宿願

 ざわめく神社の境内は、初詣客で賑わっている。中には普段見ることも少ない着物姿の女性も多くて、色鮮やかな打掛姿に目を奪われているバジルを傍らに置いた綱吉は小さく肩を竦めた。
「着物、珍しい?」
「え? はい、そうですね」
 他に意識を向けていたので若干反応が遅れたバジルが、綱吉を振り返りながら小さく頷く。前髪に隠れ気味の瞳を細め、嬉しそうに口元を綻ばせている彼に若干複雑な気持ちで頷き返した綱吉は、そう、と曖昧な相槌を打って抜けるような青空を見上げた。
 境内の木々は緑を失ったものも多く、寒そうに枝を空へと伸ばしている。隙間から覗く光景はまるでヒビが入った窓ガラスを一枚隔てているようで、夏のそれよりも幾らか薄い色をした青に白い雲が西から東へ真っ直ぐ伸びていた。
 巻きつけたマフラーを少し緩め、吸い込んだ空気の埃っぽさに眉根を顰める。ふと視線を感じて目線を戻すと、外ばかり向いていたバジルがいつの間にか綱吉の横顔をじっと見詰めていた。
「なに?」
 尻込みしてしまいそうな真剣な表情に、眉間に皺寄せたままついつっけんどんな声で首を傾げると、彼は唇をやや窄め気味に息を吐いた。
「いえ、なんだかちょっと、不機嫌そうにされていたので」
 言いながら彼は腕を伸ばし、綱吉の右肩へ触れる。親指と人差し指とが接し合って離れた後、足元へ向かって軽く振られた彼の手からは、よく見えないがゴミが落ちたらしい。今はもう何も残っていない己の肩を横目で見やって、綱吉はポケットへと両手を突っ込んだ。
「そうかな?」
「はい。でも今はもう、不機嫌じゃないと思います」
 両肩に力を込めて外側へ張り出しながら問うと、彼は臆面もなしに笑いながらそう言った。
 もう不機嫌でないと指摘されたのに、また不機嫌になるのも馬鹿らしく、息を吐き出すついでに背中を丸めた綱吉は小さく舌を出す。確かに機嫌は、直ったかもしれない。
「それにしても、凄い人ですね。お祭りですか?」
 古臭い日本語を喋る割に、正月行事にはそれほど知識がないらしいバジルが、改めて境内を見回しながら呟く。人ごみを避けて端に寄っているものの、傍には手水場もあってざわめきは近い。古い御堂の賽銭箱に百円玉一枚を捧げた後の、今年こそは平穏無事に過ごせますようにとの祈りは、神様には少し荷が重過ぎるだろうか。
 右手だけをポケットから抜き取った綱吉は、淡い輪郭線を描く太陽に瞳を細め、どう答えようかと悩む。
 祭りといえば祭りだが、果たして正月をその区切りで分類してよいものか。
「んー……似たようなものかな」
 結局曖昧にしか答えられず、苦し紛れに向いた先、参道の両脇には的屋が軒を連ね、おいしそうな食べ物の匂いが漂っている。綿菓子の袋を抱えた女の子が小走りに目の前を駆け抜けて、続けて父親らしき男性が転ばないように不安そうな顔をして通り過ぎて行った。
 家族連れが多い。友人同士や、恋人同士らしき姿もちらほら見受けられる。皆晴れの日に、晴れの格好で神社に一年の福を祈願して晴れ晴れとした顔で帰っていくのだ。
 折角新しい一年が始まったのだから、暗い顔をして過ごすのは勿体無い。胸の中の蟠りも、昨年の苦難も今は忘れることにして、綱吉はバジルを振り返った。
 が、彼はまたしても別の方向を見ていた。
「…………」
「沢田殿、あれはなんでしょう」
 微妙に歯切れの悪い顔をしている綱吉に構わず、興味を持ったものを指差したバジルが尋ねる。やや剣呑な目つきでそちらを見ると、彼の指が示す先には木造の小屋と、竹の柱の間に走る複数の白い紐があった。
 人々は笑ったり、難しい顔をしたりして短冊状の紙と睨めっこをした後、細く折り畳んで白い紐に結び付けている。近くの松の木にまで紙は結ばれており、この一角だけがやけに白色で埋め尽くされていた。
「ああ、御神籤だよ」
「おみくじ?」
 聞き慣れない単語に首を傾げるバジルの手を引き、綱吉は販売所へと近づいた。ポケットから財布を取り出し、案内にある額面の小銭を取り出す。幸いにも前の人が退いたばかりで、窓口の人に貨幣を手渡すと、迫り出している棚に置かれた茶色い筒を持ち上げた。
 バジルの目の前で真剣な顔をして揺らしながらひっくり返し、小さな穴から飛び出た棒を抜き取って残りを元の位置へと。
「はい、どうぞ」
 棒と引き換えに渡された紙を受け取った綱吉は、これで終わり、とバジルに肩を竦めてみせる。それから先ほどの短冊を裏返して、最も目立つ位置に太文字で書かれている単語に目を見開いた。
「沢田殿?」
「えーと……バジル君も引いておいでよ」
 分かってはいたが、自分はどこまでも不幸を背負う宿命にあるらしい。薄い紙を揺らして起こらない風を浴びながら綱吉は天を仰ぐ。バジルはわけが分からないという顔をしながらも、綱吉の見よう見まねで御籤を引き換えてもらい、戻ってきた。
