群青

 じりじりと地肌を焦がす陽射しに、身体中の汗腺が開ききっている錯覚を抱く。
 地面から本当に湯気が立つんだな、なんて変なことを考えながら道を行く。焦げ付いたアスファルトの臭いが鼻腔に痛くて、茹だる様な暑さを助長している太陽を恨めしげに見上げた。
 もう少し行けば雑貨屋がある、そこで何か冷たいものでも買おう。自分の汗臭さにもいい加減辟易していて、沢田綱吉は滝のように流れる額の汗を袖口で拭った。
 肘を引き、肩を持ち上げて半袖シャツの柔らかな布地を顔に押し当てる。上腕を伝っていた汗が飛び、その生温さを首筋に感じ取って彼は小さく舌打ちした。
「あっつー……」
 愚痴は音となって唇から零れ落ちていき、肩を落とした彼はそのまま手でシャツの襟刳りを抓んだ。前方に引っ張って隙間を広げ、風を呼び込む。けれど熱せられた空気は体温にほぼ等しくなっていて、涼しさを手に入れるどころか余計嫌な汗を招き寄せただけに終わった。
 手を離す、背中のデイバッグが上下に揺れた。
 スニーカーの靴底越しに、鉄板並みに熱を持ったアスファルトを感じる。素足で歩けばたちまち火傷をするだろう真夏の炎天下、たった一日数時間歩くだけでも充分健康的に日焼けが出来そうだ。
 今年の夏は特に暑いらしい。よりにもよってそんな年に受験が重なってしまい、補習授業と夏期講習で毎日が自宅と学校、そして塾の往復だ。帽子を被ると爆発している髪の毛に変な癖がつくし、地肌が蒸れて余計に暑さを感じるから嫌なのだが、熱中病予防に被ってくるべきだった。陽射しの刺さる腕は熱いのを通り越して痛く、ぼうっとする頭に揺らぐ視界で、歩きながら半ば眩暈を起こしているような状態だ。
 早く帰りたい、けれど塾は郊外にあって歩いていくとかなり距離がある。バスを使えばよかったのだが、陽射しを遮る屋根もないバス停でじっと待つのも嫌で、勉強ばかりの日々の気晴らしを兼ねて歩き出したのが運の尽きか。
 犬のように舌を出し、熱を吐き出す。焼け石に水だが何もしないよりは多少マシ。綱吉は腕を振って手首に流れ落ちてきた汗を払い落とし、目の前の道端に見えてきた雑貨屋の看板に安堵の息を零した。
 よかった、開いている。
 砂漠の真ん中でオアシスに遭遇した気分になり、亀の歩みだった足取りがウサギのそれに切り替わる。綱吉はデイバッグに詰め込んだ勉強道具の重みも忘れ、昭和を感じさせる外観の雑貨屋に駆け込んだ。
 中は照明が消され、軒先から差し込む自然光だけが薄暗く店内を照らしている。奥に並ぶ棚には果たして誰が買うのだろうかと疑問に思う古めかしい商品が顔を揃え、手前の背が低い棚には駄菓子が大雑把に並べられていた。
 コンビニエンスストアとは品揃えが大分違い、新発売の御菓子なんてものはない。在るのは昔ながらの百円でお釣りがくるようなものばかりで、綱吉が汗を拭いつつ日陰に落ち着いたことにホッとしていると、人の気配を感じ取ったのか店の奥から腰の曲がった老女が顔を覗かせた。
「いらっしゃい」
 生きてきた年数と苦労を感じさせる深い皺を無数に刻んだ顔をくしゃくしゃにし、来客を喜んでいる彼女に会釈を返した綱吉はその場でたたらを踏んだ後背後を振り返って冷蔵庫を探した。
 高さは綱吉の腰くらい、両手を広げれば端から端まで届くような小さなケース。赤色の外見に、天井部分が透明のアクリル板で中を覗けるようになっている。それは間口の広い店に入って直ぐの場所に置かれており、綱吉の立ち位置からだと左後方だった。
 彼は老女から視線を外すと、急ぎ足で行き過ぎていた距離を戻った。こちらも年代もののアイスケースに上から覗き込み、ブゥゥンという低いクーラーの起動音を聞きながら好みのアイスを探す。
「これ……ください」
「百円ね」
 消費税は何処へ行ったのだろう、動きの悪いアクリル板の蓋を閉めた綱吉は愛想よく返してくれた老女に頷いて、彼女に歩み寄りながらズボンの後ろポケットを弄った。
