切に扱っていたから。
 雲雀の腿に頬を載せて擦り寄るうす茶色の髪を撫で、雲雀は瞳を細め引き結んでいた口元を緩めた。仕方がないな、という意思がそこには漂っていて、気持ちよさそうに寝転がり床を脚で蹴る綱吉は胸の下に積もった布団を抱えるとごろん、と仰向いた。
 胸元に布団の綿をかき集め、肘を引いて作業に戻ろうとしている雲雀を見送る。本当は彼の邪魔をしたくないのだけれど、こんな時で無ければ存分に彼に甘えられなくて、本能が先走った綱吉は彼が静かに筆を繰る様を上目遣いに見守った。
 手首から先だけを器用に操り、文字を書き認める。書き損じひとつない書を完成させた彼は、安堵の息をひとつ漏らして筆を置いた。
 障子越しの西日は緩やかに翳り、室内を照らす照明が心細さを増していた。南向きの奥座敷であるが、縁側よりは遠い位置にある和机の側に置かれた行燈に炎は宿らない。目が悪くなる、と疲れた様子の雲雀に手を伸ばした綱吉は、その白い肌に触れる寸前で彼に手首を捕まれた。
 瞬間全身に緊張が走り、強ばった指先から力が抜けていく。緩く丸められた手の甲に口付けられ、綱吉は困った顔を表に出し真上に見える彼の顎の線を左から右へとなぞっていった。
「ヒバリさん?」
「終わったよ」
 乾ききらない筆の先では、余った滴が垂れ落ちるには小さすぎる雫を形成して揺れていた。綱吉の薬指を唇でなぞった彼は告げた後あっさりと彼を解放し、書面に僅かな凹凸を刻んでいる墨が乾くのを待って背を後ろへと反らした。
 自由を取り戻した両手を畳に置き、喉仏を前に突き出しながら目を閉じる。一仕事終えて充実した感じのある彼をぼうっと見つめた綱吉は、微かに温もりを残している自分の右手を引き戻して胸に抱いた。触れられた指を鼻筋に押し当て、嬉しそうに微笑みながら左手で抱きしめる。こんな些細な触れ合いでさえ最近は稀で、存分に雲雀の存在を近くに感じ取れる環境に綱吉は悪いと知りながら、獄寺の迂闊な行動に感謝した。
 だがそれも、雲雀が思い浮かべた光景を感じ取って霧散する。
「……うそぉ」
「本当」
 崩れ落ちた壁の光景は雲雀の記憶の通りで、絶句した綱吉はにわかに信じがたいと声を上げたが雲雀に即答されて眉根を寄せた。
 当分使えないだろうなとは覚悟していたが、そこまで酷い状態とは露にも思っていなかった。住み慣れた部屋が壊れてしまうのは哀しいが、それでも雲雀と同室の上部屋が広くなるのなら願ったり叶ったり……とも言い切れない。
「……もう」
 片手を額に押し当てて頭を垂れた綱吉の髪を撫で、雲雀は書面の墨が乾くのを無言で待つ。遠くで鳥が鳴く声が聞こえてきて、そこに風が立ち樹木が揺れる穏やかな空気を感じ取った彼はそっと漆黒の瞳を細めた。
 綱吉が充足した日々を送れるのならば、それはそれで雲雀にとっても満ち足りた毎日に等しい。ただ最近は、少し。
 環境は日々変わっていく。それは分かっていた筈だ、ただ綱吉が蛤蜊家の十代目に任命されてからの時間はこの数年の経過に等しいくらいに目まぐるしかった。獄寺の来訪に始まり、これまでにも蛤蜊家に連なる人間の訪問を受けている。大人達の汚い会話に綱吉を極力触れさせたくなかった雲雀だけれど、そうもいかない状況がふたりを取り囲み、逃げ場を段々と狭めているのが分かる。
 ただ静かに、穏やかに暮らしたいだけなのに、周りがそれを許してくれない。
 どうしてだろう、こうやってふたり触れ合いながら時を過ごすのが、まるで悪いことみたいで。
「里に行ってくるかい?」
 綱吉の頭を絶えずなで続けながら、不意に雲雀が言った。
