薬指

 いい天気だ。
 こんな暖かく、風も少なく、陽射しは柔らかで穏やかな日に教室でつまらない授業を受けるだなんて、時間を無駄に使うだけだ。面白くも無い教師の冗談に愛想笑いを浮かべてやるのも馬鹿らしい、生徒全員に理解させようという気概の無い単調な講釈を聞いてやる道理も無い。
 若者の人生は短いのだ。時間はもっと自由に、有意義に考えて使うべきものだ。大人になった時に何処で役立てるのかも分からない知識を詰め込まれよりも、自然を感じて感性に磨きをかけるほうがよっぽど将来のためになる。
 だから、そう。これは間違ってもサボりではないのだ。授業のボイコットなのだ。数学が嫌いで、宿題どころか教科書まで自宅に忘れて来た言い訳ではないのだ。そう、これは融通の利かない教師への挑戦であり、宣戦布告であり、戦略的撤退。
「……って言えたらいいのになぁ」
 力強く拳を掲げ、晴れ渡る空を睨んでいた沢田綱吉は、最後の最後で締まりがつかない顔をして大仰に肩を竦め、溜息を零した。
 寝坊をした。
 前日、リボーンに赤点だった数学を徹底的に教え込まれ、疲れ果てた状態で眠ったらあろうことか目覚まし時計をセットするのを忘れていた。それでも朝食を胃に掻きこんで、ぎりぎり始業時間に間に合うかという時間に家を出た。
 そうしたら毎日使っている道が封鎖されていた、水道管が破裂したのだそうだ。大回りを余儀なくされ、この時点で遅刻が確定した。
 遠くチャイムが鳴り響くのを聞いた、走る気力が失せた。
 見張りの風紀委員の目を掻い潜り、校内に忍び込んだ。教室まで行くかどうか躊躇し、気まぐれに鞄の中を確かめて数学のテキストとノートをまとめて忘れて来たことに気づいた。
 一時間目がその数学、嫌味が痛いインテリ風の先生が担当。教室の後ろからこそこそ入っても、きっと気づかれる。遅刻した上に勉強道具一式を忘れてきていることが知れたら、ねちねちと粘っこい説教が展開されるのも目に見えている。
 一度そのしつこさに獄寺がキレて大変な騒ぎになった過去もあり、あの教師の授業は綱吉にとって鬼門中の鬼門だった。
 だから出来れば教室にあがりたくない、大人しくしていたい。誰にも見付からず、穏やかな陽気に包まれて、せめて一時間目が終了するまでひとり過ごそう。
 そう願っていたのだけれど。
「…………」
 校舎の裏手を回り、極力人気の少ない場所を選んで誰かに発見される可能性を回避し、慎重に進んだ。
 時間を潰すのに最適な場所は、屋上を置いて他に無い。けれどあそこへ達するには校舎内の階段を登らなければならない為、移動中は人目につきやすい。だからできるだけ校舎外の、不良たちのたまり場にもならないような隠れ場所を見つけなければ。
 体育用具室は運動場で授業をやっているクラスがあるので、だめ。体育館裏は不良グループの縄張りだから、近づくだけでも危険。特別教室棟裏、別グループの陣地。部室棟、同じく。
 何故この学校は、こうも敵対しあう不良グループが複数存在するのだろう。そりゃ風紀委員も忙しいに決まっている、あそこが最大大手の不良グループなのが一番の原因のような気もするけれど。
 だから綱吉は、正面玄関は潜らずにそのまま右手に進路を取った。道路と接している白壁沿いにゆっくりと、春先の陽気を敏感に感じ取って蕾を膨らませている樹木を見上げつつ。そうして校舎を左側に見ながら、枝ぶりも立派な常緑樹が前方に聳えているのを見て、あの根元ならば誰にも見付からずに過ごせそうだ、と期待を込めた矢先。
 先客がいるのに気づいた。
「…………」
 ひゅぅ、と乾いた風が綱吉の足元を転がっていく。枯れ草が一枚流れていって、まさしくそんな気分に陥った綱吉は右手に持った鞄を危うく落とすところだった。