「あれ」
 けれど思い当たる場所に目的のものは入っていなくて、反対側のポケットを上から叩いても同じ。そういえば暑いからと鞄に放り込んだんだったっけ、とあまり当てにならない記憶を頼りにアイスを近場の棚に置いて背負っていたデイバッグを下ろす。
 けれど乱雑に物を詰め込んでいる鞄の中身は当然ながらぐちゃぐちゃで、ひっくり返った筆入れが教科書とぶつかり合い、カンカンと不愉快な音を響かせる。
「……」
 老女の視線が心持ち痛い。時間が経つにつれて焦りも募り、アイスも溶けていくのが分かるので益々必死に綱吉は鞄の中を手でかき回すのだが、えてしてこういう場合、なかなか探し物は見つからない。
「あれ、あれぇ?」
 家を出る時は確かに持っていた、塾への往路はバスを使ったのだから間違いない。
 塾を出る時に財布は何処へしまったか。最初はズボンに入れていた、けれどバスを待つのを止めて歩き出して暫くしてから、歩くのに邪魔になるし尻の暑さも増すからと取り出した。
 問題はその後。
「えーっと……」
 熱波を全身に浴びて、既に頭がぼうっとしていた時期だ。記憶は曖昧で、深い霧に包まれて思い出せない。気温が高いから、だけが理由でない汗が首筋を伝い、綱吉は奥歯をかちりと鳴らして今一度鞄へ視線を落とした。
 どうしよう、どこかで落としたのだろうか。それは困る、あれには今月の全財産が入っていたのに。残る夏休み、皆と遊びに行く予定だってまだ残っている、これ以上母親から借金を重ねるのはあまりにも情けない。
 老女の視線が痛い、棚に置いたアイスは表面に汗を掻き始めている。このままでは支払いも出来ず、アイスも溶けてしまって売り物にならなくなってしまう。どうしよう、危険信号が綱吉の中で激しく明滅を繰り返し、余計に眼の奥がチカチカして綱吉は息を呑んだ。
 謝って、アイスを戻して、急いで家に帰れば。
「これ」
 人の気配は微塵もしなかった。
 唐突に綱吉の顔の横に差し出された、福沢諭吉。折り目のない綺麗な新札に目を丸くしたのは何も綱吉だけではなかった、老女もまた予測不可能だった新たな来客に驚き、顔を上げて慌てて両手を伸ばし一万円札を受け取る。
「一緒に」
「はい?」
「それ」
 単語だけの至極素っ気無い会話。首を傾げた老女が腕を引く中で、綱吉の斜め後ろに立っていた人物は綱吉が置いたアイスへ顎をしゃくった。
「え……」
「はいはい、ちょっと待ってね」
「お釣り、いらない」
 面倒くさい、と溜息をつきながら呟いた彼は右手で眼鏡を押し上げ、残る手で抓んでいたソーダ味のアイスを揺らした。綱吉が呆然と振り返り見上げているのに一瞬だけ視線を流すが、相変わらずの無表情で何を考えているのかさっぱり読み取れなかった。
 老女は聞き間違いだっただろうか、とやはり呆気に取られて立ち竦んでいる。手にした一万円札と彼とを交互に見詰め、いいのかと重ねて問いかけるが、このとき既に彼は彼女へ背中を向けていて、答える気はさらさら無いようだった。
「あ、待って」
 綱吉も鞄の口を締め、片腕だけに肩紐を通して斜めに背負いアイスを手に急いで彼を追いかけた。
 足の速い彼はとっくに店の外に踏み出ていて、綱吉も日陰と日向の境界線を大股に乗り越える。瞬間瞳を焼いた強烈な日差しにうっと呻き、動けなくなった彼はその場に竦んで背を丸めた。
 掌を広げ、額から鼻筋にかけて覆い隠す。白く形を持たない残像が瞼の裏に焼き付けられ離れず、綱吉は辛そうに首を振って長い時間をかけゆっくり息を吐いた。
 指の隙間から覗く地表には蟻が群れを成し、握ったアイスの袋は表面に綱吉以上の汗を掻いている。ぽたりと滴り落ちた雫がひとつ、アスファルトに触れた瞬間音もなく蒸発するのを見て、綱吉は漸く額から手を離して顔を上げた。どうにか慣れた明るさ、まだ瞼を完全に開ききるのは辛いものの、クリアになった視界に佇む長い影がひとつある。
