黒南風 第一夜

 その衣を一枚脱ぎ捨てるだけで限りなく自由になれるのに、お前はどうしてそうしないのだ。
 お前に本来宿っている力、そして我の力を合わせれば、この醜い皮など容易に破り捨て、自由かつ強大無比の力を手にすることが出来るというのに。
 何故お前はそんな小さな存在に固執するのか。触れれば砕け、握れば折れる虫けらに等しい存在に愛着を抱くのか。
 我には分からぬ。
 ……分からなくて良い。いや、お前には分からなくて当然だろう。私はお前だが、お前は私ではないのだから。
 確かに自由に空駆ける力には魅力を感じる、雲の如く気ままに生きる道もあった。認めよう、その道に今でも戻りたがっている自分が居ることは。
 けれどそれは私の中に在るお前の望み、お前の願い。叶えてやる道理は私には無く、故に私はその道を選ばない。
 嗚呼憎い、憎きや彼の空の子よ。我を地に縛りつける鎖となりて、己もまた空を駆る翼を失いし哀れなる空の子よ。彼奴如きにもたらされた不条理に絡め取られるとは、実に嘆かわしい。
 その小さき子に心臓を奪われたのは、さて、何処の誰であったか。命よりも重きものを失ったお前に、果たしてどれだけの価値がある?
 黙れ。貴様さえ居なければ、我は今頃空を縦横無尽に駆ける神の一員となれたものを。
 翼を折られたお前に、あの子に恨み言を言う筋合いは無い。貴様こそ黙るがいい、そして眠れ。再び、私の中で。お前の力は今や私の力だ。
 ……良かろう、今は一時貴様に預けよう。だが忘れるな、貴様の中には常に我が居る。貴様から鎖が解き放たれた時こそ、我の復活の時。
 心しよう、だがそちらも忘れるな。貴様の心臓を最初に食らったのが誰であったかを。主導権は常に、私にある。
 彼は目を開き、空を睨んだ。
 雲が晴れ、闇が覗く。
 雷光の如く一瞬輝いた筋は地表から空へと向かい、やがて押し戻された雲が全てを覆い隠した。
 雨が、近づこうとしていた。

  ~~黒南風

 桜の季節が通り過ぎ、鮮やかな新緑があちこちから満ち溢れ始めていた。
 並盛の里もまた例外ではなく、芽吹いた緑の眩しさに人々は心を躍らせ、田植えの準備も怠らない。相変わらず日の出と共に活動を開始した村人は、今日も大事なく過ごせるようにと行き違う人々へ朗らかに挨拶を送り、家々の竃からは朝食の支度をする芳しい匂いが立ち上る。
 獄寺もまた機嫌よく鼻歌を奏でながら土間を抜け、奈々の頼み通りに敬愛して止まない沢田家の嫡男を眠りから呼び覚ますべく、離れにある綱吉の部屋へ向かっていた。
 彼が上機嫌なのには幾らか理由があるのだが、なんといっても最たるものは、普段から綱吉の隣にべったりと張り付いて獄寺の想いを阻害している男が昨晩から不在だという事実だろう。
 そう、獄寺と同じく沢田家の居候である雲雀恭弥は諸般の事情により、昨日の日暮れ前から屋敷を離れている。外出先、その理由までは教えてもらえなかったが、名残惜しそうに見送る綱吉の横顔を見て獄寺はひっそりと心の中で握り拳を作ったものだ。
 これを好機と捉えなくて、いつが好機と呼べるだろう。閨を共にする雲雀が不在の為に一晩をひとり寂しく過ごした綱吉に出来うる限りの優しい声で囁きかけ、あわよくば据え膳に預かりたい。考えるだけで鼻の下が伸びてだらしない表情になってしまう獄寺だったが、井戸の前を通り過ぎ、離れの戸口に立つ頃には姿勢も正し、身繕いも整えて銀の髪を邪魔にならぬよう後ろへと掻き流した。
 咳払いをひとつ。柄にもなく緊張している自分がおかしくて、薄く笑って気持ちを解し彼は板戸を引いた。立て付けの悪い扉が横にずれていき、人ひとり分が通れるだけの隙間を確保して薄暗い内部へ潜り込む。
 数ヶ月前に獄寺がぶち抜いた綱吉の部屋の戸はとっくに修繕済みで、そこだけが他の部位に比べて真新しい。細長い土間に差し込む朝日は西窓故に薄く、踏み固められた足元に伸びる影もまた儚い。
 獄寺は半分ほど隙間を残し、半端に閉められている板戸の前で足を止めた。その場で数回足踏みをし、今日こそは邪魔者なしに綱吉の寝顔が堪能できると固く拳を握り締める。鼻息荒い彼は若干血走った目をしていて、もし今の彼を綱吉が見たのなら即逃げ出すこと間違いない。
 ただ当の本人は現在どのような危険が自分の身に迫っているかも知らず、夢の中を漂っている。
 一歩間違えればただの危ない人になりかねない獄寺は、心弾ませながら今行きます十代目、と叫びだしそうな気持ちを懸命に押し留め、勢いよく土間と部屋とを区切る板戸を開いた。
 ギギギ、と板同士が噛みあう音が響き、ドスンと壁にぶつかって止まる。全開にされた戸口から薄明るい日差しが流れ込み、行灯の火も既に消えて久しい綱吉の部屋が仄かな陽の明りに晒された。獄寺はいそいそと草履を脱ぎ捨てて膝から板敷きの部屋へと上がりこみ、そのほぼ中央に敷かれた布団へにじり寄っていく。
「十代目、朝ですよ~」
 わざと小声で呼びかけ、一応彼を起こしに来たという役目を全うさせてから獄寺は忍び足で布団へ近づいた。気のせいか、綱吉の身体よりも布団全体の膨らみは大きい。
 しかし綱吉の寝顔、という甘露な飴に魅了されている彼はそんな事実になど全く意に介さず、頭まですっぽりと被せられている布団の傍で膝を折ると、両手を合わせて拝む姿勢を作ってから綿入り掛け布団の端を抓んだ。
 そして勢いのままに引っぺがす。
「朝ですよ、じゅうだいめぇぇぇええええええ!?」
 ついでに獄寺も目を剥いた。
 彼の口から溢れ出た素っ頓狂な声は狭い部屋中にこだまし、外にまで飛び出して行って庭先で和んでいた鳥を驚かせた。慌てて飛び立つ羽音が幾つも連なり、やがて急激に周囲は静寂に包まれる。
「だっ……」
 獄寺の声に反応したのは何も鳥だけではない、無論そこで寝入っていた人物の耳にも届いている。彼はぐずるように顔を顰め、持ち上げた手で目尻を幾度か擦った。眠そうに頭を揺らし、右肩を上にして横向いていた身体をゆっくりと起こしにかかる。
「んー……?」
 欠伸を噛み殺しながら両腕を頭上に持ち上げて背筋を伸ばし、寝癖がついて変な風に跳ね上がっている黒い後ろ髪を掻き毟る男がひとり。緩慢な仕草で戦慄いている獄寺を振り返り、なんだったかな、と首を捻ってから再度欠伸を。
 緊張感がまるで無い素振りに、腰を抜かした獄寺は男へつきつけた指を懸命に振り回した。
「だ……っ」