 この人はもっと他に、居心地よく眠れる場所を持っているというのに。
 どうしてわざわざ、こんな辺鄙な場所にいるのだろう。
 綱吉の頭を駆け巡った疑問に当然答える相手はおらず、肩を落とした彼は一緒に溜息を吐き出そうとして慌てて喉の手前まで来ていた気泡を肺に押し戻した。以前怪我で入院していた時、偶々何の因果か同じ病院に入院していた彼に言われたことがある。
 木の葉が落ちる音でも眼を覚ますという、その神経の細さ。酷い目に遭った過去を振り返り、綱吉は震え上がった肌を宥めるように両腕で身体を抱き締めた。
 大人しく退散した方が身のためだ、此処は彼に場所を譲ろう。もとより最初からこの木の根元は綱吉の所有地ではないし、早い者勝ちの道理を持ち出されたら綱吉に勝ち目は無い。触らぬ神に祟りなし、逃げるが勝ち。色々な格言が足早に綱吉の頭の中に姿を見せては消えていって、引き攣った笑みを頬に浮かべた彼は前を向いたまま右の踵を持ち上げた。
 雲雀恭弥。泣く子も黙る並盛中最凶最悪の人物。味方にまわすと彼ほど頼りになる存在は無いが、敵に回すととても勝てる気がしない。ざり、と爪先が地面の砂利を踏締める感触がして、綱吉は冷や汗を背中に流し背後を窺った。
 大抵のパターン、後ろには小枝が落ちていたりする。こういうシーンでは常套的に、逃げる側は小枝を踏んでしまって音を響かせ相手に感づかれてしまうものだ。だから先回りして行く先に障害物が無いかを確かめておく。ヘマをするものか、という意思表示の現れだったが、だからこそ背後にばかり気を取られた綱吉は自分の右側を疎かにした。
 脇に挟んだ鞄の角が、立ち木の枝を擦った。ざっ、と複数枚の葉が擦れ合う音が広がり、彼はその微かな不協和音に背を竦みあがらせる。緊張で息が止まり、伸び上がった背筋はピンと反り返って地上に長い影を落とした。
 横に捻っていた首を静かに、そして恐々と、本来の向きに戻す。流れ行く空気は一切変化が無いはずなのに、綱吉の首筋を撫でる風は妙に冷たく、それでいて生温い。だくだくと噴出す汗は脇に集中して玉を成した、呑み込んだ唾は苦い味を舌の表面に残す。
「………………」
 この沈黙がなにより、恐ろしい。
 いやそもそも、この人も授業をサボっているわけなのだから、綱吉の行動を責められる立場にはない筈だ。風紀委員長とは言え、彼もこの学校に在籍する立派な生徒であり、学生は勉強に励む義務がある――と自分が先ほど思い描いた絵空事を根底から覆し、綱吉は自分を下から睨めあげる漆黒の瞳に首を振った。
 恐れることはない、たった二歳そこらしか違わない相手ではないか。けれど植え込まれた恐怖心はパブロフの犬宜しく綱吉から思考力を奪い取っていく。この段階で次に自分を見舞うだろう衝撃に萎縮してしまった彼は、逃げ出すという選択肢さえも放棄してその場に立ち尽くした。
 眠そうに、雲雀が開けたばかりの目を細める。
「…………ょ――」
 何かを呟いた彼の声は、小さく掠れていて全部は聞こえなかった。ただ発せられた新しい音に背筋を緊張させた綱吉は震える手で鞄を持ち直し、鼓膜を突き破りそうな勢いの心拍数に生唾を飲む。
 雲雀は動かない。木の根元に腰を下ろし、投げ出された両足はやる気が無いままに地に伏している。右足は若干外側に開いて、左足はほぼ真っ直ぐに。足首が九十度曲がってつま先が空を向いているのは右、左は角度が広めで綱吉の側に向けられていた。
 右手は臍の上辺りに力なく載せられ、左手は脇へ。甲が下になって丸め気味の指は時折意味もなく揺れ動いている。肩に引っ掛けられた学生服は相変わらずで、風紀委員を示す腕章の文字は影になっていて見えない。白いシャツに落ちた木漏れ日が陰影を刻んでいて、まるで白い陶器で出来た精巧な人形のようだった。