 身体半分だけを振り返らせ、無言のまま綱吉を見詰める黒い瞳。眼鏡のフレームが陽光を浴びて鋭く輝いており、瞳孔を貫かれそうになった綱吉は瞳を細めてそれをかわした。
 指先に汗が伝う、綱吉は左手に持ったアイスを胸の前まで引き上げ、一息で袋を破いた。中に入っていたものは予想通り表面が解けていて、角をなくし丸くなってしまっていた。
「あの……」
 なにを、どう、言えばいいのか。困惑が先に立つ綱吉は袋に残る水気を逆さまにして地表へばら撒きつつ、一歩、二歩と前に出た。すると三歩目の爪先が地面を叩いたところで彼は急に体を反転させ、先に立って歩き出す。
 一定の距離、一定の速度。つかず、離れず、追いつかせず、引き離さず。
 綱吉はアイスを齧った。バニラ味のそれ、表面に無数の水滴を浮かべた中身はちょっとだけ味が薄く柔らかすぎて何か物足りない。
 彼は食べないのだろうか、確かアイスを買っていたはずなのに。視線を向ければ彼の右手は空で、まさかあの短期間で食べ終えてしまったはずはあるまい、と怪訝に思っていると左肩が動いて横にずれた。そのまま綱吉がついてきているかを確認したいのか、首から上だけを後ろへと向ける。
 目が合った。彼の口には細くなった棒状のアイス、左手はだらりと下へ落ちて行き、彼は握っていた二つ折りの財布をズボンのポケットに捻じ込んだ。
「え、あ……ちょっと」
 待って、と綱吉は歩調を速め彼にぎりぎりで追いついた。
 黒曜の夏服なのだろうか、灰色の半袖開襟シャツに深緑のズボン、靴は元々白かっただろうくすんだ色をしたスニーカーで、麻製らしき白の帽子を被っている。眼鏡は、年中変わらない。
 鞄は持っていない、左目の下に施したタトゥーと左腕に巻いた銀の時計が妙に目立つ。他に同行者の影はなく、綱吉は彼の横に並ぶと前歯でアイスを削りながら彼を見上げた。
「なに」
「お金、返すよ」
「いらない」
 まだ自分の財布を見つけられずにいる綱吉だけれど、こういう金銭に絡む貸し借りは出来るだけしたくない。借金するのは親からだけだ。だから比較的強気の姿勢を表に出してみたのに、彼は実に素っ気無く、呆気なく綱吉の申し出を却下した。
 それもそうだろう、一万円札を惜しみも無く使って釣銭を受け取らなかった彼が、百円程度を返却されても嬉しくないに決まっている。だが綱吉の気持ちは納得がいかないのだ。綱吉は憤り気味にまだ口の中で塊が残っていたアイスを噛み潰すと、腕を伸ばし彼の手を掴む。
「返すってば」
「……」
 必要以上の熱さを肌に感じる。汗ばんだ表皮が指に絡みついて、綱吉は一瞬だけ息を呑むと棒アイスを右手に持った彼を強引に引っ張った。
 丁度道は下り坂、左方向に小さな公園が広がっていて、車道を渡れば入り口はすぐそこだった。蜃気楼が揺らぐ道を行く車はなく、横断歩道も無い場所を左右確認だけで渡った綱吉は、そのまま彼を引きずって土埃が鼻をつく公園の敷地内に足を踏み込んだ。
 人影は無い、流石に暑い盛りのこの時間帯に外で遊ぶほど子供達も元気がないらしい。
 小規模の、街中に埋もれ気味の敷地。緑は一画に集中し、反対側に遊具がいくつか並んでいる。砂場を取り囲む柵は白いペンキが剥がれ落ち、錆び付いたブランコが静かに子供の歓声を待っていた。綱吉はそれらを尻目に、陰影が濃い片隅を目指しその真下にあったベンチに彼を突き飛ばした。
 ふらつきもせず、彼はただ眼鏡を押し上げて口元に不機嫌さを滲ませる。右手は下に伸びていて、その先のアイスは溶けるに任せて汁が滴っていた。
「そこ、座って」
 背凭れの一部が欠落している青いベンチ、その一方を指差した綱吉は乱暴な口調でそう命令すると自分は空いたスペースに鞄を下ろした。残り僅かになっているアイスの棒を前歯で挟んで持ち、鞄を広げて中に両手を突っ込む。
「……」