 頭がろくに働かず、声が喉の奥に引っかかってまともに発音も出来ない。そうしているうちにもうひとり、布団に転がっていた明るい茶色の髪をした少年も身体を揺らして寝返りを打った。むずがって鼻を啜り、顔に降りてきた陽の光に表情を顰め、薄く唇を開いて吐息を零す。まだ完全に覚醒しきっていない意識と身体がひとつに重なり合う瞬間、薄目を開けた彼が最初に見たもの。
 それは戦慄いている獄寺の前で呑気に肩を回して骨を鳴らし、暫く考え込む素振りを見せてから結局分からないと気ままに笑う存在だった。
 相対する獄寺は、数ヶ月前に雲雀とやりあった時よりも激しく狼狽し、恐ろしく間抜けな顔を作ってその場で後ずさっていた。紆余曲折を経て漸く回路の繋がった思考が、一直線に肺に働きかけて音を発するよう喉に指示を出す。
 震える指で彼はまだ寝ぼけている綱吉の隣に居座る男を指差した。
「誰だお前はー!」
「んんー……? うるさいよごくでらく……」
「おー、ツナ。おはよう」
「……はえ?」
「ぎゃーーーーー!」
 目尻を頻りに擦り欠伸を噛み殺す綱吉を引き寄せ、元気良く跳ね上がっている彼の髪にそっと口付けた男の行動に、離れた場所で一部始終を見ていた獄寺は野太い悲鳴を上げて全身を震わせた。当の綱吉は困惑気味に半分閉じている目で自分を胸に抱きこもうとしている男を見上げ、僅かに首を捻らせた。
 抵抗をする様子もなく、ぼんやりとした顔で何かを懸命に考えている。相手を雲雀と間違えているわけではないようで、それが余計に獄寺を慌てさせた。
 自分の知らない奴が綱吉を手篭めにしようとしている。しかも雲雀同様人目を気にする素振りもなく堂々と、朝っぱらから。
 折角の綱吉との濃密な時間(そうなると保証されていたわけではないのに)を邪魔したこの男は、果たして誰なのか。綱吉はまだ考え中であり、男はといえばそんな頼りない表情の綱吉をにこやかに見守っている。
 獄寺はこの男を知らない、見覚えもないから里の人間でもない筈だ。けれど警戒心をまるで抱かずに男のやりたいようにさせている綱吉を見ていると、不安になってくる。ひょっとして自分が知らないだけで、この男は綱吉と親しい間柄なのだろうか、と。
「あー……」
 やがて妙に間延びした声で綱吉が呟き、自分の肩に乗せられている男の手を取った。
「やまもと、おかえりー」
 まだ寝ぼけ気味なのか舌が回りきらないたどたどしい言葉遣いで、綱吉はへへ、と男に笑いかけた。それがあまりにも嬉しそう、かつ楽しそうであり、獄寺は衝動的に半歩後退した。背中が土を固めただけの壁にぶち当たる。
「おう。ただいま、ツナ」
 男も綱吉が自分を思いだしてくれたのがよほど嬉しいようで、改めて両手を広げると座っている綱吉を思い切り抱き締めた。動きの鈍い寝起きの綱吉はそのまま彼の胸に顔を埋めることとなり、一瞬獄寺の視界から姿を消す。
 ぷち、と獄寺の頭の中で何かが音を立てて切れた。
「や、山本……?」
「ツナ、暫く会わないうちにまた綺麗になったんじゃないのかー?」
「ちょっと、山本苦しいって。それに、綺麗って、それは男の俺に言う台詞じゃないよ」
「おいこら、貴様」
 すっかり獄寺を蚊帳の外へ追い出した山本と呼ばれた青年は、綱吉をぐりぐりと遠慮なく胸に押し付けては離し、髪を撫でては角度を変えて彼を舐めるように見詰める。まだ頭が完全に覚醒しきっていない綱吉にしてみれば、上半身だけとは言え身体を揺すられると気持ちが悪くなってきて、やめてくれるよう懇願しつつ、さりげなく投げかけられた褒め言葉を訂正した。
 そうか? と笑う山本の肩を、背後から近づいた獄寺が無造作に叩いた。
「お?」
「てめー……どこの誰だか知らねーが」
 漸く獄寺の存在を思い出した山本が振り返った先、獄寺は部屋に入る時よりもずっと充血具合を酷くさせた目で彼を睨み下ろす。だがまるで通用していないようで、山本は呑気に薄笑いを浮かべて凄みを利かせる獄寺を見詰め返した。
 山本の拘束が緩んだ隙に抜け出した綱吉は、眠っている間に乱れていた寝間着の襟を直しながらふたりを交互に見やる。なにやら不穏な空気を感じ取った彼の首の後ろを、嫌な汗が伝っていった。
 前にもこんなことがあった気がする、それも一度や二度ではなく。
「獄寺君……?」
「へー、お前が」
「十代目から離れろぉ!」
「おー?」
 恐々綱吉が獄寺を呼び、聞いた山本が何か思い当たる節でもあるのか嬉しそうに頷く。そこへ激昂した獄寺の怒号が轟き、彼は叫ぶと同時に己の袖から指先ほどの大きさの札を何枚か引き抜いた。指の股に挟み持ち、胸の前で腕を交差させて構えを取る。
 最初に顔を引き攣らせたのは綱吉だった。一瞬にして眠気が吹き飛び、山本を突き飛ばして敷布団を巻き込みながら後ろへと下がる。だが山本は獄寺が構えているものの内容を知らないわけで、むしろ突然綱吉から逃げられたことに首を傾がせた。
「ツナ?」
「獄寺君、ここ屋内!」
 それは外で使うものだ、と目一杯大声で綱吉は叫んだものの、獄寺は聞いちゃいない。ぼけっとしている山本の横顔を仰々しく睨みつけ、腰を僅かに引いて膝を折り、構えを大きく取る。肘を引き、噛み締めた奥歯に呪詛の言葉を乗せて、盛大に気を吐いた。
 咄嗟に振り返った山本が、今頃になって獄寺の手から呪札が放たれようとしているのに気づく。時既に遅し、と思われる無防備さで目を丸くした彼に、獄寺はしてやったりと表情を緩めた。が。
「うおっと」
 半身を仰け反らせた彼は枕元に置いていた、恐らくは彼の荷物だろうものに手を伸ばし掴み取った。それは身の丈の半分ほどあるだろう木刀で、黒檀で出来ているのか艶がかかり怪しく黒光りしている。彼は素早く逆手に握ったそれを持ち直し、綱吉にぶつからない程度に剣先を反らせてから思い切り前方に向けて切り込んだ。
 腰は床に据えたまま、腰の捻りを利用して木刀を振るう。ほぼ同時に放たれた獄寺の呪札もまた、唸りを上げて山本目掛け一直線に宙を奔った。後ろで見守るしかない綱吉は、悲壮な顔で引き寄せた布団を頭に抱え込む。
 山本の木刀が空中に横一文字を刻み、ひゅっと息を吐いた彼はそのまま手首を裏返して更に上方向へと直角に切っ先を薙いだ。最初は自由にさせていたもう片腕を肘に添え、右の膝を立てるとそこを軸にして腰を捻る。獄寺が彼の動きに翻弄されて前に出るのを躊躇する中で、放たれた呪札だけは彼の意志通りに山本の眼前に差し迫ろうとしていた。
 その間、ほぼ瞬き一回分だっただろうか。
「ハっ!」
