尊厳

 目が醒めたその時、枕元の目覚まし時計はまだ午前五時を少し過ぎた場所を指し示していた。
 淡々と秒針が時を刻み、一回転の後分針がひとつ動く。ゆっくりと、けれど確実に過ぎていく時間を体感しながら、沢田綱吉は布団から伸ばした腕でタイマー予約していた目覚ましのスイッチを止めた。
 頭まですっぽりと被っていた布団を押し上げ、身体を起こす。前日までの激しい特訓、そして昨夜の死闘の疲れがまだ完全に抜け切っていない肉体は苦痛を訴え、彼は小さな呻き声の後に熱っぽい息を吐いて自分を慰めた。右腕で左肩を、左腕で右肩を柔らかく撫でさすり、背筋を後ろへ逸らして骨を鳴らす。
 薄い布を引いた窓の外は薄暗く、日の出がまだなのだと分かる。疲れが抜けていないのだからもう一眠りすれば良いに決まっているが、変な時間に目が覚めてしまった上に頭も段々と冴えてきてしまい、このままでは布団に包まっても二度寝出来そうにない。彼はわざとらしい欠伸を噛み殺すと、シンと静まり返っている己の部屋をゆるりと見回した。
 改めて時計の文字盤を確かめる。午前五時十六分、いやもう十七分か。目覚ましのベルがセットされていた時間まで、余裕で二時間近くある。
「勿体無いなー」
 頭の中で素早く計算し、本心からの呟きを漏らしたけれど、矢張り眠気は戻って来そうにない。両腕を頭上高くまで掲げて更に背筋を伸ばせば、完全に覚醒しきる直前の頭がくらりと揺れて軽い眩暈を覚えた。
 右側からベッドに倒れこみそうになるのを、手をついて耐え、もう片方の手で頭を支える。こめかみの鈍痛は奥歯を噛み締めてやり過ごし、綱吉は寝癖がついている前髪を目の前から掬い上げて後ろへ流した。
 部屋の中はほの暗く、天井の豆電球が弱々しく手元を照らしているだけで、自分の周囲以外は全て輪郭がおぼろげだった。ハンモックで眠っているだろうリボーンも今は静かで、寝息さえ聞こえてこない。もしかしたら綱吉が気付かないうちに何処かへ出掛けたのだろうか、それすらも確認のしようがなった。
 毛先がカールした前髪が、しつこいくらいにまた目の前に落ちてくる。瞳に先端が入りそうで、首を左右に振って逃げるが当然の如く追いかけてきて、綱吉は小さく舌打ちすると指でその数本をつまみ、前方へ向けて引っ張った。鈍い痛みが頭皮に感じられる、自分が生きているこの場所が現実なのだと知る。
 元々毛量が多いので、数本くらい抜けてしまっても別段問題ないように思う。けれどそれもなんだか勿体無い気がして、綱吉は毛先を指で数回扱き、手を離した。途端にまた髪は丸まったけれど、さっきよりは若干カールが和らぎ、目に飛び込む勢いも僅かながら薄れた気がする。
 ともあれこれ以上手で弄っても、どうにもならない。綱吉は傾いたままだった身体を水平に建て直し、二度目の伸びをしてベッドマットから床へ右足を下ろした。
 ひやりとした感触、皮膚を刺す冷たさに一瞬身が竦む。反射的にあげそうになった悲鳴を酸素と一緒に飲みこんで、綱吉はそろりと慎重に左足も床へ落とした。やや偏平足気味の足裏がぴったりと床に合わさり、ベッドサイドに腰を下ろした状態で数秒間冷たさを我慢してから、気合をひとつ入れて立ち上がる。
 布地が突っ張っていたズボンの裾が踵へと落ちていった。幾分かは朝の冷え込みに順応を見せた身体を軽く揺らし、綱吉は前髪を横に払ってまずは部屋の角に設けられたリボーンの寝所に目を向けた。
 部屋の主に断りなく勝手に設置されたハンモックには、丸められたタオルケットと枕が行儀よく並んでいる。試しに触れてみるが、夜の冷気が染みこんでいるだけで人肌の温もりはもう何処にも残っていなかった。或いは彼は昨晩、これを使わなかったのか。
 綱吉がベッドに潜り込む時、互いにお休みと言い合ったのは覚えている。しかし電気を消したのはリボーンであり、直後寝入ってしまった綱吉はその後の彼を知らない。彼だってずっと綱吉の修行につきっきりで疲れているはずなのに、いったい何処へ行ってしまったのだろう。
