迎春

 本日は晴れ、冬休みは中盤戦。
 それでいて、今日は一年が新しくなった日。
 当たり前のように目が覚めて、当たり前のように台所に顔を出し、朝の挨拶を家族と交わす。その光景は普段と何一つ違わないのだけれど、たったひとつだけ違和感があるのだとしたら、それは。
「あけましておめでとう」
 寝ぼけ眼を擦っている綱吉を見つけ、奈々が振り返って微笑みながらそう告げたこと、くらいだろう。
「お、め……?」
 状況に理解がついていかず、きょとんとしたまま首を捻った綱吉の向こう側では、つけっぱなしのテレビが元日恒例の駅伝を中継していた。食卓に並ぶ料理も三段の重箱に鯛の姿焼き、コンロの上では温め直し中らしき雑煮も。
 ここまでを視界に収め、続けて昨日の自分の行動を思い返し、漸く綱吉は今日が正月だというのを思い出す。自分の椅子を引いて腰を下ろすと、奈々が暖かな湯気を立てる雑煮の鉢を前に置いてくれた。
「みんなは?」
「凧揚げするんだー、って出掛けちゃったわよ」
 綱吉が起きてくるのを待っていられなかったらしい沢田家の居候たちは、正月料理に舌鼓を打った後一斉に出掛けてしまったらしい。重箱を開けてみると確かに中身は半減していて、甘い白豆等はほぼ全滅状態。代わりに縁起物でもある煮物等は多く残っていて、自分も早起きすればよかったとこんなことで綱吉は後悔した。
 暖かな雑煮の中から粘る餅を頬張り、いつもとは少し違う時間を過ごす。年が変わったからと言って何かが大きく変容するわけではない。毎年恒例の番組を順番に眺め、欠伸を噛み殺しながら綱吉はいつもと違う食事を終えた。
「そろそろ年賀状届いてると思うから、見てきてくれる?」
「はーい」
 このやり取りも毎年恒例だ。箸を置いた綱吉は立ち上がり、寝間着のまま玄関へ向かうとドアを開けた。
 雲の多い空からは淡い陽射しが降り注いでいて、季節は冬だというのに心持ち暖かい。温暖化現象と騒がれて久しいが、これもその影響かと眩い太陽を片手で遮った綱吉は、気を取り直しサンダルで石畳を蹴って郵便ポストの蓋を開けた。
 幾つかの広告チラシと一緒に、輪ゴムでまとめられた束が出てくる。四角形、少し縦長。基本的に表面は白地に黒文字で、沢田家の住所が書き記されていた。ただ中には封筒も紛れ込んでいて、その部分だけ輪ゴムが出っ張りいびつになっている。
「なんだろ」
 家の中へと戻りながら輪ゴムを外し、抜き取って裏返す。イタリック文字で書かれた乱雑な文字は読むに耐えず、首を捻りながら台所へ戻って中身をぶちまけた。綱吉宛以外にも奈々、今は不在の家光宛の物も多く、それらを順番により分けていく。
「あら、それは?」
 最後に残ったのは件の水色の封筒で、奈々も興味深そうにしている。仕方なしの彼女の前で開封して中を取り出すと、何てことは無い、ニューイヤーカードだった。しかもイタリアからの。
「ディーノさんだ」
 表書きでは読めなかったが、カードの中身は丁寧に、それでいて少し不器用な平仮名で、お決まりの正月の挨拶が書き込まれていた。きっと物凄く練習して、悪戦苦闘しながら書いたに違いない。その姿が楽に想像できて、綱吉は思わず口元を綻ばせた。
 年賀状は他にも、山本や獄寺、ハル、京子からも届いていた。今はもう殆どつきあいのない小学校時代のクラスメイトや先生なんかからも来ていて、何故か持田先輩からのもあった。彼には年賀状を出していない、返事をしないと悪いだろうかと思わず焦ってしまう。
「ツー君、年賀状増えたわねぇ」
 全部で二十通にも満たないが、一頃に比べれば確かに増えている。感慨深げに呟いた奈々に苦笑して、自分宛のものだけをまとめて順番に裏を確かめながら眺める。ただ予想通り、綱吉がよく知るとある人物からは、届いていなかった。
「だよな……」
 覚悟はしていたし、そういう義理堅いことをしてくる人ではないというのも熟知しているので、ショックは少ない。だが完全に無いわけでもなく、つい溜息が零れて肩を落としてしまう。奈々がどうしたの、と心配そうに眉根を寄せて近づいてきて、なんでもないよと返事をしようと顔を上げた綱吉の耳に、上の階から小さく物音が響いて聞こえた。
 今はビアンキを同伴させて、子供達は外出している。家に居残っているのは綱吉と奈々親子だけの筈。
「上、あがるね。ご馳走様」
 何だろう、と上目遣いに天井を見上げてから椅子を引いて立ち上がり、綱吉は自分に届いた年賀状を持って階段を登った。物音はもう聞こえなくて、傾いていた何かが落ちただけだろうかと推測する。しかしドアを開けて入った部屋は物の配置も何も変わっていなくて、綱吉の頭にはクエスチョンマークが浮かんだ。
「あれ……?」
 けれど、と肌を撫でた涼しい風に瞳を細め、綱吉は考える。窓を開けた記憶はないのに、隙間風が差し込んでいる。寝ぼけていたのだろうか、と歩み寄って閉めようと手を伸ばしかけ、素足の爪先に何かがぶつかった。
 カード? いや、違う。これは。
「年賀状?」
 宛名も何も書かれていない表面が上になって、一枚だけ、何故か窓辺に年賀状が落ちていた。
