in the rough

「ライーっ!」
 昼飯時を過ぎ、店の忙しさもひと段落ついた頃。
 仲間たちへのまかない料理も作り終え、自分もいざ空腹を満たすべくスプーンを手に取った、そんなタイミング。
 いの一番に昼食にありつき、まるで舐めたように綺麗な皿だけを残して食事を終えていたリシェルが、裏口から顔を覗かせてライを呼んだ。
 彼女の声は大きい上に甲高いから、遠くからでもよく響く。その音量に驚いたルシアンが飲もうとしていたスープを噴き出し、真向かいに座っていたリビエルは濡れた額をタオルで拭きながら笑顔で大振りの眼鏡を持ち上げた。
 そんなふたりのやり取りに苦笑してから、ライは残り野菜を混ぜ込んだチャーハンのスプーンを置く。折角人がのんびりと遅い食事にありつこうとしていたのに、邪魔をされてしまった。だが呼ばれている以上は対応せねばならず、ライは仕方なしに椅子を引いて立ち上がり、戸口から身体半分だけを覗かせているリシェルの方へ向かって歩き出した。
 彼女はというと、ライが動いたのとほぼ同時に裏庭へと顔を引っ込め、その後戻ってこない。だから裏庭に何かあるんだろうな、と予測しつつ自分も開けっ放しの戸口から外を覗き込む。
 戸口の外、裏庭にいたのはライも顔見知りの食料品店の主人。どうやら注文していたものを親切に運んできてくれたようで、彼は汗を拭きつつ荷車から積荷を降ろしている最中だった。
 リシェルも一応彼を手伝ってはいるが、細腕の彼女がもてるのはせいぜい乾物などの軽いものばかり。店長は抱えていた木箱を床に置くと、その場に現れたライに気づいて顔をあげた。
「やあ、ライ君。頼まれてたもの、持ってきたよ」
「あ、……すみません、有難う御座います」
 鼻の下に小さな髭を生やした店主はライに向かって人好きのする笑顔を作ると、作業を中断させそう言った。
 最近は食堂の客も増え、それと同時に使う食材も増えている。ミントが提供してくれる野菜だけでは足りないし、メニューも増えているから材料の幅も必然的に広がっていく。
 そういった一般では手に入りにくい食材を、無理を言って調達してもらったのだ。更に量が半端なく多かった為人の手だけでは運びきれず、こうやって荷車でわざわざ配達に来てくれた。まったくもって頭が下がる。
「お金、持ってきます」
「すまないね」
 謝るのはこちらだというのに、自分にも幼い子供がいるからと色々と親切にしてくれている店長は、腰に巻いた紺色のエプロンを直しながら笑い、荷降ろしの作業に戻った。そんな彼に深々と一礼をし、ライは一旦店内に戻って金庫を目指した。
 かなりの量を買い込んだから、金額も相当なものになるだろう。恐らく今日の食堂の売上だけでは足りないだろうし、と奥に隠してある金庫から札束を引っ張り出して戻ると、いつの間にそんな溜め込んでいたのかとリシェルに呆れられてしまった。
 こういうものは大っぴらにするものではない。そう言って彼女の額を小突いてから、店長に合計金額を尋ねる。彼は明細を広げながらひとつずつ加算していき、最後はちょっとだけだけどね、と言って本当に少しではあったが値引きまでしてくれた。
「すみません」
「なに、いいんだよ。その代わり、これからもうちを贔屓に頼むよ」
「勿論です」
 ちょっとの積み重ねがやがて大きな山になる。小額でも手元に残るのは嬉しくて、悪戯っぽくウィンクして丸々とした腹を豪快に揺すった店長にライは笑いながら頷き返した。
 横ではリシェルが半ば呆れ気味に商売上手な二人を眺め、そして遠くから聞こえて来た耳慣れた声にぴくり、と細い肩を揺らした。店内では同じく、食後の皿を集めて片付けを手伝っていたルシアンが反応し、外に続く扉を振り返る。
 ポムニットだ。いつものようにリシェルとルシアンを呼びながら、町から続いている宿への長い道をスカートの裾が広がらないよう抑えつつ走って来ている。そんな彼女の姿は遠目ながらライにも見て取れて、もう時間なのかと雲に隠れがちの太陽の行方を、持ち上げた視線で追いかけた。
「ごめん、ライ。私帰るわ」
「ねえさーん」
「分かってる!」
 片手を挙げてリシェルが早口に告げ、裏口から顔を出したルシアンにも怒鳴り声で返事をする。その頃にはもうポムニットは瞳を細めなくても姿が確認出来る距離まで来ていて、彼女の必死具合からテイラーが少々お冠なのだろうと想像できた。