 複雑な気分になる。
 事の始まりは全てリボーンだった。彼が来てから綱吉を取り巻く様々なものが変化した。彼が綱吉に齎した影響は甚大すぎて、とても言葉だけでは言い表せない。酷い目にも散々遭ったけれど、彼を憎めないのは全てにおいて悪影響が出たとは言い難いからだろう。
「冷えるな」
 冬の到来はまだ先だが、果たして自分はこの冬を無事に迎えられるだろうか。脳裏を過ぎった一抹の不安を打ち払い、その場で足踏みをしながら首を振った綱吉は、両脇腹をさすりって摩擦熱で体を温めながら何度かに分けて胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
 それは考えてはならない可能性だ。敗北の二文字は今の自分に似合わない、最も当て嵌めてはならない単語なのだ。絶対に勝つ、その強い決意を崩してはならない。
 だから考えるな、立ち止まるな。綱吉は軽く握った拳を胸の前に置き、擦り傷や切り傷だらけになっているそのひとつひとつを見詰めた。これらの傷跡は自分が懸命に足掻いた証拠であり、強くなったという確信であり、勝ち残ってみせるという意思の表れ。
 自分の誇りそのもの。
 両手を胸に抱いて目を閉じる。振り返ればきりがない辛い修行も、自分は挫けずに乗り越えられた。昔の自分ならば迷わずに尻尾を巻いて逃げ出して、恐怖にただ震えているだけだっただろう。それがこんなにも変わった。
 変われた。
 けれど本質的なものはきっと、何処も変わっていない。今でも戦うのは正直怖いし、出来るなら避けたい。逃げ出したいという思いも心の片隅で燻っている。
 それでも逃げないと決めたし、ザンザスの好きにさせないと誓った。今にも消えてしまいそうな命の灯火が託した願いに報いなければ、綱吉は綱吉でなくなってしまう。
 そっと開いた瞼に宿る光は、どこまでも深く優しく、柔らかくて暖かい。
 あの人ともっと話がしたい。死ぬ気の炎を通して垣間見た過去は真実なのか、あの人を知っていると感じた自分が嘘ではないのか。
 知りたいことは山ほどある。これらのパズルをひとつずつ解き明かしていく為にも、自分はここで歩みを止めることは出来ない。
 物が散乱している床を掻き分け、綱吉は素足に引っかかるひとつひとつに笑いながら窓辺へと歩み寄った。手を伸ばし遠慮がちにカーテンの裾を持ち上げる。前方に広がる町はまだ眠りの中に落ちていて、空は月も星も見えないが、東から登り始めている太陽の光を受けて薄く輝きだそうとしていた。
 このまま時間まで何をして過ごそうか。リボーンが帰って来る前に軽く準備体操をしておくのも悪くないかもしれない、なんだか妙に気分が晴れ晴れとしているから、ジョギングでもしようか。
 そんな事を考えつつ、綱吉は狭いカーテンの隙間から外気を感じさせる窓ガラスに額を押し付けた。俯き加減で、どうしても視線は窓の外の近い場所ばかりを描き出す。藍色の屋根瓦が綺麗に肩を揃えて並んでいて、その隙間に枯葉が一枚挟まって揺れていた。
 それが綱吉の視界中央に陣取ったとき、外を吹き抜けた突風が赤茶色の葉を遠くへと攫っていった。音もなく、呆気なく。反射的に顔を上げて行方を追いかけた綱吉だったが、その途中で何か別のものを見た気がして慌てて瞳だけを元の位置へ戻した。
 藍色の瓦の列。違う、屋根ではない。
 もっと下。そう、屋根の軒先を抜けた更に先。
 灰色のブロック塀に囲まれた庭よりも外、家の前の道。
 何も無い、いや、そうじゃない。
「…………」
 姿は見えない。綱吉の目にはブロック塀に半分以上邪魔されて狭くなった道路の、アスファルトの細かな目地だけが映し出される。錯覚だったのだろうか、一瞬浮かび上がった思いを即座に打ち消し、再び窓に額を押し当てた彼は必死の思いで自分が先ほど見つけた、微かな何かを探した。