 小規模の、けれど一箇所に集中した爆発。灰色の煙が部屋中に充満し、綱吉は布団の下で数回咳込んだ。時同じくして別の場所からは獄寺の短い悲鳴と、それを掻き消さんばかりの轟音が地鳴りを伴って綱吉たちの耳に届く。綱吉は一瞬自分の身体が浮き上がるのを感じ、慌てて布団にしがみついて衝撃を和らげて堪えた。
「うひゃー、あっぶねー」
 濛々と立ち込める煙と土埃の中、最初に声を発したのは相も変わらず緊迫感に乏しい山本だった。
 彼はやや腰を浮かせた状態で屈み、木刀の切っ先を板の床につきたてていた。先端に添える格好で左手を置き、右手で細長い黒色の棒を支えている。冷や汗をひとつ掻いている以外は全くの無傷であり、爆風に煽られた胴衣の襟が若干乱れている程度だった。
 一方の獄寺は、というと。
「うわぁ……」
 煙が晴れるにつれてことの次第も段々と明らかになっていく。綱吉は抱えていた布団を膝へと下ろし、へなへなと全身から力が抜けていくのを感じた。
 獄寺の爆撃を、山本は咄嗟の判断で小規模な結界を張り、防いだ。お陰で彼のみならず、後方にいた綱吉も爆風を僅かに感じ取っただけで済んだのだが、問題は結界の正面にいた獄寺だ。彼は見事に自分の仕掛けた攻撃を跳ね返され、一極集中した爆発の勢いに耐え切れず、後ろへと弾き飛ばされたのだろう。
 倍返しという言葉があるが、まさしく今の彼がその状況だ。爆発を受け止められなかった獄寺の身体は後方へ吹き飛び、背中から綱吉の部屋の土壁に衝突した。元々素地の上に藁を混ぜた土を塗って固めただけの簡素な壁は、爆風には耐えられても獄寺の身体までは受け流しきれなかった。
 ぽろり、と天井近くの壁から小石が落ちる。それは綱吉の部屋の床で跳ね返り、すっかり見晴らしがよくなった土間へと消えていった。
 人型よりも少しばかり歪に穴が空いた壁、その向こう側に全身を痙攣させて崩れている獄寺の姿がある。いつぞやの雲雀に蹴り飛ばされた時同様、いやそれ以上の惨状だった。全開状態の戸口と、柱一本を隔てて新しく完成した不恰好な出入り口。修繕されたばかりの板戸はまたしても獄寺の背中で真っ二つに折れていた。
 山本は木刀に込めていた力を解放し、顔を上げて目の前に展開されている事の結末に引き攣った笑みを浮かべた。やり過ぎた、と本人も認めているのだろう、ただこの場合咄嗟の手加減できなかったのも致し方ない。どう考えても獄寺が一方的に仕掛けた喧嘩で、山本は自分自身を守ろうとしただけ。彼に非はない。
 ただ、矢張りこれは。
「あああ俺の部屋が……」
 いったい雲雀に、そして修理に来てもらう大工に、何がどうしてこうなったのか、どうやって説明すれば良いというのだろう。途方に暮れて、綱吉は埃が降り積もる床に向かってがっくりと項垂れた。
「あはは。すまん、ツナ」
「いってぇ……」
 山本と獄寺がほぼ同時に声を発し、顔を上げた綱吉は悔しいのか悲しいのか分からない涙眼でふたり揃って睨みつけた。丸めた膝の布団を拳で殴り、そのまま勢い良く外を指し示す。
「ふたりとも、出て行けーっ!」
 並盛の里全体に響き渡りそうな大声に、山本も獄寺も乾いた笑いを浮かべるほかなかった。

 奈々が機嫌良く料理している音だけが響き渡っている。
 つい十数分前の出来事のお陰で部屋が使用不可能になった綱吉は、辛うじて埃を免れた箪笥の着物に袖を通し、母屋へ顔を出した。綱吉に追い出されたふたり組も囲炉裏の前でリボーンを交え車座を作っており、勝手口から顔を覗かせた綱吉は右から順番に三人を確認して、自分も薄暗い屋内へ足を踏み入れた。
「おはよう、朝ご飯もうちょっとまってね」
「うん」
 気付いた奈々が竈の前で顔を上げる。火加減を調整しながら泡を噴いている釜の上に重石を載せている彼女に頷き、綱吉は足の裏で硬い土を擦りながら板間の手前まで進んだ。
 山本は着替えたらしく、灰色に濁っていた胴着と野袴姿から渋茶色の長衣姿になっていた。腰に巻いた緑沈の帯には護身用の小刀が挿され、脇には愛用の黒檀色の木刀が置かれている。獄寺は着替えていないものの、山本に弾かれた自分の呪札で負った傷の手当てがそこかしこに見受けられた。
 半鬼であるお陰か、彼の傷はそれほど多くなく、深いものも無かった。擦り傷と打ち身、あと火傷少々で済んだのはむしろ奇跡だろう。至近距離で、爆発がいくら小規模だったとはいえほぼ直撃だったのだから。
「ツナー」
 居間にあがろうと草履を脱いでいると、囲炉裏前の山本が片手をあげて綱吉を呼んだ。彼は薄葉色の長衣の裾を軽く摘み、一段高くなっている母屋にあがると、僅かに寝癖が残る髪を掻き回し、自分を呼んだ相手ではなくリボーンを見下ろした。
 まるで残るふたりがその場にいない、見えていない、という素振りで。
「おはよ、リボーン」
「おっす」
「……悪かったよ、ツナ」
 まだ怒っているんですよ、という意思表示を感じ、山本は苦笑しながら顔の前で両手を重ねた。彼の横では獄寺も、叱られた犬の如く背中を丸めて小さくなっている。時々上目遣いに綱吉を窺い見ては、視線が重なる前にサッと逸らして。
 両者の対照的な態度に綱吉から溜息が漏れる。事情は軽く説明受けているのか、リボーンはお気に入りの黄色い頭巾の位置を直しながら茶を啜って声を立てずに笑った。
「まったく……」
 ふたりとも悪気があってやったのではないと分かるから、綱吉もそこまで真剣に怒れない。怒るのにだって体力がいるし、腹も減る。既に空腹の限界点に到達しようとしている綱吉は、これ以上無駄な力を使いたくなくて、肩を落とすと囲炉裏端に寄り膝を折った。
「十代目」
 縋る目を獄寺に向けられ、再度溜息。
「いいよ、もう」
 綱吉だってまさか山本が戻って来ているとは思わなかった。そして獄寺は山本の顔を知らなかった。山本が綱吉の布団に潜り込んだのだって、理由があっての事だろう。問う視線を向けると、山本はははは、と頭を掻きながら笑った。
「いつ戻ってきたの」
「ん、昨日の夜更けかな」
 山本武。綱吉や雲雀と同じく、リボーンに師事した退魔師のひとり。その実力はリボーンも認めており、若干十四歳にして独り立ちが許された彼は、現在の蛤蜊家を中心として成立している退魔師の、家系による優劣具合を翻す逸材でもあった。
 彼は、此処並盛の里で小料理屋を営む家の長男だ。彼の父親は各地を放浪した末にこの地に根付いた人物だが、元々はどこかの藩に仕える武術指南役だったらしい。剣術家としての生活に疲れ、辿り着いた並盛の里を気に入って住み着いた父親に似て、山本も剣術に秀でている。だがそれだけではないと見抜いたリボーンが、自ら出向いて自分の元で学ばないかと勧誘し、今の状況がある。
