冥夜

 梟の鳴き声が何処かからか響いている。それ以外は概ね静かで、むしろ静か過ぎて不気味なほどだ。
 目を閉じれば眠ってしまいそうで、瞳が乾くのも厭わず瞬きさえも我慢して闇を見据える。帰って来る筈だ、と念じながら結んだ指の隙間から睨んだ扉が開かれるまで、いったいどれくらいの時間が経っただろう。
 呼吸するのも忘れてしまいそうなくらいの長い時間、いや、もしかしたら一瞬だっただろうか。その判断さえもつかなくなり、闇の中に自分が溶け込んで意識だけがそこに残っているような錯覚さえ抱きかけていた頃。
 室内を支配する静寂を破る微かな音色に、彼は顔を上げた。
「……誰だ」
 完全に気配を絶ったつもりでいたのに、戸口に佇む影は張り詰めた糸に等しい声で低く告げる。耳にした瞬間こちらも緊張に内臓が萎縮し、思わず生唾を飲み込んでしまった彼は体内を駆け巡った微かな音にさえ心臓を奮わせた。
 だが揺れ動いた彼の気配に男が先に気づいたようで、見る間に殺気が薄れて行くのが分かる。敵対心を抱くだけ馬鹿らしいとでも言わんばかりの変貌の速さに、男のベッドに腰を落としていた彼は不満げに唇を尖らせた。
「何をしている」
「なにも」
「ツナ」
 変声期を終えたばかりのテノールの響きに、素っ気無い態度で声を返せば男は足元に薄い影を伸ばしながら靴音も一切立てず彼の元へ歩み寄った。迷いもなく一直線に向かってくる相手を見上げ、綱吉は顎の下に添えていた手を下ろし姿勢を崩す。長時間同じ格好で座っていた所為で、腰も肩も大分疲れきっていた。
 男は綱吉の約一歩半手前で歩みを止め、ポケットに入れたままだった両手のうち左を抜き取った。自然すぎる無造作さで被っていた黒の帽子を脱ぎ、綱吉の頭に置く。それはきちんと座りよく置かれなかった為に綱吉の癖毛に阻まれ、後方に流れて落ちていった。
 だが両者ともそんな事には一切構わず、男は次いでネクタイの結び目に指を潜らせ、外しに掛かった。綱吉はその間、黙って男の仕草を見守り続ける。
 柔らかなクッションは綱吉の体重を受けて僅かに窪み、アイロンが綺麗に当てられたシーツには無数の皺が刻まれていた。しゅる、とネクタイの外れる音が互いの呼吸音の合間に紛れ込み、僅かに指先に力を込めた綱吉は無意識にシーツの波に爪を立てる。
 じっと斜め上にある男の顔を見詰めていた綱吉だったが、ふっと息を吐く一瞬僅かに視線を逸らした。直後、布地が大きく膨らむ音が左の耳に大きく聞こえ、「え」と思った頃には綱吉の視界は急激な闇に覆われた。
 ばさり、とビロードの肌触りも滑らかな裏地が顔全体を包み込む。呼吸出来る範囲が制限され、綱吉は咄嗟に両手を持ち上げてそれを掴み膝まで引き摺り下ろした。けほ、と咳き込み握り締めたものへ目を落とす。男の上着だった。
 鼻の奥にはツンとした、それでいて男の体臭に馴染んだ男性用香水の匂いが残っている。癖が強いその匂いは彼のお気に入りで、綱吉にも馴染みがあった。けれど彼がこの匂いを愛用する理由は、もっと他にある。片手を引き抜いて上着に重ね、袖の部分を折った彼は俯いたまま呟いた。
「何人……?」
「六、いや、七か」
 無地に見えてその実細かな意匠が施されている上物のジャケットを撫でる綱吉を見下ろし、男は淡々と、抑揚に乏しい声で答えを返す。
 綱吉が何を問うているのか男は即座に理解できる。綱吉も男の答えを瞬時に把握して、泣き出しそうなまでに表情を歪めた。