 大きな目を細め、暑くもないのに掌に汗を浮かべて。
 普段の光景と違うものが無いか、覚えの無いものが存在していないか。けれどどれだけ頑張っても、綱吉の目に映し出される景色は日々見飽きてしまっているありふれた庭と道路ばかり。向かい側の家はまだ明りも消えたままで、徐々に明るさが増しているとはいえ空は濃い藍色に染められている。
 気のせいだったのだろうか。諦めに近い思いが胸の大半を埋めて、自分に宿るというブラッド・オブ・ボンゴレ――超直感もあまり当てにならないな、とため息が零れた。
 瞬間。
 綱吉は何かに気付き、額を勢い良くガラス戸にぶち当てた。目の前に星が散り、反動で上半身が後ろへと傾く。後頭部から床に倒れて部屋の中央に置いてあるテーブルの角に危うく直撃しそうになって、必死の思いで腕を伸ばし脇の勉強机の端を捕まえて強引に身体の向きを反転させた。
 左の膝がカクリと折れて床に沈む。全体重が乗った衝撃が半月盤を直撃し、綱吉はその場でもんどりうって倒れた。
 右のこめかみすぐ横にテーブルの角がある。危なかった、あと数センチずれていたら、こんな大事な日に試合の前から怪我をしてしまうところだった――膝は打ったが。
 痣になっているかもしれない、下手をすれば内出血も。けれど綱吉はそんな痛みを訴えかける膝を無視し、そそくさと立ち上がると椅子の背凭れに引っ掛けてあった薄水色のカーディガンを引っつかんだ。表裏を確かめる暇も持たず、乱暴な仕草で袖を通しそのまま部屋を出る。
 廊下はシンと静まり返り、人の気配が極端なくらいに薄い。けれど探せば奈々やバジル、ビアンキたちが布団の中で暖かな夢を見ているはずだ。彼らの眠りを邪魔しないよう注意深く、綱吉は部屋を出て来た勢いを殺してゆっくりと階段を一段ずつ下っていった。
 最後の段を降り、広くなった玄関に立つ。背後に続く廊下は照明が消され、冷たい夜気が支配していた。トイレに行きたいかも、とぶるっと震え上がってから思うものの、矢張りやめておこうと両腕をカーディガンの上からなぞって、綱吉は迷った末に表に唯一出ている奈々のサンダルに爪先を押し込んだ。
 この家に暮らす人間が多い分、靴も多い。個々人の靴を全て玄関に並べておいたらスペースが無くなってしまう為、外から帰ってきたら自分で靴箱に仕舞うよう通達が出されている。もし仕舞い忘れていても、気づいた人間が靴箱に片付ける。だから今、沢田家の玄関には奈々のオレンジ色をした底の平たいサンダルだけが、非常用として片隅に置かれているだけだった。
 自分の靴を取り出すにも、物音を響かせそうで怖い。奈々のサンダルは綱吉には若干小さくて踵がはみでて不恰好だけれど、この際贅沢は言うまい。なるべく足音を響かせないように扉ににじり寄り、チェーンを外して鍵を回す。
 かちり、と鍵が外れる音に心臓が小さく跳ねたが、即座に振り返った背後には当然ながら誰も居ない。分かってはいても安堵の息が漏れて肩から力が抜けて行き、扉に寄り掛かったままドアノブに手を添えたお陰で今度はドアが勝手に外側へ開いていった。
「うわっ」
 上半身だけが扉と一緒に引きずられ、外にはみ出す。今度は前からポーチに倒れこみそうになり、必死にドアノブにしがみついて綱吉はこれを避けた。
 さっきから妙にひとりでスリリングな展開を繰り広げている。もう少し落ち着けばいいものを、と自分で自分に反省を促し、綱吉は今度こそ二本足で立ってドアを開けた。
 藍色と紺色が混ざり合い、そこに薄らと紅色が絡まった空が広がっていた。部屋から見た景色と同じようで、色合いが少し違う。時間の経過を如実に思い知らされ、綱吉は握り締めていたドアノブから手を外し、慣性の法則に従って閉じていく扉をただ呆然と見送った。