 彼の家は里にあるのだが、父親が厳しい人で、退魔師として一人前になるまでは敷居を跨ぐなと中に入れて貰えない状態だとか。その為修業時代、彼は現在獄寺が使っている母屋北の部屋を借りて綱吉達と一緒に暮らしていた。
 だから山本も、最初から綱吉の部屋に潜り込むつもりはなかった。嘗て自分が間借りしていた母屋の北部屋に真っ先に向かって、そこで休もうと考えていた。
「でも、俺の部屋で誰か寝てんだもん。しょーがねーから、ツナの布団借りたんだけど」
 駄目だったか、と小さく舌を出した彼の表情はあまり反省の色が感じられない。だがおおよその経緯は理解できた。実に下らない理由、こめかみに鈍い痛みを覚えた綱吉は肩を落として溜息を零した。
 同じく聞いていた獄寺が、不満げに唇を尖らせる。
「だからって、なんで十代目の部屋なんだ」
「俺の部屋使ってるの、お前だっけ?」
「あ? ああ」
 山本が見たという北の間で眠っていたという人物は、彼の言う通り獄寺以外にあり得ない。何故今更そんな当たり前のことを聞くのか、と表紙抜けた顔をした獄寺に山本はにっ、と楽しげに笑った。
 悪戯っぽく目を細めて。
「ツナが駄目なら、お前の布団に潜り込んでたけど、良かったのか?」
「んな!」
 それこそ獄寺は目を剥いて驚き、貴様そっちの気があるのか、と大げさに戦いて座布団ごと数間後退した。ズザザザ、と板と布が擦れあう音がその場を走り、山本が元々こういう性格なのだと知っている綱吉は疲れる、と頭を抱えた。
 根がまじめな獄寺と、天然気味にお気楽性質の山本。まるで水と油だ。
 傍観者のリボーンが、音を立てて茶を啜る。
「それで」
 まだ鳥肌を立てている獄寺を茶化している山本の間に割って入り、リボーンが鈍色の湯飲みを置いた。朝食の支度が調いつつあるのか良い匂いが部屋中に漂って、綱吉は落ち尽きなく腕をさすって身体を揺らす。後方で奈々の忙しなく動き回る足音が微かに聞こえ、振り返った綱吉はこの場に居合わせていないひとりの姿を求め視線を泳がせた。
 膝に置いた拳が小刻みに揺れている。目を閉じて伝心で呼びかけても、遠く離れすぎているのか反応は無かった。
「山本、調子はどうだ」
 自分の愛弟子が久しぶりに戻ってきたのだ、リボーンも彼の成長が気になるのだろう。座布団の上で居住まいを正した山本は、正面からリボーンに向き直り、しっかりと深く頷いた。急に真剣な態度を作った彼に、獄寺が「けっ」とそっぽを向く。
 開け放たれた北の縁側から流れ込む空気は、濃い。緑は鮮やかに色濃く、葉は大きく広げられ風をいっぱいに受けて樹木はそれぞれに日差しを貪欲に求める。花は咲き誇り、甘い蜜を餌に虫を誘う。
 春の終わりが近づきつつある。日の出は徐々に早まり、また日の入りも遅く日中が少しずつ長くなっていく。
 穏やかな陽光を受けて輝く白砂に目を細めた綱吉は、リボーンと山本の会話を聞き流しながら薄く開けた唇で音にならない名前を呼んだ。
 一晩離れただけだというのに、もう彼の存在が足りないと感じている。蛤蜊本家に出向いて家を留守にした時は自分がいっぱいいっぱいだったのであまり感じなかったが、心に余裕があるとそこに空いた穴の存在が嫌にはっきりと認識できて、息苦しくさえあった。
 膝上で絡ませていた両手を裏返したり、重ねたり。教わっても実践出来た試しが無い印を結んでは解き、居心地悪そうに腰を浮かせかけてはまた沈める。見ていた獄寺が首を傾け、綱吉が頻りに気にしている北側にあるものに思いを馳せた。
 よもや、と思いつつも。
「十代目、雪隠でしたら」
 ぼかっ、と直後獄寺の後頭部にリボーンの撥が直撃した。
 同じように片膝を立てて殴りかかろうと構えていた綱吉が虚をつかれて停止し、額から床に撃沈した獄寺にぷっと吹き出した。
「ツナ」
 山本が腹を抱えて笑う横で、撥を煙として消したリボーンがゆっくりと綱吉に向き直る。
 赤ん坊の姿をしながら、計り知れない程強大な力を持っているという彼。既に数百年生きている筈なのに全く成長する兆しは無く、姿形が変わらないまま生き続けている、人ではないけれど、では正体が何なのかと問われれば誰も答えられない存在。
 リボーンは己の事を滅多に語らない。その代わりに綱吉達が苦難に直面している時はさりげなく姿を現し、的確な助言を行って気付けばいなくなっている。全てを知りながら全てを語らず、その勿体ぶったやり方は時に苛立ちを覚えるけれど、後々考えれば彼が居てくれて良かったと思う事ばかり。
 誰にも従わない雲雀も、リボーンの言葉だけは大人しく耳を傾けるくらいだ。しかしあまりにも彼に頼りすぎると、逆にいざという時手助けをしてくれない等、なかなかに手厳しい。
 綱吉や雲雀、山本のみならず綱吉の父である家光さえも弟子として持ち、沢田家を長く影ながら支えてくれている存在。彼が居なければ沢田家はとっくの昔に廃れきっていただろう、という言葉も決して大げさではないのだ。
 白塗りしたような肌に、大きな黒目がちの瞳。頭を抱えて蹲る獄寺を飛び越えて綱吉の前まで進み出た彼は、返事に戸惑っている綱吉の膝を軽く叩き、くいっと顎で北側に開けた庭を示した。促されるままに綱吉もそちらへと顔を向ける。
 濃い緑に囲まれた結界石が、日の光を白く反射していた。
「リボーン」
「行ってこい」
「でも」
「放っておいたら二度と戻って来ないかもしれないぞ」
 主語が欠けたふたりの会話を聞いている残り二名の表情もまた、複雑だった。
 山本は遠慮気味にリボーンと北の裏山を交互に見ている綱吉を見て、僅かに眉根を寄せて渋い顔を作り出す。組んでいた胡座を解き、右手を床に泳がせて傍らの木刀に指先で触れ、引き寄せる。直後に綱吉から外した視線は沢田家の屋敷を支える柱の一本を射抜き、真一文字に結んだ唇からは何の音も発せられなかった。
 獄寺はといえば綱吉達が語り合っている内容がまるで理解出来ておらず、きょとんとしながら銀髪を揺らしている。首に巻いた包帯を指で引っ掻いて、留め具を外してしまい緩んだのをきっかけに面倒だからと全部外してしまった。
 火傷の跡はもう見あたらない、驚異的な治癒力を横目で確認した綱吉は先程の彼の失言は忘れる事にして、リボーンに向かって首を横へ振った。
「良いのかな……邪魔して」
「構わないだろ」
 どうせ一晩経っている、やるべき事はもうとっくに終わっている筈だ、と不安に感じている綱吉の膝を重ねて叩いたリボーンの言葉に、彼は漸く頷いて身体を浮かせた。