 漸く表面が乾いた文を片手で几帳面に折りたたみ、二枚重ねの半紙に包んで朱印を上部に押した彼の言葉に、綱吉は閉じていた目をぱちりと開けてそのまま硬直した。
「え?」
「山本に笹川へ届けて貰うよう頼んである。一緒に行ってくるといい」
 最近はそれでなくとも、屋敷に引きこもりがちだった。気晴らしも兼ねて、久しぶりに幼馴染みが戻ってきたことだし、ゆっくりと過ごすと良い。気配りが感じられる雲雀の声に綱吉は重い動きで身体を起こし、彼の肩に寄りかかりながら敷き布団の端に膝をついて座った。
 覗き込んだ和机の上には、すっかり支度が調った文が置かれている。硯に残る墨も僅かで、放っておけば自然に乾くだろう。一度綱吉の頭から手を離した雲雀は、硯に預けていた小筆を筆置きに移し替えて黒塗りの木目の表面を爪で掻いた。
 一抹の不安を感じた綱吉が、その彼を下から見上げる。
「ヒバリさんは?」
 一緒に行かないのかと問う瞳に、彼は半身を翻して淡く微笑んだ。
「僕は遠慮しておく」
 誰かのお陰で、くたくただしね。
 伝心ですかさず補われた彼のことばと、同時に脳裏へと映し出された情景に綱吉は顔を赤く染めて俯いた。額を雲雀の左肩胛骨に押し当て、変な事を言わないでください、とばかりに彼の背中を交互に左右の両手で叩く。
 たださして力を込めていないので、雲雀はあまり痛みを感じない。むしろ肩たたきをして貰っているようなもので、気持ちよさそうに息を吐くものだから益々綱吉は恥じ入って、背骨の凹凸に鼻筋を押しつけて彼に完全にもたれ掛かった。
 胸一杯に雲雀の体臭を吸い込む。肌に馴染み、嗅ぎ慣れてむしろこの匂いが無ければ落ち着かなくなってしまっている、綱吉の精神安定剤。
「いっておいで」
 たまには里に顔を出しておかなければいけない、君は将来この里を担って立つ人材の要となるのだから。
 声に出さずに語りかける雲雀に、綱吉は彼の松葉色の長衣を握りしめる。頬を磨りながら視線を持ち上げるが、背中を向けている雲雀とは視線がまったく絡まない。ふたりの間に見えない壁がそそり立っているようで、綱吉は浅く下唇を前歯で噛むと襟足を擽っている彼の黒髪に口付けた。
「やっぱり、ヒバリさんも行きませんか?」
 数年先、里の運営を任されるのは何も綱吉だけではない。この里に育ち、生きる以上雲雀もまた同じ境遇におかれている。それなのに、まるでこの先自分がいなくなるのを前提にして話している雲雀の心が読めなくて、綱吉は襦袢の裾を合わせ直しながら膝を寄せて彼に体重を預けた。
 頬からもたれ掛かり、皮膚越しに彼の体温を感じ取る。どれだけ素っ気なく冷たい態度を取っても、彼の温もりには偽りがない。綱吉を安堵させる唯一の熱を感じ取りながら、それでも何処か遠い雲雀の心に綱吉は哀しくなる。
「やめておくよ」
「どうして?」
「君が、がっついたから」
 肩を揺らして首から上を振り替えさせた雲雀の、笑いながらのひと言に綱吉は瞬間的に頭に血が上り、耳の先までも真っ赤にしていきなり彼に頭突きを食らわせた。
 さっきも言われたが、二度も言われればいい加減恥ずかしさを通り越して怒りさえ沸いてくる。大体誘ったのはそちらではないか、人を組み敷いた、のも……だ。
「もっと、ってねだったのは?」
「――――!」
 打たれた後頭部を撫でさすった雲雀の追い打ちに、綱吉は、
「ヒバリさんの……馬鹿!」
 足下で塊になっていた布団を引っ張り上げて彼に投げつけ、転びそうになりながら畳の上を駆け出す。もたついた脚がなかなか前に進まないものの、閉じていた障子戸を右に開けて板を葺いた縁側へと飛び出した。