 背中で扉が閉まる音が響く。思った以上に大きく感じられたが、流れすぎて行った風に押し流されてその場にはあまり残らない。綱吉は垂れ下がる前髪が左右に当て所なく揺れる様をぼんやりと見送ってから、サンダルの踵を一度だけ鳴らしてポーチを降りていった。
 なるべく静かに、音を立てないように。金属製の閂を外し、門を押し開く。人気の無い道路に遠くから烏の鳴き声が聞こえてきて、思わず肩を竦めた綱吉は姿勢を低くしたまま足場をアスファルトへと移した。
 右を向く。門柱に片手を添えたまま膝を伸ばし、ブロック塀に寄り掛かって立つ存在が綱吉の視界に現れた。
 獄寺隼人。
 灰色のコーデュロイジャケットに袖を通し、下はあちこち擦り切れて褪せた色をしたジーンズ。片手をポケットに押し込み、もう片手は咥えた煙草に添えて視線は遠く彼方、白み始めている空へ。長めの銀髪がサラサラと揺れていて、平凡な街角にありながら彼の姿はまるで何かのポスターのようでもあった。
 彼はぼんやり何かを考えているようで、綱吉がそこに現れている事実に未だ気づかない。心此処に在らずと表情は憂いを帯びていて、時折煙草を外して吐き出す息は白い筋となって空へ消えていった。
 部屋の窓から見えた、一瞬だけ立ち上る煙が。
「獄寺君」
 その名を音に刻む。秋の風に攫われていかないように前に向かって、腹に力を込めて。
 彼の指に叩かれた煙草から、灰が僅かに零れ落ちていく。そこから視線を持ち上げた獄寺が目を丸くして、呆然とした顔で振り返る様がまるでスローモーションの如く綱吉に見て取れた。
 唇が開かれる。いっぱいに息を吸い込んで、彼は驚愕に慄きながら半歩後ろへと下がった。
 やばい。咄嗟に感じ取った綱吉がサンダルで地を蹴って彼目掛け走り出す。逃げようとしたわけではなかろうが獄寺が更にまた一歩下がり、力の抜けた指からはまだ長い煙草がゆっくりと落ちていった。
「じゅっ……」
「ばか、しー!」
 驚きのあまり大声で綱吉を呼ぼうとした獄寺の口を寸前で封じ込め、綱吉は獄寺に飛びつきながら自分の口を真一文字に横へ引き伸ばした。
 こんな時間に叫ばれたら近所迷惑も甚だしい。それに折角誰にも見付からずに外へ出て来たというのに、全て努力が水の泡になってしまう。だから静かに、と間近から強い視線で睨みつけると、獄寺はコクコクと何度もしつこいくらいに頷いて大人しくなった。ついでに寄り掛かってくる綱吉の身体も、両腕を伸ばして支えようとした。
 けれど彼に抱き締められる寸前、綱吉は身体を退いてその腕から逃げた。軽いステップを刻み、ふたりの間に二歩分の距離が生まれる。行き場を失った獄寺の手が実に寂しげに宙を掻き、呆然としたままの彼を綱吉は笑った。
「どうしたの、こんな時間に」
 あちらも同じことを考えているだろうが、この際言った者勝ちだと綱吉は後ろ手に指を結んで獄寺に問うた。彼はポカンとしたまま、やがて慌てて足元に落ちている火のついたままの煙草を踏み消して挙動不審気味に左右を確かめ、上を見て下を見て、最後にジャケットの袖を捲くって腕時計が刻む現在の時間を読み取った。
 午前六時にも到達していない。朝刊の配達をする自転車が一台だけ通り過ぎていって、妙に間延びした空気が場を支配する。
「獄寺君?」
「え? え、あ、はい!」
 動揺具合が手に取るように分かる裏返った声での返事に綱吉は溜息を零し、小さく肩を竦めた。
 人から話しかけられているのに上の空、失礼にも程がある。憤慨するというよりは呆れ果てている感じのする綱吉を見つめ、暫くの間おろおろしていた獄寺だったが、耳の端が拾っていた綱吉の問いかけを思い出し慌てて生温い唾を飲みこんだ。
「えっと、その……なんていうか、目が覚めてしまったので」
 殆ど眠れぬまま時を過ごし、ただベッドに転がっているだけの自分が嫌になって布団を抜け出した。身支度を整えて軽く胃にものを入れ、寝静まった町へひとり繰り出した。
 気づけば、此処に居た。
「十代目、どうしてるかなーって思っていたら、いつの間にか」