 リボーンが一歩半後退して綱吉を避ける。立ち上がった彼は長衣の裾に出来た皺を伸ばし、照れくさそうに自分の前髪を引っ張った。
「十代目?」
「行ってくるね」
 獄寺の呼び声も聞かず、綱吉はリボーンだけを見て小さく微笑んだ。そのままくるりと踵を返すと、草履を履いて土間に駆け出す。
 朝食の支度をほぼ完了させ、盛りつけに移っていた奈々が急ぎ足で勝手口から出て行った己の息子に目を細めた。
「十代目、お供します!」
 置いていかれた面々のうち、状況が分かっていない獄寺だけが立ち上がろうと膝を床について腰を浮かせた。だが。
 ガタゴト、と連続して彼の身体が床に正面衝突を果たした。立ち上がる勢いを殺しきれずに両腕を真上に伸ばして床に貼り付く彼の姿は、かなり滑稽である。だが、この場に居合わせた人間は誰一人として笑わなかった。
 気まずい空気が流れ、真っ赤に腫れ上がった顔を持ち上げた獄寺が自分の足下に座っている人物を涙目で睨んだ。潰れた鼻からはうっすらと血が滲んでいる。
「てめー! 何しやがる!」
「あ、悪い」
 大声で怒鳴った彼に山本は、矢張り反省の色が薄い声で頭を下げた。彼の手はしっかりと獄寺の野袴の裾を握っており、その所為で獄寺は足を前に出せず床に縫いつけられて身体の均衡を崩したのだ。
 綱吉の部屋での出来事といい、今回の事といい、獄寺の中で山本への心証はどんどんと悪くなっていく。彼は鼻の下を乱暴に手で擦って身体を裏返した。ただその間も、彼が去っていかないように山本は手を放さなかった。
「放せ」
「何処行く気だ?」
 左の足首を振り上げて山本の手を払おうとした獄寺に、山本の低い声が重なる。行き先など決まっている、十代目を守るのが自分の指名だと言って憚らない彼に、けれど山本は呆れた風に息を吐いた。
 引き寄せた木刀を肩に傾け、彼はリボーンが綱吉へそうしたように、顎をしゃくって丁度北庭に現れた綱吉の行く先を示した。
 薄葉色の長衣が緑をかき分けて消えていく。彼は結界石の間に張られた縄をひょいっと飛び越え、苔生した石段を登っていった。
 獄寺が最初にこの屋敷を訪れたとき、直々に案内をしてくれた綱吉が言っていた内容が蘇る。裏庭から続く結界石の向こうは神域だから、決して立ち入らないように。入れるのは沢田家直系の者だけで、だから許し無くあの石を超えられるのは綱吉と、今は不在の家光だけの筈。
「追いかけても、お前は入れない」
 行くだけ無駄だと言葉を切った山本はやっと獄寺から手を放し、肩口に乗る木刀の柄を握った。そこに頬を預け、姿勢を崩す。
 綱吉が姿を消した方角から山本へ向き直った獄寺は、彼の表情にやりきれない想いを感じ取った。
 まさかとは思うが、彼もまた獄寺同様に、綱吉の事を……?
「早いな、もうそんな時期だったのか」
「知っていて帰って来たのかと思っていたぞ」
 獄寺が手で己の口元を覆い隠す。山本の様子に自分と同じ気持ちを感じ取って、それ以上何も言えなかった。代わりにリボーンが山本の呟きを受け、返す。
 こちらも獄寺にはさっぱり理解出来ない内容だ。並盛の里に来てからまだ日が浅い獄寺は、知らない事が多すぎる。
「雲読みか~。雲雀が来てから豊作続きだし、本当助かるよな」
 僅かに顔を上げて視線を天井付近へ流した山本の何気なさを装った呟きに、リボーンも獄寺も違う意味で表情を険しくした。あまり多く語って欲しくない様子のリボーンに、また耳慣れない単語が出てきたと疑問符を頭に浮かべる獄寺と。
 気付いているのかいないのか、山本は今度は項垂れて手にした木刀に上半身を寄りかからせた。
「戻って来てるの知られたら、田植え手伝わされるな」
「当然だな」
 リボーンが置いていた湯飲みに手を伸ばし、すっかり冷めてしまっている茶を啜る。彼が両手で持っても落としてしまいそうな大きさに感じられる湯飲みだが、それは至って普通の大きさなのだ。赤ん坊用にしつらえられた湯飲みなど、存在しない。
 盆に朝食を載せた奈々が居間にあがってくる。彼女の為に場所を開けた山本に、奈々は微笑んで彼の分の食事を差し出した。朝起きたら家にひとり増えていたというのに、驚きもせず彼をあっさりと受け入れた奈々は、相当肝が据わっていると獄寺に改めて思わせた。
 元々顔見知りだったのもあるし、数年間この家で共同生活を送った事があるから奈々の反応も当然といえば当然だが、人数分しか食材もないのに連絡もよこさずにいきなり押しかけた山本にまで食事を供する余裕が何処にあったのだろう、と獄寺の疑問は尽きない。
「はい、隼人君もどうぞ」
「有り難う御座います」
 自分の前に出されたお椀に山盛りの米飯。お手製のお新香に、昨日村の人が持ってきてくれた、若干焦げた川魚。囲炉裏に吊された鍋に湯気を立てるみそ汁は、自分で好きなだけ。
 奈々はふたりから少し離れた場所で慎ましく両手をあわせ、こうやって日々飢えずに過ごせる事を感謝していた。リボーンは食事を必要としないから、彼の分のご飯は用意されない。
 土間を見れば、奈々が作った料理はどうやらこれで最後のようだった。飯櫃の中にはいくらか残っているものの、さっさと食べ始めた山本の食いっぷりを見ていると、綱吉が戻ってくる頃には空っぽになっているのではないかと心配になる。実際長旅の末に此処に帰り着いた山本は昨日から水以外何も摂取しておらず、空腹は最高点だった。
 獄寺は椀を手に取り、箸を握って考え込む。ひょっとして奈々が山本に出したのは、綱吉の為に用意したものではないのか。
「あの、お母様。十代目の分は……?」
「え?」
 食べようと箸を動かすが、結局白米をすくい取れなかった獄寺はそれを揃えて盆に戻し、遠くに座している奈々に小さく問うた。山本も顔を上げて唇についた米粒を舐め取り、獄寺を見る。奈々は箸を休めると、数秒掛けて獄寺の問いかけを吟味し、ああ、と手を叩いた。
 大丈夫よ、と毒気を抜く笑顔を浮かべて言う。
「ですが」
「恭弥君がちゃんと面倒見てくれるわよ」
 あの男に全幅の信頼を置いているからか、屈託無く笑う奈々に獄寺はそれ以上聞けず、置いた箸に再び手をつけた。
 納得がいかないし、理解も出来ない。知らない事が多すぎて、胸の中が悶々としている。その横顔を山本もまた複雑な思いで見つめていたが、敢えて何も言わず飯を胃に掻き込んだ。

 綱吉は全く人の手が入らず生え放題になっている緑の下草をかき分け、転がる石に躓きながら急峻な坂を登っていた。