 白地の障子に阻まれていた日が眩しく差し込み、雲雀は瞼を閉じて一瞬だけ綱吉の姿を視界から消した。
 眼球に焼き付く白い輝きに、朧に映し出される輪郭が儚い。手を伸ばせば届くだろうに、その一歩を踏み出すのに躊躇している臆病な自分を意識して、彼は首を振る。
 視界の端に引っかかった文を取り、端を握って彼は薄いそれを縦に構えた。ひょい、と軽い所作で放り投げると、それは左右に覚束無く揺らめきながら、それでも懸命に宙を泳いで南向きの縁側に出た綱吉の足下に飛んでいった。
「え? うぁ」
「忘れ物。ちゃんと届けてきて」
 調べるのも一日かかりっきりで大変なんだから、と和机に頬杖ついて姿勢を崩した雲雀のひとことに、綱吉は爪先に角をぶつけた文を拾い上げて頬を膨らませた。
 そんな事、言われなくても分かっている。毎年この時期、雲雀が山に篭もるのは今に始まった事ではないし、彼がそうしなければならない理由が雲読み以外にもあるのを、綱吉だって本当はちゃんと分かっている。
「届けたらすぐに帰ってくる」
「ゆっくりしておいで」
 右手に持った文の、几帳面に角張った文字を見つめながら呟いた綱吉に肩を竦め、雲雀は心にもない事を告げて両腕を後ろへ流した。右足を和机の下へ投げ出して左膝を立て、他に見る者が居ないのを良いことに素足をはだけさせ、背筋を後ろへと反らす。
 両腕を畳に添えて上半身を支えやり、彼は薄暗い天井を見上げた。冬場に焚く火鉢の煤の跡がこびりついている梁を端から端へ眺め、目を閉じる。
「すぐ帰ってきますから!」
 殆ど怒鳴っているに等しい声で叫び、綱吉は足音をけたたましく響かせて座敷を出て行った。耳の奧に彼の去って行く音が反響し、次第に小さく消えていく。息を吐く度に綱吉の熱が遠ざかっていく気がして、雲雀は困った風に前髪を掻き上げると伸ばしていた脚を引き寄せて綱吉が寝転がっていた布団に自分も倒れ込んだ。
 柔らかな感触を背中一面で受け止めていると、そこから安堵感が広がっていった。記憶の欠片にも残らない母の気配が其処には宿っているようで、思えば奈々が自分の母親代わりだったのだなと十年近く共に暮らしている彼女の姿を思い出して苦笑した。
 両腕を真横へ放り出し、曲げていた膝も伸ばして床に横たえる。踵に感じる畳の感触と背中を包む綿入りの綿毛布の触り心地があまりにも違いすぎて、意味もなく笑いだした雲雀は片手で己の目を覆い隠した。
 視界を闇で閉ざせば、遠く綱吉が庭でリボーンを相手に修練の結果を披露していた山本に声を掛ける様が伝わってくる。ふたりが交わす言葉の子細までは分からないが、綱吉の目を通して見える山本はどこか嬉しそうで、空気を読まずに割り込んできた獄寺の態度から、自分も一緒に行くと言い張っている姿が楽に想像できた。
 同じ年の子供が三人、賑やかに騒いでいる。
 雲雀は、その輪に混じれない。
「怖いか?」
 山本の相手が終わったから、だろう。毎度ながら彼の出現は唐突で、しかし少しも驚いた素振りを見せない雲雀は、中空から現れた黄色い頭巾姿の赤ん坊に剣呑な光が宿る視線を投げつけた。
 リボーンは着地の瞬間に頭巾の端を指で摘み、浮き上がりかけたそれを下に引き込んで綱吉並みに癖毛の黒髪を隠した。はみ出たもみあげがくるん、と綺麗な円を左右で均等に描いていて、一度引っ張ってやりたい気持ちに駆られながら横になっていた雲雀は肘をついて身体を起こした。