 彼はまだ男の上着を撫でている。ゆっくりと、表面をなぞりながら形を確かめ、不意にとある地点で指を止めた。見ていた男もが眉間に皺を寄せ、右の口角に力を込める。それ程に唐突だった綱吉の行動に、男はズボンのポケットに添えたままだった己の右腕へ目線を流した。
 左肩に通したホルスターが微かに揺れる。納められている凶悪な銃器は窓から差し込む僅かな月明かりにも全く輝かず、むしろ地獄の闇を想起させる重々しい黒を背負い、それを誇りとしているようだった。
 綱吉は乾いた口腔を潤すべく唾液を求め、喉を上下させる。嗅覚に未だ刺激として残る香水に紛れ込んでいる匂いは男の体臭以外に、あとふたつ。
 血と、硝煙。
「怪我を……」
「たいしたものじゃない」
 指に絡ませていたネクタイをも綱吉へ投げつけ、男は首を締め付けているシャツのボタンを外しに掛かった。その間も右腕は動かさない。
 綱吉が手を止めたのは、ジャケットの右腕部分、ちょうど上腕から肘にかけての広い一帯。そこに感じた違和感は指先を通し、綱吉の感覚に働きかけて結果を導き出す。こういう時だけ聡いのは卑怯だな、と舌打ちした男は構わずにふたつ目のボタンを外した。
 晒された首から胸元にかけて。大人の男の象徴でもある喉仏は未だ発展途上ではあるが、それ以外はほぼ充分過ぎるくらいに生育している。久方ぶりに顔を上げた綱吉はまず彼の顔を見、首筋を伝って肘を軽く曲げているだけの右腕を見た。シャツの白さで上手に隠しているが、消毒薬の匂いも微かに感じられて綱吉は今度こそ思い切り顔を顰めた。
 左腕と比べて違いがある、腕の太さ。きっと綱吉以外の誰かだったら気づけなかったかもしれない、本当に微細な差異でしかないけれど、綱吉は見逃さなかった。寄せられた眉間の皺の本数を数えた男は二度目の舌打ちを吐息に紛れさせ、大丈夫だと言わんばかりに右肩を持ち上げて肘を捻らせた。綱吉の眼前で手を広げ、握り締める。
 けれどまだ納得した様子のない綱吉は、薄い唇を引き結んで男を無言のまま見上げるだけ。苛立たしげに戻した右腕で黒い髪を掻き毟った男は三度目の舌打ち、そして徐に左手を伸ばして綱吉の肩を小突いた。
「ぅあ」
 衝撃を予測していなかった彼の体は、実に呆気なく右半身を先にしてベッドのクッションに沈んだ。スプリングの軋む音が僅かに闇を裂き、床に伸びていた影を小さくさせる。殆ど抵抗らしい抵抗もしないままに腰から上を仰向けに転がした綱吉は、圧し掛かるようにして屈んできた男をそれでもじっと見詰めるばかりだった。
「リボーン?」
「なんだ」
「怪我」
「心配ないと言った」
 どちらかと言えば顔ではなく彼の右腕にばかり意識を向けている綱吉へ詰まらなさそうに言い返し、リボーンは彼の肩に添えていた腕を脇腹へと流した。掌全体で薄いシャツ一枚の彼を撫で、細い腰にまでたどり着いてから手首を返す。
 ぴくり、と微かな反応を示す綱吉がやや剣呑気味に瞳を細め、奥歯を噛み締めたのか口元を引き攣らせる。吐き出す息は細く、しかし徐々に熱を含んでいくのが分かってリボーンは薄らと笑んだ。
「馬鹿、やめ……」
「なら、どうして俺の部屋にいた」
 カターニアで内々に企てられていた黒い計画、その阻止の為に単独で動いていたリボーン。数日で完了する計画だった任務は、しかし思った以上に根が深く別地へも余波が飛び火して、各地に散った仲間が今も事後処理に忙しい。最近は中華系シンジゲートの動きが活発化しているのもあって、予断は許されない状況が続いている。