「別に、どうもしないよ」
 照れ笑いを浮かべて頬を掻いた彼に、綱吉は素っ気無く、それでいて淡々と即座に切り返した。
 言われた獄寺が目を丸くして素早い動きで瞬きを繰り返し、間をおいてから曖昧に笑って「そうですね」とだけ呟く。
 獄寺が拍子抜けするくらいに、綱吉は簡単にその言の葉を音に乗せた。彼にはまるで緊張感や緊迫感がない。今夜死ぬかもしれない朝を迎えているというのに、気負いのひとつも感じ取れない。
 在るがままに、成すがままに。
 自然体。そのことばが獄寺の脳裏に浮かんで消えた。
 同時に、緊張しているのは自分の方だと獄寺は気づく。夜眠れなかったのも、知らず足が沢田家を目指していたのも。ひょっとしたら今日が最後の邂逅になるかもしれないと思っているからこそ、不安に押し潰されそうで、怖くて。
 彼を喪うことを痛いくらいに恐れている自分が居る。
 昨晩の出来事はあまりにも生々しく記憶に刻み込まれ、あの男の暴虐ぶり、残虐ぶりに目を覆いたくなった。世の中にはあんな奴がゴロゴロしているのかと思うと、今までいきりたっていた己の貧相さを否応なしに痛感させられて、息が苦しくてならない。
 出来るなら自分が盾となり、この人を守りたいと思っていた。けれど今は、それが出来るかどうか自信が無い。あの男を前にして、あの圧倒的な破壊力と狂気を前にして、正気を保っていられるかどうかさえ。
 情けない、なんて弱い。悔しくて獄寺は拳を硬く握り締める。
「十代目は、御強くなられましたね」
 嫌味のつもりはなかったけれど、口を衝いて出たことばに獄寺は直後ハッとして、急ぎ綱吉から視線を逸らした。首ごと斜め下へ向けて、自分の失言を悔いる。
 だが綱吉は僅かに眉を寄せはしたものの、薄い笑みを作って身体を揺らした。
「そう、かな? そんな事ないと思うよ」
 小首を傾げつつ、それでも背筋をしゃんと伸ばした彼は、獄寺と最初に出会った頃よりもずっと大きく、立派に映った。
 だのに彼は獄寺の感覚を呆気なく否定する。
「俺は何も変わってないよ」
 自信満々に胸を張られて、それこそ獄寺は絶句した。そんなわけがないでしょう、言いかけた言葉を寸前で飲み込んで、獄寺は正面向き直った自分を見詰めている存在を視界いっぱいに収めた。
 小さな身体、細い四肢。屈託無く笑う口元、今は獄寺だけを映し出す大きな瞳。
 溢れんばかりの広く深い心。
 嗚呼、そうだ。この人は初めて出会ったあの日から何も変わっていない。目まぐるしく様々な出来事が彼の周囲を通り過ぎていったけれど、どれひとつとして彼を根底から覆すことは出来なかった。揺るがない、決して折れない心。
 諦めない気持ち、自分が自分であるという自負。
「獄寺君?」
 再び意識の彼方へ飛んでいってしまった獄寺の前で綱吉が手を振る。大丈夫? と彼は一歩前に出て獄寺の目を間近から覗き込んだ。
 腕を伸ばす、両側から。
「獄寺君、おーい、どうし――――」
 綱吉の言葉は途中で遮られ、獄寺の柔らかなジャケット表面に吸い込まれて消えた。顔に押し付けられたものが獄寺の胸から喉元にかけての部位である事、背中に回していた腕ごと腰の位置で捕らえられて引き寄せられたこと、その全てに気づくまでに綱吉は楽に五秒の時間が必要だった。
 抱き締められている、そう意識したのは耳朶に顔を寄せた獄寺の吐息を感じたからだ。
 何故、いきなりどうして。一瞬にして綱吉の頭にあるブレーカーは吹っ飛び、思考回路がショートして真っ白に焼け焦げる。あれやこれや色々なものが慌しく足音響かせて駆け巡っていくが、思いつくものはどれひとつとしてこの状況を改善するのに役立ちそうになかった。あの店のショートケーキは美味しかったとか、そんなものばかり。
 気が動転して心臓がバクバクと激しく脈打つ。呼吸は相変わらず苦しくて、綱吉は茹で上がった頭を振り獄寺の胸に隙間を確保してどうにか息を吐いた。耳の先まで熱い。どうして。