 綱吉は動けない。最初に彼を襲った恐怖心は過ぎ去ったが、半眼のまま自分を見詰める相手に引き込まれて今度は魅入られてしまったようだ。浅く呼吸を繰り返す唇が僅かな上下運動を繰り返し、思い出したように作られる隙間が自分の名前を吐き出しはしないかと期待している。
 生温い初春の風が通り過ぎて、綱吉の髪の毛が細波立つ。汗を吸って湿り気を帯びたシャツから体温が攫われていき、本当の悪寒を感じ取った彼はぶるり、と身体を震わせた。
「なに?」
 不意に耳の奧に響いた声に、ハッとなった綱吉は吐き出しかけていた息を呑んで慌てて目を見開いた後、瞬きを数回繰り返した。
 前方、まっすぐよりも若干斜め下に佇む人物の冴えた瞳に心臓を射られ、綱吉は脊髄から脳髄にかけて走った電流にビリリと指先を反り返す。爪が剥がれそうな感覚に肝を冷やした彼は、雲雀が呟いた単語に直結する意味をあらゆる角度から捉えようとして、失敗した。分からない、もとよりつかみ所の無い相手であるだけに世間一般が示す常識だけでは計りきれなくて彼は困惑に眉を寄せた。
 春の日射しは暖かく、温んだ空気は袖の隙間から肌を絶えず撫でて行く。緩みかけた緊張に刺激を与え、綱吉は鞄の底の鋲を爪で引っ掻いた。一瞬脇へ流れた雲雀の視線が、中空を漂って綱吉へと戻ってくる。凪いだ湖畔を思わせる静寂にわけもなく心臓が震え、綱吉は姿勢を正した。
 座っていた雲雀が、地面に添えていた片手を裏返して力を込める。僅かに腰を浮かせて背を預ける位置を訂正した彼は、うーんと低く唸ってから首を左右に揺すった。まだ半分覚醒仕切っていない意識を促し、伏せた瞼でまばゆい光を遮る。或いは綱吉の姿さえ見えていないのではないかという錯覚に囚われた本人は、戸惑い気味に首から上を左へ傾けた。
 風が木立に触れ、緑が日光を反射する角度を変える。木漏れ日を瞼に直接受け止めた雲雀は一瞬だけ息を詰まらせ、綱吉から注意を外した。その間に居住まいを正した綱吉は、こめかみに指を押し当てて腕時計の文字盤を素早く読み取った。
 一時間目が終了するまで、まだ二十分弱の猶予がある。果たして彼がいつから此処にいたのかは分からないが、雲雀は羽織った学生服ごと上半身を斜めにずらし、浮き出た背骨を木の幹に押し当てた。喉を仰け反らせ、空を向いて息を数回に分けて吐き出す。
 不意に彼が、脇に垂らしていた指の一本を持ち上げた。蟹の足のように爪先を跳ね上げて、地面を打つ。
 二度、立て続けに。どこかで見た仕草だと思い綱吉は記憶を辿って、それは彼が良く応接室で綱吉に対し、机を小突きながら繰り出すものと同じだと理解したのは三秒後のこと。ナイフよりも鋭い視線も相俟って、綱吉は若干へっぴり腰になりつつも、後ろへ下がりたがる筋肉に無理を言わせ前方の地面に靴の裏を押し付けた。
 雲雀の視線が綱吉の顔から彼の喉へ落ち、胸元を辿って腰を撫で、太股をすり抜けてその影が伸びる地面へと。見られているな、と否応なしに感じながら綱吉は長い時間をかけて彼の傍らで歩を止めた。まだ地面を浅く削っている彼の指を踏まぬように一定の距離は保ったまま、膝を折って腰を屈める。
 今度は下から上に向かった雲雀の、無言のままの視線に値踏みされている気分になりながら、綱吉は曲げた膝と胸の間に鞄を抱いてしゃがみ込んだ。臀部は僅かに中空に浮かせたまま、完全に座り込んだとはいえぬ姿勢であるけれど、鞄ごと膝を両手で抱いて雲雀の視線の高さに顔を置く。正面から見据えた彼の瞳は、まだ完全には覚醒しきれていない様子で静かに凪いでいた。
「ヒバリさん?」
「なに、してるの」