 彼は何も言わず、綱吉とアイスと鞄を交互に見詰め、最後に自分たちに日陰を提供している大振りの枝をした樹木に眼鏡の奥の目を細めてから、大人しく言われた通り体を反転させてベンチに腰掛けた。あちらも残り少なくなっているアイスに舌を這わせ、綱吉の動向を待つ姿勢を作る。
 会話は無い、元々それ程親しいわけでもないから当然か。
 綱吉の顎を汗が伝い、首筋に落ちて行く。何気なくその様を眺めた彼は、綱吉の首に銀色のチェーンが絡んでいるのに気づいて知らずソーダ味の塊を噛み砕いた。ぽたり、と棒から外れ、口にも招かれなかった僅かな氷の結晶がベンチに落ち、溶けていく。
「あっれー……おかしいな」
 やっぱり落としたのかな、と鞄を漁っていた綱吉が泣き入りそうな声を出す。彼は傍らの視線に気づく素振りもなく、垂れ落ちそうになっていたバニラの雫を舌で掬い取り、そのまま表面を撫でた。
「ん……どこいったんだろ」
 コクン、と喉を鳴らして嚥下する。卑猥なものを想像してしまいそうになり、彼は慌てて綱吉から視線を外した。
 遠く、蝉の鳴く声が響いている。日差しは遮られているとはいえ、所詮は屋外。時折忘れた頃に吹く風は熱気と湿気をたっぷりと含んでいて、彼らの体をねっとりと嬲ってから遅い歩みで過ぎ去っていく。揺れる枝から擦れ合う葉の音だけが清涼剤で、ついに鞄の中身をベンチに移しだした綱吉に彼は呆れた様子で肩を竦めた。
 右足を持ち上げ、左足に絡める。位置が高くなった左膝に肘をついて頬杖つき、結局何がしたいのか分からない綱吉から彼の取り出したものへと視線を移し変えた。
 ノート、教科書。参考書に、問題集。よくぞこれだけ持ち歩けるものだと驚きに眉目を顰めさせた彼は、漸く「あった」と声を出した綱吉に視線だけを持ち上げた。
「はい、百円」
「……どうも」
 結局鞄の中身はその殆どが鞄の外に積み上げられた。分厚めのテキストに挟まれていた薄っぺらい財布を見つけ出した綱吉が意気揚々と小銭入れを広げ、中から銀色の硬貨を一枚だけ取り出す。
 差し出された以上受け取るしかない。結果的に彼が一番損をしているのに変わりないのだけれど、綱吉は彼が硬貨を掌に握り締めたのを見て嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶり」
「ボンゴレも」
 元気そうだね、と軽くなった鞄を膝に置いてベンチに座った綱吉の声に、彼――柿本千種は棒に残っていた最後のアイスを口に運んでそう返した。
 立っていても座っていても、彼は常に背中を猫背に丸めている。組んでいた脚を解いて並んだ両膝に肘を置いた彼は、棒だけになったそれを指先に挟んで地面に差し向けていた。
 ヴン、と何かが頭上を行過ぎる低い音がして、テキスト類を鞄に戻していた綱吉は顔を上げた。彼が動いたのを見て千種もまた、肩を後ろに引いて姿勢を真っ直ぐにする。どうやら蝉が一匹飛び去っていったらしく、それまで静かだった背後の木々が俄かに五月蝿くなった。
 日向と日陰では体感温度がかなり違う。緩やかながら汗が引いていくのを感じ取った綱吉は、重たいテキストを膝に立ててため息を付いた。
「……学校?」
「夏期講習」
 そもそも私服で学校へ行ったら、風紀委員に怒鳴られる。各部にプリントの図柄がある半袖シャツ姿で察して欲しいと、千種の問いかけを訂正して綱吉はがっくりと肩を落とした。
 今日は帰ったらまた大量に出された課題をやらなければならない、大体受験するかどうかだってまだ分からないのに今から勉強をしてどうなるのだろう。不平不満を口に並べていると、真横から溜息が聞こえて来た。
「知識が無い者は勝者にはなれない」
 千種の指が、積み上げられた教科書を撫でている。俯き加減の彼の言葉はずしりと綱吉に突き刺さり、ちぇ、と唇を尖らせて彼は縦にしていた英語の参考書を横に倒した。それから少し考え込んで、
「……勉強、得意?」
 下から覗き込むように腰を曲げて姿勢を低くした綱吉に、千種が剣呑な瞳を投げ返す。嘆くべきだろうか、この場合。大切な、尊敬し敬愛する骸と唯一コンタクトが取れる髑髏を、彼の部下にと差し出した自分自身の愚かさを。