 左足を曲げて右膝の下に潜り込ませ、綱吉の残り香が微かに鼻腔を擽る布を丸めて腰に当てる。簡易背もたれにして身体を落ち着けた彼は、行儀も悪く和机に降り立ったリボーンを改めて見つめた。
 山本を相手にしていたのに、ちっとも疲れた素振りがない。雲雀であっても、彼と正面切って試合に挑むと体力を大幅に消費させられる。その分他の半端な輩を相手するよりずっと充実感を手に入れられるので、山本が修行の旅に出て以降の雲雀は力を持て余し気味だった。
 獄寺に代役を任せられないかと思った時期もあった、けれど彼は体力馬鹿の山本とは違って知性派で、正面切って相手にぶつかるよりも知略を尽くし罠に嵌めて少しの力で大きな成果を出す部類だった。現にあの夜も、彼は極力雲雀と直接組み合おうとせず、一定の距離を保ったままの中距離攻撃を主体にしていた。
 雲雀とも山本とも異なる戦闘形式、目新しさもあったが結局彼は雲雀の鬱憤を晴らすだけの相手に成り得なかった。
 だから山本の帰還は、雲雀が鬱積している様々なものを遠慮無くぶつけて発散する意味でも、歓迎すべき事だろう。無論山本が、雲雀の相手を喜んで務めてくれるのが大前提だが。
 ただ、気になる。
 彼が旅立ってから、まだ半年ほどしか経過していない。里へ戻ってくるにしても、あまりに期間が短すぎやしないか。
 綱吉のはしゃぐ様子が伝わってくる。あれほど雲雀を置いて里に下りるのを渋っていた彼だけれど、久しぶりに里の知人友人に会えるとなると、矢張り心躍るらしい。嬉しそうに山本と獄寺を交互に見つめ、ふたりに挟まれながら正面の門を抜けて長い石段を降りていく姿が見えた。
 雲雀は意識してそこから先を覗き見ないように伝心を遮断し、溜息に近い吐息を零した。持ち上げた右手で左胸を押さえ、感じ取る熱と拍動に呼吸を合わせて目を閉じる。
 蠢くものを感じたのは一瞬で、錯覚だったのではと思える感覚に彼はひっそりと眉根を寄せた。リボーンがその様を黙って見詰め、先ほどと同じ言葉を静かに繰り返した。
「……今更、だろう」
 何度も言わせないでくれと素っ気無く言い返す彼の声には、諦めに近い感情が宿っている。綱吉の前では決して表に出さない思いに、リボーンは頭巾を目深に被って和机の端に腰を下ろした。
 別段何かを語り合うわけでもなく、ふたりして違う場所を見詰め続ける。やがて体を支える腕が疲れたのか雲雀が先に敷布団へと寝転がり、ほぼ同じ時間にリボーンは和机から飛び降りた。
「自分で選んだことだよ」
 彼が去り行こうとしているのを察した雲雀が、暗い天井を見上げながらぽつりと呟く。
「そうか」
 リボーンの返す言葉も短く、感情の起伏にも乏しくてその裏に何が秘められているのかは分からない。そもそもリボーンが言う雲雀が恐れるものと、雲雀が本当に恐れているものが同じなのかどうかさえ、互いに確かめようとしないのだから。
 ただ両者に思いのずれがあったところで、あまり意味は無い。雲雀は感情を吐露することはこの先もないだろうし、リボーンだって彼のそんな部分を見たいと思わない。必要ないことだと割り切っているから、必要以上に傷に触れたりしない。
 綱吉が開け放った障子戸の隙間から、明るい光が緩やかに差し込んでいる。陰影の違いが際立つ畳の目地を横向きに見詰め、彼は目を閉じた。
 まどろみは直ぐに降りてきて、彼は少し休もうと腕を曲げ頭の下へ差し込んだ。程なくして穏やかな寝息が立ち上がり始める。
 リボーンが音もなく姿を掻き消す。緩い風が座敷に吹きこみ、静かになった雲雀の髪をそっと撫でていった。