「ヒバリさんこそ」
 そこに物憂げな彩を感じ取った綱吉が小首を傾げながら名を呼ぶと、彼はややたどたどしい口調でそう問うた。意趣返しのつもりはないが率直に言葉を舌に乗せていた綱吉は、言ってからもっと別の言い方をすればよかったと後悔した。
 けれど彼は綱吉が危惧した不快感は抱かなかったようで、背骨を木の幹に押し当てたまま顎を引いて喉を仰け反らせた。細められた瞳が宙を浮く、つられて空へ視線を流した綱吉は、流れ行く雲の合間に飛ぶ鳥の影を見つけた。
 そういえば雲雀とは春の季語でもある鳥の名だったな、と目の前に座す相手の苗字となっている生物を思い浮かべる。けれど姿かたちが脳裏に描ききれず、代わりにでて来た雀の図に、まぁ似たようなものだろう、と苦笑した。
「なに」
 笑っているのを不審がる雲雀の声に、綱吉は口元を手で覆い隠し目だけを上向かせた。明るい茶色の髪越しに彼が見えて、睨んでいるような、そうでないような瞳の揺れ具合に表情を緩める。
「俺も、ヒバリさんと一緒で、サボりです」
 言い切って、綱吉は右の膝を先に地面へ下ろした。
 鞄を左手で支え、右手を地面に添える。膝を曲げたまま腿を伸ばし、脛から足首にかけてを一直線にする。スラックスからはみ出た足の、靴下が覆っていない肌に土の感触を直接感じ取って、ひんやりとした空気に彼は一瞬顔を顰めた。けれど構う事無く左足も同じように動かし、両脚を綺麗に揃えて座りなおす。
 俗に言う、正座だ。地面に直に座るのにはあまりにも相応しくない体勢であるが、綱吉は構う事無く腿肉の上にさして重くも無い鞄を置くと、指先に残る土を払って上に乗せた。
 足を重ねている分、座高が増えて雲雀との視線が合わなくなる。失敗したかな、とも思ったが今更足を崩すのも馬鹿らしい気がした。
「ふぅん」
 一緒、というところを強調したからだろうか。やや剣呑な空気が雲雀から発せられて綱吉はひやりとする。けれど相槌以外の音を発さなかった彼の唇は細く横に結ばれたままで、見えている白目部分と比較すると大きく感じられる彼の黒目が上下運動を繰り返した後、彼はいきなり、綱吉の膝を占領している鞄を掴み取った。
 彼が予め断りを入れてから行動を起こすなんて滅多に無いと知っていても、唐突に動き出されては慣れている綱吉でも驚く。なんだ、と咄嗟に反応できずに硬直した綱吉の膝から重力が失せた。立て続けに鞄が横に放り投げられて落ちる音が耳に達する。
「え、ええ?」
 お弁当が、と綱吉が狼狽している間に放物線の終着点を刻み地面とキスをした鞄は、見事に底板が空を向いて傾いていた。あれでは中身も無事ではあるまい。なんて事をしてくれるのだと拳を硬くした綱吉はそのまま雲雀に向き直って、恨み言のひとつでも言ってやろうと涙ぐんだ。
 が。
「えぇえ――――」
 それよりももっと驚くべき行動を取った雲雀に、綱吉は慌てふためいて背中を後ろへ逸らした。が、地面に接する面積が大きすぎて下半身はついていかず、取り残された大腿部に鞄とは異なる重みが圧し掛かる。黒い毛先がサラサラと揺れて、グレーのスラックスの表面を優しく撫でた。
 どうしても高さが合わずに首の下に隙間が出来てしまい、すわりが悪いと雲雀は地面に肩をこすり付けて頭を綱吉に押し付ける。普段は見ることが無いつむじが見えて、新鮮な気持ち半分驚き半分の彼はひくり、と喉を鳴らして唾を飲んだ。
 何をやっているのか、この男は。
「脚、崩して」
「ヒバリさん、あのですね」
「高い」
「ヒバリさんのために正座したんじゃないんですけど」
「正座じゃないほうがいい」
「人の話聞いてください」