「ごっ、獄寺君。どうしたのさ、急に。変だよ」
「変じゃないです」
 呂律が回りきらない舌で懸命に訴えかけるが、今度は獄寺が綱吉の声に素っ気無く断定で言い返した。
 背に回されていた腕が片方持ち上がる。獄寺の右手は綱吉の背骨をカーディガンの上からゆっくりとなぞって行き、やがてヒヤッとした感触を彼の頚部に与えた。下から抱えるようにして頭を掌全体でつかまれ、綱吉は一層獄寺に密着する。顎が布地を滑り、獄寺の右の肩口に埋もれた。
 視界が開け、呼吸も楽になる。けれど重なり合った胸から大きく鳴り響く心音が伝わりそうで、落ち着かない。今が人気の少ない時間帯で良かったと、此処が家の前とは言え公道である事実を思い出し、綱吉は恥かしさに顔を伏した。
 背中に回していた両手にも力が入らなくて、結んでいた指を解く。脇に垂れ下がった腕のうち、左側が弱々しく獄寺の上着の裾を掴んだ。軽く引っ張ってみるが、彼は気づかない。
「俺が普通なんです。変なのは十代目です」
「ええー」
 そんな反論を受けるとは思わなかった。咄嗟に不満の声をあげた綱吉の頭を更にぎゅっと抱き締め、獄寺は綱吉の背中に添えられた自分の手を見詰めた。
 細い腰、少し力を加えて捻れば簡単に折れてしまいそうなこの身体のどこに、あれだけの力強い炎が宿っているというのだろう。下手をすれば自分自身を焼き焦がしかねない炎に耐え、糧とし、力にして戦うこの人を許されるならば守りたい。
 怯えてなんかいられない。この人は真っ直ぐに前だけを見詰めている。だから自分も見習わなければならないのだ、喪わない未来だってあるのだ、それを自分が信じなくてどうする。
 この人の右腕になると誓ったその日から、己の命はこの人と共に在るのに。
「じゃあ……うーん、俺の何処が変?」
 視線を浮かせた綱吉が迷いがちに問いかける。
 白む東の空が段々と明るくなり、朝食を得るべく翼を広げた鳥の声が頭上から落ちてきた。遠くから車が走る音がする、どこかの家では誰かが目覚め慌しく一日の支度を開始する生活の音も響き始めている。
 今日が始まろうとしている。
「十代目は変じゃないですよ」
 さっき自分で言った台詞を呆気なく翻した獄寺に、綱吉は声を失って目を丸くした。ずり落ちそうになった左手を慌てて繰って獄寺のシャツを握り締め、顔を上げる。けれど首の右側を獄寺の頭が塞いでいる上に背中を拘束されたままで、振り向こうにもスペースが作れずに叶わなかった。
 今獄寺がどんな顔をしているのか分からない。無論それは、獄寺にも言えること。
 綱吉がどんな顔をしてこの言葉を聞いているのか、知りたいけれど顔を付き合わせるにはあまりにも照れ臭くて、こうやって身体を接し合わせることしか出来ない。本当はそれすらも充分恥かしい行為であると自覚しているけれど、分かっていても獄寺は綱吉を放せなかった。
 離れたくなかった。
「獄寺君?」
「すみません、やっぱり上手くいえない」
 探したけれど胸に抱いている思いを的確に表現できる言葉が見付からなくて、獄寺は小さく嘆息しながら首を振った。
 彼の毛足が揺れて綱吉の頬を柔らかく撫でる。銀色の髪が朝の光を浴びて、眩しいくらいにキラキラと輝いていた。
 この人を凄いと思う。心の底から尊敬するし、敬意を抱いてやまない。
 けれど具体的にどこがどう他人よりも優れていて、素晴らしいのかが表現できない。ことばだけではきっと伝わらないし、理解してもらえないだろう。綱吉の良さは綱吉の傍にあり、彼と同じ目線で同じものを見て、言葉に触れ行動に触れ、時間を共有しない限り、きっと誰にも分からない。
 獄寺にしか、分からない。
 平凡で、凡庸で。一芸に優れているわけでもなく、英知に溢れているわけでもなく、探せば何処にでも転がっていそうな小石に見えるのに、世界中を捜し回ってもひとりだけしか存在しない人。他の誰にも代わりを務められない、たったひとりの喪い難き人。