 これでいいのか、と差し出された文面は、大吉。
「…………」
 自分の御籤を両手で破り捨ててしまいたい気持ちを堪え、綱吉はぐっと腹に力を込めて首を振った。
「凄いね、大吉じゃない」
「だいきち?」
「そう。今年一年いいことがあるよ、って意味」
 横から彼が持つ御籤を覗き込む。細かい文字でいくつかの項目を記しているそれらは、何れも先行き明るい暗示のものばかり。
 待ち人来たり、願い叶う、東北東に幸多し、云々。中には難しすぎて綱吉にも説明できない文言もあったが、大雑把に言っても、バジルの今年の運勢は期待が持てそうだ。対する綱吉は、というと。
「沢田殿は?」
「……いや、あはは」
 分からないだろうな、と思いつつも半分に折り畳んだ御籤を広げて見せる。書かれている大文字は、大凶。在る意味大吉を引くよりも強運ともいえよう。但し、引いた当人へのダメージも存外に大きい。
「だいきょう?」
「大吉の逆、てこと」
 正月早々、縁起が悪い。矢張り神様に贅沢を願い過ぎたからだろうか、と先行き重いものを感じながら、綱吉は文面全てを読む事無く短冊を縦に細かく折り畳んだ。
「逆、ですか」
「うん」
 大吉と、大凶。改めて自分が引いた御籤の文面を見詰め、少し寂しそうにしている綱吉の背中に顔を顰めさせたバジルは、不意に何を思ったのか綱吉が木へ結び付けようとしていた御籤を、後ろから奪い取った。
 指ごと持っていかれるかと思った綱吉が、驚いた顔で振り返る。御籤に引きずられて反り返った指を戻し、軽く握った彼は、二人分の御籤を手に入れたバジルに、いきなり何をするのかと詰め寄った。
 だが彼は何処となく怒りを秘めた表情で綱吉をひとつ睨むと、細かく畳まれた大凶の御籤を広げた。皺が大量に刻まれた文面を読みたいのかと思えばそうではなくて、丁寧に皺を伸ばした彼は徐に、大吉の御籤をそれに重ね合わせた。
 表と表が重なるように、即ち文字が書かれている面が重なるように。
「バジル君?」
「沢田殿は、こんな占いを信じるのですか?」
 問う声は鋭く、強い。
 信じるか否かといわれたら、首を横に振るだろう。神籤など半ば通過儀礼的な行動であり、三日もすれば札の結果など忘れているに違いない。しかしバジルの勢いに負けてつい逆の答えを、頷いて返してしまった綱吉は、彼が何かしでかすのかと肝が冷えた。
 まさか大凶の結果を取り消せ、と神社へ訴えるつもりではなかろうか。品行方正な彼の事、そんな強気に出るとは思いたくもないが、外国人だという大前提がある彼には日本の常識もあまり通用しない。
 が、彼は憤懣やるかたなしと言った風情で唇を一文字に引き結ぶと、二枚重ね合わせた御籤をその格好のまま、縦に畳み出した。
 厚みが増した分若干折り辛そうではあったが、丁寧に角を扱きながら綱吉が最初に作った折り目をなぞって一本の束を作ると、唖然とする綱吉の前に出て白い紐の僅かな隙間へと差し込んだ。両隣に結ばれている御籤を真似て、全長の三分の一辺りで一度折り返し、紐に絡めて残りの長い方を隙間に差し込む。
 外れないように自由に動く限界まで引っ張って、満足したのかバジルは御籤から手を放した。
 ひとつだけ、他よりも分厚い不恰好な結びが少し誇らしげに陽光を浴びている。
「……バジル君?」
「これで、相殺ですよね」
「え?」
「大吉と、大凶。正反対なんですから、こうすれば良いことで悪いことを相殺出来るでしょう?」
 でしょう? と首を傾げながら問われても、綱吉は乾いた笑いしか浮かんでこない。元気良く、それでいて明るい笑顔を向けられて、咄嗟に返事が出来ない綱吉ではあったが、彼が自分を気遣ってくれているのだけは痛いくらいに伝わってきて、胸の中がほんのりと暖かくなる。
 梅の花が綻ぶにはまだ早いが、豊かな香りが鼻先を掠めた気がして、照れ臭そうに綱吉は笑い返した。
「でも、それじゃバジル君の幸運が逃げちゃわない?」
「そんなもの」
 後ろに人が溜まってきていたので場所を譲り、歩きながらバジルは首を振る。前後に小さく振られていた手が綱吉の袖を取り、人の流れに乗り始めた頃に恐る恐る、指を絡めて握り締めてきた。
 少しの緊張がふたりの間を走りぬけ、苦し紛れに覗いたのは建物の隙間にはめ込まれた狭い空。己の吐き出す息が濁り、後ろへと流れながら消えて行く。
「沢田殿とこうしていられるだけで、拙者は」
 繋いだ手が、熱い。
「拙者は」
「俺も」
 力を込めて、握り返す。
 お互い視線は絡まないままだったけれど、結び合ったこの熱が、指先が、言葉よりも雄弁に気持ちを語っている気がして。
 益々顔を赤くしてふたり、黙ったまま正月の空を見上げた。

2006/12/25 脱稿