 視線の冷たさに綱吉はえへへ、と乾いた笑いを浮かべて誤魔化した。蝉の声が頭の中で反響している、気持ちが揺れたのはきっと暑さの所為だろう。
「英語と、イタリア語……あとは化学と生物」
 前ふたつは異国の地で生き抜くために勝手に身に付いたものだ、だから英語といってもイタリア訛りでスラングも強く、会話が成立すれば良いという程度でしかない。後ろのふたつは、自分なりの強さを手に入れる為に独学で学んだ。毒の調合にはそれなりの自信がある。
 眼鏡を押し上げ、低い声で返す。
「化学、凄いな」
 ただ、俺、理科も全然なんだよなと笑う彼には深い意味が通じていない。分からなくても良いことだし、知らなければそれはそれで幸せなことだ。生温いこの国で生まれ育った彼との環境の違いを、今更口に出しても仕方が無い。
 千種は綱吉を見た、彼はまだ姿勢を低くしている。その袖にプリントされた図柄、何の意味があるのか二桁の数字。
 二十七。
「……教えて、欲しい、かな?」
「めんどい」
 上目遣いのお願いを瞬間蹴り飛ばし、千種は瞳の奥の感情を眼鏡のレンズで隠した。
 とはいえ、最初から断られるのは在る程度覚悟していたのだろう。綱吉はさしてショックも受けず、ちぇと舌打ちして右足を地面に蹴りつけた。乾燥した空気に埃が舞い上がり、木漏れ日が落ちる空間でキラキラと塵が反射して輝く。
「ケチ。いいじゃん、減るものじゃないし」
「減る」
「減らないって」
「……にじゅうなな」
「え?」
 振り上げた足、スニーカーの踵で砂を削った彼は背中をベンチの背凭れに預けて空を仰ぎ見る。吐き捨てられた負け惜しみを更に足蹴にした千種は、尚も噛み付いてくる綱吉の声を無視してさっきから気になってならない数字を読み上げた。
 不可思議な表情を作った綱吉の、そのがら空きの右腕をなぞる。
 袖、円形の中に刻まれた数字。
 27。
「俺の名前?」
 ツナ。
 にじゅうなな。
 英語のツー、日本語のナナ。
 足して、ツナ。
 単純な隠語、モノグラム。
「ああ」
 なるほど、と千種は頷いた。合点がいったという顔をした彼に、むしろ今まで知らなかったのかと綱吉は驚きを隠せない。
 こういうシャツは、どこからか奈々が見つけて買って来る。ちなみに奈々のお気に入りの数字は七十七だ、分かり易い。
「だから」
「ん?」
「コバルト」
 彼の指がシャツの数字をなぞった、そして意味不明に呟かれる言葉。なんのことだか分からないと首を傾げてみせる綱吉に、彼は薄く口元に笑みを浮かべて腕を引く。ベンチに積まれているテキスト、化学の本を中指の背で弾き、背中を伸ばしてベンチに寄り掛かった。
 知らない? と横に向けられた視線を浴び、綱吉は一瞬考え込んでから丸めた拳を顎に置く。
「コバルトブルーとかの、あれ?」
「そう」
 実際にはあれは、青色ではない。純正物は銀白色の金属で、更に言ってしまえば単体金属としての利用価値は殆どないに等しい。コバルトブルーとして知られる顔料に使われているのはアルミン酸コバルトであって、純粋なコバルトとは異なっている。それ以外のコバルト系顔料も複合酸化物であるし、合金としての利用価値は高いがコバルト単体で使われることは無い。
 他物質と混ぜ合わせることにより、本来以上の価値と実力を発揮する。用途は多様であり、今や生活のあらゆる見えない部分で必要不可欠な物質。
 誰かに、似てはいないか。
「……俺?」
 綱吉が自分自身を指差しながら問う。けれど千種は答えず、曖昧に笑って視線を空へ流した。
 緑が目に濃い、木漏れ日が優しい。帽子の隙間から伸びる黒髪が揺れ、毛先の動きを追った綱吉は自分に向けていた手を広げ、握り開きを繰り返した。
 そう言われても、実感が沸かない。