 自分が落としたのだろうか。だがそれにしては、落ちている位置が机から離れている。風に飛ばされるにしても、窓から遠ざかるなら分かるが、ここは窓のほぼ真下。
 なんだか良く分からないままに綱吉は膝を折り、窓を閉めようとしていたその手で年賀状を拾い上げた。書き損じたものだったら集めて切手にでも交換してもらわなければ勿体無い、とそんな風に思いつつ、裏返す。
 見覚えの無い、富士山を背景に紅梅が綻ぶ図柄。印刷ではなく、毛筆に墨で丁寧に書かれた「謹賀新年」の文字。他には一切手が加えられていない、実に素っ気無い賀状だった。
「あれ?」
 表返す。宛名は無い。差出人も。
 綱吉は葉書を手にしたまま顔をあげた。見詰める先には、半端に隙間を残している窓。鍵はかけ忘れていたかもしれないが、開けた覚えの無いそこから流れ込む風には、微かに、まだ蕾も固いはずの梅の匂いが混じっている気がする。
 覚えのある、誰かを思わせる匂い、だ。
 綱吉は息を呑むと思いきって窓を開けた。上半身を外へ乗り出して周囲を窺うけれど、冬の空と見慣れた寒々しい景色が広がるばかりで、探している背中は何処にも見当たらない。実際物音がしてからかなりの時間が過ぎているので、もし本当にこれが“彼”が届けてくれたものだとしたら、“彼”が待ってくれていない限り、その姿も残っているわけが無い。
 鼻腔を擽る、微かに甘い匂いだけを部屋に残して、彼は去った。
「……」
 だが、まだ諦めるには早い。綱吉は沈みかけていた気持ちを奮い立たせ、年賀状を机に置くと出し損ねた一枚を引き出しから取り出した。握り締め、部屋を飛び出しかけて慌てて戻り、クローゼットを開けてこの数日袖を通していなかった制服を取り出す。素早く寝間着を脱いでシャツを着て、きっちりとネクタイを結んでスラックスを履く。靴下をまどろっこしく感じながら履き、引き出しから抜いた一枚を上着のポケットへ押し込んだ。
 窓もドアも開けっ放しのまま、部屋を飛び出して階段を二段飛ばしに駆け下りる。騒々しい物音に台所から顔を出した奈々が、正月早々制服に着替えている綱吉を見つけて目を丸くした。
「どうしたの、そんな格好で」
 学校は冬期休暇中、流石に元日から補習授業なんて話も聞いていない。驚きを隠さない彼女に、慌しく靴に爪先を突っ込んで、潰した踵を起こしながら綱吉は振り返る。
「ちょっと、出掛けてくる」
 制服なのだから、行き先は学校くらいしかない。奈々は間の抜けた表情のまま台所と廊下を遮る暖簾を頭に被せて、ただ小さく「いってらっしゃい」と息子を見送った。
 勢い良くドアを閉め、外へと飛び出す。コートも羽織らず、ただせめてもの首に結んだマフラーの端をリズム良く揺らし、綱吉は息を弾ませながら道路を駆ける。もしかしたら途中で追いつけるかもしれない。でも、もしかしたら、求める背中は学校に無いかもしれない。
 期待と不安が胸の中で交差して、ジグザグを刻みながら綱吉の心臓を動かしている。一歩前に出るたびに彼との距離が狭まるようで、一歩進むたびに遠ざかっていくようでもあり、新春とは言え全く普段と変わらない、少しだけ静かな道を通り過ぎる。
 角を曲がり、端を渡り、いつもと同じ通学路を、いつもより幾分速いペースで。遅刻しそうな時でもこんなに走ったりはしないだろう。次第に息は乱れ胸も苦しく、脇腹も痛み出すが歩みは止まらない。逸る気持ちが綱吉を前へ、前へと運んでいく。もう少しすれば学校が見える、そう思うと辛いのも忘れて綱吉は速度を上げた。
 校門は分かりきっていたことだが、見事に閉まっている。綱吉は乱れる呼吸を整えもせずに鉄の門を見上げると、左右に気配を配ってえいっ、と飛び上がった。錆臭い臭いを我慢しながら両手で柵を掴み、腕の力で身体を持ち上げる。
 ぎこちない動きで足を持ち上げ、太股の内側が汚れるのも構わずに高い位置にある柵を乗り越えて、学校内へ。倒れそうになりながら着地を果たし、膝についた土を払って立ち上がった。
 ポケットの中身を確認すると、指先に乾いた紙の角が触れた。視線を巡らせ、人気の無い学校に深呼吸して綱吉は腹に力を込める。
 あの人はきっと、此処に居る。確信めいたものを胸に抱いて、綱吉は閉鎖状態にある校舎を目指す。無論正面玄関は施錠されているものの、過去に教えて貰った抜け道はきっと、あの日のままだ。
 自分と、そしてあの人しか知らない秘密の通路。いつでもおいで、と囁いた夜の約束は、彼が違えなければ変わらずに残されているはず。
 会いたい。早く、一秒だって早く。
 吐く息が白く濁る。吹き荒ぶ冬の風を貫き、綱吉は以前にも増して勢い良く地を蹴った。
 会って、最初に言う言葉は決めている。不法侵入をまず問い詰めて、それから、届けてくれた気持ちを、嬉しいとちゃんと伝えて。
「あけましておめでとう」
 この日だけの特別な挨拶を交わして。それから、それから。
「今年も、……っ」
「よろしく」
 窓の上、不意に落ちてきた声は。
 さて、誰の声?

2006/12/28 脱稿