 膝から太股の辺りを撫でた彼の手の動きに背筋が粟立ち、反論も一切合財封じ込められて綱吉は渋々尻を浮かせ、右足首を横へ流した。左足首も外側へ向けて曲げ、腰を落とす。複数枚の布を隔てていても臀部に感じる土の冷たさは変わらず、綱吉の零した溜息に雲雀の黒髪が揺れた。
 これでいいですか、と両手のやり場に困りながら投げやり気味に俯くと、具合よく寝転べる位置を探し当てた雲雀が真上を向いて下から思い切り覗き込まれてしまった。隙間なく閉じた膝の間に肩を載せた彼は、頭頂部が綱吉の胸にぶつかりそうなくらいに距離が近い。
 逆向きになっている彼を見下ろすことになんて初めてで、不思議な感じがした。彼の左目を隠している黒髪を払いのけたくなって、腕を持ち上げようと肩に力を入れたところで自分の身体の勝手な反応に気づく。別に本当に触れたわけではないのに気恥ずかしさが募って、綱吉はそのまま腕を背中へと流した。腰の辺りで両手を絡ませ、自分の上着の裾を軽く引っ張る。
 彼は横になったままもう一度のびをし、その位置が気に入ったのか後頭部をより強く綱吉の腿に押し付けてきた。慣れない他人の重みと温もりに綱吉は肝が冷えて、下手に動けば彼を地面に落としかねない恐怖心もあり、奥歯を噛んで目を閉じた。
 その頬を、何を思っているのか雲雀の左手が触れる。
「…………」
 息を吐きながら瞼を持ち上げれば、彼の人差し指と中指が綱吉の強張った右の頬に円を描くように動いている。肌を擽る感触に戸惑い気味に瞳を揺らし、彼は背で結んでいた指を解いた。
 やや前傾姿勢を取ると、ネクタイの端が撓んで雲雀の髪に落ちていく。
「授業は?」
「えっと、数学です」
「知らないよ、留年しても」
「でもどうせ、聞いてても分からないですから」
 木漏れ日さえも遮って雲雀に影を落とす綱吉の顔を飽きもせず撫で続ける彼の問いかけに、綱吉は少しずつ胸の中に残る緊張感を解しながら言葉を返した。彼が触れられた場所から熱が忍び込み、綱吉の体内で巨大な塊となっている氷を溶かしていく。まるで猫をあやすように喉を擽られた綱吉は、ちょっとだけ背を引いて逃げると変わりに地面に広がる彼の上着を掴まえた。
 こびり付いた土を振り払い、持ち上げて左右に振る。地に落ちた風紀委員の腕章は本来の効力を発揮せず、ただの飾りとして綱吉の目に映った。
「ヒバリさんこそ、授業、いいんですか?」
 それでなくとも貴方は既に一年留年しているはず。言外に意味を含ませて聞き返した綱吉だったが、答えるべき相手は目を閉じて楽しげに笑うだけ。白いシャツに載せられた彼の右手が皺の中に埋もれ、地表を撫でた春の風が綱吉の髪をかき回して去っていった。
「授業なんて、教科書に書いてある事をなぞるだけだろう」
 必要ないよ、と言い切った彼の不遜な態度に、嘗て級友であり、親友であり、綱吉の右腕でもある勉強だけは優等生の人物も、似たようなことを言っていたと思い出す。その言葉を額面どおりに受け取るのだとしたら、即ち勉強は教科書に書かれている内容を丸暗記すれば済むものとして扱われていることになる。
 そんな勉強方法で、本当に知識は血肉として宿るものなのだろうか。
 疑いの目を向ければ、不満だったのか雲雀は下唇をやや突き上げて綱吉の首に指を置いた。喉仏をなぞってから手首を捻り、項へと絡ませてくる。下から与えられる圧迫感に、綱吉の体は勝手に前へ倒れていった。
 距離が近くなる、鼻先に雲雀が吐く息を感じた。
 彼の呼気を自分が吸い込んでいるのかもしれないと思うと、自然と顔が赤く染まる。照れ臭いような恥かしいような気持ちに綱吉の視線は脇へ流れて行って、首の裏を撫でる彼の指の動きにも意識を乱される。
「俺は……教科書読んでても、えと……さっぱり、なんですけど」