 日頃から運動をしない所為で、すぐに息が切れてしまう。付け加えて絶頂を迎える空腹感に力が入らない。それでも彼は歩みを止めず、顔の前まで背丈を伸ばした細長い草を押し退けて確かな一歩を刻んだ。
 いったいいつ、誰が積み上げたのか、長方形に切り取られた乳白色の石が山肌に連綿と続いている。表面は僅かに凸凹が残るものの、登るには十分過ぎるくらい均された石段に爪先を載せ、綱吉は熱の篭もった息を吐くと額に浮いた汗を拭って後ろを振り向いた。
 両側を埋める樹木は自由気ままに、両腕を空めざし大きく伸ばしている。枝に茂る無数の葉が日差しを遮り、木漏れ日を彼の頬に落とした。細かな隙間から覗く空には雲が多く、足下遠くにはうす緑色に染められた里の景観が鮮やかに広がっている。
 田起こしが終わり、水が張られた代田に空が幾つも浮かんでいる。隙間を縫うように畝が伸び、集まった先に集落が転々と。里のほぼ中央に見える一際大きな屋敷は、笹川の家だ。肩を寄せ合うようにいくつかの家が並び、そのどこからも朝食時だからか薄く煙が棚引いていた。
 田植えの季節が近い。噂に聞くばかりだが、遠く離れた地方では干魃続きで作付けが非常に不安定なのだという。昨年は隣村から援助の依頼があったくらいで、水と日光に恵まれてこの数年豊作続きの並盛の里がむしろ異常なのだ。
「今年も、いっぱい実ると良いな」
 遠目に見える海がうっすらと綱吉の目に輝いている。思わず呟き、首筋を拭った綱吉は片足を一段上に運んで緩く首を振った。
 良いな、ではない。恐らく、間違いなく今年も並盛の里は豊作となるだろう。
 この土地は神に愛されている、守られている。神というのは大袈裟かもしれないが、それに準ずる力がこの里を守っているのには違いない。だから作付けは心配しなくて良い、むしろ近隣の不作具合が気に掛かる。
「……俺が奪ったから、じゃないよね」
 それは長い間抱き続けている疑問。彼を招いたのは綱吉で、彼の加護を失った場所はその後枯れたと聞く。数年前に率直に問うたことがある、けれどそんな馬鹿な事はあり得ない、と彼の答えは酷く素っ気なかった。
 関係なければいい、けれど不安は消えない。ただ自分はもう彼を手放せなくて、それはきっと彼とて同じ。
 頭上に広がる雲が密度を濃くして空を覆い隠そうとしている。綱吉は考えを中断し、石段へ視線を戻した。まだ半分近く段数は残っている。急がなければリボーンの言葉が本当になりそうで、彼は長衣の裾を翻して石段を駆け上った。
 どこかから鳥の囀りが重なり、風に揺れる木々のざわめきが耳に優しい。その間から水の流れる音が混じり始めた頃、鼻先にも微かな水の匂いを感じて綱吉は顔を上げた。
 ずっと道らしくない道を進んでいたので、草履を履いただけの素足は土にまみれ傷もあちこちに出来ている。血が滲んだ親指が歩く度にちくちくと嫌な痛みを放ったが、それすらも忘れて綱吉は緩みかかっていた足取りを速めた。気が逸り、心臓がどくんどくん、と大きく脈打つ。細い獣道を突き抜け、顔に刺さりそうだった枝を払い除けて前に出る。
 唐突に視界は開け、そして霞んだ。
 ドドド、と地鳴りにも似た音が前方そして足下から同時に雪崩れ込んでくる。心臓のみならず綱吉の小柄な身体全部を揺する音は、けれど決して不快ではない。むしろその圧倒的な迫力に気圧され、神々しささえも感じてしまう程の存在感が宿っている。
 それは滝だった。
 巨大、とは言い難い規模であるものの、こういった景観に見慣れていない人間であれば誰しもが言葉を失い、立ち尽くすだろう。鼠色をした岩肌を切り裂き、白色の水が飛沫を散らしながら一直線に地表へと流れ落ちていく。高さは綱吉が十人縦に重なっても届かない規模で、岩の配置からか最初は一本しかない水の流れは途中で三本に別れ、それぞれに小さな虹を纏っていた。
 滝壺は広く、綱吉の部屋ひとつくらいは余裕で収まりそうだ。そこにだけ若干人の手が加えられた形跡があり、池の外縁を囲む形で岩が無機質に並べられている。滝の反対側、丁度今綱吉が立っている右手には川の流れがあり、清らかな水が蕩々とあふれ出ていた。
 この川は山肌を滑り降り、沢田家の庭を抜けて里まで続く。恵みの水であり、源流に行くに従って霊的な力は濃く、強くなる。つまりはこの滝が、霊水の川の出発地点。
 綱吉は滝の流れに感動の息を吐いた後、遠巻きに滝壺を眺めた。
 彼の目的地も此処なのだが、求める人の姿は見付からない。それどころか人がいた様子も微塵と感じられない。荘厳な滝が絶えず水を供し続けている以外、この場所はまるで数百年前から時が止まったかのような静謐さに満ちていた。
 綱吉は困惑気味に視線を泳がせ、揺れる水面をつぶさに観察してから胸に手を置いた。握った右手を心臓の上に重ね、浅い呼吸を繰り返す。
「ヒバリさん……」
 頼りない声で細く呼びかけるが、無論返事はない。それどころか滝の落水音に紛れて掻き消され、自分自身の耳にも届いたかどうか。
 もう一度、しつこいくらいに怒濤の勢いで落ちる水を受け止めている滝壺周辺に目を向けた彼は、やがて水辺を囲む岩の上に不自然な色合いを見つけた。眉根を寄せ、首を傾げる。ゆっくりと慎重に歩みを進め、やがて目を細めずにものが確認できる距離まで迫ってから漸く、綱吉はなだらかな表面の岩に置かれているものが誰かの衣服だと気付いた。
 持ち主の性格が窺い知れる、綺麗に折りたたまれた着物と脇に添えられた履物。手にとって確かめるまでもなく、それが誰のものなのかを知って綱吉は胸に置いたままだった手を下ろした。吐き出した息には安堵が混じり、直後彼はくっと腹に力を込めて前を向いた。
 首が苦しくなるまで垂直に角度をつけ、空を覆い隠している薄い雲の群れを睨み付ける。蛇が蜷局を巻いているようにも見える雲は風に流されもせず、滝の頭上に幾重にも連なって浮かんでいた。
「ヒバリさん」
 先程よりもずっとはっきりと、大きな声で名前を呼ぶ。
 耳を打つ水音にも負けない力強さで、彼は必死に今最も会いたい人の名前を刻んだ。
 波濤が迫る。飛沫を上げる滝壺が、まるで綱吉を邪魔者として飲み込んでしまおうとしているように、周辺の空気が細波を起こし、綱吉を取り囲む。ぐるぐると巡る空気は渦を成して空へと登り、彼の身体を千々に散らしてしまおうと画策して低く笑っているようだ。
 それでもなお、綱吉は彼を呼ぶ。
 彼を返して、と両腕を頭上へと広げる。
「ヒバリさんっ」
 それは、あの日の出来事にも似て――――

 ドォォォォォォォオォォ!!!!!