 更に、別段リシェルの言葉が機転になったわけではなかろうが、お気に入りのちょび髭を撫でた店長もまた、そろそろ店に戻らないと、と口にして手にしていた代金をポケットへ押し込んだ。
 そうして彼は一寸だけ歩き、リシェルが用意してくれたのだろう水桶に顔を突っ込んで休憩していた、首の長い四足の召喚獣の背を優しく撫でた。表情は、よくある召喚獣を生き物と思わずに道具としてしか扱わない連中とは違い、穏やかで慈しみに満ちている。
 食料品店は、小さい町ではあるけれど何件もある。ライがそれらの中でもまだ新参者の部類に入るあの店長の店を選んだのは、彼が他の店の従業員とは違い、労働力としてではあるけれど、召喚獣を大切にしていると感じたからだ。
 今現在、この宿には大勢のはぐれと呼ばれる召喚獣が沢山いる。そして多くの人間はそういったはぐれ召喚獣に対し偏見を持ち、忌み嫌う。これはこの町に暮らす人間も例外ではない。だが外から流れてきたというあの店長は、育った場所で多くの召喚獣に親しんできたらしく、他の人々に比べてまだ偏見が少なく理解があった。
 召喚獣が生まれ育った世界の味に馴染みがあるのも弁えていて、あまり手に入らない食材も積極的に調達しようと動いてくれる。なにせこの宿には味に五月蝿くしかも我が儘な連中が顔を揃えているものだから、途方に暮れかかっていたライにとってあの男性は救世主でもあった。
 緩やかな下り坂を、合計四人の人影が遠ざかっていく。ポムニットにはまた説教されてしまったが、彼女が怒る理由も分かるからライは素直にごめん、と謝って頭を下げた。
 そうして彼の足元には、山積みの木箱ばかりが残される。
 腰に手を当てて現実に立ち返り、ライは苦笑した。調子に乗って色々と注文しすぎたお陰で、届けられた荷物の量も半端では無い。そりゃ荷車が必要になるのも無理ないな、と肩を竦めてから頭を掻きむしった。
 とはいえ、これらをこのまま放置しておくわけにはいかない。空は若干曇り気味、但し今すぐに雨が降る様子は何処にも感じられない。とは言え、それだってずっと続くわけではない。天気は予想を裏切って変わりやすいもののひとつだからだ。
 だから早いところ店か、もしくは食糧貯蔵庫に片付けてしまわなければ。ライは手の中に残る釣銭をポケットへ捻じ込むと、膝を折って店長から貰った明細を見つつ、箱をひとつずつ開けて中身の確認作業を開始した。
「これは当分使わないからこっちで、肉は貯蔵庫だからこっち。これは、……なんだ?」
 箱の外側に商品名が記されているものもあれば、細々とした調味料などを一緒くたに混ぜ込まれている箱もある。そのひとつひとつを確かめ、保存場所別に分類していく。地道な作業であるが、これを先にやっておかなければ後で困るのは自分だ。
 その途中、ライは眉間に皺を寄せ、なんの肉か分からない燻製を手に途方に暮れた。臭いは悪くないが、見た目が如何せん黒ずんでいてグロテスク。自分はこんなものを注文しただろうか、と何枚もある明細を手繰って思い当たるものを探してみるけれど、最後まで捲っても該当するものは見付からなくて、これの整理は後にしよう、と端に避けた。
 雲が流れ、風が吹く。砂埃を掌で遮り、日差しが翳ったのに気づいてライは顔を上げた。
 さっきまでもよりもずっと頭上の雲の行方が速い。遠くでは干したシーツが風に揺られて裾を乱しており、早く取り込まねば風に飛ばされてしまいそうなまでになっていた。
「やばいな」
 チェック用に手にしていたペンと明細を木箱の隅へ押し込み、ライは曲げていた膝を伸ばしてその場に立ち上がった。分類はまだ全て終わっていないけれど、急がなければならない。雲行きはこうしている間にも少しずつ怪しさを増していて、内心の焦りが隠せずにライはつま先で重い木箱の角を蹴った。
 しかし八つ当たりされる方はその謂れがないわけで、重みで微動だにしない木箱は逆にライの爪先を弾き返す。悲鳴を飲み込んだライは自分の行動の滑稽さを笑えず、その場でぴょんぴょん飛び跳ねながら必死に痛みを堪えた。
 そう、こんなことをしている場合ではない。
「くそー」