 読解力が足りないから、と言われればそれでお終いだが、綱吉は教科書の記述を例え百回音読しても、書かれている内容を半分も理解できず、また覚えられないだろう。自信を持って断言できる――こんなところで自信を持ちたくはないのだが。
 鼻腔を漂う空気に微かな花の香りが混じっている。発生源を求めて雲雀から逃れるついでに首を巡らせれば、校舎を取り囲む背の高い塀の内側に、隠れるようにして白い花が咲き乱れる樹木があった。あちらの方が昼寝をするのには気持ちが良いのではないかと思われたが、よくよく見れば細い枝には花ばかりで葉がない。これでは日陰を期待できず、だから雲雀はこちらを選んだのだろうと想像する。
 顎を反らして上向き、緑濃い視界に紛れる陽光に目を細める。自然と持ち上がった両手が雲雀の肩に引っかかり、そのまま手首だけが下に下がった。学生服の荒い布地にささくれが擦れ、右手ばかりが力を失い沈んでいく。
「君は、可能性をひとつしか考えないから」
「え?」
「ひとつの設問に対し、答えの導き方はひとつしかないと思い込む。一は一にしか成り得ないと固定観念に囚われる。応用の問題だ、要は」
「……よく、分からないです」
「だから馬鹿なんだろう」
 戸惑いを隠せない綱吉の返答をぴしゃりと切り捨て、雲雀は反論さえ許さない雰囲気を滲ませて綱吉の肩から腕を下ろした。指を五本広げて示し、うち人差し指を残して他四本は折り畳む。真っ直ぐ空を向く指は背筋をピンと伸ばし、自信と誇りに溢れている彼をそのまま体現していた。
 たとえば、と前置きをした彼は、
「1+1を計算するとき、君はこの指をどうする?」
 小学校一年生でもやらないような計算を引き合いに出され、馬鹿にされていると感じつつも綱吉は唇を尖らせただけで自分の左手を持ち上げた。彼を真似て人差し指を立て、ついで折り畳んでいた中指を伸ばす。
 指が二本並んだその手を、雲雀は捕まえて中指に力を込めた。大人しく従った綱吉の手は再び人差し指だけがそそり立ち、計算前の段階に戻された指をふたりが別の角度から見詰める。これをどうするのか、と待っていた綱吉だったが、雲雀は素っ気無く手を放してしまい、途方に暮れた。
 何がしたかったのだろう、わけが分からない。そう思って眉間に皺寄せた彼の前で、雲雀もまた己の人差し指を立てた。
「普通は、そうするだろうけれど。でも、こういう考え方だってある」
 言って、彼は自分の指を綱吉の人差し指横へ移動させる。長さも太さも異なる指が二本、並んだ。
 確かに計算式の導き通りの答えが目の前に展開された。けれど、と綱吉は思う。
「屁理屈ですね」
「そんなものさ」
 彼の返事はどこまでも軽い。
 膝を曲げ、緩い角度を作って腿を寄せた雲雀は寝転がったまま黒い革靴の裏で地面を蹴る。
「君は視野が狭い」
 五指を広げた彼の掌に右手全部が包み込まれ、引き摺り下ろされた。カクン、と肩が抜けるような衝撃に綱吉は抵抗して胸を反らし、けれど右腕は雲雀の額にまで落ちていって軽い衝撃が指の背を走った。
「そんな事」
「一は最後まで1じゃない。見方を変えれば形も、中身も変わる。一だけで十まで風呂敷を広げろとはいわないが、せめて五くらいまでは可能性を想像できたほうがいい」
「……つまり?」
「物事は同心円を描きながら、三次元の広がりをも持っている。平面に見えるものに対してその奥行きを考えれば、どうなる?」
「なんか、分かったような、分からないような」
「要するに」
 綱吉の手首に持ち替えた手を引き、雲雀は残る片手を自分の頭の下に敷いた。指の形が太股に如実に伝わって、綱吉は肩を揺らす。余裕に溢れた彼の口元が恨めしく、わざわざ難しく言って人を混乱させて楽しんでいるだけではないのか、とも思えてならなかった。