 ひとことでは片付けられない。だから、変じゃないけど、凄く変な人なのだ。表現することばを持たない人、それは見る人それぞれが同じイメージを抱きながらも、全く違った感想を心に刻み込む人とも言えやしないか。
 弱いくせに、強くて。
 折れそうなくせに、どこまでも真っ直ぐで。
 泣き虫のくせに、逃げようともせず。
 怖がりなのに、堂々と佇んでいる。
「貴方は、不思議な人です」
 獄寺がぎゅっ、と大事に綱吉を抱き締めた。心音が重なり合い、ふたり分が一緒になって耳に響き渡る。
「十代目」
 彼をそう呼ぶようになって、かなりの月日が流れた。最初は嫌がられたこの呼び方も、次第に馴染んでいったのか今では否定されることもなくなった。
 そして昨晩のあの瞬間から、彼は真の十代目となったのだ。
 誇りに思おう、彼の決意を。
「俺の全てを、貴方に捧げます」
 だから。
 だからどうか。
 獄寺は綱吉を解放した。最初の唐突さを思い出させるくらいに呆気なく、彼は両腕を広げて綱吉を地面へと返す。僅かに後ろへよろめき、サンダルからはみ出た踵を地表に一瞬だけこすりつけた綱吉は、赤い顔のまま獄寺を見返した。
 東の空から光が降りてくる。眩い太陽が、今日もまた地上を遍く照らし出す。
「勝ってください」
 負けないで、でもなく。
 死なないで、でもなく。
 戦って、勝って欲しい。切なる願いが込められた獄寺の声を、綱吉は真摯に受け止めて力強く頷いた。
「有難う」
 でもね、と。
 綱吉は笑った。
「俺がひとりで闘うわけじゃないから」
 彼は右の拳を軽く握り、肩の高さまで持ち上げた。裏返し、丸めた指の背を獄寺の側に向ける。
 綱吉の行動の意図が分からず、獄寺は首を捻った。が、拳に隠れ気味だった綱吉が顔を傾けて悪戯っぽく笑うのを見て、合点がいったようで彼もまた、綱吉と同じように右の拳を丸めて肩の高さまで持ち上げた。
 ふたり、笑いあう。
「みんなが繋いでくれたから、俺はこうして此処にいられる。凄く感謝してる、ありがとう」
「お礼を言われることは何もしていません。俺は、……あのヤローに負けたわけですし」
「でも」
 蘇る仲間たちの戦い。どれもが楽勝とは言えず、見守る側も色々と辛い思いをさせられた。
 見ているだけしか出来ない歯痒さ、口惜しさ。誰かを傷つけ、けり落とさなければ生き残れないような世界になど、本当は大切な仲間を送り込みたくなどない。こんなことは馬鹿げていると、きっと誰もが思っている。口には出さなくても。
 逃げ出しても良かったのだ、ここで命を賭ける必要なんてない。他人の身勝手で選び出された彼らを死地に向かわせる権限など、綱吉には無い。
 だというのに、誰ひとり逃げ出さず残ってくれた。まずそのことを感謝しよう。
 そして最後の一戦、今日と言う日に道を繋いでくれた仲間たちの健闘に、敬意を。
 どれだけ傷ついても、誰一人欠ける事無く今日を迎えられた自分たちに、矜持を。
「君がいてくれて、良かった」
 心の底からの思いを告げ、綱吉は獄寺を見詰めた。
 彼の瞳に自分が映っている。自分の瞳にも、彼だけが映し出されている。
 ふたり、息を揃えて握った拳を軽くぶつけ合う。
「勝つよ」
 自信に満ち溢れた声に、世界が目覚めていくのが分かる。
「はい」
 頷き返した獄寺が、離れていった綱吉の手を追いかけて捕まえ、強く握り締めた。驚く綱吉に構わずに、広げられた手の甲を引き寄せて迷いも無く淡く口付ける。
 どうか、どうか。
 この思いが貴方を少しでも守る壁となりますように。
 貴方を焼こうとする炎から、切り裂こうとする刃から、ありとあらゆる障害から。俺の嵐が貴方を守りますように。
 強く確かな祈りを込めて、口付けた掌を額へと押し当てる。
 綱吉は肩を揺らし、ただ、微笑んだ。
 

2007/2/8 脱稿