 誰か手伝ってはくれないだろうか、と軽い荷物から順に屋根の下へと運び込みつつ店内を窺い見るが、ものの見事にものけの空。食堂の扉には営業時間終了の札が出ていて、静まり返った内部は照明も落とされて物寂しい空気に包まれていた。
 閉店作業をしてくれるのなら、気を利かして荷物運びにも手を貸してくれれば良いのに。頼まなかったのは自分だという事実を棚にあげ、ライはがっくりと落胆したままそれでも足は動かし続け、ひとりきりで木箱を台所へ運び続けた。
「誰か、洗濯物を……て、誰もいないんだよな」
 両手で抱えると顔が隠れそうなサイズの箱を胸に、頼りない声で奥に向かって呼びかけてみるものの、反応は皆無。最初から期待していたわけではないが、落胆は大きい。しかも何度も往復しているうちに腕も段々痺れてきた。
 呼吸も荒くなり、息をするにも肩を大きく上下させなければならない。移動距離は至極短いのに、荷物を運び入れる作業だけでこんなに疲れるものなのかと改めて実感させられた。
「くぅ……重い」
 軽いものから順に運んだのは失敗だっただろうか、腕の疲れが蓄積されるに従って肩に感じる重みも大きくなり、本来の重量よりもずっしりとライに圧し掛かっているようだった。膝を曲げて腰を屈め、箱の底部に指を差し入れて、腹に力を込めて一気に持ち上げる。その些細な動作にも徐々に時間がかかるようになり、そうして最後に残った箱は、どれだけ力もうと全く持ち上がらなくなってしまった。
 掌は真っ赤になり、指の何本かは皮がすりむけて血が滲んでいた。じくじくとした痛みはライの表情を険しくさせ、荒く吐く息には熱が宿る。額に浮いた汗を攫う風は冷たくて心地よかったが、その分体温も奪われていって彼は小さく身震いした。
「ふぐっ、ふんぬぬぬぬぬ……」
 これが終われば洗濯物の取り込み、次に中断中の荷分けをやって、夕食の支度と明日の仕込み。やることは大量に残っていて、それらを全部片付ける為にも急がねばならないと分かっているからこそ、気ばかりが急いて身体が追いつかない。
 ライが抱え上げようとしている最後の木箱には、液体の調味料が瓶詰めされて横倒しに詰め込まれている。持ち上げるのに失敗し、落とすようなことがあればひとたまりもない。中でも醤油は高価な上にシルターン系料理の味付けには欠かせない調味料で、手に入れるのに苦労したもののひとつだ。
 絶対に瓶を割るようなことがあってはならず、慎重を期して足を踏ん張らせるのだが、足裏が柔らかな草に滑ってさっきから空回りが続いている。痛む指にも力が入らなくなっていて、両足を大きく広げて腰が地面につきそうなくらいにしゃがみ込んでまで必死に持ち上げようと頑張るものの、どうやっても上手くいかなかった。
 そのうちに息が切れ、ライは木箱を抱えたままがっくりと肩を落とす。諦めて個別に瓶を運び入れるべきだろうかと思うものの、収められている本数を数えてみて別の意味で泣きそうになった。
 雲はゆっくりと西の空から広がりつつあり、陽射しは弱まり足元に伸びていた影も薄くなっていくのが分かる。風は変わらずに拭き続けていて、裏庭の木々が煽られて大きく波立った。
 細波が耳元を駆け抜けていく。ライは恨みがましく空を睨み、手元を見下ろして溜息を零す。まさか本当に天気が崩れるとは思っていなくて、嫌な予感ばかりが的中するな、と愚痴を零し赤く腫れた手の熱を冷ますべく何度か息を吹きかけた。
 皮が捲れた皮膚は見るからに痛々しい。これで水仕事をしたら沁みるだろうな、と諦め半分でもう一度だけ頑張ってみようと右膝を折ってライは屈んだ。姿勢を低くし、両腕を伸ばして箱の底部を支える。
 視界の片隅を、赤と黒が流れていった。
「おや、店主」
「え」
 と同時に気が抜けるような声が頭上に落ちてきて、ライはそのままの姿勢で顔だけを持ちあげた。
 暗がりが濃くなりつつある空を背景に、太陽を思わせる鮮やかな赤い髪が踊っている。口元に閉じた扇子を掲げ、もう片手は腰から背中へと。長い袖が風に揺られてふらふらと左右に泳ぎ、先端に結び付けられている飾り紐が急ぎ足でそれを追いかけている。
 セイロン。御使いの代表格にして、居候のひとり。