 捕まえられた手の自由を取り戻そうと指を広げて抵抗を示すが、それより早く彼は綱吉の指先を自分の唇に押し当てた。肌を伝った柔らかな感触がなんであるのか即座には理解できず、瞬きの後気づいた綱吉は耳まで真っ赤になって尚更肩に力を込めた。
 けれど許してくれない雲雀は、本当に寝転がっているのかと思える怪力を発揮して綱吉の腕を固定し、綱吉の反応を楽しんでか唇を更に押しつけた。薄く開いた隙間で淡く食んで、覗かせた舌で悪戯をする。
「ヒ、バリさん!」
「君はどうしようもなく馬鹿で」
「はぃ?」
「勉強なんて出来なくてもいいよ」
 舐められた指に感じた滑りと体温に肘を引き、綱吉は裏返った声をあげた。
 ふたりを撫でていく風もまた、穏やかな陽気に煽られてどことなく生温い。それなのに全身に鳥肌を立てた綱吉は今にも泣き出しそうなくらいに顔を歪め、息を呑んで指に絡み付いてくる雲雀の舌を堪えた。
 招き入れられた薬指に浅く歯を立てられる。第二関節までを呑み込んだ雲雀の舌の暖かさと、指の腹に感じた微かな刺激は、綱吉の中を駆け巡って本能に直撃した。心臓が震え、地面に横たえているだけの右脚の爪先が僅かに跳ねた。
 零してしまいそうな声を必死に押し戻し、綱吉は背を丸める。頭の下から腕を引き抜いた雲雀が笑う気配がして、片目だけを恐々開くとまた頚部を撫でられた。
「君はそのままでいい」
 舌で綱吉の薬指を押し出し、雲雀が意地悪く微笑む。
「視野を広くする必要も無い」
 薄く膜を張った綱吉の指に改めて唇を押し当て、残る湿り気を吸い取った彼は漆黒の瞳に太陽を映し出した。
「君は、僕だけを見ていればそれでいい」
「――――え」
「返事は?」
「はっ、はいぃぃ! って、ええーーー?」
 鋭利なナイフを喉元に突きつけられた気分で、綱吉は反射的に背筋を正して返事をしていた。返事をしてから、雲雀が言った内容を今一度頭の中で反芻させて、声を裏返す。
 素っ頓狂な悲鳴に、してやったりと笑う雲雀の声が重なる。
「ヒバリさん、今の」
「確かに、聞いたから」
「反則ですってば」
「男に二言はないだろう?」
「いやだから、ヒバリさん!」
 綱吉が張り上げた声に、静寂を打ち破る鐘の音が覆いかぶさった。俯かせていた顔を即座に上げた彼は、傍らの校舎に据えられたスピーカーが流す一時間目の授業終了の合図に反論を呑み込み、雲雀から解放された指を彼の胸元へ落とした。
 噛まれた指が痛い。よりによって、左の。
「……俺が一生馬鹿のままだったら、ヒバリさんの所為ですからね」
「責任は取ろう」
「約束ですよ」
「男に二言は無いよ」
 首の後ろに力を感じる。促されるままに背を丸めて顔を近づけ、綱吉は目を閉じた。
 綱吉の上唇と、顎を反らせた雲雀の下唇とが一瞬だけ触れ合って、離れた。薄目を開けて相手を確かめると、不満気味の雲雀の息を感じて綱吉は笑う。笑われたのが益々不満の雲雀は、綱吉の首から後頭部へと手を移動させた。
 押し潰される、そんな感じで勢いを乗せて触れた唇は、今度は勢い余って前歯がぶつかり少し痛い。
「ヒバリさんの、下手くそ」
「誰の所為だと」
「俺の所為じゃないですってば」
「咬み殺すよ」
「既に噛まれてるんですが」
 ひらひら揺れる左手の、薬指。横目で流し見て、雲雀は押し黙った。してやったりと綱吉が笑うと、乱暴に髪の毛を掻き回されてまた引き寄せられる。
 今度はちゃんと、ふたりして位置を確かめてから、目を閉じて。
「二時間目は?」
「責任、取ってくれるんでしょう?」
 時間が穏やかに緩やかに流れて行く。綱吉の意味深長な笑みに、雲雀もまた声を立てて笑った。

2007/2/23 脱稿