「―――――――っ!」
 瞬間、空を裂き宙を貫き水を割って巨大な奔流が地表へと轟いた。超大な水柱が滝壺に湛えられた水の大半を巻き上げて立ち上り、周囲から音を奪い去る。逆流した滝の流れが一瞬だけ停止し、きらきらと輝く飛沫の長閑さとは相反して吹き抜けた嵐は綱吉の足を掬い、彼の身体を後方へ跳ばした。
 咄嗟に両腕を顔の前で交差させて凌いだ綱吉も、身体全部を浚う突風の勢いまでは殺せない。呆気なく立った姿勢のまま後ろへ弾かれて、彼は背中から風に撓んだ樹木の幹にぶつかった。
 迫り上がる吐き気に目眩、霧散しそうになる意識を懸命に掴み取って綱吉は全身を襲った衝撃をやり過ごした。爪先に引っかけていた草履が片方飛ばされていったが、行方さえも追いきれない。そのままずるりと木に寄りかかって浅い呼吸を数回、ぜいぜいと喘いでから口元を濡らす唾液を拭った。
 とはいえ、水柱が出来上がる時、そして崩れゆく今、ぼたぼたと地面へ落下していく水はまさしく雨の様相で、多少は木の枝が振り払ってくれたものの、綱吉の全身はすっかり水浸しだった。
「けほっ」
 鼻から潜り込んだ水が気管に届きそうになり、咳き込む。濡れた足の裏が地面に触れ、砂を吸い寄せる感触がなんとも気持ちが悪い。だが贅沢も言っていられず、綱吉は濡れた所為で折れ曲がり気味の髪を揺すると、自分を庇ってくれた木に感謝しながらひとりで立ち上がった。
 片方だけ素足なのも居心地が悪い。綱吉は嘆息と同時に残っていた左足の草履もその場に脱ぎ捨て、肌に水気を吸って貼り付く長衣を引きはがしながらもと居た地点へ戻った。
 いつの間にか頭上を覆っていた雲は晴れ、日射しが覗いている。この様子では外にいるだけで身体も乾いてくれそうだ、と楽に考えながら綱吉は池の縁で膝を折った。
「ヒバリさん」
 若干水位が下がったように思われる滝壺の池、そのほぼ中央。先程までは何もなかった筈のそこに、人影があった。
 腰の辺りまで水に浸かり、上半身は裸。抜けるような白い肌に、湿り気を帯びた黒髪。最初は綱吉に背を向けて滝の流れと空とを一緒に見上げていた彼は、綱吉の声に反応してゆっくりと振り返った。
 長めの前髪に隠れ気味の瞳が鈍い輝きを放ったかと思うと、次に瞼が開かれた時現れたのは漆黒の闇を思わせる澄んだ瞳だった。彼もまた綱吉と同じく全身に水を被り、肌を流れる珠の滴が妙に艶めかしい色を放つ。
「つなよし」
 一晩ぶりに聞いた声は以前と全く変わらない、静かで深く、綱吉の胸に染みこんでいく。感じていたすきま風があっという間に消え去り、ぽかぽかと今日の陽気に等しい温もりが綱吉の中に広がった。
「綱吉」
 彼は二度、その名前を口にして自分の唇に指を押し当てた。そしてもう一度、何かを確かめるように名を紡いで小さく頷く。
「ヒバリさん?」
「心配ない」
 その仕草には覚えがあって、綱吉は一抹の不安を感じしゃがみ込んでいた姿勢を戻した。立ち上がると、僅かに盛り上がっている岩に長衣の裾が引っかかる。まだ波が引かない池の飛沫が、土で汚れた彼の爪先を撫でた。
 此処へ来る道中に作った傷にも触れ、微かな痛みを彼に与える。一瞬顔を顰めさせた綱吉に気付き、雲雀はやや険がある表情で水の中を歩き出した。
 背後には絶えず水を運び続ける滝、白い飛沫を散らして受け止める滝壺。空の色を映し出した青い池に立つ細波、半身を沈めている雲雀。一枚絵を見ている気分で顔を上げた綱吉は目を開き、ぎりぎり手が届きそうに無い距離で止まってしまった彼をじっと見つめた。
「……おかえりなさい」
 他に言いたいことはあったし、気の利いた言い回しも探せば沢山あるだろう。けれど思いつかなくて、綱吉は仕方なくありきたりな台詞を舌に載せて彼に贈った。僅かに小首を傾がせて微笑めば、視線を胸元の水に落とした彼もまた、次の瞬間綱吉を見上げて「ただいま」と短く言葉を返す。
 たったそれだけのやりとりなのに、心が満ち足りていくのが分かって綱吉は嬉しくなった。へへ、と頭を掻きながら笑うと、気むずかしい表情をしていた雲雀も口元を緩め、薄くだが微笑む。
「今年は、どうですか?」
 その距離を保ったまま、綱吉は後ろで手を結び聞いた。雲雀は水から抜き取った己の腕で顎を撫で、切れ長の瞳を宙へ流す。考え込む彼の動作に綱吉は黙り、雲雀の次の言葉を待った。
 先程の騒動に驚いて飛び去っていった鳥たちも戻ってきて、周囲は水音以外でも少し騒々しくなる。野生の獣の気配は少ないが探せばそこかしこに見いだせて、綱吉は雲雀から視線を外すとのんびり緑に溢れた山の景色を楽しんだ。
 聖域とされているが故に、里の者は決して立ち入らない場所。この山に滝がある事自体知るものは稀で、更に山頂に設けられた建物が何の役目を果たしているかを知る人間は更に少ない。綱吉ですら、あの場所へ立ち入るのは年に一度きりだ。
「悪くはない。……いや」
 厳かに響く雲雀の声に、遠くへ向きかけていた意識を引き戻す。雲雀は低い声で呟き、やや間を置いてから自分の言葉を訂正した。
「悪くするつもりはない、かな」
「毎年言ってますね、それ」
「なら、わざわざ毎年聞く必要も無いだろう?」
 もう少し別の言い方が出来ないのかな、と自分を棚に上げて勝手な事を思った綱吉に、意趣返しで雲雀がそう笑うものだから、言い負かされた綱吉の頬が火鉢の上の餅よろしく綺麗に膨らんだ。
 その喜怒哀楽が正直な綱吉を更に笑って、雲雀は水が滴り落ちる黒髪を指で掬い上げ、後ろに流した。普段は隠れている額が露わになり、いつもと違う彼に綱吉の胸がどきりと波立つ。よくよく見れば首筋や肩、胸にも幾つも滴が散っていて、日光を弱く照り返し彼の肌の白さを際立たせていた。