 昼食時には居なかったはずだ。ふらりと何処かへ出掛けては、ふらりと気まぐれな時間に帰って来る。アロエリやリビエルとは違って、店の手伝いもあまりしてくれない。束縛を嫌い誇り高く自由気まま、悪く言えばお気楽な性格をしている人物だ。
 空模様が怪しくなってきたから、雨が降り出す前にと戻ってきたのだろう。何処へ行っていたのかは分からない、前に尋ねた時は「子供は知らなくて良い」と誤魔化されてしまった。
「そんなところで何をしているのかな」
 口調は穏やかだがどこかとっつきにくい感じがする。偉そう、とも言い換えられるだろうか。人を見下してはいないが、常に自分が上位に立っていると認識している色合いはある。そして本人もそれを隠さない。
 元々の立場上、誰かに謙ったりすることがなかったのだろう。仲間に対しては寛容だけれど、そうでないものには容赦がない。
「見てわかんねーのかよ」
 疲れているので、ライも少々機嫌が悪くなっている。唇を尖らせて持ち上がらない木箱を掴んでいる自分を示し、空気を読めと怒りのオーラをセイロンに向かって投げつけた。
 が、彼はひょいっと軽い仕草で避けてやり過ごし、閉じていた扇子を片手で器用に広げ、なるほどな、と緩慢な動作で頷いた。
 ダメだ、こいつを相手にすると疲れる。いつだって調子よく、人をからかう態度しか取らないセイロンと真面目にやりあうことに無理がある。それよりも先ずこの木箱をどうにかしなければ。ライは頭の中で忙しく思考を回転させ、奥歯を噛み締めて大地を踏み締めた。
「ふっ!」
 鼻から勢いよく息を吐き、全身に残っている力を集めて木箱を抱え上げる。浮いた。僅かではあるが指と地面との間に隙間が出来た。
 しかし、それだけだった。
「う……あーだめだー」
 既に膝はがくがくと震えて力が入らず、とてもではないが木箱の重みを支えきれない。腕も千切れそうな痛みを発していて、筋肉は疲労を溜めすぎて上手く動かなくなっていた。持ち上げた箱を傾けないよう地面に戻すだけで精一杯で、ぐったりと箱の蓋に圧し掛かったライは肩で息をしながら悔しげに握った拳で足元を叩いた。
 体力にも腕力にも自信があったのに、なんて情けない。
 風は湿り気を増し、空の色も灰色に近づいて地表はかなり薄暗い。バサバサとシーツが揺れる音も聞こえてきて、ライはどうしたものか、と諦めに近いため息を何度となく零した。
 この場にセイロンが居ることなど、すっかり忘れていた。
「運べばよいのだな?」
「うん?」
 ぱちん、と扇子を閉じる音。それに続いた低く伸びのある声。いい加減疲れ切って顔を上げるのさえ億劫になっていたライだったが、どうにか首を曲げて視線を持ち上げる。箱に寄り掛かって座り込んでいる彼と視線を重ねるようにして、着物の袖が汚れるのも構わずセイロンはその場で膝を折った。
 真正面から整った顔で見詰められ、ライは咄嗟に視線を逸らす。だが彼は構わずに小さく笑い、扇子を帯に押し込んでライが木箱に添えていた手を取った。
 唐突に与えられる他者の熱に、心臓が瞬時に跳ね上がる。
「え。え、なに」
 咄嗟のことに気が動転し、赤い顔のままライは慌てて飛び退いた。振り払ってしまったセイロンの手に自分でも驚き、触れられた場所を胸に抱きこんで腰を落としたまま僅かな距離を後ずさる。流石にこれにはセイロンも若干傷ついた顔をした。
「そこまで驚くことではなかろう」
「いや、だって」
 セイロンとしては、ライに箱の上から退いてもらいたくて手を出しただけで、単純にライが過剰反応しただけだ。けれど狼狽している彼は何の目的があってセイロンがあんな真似をしたのか分からず、混乱しきり。
 目の前のセイロンが、脱力しつつ盛大にため息を吐いた。
「まったく……」
 今更手が触れ合った程度で照れるような関係でもあるまい。
 呟きが聞こえ、益々ライは赤くなって首を振り回した。だって、そう言われてしまうと反論できないけれど、やはり心の準備が出来ていないと自分だってどうすることも出来ないわけで、つまりは不可抗力。自分でもよく分からない言い訳を早口にまくし立て、酸欠で赤くなった顔を下向かせた。
 セイロンがもうひとつ溜息を零す。そして、よいせ、と木箱の底に手を添えて軽い動作で立ち上がった。
「え……」