 確かに自分は一人では何も出来ない、いつだって誰かに支えられている。戦う強さと力は手に入れたけれど、それだってひとりだけの努力で身に着いたものではない。
 けれどそんな物質に擬えられるのは正直変な気分だった、自覚がないというわけではないがそこまで凄い人間だと自分を過大評価も出来ない。買いかぶりすぎだと小さく告げれば、そうかもしれないと彼は自分で言ったくせに呆気なく意見を翻してしまった。
 肩から力が抜け、綱吉は地面に添えていた足を前に投げ出した。空気の塊を蹴り飛ばす、蝉の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
 陽射しは変わらずに強い、公園を訪れる人もなく周囲は静かなものだ。たまに公園脇の道路を車が走り抜けていく以外、動くものさえ稀な景色にふたりして溶け込んでいる。
「でも、なんで俺がコバルト?」
「……」
 そもそも、そこが分からなくて綱吉は首を捻る。千種はやはり黙りこくったままで、手にしていたアイスの棒をひゅっと空中に投げた。
 くるくると回転しながら一直線に空へとのぼり、ある地点を境に落下に転ずる。居心地悪そうに彼の手に戻っていったそれに意識を奪われた綱吉は、急に右肩に加重を感じて背を震わせた。
 反射的に後ろへ下がろうとして、下がるだけのスペースが無いことを思い出す。引き攣った顎を反らして右斜め下に目を向けると、そこには目地の粗い麻の帽子が撓んでいた。
 汗臭い綱吉の肩に、千種が額を置いて寄り掛かっている。
「え?」
「コバルトは」
 目を見開いて驚いた綱吉の耳に、微かな吐息に紛れた千種の声が淡い音色を奏でて響いた。
 ふっ、と息を吸って吐いた彼に、綱吉は緊張に背筋を固くして同じように息を止める。わけもなく動悸がして激しく波打つ心臓に、身体全部までもが揺さぶられるのではという感覚が彼を包んで落ち着かない。
 不自然な場所で言葉を切ったその先を告げず、眼鏡の向こう側に潜む千種の目は静かに閉ざされて光を拒んだ。
 柔らかくもない、むしろ骨ばった男の肩に凭れかかっても気持ちが良いものではないだろう、それに綱吉は今、自分でも分かるくらいに汗臭い。だのに千種は身動きせず、だから綱吉も居心地悪くその姿勢で停止して時間が過ぎていくのをただ待った。
「あの」
「……これくらいで、足りる」
「なにが」
「コバルト」
 綱吉の疑問へ即座に切り返された、たったひとこと。
 だからそれが何であるのかを教えて欲しいと目で訴えるのに、千種は気づかないフリを押し通して瞳を細めた。
 顔を上げた彼は背筋を真っ直ぐに伸ばす。その様は何故か、深い静謐に包まれた山の中で孤独に耐えながらも懸命に空を目指し、真っ直ぐに伸びていく竹の潔さを思わせた。
「コバルトって、何」
 それがどう自分と結びつくのか。未だ理解出来ない綱吉の疑問は一切無視されて、千種は一足お先にと立ち上がった。
 けだるさを思わせる夏の風が吹き抜ける。立ち上った砂埃に視界を奪われ、綱吉は目を閉じて細かな塵を避けた。
「足りなくなったら、またくる」
「え――」
 だから意味が分からない、と声が聞こえて慌てて顔を上げる。けれど綱吉の視界には、人影もなく、閑散とした公園でただ風に煽られたブランコがひとりでに軋んだ音を立てていた。
 まるで嵐のように、突然現れて、突然去っていった。又三郎じゃあるまいし、と唇に指を押し当てた綱吉は手をベンチに手繰らせ、何かに触れて視線を横向ける。
 彼がそこに居た証拠だと言いたげに、取り残されたアイスの棒。当たりの文字がそこに焼き付けられていて、しょうがないなと彼は肩を竦めた。
 

 家に帰り着き、気まぐれに広げてみた化学の教科書。
 見開き、順番に並べられた元素記号のリスト。
 二十七番目に記されたアルファベッドは、Co。

 コバルトが人体に僅かながら必要不可欠な鉱物だと知ったのは、それから暫くしてのことだった。

2007/3/9 脱稿