 手を頭に軽く添えたまま、雲雀は何度か呼吸を繰り返す。唾を飲み込む喉仏の動き、息を吸って吐く度に微かに上下する引き締まった胸板、存分に鍛えられ無駄な贅肉など一片も存在しない力強い腕。
 水から露出している彼の半身を今更に意識し、綱吉は右胸の辺りを強く握りしめた。
「……?」
 迷い込んだ伝心が伝えた綱吉の気持ちの高ぶりに、雲雀は幾分ぼんやりした顔で振り向く。視線が合い、反射的に綱吉は右足を後ろへずらした。けれど殆ど動いていないに等しく、引き気味の腰に感じる熱に彼は戸惑う一方だ。
 どうしよう、なんで。ひたすら混乱する綱吉の心は直接雲雀にも伝わって、彼は下唇に横倒しにした人差し指を添え、ふむ、と頷いた。浮かせ気味の瞳は何を思うのか、反対の手で指折りなにかを数えている。
 彼の考えが読み取れて、綱吉はサッと頬に朱を走らせた。
「うそ、そんなに?」
 思わず声が出て、素っ頓狂に裏返った彼の声に雲雀もまた動きを止めた。六つを数え終えた彼の指が水面を叩く。
「綱吉?」
「うあ、いえ……」
 名を呼ばれても、あまりの恥ずかしさに正面から彼を見返せなかった。
 けれど確かに、それくらいの日数は経っている。側にいられたからそれほど気にしなかったけれど、改めて考えると空腹具合は相当に酷い。その上一晩だけとはいえ、離れて夜を越した。余程溜まっていたと見える、でなければ見つめるだけでこんな反応をする筈がない。
 自分の身体の正直さが、綱吉は恨めしくてならなかった。
 かぁっ、と顔から火が吹き出そうで綱吉はもぞもぞと太股を密着させると中腰になって前屈みになった。自覚した途端反応も顕著になって、立っているのも辛く感じる。雲雀はそんな綱吉を遠くから見上げ、やがて意地悪な笑みを作って右腕を伸ばした。
 中指の先端から手の甲、手首を過ぎて肘へと滴が伝っていく。横目で水音を聞いた綱吉は恐る恐る雲雀を見、呆れられていないかどうかを窺った。
「まさか」
 想いは直接雲雀に伝わり、彼は広げた指を軽く曲げて綱吉を手招く。
「おいで」
 甘く、濃い蜜を言葉に載せて。
「……でも」
 屋敷に戻れば朝食が待っているかもしれない、そう躊躇する綱吉に雲雀は瞳を細めた。水を弾き、一歩前に出る。なだらかな傾斜を作り出している池の底は縁に近づくにつれて水位が下がり、隠れていた彼の腰骨の窪みが表に現れた。
 均整のとれた腹筋が綱吉の目に触れて、彼は益々顔を赤く染める。
「どうせ、人と同じ食事をしても栄養分として回らないくせに」
「そりゃ、そうかもしれないですけど」
 けれど皆と輪になって話をしながら食事をするのは楽しくてならない、例え食物を摂取するという行為が綱吉にとって、そして雲雀にとっても、自己満足の域を出ないとしても。
 まだ言い淀む綱吉を辛抱強く待ち、雲雀は更に一歩前に出た。ざっ、と彼にまとわりついていた水が一斉に転落し、日の光に彼の肢体が余すことなく晒される。直視できなくなった綱吉が首を振り、目を閉じた。
 仕方がないな、という雲雀の溜息が近くから聞こえる。
「此処には、誰も来ないよ」
 一般の民衆には立ち入りが許されない聖地、聖域。訪れるのは邪心も無く、境界線を持たない野生の獣と、気まぐれな風ばかり。他人の目を気にすることなく、声を憚ることもなく、誰からも邪魔されず、誰にも知られる事は無い。
 甘く囁く雲雀の声に綱吉の心は揺れ動く。震える唇で息を吐き、薄く持ち上げた瞼で覗き見た雲雀は綱吉の頭上に影を落としていた。
 髪を、首筋を、顎を、肩を、頬を、撫でられる。口づけがその後を追い、吹き付けられた吐息に綱吉の全身が鳥肌だった。
「あいつに邪魔される事も、ここなら無い。違うかい?」
「う……」
 折角乾きだしていた長衣が、雲雀に触れられたところから湿っていく。水気を吸って綱吉の肌に貼り付く布地が彼の表層を駆け巡る熱を奪い、それが却って押し当てられる雲雀の熱の強さを綱吉に教えた。
 喉が鳴る。自身の唾液だけでは癒せない乾きが、どうしようもなく綱吉の内部で暴れ始める。
 絆されている、と思う。けれどこれ以上は逆らえない。誘惑は甘美で、あまりにも魅力的すぎた。
「ちょっと……だけ、ですからね」
 まだ日が昇ったばかりの朝なのだから。一日の活動は、これからなのだから。
 そうやって自分へも雲雀へも言い訳をして、綱吉は目を開けて雲雀を見据える。目が合った瞬間唇を塞がれて、綱吉は息を吐く隙を失い仕方なくそれを飲み込んだ。
 濡れた彼の肌が綱吉に絡みつく。覆い被さるように押しつけられた熱に翻弄され、綱吉は抗う余裕もなく彼を受け入れた。背に回された雲雀の腕が綱吉の帯を摘み、結び目を指ひとつで解いてしまう。はらりと落ちた帯に緩む長衣、水気を吸って重くなった襦袢が遠慮がちに綱吉の柔肌から離れていった。隙間が広くなり、潜り込んだ冷気に綱吉ははっと息を吐く。瞬間外された唇からあふれ出た唾液を舌で掬い取り、目の前の男は妖しげに瞳を細めて綱吉に笑いかけた。
「欲しい?」
 囁きは耳の奧から直接心臓をえぐり出す。
「…………はい」
 抵抗は最早無意味。身体が、そして心が求めるままに、綱吉は緩慢に頷いて雲雀へ両腕を伸ばした。肩を抱き、自分から爪先を立てて彼に口づける。軽い音を響かせて唇を吸われ、促されるままに足を開いた。
 割り込んだ雲雀の膝が内腿を擽る快感に彼は打ち震え、甘い声を喉に擦らせる。刺激に飢えていた身体は貪欲なまでに雲雀を追い求めて止まず、切ない吐息に透明な涙をこぼし、力無くしなだれた彼の身体を満足そうに抱いて雲雀は薄く笑んだ。
 彼方の水音は地の奥底から響いて彼らを包み、飛沫の影は朝の明かりからふたりを隠す。綱吉の喉に牙を立てた男は求められるままに彼を夢へと誘い、互いに互いへ溺れながら雲雀もまた深い場所へと沈んでいった。

2007/2/19 脱稿