 パレルモに戻ってきたのは、束の間の休息と弾薬の補充、計画の練り直しに必要な資料を集める為。朝になれば彼は城から姿を消すだろうと容易に知れた、そして次いつになれば会えるのかは分からない。
 綱吉が眠りもせずにこの部屋にいた、その理由。邪推して笑う彼に綱吉は悔しげに喉を仰け反らせ、硬く目を閉じた。瞼の裏に月明かりが浮かぶ、闇を切り裂く淡い光はけれどとても弱々しく、頼りない。
 まるで今の自分のように、存在自体があやふやで朧だった。
「だ、……って」
「なんだ」
「怪我、ひび……っ」
「構わない」
 途切れ途切れに行為の中断を求める綱吉を遮り、リボーンは綱吉の喉に牙を立てて薄い皮膚に吸い付いた。赤い痣に舌を這わせ、浅い呼吸を繰り返している綱吉の胸へと降りていく。途中邪魔になるシャツのボタンを歯で器用に外し、薄く、ちっとも頑丈にならなかった胸板に顔を埋めた。
 開ききらない襟元から強引に顎を使って布を寄せ、淡く色付いている蕾に浅く牙を立てる。
「んぁっ」
 瞬間腰から跳ね上がった綱吉の下半身を強引にベッドへ引き上げ、ついでとばかりに自分も膝から彼の上へと乗り上げたリボーンは、右の膝を強く曲げて綱吉の足を割り、奥へ押し入った。半月板に下から煽られた綱吉は腰を捻って逃げようとしたが、先を制したリボーンの左足が腿を圧迫して上手くいかなかい。
 たったそれだけの事でスラックスを惨めに濡らしている自分が恥かしくて、綱吉は顔を背けるとシーツに鼻先を押し付けた。油断すると泣き出してしまいそうで、口の中に潜り込んで来たシーツの襞を引き寄せ、噛み締める。
 その間も躊躇せず事を進めるリボーンの手はまるで無機質のロボットのようで、それでも的確に綱吉の弱い場所を狙って行くものだから彼の身体が陥落するのも時間の問題だった。ファスナーが下ろされる音が聞こえ、荒く息を吐いた綱吉が薄目を開けて自分に影を落としている男を見上げる。
 上から柔らかく撫でてくる彼の手に喘ぎながら、綱吉は涙で滲んだ視界にリボーンを描いた。
「不安か?」
 視線に気づき、手を止めた彼が静かに呟く。
「ぁ……なに……?」
 けれど半端なところで止められてしまった方がショックだったのか、綱吉はしどけなく濡らした唇でそう返すだけだった。口腔内に溢れた唾液を必死に飲みこもうとしていて、リボーンはなんでもないと自分の問いかけを自分で否定して彼に顔を寄せた。
 口付けると、もっと欲しいと強請るように綱吉が首の角度を変えてくる。自然深まる繋がりに、胸を寄せて身体を密着させる。肌を通して伝わってくる互いの心音の高まりに熱が煽られ、昂ぶりに全身が震えた。
「リ……んぅ、待っ、まだ……」
「待たない。――待てない、ツナ。お前が欲しい」
 曝された下肢に押し当てられた熱に狂いそうで、首を振った綱吉の肩を押さえつける。リボーンが吐いた熱が綱吉の首筋を撫で、それだけで果ててしまいそうな自分に耐えながら綱吉は闇の中に浮かぶ月のような彼の瞳を見つめた。
 一瞬の静寂、そして沈黙。
「俺は死なない」
 囁いた彼の言葉に綱吉は無理をして笑みを返し、頷く。
「知ってる」
 持ち上げた左手で彼の頬に、右腕に触れた綱吉の頬を、ひと雫の涙が伝った。

2007/2/21 脱稿