 見守っていたライが絶句する。あれだけ重く、ライの力では全くびくともしなかった木箱を、どんな魔法を使ったのかセイロンは軽々と持ち上げてしまったのだ。
「なんで」
「ふむ、確かにこれは、ちと骨が折れるな」
 右足を持ち上げて太股で箱の底を支え、腕に抱え直す。落とさないように注意深く一歩ずつ歩き出したセイロンを呆然と見上げ、ライはわけが分からない、とまた地面を叩いた。
「店主、何処へ運べば良い」
 ゆっくりとはいえ、確実に彼は前へ進んでいく。冷たい風に背中を押されて勝手口へ向かったセイロンが前を向いたまま問い、蹲っていたライは弾かれて顔を上げた。急ぎ立ち上がり、彼を追いかける。
 戸口の中央に広い背中があった。引き締まった体躯、力強い肩、少しの衝撃ではびくともしない鍛えられた肉体。ライよりもずっと高い背。
 埋め難い年齢差、大人である彼と子供である自分を否応がなしに感じてしまう。
「店主?」
「あ、ごめん。えっと……ひとまず、ここに」
 他の木箱を押し退け場所を作り、空いたスペースに置くよう指示してライはセイロンの背中に回り込んだ。
「ここだな」
「ああ」
 場所を見定め、セイロンがゆっくりと腰を折っていく。その間も箱を支える腕は少しもぶれず、重みに耐えかねる素振りもない。彼の額には玉の汗ひとつも浮いていなくて、だからこそ余計ライは悔しくなった。
 それまでひっきりなしに荷物を運び続けていたライと、たとえ幾ら重かろうとも運んだものがひとつだけのセイロンとでは、疲れ方は比較にもならない。それは分かる、けれどどれだけ力を込めても持ち上がらなかったものが、目の前で軽々と扱われてしまった。
 彼の方がずっと体力もあり身体も出来上がっていて、腕力も優れていると頭では分かっている。未だ成長期を脱していない、発展途上のライでは太刀打ち出来ないのも理解している。
 けれど、矢張り。
 負けたようで、悔しい。
「セイロン」
「なんだ?」
 ライは床に箱を置き終え、手を引いて体を起こしかかっている彼の名前を呼んだ。
 返事をしながら、当然何か他に用があるのだろうと思い鷹揚に振り返った彼の腰目掛け。
 ライはいきなり、何の断りもなしに握った拳を叩きつけた。
「ぐっ」
「ばーっか!」
 我ながら大人気ないと思う。だが良いのだ、どうせ自分はまだ子供なのだから。
 咄嗟のことで避けられなかったセイロンは、ものの見事にライの拳を脇腹に受けてその場で悶絶し、倒れかけたのをよろめきつつどうにか堪えた。そんな痛みに眉根を寄せて苦悶の表情を作り出す彼に追い討ち掛けるが如く、ライは舌を出してそう言い放つ。
「なっ、店主!」
 セイロンとしては人が親切で手伝ってやったのに、この仕打ちはあんまりだという気持ちが先に出る。当然怒っても良いのだが、脇腹に受けた痛みが勝ってその気分にもなれなくて、彼はただ呆然と去り行くライの背中を見送った。
 何が気に障ったのだろう、分からない彼は首を捻り表情を険しくさせる。
「これ、待たぬか店主よ」
 せめて理由くらい聞かせてくれても良いものを。必死になって繋ぎとめようとするセイロンの声に、戸口にたったライは風に前髪を弄られつつ足を止めた。
 そうして振り返った彼は「いーっ」と口を真横に引き結んだ。
「絶対、セイロンよりでっかくなってやる!」
「……は?」
 目を丸くする彼を残し、ライは雨雲の広がる空の下を、洗濯物を回収すべく駆け出した。
 足音が遠ざかる。残されたセイロンは頭の上にクエスチョンマークをいくつか浮かべ、やがて得心行った顔で頷きその場に腰を下ろした。木箱が丁度良い椅子となり、彼の体を支える。笑うと脇腹が痛んだが、彼は構わずに帯の扇子を抜き取って肩を揺らした。
 あと数分もすれば、シーツを両手一杯に抱えてライが戻ってくるだろう。それまでにこのにやけた顔を元に戻しておかなければ、また容赦なく殴られそうだ。
「まったく……。我よりも大きくなられても、困るのだがの」
 閉じた扇子で口元を隠しながら、呟く。
「折角の抱き心地が悪くなられては、勿体無いからの」
「何ふざけたこと抜かしてんだ馬鹿!」
 目尻を下げて囁かれた彼の言葉を、いったい何処から聞いていたのだろうか。
 真っ赤になったライは、丸めたシーツを遠慮なくセイロン目掛けて投げつけた。

2007/2/5 脱稿